運命のカケラ_21話

Last-modified: 2009-05-28 (木) 10:05:05

<何故止める? あいつは明確に害意があった。それを何故?>
<でも、ここでなんて。それにあの人も本当に――>
<攻撃してきた魔道師と同一のグループ、恐らく共生存在。かつ情報の共有がなされている
事が確定しているモノが敵でないと判断するに足る理由は?>
<それは……>
<――あ? あぁ、悪い>

 

 ふと我に返ったように謝るシンに、うぅんと首を振る。確かに、シンの言うことは間違いない。あえて考えずにいたが、敵であり対立するものなのだ、あの女性と、金髪の少女は。
 なら戦うしかない。少なくとも、こちらの話を聞いてくれなければ話し合いは成立しない。しかし、戦えば結果的に感情が――
 どうしてもその『思考の一歩』を踏み出すことができず、なのはは揺れる瞳で女性の消えた廊下を眺めていた。
 
 

 

 組み替えた脚の下で湯がざぱりと波を立てる。
 なのはたちをいじくった後、赤い髪の女性は一度あがった温泉に再び浸かっていた。とはいっても流石に肩までたっぷりではすぐにのぼせてしまう。下半身だけを湯に浸し、上半身は窓によりかからせた半身浴だ。
 汗の玉が肌に浮いては滑っていく肩にすくった湯をかけて流しながら、彼女はいつもどおりに『声』を紡いだ。

 

<あー、もしもしフェイト? こちらアルフ>

 

 波紋が広がり、森の一角で相手――金髪と赤い目を持つ自分の主、フェイトにぶつかったのを感じ取りながら、アルフは言葉を継いだ。

 

<ちょっと見てきたよ、例の白い子>
<そう。どうだった?>
<んー……ま、どってことないね。フェイトの敵じゃないよ>

 

 ちろりと頭をよぎるのは、魔道師の少女よりもむしろその頭の上に乗っていた使い魔のほうだ。自分と同族、なような違うような。あの時破裂寸前だった何かの魔法がそのまま開放されていたら――練り上げられた魔力の肌触りを思い出し、身体の芯が内側から熱を持ち始める。楽しい戦いは大歓迎だ。

 

<そう? こっちも少し進展。次のジュエルシードの位置が、だいぶ特定できてきた。今夜には捕獲できると思うよ>
<んーっ! ナイスだよフェイト、さすが私のご主人様!>
<ありがとう、アルフ。夜にまた落ち合おう>
<はぁーいっ>
「はぁ……くつろぎくつろぎ」

 

 会話を終えてアルフは再び身体を伸ばし――その耳が、ぴょこりと尖った三角形に膨らんだ。白い少女にくっついていた黒い獣と似たような形と毛並みをしたそれを、慌てて押さえる。

 

「おぉっとっと」

 

 気を緩めすぎたか、とアルフは一人で赤面すると、腰を滑らせてざばりと温泉に浸かりなおした。

 
 

 ぱたん、とふすまが閉じた音を確認して、姿勢よく布団におさまっていたなのはは目を開いた。
 闇に目が慣れてくるにつれ、襖の隙間から差し込んでくる明かりに照らされた天井が、はっきりと見えてくる。

 

<シン君、起きてる?>
<……あぁ>

 

 くたびれた『声』は、アリサにだいぶ弄られたせいだろう。視線を横へ向けると、小さな身体が今もアリサに『握られている』のが見えた。騒いでいる最中はひたすら楽しかったが、冷静になってみるとシンには少し悪いことをしたかも知れない。
 それきり、身をくねらせたシンがアリサの手の中から抜け出す間も、こちらへ歩いてきていつものように枕元で丸くなる間も、なのはは無言だった。
 シンも丸まったまま何も言わず、隣の部屋から隙間の明かりと一緒にかろうじて聞こえる程度に入ってくる大人たちの声と、すずかとアリサの寝息だけが部屋に流れては消えていく。
 ふすまの反対側、外向きの窓は障子が閉じられ、こちらも同じように透けた月明かりと隙間から差し込む月明かりが布団に細いコントラストを作っていた。
 しばらくそうしていたなのはがごそ、と身体を転がしてうつぶせになり、枕に顎を乗せると、シンの血の色をした瞳と正面から視線がぶつかった。
 何度も見た夢の光景、それ以外の様々な出来事に出会い、気が遠くなるほどの年月を実際に目にしてきたであろう血を固めた色をした眼球は、わずかな光を反射して暗闇の中でも明るく浮き上がっている。
 疑問の色すら浮かべず、ただ空虚に合わせられ続ける視線。巨大な地面の割れ目を見下ろしているような不安を覚えて、なのはは半ば自動的に『声』を紡いでいた。

 

<ね。昼間の女の人、さ。使い魔、って言ってたけど>
<ああ、そうか。説明してなかったな>

 

 かりかりと後ろ足で鼻先をかくシン。身体の硬いなのはからすれば想像もつかないような角度で胴体を曲げている。狼と人間、構造の違いと言ってしまえばそれまでだが器用なものだ。

 

<簡単に言えば魔力で動いてる生き物『みたいなもん』だよ。俺と似たようなもんだ>

 

