《第31話:半分以下の真実、キラ・ヒビキという男》

Last-modified: 2023-02-26 (日) 22:17:59

 俺は――シン・アスカはずっと、キラの右腕として働いてきた。
 ザフトのヤマト隊時代から続いて、新地球統合政府直属の宇宙軍第一機動部隊の副隊長として支えてきた。C.E.79を迎えてすぐに勃発した、この世界への時空間転移の原因になった【あの戦争】の最後の最後まで、ずっと。
 約5年間、あの人の部下として一緒にやってきた。
 上司としては頼りないし、ボーっとしてるし、どこか妙に抜けてるし、でも色々な意味で強くて。意外とズボラで些細な事でもなんでも頼ってくるし、大事なところも任せてくるし、でも色々な障害から護ってくれて、恥ずかしいぐらい正面から褒めてくれて。めっちゃイロイロ苦労したり怒ったりもしたけど、悪くはなかった。
 そういう、初めて接するタイプの上司で、人間だった。
 誰かに公言するつもりなんてサラサラ無いけど、最初は絶対に殺すべき不倶戴天の仇敵と定めていたのが信じられないぐらいに、初めて人間として尊敬できると思えた人だった。なんというかお互いに相性が良かったんだと思う。1年ぐらい経った頃には対等な友人として扱われ、色々と打ち明けさせてくれたのも、ステラとレイのことを悼んでくれたのも、それからアスランやカガリ・ユラ・アスハともそれなりに向き合えるようになったのも、まぁ、嬉しかった。
 でも逆に、悩みを相談されたことは少なかった。当時は、それでいいと思っていた。キラには多くの理解ある仲間がいて、俺はその内の一人でしかないのだから、ヤツ個人の悩みなんてのは彼女に解決してもらえばいいと思って、気楽だった。
 上手くやれてた。
 だから、顔を合わせりゃ他愛のない雑談だって多くなるもんだ。
 だから、あの休憩時間の会話も、その一幕に過ぎなかった筈だ。
 俺が少し離れてから小さく呟かれたアレは、言った本人にとっては聞かれてない独り言のつもりだった筈だろう。

 
 

『なーキラさん。すっげー今更ですけど、ソレ、いつまでほったらかしにするつもりなんです?』
『ん? 何が? 書類はもう全部片付けて……』
『髪ですよっ。後ろ髪。ぶっちゃけ似合ってないっつーか。いい加減切ったらどーなんです』
『……なんかお母さんみたいだね、君』
『ハァ!? 何言ってんですかアンタは!?』
『冗談だから。……、……未練がましいとは思うんだけどね、自分でも。でもまだ切る気はないかな』
『なんで。まぁ別に、そーいうファッションとか趣味とかに目覚めたってんなら? 止めはしないですケド』
『……知ってる? 人の皮膚って1ヶ月で全部入れ替わって、血液は4ヶ月、一番遅い骨の細胞も大体3年で入れ替わるんだって。細胞的な意味じゃたったそれだけで完全に別人だよね』
『なんです藪から棒に……それがなんだっていう――』
『僕がキラ・ヒビキを名乗ってからもう4年近くになるから、キラ・ヤマトだった自分はもうこの髪にしか残ってない。残らない。今の在り方を選んだのは僕だけど……全部を別人だって切り捨てるのは寂しいじゃない。だから気が済むまでは伸ばしてみようかなってさ』
『――……そうかよ』
『そうなんだよ。……あ、そうだ。どうせだからちょっと頼まれてくれないかな?』
『イヤです』
『うわ、ひどっ。ちょっと聞くぐらいしてもさ』
『聞いたら承諾って流れにするじゃないですかアンタはいっつも!? 嫌ですよ。どうせ禄なもんじゃないでしょ』
『……まぁ、うん。考えてみたら禄な頼みじゃないかも、確かに。ごめん忘れて』
『言われなくても忘れてやります。……ってヤバっ、もうこんな時間かよ。すんませんキラさん、俺もう行きます』
『うん、行ってらっしゃい。僕も明日には合流できるから』
『ああ』
『……、……。……もしも。もしもこの髪を切ることがあったら……シン、君に頼みたい……なんて、流石にちょっとどうかしてるよね……』

 
 

 本名がキラ・ヒビキだと知ったのは、統合政府が発足する直前だった。
 ただ、本名といっても物心がついた頃からの自己認識は育ての親の姓であるキラ・ヤマトであって、なおかつヒビキの姓は亡くなった肉親のモノというよりかはただの遺伝子提供者のモノという方が正確だと言っていた。戸籍登録もなく、実質、存在しない名前なのだと。
 だから本来ならば一生名乗ることのない、忘れ去られた名前だった。
 それが巡りに巡って、政治の都合によって堂々と表舞台で使われるようになるなんて、一体どんな皮肉なんだ。
 唯一の人工子宮生まれのコーディネイターであることを世界に告白し、人類にとっての【フランケンシュタインの怪物】にならないという希望を演じるにあたって、育ての親であるヤマト夫妻を世間から護るため、そしてオーブのアスハ家の血縁であることや旧地球連合のヤマト少尉であった過去を隠すために名乗り始めたそれを、僕なんかにはかえって似合ってるかもねと自嘲していたのをよく覚えている。
 その意味は当時、俺にはよくわからなかった。
 とりあえず、なんとなく、立場と目的のために仕方なく名乗っているものなんだと思った。兎にも角にもこの男は、自分を犠牲にする方法しか知らないのだから、俺にどうこう言えるものじゃないと思った。
 だから、なのかもしれない。
 いつかこの髪を切ってほしいと、酷く淋しそうで、酷く頼りなさげで申し訳なさそうで、聞こえなかった振りをして、忘れてと頼まれたから努めて忘れようとしてたあの言葉が、けれど今に至るまでずっと腹の底で燻っているのは。
 その頼みがもう叶わないとわかった途端に、胸を焦がすように重くなったのは。

 
 

『喜んでるところ言いにくいのだけれど。けどハッキリ言うわ。あのキラって人、記憶喪失になってるんですって』
『……は?』
『元気に艦娘達と一緒になって戦ってたそうよ。デスティニーにそっくりな、ストライクとかいうロボットを操って』
『なんだよそれ。おい、天津風。わかるように説明しろ』

 
 

