「じゃあね、おやすみシン」
少女はパラパラと解けていく、出来の悪いホラー映画のような光景を前に、シンは問いかけた。
「君の、君の名前を教えてくれ!」
「…………喪失してるのよ。私は何なのかしら? 人でなく書でもない。
誰に生み出されたのか、誰に記されたのか、目的はある……筈なのに内容を思い出せない。
霞のように虚ろなのよ今の私は。
悪いけどしばらく眠るわ。貴方の魔力で回復を図るから、余程のことが無い限り起こさないでね。もしも貴方が私を必要とするなら、強く念じなさい。
何時如何なる時も私は貴方の手に収まるから、それが契約よ」
捲し立てるように少女は告げると、肉から書、血、霧となって消えた。残ったのは濃い血の匂いだけだった。
「オレ、おかしくなったのかな」
頬をつねってみる、痛かった。夢じゃない。残念なことに夢じゃない。
「貴方が強く念じるならば、か」
物は試しと、先ほどの少女をイメージしてみる。
10秒、20秒、30秒
「ダメじゃないか!」
嘘をついたのだろうか、いや大怪我を負っていたから出てこれないのかもしれない。
「オレ、どうしたらいいんだろう」
カウンセラーに話してみようか、いや、せっかくトップテンに入れる成績を残しているのにそんなことをしたら道を絶たれるかもしれない。
真剣じゃなくてもいいから、こんなほら話を最後まで聞いてくれそうな友人は、ルナマリアは没、ヴィーノ没、ヨウラン論外、メイリン怖がる、その他没、レイ……未知数。
「明日、レイに相談してみるか……精神科行けって言われるだけかな」
寮の食事をシンは摂らなかった、多分食べた瞬間口に血の匂いがいっぱいに広がるだろうと感じたからだ。結局就寝時間まで運動場でスクワットや腕立て伏せ、自室でテキストの予習などで時間を潰した。他人の声が聞こえるのがこんなに嬉しかった事はない。
夜になると同室のルームメイトが帰ってきた。軍隊の寮生活が個室になる筈もないので、プライバシーなどというものはない。もしもあの少女が他人に見つかっていたら大事だったなと変なことで安堵するシンだった。
そして、消灯、就寝。
闇が部屋を充たした途端、シンは震えだした。
今日の悪夢が闇と共にフラッシュバックしてきたのだ。闇が怖い。怖くてたまらない。
ルームメイトの衣擦れにさえ恐怖を感じる。どうしようトイレなら明るいかもしれない。
馬鹿野郎、プラント軍人が夜が怖いなんてばれたらどうするんだ。
自身を叱咤し、布団をかぶって恐怖に耐えた。
時間の進みは遅く、震えは収まりそうもなかった。
他人の持っている置時計の音が気になって仕方ない。
カチカチカチカチカチカチカチカチ
否応もなしにあの時計と宇宙と階段の世界を思い出させる。
くそ、止めてくれ、叫びだしたい。
カチカチカチカチカチカチカチカチ
気づけば、うるさいのは時計ではなく自分の歯が打ち合う音だった。
震えを抑えようと自身を鼓舞すれど、湧き上がる恐怖はとまらない。
誰か助けてくれ、怖いんだ、怖くて仕方ないんだ。
シンは願った、この恐怖を止めてくれるものを。
暗黒の中震える、情けない自分を叱咤してくれるものを。
携帯電話の妹に頼るのは兄の矜持が許さなかった。第一効かないだろう。
シンは歯を食いしばり、布団の中で丸まって夜に耐えた。
───気がつけば、シンは大きな本を抱きしめていた。
「いつの間に」
暗闇で本が読めるわけもないが、本を持っているだけで不思議と恐怖を感じなくなった自分に気が付いた。
「守ってくれてるのか?」
シンは不気味な紅い本を抱きしめたまま、ようやく眠りに就くことができた。
つづく
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