 ははは、と襖の向こうから笑い声。大人組にとっては、夜はまだまだこれからなのだろう。
 そちらを向いていた血色の瞳が、瞬き一つを挟んでまたなのはの方へ戻ってきた。

 

<魔法を使って、術者の力を吸って生命を維持してる。そうして、普通は術者の命令に従って動くんだが>
<普通は、って?>
<性質の悪い連中は強制的に契約を『結ばせた』挙句、何も知らない契約主を身体まで丸ごと食っちまうのもいてな。<猟犬>とか……ありゃ凄いぞ?>
<うわぁ>

 

 疲れた半笑いの顔は、そういうモノと関わったことがあるからなのだろうか。とりあえず、そんなものの主人とやらにはなりたくはない。

 

<……昼間のあいつはまあ、普通さ。主人の為なら命だって投げ出すって目をしてやがった>
<お話は、できないかな>
<あの金髪ガキが首を縦に振らない限り無駄だろうよ。なあ、なのは>

 

――来た。

 

 聞きたくはない。答えたくもない。だが血色の視線はなのはを縛り付け、目をそらすことを許さない。子犬のような見た目に不釣合いなこと甚だしい視線と静かな言葉が、はぐらかすことは許さないと告げていた。

 

<金髪ガキのこともある。魔力もどうにかするし、もう――>
<それはだめ!>
<――どうしてだ?>

 

 即座に返され、口ごもる。元はといえば、自分は巻き込まれただけの存在だ。そして今はただ知らぬふりができないという義務感を持っている、はず――本当にそうなのだろうか?
 『そうしなければいけない』という理屈抜きの熱が頭から逃げていくと、残るのは無意味な焦りと後悔だけだった。何を間違えているのか、そもそも間違っているかもわからないままに、まるでシンの瞳が自分を責めているように見えてくる。

 

<私は、私が、やらないと>
<戦うだけなら俺がやる。全部、俺がケリをつける>

 

 それでも、と言いかけたなのはを見る瞳がすいと細められ、なのはの『声』は尻すぼみに小さくなっていった。顔も知らないたくさんの人たちを守る為に戦おうとするシンを振り回し、縛り付けるのは自分のわがままだ。それを通して一度失敗したのにまた同じ事をしようとして、それでシンは怒っているのだろうか。それとも、強がったことを言う割りにあの時のことを思い出すだけでまだ手が震えるような、そんな情けない様子にいらついているのかも知れない。
 シンの視線に込められているのが恐ろしく様々な感情であり、それを抑えた結果が怒りのような色だったことを理解するには、なのははまだ無垢過ぎた。

 

<ああそうだ、なのは。lillllil,iliilillililililii?>
<え?>
<lillllil,iliilillililililii?>

 

 ぶつ切りになった笛の音のような奇妙な音だけを聞かされて、なのはは聞き返す。更にもう一度言い直された『声』は、やはりまったく言葉の体を成していないただの音にしか聞こえなかった。

 

<大陸古語、って呼ばれてた言葉なんだけどな。俺が何を言ったかわからないだろ? ……俺が何を考えてたかも、『言葉じゃ』わからないだろ?>
<でも言葉って言ったって、今のそれは>
<同じだよ。何がどういう意味になるんだかわかりゃしない……白旗が『徹底的に戦う』なんて意味の時だってあったさ。言葉だの対話だの言ったって、そんなモンなんだよ。話をする前に殴り殺されるなんざザラだ。そんな『やるべき時』にタラタラ言葉なんて探してたら――自分達だって守れない>
<あの子みたいに話ができるなら――>
<……だからなあ。今まで封印してきた奴らが、言葉を絶対に理解してなかったって言えるか?>
<ぁ、え?>

 

 今まで封印してきた、ジュエルシードの暴走体だ。それが言葉を? にわかには理解できず、なのはは目をぱちくりさせた。
 どういうことだろう。言葉を使えても理解できない存在だ、とシンは――いや、そう言ったのは『あの時だけ』だ。その前は。その前は、どうだった?
 いくら記憶をさらっても、『その前』がどうだったか――何も、掴めない。
 沈黙したなのはの背筋を、膨れていく熱い焦燥とシンの冷えた硬質な『声』が這い上がる。

 

<何故あいつらを封印する前に話をしようとしなかった? 人間が襲われてたからか? 自分が襲われたからか?……俺が敵だと言ったから、か?>
「そんな、そんなこと言われても」

 

 『声』は直接なのはの脳に入り込み、何度も何度も頭蓋の内側で反響する。きつい声ではない。からかう声でもない。ただただ静かに何故、と響くだけの『声』に勝手に追い立てられているのは――他でもない、なのは自身の心だ。
 ぐるぐると回り続ける問い。出てこない答え。焦りだけがどんどんと溜まっていって。

 

<言っておくけどな、このまま『何も選ばない』ってならお前は資格が――>
「……うぇ、ひっく」

 

 ぽろりと目の端から熱い雫が垂れた。喉の奥が勝手にひくつき、浅いしゃっくりのように詰まった息を何度も吸い込み始める。
 シンは驚いたように硬直し、参ったなと眉をひそめて――瞬間、ざらりと世界が波打った。

 

「ぁ」
<こんな時に……!>

 
 

