クルーゼ生存_第28話

Last-modified: 2013-12-22 (日) 02:30:05

 シンは黒海沿いの道を、バイクで駆け抜けていた。爽やかな海風がパーカーに孕んで直
接体験する速度の快感を彼に伝える。モビルスーツは宇宙空間でなら加速を続ける限り速
度は増していくが、メーターの数字で見えるだけだ。
 ミネルバは修理のためにしばらくこのディオキア基地に停泊するので、乗員には順々に
休暇が与えられる。隊長が作った休暇日程によると、シンが初日だった。なので、朝食の
あとレイ、ルナマリアといったん艦に戻って、休暇申請を出して、私服に着替えて、その
間にバイクのレンタルの手続きもして、出てきたのだ。ディオキアの街は、ザフトの駐留
を歓迎しているようで、軍服の者も、休みで私服の者も、市民から親しげに扱われていた。
連合軍から離反したなら、ザフトがいれば本格的な戦力があるということだからというこ
とがわかるだけ、シンは世の中が分かるようになっていた。ガルナハンでは、自分たち街
の人間の力でこれから街を守るのだと言っていた。その厳しさ――精神的にも物質的にも
―ーに触れたことは大きかった。
 街を軽く走っていると、ヴィーノとヨウランがカフェでお茶しているところに出くわし、
ちょっと喋った。メイリンを誘ったが断られたのが、ヴィーノはショックらしい。メイリ
ンは誰の目から見てもわかるほどイザークに接近しているし、イザークもそれを受け入れ
ている。アカデミーの頃から、『仲間』としてしか扱われてなかったし、諦めて他の女の
子を視界に入れたほうがいいと、ヨウランとシンは言うのだが、ヴィーノはやっぱりメイ
リンが好きだというのだった。まあ、そういう恋愛の悩みはシンにはよくわからない。好
感の持てる女の子とそうでない女の子がいるのは確かだが、『恋』となるとまだ未経験だ。
小説や映画のように、一目惚れというものが世の中にあって、いつか自分もそういう経験
をするんだろうかと考えることはあるが、それよりは好意を感じた女の子と色んなところ
にデートに行って、お互いのことをよく知り合って好きになって恋人同士になるというほ
うが現実的だ。ただ今、戦争をしている軍人のシンに、そういう地道な恋愛はありえない
ことだったが。
 ディオキアは黒海沿いのリゾート地なので、しばらくバイクを走らせていると、岩場の
向こうに砂浜が見えた。少し海辺で遊ぼうと思って出てきたシンの、目的地だ。
 その前の海に突き出た岬に、白いものがひらひらしているのが見えた。
 何?と思ったがよく見ると、白いドレスを着た女の子が舞い踊っているのだ。その様子
が遠目にも楽しそうで、嬉しそうで、シンはバイクを止めて、彼女に見入った。金髪で、
靴を脱いで裸足で踊っている。よほど楽しいのだろう。軽やかな動きは妖精を想像させた。
あの崖の上の岩場なら、結構な風が吹いているだろうに。
 そんなことを考えながら、海に目をやった隙に、ばっしゃーーーんとすごい落下音がし
た。
「いない! 落ちた!? まさか」
 岩場に目をやると、踊っていた白いドレスの少女の姿はない。
 シンはバイクを置いて、その岬の根本へ向かって岩場を歩き出した。
 少女のいた辺りから海を見下ろすと、ばしゃばしゃと白い泡を立てながら、もがいてい
る金髪が見える。
「泳げないのかよっ!」
 シンはパーカーを脱ぎ捨てると、躊躇せず飛び込んだ。海辺育ちのおかげで、水泳は得
意だ。そして着衣水泳の難しさも知っていた。あんなひらひらしたスカートが付いている
ドレスで泳げないナチュラルの少女が海に落ちたら、溺れるまでそう時間はかからない。
もがいたところで、足にスカートが巻きついて動きが取れなくなってしまうのだ。
 久々の着水の痛みのあと、浮き上がったシンは少女の下に泳ぎ着いた。しかし彼女はす
でに沈みかかっており、シンも潜水して、彼女の体を抱きとめた。ただ少女はパニックに
陥っているのか、無茶苦茶に手足を動かすものだから、コーディネーターの中でも運動能
