運命のカケラ_20話

Last-modified: 2009-01-03 (土) 09:49:37

 家の前に、軽快なエンジン音がやってきて止まる。アリサかすずかがやってきたのだろう。
 ばたばたと慌てて準備をしていながらも期待感に輝いているなのはの顔を覗き見ると、シンは小さく微笑みながらバッグのジッパーを牙に引っ掛けて閉じた。
 
 

 

 よく晴れた、連休初日の空の下。折り重なる峠道を2台の自動車がゆったりと登っていく。前を走るのは青い3列シート型のハッチバック、続くのは薄紫をした一般的な4ドアセダンだ。
 ハッチバックには高町夫婦と子供グループ3人に美由希。セダンには恭也と月村忍、そしてメイド二人。士郎と忍が運転する二台にそれぞれ分乗した一行は、山の上にある温泉宿を目指していた。
 なのはの膝の上に後ろ足を乗せた格好で窓から身体を乗り出しているシンは、前から吹き付ける森の風に目を細める。
 植物も元気に活動しているこの時期は森の香りが濃い。わずかに湿り気を含んだ土、活発に呼吸を繰り返す木々の葉、そしてわずかに混じる小動物。そういった香りをひとつひとつ選り分けたり物音に聞き耳をたてたりしながら、シンは頭の中で記憶を転がしていた。
 ちらりと視線を落とした先は、今は包帯も取れているなのはの手首。軽い打ち身程度とはいえガードし切れなかった、という事実がずっと頭の上にのしかかったまま消えない。
 その時のなのはがすぐに起きてくれた分、周囲に余計な疑いや心配をされずに済んだのは不幸中の幸いだが。
 ほとんど反撃の機会も与えられずに倒されたなのはをさほどの脅威でもないと見たのか、金髪と黒いバリアジャケットを持ったあの少女はそれ以上攻撃しようともせず、ジュエルシードを封印し回収していった。
 気絶したなのはを背後に、巨大猫を挟んで遠く前方に少女という位置関係では、シンは封印の一部始終を眺めているしかなかった。妨害に動こうとすれば、どうしてもなのはが無防備になってしまう。
 だが、得られた情報は役立つかどうかはともかく貴重なものではあった。『この時代の』魔法の使い手との直接接触は、何の情報もないよりは格段に参考になる。まず、もっとも気になる言葉がひとつ。

 

――管理局。あの金髪ガキはそう言ってたな。

 

 言葉の意味をそのまま解釈すれば、何か、おそらく魔法関係の人間や技術を管理するための集団なのだろう。問題なのは、それが『どちら側』なのかということだ。
 穏やかな管理なのか、強制的な管理なのか。はたまた多数派なのか少数派なのか。子供――あの瞳と髪の色は、苦手だ――を戦地に差し向けるような連中はそもそも気に入らないが、さりとてそれが敵対しているからといって自動的にまともな連中だ、などとは考えられるわけがない。

 

――と言うか、そんな分類じゃあまともな組織なんてほとんどありえない、か。

 