 木板で作られた橋の中ほどで、手すりに腰掛けるバリアジャケット姿のフェイトとそのすぐ脇によりかかるアルフは、川の中から立ち上る巨大な青い光の柱を眺めていた。

 

「ひゅぅ。凄いねありゃ」
「随分、不安定な状態だけどね」

 

 隠す必要がない今は、アルフは耳ばかりでなく尻尾まで外に『出して』いた。自然の雷や巨大な物体を見た時にも似た胸のうずきに、自然とふさふさした尻尾を揺らしてしまう。
 強大な魔力エネルギーの結晶体だとフェイトから話には聞いていたが、『漏れる』程度の出力でこれとは恐ろしい。これなら確かに、手に入れればフェイトの――フェイトの母親の『目的』に大きく近づける代物なのだろう。しかし。

 

「なんでアンタのお母さんは、あんなモンを欲しがるんだろうねぇ?」
「さあ……でも、理由は関係ないよ。母さんが欲しがってるんだから、手に入れないと」

 

 手すりに腰掛けたまま脚をぶらぶらさせていたフェイトは、アルフの問いに気のない返事を返しながら光と吹き上がる川の水を眺め続けていた。バリアジャケットの硬いシューズに覆われたつま先が何度か振り子軌道を描いた後、脚を少しだけ強く振り上げる。重力に引かれて落ちた金属質の踵と支柱がこつん、と音を立てた。

 

「じゃあ、始めようか」

 

 そう言うと、フェイトは座っていた手すりの上でひょいと立ち上がった。透けた桃色をした、極端に短いスカート部分をなびかせながら、手袋をはめた右手を顔の前に上げる。

 

「バルディッシュ、起きて」
[Yes,sir]

 

 ささやくような呼びかけに答えて、フェイトの手の甲、黒い布地に張り付いている金色の三角形をしたプレートが震えて、ばちんと黄色い光を空へ放った。一直線に飛んだ光がフェイトの頭上で丸く弾け、瞬きしてそれを見上げたフェイトの赤い瞳にくるくると回る黒い杖の姿が映りこんだ。
 差し出した手の中に吸い込まれるように降りてきたフェイトのデバイス――バルディッシュの先端になる斧状の部分が徐々に構成されていく。その中央でゆっくりと目を開いた、猫の瞳のような模様を持った宝玉がぎらりと光を反射した。

 

[Sealing mode]

 

 柄から硬質な光翼とうねる光膜を3つずつ発生させたバルディッシュの先端ががちりと首を伸ばし、飛び散った魔力光の粒子がフェイトの長い金髪やそれをまとめる黒いリボンに沿って流れては溶けていく。フェイトの先天的な資質の為に、フェイト本人の周囲の空間のあちこちで魔力由来の静電気が走り、すぐそばにいるアルフの耳も毛が少しだけ逆立った。

 

「封印するよ。アルフ、サポートして」
「へいへいっと」

 

 だらけた体勢をしていたアルフは主の声を受け、尻尾を揺らしながら上半身を起こす。それと同時に、フェイトがバルディッシュを突き出した。

 
 

「あ!」
<ちっ、意外と早かったな>

 

 ざきゅ、とシンの脚が地面を削る。手綱を引いてバリアジャケット姿の身体を支えたなのはが目にしたのは、振り向く金髪の少女と薄着の赤髪の女性、そして少女の手の中にある青い宝石だった。
 橋の手すりに腰掛けていた身体をぐるり、と振り向かせた女性は……やはり昼間に話しかけてきた女性だ。昼間は浴衣だった服装はホットパンツと小さなシャツという薄着と短いケープに変わり、ついでにちらちらと目に入るのは、頭の上と身体の後ろで揺れる耳と尻尾。人間のようで人間でない姿をしたその女性が、にやりと唇を吊り上げた。

 

「あーらあらあらあら。子供はいい子にしてな、って言わなかったかい?」
「……ジュエルシードを、どうする気なんですか?」
「さぁね? 答える理由が見当たらないよ」

 

 取り付く島もない回答。言葉は通じても、心が通じない相手。
 シンに言われずとも、そんなものがあることはとっくに知っていた。だが、自分が知っていたのはそれでも最後には心が通じてくれる場合だけだ。『この前』まではそれで上手く行ってしまっていた。通じずに行き着く先をその時、ようやく言葉ではなく自分の手で知って――
 また無意識に滑り落ちかけていたレイジングハートの外装を、なのはは震え始めた手で握りなおした。
 自分がまたがっている首、その先の頭を見下ろす。いつも通りぶれもせずに橋の上の二人を見据えている黒い頭は、やはりいつも通りにやる事は決まっていると言わんばかりだった。
 ちらりと向けられた血色の視線に頷きを返し、ゆっくりとシンの背中から降りる。
 それだけの行動でこちらがどうしようとしているのかは伝わった――こういうことだけは伝わりやすくて困る――のだろう、赤髪の女性がへぇと首を傾げた。

 

「アタシ親切に言ったよねえ?いい子でないと、がぶっといくって」

 

 そう言った女性の口がべきりと音を立てて吊り上り、なのはは思わず一歩後ずさった。女性の変化は口元にとどまらず、体毛はどんどんその密度と量を増し、手からは鋭い爪が伸び、ついには全身の骨格すら変化して。

 

「使い魔、だね。シン君の言ったとおりだ」

 