力に優れた彼であっても、海面に浮き上がるのは一苦労だった。
「ぷはぁ」
 けれど少女は暴れ続け、精神の安定を欠いて今自分がどういう状態にあるのか、まるで
わかっていないのだろう。シンに全身で抵抗を示し、頬をみごとに引っかかれた。
「落ち着けって! 大人しくすれば、絶対助けるから!!」
 声を掛けても効果がないので、シンはこれ以上体力を奪われては困ると、いったん少女
を放して、彼女の下にもぐりこみ、胴体をしっかり下から掴んで固定した。
 海に浮いている格好になった少女は手足をばたばた動かすのを止めた。たぶん状況が理
解できたのだろう。
 シンは彼女を引っ張ってなんとか浅瀬までたどり着いた。とりあえずこれで死ぬことは
ないだろうと安心する。少女を引っ張り上げたところで、さすがに疲れて、岩の上に座り
込んだ。
「何してんだ! 死ぬ気か!?」
 疲れから、つい語調がきつくなる。
「泳げもしないのに、あんなところで遊んでて、危ないってわかんなかったのかよ」
 少女の呆然とした顔に、いまさら恐怖の色が浮かぶのにシンは気付いた。
(なんだ、鈍いんだよ、まったく)
 と思っているうちに、少女は体をがくがくさせ
「あ……イヤ……しぬの、イヤ……」
 呟きながら、急にスイッチが入ったロボットのように立ち上がった。
「いやぁ!!」
 叫びながら、岩場をシンから逃げるように走り出す。しかし体力を消耗しているから、
しばらく行ってよろけ、でもまた逃げ出す。
 放っておいてはまた泳げないのに、波に足をとられて海に入りかねない。
「待てって! 今度海に落ちたら、ホントに死ぬぞ」
「いやぁぁ! シヌの、こわい……」
「だから、海に入ったらだめだって」
 この少女はおそらく知的障害者だ。シンと同じくらいの年恰好だが、ナチュラルとして
普通の発達を遂げているようには思えない。ようやく抱きとめたら、泣き叫び始めた。
「シヌのぉ、撃たれたら、死ぬの!」
 この子は、おそらく前大戦で家族か友人が殺されるところを見てしまったにちがいない。
それがいまでも、彼女の精神を支配していて、『死』を異常に恐れるのだ。
 ただ暴れ止まないので、彼女の肘がシンの頬に入った。すごい力だ。体力は消耗してい
るはずなのに。
 そしてシンから逃げるように、浅瀬を這っていく。
「大丈夫だ、君は死なない! 俺が付いてるから」
 あのとき、もし自分でなくマユが生き残っていたら? まだ幼く家族みんなに可愛がら
れていたから、ちょっと生意気でわがままなところもあった少女が、心の傷を負わずに生
き延びられたとは思わない。シンにしても、アカデミーのカウンセラーから、『時間と君
の成長が心の傷を癒すから、自分が可哀相だと思ったときは、思い切り泣くなり、遊ぶな
りするといい』と言われてここまできたのだ。
 シンは少女の体を後ろから抱きすくめた。優しさを込めて。
「心配要らない。君は、俺が守るから……」
 こう言ったものの、右手がまちがって彼女の胸乳を掴んでしまい、シンはどぎまぎした。
でもやっとこちらの言葉に耳を傾けてくれた少女だ。しばらくはそのままで、少しでも理
解したかった。
 少女の体から、すこしずつ力が抜けていくのがわかる。シンも力を抜いて、今度は正面
からウエストを抱いて、話しかける。
「ごめんな、俺が悪かったよ。ホント……もう大丈夫だから」
 少女の印象的な菫色の瞳から、じわじわと涙があふれる。泳げないのに海に落ちて、何
より恐れているらしい『死にそうな目』にあったのだ。どんなに怖かっただろう。
「俺が、守るから、心配しないでいいよ」
 シンは平和に暮らしている民間人を守るために軍人になったことを、今一度思い出した。
ネビュラ勲章より、このナチュラルの、おそらく知的障害を持った少女の笑顔を守ること
の方が、シンにとっては栄誉なのだ。
「まも……る」
 少女が呟く。
「ああ、俺が守るから。ほら、もう浅瀬だろ」
「守る……」
 言葉の意味を噛み締めるように、可愛い声で何度も言い、少女は両手でシンの手を取っ