 どこも同じだ。宇宙に浮かぶ砂時計も、青い光をたたえる大地も。子供を最前線に送り込み、送り込まれた子供は全てを与えられた正義に委ね、嬉々として戦う。余裕がないから。戦いで大人が足りなくなるから、皆が生き残るために手段を選んでいられない、そう理由をつけて人格も形成しきってない子供が戦いを『選ばされる』。
 そしてその戦いを始めるのも終わらせるのも、戦わされる子供ではなく奥に引っ込んで会議テーブルを囲んでいる大人なのだ。
 戦争はそういうものだと、理解はしている。大義を通すため、国を有利にするため、敵国を倒すため。そう言って『数字』を切り捨てられる人間でなければ、大きくなりすぎた軍隊という組織は動かせない。
 それが嫌だった。守るために戦おうとしていたのに、能力主義を掲げる宇宙に上がった自分にできたのは、上に従って動く『戦争』をすることだけだった。
 それでいいと思っていた。結果的に数を減らせるなら、それが守ることになると思っていた。だが自分の手は小さすぎて、腕は短すぎて。数字を守れたと誰かに告げられても、目の前の存在はどんどんと指の間をこぼれていってしまう。それがどうしようもなく辛くて。
 ……だから自分は、人としてあり続けることを諦めたのだ。守れずとも戦い続ける、それだけでいい、その為であればいいと諦めたのだ。
 あの接触から一週間。ジュエルシードの探索も成果はなく、なのはも魔法の練習では精彩を欠いていた。今更バインドの魔力制御を失敗して弾けさせるのも相当なものだ。
 だがそうなるのも無理もない、と言うところだろうか。
 『ああいったこと』はシンが担当すべきだった部分なのに、なのはにやらせてしまった。それも単にドジを踏んだだけではない。自分がしくじって攻撃を受け、自分の予測の甘さがあの状況を呼び込んでしまったのだ。
 せめてこれ以上なのはを『こちら側』に来させないようにするしかない。多少なのはに魔力的負担をかけてもやるしかない、だろうか。

 

「ほらほらすずか、すっごい緑!」
「うん! こんなところにあの子たち連れてきたら喜ぶかなぁ――」
<シン君>
<ぁ?>

 

 呼びかけられると同時に頭に置かれた重み。2、3度瞬きして振り仰いだ視線を、藍色の瞳が妙に優しげに見返していた。
 窓から吹き込む風に流れる髪を押さえながらなのはは片手でシンの頭を包み、尖った耳をこりこりといじっている。

 

<ああ。どうした、なのは?>
<私に休めって言ったのに、シン君難しい顔してる>

 

 表情。確かに普通の動物よりは表情があるかも知れないが、構造的にそれほどわかりやすいものだっただろうか?
 何度となく感じたなのはの鋭さに対する意味のない悔しさというか面白くなさに任せて、シンはふんと鼻を鳴らした。

 

<俺は良いんだよ。なのはと違って余裕があるからな>
<えー>
<自己診断システムは客観的に自分を見られるんです。なのはとは違うんです>
<えー!>

 

 うそだー、等と口にしてアリサ達に妙な顔を向けられているなのはを声を出さずに笑いながら、シンはまあいいかと思考を打ち切った。なのはのバイタルサインも今は安定している。精神的な問題の根本的解決にはならないだろうが、多少なりともいい影響にはなるだろう。

 

<天気も良さそうだし、ゆっくりできそうだな>
<うん!>

 

 
 
「……ふぅ」

 

 かぽん、と近くで鹿威しの音が鳴り、鳥の声や風になびく葉音が一瞬覆われる。雑多な音とシンプルな一音が交互に空間を満たすリズムに身体を任せながら、シンは誰もいない畳敷きの客室に寝転がって大きく息をついた。
 一緒に入ろうと無邪気かつ物理的手段で誘ってくるなのは達へ必死に抵抗し、士郎や桃子は楽しげにそれを見ているという喧騒の過ぎ去った部屋は、今はシン以外に誰もいない。
 いわゆる和風なものにそれほど深いこだわりはないはずなのに畳に転がるとやけに気持ちいいのは、やはり長い期間をかけて洗練されてきた、優れた構造ということなのだろう。
 シンの鼻でようやくわかるだろうという程度のイグサの匂いが残る畳。重々しい黒茶色に塗られた座卓。その上にお約束のように乗っているポットと急須、それと茶菓子。あえて表面を荒らし、独特の縞模様をつけた漆喰の壁。それらを順繰りに血色の視線がなぞっていく。
 それなりに段階を踏んだ技術でありながらこれだけ多様な植物由来のものに囲まれた空間というのは、シンの目にもなかなか珍しく映った。構成物の割合として匹敵するのはログハウスやもっと原始的な住居だろうが、それらにしても材料活用の幅はもっと狭い。そして何より、そんな『高級な』空間に自分のような動物がいてもいいというのだから驚きだ。
 ペット同伴が可能な宿が少ない故に客のマナーも問題にされる中、客そのものが自然に絞られる程度に高級なこの宿は貴重な存在だ。ガチガチにルールを固めず、さりとて客もマナーを忘れない。そんなバランスの取れた状態はそうそう見られないだろう。