 なのはが呟いた時には、そこには完全な狼の姿――使い魔の本来の姿を取り戻した『彼女』が、月明かりに額の宝石を輝かせて立っていた。
 背中に長い二房の毛をなびかせ、シンに似て非なる鋭い牙と爪を供えた赤狼が高く一声吼える。なのはの頭程度なら一口でかじりとられそうな大きな牙の生え揃った口から、見た目に反して変わらない声で言葉がつむぎ出された。

 

「あぁ、さすがにそのくらいは気づくねえ。そうさ、アタシはこの子の魔力で生きてる。代わりに、命と力の全てをかけて守ってあげるんだ」

 

 そう言う赤狼の横に、静かに金髪の少女が立った。軽装のバリアジャケットを着込み、手には以前も見た、バルディッシュと呼ばれているデバイス。
 何を考えているのか読めない無表情は変わらず、宝石のような赤色の瞳も静かになのは達を観察している。

 

<なのは、とりあえず無視されない程度に逃げ回れ。使い魔のほうは俺がなんとかする>

 

 シンの『声』に、なのはは即座に答えを返さない。返すことができない。

 

<……なのは>
<ごめん。もう大丈夫>
<エリアは表示しとく。その中で、ちょっかいかけながら森を逃げ回れ。絶対に止まるなよ、止まったら即つかまるぞ>

 

「先に戻ってて。すぐ追いつく」

 

 赤狼が少しだけ少女の方を振り返ると、少女もその視線に頷きを返した。相当な信頼関係があるのだろう。彼女達の目にはどことなく優しい光が宿っていて、それがまたなのはの心をかき乱す。

 

「うん。無理、しないで」

 

<……わかった>
 金髪の少女の答えを聞きながら、赤狼の身体がぐん、と沈み込んだ。同じようにシンの身体も沈み込み、なのはがブラストシルエットを呼び出す風がシンの毛を波立たせた。

 

「――オッケィ!」
「させるかよ!」

 

 言いながら赤狼が跳ぶ。シンも応じて跳ぶ。大きく開かれた赤狼の顎を塞ぐようにシンが前足を突きこみ、2頭は一瞬空中で絡まりあった。

 

「ちっ、この、アンタ邪魔を――」

 

 ばちん、と弾けてぶつかり合うことを繰り返しながら、シンと赤狼はなのはと金髪の少女を残して離れていく。
 なのはは視線を動かさない。金髪の少女は、なんということもなさそうに2頭が駆けていった方向へ首を向けていた。
 シンとは違った赤色の視線が、ゆっくりとなのはの方へ向き直る。

 

「動きも速いし、魔力制御が上手い。いい使い魔を持ってる」
「シン君は……使い魔ってのとは、違うよ」

 

 なのはは視線を合わせたまま外さず、手に持っていたレイジングハートの外装を縮めて腰の後ろに固定する。背負ったブラストシルエットの重みが、まるでなのはをこの場から動かすまいとする錘のようだった。

 
 

 がぎん、と空中で互いの爪や障壁が接触する度に火花が散る。互いの喉笛を狙う牙は寸前でかわされ、その度にシンと赤狼は弾け飛ぶように距離を取り合って仕切りなおしていた。
 どし、と木全体を軋ませながら木の幹、ほとんど垂直の面に着地した赤狼と10m近い間合いを取りながら、シンは鬱陶しげに舌打ちして地面に爪を食いこませた。
 ぶるり、と落ちそうで落ちない姿勢の赤狼が身体を振るわせ、熱の篭った息を吐く。

 

「いいねぇ。やっぱ同族とやりあうってのも悪くないわ」
「勝手に楽しんでろ。こっちはあんまり構ってられないんだ……よっ!」

 

 吐き捨てると同時に口内で高圧空気を収束させ、魔力で外殻を成型して射出する。数回繰り返している牽制とはいえそれなりに威力もスピードもある3発の風塊は、しかし静から動への急激な加速を見せた赤狼を捉えることはできなかった。
 歯をきしらせながら首を回し、跳ね回る影を追う。戦闘を楽しむタイプは厄介だ。何をきっかけにして流れを持っていかれるかわからない。

 

――ええい。いちいち付き合ってられるかよ、こんな奴に。

 

 なのはとの相対距離がそれなりに開いたことを確認すると、シンはおもむろに首を捻った。ばぎりと硬質な音を立てて太い首まわりから共鳴器官代わりの白いトゲがせり出す。未だ振動数分析は完全ではないが、どうせ無理やりにでも出力を上げて脳を揺さぶればいいだけ、そうでなくとも構造体には強烈な振動はそれだけでダメージになる話だ。
 喉の内側に硬く押し込めた『隔壁』を作り、空気を圧縮しつつ運動エネルギーも溜めていく。伸びたトゲが少しずつ振動に共鳴を始め、その輪郭と共に大気が歪みだした。

 

「何? まさかアンタ、芸それだけってわけかい?」

 

 赤狼が鼻を鳴らすが、それこそ答える必要が見当たらない。モーションは同じ、待機状態の見た目もほとんど同じ。発射のタイミング云々ではなく『術が何かを見分ける』ことに集中しなければ、先ほどの風塊と今放とうとしている振動波の違いはわからないだろう。
 赤狼の移動速度から可能性のある距離を算出、コーン状の影響範囲を設定。なのはのいる場所までは影響が及ばないことも改めて演算して確認。
 首を赤狼へ振り向け、極小の台風のように暴れるエネルギーを解放――する瞬間。

