RePlus_第七幕_中編二

Last-modified: 2011-08-02 (火) 13:47:53

「それで、リーチホエールじゃったか?見つかったのか」
「名前と役は性格にな爺さん。それじゃチョンボだ。後アレの名前はディープホエール。麻雀みたいな
ベタな間違いしてんじゃねぇよ…まぁ、まだだけどよ」
「難儀な事じゃのうぉ」
「煩い爺さんだ」
「何度も言うが、年上には敬意を払えい…のぉ童(わっぱ)」
 頬を酒気で赤く染め、妙に上機嫌なアンビエントを他所に、赤い瞳のスカリエッティは溜息を付きな
がら手元の端末に目を戻した。
 キャビンには彼の分の高級ワインとキャビアの乗ったカナッペが用意されていたが、高い波に揺られ
る船内で飲酒する気にはなれなかった。
「んで、原因は何なんじゃ?」
「設計段階での耐魔力素の構築ミスから、大小合わせて二百通りは考えられる。もしかしたら、神経シ
ナプスが未発達な性で各部機関に異常を来たしたかも知れねぇな。ニューラルネットワークも洗い直す
か」
 スカリエッティは、端末を覗き込むアンビエントを他所に端末を目にも止まらぬ速さで操作していく。
 ディープホエールを構築する魔力構造体に幾つもの致命的なバクが発生し、エラーコードがディスプ
レイを真っ赤染めていた。
「まぁワシは技術屋じゃ無いから詳しい事は分からんがのぉ…童?単純に童の作ったレリックレプリカ
が不良品だっただけじゃ無いんかの?」
「ふざけた事抜かすんじゃねぇぞ、爺。レリックレプリカは、擬似リンカーコア、高性能な魔力炉とし
ては…「素体がデカイからと言って大型のレプリカ組み込んだせいで、ディープホエールが出力負けし
て暴走しとるだけじゃ無いのか」
「ひ、人の気にしている事をあっさりと言いやがったなクソ爺!」
 レリックレプリカ。
 赤い瞳のスカリエッティが開発した"擬似リンカーコア"を言うべき物質である。元々リンカーコアを
持たない生物に魔力を持たせる事を目的として、スカリエッティが作った機関だ。
 成り立ちからして、ドクターが作った戦闘機人とはコンセプトが違う。
 機人のように、最初からそうある為に設計製造するのでは無く、後付けを目的とし、飽く迄通常空間
での戦闘、装備品として誰でも使える汎用品を目指したのがレリックレプリカだ。
 レリックと銘打っているが、その実情は多機能な充電池のような物だ。
 天井知らずの魔力を内包するレリックと比べ、限界魔力量その物は小さく制御が容易い。
 元々リンカーコアの有無は才能の一言で片付けられしまう程に曖昧なものでしか無く、効果や性能は
管理維持こそ出来ているが、リンカーコアが精製されるメカニズムは詳しく解明されていないのだ。
 余談だが、リンカーコアの所持者は年々減少傾向にあり、コア持ちの人材確保の為には、昔から少々
強引な手を使う事が多い。
 それこそ少々の罪ならば、何かと理由を付けて不問にしてしまう事も珍しくない。
 魔法技術は有り触れた物だが、魔法を実際に使える人間は、次元世界の総人口から概算すると驚く程
少ないのだ。
 今回ディープホエールに搭載したレリックレプリカは新型試作機であった。
 従来よりも出力を上げ、リンカーコアを持たない機械的に強化した異生物を強化する目的だったのだ
が、外洋を試験運用中に暴走事故を起こしていた。
「まぁとにかく回収せねばな。破片一つでも残せば、そこからワシらに足が付く可能性があるからの。
物証を残したまま見逃してくれるほど、管理局も甘くはないぞ。」
「だから…俺自ら現場に出てるんだろうが!大体あれは元々俺とドクターの研究室の一部だった時期も
あるんだぞ。ほっとけるか!」
「ドクターからは、内部資料は全て廃棄したと聞いておるが?」
「全部とは限らねぇだろ」
「大方散らかし放題のまま、出てきたんじゃろうが」
「後でブッ飛ばす、爺」
 スカリエッティは眉間に皺を寄せ、激昂するが事実なだけに反論出来ない。
 論文データ等は残さず回収したが、理論構築の為に使ったメモ帳や参考資料は置いたままなのだ。
 そこから彼等の計画の全容を解明する事は不可能だろうが、やり方次第では是非も無く、やはり余り
気持ちの良い物でもなかった。

 スカリエッティは、端末を操作し、ディープホエールの暴走の原因を虱潰し当たって行く。
 魔力炉心は暴走したと言うのなら、炉心の火を強制的に落とせば事態は解決するし、魔力が尽きれば
その内停止するはずである。
 暴走事故が起こった当初も、素体の回収には手間がかかるが大事には至るまいとスカリエッティも不
遜な態度を終始崩す事は無かった。
 しかし、状況は一変する。
 ディープホエールの擬似人格を司るプログラムが突如致命的なエラーを排出し、緊急停止信号すら受
け付けなくなったのだ。
 スカリエッティは、大慌てで原因を探る為にガジェットを捜索に出したが、管理局の介入が予想以上
に早く対した成果はあげていなかった。
(何故だ…何故なんだ。俺はそんな命令は組み込んでいないぞ)
 出力負けが暴走の原因である事は分かっている。
 しかし、ディープホエールは、造物主であるスカリエッティを嘲笑うかのように、生きる為に貪欲に
魔力を集め続けている。
 ディープホエールは生物的な外見をしているが、その身を構成するのは有機的機械部品と僅かな生体
部品である。
 素体から培養し、機械部品を生みこんだ不特定生物はとは違い、全くの無から生まれたのがディープ
ホエールだ。
 無から生まれたディープホエールには自我と魂は存在しない。全ては造物主であるスカリエッティが
与えた命であり、スカリエッティの思うがままに行動する泥人形に過ぎない。
稚拙な言い方だが、無機物には自然な状態では魂は宿らない。
 魔法を含む、超自然的な力が加わり、生き物として始めてその身に魂を宿し命としての人生を歩んで
いくのだ。
 しかし、ディープホエールは緊急停止信号を受け入れないばかりか、スカリエッティの命令に逆らい
続けている。
(俺の命令が聞けないってのかよ)
 生きたいのか、暴れたいのか、もしくはその両方なのか
 予想外の事態にスカリエッティの心は波立ち苛々し始める。
(このままだと・・・不味いな)
 ディープホエールの飽くなき食欲、生存本能はスカリエッティの想像を遥かに超えている。今は小康
状態を保っているが、いつまた魔力を求めて暴れ始めるか予想すら出来ない。
 スカリエッティにとって、管理局の施設が幾つ壊滅しようが知った事では無いが、ディープホエール
はいつ機能停止しても不思議では無い状態だ。
 スカリエッティにしても、ディープホエールがレプリカ毎管理局の手に落ちるのは避けたいところだ。
「最悪…俺が中に入って炉心に直接停止コードを打ち込むしかねぇ」
「童がか?悪いが童、お前さん体育の成績は幾つじゃ。」
 苦々しい表情を浮かべ無言のまま視線を逸らすスカリエッティ。
「俺は…研究者なんだよ」
 やっとの事で出た悪態も語尾が消え去りそうな程小さい。
「ならば、ドクターにナンバーズを何人か借りてこれば良かったのでは無いか。あの娘っ子達なら、そ
の程度の事容易かろうに。童がわざわざ骨を折らんでも、鼻歌交じりでやってのけようもんじゃ」
「知ってんだろ…あいつら俺の言う事聞かねぇんだよ。特に鉄仮面ウーノと嫌味のドゥーエ!後ドチビ
のチンクにいたっては、空き缶投げて来るんだぞ!しかも、汚ねぇって言いながら」
(それは童の白衣がいつも食べカス塗れじゃからじゃろうに)
 嘆息するアンビエントを尻目に、余程腹に据えかねているのだろうか。スカリエッティは休む事無く
騒ぎ続けている。
「兎に角急いで手は打つ。レプリカもディープホエールも管理局に持っていかれてたまるか」
「童が舟を出せと言うからドクターに内緒で付き合っておるんじゃ。有る知恵無い知恵絞って誠心誠意
頑張れよ若人」
「覚えてろ爺」
 不貞腐れるスカリエッティにアンビエントは、心底可笑しそうな表情を浮かべる。
 それこそ、まるで可愛い孫を見ているような顔だった。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第七幕"オーシャンダイバーズ-Deep Striker"中編二"