 

「ん?」

 

 そんな安らいだ空間だからこそ、その小さなゆらぎに気づいたと言うべきか。
 ジュエルシードのものとは明らかに違う上に規模も小さい、それでもはっきり魔力で出来ているとわかる波が、一度だけ山のほうから発されて地表を撫でていったのだ。
 規模はさほどでもない。ジュエルシードの固有パターンとも違う。だがこれはつい最近――

 

<シン君>

 

 演算能力をそちらに傾けようとした矢先だったからか、響いた『声』に、シンは即座に答えを返すことができなかった。けふ、と意味もなく咳払いをして頭を上げる。

 

<……どうした?>

 

 少しだけ遅れはしたが不自然な反応ではない、はずだ。生きていた頃に比べれば、ずいぶんとマシな隠し方ができるようになった。
 知性を持ちながら感情を持たない、そんな部分が自分の内側にあるのだから、それをそっくりそのまま外側に出せばいいだけのことだ。

 

<ごめん、シャンプー忘れちゃった。こっちまで持ってきてくれない?>

 

 だから伝わってきた内容を理解した瞬間、あまりの下らなさに噴出してしまう。こちらが割と真剣な懸念を抱えたままだというのに、無邪気なものだ。来る最中のあの憂鬱な表情はどこにいったというのだろうか。

 

――なんだかな。どっちが下らないんだか。

 

 そう、くだらないと言えばくだらないのだ。今まで転がしていた考えの答えは最初から決まっているのだから。自分が決められるのは『それが必要かどうか』、それだけだ。

 

<ったく、しょうがないな>
<にはは、ごめんごめん>

 

 シャンプーの容器はすぐに見つかった。シンがなのはの代わりにカバンに詰めたのだから当然だ。旅行用という事でかなり小さいのは、くわえて運ぶしかないイヌ科の身体には助かった。
 鼻先で引き戸を開いて、カーペットの敷かれた廊下をこそこそ歩きながら記録した見取り図を呼び出す。待ち時間ほぼゼロで最短経路を確認。流石にペット可とはいえ、堂々と一人歩きするわけにはいかない。廊下の隅をできるだけ静かに、そして素早く走る。
 こういうときは確かに小さい方がいいのかも知れないと思いつつ駆けていくと、暖簾から顔だけを突き出しているなのはが見えた。

 

「あ、シン君!」

 

 駆け寄ってシャンプーを渡すと、なのははにこにこと笑いながらありがと、と頭を撫でてきた。いい加減犬扱いにも慣れているシンは軽く頷いたが、ふと違和感を感じて動きを止めた。撫でられるのはいい、だがやけに長く撫でられているような。
 瞬間。

 

「シーン、ゲーットォ!」
「!?」

 

 真上から落ちるような勢いで降りてきた楽しげな声と掌に、胴体をがっしりと押さえつけられた。そのままぶんがとばかりの勢いで持ち上げられた視界の高さで揺れるのは、実に楽しげななのはの笑顔と突きつけられた人差し指。

 

「あははっ! シン君ひっかかったー!」
<なん……だと……!?>
「いや本当になのはが呼ぶと来るのねー。どんだけ耳いいのかしら」
「うん、凄くいい子だよね。もう、ずーっとなのはちゃんと一緒にいたみたい」

 