 

「!?」

 

 前触れもなく顔をひきつらせた赤狼が、一瞬で防御魔法を展開した。解放された振動波はただただ単純な破壊力となって下草を引きちぎり、立木の枝を殴りつけて葉を散らし、丸盾そのものの形に展開された魔法陣を盛大に揺らし歪ませて大気に帰っていった。

 

「あー、あっぶあぶっ」
「……なんで防ぐんだよクソッタレ」

 

 勘か運か、あるいはその両方か。無駄に野生の反射神経と天の采配との合わせ技を見せ付けられた気がして、シンは思わず悪態をついた。最近同じ台詞ばかり言っているようにも思う。いや、それはきっとこの身体になったことを始めとする状況のせいだ。そうに違いない。

 

「なぁんだアンタ、面白いことしてくれるじゃないかい」
「うるせぇよクソッタレ。俺はお前と遊んでる暇ねぇんだっての」

 

 主人におもちゃを見せられた飼い犬のように尻尾を振る赤狼に心底うんざりしつつ、シンはもう一度悪態をついてばさりと身体を振った。才能はともかく、経験だけならそうそう負けはない。姑息な手段ならいくらでも思いつくのだ。飛び掛ってくる赤狼がまた牙に魔力を集中させるのを視認しながら、シンの尻尾の先で細い光がちらりと動いた。

 
 

<アルフ、そっちは?>
<ちょ……っと、ええい! また逃げるのかい!>
<あの子は積極的には出てこないみたいだし、先に――>

 

「っ!?」

 

 振り向いたフェイトの視界に、森の中で灯る黄色い光の点が写った。針の先ほどの大きさから一瞬で野球ボールほどまで視界内における大きさを拡大したその何かをフェイトが認識し、身を捻った瞬間にそれはフェイトの身体がもとあった場所を通過していった。
 肌に伝わる弾の速度と魔力量はさすがに無視できるレベルを超えている。少し離れた場所から今度は赤く低速な光弾が数発まとめて飛んでくる段になって、フェイトは完全にそちらへ向き直った。両手で保持したバルディッシュの先端ががしゃりと首をもたげる。

 

「バルディッシュ、全部撃ち落とすよ」
[Thunder Smasher]

 

 突き出したバルディッシュの先端から魔法陣が浮き上がり、透き通った赤の視線が不規則に揺れる光弾の軌道をさらりと撫でた。
 その一瞬で射線を定め、フェイトはバルディッシュの柄を右手の指でなぞる。まるで時計の歯車を押し回しているかのように、指の前進に従ってバルディッシュの先端にぐるりと魔法陣が描かれた。後ろに引いた左手で支え、右手でぐいと意識を押し込むと、フェイトの先天的な素質によって電気的な性質を帯びた魔力が、ばちりと魔法陣の上で火花を上げた。

 

[Fire]

 

 黄色い閃光がほとばしり、なぎ払うように振られた射線が赤い光弾を押し流していくつもの爆発が巻き起こった。煙ではなく光が飛び散る独特の残滓が晴れ、光弾の全てを撃ち落としたことを確認して――

 

「っ!? まだ!」

 

 それらに隠れるように飛んできた投槍を、危ういところでバルディッシュで弾き飛ばした。攻撃の波が収まったのを確認し反撃に移ろうにも白い少女は森から出てこようとせず、しかもその中で動き回っている。縦に見ても横に見ても障害物が多く、空にしろ地上にしろ一気に間合いを詰めるのも難しい。とにかく位置を捉えようと高度を下げると、暗闇に沈む木々の間を物凄い勢いで逃げていく桜色と薄青の光がちらりと見えてすぐに消えた。
 代わりのように木々の隙間から撃ち上げられた赤い光弾がフェイトへ向かって加速を始め、今度は危なげなくそれをかわす。

 

「結構、早い」

 

 身体をアルフのほうへ向け――赤い誘導弾を迎撃。
 デバイスを構えたままで森の中に目を凝らす――沈黙。
 仕方なく高度をとって――途端に撃ちまくられた黄色い高速弾に頭を抑えられる。

 

「…………っ」

 

 何度か移動を試み、そのたびに邪魔をされてフェイトは苛立たしげに息を吐いた。無視はできない、しかしこちらから追いかけても捉えきれない、アルフへの援護は邪魔される。速度を生かして自分からペースを作り出す戦法を得意とするフェイトにとって、受身しかできない戦いは苦手だった。
 こちらからはまったく見えないが、まるで向こうからはこちらの細かい動きまで見えているかのように視線をアルフの方へ向けるたびに何かが飛んでくるのが鬱陶しい。

 

<こっちは……捉えづらいな。色々飛んでくる>
<いいよ、アタシ一人でどうにかなる。アタシはこっち、フェイトはそっち、それでいけるさ!>
<うん。早めに終わらせよう>
<あいよ!>

 
 

「どーこまで逃げてんだい! あんたオスの癖して、ちゃんとタマついてんのかい!?」
「ソレのことは今思い出したくもねぇんだよ!」

 

 シンプルな悪態にも一言吐き捨てるように返しただけで、黒い獣は軽快な動きでアルフを回り込むように逃げていく。大きな円を描いていく先には飛び回るフェイト、その下にはアルフ自身と似た姿の黒い使い魔――シン、と呼ばれていたが――の主の白い少女、二人がいることを理解して、アルフは脚を動かしながらも考え込んだ。
 前を行くシンをそのままに、合流して2対2にするべきか。それとも合流を妨害すべきか。白い少女と黒い使い魔が揃うことで何か起きるなら、それも面白い気はするが、しかし。

 

――フェイトの邪魔は、させるわけにいかないよ!