 記憶喪失。部分的な。
 嫌な響きだ。
 できればもう二度と、金輪際、そんなものに関わりたくなかったのに。
 かつて護ると誓い、それでも溢れ落としてしまった少女、ステラ・ルーシェ。投薬と記憶操作により戦争の道具にさせられていた哀しい少女。そして彼女の上司であったネオ――いや、ムウ・ラ・フラガも記憶操作されていて、極めつけにキラの記憶喪失ときた。どうも俺は、この手の問題に縁があるらしいクソッタレめ。
 まるで当てつけだ。
 閉じていて、何も見ようとも知ろうともしないガキだった過去と真逆の、自分一人だけが全てを知っているこの現状は……こんな考え方は性に合わないけど、罪と罰なのではないかと思ってしまう。
 本当に、どうかしてる。忘れてた方が、そりゃキラにとっちゃ幸せなのかもしれない。けど、だけど、なんで。

 
 

 なんで俺が、キラの髪が短いってだけで落ち着かなくなんなきゃいけないのか。
 いつか俺に切ってほしいと頼んだ、あの一本おさげに纏めていた腰まで届くほどの長い後髪が、もう無いってだけで。

 
 

 記憶と共にもう一つ、キラから喪われたものがある。
 先日の佐世保鎮守府防衛戦から帰還した天津風の報告で、キラが生きていたという事実の次に驚いたのがそこだった。
 俺がC.E.で最期に見た容姿と異なっていると。
 天津風からの報告に驚愕して、佐世保の二階堂提督からの写真付き報告書で認めるしかなかった。この世界にいるキラの顔つきは少しだけ幼く、その容姿はオーブの慰霊碑の前で初めて会った時のような懐かしい姿に戻っていた。
 特に、あの短い後髪。
 かつてのキラは自分がヤマトだったことを忘れない為に、髪を伸ばした。
 けれどこの世界で発見された時にはもう短くて、しかも、ずっとキラ・ヒビキを自称しているという。この異世界でどうしてヒビキを名乗る必要があるのか、良くも悪くもC.E.のしがらみが無くなったんだから、偽名みたいな本名なんかより慣れ親しんだヤマトを名乗るほうが自然なんじゃないか。
 あるいは逆に、あの長い髪にはもしかすると本当にキラ・ヤマトというものが宿っていて、喪ったからヒビキと名乗っているのか。そこまでいくと笑えない妄想だが、この世界は下手なアニメよりも非現実が現実になっていて、ファンタジーだ。
 ならば考えを改めるべきだった。ファンタジーを前提として生きていかなくちゃいけない。
 この世界に来てもう1ヶ月近く、ただデスティニーの修理ばかりやっていたわけじゃない。自分なりに色々と、主に艦娘がどういう存在なのかを勉強した。そうして得た全ての知識が、今や俺だけが抱えているC.E.での記憶が、キラという人間【だけ】が変わってしまった理由の明確な解答さえも示してる。
 だからわかる。
 今の髪を実際に目の当たりにして最初に思ったのは、この世界特有の艦娘の特性だった。
 また今、直接キラの認識を試してみて確信したのも、この世界特有の艦娘の特性だった。
『なぁキラ、こんな話を知ってるか? 人の皮膚って1ヶ月で全部入れ替わって、血液は4ヶ月、一番遅い骨の細胞も大体3年で入れ替わるんだってさ』
『……え? いきなり何?』
『……、……場を和ませるジョークだよ』
『うーん。前々から思ってたけど、そういうセンスないよね君。僕もヒトのこと言えないけどさ』
『あんたのは冗談が冗談に聞こえないんだよ』
『それね、アスランにもよく言われた。……それで、まぁ、その和ませジョークに律儀に答えるなら、知ら……いや、知ってる、ような……?』
『そうかよ』
 自分の髪が長かったことまで忘れてるんなら、単純に一定期間だけってわけじゃない。特定の物事に関わるものがスッポリ抜けて……いや、ブロックされてる感じで、やっぱり予測した通りだった。
 状況証拠からの推論ってやつだ。
 答えはたった一つだけ。
 現状、それを唯一知っている俺の責任は、重い。
 自分だけが全てを知っていて、でも周囲に明かすわけにはいかなくて、一人で背負い込まなくちゃいけない重圧がある。たとえ口先だけでも強がって平静を装わなきゃいけない役割がある。それもこれも全部、記憶喪失になったキラの為にと自分で選んだ道だ。
 一重に、キラに対して大きすぎる借りがあるからだ。この借りこそが今日まで俺を行動させてきた原動力でもあるわけで。自分だけが全てを知っているからこそ、不甲斐なかった自分だからこそ選ばなくちゃいけないと思った道だった。
 せめてもの矜恃だ。だって、俺とキラがこの世界で背負うべき責任はもっと重いから。

 
 

 ……そんでもって、真実とか責任とか云々のしみったれたシリアスとは別に、俺は思うんだ。
 これはチャンスなんだって。

 
 

 本当ならもうとっくに終わってたモノの、その先に俺達はいる。どんなカタチでだって……生きて明日を掴めるんなら、きっとそれが一番なんだって。
 記憶喪失がなんだっていうんだ。真に取り返しのつかないモノ――命を喪うのに比べれば、ちょっとの記憶ぐらいどうってことないんだ。思い出は消えない。生きてさえいれば、いつか取り戻せる日もきっと来る。いつか、きっと。
 俺はそう思うし、信じてる。

 
 
 
 

《第31話:半分以下の真実、キラ・ヒビキという男》

 
 
 
 