 一体どれ程の時間をディープホエールの体内で過ごしただろうか。主観時間と体感時間が曖昧になり
、正確な時間感覚が薄れ始めていた。
「ねぇ、あれ何かな?」
 前を歩くフェイトが、通路の奥に光を見つける。三人には、暗闇の中で逸る気持ちを抑えつつ、警戒
を怠らず急ぎ早に光に方向へと向かうと、迎えたのは整理されたコンクリートの通路だった。
 左右に緑色の非常灯が、まるで、久方ぶりの客人を歓迎するように薄らと光っている。
「これって…」
 フェイトが壁を叩くと、鈍い音が通路中に響いた。
生温い風が通路の奥から流れ来るのが分かる。
非常灯の緑色の淡い光が、まるで、亡者を常世へと誘う篝火のようで、シンには気味悪く見えた。
「明らかに人工物ですね…」
 シンもフェイトを同じように壁を叩く。
触った感触からして、特殊な金属では無い。極意一般的に使用されているコンクリート壁そのものだ
ろう。
 だが、シンは、これでますますディープホエールの事が分からなくなった。
海中を高速で移動し、体内に自分の質量以上の空間を宿し妙な化物まで飼っている。
(これじゃまるで…)
 シンは、ほんの数ヶ月前まで生活し苦楽と共にした"元職場"を思い出した。
「要塞…ううん、移動出来るんだから、戦艦、空母かな」
 フェイトの言葉にシンの心臓が跳ね上がる。
「やっぱり、ジェイル・スカリエッティが関係してるんだ」
 フェイトは、小声で呟き壁を手でなぞりながら、更に奥へと歩き始める。
 シンもフェイトに倣い、無言のまま歩を進めた。
 フェイト曰く、ジェイル・スカリエッティは変人の部類に入るらしい。
 管理外世界の未開地のど真ん中に、これ見よがしに悪の組織万歳と言った風貌の研究所を建造したり
する癖に、それとは打って変わり、地下五百メートル下に人目を忍ぶように基地を建造したりと行動に
一貫性がまるで無い。
「流石に生物の中に研究所を作ってるのは、初めてのパターンだったけどね」
 鯨は時に深海まで潜ると聞く。
 外見が生物ならば、管理局の目を欺くのも難しく無いかも知れないが、発想の奇抜さと言い、レリッ
クが絡んで来ている事からも、まず間違いなくジェイル・スカリエッティが絡んで来ている事は間違い
無さそうだった。
 フェイトは、これまで何度かジェイル・スカリエッティの施設へ捜査の手を伸ばして来たが、全て後
一歩と言う所で逃げられてしまっている。
 スカリエッティの逃げ方は派手だ。
 管理局の捜査の気配を感じると、基地毎爆破して雲隠れしてしまう。
 後に残されるのは、大量の瓦礫と木っ端微塵に吹き飛んで使い物にならない用途不明の機器ばかり。
 決定的な証拠を残さず、一切合財を焼き払っての逃亡は周囲の迷惑を考えなければある種芸術的な手
腕だ。
 そもそも研究施設の建造にも莫大な資金が必要なのだが、一体その金が何処から捻出されているのだ
ろうか。
 スポンサーを多く抱え込んでいようとも、こう何度も景気良く爆破されてはスポンサーも堪らないだ
ろうに。
(でも、チャンスかも)
 今まで彼の研究施設と言えば、瓦礫の山が通例だったが今回は原型を留めている。
 施設に原型を留めていると言うのは、なんだが妙な表現だが、今まで瓦礫の山ばかり捜索して来たのだ。
無理も無い事だった。
「三叉路だ」
 シン達が、奥に進むと物資搬入所のような広い空間に出た。
 打ち捨てられた工場のように工作機械が無造作に打ち捨てられ、さながら機械達の墓場のような様相を
見せている。搬入所の奥へと続く通路は、今まで一本道だったのに対し三つに分かれている。
 どれが正解かフェイトには分からなかったが、まだあの骸骨のような敵がいないと限らない中で戦力を
分散させるのは得策では無かった。