 

 単なる使い魔と主の関係というだけでなく、アルフはアルフ自身の意志でフェイトに仕えているのだ。フェイトからの信頼も今まで築いてきた関係も、一時の興味と同じ天秤に乗せられるようなものでは断じてない。
 ただでさえ白い少女のほうまで手が回らずフェイトの手をわずらわせているのだから、それを考えれば答えなど決まっている。
 答えが決まったなら、行動は一つだ。
 どん、と一際強く地を蹴り、幹を水平に蹴って更に勢いをつける。目指すのは当然、黒い身体の少しだけ先だ。
 追いつく。追いついて、食いつく。

 

「こンの……待ちなっ!!」
「――遅いんだよスッタコ」

 

 そう、追いつこうと力を込めた。力を込めて、踏み切って、だからぐるりと振り返ったシンが言ったことがどういうことかを理解するには時間が足りなかった。
 ぴん、と澄んだ音がどこかで響いた瞬間、猛烈な勢いで頭が殴られた――いや、何かにぶつかった。

 

「ぅごっ!? なんだいもう……!?」

 

 崩れた姿勢は戻らず、慣性の法則は例外を認めず。アルフは盛大に地面を転がる羽目になり、一瞬飛んだ視界を取り戻そうと頭を振った。土を落とす時間も惜しいと立ち上がった、その身体を地面から飛び出した血色の光鎖がじゃらりと縛り付ける。

 

「バインド!? やばっ」

 

 チェーンバインドの出所は地面、魔力の流れは前方。顔を上げる。

 

「後が面倒そうだからな、お前」
「って――」

 

 薄い赤色の縁と黒い芯を持った、光輪があった。
 感じる魔力から、それは見失ったと思ったシンのもの、というかシンそのものだということがわかった。まるでフリスビーだか何かのように見えるが、アルフにはそれがどうなっているのかはよくわからない。
 とりあえずアルフにわかったことといえば、あと一つだけ。

 

――ああ、こりゃマジに殺る気だわ。殺られるのアタシだけど。

 

 一片の躊躇もなく森の木を削り取りながら自分に迫ってくる光輪は、どう見ても殺意の塊でしかない。後が面倒そう、と言われたとおり、使い魔は基本的に主からの供給を受ければ相当の傷でも治癒してしまう。ショック系統の魔法で動きを止めれば別だが、それはそれで目覚めた後アルフがどう行動するかは明らかだ。
 確かに、アルフと敵対する側としてはアルフをそのままにしておく理由がない。
 などと頭の片隅で納得しつつも、アルフは必至にバインドの解除と肉体的な脱出の両方を試み続けていた。ここで退場したら、フェイトは独りになってしまう。あの『フェイトの母親』は決して――

 

「くそ、このっ! ちくしょ――」

 

 鎖は解けない。バインドの解除には時間がかかる。対策なし。自分は死ぬ。消える。フェイトを置いて、消えてしまう。

 

「ちっくしょぉおおお!」

 

<――駄目!>

 

 瞬間。
 隠すとかどうとか以前にただただ放たれただけのその『声』が発された瞬間、光輪がばちんと弾けた。
 まるで先ほどのアルフの焼き直しのように、姿勢を制御できないままに黒い身体が森の地面を転がって茂みを突き破っていった。

 

「……は?」

 
 

「――駄目! それは、駄目!!」

 

 無我夢中だった。頭の中に常に浮かんでいるシン側の様子。チェーンバインドに縛り付けられた赤狼をシンが容赦なく殺そうとしていること、まったく迷いもなく両断しようとしていることを認識した時には、なのはは全力を込めてシンに『命令』していた。
 全力を込めて、それ以外には意識を振り向ける余裕もなく。つまり金髪の少女のことは、その瞬間頭になかった。

 

<ってて、くそ、馬鹿かお前は!? ……なのは!>
「あ――」

 

 シンの叫びに振り向いた時は、もう遅かった。
 それなりに余裕があったはずの距離をすっぱり切り落としたようにゼロにして、金髪の少女が目の前まで迫ってきている。振り上げられる光刃。狙いは首、だろうか。ショック系の魔法ならともかく、殺す気ならこれは確実に殺される。そう認識した瞬間、自分の意識以外の全てが減速していった。
 ねっとりと感じる空気、ゆっくりと加速してくる光刃、そして無表情のままのルビー色の瞳。

 

<こ、の……馬鹿がぁ!>

 

 シンが叫んだ『声』は、そんなゆったりとした時間の中でもはっきりと聞こえた。
 重い空気の中をバターナイフのように滑ってくる黄色い光刃に、せめてと重い腕でレイジングハートの外装を――
 持ち上げようとした瞬間、白い杖にぴしりとヒビが走った。

