横浜DeNAベイスターズおよびその前身球団である横浜ベイスターズの選手に降りかかる、その背番号を着けた選手が期待された成績を残せなかったり、大怪我をしたりしてしまう呪いのこと。
経緯
由来はスポニチの記事(2007年12月18日付)より。
1991年オフ、横浜大洋ホエールズ(ベイスターズの前身)の主力投手だった中山裕章がわいせつ容疑で逮捕され、年明けに球団を解雇された。それに伴い、彼が着用していた背番号19*1は1992年シーズンに欠番とされ、そのまま封印される予定だった。しかし球団名を「横浜ベイスターズ」に変更後初のドラフト会議で日本石油*2のエース(バルセロナ五輪日本代表)の小桧山雅仁を1位指名、その小桧山が「19」に関連する縁起の良いエピソードを多数有していたこと*3に加え、本人も「事件のことは気にしない」と19番の着用を快諾したために欠番状態は1年で解消された。
しかし小桧山は入団後故障に苦しみ、1998年限りで背番号19を剥奪される*4。それ以降も戸叶尚(1999-2000)*5・杉本友(2001-2003)*6、エディ・ギャラード(2004)*7、染田賢作(2005-2008)*8と、期待とともに19番を背負った選手たちが次々と期待外れに終わったことから、チームの低迷も相まっていつしかベイスターズの背番号19は「呪われた背番号」として扱われるようになってしまう。
2009年から19番を継いだ藤江均(2009-2014)も一時は中継ぎエースに定着したものの経験値リセットの憂き目に遭い、呪いを払拭できなかった。
しかし2015年に背番号19を継いだ山﨑康晃が入団1年目から抑えで大ブレイク、「月間10SのNPB新人投手記録」「ルーキー最多の37Sで新人王受賞」「日本人投手最速の通算100S・150S達成」「史上最年少での通算200S達成」と大記録を次々に樹立。不振に陥る年があったり騒動を起こしたりしてこそいるものの、トータルでは一流選手と言える実績を残しており背番号19の呪いは無事解消されたと見ていいだろう。
背番号13の呪い?
背番号19の呪いが解かれるのと並行して、今度は「背番号13の呪い」が横浜ファンの間で囁かれはじめる。背番号13は「ヒゲ魔神」こと五十嵐英樹*9以降はまともに活躍した選手がおらず、岡本直也(2002-2004)*10・那須野巧(2005-2009)・坂元弥太郎*11(2010)・大沼幸二(2011-2012)・吉川輝昭(2013)*12・柿田裕太(2014-2017)と散々だった。しかもこちらは成績のみならず素行面にも問題のある選手が多く*13、余計にタチが悪いと言える。
また、柿田に代わって2017年に背番号13を着けた水野滉也も1年目に右肩痛で育成落ちし、支配下に戻れず2019年に引退。その後2019年ドラフトで3位指名され13番を受け継いだ伊勢大夢は入団早々交通事故に遭い負傷。
あまりの呪いの強大さに横浜ファンの間では「背番号13を欠番にすべき」という声も上がっていたが、その伊勢は(背番号的な意味での)不安をよそに一軍で中継ぎとして登板を重ね、10月10日の試合で一軍初勝利を挙げ、最終的にシーズン33試合に登板*14して防御率1.80と好成績を残す。翌年以降も中継ぎとして一軍帯同を続け好成績を残しており、こちらもある程度呪いは解消されたと言っていいだろう。
余談
海外(特にキリスト教圏)では「13は不吉な数字」とされ忌み嫌われているが、これはキリストが処刑される寸前の所謂「最後の晩餐」が由来であり*15、当然ながらベイスターズは全く関係ない。キリスト教がさほど浸透していない日本では背番号13が敬遠されることはほぼなく*16、岩瀬仁紀(中日)*17や西口文也(西武)のように入団時からこの番号を着用し、長い現役生活を全うした選手もいる。
背番号15の呪い?
他にも背番号15も呪われていると言われており、
横浜以上の裏金付き契約金を提示した巨人を盛大にディスっておきながら入団前の高評価の割にはプロでは左のワンポイントが精一杯どころか左のワンポイントなのに対右打者以上に対左打者の被打率が高いなど左のワンポイントとして全くと言っていいほど機能しなかった河原隆一- 入団前から故障ですでに使い物にならない状態で結局一軍出場0のまま僅か3年で戦力外となった森大輔
- 「水差し野郎」の悪名を轟かせた高宮和也
- すでに全盛期を過ぎていた山本省吾
と、どれも活躍できずじまいだった。
ただ前述の選手はいずれも左投手であり、2013年から着用した右投手の井納翔一は通算51勝をマークするなど一定の成果を残しており、どうやら呪いは左投手にしか通じないようである。
関連項目
- 週刊ベースボールの呪い
- ジョーシンの呪い
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