「隊長…こっちに部屋ありますよ」
「えっ…何処」
「ほら、これ。汚れてますけど、多分タッチパネルだと思います」
 電気が生きているのだろう。シンが、壁際に設置された埃に塗れたタッチパネルに手を翳すと、パネル
が淡い光を放つ。短いビープ音の後にエアロックが開錠され扉が開いた。
 作業員の待機所だったのだろうか。丁度良い具合に古びたベットとソファーが見える。
 薄暗い室内の中からは、生臭くすえた匂いが鼻に付いたが、それを我慢すれば十分休息が取る事が出来
るだろう。
 室内の安全を確認したシンは、キャロをベットに寝かしつけ、自身もソファへと深く腰掛けた。
 緊張の糸が切れたのか、先刻まで我慢していた鉛のような疲労がシンの肩に重く圧し掛かってくる。
 空腹よりも急激な喉の乾きを覚える。
「何も無いか」
 フェイトは、溜息を付きながら、キャロが寝かされたベットに腰を下ろし、慣れた手付きでキャロの髪
を撫で始める。
 キャロの小さく可愛い寝息がフェイトの耳に届き、薄い胸が上下し、それは、彼女が確かに生きている
事を告げていた。
 少し顔色は悪いが健康状態は問題は無さそうだ。
 六畳程の室内には、二段式のベットと小さなソファーを除けば何も無い。
備え付けの冷蔵庫の中に食べる物でもあればと期待したが、埃と何十にも折り重なった霜しか無かった。
 最悪霜を削ってでも水分補給しなければならないが、今はその時では無い。
明らかに人が生活していた形跡がある以上、保存食の類が無いとも言い切れない。
 霜に挑戦するのは食料を探した後の事だ。
「さてと…アスカ君、ちょっとお留守番しててくれるかな」
「隊長?何処行く気ですか?」
「私は食べ物探して来るね。何も無いかも知れないけど、缶詰でも見つければ儲け物だと思うし」
 フェイトは、ちょっと近所のスーパーまで買出しに行くかのように話すが、シンにしてみれば気が気で
は無い。
「待って下さいハラオウン隊長。ここは魔法が使えないんですよ。さっきの化物が他にもいないとは限ら
ないのに単独行動は危険過ぎます」
「でも、私が行かないと…キャロは誰が護るの?」
「食料を探しに行くんだったら、俺でもいいじゃ無いですか」
「駄目だよ」
フェイトは、シンへぴしゃりと言い放ち、自分はベットから立ち上がり準備運動とばかりに屈伸運動を
始める。
「でもですね!」
「駄目ったら駄目」
シンは尚も食い下がるがフェイトは取り付く暇も無い。
「駄目って、そんな横暴な。大体ハラオウン隊長と俺とじゃ分隊は違うじゃ無いですか。命令権は無いは
ずでしょ」
「屁理屈言わない。私が絶対駄目って言ったら絶対駄目なの。これは隊長命令だよ。上官の命令に分隊規
模は関係無いからね。アスカ君は素直に命令に従う事」
「なんですかそれ…」
 シンは、姉に叱られる弟のように、膨れっ面のままで駄々っ子のようにフェイトから目を伏せてしまう。
「実際問題として、アスカ君じゃあの骸骨が現れた時に対処しきれないよ。だから、私が行く。それだけ
だよ」
「…弱点は分かりました…次やれば勝ちますよ」
 シンの言葉にフェイトは表情を曇らせ深い溜息を付く。
「あのね…アスカ君。きつい事を言うけど、アスカ君は、私が間に合わなかったら殺されてたかも知れな
いんだよ」
「それは…」
 フェイトの言葉に思わず口篭るシン。
 結果的に見ればシンは、助かっているが、あと数秒フェイトが助けに来るのが遅ければ、シンの頭部は
挽肉のように無残に磨り減っていた事だろう。
 シンが死ぬと言う事は、遅かれ早かれキャロも骸骨に殺されていたと言う事だ。
「今回は"偶然"助かったけど、次はどうなるか分からない。それに、命を預かる管理局員が"次"なんて軽
はずみな発言しちゃ駄目。私達が守る人達は、次助ければ良いってものじゃ無いの…分かるでしょ」
「はい」
 シンは、手を鬱血する程握り締め、唇を無言で噛み締めている。
 心の底から沸いて来る絶望的な無力感。抗う事の出来ない虚無にも似た感情は、シンが慣れ親しんだ物
で魔法を覚えた以来久しく感じる事の無かった思いだ。
「アスカ君の手に乗っているのは、自分の命だけじゃ無い。他人の命を乗せて生きてるって事忘れちゃ駄
目…"戦争"してた君ならそれが良く分かるでしょ」
「…分かり…ました…」
「うん…やっぱりアスカ君は良い子だ。なら、少しだけ待っててね。直ぐに戻って来るから」
「はい…」

 シンは絞りだすようなか細い声を上げ、そのまま黙り込む。
(私…そんなに信用無いかなぁ)
 渋々と言った様子で、自分を見送るシンにフェイトは何処かズレた考えを抱く。
 酷くしょ気た様子のシンは、初めて出合った頃のキャロのように小さく頼りない印象受けた。
 二人を残していくのは心配だが、今一番動けるのは自分しかいない。兎に角一刻も早く脱出方法を見つ
ける必要があった。
 だが、それにはシンの協力が必要不可欠だと言うのに、当人はここに来てからすっかり自信を喪失して
しまっている。
 魔法が使えない空間で萎縮してしまう気持ちも分かるが、自分達の生死が掛かっているのだ。フェイト
にしても凹んだままで居られると困るのも事実だ。
 じっとしていても仕方無いと嘆息し、最後にもう一度だけキャロの様子を見たフェイトは、シンの横を
静かに通り過ぎる。
「あっ、そうだ。三つ言う事忘れてたね」
 俯き目を伏せるシンに、フェイトは扉の前で振り返り優しく微笑む。
「まず一つ…強い力に力で対抗しちゃ駄目。強い力は逸らしちゃえばいいの。馬鹿正直に真正面からぶつ
かるだけが戦いじゃ無いよ」
「…やってみます」
「二つ目…私の事はフェイトで良いって言ったよね」
 フェイトは、むっとしながら自分を睨んでいるシンに苦笑いを漏らす。
「…分かりましたフェイト隊長。これでいいですか」
 まだ、固さが残りぎこちなかったが、今はそれがシンの精一杯だった。フェイトもそれが分かって為に
深くは追求して来ない。
 ただ、聖母のように優しく微笑むだけだ。
「うん、オッケイだよアスカ君。最後に一つ。これが一番大事な事なんだけど…さっきはああ言ったけど
…アスカ君が頑張ったから私が間に合ったのは本当だよ。キャロを護ってくれてありがとう」
「え…あっ」

 どう答えていいのかうろたえるシンを見て、フェイトはにっこりと微笑み、風のように通路奥へ消えて
行く。
 シンは、苦笑いしながら、フェイトが深い闇に消えた事を確認するとドアを内側からゆっくりと閉めた。
 奇跡的に点いた小さな電灯を頼りに、シンはソファーへと腰掛ける。シンは深い溜息を付き電灯に手を
翳す。
 訓練で傷つき、豆だらけの手が電灯に照らさせ、暗闇の中ぼんやりと漂っている。
「俺の手には…他人の命が乗っている…当然自分の命も」
 頭で理解していた事だが、改めて言われると考えさせられるものがある。
 シンは、悲惨な戦争を通して命の尊さは学んだが、助けたい気持ちだけが先行して自分の命が勘定に入
っていなかった。
 戦時中、デスティニーのトリガーを一度引くたびに真空の宇宙に人の命が散っていく。
 真空の宇宙では、敵パイロットの断末魔も爆発音も聞こえない。
 只、鮮やかな緋色の光が漆黒の宇宙に輝き静かに消えて行くだけだ。
 それが、敵パイロットの命の瞬きなのだとシンが理解したのはメサイヤ戦を終えた後の事だった。
 再びゆっくりと手を握り締める。
 シンの手は血で汚れている。
 殺し殺しあう戦争と言えど、シンが何万人もの人を殺した事実は決して消える物では無い。
 最近では悪夢を見る回数が減って来ているとは言え、 戦争で負った傷は早々簡単に癒えるものでは無
い。
 恐らくシンの傷は一生癒える事は無く、生涯に渡り折り合いをつけて生きていくしか無いのだろう。
「俺は…生きている」
 本来命とは護り護られる、人によって育まれて行く物で、人は一人では生きていけない。
 そんな当たり前な事をシンは、今始めて理解し始めているのかも知れなかった。