 

「え」
<recheck...えらーえらーえらー適合条件ノ喪失ヲ確認。直接的な警告効果なし。仮資格者からのアクションなし。当機がとり得る行動の照合――登録解除、対象ノ要素分解及ビ融合・排除選択ヲ準クソッタレが、ンなことさせてたま――認識。判断。彼女はもはや不要だ。圧縮ぷろせす、座標せっと、空間固定開なのは、手を離せ! さっさと逃げろ! どこでもいいから早ぐ、がァ――>

 

 頭の中に響いたのは、平板で焦っていて怒りながら無理やり停止したような、入り乱れたたくさんのシンの『声』。唐突に始まった『声』が1秒もかからずにまた停止した途端に、ばきりとレイジングハートの外装が割れた。
 杖に走った割れ目から蓋が外れたように黒い何かが吹き出し始め、何もできないなのはを凄まじい勢いで包み込んでいく。
 耳を覆われ、目を覆われ、口を覆われ。何も聞こえず見えず、呼吸すらできなくなったなのはの意識は、スイッチを切ったかのようにあっけなく暗転した。

 
 
 

「――何、これ」

 

 右も左も上下も赤。どこか見覚えのある赤色に包まれた空間で、なのはは目を覚ました。少しずつ揺れる赤い光は何か生きているようで気味が悪い。広大な空間のように音が反響しないかと思いきや息苦しい程に耳が詰まったりと、空間の密度と言えばいいのだろうか。見た目にはなんの変化もないが、この空間は確かにうごめいているのがわかった。
 足元の感触は一応あるが、一歩先に見えない足場があるかはまったくわからない。ついでに握り締めていたはずのレイジングハートの外装は影も形もないが、バリアジャケットだけは残っている。何がなんだかわからない。

 

「え、っと……」

 

 呟いて頭に手を当てる。こうなる前、自分は何をしていたのか。
 金髪の少女と戦っている最中に聞いたこともないような叫びを上げたシンと手に持っていたレイジングハートが『弾けて』、自分は――

 

「シン、君?」

 

 恐る恐る呼びかけるが、答えはない。考えなくとも当たり前だ。ここがどこかすらわからないのに、シンが近くにいる保障などあるわけがない。呼びかけた瞬間周囲の赤色の流れが速まった気がしたが、気づいたときにはその変化はあったのかどうかすらわからなくなっていた。

 

「シンくーん……うう、どうし――」

 

 もう一度呼びかけて、途方に暮れた表情で肩を落とした瞬間。
 なのはの背後で、粘着質な音がばちゃりと弾けた。

 

「え? な、ひゃぁっ!?」

 

 周囲の空間がいきなり固体になったかの如く突如現れた細長いソレは、何かをかき寄せる腕のように激しくのたうちながらなのはに絡みついた。思わず逃げようとした脚を絡めとられ、そちらに意識を向ける前に両腕をねじり上げられ、首にすら何重にも巻きつかれて、幾重にも重なるソレに顎が押し上げられる。

 

「ぅあ、何何、何で……何これぇ!?」

 

 妙に生ぬるく濡れた感触の癖に、なのはの全身をのたくるソレは滑る様子も見せなかった。いくら力を込めても蛇に巻きつかれた獲物のように、一秒ごとに全身がバリアジャケットもろとも絞られていく。ソレを濡らしているのは普通の液体ではないのか、バリアジャケットにすら染み込んできていた。
 顎を押し上げられるように首を絞められているせいで、自分の身体――斜め後ろまで捻り上げられた腕やスカートの中まで絡みついたソレに引っ張られる脚――がどうなっているか見て確認することすらできない。精一杯動く範囲で目だけを動かしても、視界に入るのはただただ血のように赤い空間と、どんどんと数と密度を増している、同じく血のように赤いソレだけだ。
 視界の中立ち並ぶソレに、まるで満員電車みたいだなと場違いな感想が頭をよぎった。

 

「か、ぁ」

 

 両腕で吊り下げられたような態勢のまま更に腹と胸を締め付けられ、肺を圧迫されたなのはの口が酸素を求めてぱくぱくと動く。
 そうして開いた口に、ぞぶりとソレが潜り込んだ。一瞬にして口の中を占領する血の臭いに顔を歪める間もあらばこそ、ソレは更に奥へと自らを押し込み始める。

 

「ぉご」

 

 狭い喉に赤い液体を擦りこみながら芋虫のような動きでソレがなのはの奥に入り込んでいく度、がんじがらめに縛り上げられた手足や顔を押し込まれたせいで無理やり反らされた背中がひきつったように痙攣する。手足の指先が丸まり、見開かれた瞳から一瞬ごとに焦点が失われていく。
 外れそうなほど開かれた顎を、唾液とソレから染み出す液体が混じった薄赤いものが一筋垂れていった。

 

「っ……ぉ……」

 

 喉を、更にその奥の食道までを念入りに探られ擦られて反射的に咳をしようとするが、締め付けと塞ぐソレのせいでそれもできない。ごぼり、と妙な音と共に唾液と液体が唇の端から溢れるだけだった。それを汚いなどと思う余裕はとっくにない。
 手足に奇妙な暖かさが広がってきたのは、息苦しさと痛みで意識が朦朧としてきた時だった。
 固く拒絶する身体をほぐそうとするかのように、溶け合うような温度と感触がなのはの手足を包み込んできている。その時まで必死に耐えていた痛みとの落差もあって、ある意味快感にも近いその暖かさと柔らかさはたやすくなのはの意識に入り込んできた。

 

――何、これ?