た。少女にしては案外鍛えられた手だ。女の子の手は、もっと柔らかいものと思っていた
のだが。
 二人はようやっと岸辺に上がった。少女は寒いのか、体を震わせている。シンは濡れた
ハンカチを絞って彼女の髪を拭いてやり、岩場で切ったらしい足の傷を見つけて、そこを
ハンカチで縛ってとりあえずの止血をした。少女はされるがままで、今のところ一方的な
信頼をシンに寄せているようだった。
 頼られるからには、成果を出さなければ彼が軍人になった意味がない。
「でもどうすりゃいいんだ」
 小声で呟いて周囲を見渡す。岩伝いに浜まで出られる道はない。泳いでその岩でふさが
れた区間を越えるにしても、この少女は泳げない。岩場の奥には波でうがたれた洞窟があ
った。そこで救助を待つしかない。
 シンは首からさげた認識票とエマージェンシー用の小型発信機を取り出し、発信機を折
った。これで電源が入り、自分の位置をミネルバの管制に知らせてくれる。
 シンは少女を促して洞窟に入った。

 
 

 洞窟の中は真っ暗だったが、入り口からわずかに差し込む光とシンのコーディネーター
ゆえの夜目で、奥にあった乾いた流木を見つけることができた。その流木で火を起こすの
は、ザフトのアカデミーの「地球でのサバイバル」という授業で習った。
 火を起こし、濡れた服を乾かすために脱いだときに、シンはびっくりした。異性と一緒
なのでシンはズボンは穿いたままだったが、少女は何のためらいもなくドレスを脱ぎ、さ
っき胸を触った時にわかったようにノーブラで、パンツ一枚になったのだ。ただそれに羞
恥心を覚えている様子はない。そう、この子は体は思春期の少女だが、中身は幼稚園の子
供とそうかわらないのだと、シンは自分に言い聞かせた。
「君は、この街の子? 自分の名前はわかる?」
 背中合わせで暖を取りながら訊く。
「名前、ステラ。街、しらない」
「そっか、俺はシン」
 死を異常に恐怖するステラには、自分が軍人であると告げるのは今の状況を壊すだけだ
と思ったのだ。
「じゃ、いつもはだれといっしょなの? お父さん、お母さんは?」
「いっしょ、ネオ、スティング、アウル。お父さん、お母さん、知らない」
 両親がいないということには、思ったよりクールだった。前大戦の孤児ではなく、それ
以前になにかあったのだろうか。まあ、あまり踏み込むのもよくない。ただでさえシンは
この少女の無垢な心と菫色の瞳に魅了されているのだから。守らなければならない、そう
シンが心に描いていた像がそのまま顕れたかのように。
 ただ、気になることもある。我ながらすけべだと思うが、さっき掴んでしまったステラ
の胸の感触に覚えがあるのだ。それはすべてが始まった日、アーモリーワンで最後の買い
物を済ませてミネルバに戻ろうとしていた時にぶつかった少女。運悪く彼女の右乳房を握
ってしまった。その感触が同じだと思える。そしてそのときの少女も金髪で白いドレスを
着ていた。
「ステラ、アーモリーワンって、知ってる?」
「あーもりーわん??」
「うん、宇宙のコロニー」
「宇宙。真っ暗……お月様、でこぼこ。大きな青い星、知ってる」
「うん、そうだね、よく知ってるね」
 これだけでは、ステラが実際に宇宙に出た経験があるか、わからない。子供レベルでも
持っているイメージだ。
「俺は、その宇宙から来たんだ。生まれ育ちは地球だけど、コーディネーターだからね」 シンの声は少し寂しげだった。いまのところデラシネ生活というのも大きい。
 しかしステラは、ぴっと体を硬くした。
「コーディネーター、きらい」
 これまでステラが喋った言葉の中で、一番意思を感じさせる言葉だった。このあたりは
今は親ザフト――というより反大西洋連邦――に傾いているが、もともとプラント理事国
である。コーディネーター嫌いの教育を受けていたとしても、おかしなことではない。
 ただこれは理性が告げることで、実のところ、シンの心は傷ついていた。
 でもステラは逃げない。これだけで今は十分だと自分に言い聞かせた。
