Mark I

Last-modified: 2018-04-18 (水) 19:55:31

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Tier 1 イギリス 軽戦車

公式紹介ページ

スペック

車体

HP200
車体装甲厚(mm)21/3/3
最高速度(km/h)35
重量/最大積載量(t)7.76/4.89
本体価格(ゴールド)1
修理費(シルバー)

パッケージ

Mark I
(--/--)

詳細

パッケージ名エンジン武装履帯砲塔
出力弾種貫通力ダメージ総弾数弾代発射速度
照準時間
精度
旋回速度砲塔装甲旋回速度視認範囲HP通信範囲
Mark IDaimler-knight v2 16-litre V6Hotchkiss 6 pdr QFMark I MaleMark I Male200500
420AP
ガソリン
27
500
30
4
400
0
26.25
2.30
0.52
49--/--/--36270

解説

  • 概要
    イギリスTier1軽戦車。
    戦車生誕100周年記念イベントで配布された、世界初の実用戦車。
    イギリス戦車ではあるが、他国の乗務員も搭乗可能。
    徹甲弾 (AP) の他、特別装備 火炎放射器 が搭載されている。
     
  • 火力
    弾薬費はいずれも0となっている。
    • Hotchkiss 6 pdr QF
      車体左右側面に設けられたスポンソン(張り出し砲座)に搭載された、Mark I雄型の史実砲。
      同時代のルノー軽戦車の主砲と比較すると、貫通力で2劣るが発射速度・照準時間では上。
      27mmという低貫通力のため、Mark Iの車体正面装甲21mmを貫通出来ないこともしばしば。
      砲塔等の薄い部分を狙っていきたい。
      左右に搭載された主砲配置から分かるように、全周の射界など存在しない。
      俯角・仰角共にあまりつけられず、ゲーム的な都合か左右の射界も狭め。
      感覚としては俯角・仰角の悪い駆逐戦車を使っているような運用法になるだろう。
      弾種はAPのみで、下記火炎放射器の燃料を含めた装弾数は40しかないので弾切れには注意。
      ちなみに左右同時の発射となるが、威力的には一発扱いの模様。
  • 火炎放射器
    弾種交換で選択可能な、火炎放射器。
    Tier10駆逐戦車もびっくりの貫通力500を有し、当てれば確実にダメージを与えられる。
    ダメージ表記は4だが、一発で複数出ており炙り続ければ数値以上にダメージが入るため威力は高い。
    最大の弱点がその射程と射界。火炎放射器ということで目の前まで接近しないと当たらないくらい射程が短い。
    車体正面から発射しているせいか射界も狭く、距離が近くても角度が悪くて当たらないこともしばしば。
    無理に使おうとすると袋叩きにあうことも多いので、使い方が難しい武器となっている。
     
  • 装甲
    車体正面は21mmとそこそこあり、6ポンド砲を弾いてくれることもあるのでそれなりに頼れる。
    車体側背面は3mm程度しか無く、角度をつけても無駄。砲弾は正面で受けよう。
    スポンソンの装甲も薄いので、正面からの撃ち合いでは積極的に狙うべき。
    ただ主砲(51~70mm)に当たると弾かれる。
    また、何故か履帯部分が231mm以上*1とやたらめったら装甲が厚い。
    図体がでかいため隠蔽率も悪いが、これはお互い様なのであまり気にしない。
     
  • 機動性
    魔改造でも施されたのか史実エンジンの4倍高馬力のため、見た目よりは悪くない。
     
  • 索敵能力
    視認範囲は270mとまあまあだが、特筆すべきは信号旗。
    他戦車の信号旗は90m程度の通信距離しか無いが、当車両は500mというTier5中戦車クラスの無線機に匹敵する距離を誇る。
    Mark Iの戦闘は基本近距離戦なので、通信距離で困ることはないだろう。
     
  • その他
    取得経験値 +400% 、取得搭乗員経験値 +50% の特大ボーナスが適用されており、Tier8課金戦車以上に搭乗員経験値が入り、1試合も大体3~5分で終わるので非常に効率よく搭乗員育成ができる。
     
  • 総論
    100年前の戦車だが、いろいろ施された魔改造により史実より扱いやすい戦車となっている。
    火炎放射器は強力だが扱いにくいため、砲撃主体で戦うのがいいだろう。
     