「ねぇ、シン。僕は……この身体は本当に、キラ・ヤマトなのかな? キラ・ヒビキを名乗るこの僕が、あのキラ・ヤマトと同一の存在だっていう確証……それは君が知ってるのかなって、ずっと悩んでたんだよ」
「……一応聞いとくけどな、なんで最初にキラ・ヒビキって名乗ったんだ?」
 確認。
 寒々しい潮風に騒々しくざわめいている筈なのに嫌に静かに思える林の中、小さな慰霊碑の前で。
 重さが一切ない貌と声音で、下手な返答を赦さない重々しいこと訊いてきたキラの真意を知るべく、シンは常にない慎重さで問いかけた。ここでミスはできない。
「それは……だってほら、わかるでしょ? ヒビキの方が通りいいんだから、何もわからないまま自己紹介するならさ。ここが異世界だなんてわかるわけないし」
「確かに……そりゃそうか。じゃあそれから自分が変だって気付いて、訂正できなくなったって感じか?」
「鋭いね、流石」
「何年あんたの部下やってたと思ってんだよ」
「……そうだったね」
 それからキラは訥々と語った。
 自身が抱える不安、悩みを。
 そうされたのはシンにとって初めての経験だった。当たり前だ。この世界には、少なくとも此処には、C.E.の人間は自分達二人しかいないのだから。アスランもカガリも、あの人も、いないのだから。キラが本音で語れるのは自分しかいないのだ。
 気分はカウンセラーかセラピスト。不慣れで苦手で全然らしくない。そもそも基本的に直感と感情で動く男なのだから、こういう話は苦手なのだ。呉にいた頃も小娘達の手前、だいぶ無理して格好をつけていたが、やはり苦手なものは苦手である。それこそ、本来こんな情緒的な話をするキャラじゃない。
 けど、心の持ちようだ。決めたことをやり通すという意志があればこそ。シンは真剣な面持ちで傾聴する。 
「君の言う通りだよ、訂正できる機会は何度かあった。そうして何か不便があるわけでもないしね。でも……こんな艦娘みたいな……深海棲艦みたいな真似ができる身体になっちゃって、疑問に思わないわけないでしょ。僕は一体何者なんだって」
「……」
「とても同じ人間だとは思えない。おまけに記憶も曖昧で、確かなモノが何もない。なら突飛でも、こう考えられるわけだよ。元々うっすら予感してたけど、でもデカプリストが言ってた。……深海棲艦は、イロハ級は人間が素体で……海に沈んだ死体に、艦の力とか記憶とかが宿ったものなんだって。ならさ、この僕は、キラという人間の人格とか記憶とかを植え付けられた赤の他人で、深海棲艦の一種かもって可能性も、否定できないでしょ?」
 故に、今もキラ・ヒビキと名乗っているのだと。
 その名は既にこの世界でのアイデンティティになっていて、だからこそ今の異常な自身の存在をそのまま許容できるのだと。そう白状した。
 なるほど、彼の立場から考えれば納得のいく疑問と理由だった。そして幸いにして、今のシンが答えられる範疇である。しかも正誤半々でもあった。
 しかし、
(なんで、そんな顔で言ってのけられるんだ?)
 それにしても、自分が自分じゃない可能性を平然と言ってのけるその姿に、そんな疑問を抱えていながらこれまで艦娘達と談笑してたという事実に、薄ら寒さを感じてしまう。そのトーンは世間話のそれと変わりなかった。けど、それは記憶喪失のせいで実感が薄いからだと思い直して、いっそ色々と説明してやる手間が省けたと思って受け流す。
 それに、キラの表情や感情の起伏が薄い……というより見た目の変化が乏しいのは今に始まったことじゃない。無感情や無表情ではないが、物静かで、超然としていて、滅多なことじゃ動じない。まだ知り合う前の頃は、アスランやミリアリアらが言うには割と喜怒哀楽がわかりやすい方だったと聞くが、少なくともシンにとっては最初からそういう印象だ。
 どこか濁ったような瞳で、どこまでも平坦に言葉は紡がれた。
「そんなわけでね、自分が何者なのか……わからないのが怖い。彼女達に嘘をついてるかもしれないのも、嫌だ。知りたいんだ。ねぇシン、僕は誰なんだろう?」
「……それは――」
 その希求に答えないわけにはいかないシンである。
 腕を組んで瞼を閉じて、キラの言葉を今一度反芻しながらどう話すべきかを改めて考える。言葉を選ぶというよりかは、順序を考える。自分にある縛りを意識して。
 たっぷり10秒頭を高速回転させてからゆっくり紅の瞳を開くと、まずは前提を共有することにした。
「――とりあえず俺は、あんたの望む答えは全部持ってる。あんたの身体が今どうなってるとか、憶測だけど全部わかってる。けど俺からすりゃ、できれば自分で思い出してほしいってことは言っておくからな」
「手厳しいなぁ」
「全部口だけで説明ってのはナシだ。あんたの過去は、あんたが思い出せ」
 自力で思い出してほしい。嘘偽りない本音で、前提だ。
 意味がないからだ。C.E.という世界で何があったのか、どのような顛末を迎えたのか――それを口だけで伝え聞いて、知った気になるのが一番やっちゃいけないことだからだ。それでは完全に責任を果たせなくなるからだ。
 世話になった人に、借りがある人にちゃんと話せないのは心苦しいが、かと言って全てを話してしまっても無意味。そういう板挟みだ。故に、彼との対峙には覚悟が必要だった。
 そこんところをわかってないキラの飄々とした態度が癪に障るが、強いて気にせずシンはしゃんと胸を張って続ける。
「けど勘違いすんなよ。話せることは話すつもりで此処に来たんだ。思い出すキッカケになるかもだし」
「……ホント、何があったっていうのさ僕達の世界は……それは教えてくれないってわけだね?」
「ああ。悪いけどさ」
 境界線はそこだ。
 あの戦争のことは、教えない。自然に思い出すのを待つ。
 代わりに。
「で、キラ・ヤマト本人かって話だよな。なら大丈夫だ」
 一番に欲しがっている答えは、教えてやらなくちゃいけないだろう。流石にそろそろ気の毒だ。
 本題へ。
 それに、とシンは密かに思う。
 流石に5年の付き合いがあるだけあって、キラのメンタルが豆腐だということは重々承知している。シンも他人のことをどうこう言える人間じゃないが、輪をかけてキラという男は繊細な質だ。
 だから、仮にキラが【この世界の理】によって記憶喪失にならなかったとしても、それでも自ら記憶を閉ざしても不思議じゃないと。そう思えてしまうぐらいやっぱりあの戦争は最悪だったから、せめて予備知識、予防線ぐらい与えてやるのが情けというものだと。
 全てを一気に思い出したせいで精神を壊されては元も子もない。
 迷えるかつての上司の目を真っ直ぐに見据えて、シンは堂々と受けて立つ構えを見せた。
 こうするのがベストなのだと信じて。
「あんたが求める真実しか言わない。だけどその代わり、率直に言う。いいか?」
「……うん」
 条件は整った。
 半分だけの答え合わせをしよう。
「OK。……二階堂提督からも直接訊いたけど、ストライクの中から救助されたんだってな。だったらあんたは絶対に本物だ」
「え?」
 深呼吸。
 できれば口にしたくなかった事実を、過去を、突きつける。
 あの光景を思い出して込み上げてきた吐き気を押し殺して、平静を装って。