 どれぐらい時間が経っただろうか。疲れからうつらうつらと舟を漕いでいたシンは、キャロの寝返りを
立てるで目を覚ました。
「うぅ…」
 あまり寝起きの良い方では無いのだろうか。
 両手で瞳を擦り、寝ぼけ眼のまま辺りを見回すキャロの仕草は歳相応に幼く、見ているだけで微笑まし
いものがある。
 思い返して見れば妹のマユも寝起きが悪く、シンが何度起こしても二度寝してしまう癖があった。
 キャロと言い、マユと言い、この年頃の娘は皆そうなのだろうかと、まだ寝ぼけているキャロにシンは
忍び笑いを漏らした。
 キャロは、シンの笑い声で目を完全に目を覚ましたのだろうか。
 焦点が合っていなかった瞳がぱっちりと開き顔が引き締まっていく。
「おはよう、良く眠れたか?」
「おはようございます…ここ、何処ですか?」
「まだ、鯨の中だ」
 シンは、軽く挨拶した後、タイミングを見計らい簡単にキャロに状況を説明する。
「夢じゃ無かったんですね…」
「そうだな…」

 これが夢ならばどれだけ良かった事だろうか。
朝起きて「嫌な夢だった」と言う事が出来るほど人生は巧く出来ていないらしい。シンは、六課での日
常がまるで遠い昔のように感じられた
 シンが、六課での日常に思いを馳せている間、キャロは、それとは別に全然関係無い事を考えていた。
(…あれって一体)
 シンが骸骨兵に殺されそうになった瞬間、シンの顔が大きく歪むのをキャロは確かに見ていた。
恐怖に脅えているのでは無く、いや恐怖にも脅えていた事は間違い無いが、それ以上にシンの顔で浮き
出ていた感情は"後悔"と"悲しみ"だった。
 普通どんな人間でも、殺されそうになる瞬間、恐怖に支配される事は間違いない。
 キャロも今まさにシンの命が消えようとした瞬間、言葉で言い表す事の出来ない程の強い恐怖を覚えた。
 骸骨兵の鈍器がシンの頭を砕いた後は自分が殺されるはずだ。キャロは、目前に迫った明確な死のイメ
ージに背筋を凍らせて身動き一つ取る事が出来ずに居た。
 だと言うのにこの男はどうだろうか。
 ほんの数秒先に迫った"死"よりも、他人の死に敏感に反応していた。
 あの時のシンの表情は、まるで、キャロを護れなかった事を悔いているように感じるのだ。
 シンにとっては、自分が傷つくよりも他人が傷つく事の方が耐え難い苦痛なのだろうか。
(分からない…)
 シンは、人を殺した過去があるからこそ、ここまで他人の命に真摯になれるだろうか。
 では、シンが人を殺した過去がなければ、極端な話彼はキャロの命を見殺し出来ただろうか。
 疑問は果てる事の無い疑念を生み、キャロの未熟な感情を思考の深遠へと押し流していく。
「アスカさん…少しお話しませんか?」
「えっ…あぁ、いいけど」
 腕を組んだままソファに腰掛けていたシンが驚いた様子を見せる。
 二人は六課で一緒に生活し始めて数ヶ月経っているが、キャロからシンへ話しかける事は仕事以外では
滅多に無く、シンの反応も無理からぬ事と言えた。
(聞かないといけない)
 丁度フェイトは周囲の偵察に出ていて、邪魔するものは誰も居ない。
 シン・アスカと言う人間を理解する上でも、キャロに取ってこの状況は千載一遇の好機だった。
 シン・アスカは、何を考え何を求めているのか。
 もし、シンが六課やキャロの大事な人達に害悪を与えるような存在ならば、キャロはシンを許してはい
けない。物騒な話だが、事と次第によっては実力行使もやむ得ないと思っていた。
「アスカ…さんって…何なんですか」
「はい?」
 あまりにストレート過ぎる内容に、キャロは心の中で舌打ちする。
 あれやこれやと考えている内にキャロの絡まり煮詰まった思考は、思っている事を素直に口に出してし
まっていた。
「そう言われても…」
 キャロの質問にシンはバツが悪そうに頭を掻き毟る。
 それはそうだろう。「なんなんだ」と聞かれても、一体何に対して「何なんだ」と聞き返したいのはキ
ャロも同じだ。
 これでは相手に喧嘩を売っているようにしか見えない。
「いえ…そうじゃ無くて…ですね」
「お、落ち着いた方がいいんじゃ無いか?」
 怒りでは無く羞恥頭にカッと血が昇り、しどろもどろな口調になってしまう。
 意気込んだ割には大事な初手をいきなり失敗してしまった。
 このままでは、会話の主導権は相手に流れていってしまい、キャロが思っている事の半分もシンには伝
わらないだろう。
 キャロは、生来の口下手をこの時程忌々しく思った事は無かった。
 気がつくと、シンは、視線を伏せすっかり意気消沈してしまったキャロを見て忍び笑いを漏らしている。
 キャロは、シンの余裕綽々な様子が尚更憎らしく感じ、ムッとした表情のままそっぽを向いてしまう。
「はは、ごめん、キャロ。そんなつもりじゃ無かったんだ」
「じゃあ、どんなつもりだったって言うんですか」
 キャロの怒った様子を見たシンが、申し訳無さそうな表情を浮かべる。
(またこの表情…)
 相手を気遣っているのでは無く、ガラス細工に触れるような、腫れ物に触るような気後れした感じ。
 シンのその態度にキャロはどうしようも無く苛々する。