 顔の高さを通り越して更に高く掲げられた下には、長い金髪に覆われた頭頂部。しまった、と内心で顔をしかめる。リラックスしろとは言ったが、なのはがここまで弾ける可能性は考えていなかった。おまけにいつもはブレーキ役になるすずかすら腹を抱えて笑っている。
 脳のどこかにある笑い袋がはじけた様な勢いで笑いまくりながら服を脱いでいくなのは達に、シンはぐったりと身を任せるしかなかった。玩具扱いは好きではないが、流石にここまで楽しげにしているのを無碍にはできない。多少は付き合うのも仕方ないだろう、が。それでもセーブ役は欲しいところだった。
 そんなに笑ってると腹筋が筋肉痛になるぞという負け惜しみは腹の中に飲み込みつつ薄い望みをかけて、一足先に服を脱いでいたらしい忍や美由希といった年長組を見やる。そして即座に悟った。駄目だこりゃ。

 

――ああ、やっぱ胸ってすげぇ形が変わるもんだよなあ。

 

 なのはが上着を脱げばアリサへ。アリサが髪を解いてまとめなおせばすずかへ。そしてすずかがスリップを脱げばまたなのはへ。左右へ高速で往復パスされながら、シンは達観した目で更衣室で跳ね回る『果実』を眺めた。
 ブラジャーというのはある程度胸を保持するものである事は知っている。だから忍が黒い下着のホックを外した途端にゆさり、とそれが揺れながら隠していた量感をさらけ出すのも大して驚きはない。もちろん何の感慨もわかないというわけではない。様々な形態の『雌』を見てきたが、数ある造形美の中でも人間女性の身体の美しさはシンにとってずっと変わらず最上級のものだ。それらを見る気恥ずかしさなどはあれど、それでのぼせる段階はとうに過ぎ去ってしまっただけの話である。
 美由希の背後からアリサが飛びつく。手ブラ。手でブラジャー。素肌を晒した女性の胸部を自分で、もしくは背後から伸ばした他人が手で包み込むように隠した状態。見ればわかるように本質的に着衣ではないために、胸部を隠すという『ブラ』の意味はずいぶんと捻じ曲げられている。
 しかもその手をわきわきと動かすのだから、手ブラを『された側』はもはやされるがままだ。たっぷりとした量感、そしてさほど強くない力にも自在に反応する柔らかさを保ちつつもその力が抜かれれば即座に形を取り戻す健康的な張り。硬さではなく弾力で形を保持しているが故の自由度は素晴らしいものである。
 短い腕を伸ばして美由希にくっついているアリサの胴体前面と美由紀の背中の密着具合、そしてつかまれている美由紀の胸部サイズを比べれば、わずか10年弱程度の差が驚くべき体積差を生んでいるのはまさに神秘と言わざるを得ない。
 そして体積では比べようもないとはいえ、今現在シンを胸元に抱きかかえているすずかや、アリサになのはと言った年少組――幼い少女の身体はそれはそれで素晴らしい造形だ。
 あらゆる意味で起伏の少ない、流れるような曲線で構成された輪郭線。透明感と血色が極めて微妙なバランスを保つ肌の色。水をかければ玉になって弾きそうな、つるりとした肌の感触は毛皮ごしでもわかる。
 ふくよかさより細さが際立つ四肢、薄く肋骨の浮き出た上腹。美由希たちを更に上回る、ともすれば硬さといえそうな弾力を見せる未成熟な造形はとてつもなく庇護欲と背徳感を――背徳感。背徳感か。つまり自分は。

 

<なあ、なのは。俺やっぱり――>
「おっ風呂お風呂、今度は一緒に温泉でお風呂ーっシン君も入水ーっ」
<…………>

 

 そりゃ自殺方法だ、というかどこで覚えたそんな言葉と突っ込む事すら面倒臭くなり、シンはぐにゃりとしたままなのはに掴まれて頭の上に乗せられた。
 

 

「さーて、いっくわよーっ!」

 

 タオルを身体に巻いたアリサが勢いよく両手で木製の引き戸を開くと、濃い湯気がもわりと流れ出してきた。
 まず目に入るのは、森に面した大窓の景色。建物と地面の高さに差がついているせいでちょうど眼下に森が広がる形になっており、いつもより空の割合が多い景色が開放感を感じさせる。その大窓に面した浴槽は薄く緑色に染まった湯がさぱさぱと波立ち、石を模した模様のタイルが敷き詰められた床のそこかしこに溢れた湯が細い川を作っている。
 床以外はほとんど、それこそ浴槽から洗い場の台まで木材を使っている辺りが珍しいといえば珍しい。