 

 自分とソレとの境界がぼやけていくような、自分の輪郭が広がっていくような。苦痛があっという間に消え、その隙間に染み込むように入り込んでくる、濡れた柔らかさ。痛みと違いどう抵抗したらいいかもわからないまま、なのははその感覚に弄ばれる。
 ずるり、と耳に入り込んできた細い感触。五感のほとんどを塞がれ、本能的になのはは『今感じるもの』
に集中してしまっていた。

 

「っ……っ!?」

 

 いけない、と思ったときには既に侵食は止められなくなっていた。腹の中まで入り込んだソレから感じるものも痛みからどんどんと置き換わっていく。手足といった末端ばかりか身体の内部からも直接叩き込まれるその感覚は、先ほどの比でない勢いでなのはの意識を侵しはじめた。
 表装である意識の城壁をたやすく削り取り、更に奥、精神までその『赤』は丸ごと飲み込むような圧倒的な量で迫ってくる。
 痛みと苦痛に削られ未知の感触にかき回されて朦朧とした意識の中で、緩んだ身体の中心に新たなソレが入り込んできたことがぼんやりと認識された。

 

――あ、もう……ぁー、赤いの、もう入らな……

 

 いっぱいに満たされたなのはの身体に、更に入り込んでくる赤い感覚。全てを赤く染められ、それでもソレは止まらずになのはの内側へ入り込み続けた。赤に侵されつつある視界がぐるぐると螺旋を描く。
 侵されざるべきものであるはずの精神すら砂の城を崩すようにたやすく侵食され、もはやなのはは思考の上ですらはっきりとした言葉をつむぐことができなくなっていた。

 

「ふ、んぅ」

 

 身体の奥の奥まで入り込んだソレが液体を吐き出す度、熱とともに未知の刺激がなのはの
脊椎を駆け上がり頭の中で弾けていく。

 

「う゛、ぁー……!?」

 

 溢れた雫がなのはの脚を伝った時、柔らかくなのはの全身を満たしていた赤い感覚がいっせいに暴れ始めた。静かに柔らかかったものが荒々しく激しいそれへ。自らを守る手段を根こそぎ奪われ砕かれたなのはは感覚の奔流の前にどうすることもできず、ただただそれを受け入れ続ける。吐き出そうとした息はごぼごぼと不明瞭な赤い泡になっただけだった。
 手足から、そして身体の中から。内から外から、稲妻のような強烈な信号が脊椎を駆け上ってなのはの脳で次々と様々な色の火花を散らした。

 

――空を埋める無数の翼の影。

 

 自分の頭の中に現れたものなのに、絶対に自分とは違う何か。身体の中心を貫くソレから注ぎ込まれる、激しい違和感を持つくせに、それに満たされることでとても安らぐ、あって当然だったかのようなソレ。

 

――暗い、広大な空間で銃を撃ち合い、剣で切りあう巨大な鋼鉄の巨人。

 

 無意識すら押し流されかけているせいだろう、白いバリアジャケットがうねるソレに引きちぎられ、溶かされるように端からほどけていった。赤い光を強めるソレの群れに無防備な白い身体が埋まり、小さな身体は引いては寄せる感覚の波に何もできず、手足を囚われたままでひくひくと痙攣している。

 

――意思を持った鎧と、それをまとう騎士。

 

「……ぁ」

 

――地平線までナニカの死体で埋まった夕暮れ。

 

 どん、と音を立てて新たな硬い感触が後ろからなのはの身体を貫いた。先にあった二つの深いソレにあわせるように動く新たなソレによって、直接自分の中心をかきむしられるが如き、もはや痛みとも快楽とも呼べない『感覚』の津波。とっくに焦点を無くしていた瞳の奥、瞳孔がすぼまり、目尻からまた涙があふれた。

 

――巨大な翼を広げて飛ぶ先には滅びの故郷があって。

 

 頭の中で弾けては広がる光、白赤青緑黄紫紺橙と後から後から現れる無数の色が乱舞して思考すらも塗りつぶされていく。

 

――赤色で染まった空間、身体は光になって消えて行き、頭上を飛び交う光が降り注いで衝撃の後赤い池家族だった肉の塊残ったのは右腕青い翼金色の髪黒い巨体爆発流れる血白い機体沈む金髪嘆く赤髪へし折られた鋼の脚巨大な光の中でジブンは――

 

「――――」

 

 五感が、感情が、意識が、無意識が、本能が。なのはの全てが血の赤色に沈められていく。

 

――だめ。やだ。おかしくなっちゃう。わたしが、かわっちゃう。わたしが、わたしが――

 

<やだ。やだよぅ>

 

――助けて。

 

 なのはの澄んだ藍色の瞳。苦痛と混乱に焦点を失って今はただ虚ろに天を見上げるその底に、どろりとした赤が灯った。