 
 

「あの時。C.E.で……死んだあんたを、あのストライクの中に押し込んだのは俺だ。だから間違いなく、あんたはキラ・ヒビキで、キラ・ヤマトなんだよ」

 
 

 言ってしまった。遂に。

 
 

『おい、しっかりしろよ! おいッ!? キラさん!!』
『シ……ン……、……よかっ……無事……』
『ふざけんなよ! なんでこんな!! 死ぬのは俺だった筈だ! なのになんでアンタが……ッ!!』
『……っ……こふっ……。ごめん、ね……僕……まに、ぁわな……また……』
『こんな怪我、どうしろって……駄目だ、このままじゃ……! 誰かいないのか!? アスラン! ルナ! メイリン! ……誰か応答しろォ!!!!』
『……ラ、ク……』
『くそぉッ!! おい諦めんな!? 俺がアンタを……絶対に!! 絶対に……!!』

 
 

「あぁ、そうだよ。この世界に転移する前には……あんたはもう死にかけてた。即死じゃなかったけど、助かる傷じゃなかった。……だから……きっと、この世界の海で生き返ったんだ」

 
 

 ――フリーダムが被弾した。
 敵機に囲まれて今にも墜とされそうになっていたシンの【ライオット・デスティニー】を庇って。絶対の無敵を誇ったキラの【エクセリオン・フリーダム】のコクピットブロックに、ビーム刃が突き刺さって、そのままフリーダムは隕石に……C.E. のアステロイドベルト出身の小惑星基地に墜落した。
 敵をなんとか撃退して救助しようとした時には、既にキラは虫の息だった。ヴァルキュリア‐システムのおかげで与圧と酸素が維持できていたのは不幸中の幸いだったが……
 左腕がなかった。それどころか左半身はほぼ炭になっていて、気休めにもならないとわかっていながら、長い後ろ髪を巻き込むようにしてグルグルと包帯を巻いた。左眼に突き刺さった破片はどうしようもなかった。
 無我夢中だった。辛うじて機能していたフリーダムのAIに指示して、元々無人機として随伴させていたストライクを呼び出すと、そのコクピット内へキラを放り込んだ。無数の破片が突き刺さった身体から止めどなく真っ赤な命がこぼれ落ちて、シートを染めた。再びフリーダムのAIで、今度はストライクを退避させるように命令してから、デスティニーに乗り込んで――

 
 

 ――そして、セカイが光った。

 
 

「そのデカプリストの言葉を借りるなら、あんたは深海棲艦と艦娘の中間みたいなもんなんだと思う。その記憶喪失と力は。……今んところ俺が言えるのは、これが全部だ」
「……」
 けれどそんな経緯は言えないまま、シンはただただ「キラは死んだ」という事実だけを伝えた。それはある意味で、シンの限界でもあった。
 真意とは別に、あの光景を言葉にすることができないのだ。
 だって、シンの家族が死んだあの光景に、似ていたのだから。
「……ねぇ、もしかして僕さ、左腕と左眼……怪我してた?」
「……、……ああ。してた」
「なる、ほど……ね」
 ともあれ気付けば、この異世界に転移していた。
 佐世保の浜辺に流れ着いたストライクから発見されたキラは五体満足で、後ろ髪が短くて、裸で、血塗れのシートに座った格好で眠っていたという。あの戦闘に参戦していたストライクは一機だけなのだから、確実だ。
 この世界の不思議な海の力で蘇ったとしか考えられない。説明がつかない。
 大前提として、この世界の海は謎だ。解明の手がかりすらない謎に溢れ、未知の法則と力で支配されている。なにせ艦娘と深海棲艦を生み出すぐらいなのだ。ならば死んだキラとストライクが融合して、新生命になるぐらいの無茶苦茶だって現実なのだ。また、これも憶測の域を出ないのだが、大破した響と瑞鳳が融合したというのも、その不思議の一端なのであろう。
 対して、同じように浜辺に流れ着いたデスティニーとシンには、何一つとして変化も異常もなかった。生きていたからだ。
 この海には、死者に干渉する何かがある。
「とにかく、あんたは本物だ。記憶喪失だろうが変な力を持っていようが関係ない……本物で、ここで生きてる。俺が保証する」
「……そっか」
「驚かないんだな」
「驚いてるけど、想定内では、あるかな……。変なフラッシュバックとか、ストライクのコクピットの血痕とか、状況証拠みたいなのはあったから……やっぱりって気持ちのが強いかな。……そっか、これは確かに手紙や電話なんかじゃ、無理だよね」
 キラの髪や顔つきなどの変化もそう考えるとわかりやすい。
 例として艦娘の容姿は、その魂のカタチや願望そのものが具現化したものかもという説がある。
 時間経過で生物的な成長をしないし、髪も伸びない彼女達。仮に散髪したってすぐに元に戻ってしまうし、前にプリンツが「どーにもお洒落の幅が狭いのが何気に問題なんですよねー」と嘆いていたのも印象的だった。そうした少女達が変わる機会は、記憶を取り戻した時と、新たに大規模改装をした時の二つのみ。
 夕立は特に顕著だったと聞く。なんでも信じられないことに記憶を取り戻した瞬間、瞳は穏やかな翠色から獰猛な紅色に、髪はどこぞのお嬢様のように艶やかなストレートから犬耳のように逆立てた長髪へと様変わりしたのだという。そして艤装を改二にしたらセーラー服に変化が顕れたのだから、想像もつかない現象だ。
 想像もつかないが、しかし。
 昨日、シンはその現象を実際に目にした。
 夕立と響だ。なんとなくで大規模改装とやらを見学して、姿が変わる瞬間を見たのだ。
 全身が淡い光の粒子に包まれたと思ったら、一瞬にして一気に変わった。改三になった夕立も、改二になった響も、腰ぐらいまでだった後ろ髪が膝辺りにまで――それこそ4年ぐらいの年月をかけて伸びるほどの長さになって、しかも服も全然別物になっていた。まるでアニメや特撮の変身シーンみたいに。
 艦娘とはそういう存在だ。
 ただ、余談ではあるが、人智を超えた変化をするといっても大半の艦娘はちょっと大人っぽくなったり服飾が変わったりするだけに留まって、瞳や髪といった容姿が別人のように変化する事例は、極めて稀らしい。容姿が大きく変わるということは即ち、人格や自己認識がまるっきり変わるのと同じだからじゃないかと天津風は考察していた。
 とすると夕立という少女は、人格や自己認識がまるっきり変わった珍しい艦娘ということになる。
 ちなみに響も同じく、人知れず大きな変化を遂げていたのかもしれない……らしいと今朝の師弟対決が終わってから明石が言いだした。新情報だ。
 曰く、
『私も昨日初めて聞いたのよ、響から。改二改装作業中に思い出したみたいでしてねぇ……どうも最初に目覚めた瞬間だけ髪が黒っぽかったかもって。瑞鳳が初めて彼女を発見した頃には、銀髪だったって公式記録が残ってるんだけど』
 艦娘が記憶を取り戻す際には、前触れもなく膨大な情報量が津波や雪崩のように押し寄せてきて、非常に辛く苦しいものと聞く。発狂してしまい、その前後の記憶が曖昧になるのが通例だと。
 響は生まれた直後に全部の記憶を取り戻した希有な艦娘であり、だから仮にそれが本当だとしたら、自身の元々の髪色を認知できなかったのは仕方のない、当たり前のことだと明石は付け加えて言った。
『暁と同じ菖蒲色だったのかもしれないんですよね、もしかしたら。それはそれとして師弟揃って同じ現象を経験しているのなら研究する価値がありそうですよ。シンさんはどう思います?』
『知らねぇ』
 閑話休題。
 そんなこんなで、記憶や想いで姿形が変わるのが艦娘であるのならば。記憶を取り戻した時と、新たに大規模改装をした時というのは即ち、本来の自分、理想の自分になるタイミングであるのならば。それを踏まえると、記憶喪失のキラが昔懐かしい姿になっているのも説明がつく。
 逆説的に、記憶を取り戻せば……それがきっと、この世界の理なのだ。
 これが半分以下の真実、キラ・ヒビキという男の正体。みすみす死なせてしまったシンの罪。
 答え合わせは、ここで終わった。
「……ありがとうシン、教えてくれて。助けてくれて。こういうのは変かもだけど……少なくとも他人じゃないってわかっただけでも安心したよ。ごめんね、言いにくかったでしょ?」
「信じるのかよ、こんな突飛な話」
「信じるよ。他でもない君の話だもの。納得もできるしね」
「……」
「……?」
 自身の不思議の原因を知ったキラの表情は、声音は、変わらず穏やかだった。
 否。
 穏やかというより、重みがない。含みがない。驚いているように見えない。シンにはそう感じられて仕方がなかった。
 キラも自分と同じか、それ以上に緊張している筈だと思っていた。しかし、違う。これは違う。
 無感情や無表情ではないが、物静かで、超然としていて、滅多なことじゃ動じない――なんて次元じゃない。鈍感な自分でもわかるぐらい繊細な男の筈なのに、波風一つ立ってない。響いてない。もしかすると聴いてなかったんじゃないかと疑ってしまうぐらいに。
 この自分が、必死に伝え方を考えて、あの悲惨な光景を思い出しながら語った言葉が届いていないようにしか。
「なんで……」
「シン?」