 

「おぉーう! ファンタスティック!」
「すごーい、広い!」

 

 テンション高止まりのアリサだけでなくすずかも笑っていた時のテンションを引き継いでいるらしく珍しい大声を上げ、二人と同じくなのはもやはり目を輝かせた。
 
「すごいね、美由希ちゃん」
「本当ですー」
「お姉ちゃん、背中流してあげるね」
「あ、私も!」

 

 忍に向かったすずかに続いてなのはも美由希に声をかける。なのはの胸元でぐにゃりとしたままこれで洗いっこの間は休めるか、と期待した途端。唐突に横から伸びてきた手によって、シンの身体はなのはの腕の中から引っこ抜かれた。

 

「あ」
<ぉぉ!?>

 

 猫の子あたりと勘違いしているような首掴みでシンをぶら下げたのはアリサの手だ。
 高い位置で髪をまとめなおしたアリサはシンが逃げられないようがっちりと掴み、にゅふふと猫のような口で笑う。
 その表情と異様な目の輝きを見上げた瞬間、シンは数週間前に感じたものと似たような悪寒を覚えた。
 そう、あれだ。向こうはこちらを動物としか認識していない。だが自分は人間をベースにしたAIであり、自意識の構造もそれに準じている。その認識のズレが引き起こすある意味での悲劇、その予感。更に言えばそれは恐らく不可避なもので。

 

「さーあシン、あんたは私が洗ってあげるからねぇ……す、み、ず、み、までっ!」
<ちょ、おい……うぉ!? な、なのは! 俺はいいって言ってくれ!>
「あははっ! シン君良かったねー! あはははは!」

 

 アリサのぎらついた目に気づいているのかいないのか、なのははひたすら楽しげに笑いながら美由希の背中を押していった。
 助けを求めようと中途半端に突き出した前足をひくつかせ、目元に濃い影を落としたシンは誰の助けもなくアリサに連行されていく。
 洗い場の鏡に映るアリサは、とてつもなく念入りにボディソープを泡立てていた。ひょいと身体を裏返しにされ、仰向けになった腹の下に位置する『その部分』にアリサの視線が一片の躊躇もなく突き刺さる。掲げられたスポンジに食い込んだ指の一本一本が、まるで別個の生き物のようにうごめいた。

 

<こら身体をひっくり返すな覗き込むな! お兄さん許しませんよ! ってあっ、ちょ、触るな、触るなってそこだけは! ギャアアアアアやめろぉおおおお! お……おお……ぁ、ぅ、あぁぅあぁあぁぁ>
「おー、お姉ちゃんも肌きれーい!」
「ふふ、ありがと。なのは」

 

 遥か古代から戦い続けていた歴戦の『武具』がまたひとつ尊厳を破棄させられる悲鳴は、悲しいことに幼い主にすら聞き流されていた。
 
 

 

 旅館から程近い森の遊歩道。さぱさぱと流れる小川の水面が、しゃがみこむ桃子とそばに立つ士郎を映し出した。

 

「はぁ……いいわね、こういう休日は」
「ああ、そうだな」

 

 覗き込んでいた上体を起こして笑う桃子に、士郎も静かに笑い返す。

 

「お店も少しは若い子たちに任せておけるようになったし」
「子供達も、実に元気だし」
「それに――」

 

 交互に現状を口にしながら、桃子は士郎の顔を見上げた。ようやく、と言った色をにじませる視線に、士郎も目じりを緩めて顔を見合わせた。

 

「――あなたも」

 

 その言葉が意味するところをよく理解しているだけに、士郎はやや困った笑みを浮かべるしかなかった。

 

「……ああ、そうだな」

 

