生まれ
天文17年2月8日(1548年3月17日)
どんな人?
戦国時代の武将 徳川四天王の一人 上総?大多喜藩?初代藩主 伊勢?桑名藩?初代藩主
おいたち年表
1948年 | 1歳 | 誕生! |
1949年 | 2歳 | 第四次安城合戦で父・忠高が戦死。叔父の忠真?のもとで育つ |
1560年 | 13歳 | 桶狭間合戦にて初陣 |
1563年 | 16歳 | 三河一向一揆。家康側に残り武功を挙げる |
1566年 | 19歳 | 旗本先手役に抜擢される |
1570年 | 24歳 | 姉川の戦い?に参加。単騎駆けを敢行し、それが反撃へと繋がる |
1572年 | 26歳 | 二俣城の戦い?の前哨戦である一言坂の戦い?で殿を務める。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦 |
1575年 | 29歳 | 長篠の戦いに参戦 |
1582年 | 36歳 | 本能寺の変。家康に随行して和泉の堺にいた為、伊賀越えを敢行。三河に戻る |
1984年 | 38歳 | 小牧・長久手の戦いに参戦 |
1586年 | 40歳 | 従五位下・中務大輔に叙位・任官される |
1590年 | 44歳 | 家康の関東移封に伴い、上総夷隅郡大多喜に10万石を与えられる |
1600年 | 54歳 | 関ヶ原の戦い?では家康本陣に従軍 |
1601年 | 55歳 | 伊勢桑名藩10万石(一説には12万石。または15万石)に移封される |
1609年 | 63歳 | 6月、嫡男・忠政に家督を譲り、隠居 |
1610年 | 64歳 | 慶長15年10月18日(12月3日)、桑名で死去 |
初陣は桶狭間の合戦(13歳)
以後、57回の合戦に参加し、大活躍
その活躍っぷりは敵からもほれ込まれるほど
武田軍からは「家康に過ぎたるもの」と言われ、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉から「忠勝はもったいないから殺すな」と言われた
が、平和な江戸幕府が始まると活躍の場がなくなってくる
幕政の中枢から外され、遠ざけられた
忠勝は長年仕えて来た家康に遠ざけられるのは辛い・・・と言いながら死んでいった
その他
大好きな人・・・家康様!!絶対お側を離れません!
宝物・・・蜻蛉切
ポリシー・・・薄着
特技・・・トンボを切ること
ニヤリ話・・・「俺様ってば、合戦の時はいつも無傷なんだけどさ、同じ四天王の井伊直政はいっつも重装備で傷だらけでやんの」
苦手タイプ・・・加藤清正「おなじ匂いがすんだよな」
嫌いなタイプ・・・インテリ
豊臣秀吉談・・・「天下無双の大将」
織田信長談・・・「花も実も兼ね備えた武士だな」
小杉左近談・・・「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」
逸話
●57回の合戦で刀傷をひとつも受けなかった猛将
忠勝といえば「家康に過ぎたるものがふたつあり 唐の頭に本多平八」と言われるくらい、猛将として名高いお人
このひと、生涯で57回も合戦に参加しましたが、一度も傷を受けなかったようです
●真田親子を助けたのもこの人
関ヶ原の合戦後、家康は西軍について息子・秀忠の邪魔をした真田昌幸&幸村親子をどうしようかと考えていた
ここで出てきたのが忠勝
昌幸の長男が自分の娘と結婚しているため、真田親子の助命を家康にお願い
このとき、「助命してくれなければ殿と戦います!」宣言!!
あの家康に対してここまで言うとは・・・すごい
●人の手柄はいりません!!
まだ若かりし頃の忠勝
武功があまりなかったので、おじさんの忠真が手柄をたてさせてあげようと
おじさんが討ち取った首を忠勝にあげようとしました
すると忠勝
「人の手を借りた武功などいりません!!」と、奮起し、単騎で敵陣に突入し
敵の首を討ち取ってきました
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関連のある人々
本多忠高・・・父親
阿知和玄鉄?の娘・・・正室
もり姫・・・娘。奥平家昌の正室
本多忠政・・・嫡男
本多忠朝・・・次男
娘・・・本多信之の妻
娘・・・松下重綱の妻
娘・・・蒲生瀬兵衛?の妻
徳川家康・・・主君
井伊直政・・・徳川四天王
榊原康政・・・徳川四天王
酒井忠次・・・徳川四天王筆頭
家臣
織田信照・・・異説として中根平右衛門忠実?を称したとされる。
都築秀綱?
梶勝忠?
河合政光?
中根忠実?
梶原忠?
祐筆の人物批評
むっちゃん・・・かっこいい
祐筆
●一番手・・・ハガクレ
●二番手・・・鱒