 
 

 その態度が許せなかった。衝動が理性を追い越した。

 
 

「……なんであんた、そんな落ち着いていられるんだよ!? 死んだんだぞ? もっと、普通……もっと訊いてくるもんだろ!?」
「わ……!?」
 何故?
 詳しく話してないからとはいえ、シンの罪すらも受け入れている彼の態度が、かえって苦しかった。だって、話せないの一点張りは、見ようによっては我儘でしかない。
 だというのに。
 キラは取り立てて動揺もせずに受け入れた。自分が死んでいるという事実を。正誤半々で、彼の立場から考えれば納得のいく疑問を予想していたとしても、リアクションが薄過ぎるのが許せなかった。業腹だ。
 別に、取り乱してほしいとか、反論してほしいとか、そんなんじゃない。でも。
 こんな、他人事のような。
 ――コイツは、俺を庇ったせいで死んだのに。
 久しぶりに沸き起こった強い怒りのまま、シンはキラの胸倉を掴んでいた。けれど、ビリっとザフト白服が少しだけ破けた音ですぐに我に返ってしまって、もう瞳を逸らして俯くことしかできなかった。
 こんなみっともない真似をする為に話したわけじゃない、決して。
「……、……くそっ……」
「……シン。君が話せないってことは、話さないって選択したってことは、きっと大事なことなんだってわからない僕じゃないよ。何年、君の上司をやってたと思ってるのさ」
「……だけどッ!」
「本当は訊きたいこと沢山あるよ。例えば、なんでストライクなのとか。でも今はいいんだ、僕が僕であることがわかっただけで……君が僕を生かしてくれたってことがわかっただけで、嬉しいんだよ」
「いいのかよ。いいわけないだろッ……! ふざけんなよ!!」
 言葉が詰まる。
 もどかしい。全てを話せないのが。自分自身で設定した前提が、縛りが、ここに来て足枷になった。
 嬉しいだって? そんな一言で済ませられるものか。
 シンだってキラが生きていたのは嬉しかった。それは絶対だ。どんな形であれ。生きてさえいれば、明日がある今があれば、正直コイツの記憶の問題なんてどうでもいい。きっといつか艦娘みたいに思い出せるだろうし、むしろいっそ忘れたままの方が、何も知らない方が幸せだろう。
 本当ならもうとっくに終わってたモノの、その先に二人はいる。本当ならもう死んでいて、こんな風に話す機会なんて永遠に喪われた筈だった。でも今はどんなカタチであっても、生きて明日を掴むことができている……これを奇跡と呼ばずして何という。
 しかし今伝えることができた真実は、半分以下なのだ。核心は別なのだ。今があるならそれでいいなんて口が裂けても言えず、奇跡の代償として、この世界での明日を求めるのならば向き合うべきはC.E.の過去だ。キラはそんなことを、これっぽっちも思い至っていない。
 いや、もしかしたらソレすらも、他人事のようになんともないと思っているのかもしれない。
(……いつまでもそんな風に思ってられないんだよ、キラさん……)
 自分の後ろにあるものを意識する。この慰霊碑へと続く道の先を。
 が、意識しただけだ。口にしかけた想いの丈を、危ういところで呑込む。
 これ以上はどうしようも出来ない。現状はこれで全てなのだと、シンは無理矢理にでも己を納得させるしかなかった。大きく息を吐き出して、頭を冷やす。
「……すまん」
「いや……」
 引き下がる。諦める。
 まだ襟を掴んだままだったことに気付いて慌てて離してから、一歩。すると、タイミング良くピロリロリン♪ という軽快軽薄な電子音が静寂な空間に鳴り響いた。
 キラの胸元、この国のこの時代ではガラパゴスと揶揄されている旧式携帯端末だった。NJ環境下ではまともに使えないものの一応の通信モバイルとして支給され、一時期は瑞鳳の意志を表出させていたアレだ。
「あっ……と。ごめん、ちょっと」
「なんだよ?」
「アラーム。10分ごとの合図にしようかなって」
「音は小さくしとけよな……」
「うん。僕も吃驚しちゃった」
 気が削がれた。色々と。
 一気に日常が帰ってきた感じ。雰囲気に呑まれて遠ざかっていた周囲の音も、自己主張するように騒がしく鼓膜をつんざいてくる。
 シンも腕時計で確認してみたら、例のミーティングまで15分といったところだった。話初めてからいつの間にか10分が経っていた。確かに夢中になって遅刻してはいけないから、定期的な合図を用意するのは当然の措置だが……
 ちょっと慌てたように携帯端末を操作してアラームを解除するキラの姿に、もう溜息も出ない。でも少しだけ安心した。こういうちょっと抜けてるところは健在らしい。