 実際、今の士郎は元気そのものだ。普通に出歩き、普通に働くことができる。それが当然ではないと昔から知ってはいたが、知っていたからといってどうにもならないことも、またあるものだ。

 

「結構、時間かかったもんな」

 

 指を広げた手のひらを顔の前に上げる。表も裏も大小の傷痕だらけだ。だが、傷『痕』だ。今受けた『傷』ではない。

 

「もう桃子や子供達に心配をかけるようなことはないさ。俺はこれからはずっと、翠屋の店長だからな」
「……ありがとう、あなた」

 

 そう口にして肩に寄りかかってきた桃子を、士郎は無言で抱き寄せた。
 

 

 
「どうぞ」
「……ああ、ありがとう」

 

 湯のみをテーブルに置いてからようやく気づいたように顔を上げた恭也に、ノエルはくすりと笑いを零した。
 普段は引き締まった表情をしているのに、今さっきのような『そういうとき』にぼやっとした顔になっているだけで良く言えば親しみやすい、悪く言えばどこか間の抜けた印象になるのは偏見だろうか。
 その笑いをどう解釈したのか、しかし、と恭也は首を傾けた。

 

「ノエルも今日は仕事じゃないんだから、のんびりしていいんだぞ?」
「はい、のんびりさせていただいていますよ」
「そう、か?」
「はい」

 

 あいまいに頷いてまた心を誰かの、自分も良く知っている誰かのところに飛ばし始めた恭也が無造作に湯のみ――淹れたばかりの熱々のお茶がたっぷりの湯飲み――を掴んで口元に持っていくのを、ノエルはあえて止めなかった。

 

「っ!?」
「女性はお風呂が長いものですから。気を揉んであっつーいお茶を飲んでしまっても仕方ありませんよ?」

 

 言われたとおりに『のんびり』注意したノエルは、恨めしげな恭也の視線に先ほどの3割り増しの微笑を返した。
 

 

「気持ちよかったねー」
「ねね、みんなで卓球しない?」
「卓球? んー、私はお土産みたかったんだけどなー。すずかちゃんは?」
<もー、シン君どしたの?>
<お前が……お前がソレを……!>

 

 これからどう過ごすかで盛り上がるすずかやアリサと同じように風呂上りの頬を紅潮させたなのはは、頭の上で毛皮の帽子のようになっているシンから送られてくる恨みの篭った『声』に小さく首をかしげた。動きに合わせて後頭部に垂れ下がっているシンの尾もぷらん、と揺れる。

 

「私は……特にないかな」
「じゃあどっちにしよっか?」
「あ、じゃんけんとかどうかな?」
<えー? 私なんにも――>
「――っと」

 

 目線を上に上げ、シンのひげをいじりながら3人の先頭を歩いていたなのはは、唐突に目の前に出現した2つの球体にぶつかりそうになって足を止めた。途端、視界の両端でぶらぶら揺れていたシンの前脚がぴたりと止まる。
 ゆさり、と慣性たっぷりに揺れるその物体が浴衣に包まれた女性の胸だと気づくのに、なのはは数瞬を要した。

 

「あ、ごめんなさい」
「……ふぅん?」

 

 疑問形の吐息を漏らして女性が前かがみになると、ちょうど目の前の位置で深い谷間が強調される。おぅ、となんとなく圧倒されるなのはと何事かと見ているすずかやアリサを他所に、その谷間の持ち主である赤毛の女性は興味深げになのはの顔を覗き込んでいた。
 外国人なのだろうか。青い瞳と額にある石のようなアクセサリーが日の光を弾いているのが印象的だが、少なくともなのはには顔を覗き込まれるような覚えはない。

 

<……いい加減近いんだよテメェ。そこまで嗅覚と視覚が退化してんのか?>
「君かね、うちの子をあれしてくれちゃってるのは?」
<あら、ばれちゃった? しっかし口が悪い上になんか鉄みたいな変なニオイするねえ、それがあんたの使い魔?>
「あんま賢そうにも強そうでもないし、ただのガキンチョに見えるんだけどねえ」