「あ…その…似てたんだ…妹に…」
 気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。
 シンは、頭をかきながらバツが悪そうにオズオズを喋り始める。
「…妹さんにですか?」
「ああ…」
 キャロは、シンが戦争で家族を亡くした事は知っていた。
 翌々考えて見ると当然の事だが、シンにも家族が"居た"と言う事実にキャロはどうにも現実感を抱けない
でいた。
 機械仕掛けの巨人に乗って現れた異邦人。
 何処か童話の登場人物のような出会いを経た二人には"家族がいた"と言う単語が何処か遠くの世界の事の
ように感じるのだ。
「丁度キャロ位の年齢で、キャロと違って壊滅的な運動音痴の癖に木登りとか鬼ごっことか大好きでさ。昇
ったはいいけど、降りられなくなるわ、転んで泣きじゃくるわで大変だった」
「そうですか」
 シンは、妹の事を思い出して居るのだろうか。僅かばかりの悲しみと郷愁の念が滲んでいる。
(やっぱり、この人…私と妹さんと重ねてるんだ)
 キャロを気遣う様子も、時折見せる懐かしさと悲しみが混ざったような表情も、全てはキャロ本人に向け
られているものでは無く、キャロを通して見ている妹を気遣っていたのだ。
 キャロは、何故か裏切られたと感じ心が酷く痛んだ。
例えシンにそんなつもり無かったとしても、シンがキャロにやった事は族長達と同じだ。
 相手を心配しているように見せても、心の中では自分の事しか考えていない。
 自己満足の為に気を使われる方の身にもなって欲しい。
 キャロも一応管理局の魔道師と覚悟を決めて六課に居るのだ。遊びや暇潰しで居るわけでは無い。
「だから、やっぱり…かなぁ。悪いと思ってるんだけど。キャロとエリオを見るとついついマユを思い出し
ちゃってさ…ごめん、やっぱり、そう言うの鬱陶しかったよな」
 マユ。
 それが、もう決して会う事の出来ない妹の名前なのだろう。
 会話の流れからシンがマユを溺愛していた事は間違いない。
 きっと、中の良い兄妹だったのだろう。会話の節々からシンの家族に対する優しさが溢れている。
「そういうわけじゃ無いです…ただ」
(私は貴方の事が良く分かりません)
 結局自分は何に対してこんなに憤っていたのだろうか。
(そうか…私…)
 本来子供とは無邪気な物だ。
 何も知らないが故に、世界の全てが自分を無条件で愛してくれていると錯覚する。
 見捨てられた過去があるキャロは、不幸な事に子供で居られる時間が非常に短かった。
 生き残る為には自分で考え自分で行動するしか無かったのだ。
 しかし、幼いキャロが一人で生きていける程この世界は寛容では無く、人の悪意に長く触れ続けたキャロ
は、直ぐに心を閉じ考える事を止めた。
 シンがキャロを通してマユに向けている、掛け値なしの愛情はキャロの失った過去を嫌でも励起させる。
 シン・アスカを言う存在は、思い出の中に"過去"の物として封じ込めた絶望を、キャロの意思とは無関係
に無理矢理掘り起こして来る。
 フェイトやエリオがキャロに齎したのは無限に広がる未来だが、シンがキャロに齎した物はもう捨てたは
ずの過去だった。 
(…戸惑っているのは私なんだ)
 キャロは、シンに最後まで言い切る事間も無く俯き膝を抱え塞ぎこんでしまう。
 シンも無理に話を続ける事もせず腕を組み静かに瞳を閉じた。
 視覚を閉じ、外界の情報を遮断した瞬間、シンに鉛のように重い疲労が圧し掛かり強烈な睡魔に襲われた。
 暗闇の中を月明かりでは無く、蛍光灯の僅かな光だけが二人を照らす。
 空気が淀み室内が異常に蒸し暑い。
 現実から逃れるように瞳をきつく閉じると、汗でじっとりと濡れた背中の不快感を意識してしまい煩わし
かった。
 深い闇の中でキャロは一人自問する

 人を殺めた人間が人を救ってはいけない。
 そんな定義は世界には存在しない。
 人を殺めた人間が人から愛される事は無い。
 そんな規約も世界には存在しない。
 只、シンがキャロの命を救おうとした事は紛れも無い事実なのだ。

 余程疲れていたのだろうか。
 いつの間にかシンは小さな寝息を立て眠っている。
 その横顔はとても人を殺した事のある人間に見えなかった。

 三叉路の内二つは行き止まりになっていた。廃棄された区画なのだろう。
 二つ共通路は硬化剤で充填封鎖され、剥き出しのコンクリートから鉄筋が見え隠れしている。
 排気ダクトも調査したが、ダクトはキャロ位の大きさならば進入可能だったが、色々な所が大きく出
っ張っているフェイトでは、つっかえてしまい奥に進む事が出来なかった。
(ダイエットしてれば良かった)
 考えて見れば最近は仕事仕事で食生活が不安定になっている。不規則な食生活を続けていれば体重増
加はそう遠く無い未来に目に見えて現れて来るだろう。
 細く括れた腰や豊満な胸を触り嘆息するフェイト。
 世の女性が聞けば、どの口がそれを言うのかと、鈍器片手に襲い掛かってきそうな物だが、フェイト
自身は到って真面目だった。
 フェイトは嘆息しながら、元来た道を戻り最後の残された通路を調べ上げた。この通路まで封鎖され
ていたら、まさにお手上げ状態だったが、幸運な事に通路は更に奥の施設へと通じていた。
 百メートル程進むと、右側に扉が見え、薄暗く注意して見ていなければそのまま通りすぎていた事だ
ろう。
 埃を被ったプレートを手で擦ると汚い字で"D-4倉庫入るな"と書かれている。
 フェイトはプレートの文字に疑問符を掲げながら、タッチパネルを操作するが反応せず、扉はウンと
もスンとも言わない。
「もぅ…」
 もう一度壊れたテレビを直すように、タッチパネルを強めに叩くと、ピィンと間抜けな音を立てて扉
がゆっくりと開いた。
 もう何年も使っていないのだろうか。室内は山積みのダンボールで埋め尽くされ、埃塗れの上に妙な
虫が壁一面にへばり付いている。
 時折かさかさと音を立てて蠢く虫の大群は、生理的嫌悪感を容易に抱かせる程不気味だった。
 フェイトの背筋をもの凄い速度悪寒が駆け抜け、冷や汗が額を伝い地面へ落ちる。
 なるべく壁の方を見ないように、何か使える物があればと、半ば祈るような気持ちで手近なダンボー
ルを開け中にマグライトを当てると、その瞬間猛烈な勢いで黒い何かが飛び出して来る。
「ひゃっ」
 フェイトは、思わず少女のような金きり声を上げその場で尻餅を着いてしまう。
 その音に呼応するように、ダンボールの中から大量のゴキブリのような虫が這い出し、マグライトの
光に驚き群れを成して倉庫の外へと逃げ出して行く。
 フェイトは今度こそ大声を上げそうになったが、喉が引き攣って声にならなかった。
 まるで、虫達は大河を群れで渡るバッファローの如く、大群を引き連れ倉庫から飛び出していく。
 どうやら妙に薄暗かったのは、ゴキブリもどきが大量に居た事が原因らしい。
 後に残ったのは、打ちっ放しのコンクリートと大量のダンボール。
 そして、備え付けの机の上には数冊の学術書だった。
 フェイトは鳥肌を立てながら立ち上がり、恐る恐る忍び足で部屋の奥へと足を進める。
「これって…」
 随分と古い書籍だ。
 保存状態も良くないようで、古びたハードカバーに黄ばんだ頁。
 本自体が完全に湿気てしまっていてシワシワだ。
 所々紙魚に食われ丁寧に触らなければ、その場でボロボロ崩れ落ちれしまう程に腐食している。
 本のタイトルも著者名も剥げ落ちて見る事は出来ないが、内容は管理世界内外に問わず数々の伝承を
集めた物のようで、取り分け古代ベルカ時代の記述が多く記されている。
「全部ベルカ王朝に関する民間伝承や研究論文ばっかりだ……こっちは遺伝子工学の学会誌かな?」
 何の変哲の無い学会誌のコピーだが、必要な箇所だけ抜粋したのだろうか。
 頁も号毎の分類もバラバラで、知識が無いフェイトには、どれがどう繋がっているのか分からない。
 この部屋の持ち主は随分をズボラな性格の持ち主だったらしく、思いついた事を壁や机に所構わず書
き殴っている。ミッドチルダや地球の文字では無く、よく言えば象形文字、悪く言えば蚯蚓がのたくっ
た様な文字で解読不能だった。
「誰かが、ここで何かを調べていたのは確実か」
 しかし、それが何を意味するのかが分からない。
 最新の遺伝子工学と古代ベルカが何の関係があるのか。
 現段階では推理する事は出来ないが、スカリエッティの目的を知る上で貴重な情報には間違い無かっ
た。
(後はこの情報をどうやって持ち帰るかだけど)
 フェイトは、それが一番の難関だと頭を抱えてしまう。
 机の上には、もう目ぼしい物も無く、引き出しの中も同じような有様で脱出の手がかりになりそうな
物は何も無かった。