 そんな複雑な想いを胸中に抱きながら、シンは少々力の抜けた頭で投げやり気味に問いかける。
「……で、これからどうするつもりだよ?」
「? どうって?」
「俺はどっちで呼べばいいんだって、あんたのこと。別にっ、俺はどっちでもいいケドさ……せっかくこの世界に……C.E.のしがらみは無くなったし、同一人物って確証もあんだから、ヤマトって名乗ってもいいんじゃないのか?」
 最低限5分前には食堂に着いていたいから、残り時間は10分。問答はこれが最後になるだろう。キラの疑問は一応解消したのだから、次はシンの番だ。特に重い理由などは無いが、呼び方が曖昧なまま宙づりなのは気持ち悪かったから、ここで白黒ハッキリしたかった。
 キラは曖昧な笑みで、どうなんだろうねと呟いた。
「よくわかんないんだ、自分でもそれは」
「はぁ? なんで」
「……こんなこと言うと、また怒られちゃいそうだけどさ。でもホント言うと、僕はキラ・ヤマトって人間が好きになれなくて、嫌いで……自分が何者であるかなんて知りたくなかった。向こうでヒビキって名乗ったのは、まぁ大体は政治の都合だけど、いっそ渡りに船だったってのが一番だし」
「……なんだよ、それ」
「存在を否定するまでじゃないんだけどね。でも原罪を背負った別人を名乗ったほうが気楽なぐらいだったのは本当だよ。逃げたんだ。一度そうしたらさ、もう一度ヤマトを名乗るのは……億劫なんだ」
「……」
 適当に訊いてみたら、とんでもない地雷だったと後悔した。
 なんとなく、立場と目的のために仕方なく名乗っているものなんだと思っていた。兎にも角にもキラは、自分を犠牲にする方法しか知らないのだから、もはやシンにどうこう言えるものじゃないと思っていたのに。
 まさかそう思ってるとは知らなかった。思い違いをしていた。
 じゃあ、何か? そうやって半生を切り捨ててまで新しい生き方を選んだ男が、さっきまで自身の存在そのものを疑ってたというのか? コイツの人生って、一体なんなんだったんだ?
(どんな地獄だよ、それは)
 そして、もしかしたら。
 悪寒と、直感的な納得。

 
 

 これまでのキラの態度の全てが、それに帰結していると考えれば。
 救いようもなく壊れているから、逆に平然としていられるのだと。

 
 

 ゾッとした。
 もしそうならば既に、状況はとっくの昔にシンが対処できる限界を超えていたことになる。
 胸くそ悪い。
 どうしてこうなった。あの人がいてくれたら――なんて絶対不可能な願いが、無力感と共に重くのし掛かってきた。さっきの爆発的な怒りとは違って、煮えたぎるようなこの感情に出口は無い。
 思っていたよりもキラを取り巻く状況が悪い。仮にこのまま全てを思い出したら、何もかもが悪い方向へ転がってしまいそうな予感があった。それを阻止するには、どうすればいい?
「……」
「……なんでシンがそんな顔するの。その……困るじゃない」
「っ……あんたは困ってるぐらいが丁度良いんだよ」
「えぇ?」
「とりあえず! わかった。一応キラ・ヒビキって呼んでやる、此処でも。それでいいんだろ?」
「……ありがとう、シン」
「礼を言うぐらいなら、さっさと思い出せ」
 しかし口ではそう言うしかないジレンマ。
 慣れない腹芸に冷や汗をかきながら、ほっとしたような笑みを見せるキラに背を向ける。
 話はここで打ち切りだ。もうお互いに何も言うことはないし、続けていたら此方の気がおかしくなりそうだった。予定より少し早いけれど。
 キラもそれを察したのか、無言で歩き出した。
 が、すぐに歩みを止めて。
「あ、ごめんちょっと待って」
「?」
「慰霊碑。一緒にお参りしたくて、此処に呼んだんだよ」
「……そうか。そうだな」
 その誘いを断る理由はなかった。
 気持ちを切り替えてキラの隣に並ぶと、名も知らないナスカ級クルー達のために建立された小さな石碑に黙祷を捧げる。思えば、C.E.で初めて会ったのも、再会したのも慰霊碑の前だった。オーブの。密会の場として此処を指定したのは、それも込みだったのかもしれないと、思いたい。
(……この世界に来て、考える時間だけは無駄にあったせいなんだろうな。こんなに女々しくなるなんてな、俺が……)
 シンはまた、あのC.E.での激戦を思い出す。
 ここに眠るナスカ級クルー達は、あの絶望的な状況下でも諦めずに戦ってくれた勇士達だ。彼らの戦いを無駄にしない為にも、この世界で上手くやっていこうと決意を新たにする。
 黙祷は、二度目のアラームが鳴るまで続いた。

 
 
 

 
 
 