 

 わざとらしい口調。警戒心をあらわにしながら力の篭るシンの身体。ちり、とシンの体内に魔力が循環し始めたのが髪の毛ごしに伝わってくると同時に、なのはは女性の言葉に思い当たった。女性と顔を見合わせたまま何を言うべきなのか考えていると、アリサが横からずいと顔を突き出した。
 そのままなのはと女性の間に割り込んだアリサは体格差にひるむこともなく、更に一歩踏み込む。

 

「なのは、お知り合い?」
「ん、ううん」

 

 なのはが首を横に振ったのを横目で確認した途端、アリサは戦闘態勢のボクサーのように両腕を胸元に引き付けて女性のほうへ向き直った。

 

「この子あなたを知らないそうですが、どちらさまですかっ!」

 

 アリサに女性が目を向けた瞬間、なのはの前髪がふわりと浮いた。
 なのはの額中央、うつむき加減になったシンの口元に風が集まっている。場所を考えているのかいないのか、目に見えるほどではないがそれでも無防備に受ければただでは済まないであろう威力の衝撃波がいつでも放てる体勢で、シンは女性を注視していた。

 

「……シン君」
「くふ、あ、はははははは!」

 

 極端とも言える行動に戸惑うなのはと変わらずにらみ続けるアリサの視線、更に敵意の篭ったシンの視線を一身に受けていた女性が突然笑い出し、なのはとアリサは想像もしていなかった反応に呆気にとられた。
 しばらく笑い続けた女性はごめんごめん、と手を振って頭を掻く。

 

「人違いかな。知ってる子によく似てたからさー。かわいいペットだねー、なでなでー」

 

 ぬぅ、と納得していなさそうなアリサの肩越しに女性が手を伸ばすと、撫でられたシンの毛がぞわりと逆立った。
 静電気のように髪の毛が引き上げられたのを感じて両手で慌ててシンの口を押さえると、なのはの頭に再び女性の『声』が響く。

 

<ま、今のところはあいさつだけね>

 

 口元から獣のような犬歯が覗くと同時に混じった攻撃的な響きに、なのはは無意識に一歩後ずさった。それを見て嘲笑の色を浮かべた女性の『声』が続く。

 

<忠告しとくよ? 子供はいい子にしてお家で遊んでなさいね。おいたが過ぎると……がぶっと行くわよ?>
「あ……」
「――さって、もうひとっ風呂行ってこようっと」

 

 言われた言葉をなのはが処理しきれずにいるうちに、女性はやることは終わったとばかりに身を翻した。くびれた腰と肩越しに上げた手のひらを振りながら歩き去っていく。

 

「なのはちゃん、大丈夫?」
「何よ、あれ! 昼間っから酔っ払ってるんじゃないの!?」
「あ、はは、まあ。くつろぎ空間だし、いろんな人がいるよ」

 

 憤慨するアリサと心配するすずかに大丈夫だよと笑い返しながら、なのははシンの背を撫でた。
 圧縮していた空気を少しずつ逃がしながら、平板な『声』でシンがなのは、と話し出す。

 

<何故止める? あいつは明確に害意があった。それを何故?>
<でも、ここでなんて。それにあの人も本当に――>
<攻撃してきた魔道師と同一のグループ、恐らく共生存在。かつ情報の共有がなされている事が確定しているモノが敵でないと判断するに足る理由は?>
<それは……>
<――あ? あぁ、悪い>

 

 ふと我に返ったように謝るシンに、うぅんと首を振る。確かに、シンの言うことは間違いない。あえて考えずにいたが、敵であり対立するものなのだ、あの女性と、金髪の少女は。
 なら戦うしかない。少なくとも、こちらの話を聞いてくれなければ話し合いは成立しない。しかし、戦えば結果的に感情が――
 どうしてもその『思考の一歩』を踏み出すことができず、なのはは揺れる瞳で女性の消えた廊下を眺めていた。