「あれ?これって…地図だ」
 机の真横。座れば丁度目線の位置に来る高さに、汚さないようにラミネート加工されたA4版の略地図が、
押しピンで壁に縫いとめられていた。
 地図には、D-4倉庫と言った名称がはっきりと見て取れる。
 道順もフェイトの覚えている経路とほぼ一致する。
 地図には、施設最深部、ここから3ブロック上に通信室がある事がしっかりと示されている。
 巧く行けば外部と連絡が取れるかも知れない。
 フェイトの胸に希望の光が灯り、胸がすっと軽くなる気分がした。
 フェイトは、シン達前では隊長の手前虚勢をはっていたが、脱出出来るか否か、フェイト自身も定かで
は無く正直に言えば心の中では頭を抱えていたのだ。
「後は…食べ物だけど」
 一応虫が居たのだ。
 何かしら食べ物らしき物があるかも知れない。
 堆く詰まれたダンボールの中一つ一つ調べるのは、骨が折れるが背に腹は変えられないだろう。
(でも、アレって食べ物が無いと共食いするって言うし)
 開ける前にダンボール箱を振り中の様子を確認すると、ガサガサと何かが這い回る音が聞こえて来る。
(やっぱり、アスカ君…連れてこれば良かった)
 フェイトは、涙目になりながら、せめて、これ以上ゴキブリもどきが出てこない事を切実に祈るフェイ
トだった。

「ふぅ…」
 ティアナは、両手に持ったアルミ缶を苛立ち任せに握り潰した。元々、そこまで握力が強い方では無い。
中途半端に凹んだアルミ缶を見て、ティアナは溜息を付きソファーに腰を下ろした。
 シン達が誘拐されてから、既に半日以上が経過していた。
 キャロが着込んだライフジャケットには、本人のバイタルデータを常時送信する機能が付いている。
 定期的に送られて来るキャロのバイタルデータは、彼女の無事を知らせていたが、只それだけだ。
 シンとフェイトの安否は依然不明のまま。生きているのか死んでいるのか定かでは無い。
 海中を高速で動き回っているディープホエールを捉える事は難しく、唯一偶然に武装隊が接敵したが、
交戦虚しく逃げられてしまったようだ。
 ロビーから見える中庭に淡い月の光が差し込んでいる。
 空を見上げると雲一つ無く、満天の星空が下界の喧騒は無縁だと言わんばかりに輝いている
「無事よね…アスカ」
 ティアナは、誰に聞かせるわけで無く呟く。
 時間だけが無為に流れ、不安だけが積もり続けていく
「そら、そうや」
「ひゃい!」
 ティアナは、右頬に感じる冷たさに、思わず頓狂な声を上げて飛び上がる。
 何事かと振り返れば、冷えたコーラを持ったはやてが微笑みながらそこに立っていた。
「八神部隊長…」
「隣いいかな?」
「…はい」
 はやてはティアナの横に腰を下ろす。肌が丁度触れ合い、制服の裾同士がくっ付く距離だ。
「あかんなぁ…ティアナ。考えてる事、もろに口にでとったで」
「え…嘘!」
「う~そ。安心し。顔見たら、アスカさんの事を考えてるっぽかったから鎌かけただけや」
 はやては小さく忍び笑いを漏らし、ティアナに微笑む。
 顔に出るほどシンの事を考えていたとすると、それはそれで問題では無いだろうか。
 見られていれば尚更の事だった。
「ティアナは、私が面倒くさい事してると思ってる?」
 プルタブを空けると、炭酸が勢い良く飛び出し、甘い香りが漂ってくる。
「いえ、そう言うわけ…では」
 嘘だった。
 上層部からいずれ下りてく来るであろう捜査権と現場指揮権の譲渡を待っている六課は実質待機状
態と言っても良かった。
 こうしている内にもシンが危険に晒されているのでは無いか。
 フェイトやキャロの事も気になって仕方無いし、キャロ本人については、バイタルデータが無事を
知らせてくれているが、飽く迄生きていると言うだけの物で何処まで信用出来るか分からなかった。
 シンの安否を祈れば祈る程、それが、まるで、自分自身の事のように想いが熱く燃え上がり身を焦
がしていく。
 全身を覆う焦燥感は、ティアナの精神をすり減らし平常な判断能力を奪っていた。
「今すぐ飛んで行きたい?」
 はやての問いにティアナは「無い」と直ぐに言い切れなかった。
 エリオが居た手前、ああ言ったティアナだが、実の所は許されれば今すぐにでも飛び出してシンを
探しに行きたいのが本音だった。
 命令無視に独断専行。