史実

戦車の誕生

戦車のルーツといえるイギリス軍のいわゆる菱形戦車の開発のきっかけとなったのは、第1次世界大戦が勃発して間もなくドイツ軍、連合軍共に有効な攻撃を行えないままに例を見ない塹壕戦に突入したことにあります。
互いが敵の塹壕に対して砲兵の援護を受けながら攻撃を行い、一進一退を繰り返す膠着状態に陥ってしまったことへの対処として戦車が誕生しました。

そして、戦車の生みの親となったのは、1914年にイギリスよりフランスに観戦武官として派遣されてきたアーネスト・スウィントン陸軍少佐であったとされています。
彼は膠着した塹壕戦の実態を目の当たりにして装甲で身を守り、装備する火砲で敵をなぎ倒しつつ塹壕を突破し、その後から歩兵が突撃して勝利を収めるというヴィジョンを描き、前線で行動していたアメリカ製の装軌式牽引車ホウルト・トラクターを見た時に彼の構想は形作られることとなりました。
当時戦車と呼べるものは他国でも研究はされていたものの、履帯を取り込むという発想が存在しなかった事から、実用にこぎつける事が出来ないものばかりでした。

直ちに彼はこの意見をイギリス軍上層部に具申し反発はあったものの、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチル(後のイギリス首相)の肝入れにより海軍設営長官を長とする陸上戦艦委員会が設立され、1915年3月に装軌式陸上戦艦の開発がスタートすることになります。 チャーチルの後押しによって計画が推進した事から、戦車の父と呼ばれ、後にチャーチル歩兵戦車の命名に繫がっています。
まず、ペドレイル、キレン・ストレイト、ブルロックなどの市販型装軌式車両が検討され、その結果、ブルロックが試作車の原型として選ばれました。

ブルロックをベースに開発計画が進み、1915年9月に登場したのが、このブルロックの車体を延長したものを使用した「リンカーン・マシーン」と呼ばれる初の戦車です。
この戦車を設計したのはリンカーンにあったウイリアム・フォスター社の社長ウイリアム・トリットン氏と、戦前の著名な自動車技師であったイギリス海軍航空隊のウォルター・ウィルソン海軍大尉の2名でした。
さらに、このリンカーン・マシーンを基に、改良を施した第2次試作車「リトル・ウィリー」が製作されました。

このリトル・ウィリーは細い履帯を低い位置に装着し、車体は背が高く箱形をしていたのですが重心が高く不安定で、履帯も塹壕を越えるには短か過ぎることが判明します。
この欠点はまだリトル・ウィリーが製造工程にある時に判明し、トリットンとウィルソンは次に装軌式陸上戦艦と同時に開発を進めていた装輪式陸上戦艦をベースに、リトル・ウィリーのコンセプトを盛り込んだ試作車「ビッグ・ウィリー」を設計しました。

設計段階からビッグ・ウィリーは車体周囲に履帯を配し、左右の履帯の速度を変更することで方向転換を行うという、その後の戦車の操向コンセプトを完成させていたことは注目に値するべきポイントとされています。
車体は初期のイギリス軍戦車の典型的な形状である菱形をしており、超壕能力を増すために車体後部に直径122cmの大径車輪が追加されていました。
完成したビッグ・ウィリーを用いて、1915年12月3日から走行試験が行われています。

トリットンとウィルソンの設計したこの戦車は、車体の形状こそリンカーン・マシーンやリトル・ウィリーと同じ長方形の箱型をしていたのですが、履帯が車体全体を覆うような新しい取り付け方式を採用した発展型戦車でした。
この履帯装備法によりもたらされた履帯の接地面積は直径18.3mの車輪に匹敵し、戦争局の要求した幅1.5mの超壕力と高さ1.36mの超堤力を満たすことができました。
旋回式砲塔は重心を下げるために搭載されず、砲は車体左右側面のスポンソンに搭載されていました。

また、当時イギリス陸軍には適当な砲が無かったため、海軍の6ポンド(57mm)艦艇砲が搭載されていました。
最初の走行試験は、1916年12月3日に陸軍将官や政府高官の前で行われ、その結果、戦争局は40両を発注し、発注数は後に100両に改められました。
なお、この車両は開発過程において「ウィルソン・マシーン」、「センチピード」、「ビッグ・ウィリー」、「マザー」と呼ばれていました。