 お互いの背中のぬくもりを感じる距離にいるのだから。
 こうして二人で火を見ているだけで、幸せな気分になれる。人類の祖先がアフリカから
出て世界に散っていった時、彼らには発達した言語はなかったがお互いの表情を読んだり
空気を感じたりすることには、今の自分たちより長けていたに違いないとシンは思った。「……もうすぐ助けが来るから、安心して、ステラ」
「うん」
 ステラは立ち上がると、乾かしている彼女のドレスのポケットを探った。そして白い手
をシンに差し出す。そこには艶々とした桜貝が乗っていた。
「シン、あげる」
 さっきはコーディネーター嫌いと言ったが、そう強い感情ではないのか、ひとつの感情
を長時間持っていられないのか。まあわからないが、壁は消えた。コーディネーター嫌い
の彼女が、あの日アーモリーワンにいたはずもない。
「ありがとう」
 シンの掌に、ステラの白い指が大事そうに桜貝をのせる。彼も子供のころ、家の近くの
ビーチで沢山貝を拾って遊んだ。死んだマユも貝拾いが好きで、特に桜貝は好きだった。
南洋のオーブにはもっと大きくて派手な色合いの貝が一杯あったが、「わたしはこれが一
番好き。だって可愛いじゃない」といっていたおしゃまな妹。思い出して、シンの目が潤
む。
「シン、泣いてる?」
 ステラはパンツ一枚のハダカのまま、シンの横に座って彼の首を抱いてくれた。
 どれくらいそうしていただろう。シンは人肌のぬくもりに癒されるという経験と、ちょ
っと目を横にそらすとほとんど裸の女の子がいてという、16歳の少年にはなかなか辛い経
験をした。
 エンジン音に気がついたのは、シンが早かった。
「助けが来たよ、ステラ。まだ乾いてないけど、服を着て」
 この意味はわかったようで、ステラは乾きかけのドレスを着た。シンも半乾きのシャツ
に袖を通す。
「待ってて、ステラ」
 洞窟の外に駆け出していくシンに、ステラは頷いた。
 シンが見たのは、浩々とライトを付けたボートだった。
「休暇中にエマージェンシーなんて、なにやってるのよ、あんたは」
 ルナマリアの説教が飛んでくる。
「大体、なんでこんなところで遭難してるの? 泳ぎ、得意でしょ」
「遭難したわけじゃなくて、海に落ちた泳げない女の子を助けたんだよ。とにかく、ゴム
ボート出して、ルナマリア」
 洞窟の中に戻って、火の始末をし、ステラの手を握って導く。強い光にステラはまぶし
そうに目をしかめたが、救護用の毛布を受け取ると嬉しそうに体に巻きつけた。
 ゴムボートに乗って上陸できる岸辺に上がると、道路にはザフトのジープが待機してい
た。
 船から下りたルナマリアが訊く
「その子、ディオキアの街の子?」
「わからない。知的障害があるみたいで、両親はいないらしい。わかってるのは、名前が
ステラっていうことだけ」
「じゃ、基地に連れて行って、詳しく身元を調べるしかないわね。あんた、その頬の引っ
かき傷、何? まさか、あの女の子にいやらしいことしようとしたんじゃないでしょうね」
「そんなこと。助ける時にもみ合いになって、たまたま、怪我したんだ」
「……いちおう、信用はするけどね」
 ルナマリアにしても、シンが弱者に暴力、それも性的暴力をふるうような人間でないと
知っている。彼は自分より立場が上の人間になら、不満があればなんでもぶつけるが、弱
者は守られるべきだという堅い信念の持ち主だ。
 人命救助はいいことだが、身元のわからないナチュラルを基地に連れ帰るのはルナマリ
アにしては本意ではない。ただ地元民に好かれるザフトのイメージは大切にしないといけ
ない。
「とにかく、基地に帰って調べましょう」
 ルナマリアはこう言ってから、毛布にくるまったままのステラに声を掛けた。
「あなたの保護者は私たちがみつけるから、安心して」
 ステラはにこりと微笑をルナマリアに向けた。

 

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