 穏便でない単語が脳裏を過ぎるが、今の自分の気持ちを天秤にかけると些細な事かもと思えるから不
思議だ。
 しかし、自分一人では何も出来ない事は分かっている。
無理と無茶を重ねれば、模擬戦の時のように同じ事を繰り返すだけである。
勝手な行動を取った挙句に、逆にシン達の命が危険に脅かされる事になればと考えると気が気では無
い。
 血に塗れたシンと意識の無いスバルが脳裏に思い起こされる。
 あんな事は二度度ごめんだった。 
「無いって事は無いやろ…顔に書いてあるで」
「そ、そんな事…は」
 無いと言いかけて口篭る。
 自分自身の事だから良く分かる。
 今の自分は普通では無い。
 シンの事を考えると、熱病に浮かされた患者のように正常な判断が下せないのだ。
 胸の奥から湧き出す狂おしい程の愛情。
 世界の中心が、理性よりもシンに対する欲求の方が勝ってしまっている。
 今朝の事でもそうである。
 幾ら恋心を自覚したとは言え、あんな大胆な事をしてしまった。
 シンの視線は確実に自分の胸へと注がれていたのに、それを恥ずかしいと思わず嬉しいと思ってしま
う自分が居たのだ。
(…はしたない)
 ティアナの貞操観念は同年代の少女達よりも強く硬い。
 彼女にとってキスですら将来を誓いあった男女がするもので、結婚前の夜の営みなどもってのほかだ。
 そんな貞淑なティアナが、幾ら夏に浮かれていたとは、誘惑三歩手前の行動を起こしてしまった。
 あの時ティアナが思っていた事は、彼に自分の事を見て欲しい。
 誰より何よりも目の前にいる恋敵よりも自分と見て欲しかった。
(駄目よね…こんなの)
 管理局の魔道師たる者、公私は分けて当然である。
 逆に言えば公私を分ける事が出来ない半人前の証だった。
「正直に言ってみや、ここには、私しかおらへんのやから」
「私は…」
「私は直ぐにでも飛んで行きたいよ…ほんまはね」
「ぶ、部隊長?」
 ティアナの言葉を遮り、逆にあっけらかんと言い放つはやてにティアナは思わず声を飲んだ。
「ほんまよ。私許されなるなら速攻でデバイス起動して、今すぐ飛び出して行きたいんよ。でも、私は、
立場上それは出来へんし、したらあかん事やと思ってる」
 当然の事だ。
 六課は、はやて一人の夢で成り立っているわけでは無い。
 大勢の人の協力の元に成り立っている。それを裏切る事は、はやてには出来ないしこれからもっと多
くの人を救う為には六課は管理局内部で大成しなければならない。
 たった数人の"隊員"の為に、はやては、六課を投げ出す事が出来ないのだ。
「いや、でも、その…」
「可笑しい?こんな事思うのは」
 はやては、狼狽するティアナを苦笑いしながら見つめる。
 ティアナは、はやての問いにどう答えて良いのか分からず、目を白黒させながら気まずそうにはやて
を見つめてた。
「いえ…その…おかしく無いんですけど…思うのはいいんですが…実際にやってしまうと大問題と言う
か」
 公私を全く分けていない、そればかりか、一部隊との長とは思えない発言がはやての口から飛び出し
たお陰で、逆にティアナの方が面食らい口篭ってしまう。
「私も人間やからね。人々を護りたい気持ちに嘘は無いけど、それとは別に護りたい人"達"がおっても
おかしないやろ」
「それは…」
「ほら…私だって…人間やし」
 はやての気持ちもティアナは十二分に理解出来る。
 幼い自分を必死で育ててくれた優しい兄。不名誉な死を遂げた兄の代わりに執務官を目指す。
 それがティアナの管理局への復讐であり、魔道師を目指した根幹でもある。
 あの時のティアナには、法と秩序を護る管理局の理念など考えた事も無かった。
 だが、今は違う。一緒に強くなろうと誓った仲間が居る。
 気になって気になって仕方無い異性も居る。
 最近では、いつの間にか復讐心からでは無く、純粋に自分の為に執務官を目指している自分にも気が
付いていた。
 人は時間の流れと共に変わって行く。
 一秒先の未来ですら、もうさっきまでと同じ自分では無い。
 ティアナがシンとの出会いで変わったように、はやても変わったのだろうか。
「部隊長は…なんで」
「二人っきりの時は、はやてでええよ」
 まるで春の陽気のように、柔らかい微笑を浮かべるはやて。ティアナは何となく毒気を抜かれた気分にな
り口調を改めた。
「は、はやて部隊長」
「ティアナは、友達に階級で接するん?」
「そんなわけ無いです」

「なら、ちゃんと名前で呼んでな」
「う…うぅ」
 今夜のはやてはどうにもおかしい。ふわふわとした態度で、雲を掴むように捕らえどころが無い。
 もうこの際だ。以前から気になった事を聞いて見ようとさえ思えた。
「…は、はやてさんは…なんで…アスカの事がす…気になってるんですか」
「そうやなぁ…え~と…言い合いっこしよか」
 一瞬だけ真面目に悩む素振りを見せたはやてだが、次の瞬間には上司の顔が也を潜め、変わりに悪戯
小僧のように満面の笑みを浮かべる。
「ええ!」
「そんな驚かんでもええやろ。もしかして、人に言えん位に過激な理由とか」
「そ、そんなわけありません。私は到ってノーマルです!」
 何を持ってノーマルと言うのか甚だ疑問だが、頬を紅潮させ、ガアアと捲くし立てるティアナの様子
に、はやては忍び笑いを漏らす。
 普段冷静なティアナが、臆面も無く慌てる様子は本人には悪いが実に面白い。
「…でも…いえ、その。言えないってわけじゃ無くて、そういうのは個人の主観て言うか、趣味の問題
だし。それに…私だけがアスカの事…」
 俯き頬を赤く染め口篭るティアナ。両手の人差し指をモジモジとさせ身悶えする様子は、意地らしく
も愛らしい。
「あぁもう何でこんなにいじらしいんやろ。ティア可愛い過ぎや!」
「ちょっ!」
 そんなティアナを見て、はやてに妙なツボを刺激されたのだろうか。
 瞳を輝かせ鼻息も荒く、決して豊満と言えないはやての胸に力一杯ティアナを抱きしめた。
 最初こそ嫌がり暴れたティアナだが、制服の上からでも感じるはやての体温は暖かく穏やかなものだ。
 訓練校時代にスバルとじゃれ合った事は何度かあるが、考えて見ればこうして誰かに抱きしめられる
のと言うのは随分と久しぶりの事ではなかろうか。
 ティアナは、はやての抱擁に暫し身を任せていた。
「あっ…そうだ。部隊長…さっき、私の事」
「何やティア」
 やはり、聞き間違いでは無い。
 ドサクサ紛れで聞き流していたが、確かにはやてはティアナの事をティアと呼んだ。
 ティアナの事をティアと愛称で呼ぶのは親友のスバルだけで、意表を突かれたティアナは驚きからそ
の場で頬を紅潮させる。
「あかんかったかな」
「いえ…そんな事はありませんけど」
 親しみを込め、愛称で呼ばれる事に別に異論は無いがどうにも照れくさいだけだ。
「その…放して下さい。は、恥ずかしいですから」
「ティア抱き心地良すぎやから、あか~ん」
「あか~んって子供じゃ無いんですから」
「私の故郷では十九歳は成人前やもん」
「そんな屁理屈な」
 ティアナは、そこまで言って傍と気が付いた。
 果たして八神はやてと言う人間は、こんなにもお喋りだっただろうか。
 職務中におどけて見せるような、陽気な性格である事は認めるが、今のように誰かに甘えて来るよう
な人では無かった。
 考えられる事は一つだけだった。
「不安なんですか?」
「…ティアは?」
 ティアナを抱きしめる力が緩み、はやての顔から笑みが消える。
「…分かりません」
 ティアナは、何に対して不安なのかと聞かれれば「全てに」としか答えようが無い。
「ええんよ…不安なら不安て言えば。私とティアしかおらへんもん。誰も聞いてないし」
「はやてさんは、不安じゃ無いんですか?」
「不安や…ティアは私の胸の音聞こえる?」
 はやての胸に耳を澄ますと、騎士甲冑越しだが、心臓の鼓動がトクントクンと強く弱く不規則なリズ
ムを刻んでいる。
「聞こえます…」
「バックバクに緊張してるやろ」
「はい…」
 おどけて様子も既に強がり以外何物でも無い。辺りには誰も居ない。
 誰も居ないからこそ、はやての物だけでは無く、自分の鼓動も響きそうだった。
「だからな、私も凄い不安。もう一度アスカさん達に会えるか…凄く不安」
「それは…私も凄く不安です。このまま会えなくなったらどうしようって…そんな事ばっかり考えてま
す」
「そうかぁ」
 視線を上げゆっくりとはやてに向き直るティアナ。
「アスカ…無事ですよね」
「当たり前や。フェイトちゃんも付いてるし三人とも絶対に無事や」
 根拠も証拠も無い。二人共只漠然とシンの無事を信じているだけだ。まるで、自分達が信じる事を止
めた瞬間、シン達の命が失われてしまうと言わんばかりだ。
「なぁ…ティア。ちょっと見て欲しい物があるんやけど」
「何をですか?」