 正午、佐世保鎮守府の食堂。
 第二次ヘブンズ・ドア作戦が成功して戦局は大きく動き、また特装型艤装の改修作業も慣熟訓練も終えた今、これからの方針と結束を固める――という意向で企画された【榛名組】のミーティングは、ささやかな昼食会も兼ねている。
 シンと天津風とプリンツ・オイゲン、そして夕立と由良を特別ゲストに迎え、レンガ造りで広々ゆったりとしたお洒落空間に並ぶテーブルの一つを占拠した一同は、瑞鳳お手製の昼食を食べつつ未来に想いを馳せて、しっかりとした計画を練るのだ。
 ……そうなっている筈だ。今頃はきっと。
 自分一人を除いて、みんなそうしている筈だ。
「はぁ……。私、なにやってんだろ……」
 新しい艦娘用宿舎の自室で、やることもなく敷き布団に寝っ転がっていた寝間着姿の瑞鳳は、チラリと壁がけ時計を確認するとまた盛大に溜息をついた。12時47分。本体も電池もほとんど新品で、狂いはない。
 約50分も、こんなところで一人ウダウダと時間を浪費していた事になる。
 らしくない、低くて生気のない溜息を繰り返す。顔色も悪かった。
「……はぁ……」
 サボってしまった。無断ではないけど土壇場キャンセルで欠席してしまった。
 深い理由や用事があったわけじゃない。食事会のための料理を完成させてからでっち上げた「気分が優れない」なんて稚拙な建前を、木曾は特に追求せずに了承してくれたが不審に思っただろう。ただ、響とキラにどんな顔をして会えばいいのかわからなかった、というのが本音だ。
 つまりは逃避である。理由は言うまでもなく、今朝のアレだった。
 胃が痛い。
 生まれて初めてのサボりという行為に、背徳感や開放感はなかった。嘘をついた罪悪感と、どうせ近いうちに会うのに無意味に先延ばしにしてしまった後悔で胸が詰まった。それに、榛名と木曾と鈴谷は今朝まで福江島前線基地の防衛に就いていたので、佐世保に帰ってくるのも久しぶりなのである。もし瑞鳳が出席していれば11月13日以来、実に16日ぶりに【榛名組】全員が一堂に会することになったのに、ふいにしてしまった。
 自己嫌悪。
 咄嗟に逃げたせいで余計に辛い。かといって今から会いに行ける筈もなく、心の整理や覚悟なんて出来そうになく、だからせめて今日はもうずっと引きこもろうと決めた。しかし、新しい居住空間には必要最低限のものしかなく、やることがなく、そういう意味でも後悔があった。これは瑞鳳に限らず佐世保所属艦娘全員に共通する話なのだが、趣味のものも含めて所持品は全て、旧い宿舎ごと破壊されてしまったのだから当然の帰結だった。
 溜息が尽きない。気が重い。嘘から出た真というか、本気で気分が悪くなってきた。
 それもこれも全部、あの人を好きになっちゃったせいで……
「……寝ちゃお」
 思考がどんどんダメな方へ行っている。ダメダメで後悔ばかりなことに変わりないけど、自分の気持ちに嘘は付きたくない。
 もう今日は出撃予定もないから、シャワーを浴びて不貞寝してしまおうか。せっかくの半休なのに勿体なさすぎるけど――
「おいーっす瑞鳳(づほ)ー? いるー?」
 ――と思ったところで、ノックと鈴谷の声。
 何故ここに、という至ってシンプルな疑問。ミーティングはもう終わったのだろうか? でもそれ以上に、底抜けに明るいいつもの調子な彼女の来訪に少しだけ救われた気分になって、ゆったり身を起こした瑞鳳の声に、ほんのちょっとの生気が戻った。
「……鈴谷? えと……もう終わったの?」
「んーや? でもまぁ後は歓談タイムって感じ。大事な話は終わったから、様子見がてら伝言とお見舞い品を届けに来たってわけよ。入るよー」
 一応、気分が優れないということで欠席したのだが、来訪した鈴谷はそれが建前だとちゃんとわかっている口ぶりだった。それでいてサボりを責めるような雰囲気でもない。つまり、だからこそ榛名や木曾ではなく、彼女が来たということか。
 現状、唯一の味方だ。
 彼女には情けないところを見られてしまったわけだけど、それでも瑞鳳の秘密を秘密のままにして、律儀に協力的な姿勢でいてくれている。それが骨身に沁みてありがたくて、素直に甘えたい気分だった。それぐらい精神的に弱ってて、参っていた。
 昨日までは、端的に言ってしまえば普通に軽口が言い合える仲間であり、艦娘達のありとあらゆる恋愛事情に興味津々な恋愛偏重主義者としてしか見ていなかったが、こんな優しい一面を発見したからには認識を改めようと思う瑞鳳。これは彼女のカノジョである熊野が惚気たり愚痴ったりするのも納得だった。
 思えば、こと恋愛に関して鈴谷は先輩に当たるのである。ならば他人の感情の機微にも鼻が利くのかもしれない。
「お邪魔しまー……わーお、これまたヒドい顔してんね。そんなこったろうと思ってたケド」
「うぅ……そ、そんなに……?」
「カッコ可愛い顔が台無し。まぁ確かに、そんなんじゃキラっちの前には出らんないか。とりあえず、はいこれお見舞いの」
「あ、ありがと……ってナニコレ。お酒ばっかじゃない」
「どっかのイタリア重巡じゃないけど、こーゆー時は呑むのが一番じゃん? イケる口っしょ?」
「それは、まぁ……」
 ラフな部屋着姿で入ってきた鈴谷は、両手に大きなビニール袋を一つずつひっさげていた。
 パンパンに詰まった袋の中身は大量の缶ビールに缶チューハイといった酒類と、ポテトチップスやチョコレートといった菓子類。もう片方の袋には暖かい揚げ物や串焼きなど……どれもこれも鎮守府食堂に併設された売店でよく見かけるもので、如何にも呑兵衛御用達といったチョイスだった。まぁ、ありがたいことに変わりないが。……というかこの量は鈴谷も呑むつもりなのだろうか。
 ちなみに一点補足すると「どっかのイタリア重巡」とは艦娘有数の酒飲みである呉所属のポーラを指し、瑞鳳とはあまり接点はないものの、最初の食事会で酒をカパカパ大量消費しては豪快に服を脱ぎだして姉のザラに怒られていた様子が強烈だった。あれは丁度、初めてキラと一対一でまともに会話した時のことで……なんだろう、それにしても急にあの無駄な脂肪の塊が無駄に気になってきて、自分の肉付きが薄くて小柄な躰がほんの少し哀しくなる。