試験では高い能力が確認され、1916年2月に「Mk.I戦車」としてイギリス陸軍に制式採用が決定、すぐさま40両の生産が決定し、その後100両の生産型が発注されて、いよいよ実用化までに達することとなりました。
ドイツ軍に情報が漏れるのを防ぐため、当初Mk.I戦車は「WC」(Water Carrier:水運搬車)という秘匿名称で呼ばれていたが、これではトイレを連想させてしまうために単に「タンク」(Tank:水入れ)と呼ぶことにし、以後これが戦車の代名詞として用いられることとなったのは言うまでもありません。

車体は6~10mm厚の装甲板をリベット止めして組み立てられ、戦闘重量は雄型で28.5tとなっていました。
車内は戦闘室や機関室が分かれておらず、8名~11名の乗員はエンジンなどと同居していて、車内は大変うるさく、排熱で暑かったそうです。
これ程大人数が搭乗しているのは、車長・操縦手・副操縦手(居ない場合あり)・左右ブレーキ手(方向転換にはブレーキレバーを引く係)2名・機関士1~2名・左右砲手兼装填手(手隙の乗員も兼任)、と大所帯でした。
30t近い車体重量に対し搭載されたエンジンは出力105hpの直列6気筒液冷ガソリンエンジンだったため、明らかにアンダーパワーで路上最大速度はわずか6km/hしか出せませんでした。

しかし、歩兵と共に進撃するにはこの速度でも充分だとして、あまり問題とはされなかったようです。
スウィントンにしてもイギリス陸軍にしても、敵の塹壕と鉄条網を乗り越えて歩兵の進撃路を開削する以上の役割を戦車に求めてはいなかったのでした。
車体前部には操縦手用と車長用のキューポラが張り出し、車体左右側面の脱着可能なスポンソンには旋回角の小さな砲架に搭載された主武装が装備されていました。

車体後部に装着された車輪2輪は操舵を補助すると同時に、車体の全長を増やすことで超壕力を向上させる役目も担っていました。
しかし、この車輪は戦闘時に破損し易かったため、1916年11月以降は外されています。
これ以外にMk.I戦車の外見上の特徴には、車体上部に装着された木製または金属製の骨組みに金網を張った対手榴弾ガードがありました。

このMk.I戦車は車体の左右側面に武装を収めるスポンソン(張り出し砲座)を設け、40口径6ポンド戦車砲2門を搭載し敵の砲や要塞、防御施設を攻撃する「メール」(male:雄型)と、ヴィッカーズ液冷重機関銃(口径7.7mm)4挺を装備して雄型を敵の歩兵の攻撃から援護したり敵歩兵を掃討する「フィメール」(female:雌型)の2種類が製作され、雌型のスポンソンは雄型のものに比べ若干大きいものになっていました。
副武装としては雄型が3~4挺、雌型が1~2挺のオチキスM1909空冷軽機関銃(口径7.7mm)を装備しています。

初陣の1916年7~11月のソンム会戦戦の最中の1916年9月15日から始まり、1917年4月のアラス戦、6月のメッシーヌ戦、7~10月の第3次イープル会戦などに投入されましたがMk.IV戦車の配備と共に第一線から退き、イギリス本国で訓練用戦車として使用された他、一部の車両は無線戦車や補給戦車などの各種特殊車両に改修されていきました。

イギリス陸軍は50両のMk.I戦車を前線に集めることができたのですが、その内18両は進撃開始までに故障で停止し、残った32両は数両ずつ分散して突撃部隊の先頭に立っていました。
突撃そのものは成功し、Mk.I戦車は戦線に数kmの穴を開けることができたものの、戦局に与えた影響は軽微でした。

しかし、ドイツ軍はこの見慣れない兵器の出現にパニックに陥り、イギリス軍前線部隊では戦車の威力を確信して戦車の大量産を求めました。
その後Mk.II、Mk.III、Mk.IV、Mk.VといったMk.I戦車の改良型が次々と開発され、総生産数は2,000両近く多くの派生型も製作されています。

<Mk.I戦車 雄型>

全長:    9.906m
全幅:    4.191m
全高:    2.438m
全備重量: 28.5t
乗員:    8名
エンジン:  フォスター・ダイムラー 直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 105hp/1,000rpm
最大速度: 5.95km/h
航続距離: 38.6km
武装:    40口径6ポンド戦車砲×2 (332発)
        7.7mmオチキスM1909軽機関銃×3~4 (6,272発)
装甲厚:   6~12mm

コメント

 

*1 詳細の表記が正しければ500mm