 対して、ザ・ナイスバディでプロポーションに自信アリな鈴谷は極々自然に備えつけの丸テーブルにつくと、当たり前のように辛口で有名な缶ビールのプルタブを開けた。カシュっと爽快な破裂音が妙に懐かしく聞こえた。
「これは貸しイチだかんね。気持ちはわかるけどぉ、サボりはイカンですよ瑞鳳クン」
「……うん、だよね。ごめんね。色々気を遣わせちゃって」
 つられて瑞鳳もビニール袋に手を突っ込んで、柑橘系のチューハイを戴く。お昼から飲酒なんて不良みたいだけど、こうなったらもう破れかぶれだ。
 覚悟を決めてグイっと。乾杯はナシで、二人揃って一気に一缶を空にした。こればっかりには流石に背徳感や開放感もふつふつ湧いてきて、相俟って、また少し気分が楽になった。
「あ、そだ。忘れないうちに、ちゃちゃっと伝言も言っとくね。これもう決定事項だから異論はナシね」
「う、うん。わかってるわよぅ。サボっちゃった私が悪いんだし……」
「よーろしい。じゃあ、悪いニュースと嬉しいニュース、どっちから?」
「……え。いきなりそういう感じ? えっと、じゃあとりあえず悪い方で」
 悪いニュースとやらは、しかし瑞鳳にとってはこの上なく嬉しいニュースだった。
 要は、瑞鳳が用意した昼食が絶品で、キラが大喜びでおかわりまで希望したと。
 作ったのは和風オムライスである。オムライス自体は元々日本発祥の西洋食だが、その和風バージョンとしてチキンライスではなくバターライスを薄焼き玉子で包み、トマトケチャップではなく牛そぼろ餡と刻み海苔をかけた。これにサラダと味噌汁をつけたものが、食事会用のメニュー。それを鈴谷が見た限りでは、いつもなんでも美味しそうに食べてくれる彼が過去一番に喜んでいたという。
 料理人冥利に尽きるし、なにより好きな人にそんなにも喜んでもらえるなんて嬉しいに決まってる。今日一番の後悔は、その様をこの目で見られなかった事になるだろう……と、そこまで思ってから、鈴谷がこれを悪いニュースだと言った理由に気付いた。サボるんじゃなかったと瑞鳳は本気で天を仰いだ。もしその場に居合わせていたら、おかわりの為に追加で何人前だろうと作ってあげられたのに。
(キラさんのことは諦めなきゃダメなのに……それでも喜んでくれるならそうしたいし、喜ばせてあげたいって、思っちゃうよ……)
 二律背反。
 好きになっちゃったけど、好きになっちゃいけない、失恋しなければならないという諦観。だけど、もっと彼の色々な一面を知りたい、見たいと性懲りもなく心を支配しようとしてくる甘い欲望が、否応なしに胸をドキドキさせてしまうのだった。
 どうすればいいんだろうと、アルコールで無理矢理に晴らした筈のドンヨリ模様が、また蘇ってくる。
 だがそんな気持ちも、カラカラ愉快げに笑う鈴谷の次の台詞で吹き飛んでしまった。
「そうそう、そん時のシン・アスカの反応も面白くってさぁ」
「? シンさんの?」
「あんな美味しそうにモノを食べるキラっち、初めて見たんだってさ。あんた本当にキラか!? って叫んでた」
「えぇ?」
 曰く、C.E.でのキラは何時、何処で、誰と何を食べていても、心底つまんなそうに淡々と腹に詰め込むだけの男だったと。おおよそ食事というものに関心が薄く、時には平気で絶食するキラに食事させるのが彼の右腕であったシンの日常で、周囲の仲間達にとってもそれが普通の認識だったとのことだ。
 まるで別人。
 シンの知っているキラと、自分達が知っているキラは真逆みたいに別人で、どっちが本当の貴方なのだろうと瑞鳳は首を傾げた。今ここにいる彼こそが自分達にとってのキラ・ヒビキという男の全てなのだと、思いたいけれど。
 思い悩む瑞鳳を余所に、鈴谷は更に言葉を続けた。
「そんじゃ次、嬉しいニュース。こっちは正真正銘、罠とかじゃないよ? 真面目な任務の話ね」
「ぁ……う、うん。もしかして台湾関係?」
「ん? ……んー? まぁ、そんな感じ?」
「?」
 任務の話となれば、惚れた腫れたなどと浮ついた気持ちは封印しなければ。三本目の缶に伸ばしかけていた手を引っ込めて、瑞鳳は真面目な面持ちで正座する。任務かつ嬉しいニュースとなれば、戦況が良い方向へ転がって展望が開けたとか、次の大規模作戦の予定が決まったとか、そういうのだろうか?
 が、しかし鈴谷の様子が妙に曖昧だった。
 自分で真面目な話と言っておきながら、ニマニマして、ソワソワして、何かを堪えているような。なんだか無性に嫌な予感がして、身構える。こういう時の鈴谷は決まって碌なことを言わないという経験則があった。
 果たして、それは現実となった。
「えー、コホン。……軽空母瑞鳳!!」
「ふぇ!? あ、はいっ!」
「これは我らが軍師、木曾が発案した、さいじゅーよー任務である! 心して聴くよーに!」
「……もしかして鈴谷、もう酔ってる?」
「そんなことはどーでもいーの!」
 身構えていても予想を上回る展開、唐突なお堅い(?)号令に思わず敬礼で返してしまったが、先にも増して鈴谷が怪しい。挙動不審だ。
 一体全体、これから何を言われるのか。最重要なのに提督ではなく木曾が発案とはどういうことなのか。そもそもこの鈴谷の態度は何なのか。
 一気に湧いてきた大量の疑問符に頭を支配された瑞鳳は、ハラハラしながら次の通達を待って――

 
 

「瑞鳳、響、夕立、キラ。以上四名は明日から3日間、佐賀県嬉野市(内陸)の旅館で休暇を取るよーに!! 以上!!!!」
「……え。……え、えぇぇーー!!??」

 
 

 ――まさかの日本三大美肌の湯で有名な大温泉街で宿泊してこいとの命令に、宿舎全体に響き渡るほどの驚愕の声を上げたのだった。

 
 

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