「ん?…さる有力筋から提供されたデータやねんけどな」
 どうにもはやての様子がおかしい。歯切れが悪く口篭り、まるで、ティアナに見せる事を躊躇ってい
るようだ。
 はやては、データディスクを手の内で弄び、歯切れも悪く口篭っている。
「出所不明の代物とか?」
「ううん。出自はしっかりしとるよ。と言うかこれ程しっかりしてるデータは無いと思う」
「まぁ見れば早いか」とはやては覚悟を決め、自前の端末にデータディスクを挿入する。中空に出現し
たディスプレイに、暗い海原が映し出される。映像は荒いが、目を凝らせば見れない程では無い。
 海原には、幾つも魔力光が輝き、武装隊局員達が楔型の陣形を取り飛翔している。
「ほんの二時間前の出来事やねんけど…貨物船を護衛してた管理局の武装隊がディープホエールをまた
接敵したそうや」
「またですか」
「そうや。今度は別の隊の人らやけどな。どうにも奴さん何かを探してるんか知らんけど、ミッドチル
ダの航海上を異様な速さで動き回ってる。武装隊の人らもその道のプロや。遠距離からの攻撃が効かへ
んのやったら、近接攻撃に切り替えたそうや」
「それは…少し軽率じゃ無いでしょうか。ディープホエールの体皮は魔法を弾くんですから、遠くても
近くても結果は変わらない気がします」
「武装隊も人らもそれでケリが付くとは思って無いやろ。あくまで後の作戦に備えてのデータ収集の一
環や。危険やけど得る物も大きいと思ったんやろな。まぁ結果は惨憺たる物やったんやけどな」
「全滅…したんですか」
 喉が鳴ったのは果たしてどちらの物だっただろうか。
「違う…状況はもっと厳しくなってしもた。武装隊の人達はディープホエールに近づく事も出来へんか
った」
 はやては端末を操作し、映像を早送りする。
 闇夜の中、海上を蠢くディープホエールの周りを、幾つも魔力光が飛び交っている。
 一糸乱れぬ編隊は、それだけで彼等が熟練の魔道師であると明朗に告げていた。
 ディープホエールを威嚇するように、魔力弾で弾幕を張り、一際強い魔力光を備えた壮年の魔道師が
デバイスを構えた矢先の出来事だった。
 ディープホエールが、その巨大な顎を剥き出しに咆哮を上げる。
 人間の可聴領域を粉々に砕かんとする、この世の物とは思えぬ奇怪な音の集合体。
 音が大気に反響し共鳴しあい、肉の割ける音と共に、自身の体皮を突き破り一メートル台の瘤のよう
な物が這い出てくる。
 その数大小合わせて約百箇所。
 側面に形成されたエラが湿った音を立て、その一つ一つが呼吸し独立した意思を持つかのように蠢き
囁いている。
 再度ディープホエールが雄叫びを上げると、全ての瘤が大きく撓み、ドンと大気が砕ける音と共に成
人男性程もある巨大な水球を吐き出した。
 水球は音速に迫る速度で魔道師達に襲い掛かり、そこで映像が途絶えた。
「ご丁寧に空中に待機させてた観測機まで撃墜されたわ。皆命に別状は無いけど、重傷者多数で戦線復
帰は半年後やそうや」
 映像を巻き戻し、画面を苦々しい目で見つめるはやて。
「解析結果は巨大な超高密度に圧縮した水の塊。言ってしまえば超強力な水鉄砲。ホースの口を締める
のと同じ原理やそうや。私達的に言うなら口に含んでプーってやつやね…威力が桁違いやけどね」
 推定何百キロもある水球を音に迫る威力で射出されたのだ。
 ディープホエールの水球は、武装局員の魔力盾をあっさりと突き破り彼等に重傷を負わせた。
「本当の事言うと、さる筋って言うのは管理局の上級委員な。ディープホエールが、こないな能力持っ
てるんやったら、私達六課の手持ちの戦力ではちょっと対応しきれへん」
 六課のスタンスは少数精鋭である。
 ただ巨大なだけの生物を捕らえるだけならば、手持ちの戦力で幾らでもやりようがあった。
 人ならば魔力ダメージで昏倒させる事が出来る。
 ガジェットならば機関部を貫けば終わる。
 六課で一番手数が多いのは、高町なのはだが、ディープホエールの水球を全て相殺出来る程の魔力弾
を瞬時に生成出来るかと言えば疑問符を抱かざるを得ない。

 威力は兎も角とし、手数が攻撃回数が圧倒的に足りていない。
 数に対抗するには数でしか有り得ない。
 一騎当千の実力者は確かに存在するが、数の暴力に敵わないのが普遍的な法則だ。
 もし、一人で戦局を左右する存在がいるとするならば、それは悪夢としか言いようが無い存在だろう。
 残念ながら六課には、悪夢のような存在も人員も不足している。
 少数精鋭を謳う六課では、数で対抗して来るディープホエールには相性が悪すぎた。
「近隣部隊に既に増援の要請はしてる」
 恐らく今度の作戦は、管理局史上類を見ない大規模作戦になる事だろう。
 時間を掛ければ掛ける程中に囚われたシン達の救出は困難になって来る。
 しかし、中途半端な戦力では全滅の可能性もある為準備は抜かりなく行わなければならない。
 わざわざ、データディスクを譲渡前に送って来た事から、作戦の総指揮を執るのは、はやてなのだろ
う。シン達の命を救う事だけでは無く、はやては、大勢の命をもその身に背負ってしまった。
「そんな私を…ティアは助けてくれる?」
 重圧。悔恨。恐怖。
 重苦しい感情が渦巻き、はやての胸を締め付ける。
 仲間の命と想い人の命を天秤に掛ける事に堪えようも無い恐怖を感じ、動悸が激しくなる。
 辛辣な言い方だが、今迄の作戦は幾ら失敗しようとも、犠牲は全て身内から出るものに過ぎない。
 しかし、今回は顔も性格も知らない見ず知らずの人間の命も護らなければならない。
「はやて…さん」
 八神はやてと言う人間が、立場や役目を捨て一個人としてティアナに初めて見せた弱さ。
友情や家族への親愛では無く、シン・アスカに恋慕を抱く同じ人間、友人として、はやてはティアナ
に助力を求めてきている。
「はい」
「八神部隊長!」
 ティアナの万感の思いを込めた言葉は、走りこんできたグリフィスの大声にかき消された。

「どうかな?」
「お、美味いですよ」
「は、はい、とっても…」
「その…二人共無理しなくていいからね」
 ダンボールを机代わりにし、その上に置かれた大量の豆の缶詰が置かれている。
 豆は地球南米産の物で、一つ一つがやたらと大きい上に油質をべったりと含んでいる為か臭いも酷
い。
 基本的に調理用の豆で、未調理で食べる物では無い。
 シンは、口の中に広がった油臭さとゴム毬のような硬い感触に耐えるように大量の豆を飲み込んだ。
 フェイトも一つ摘んでは口に掘り込んでみるが、やはり食べられた物無く、時間を置いて一つずつ
口にしなければ喉を通る物では無かった。
「食べないと持ちませんし」
「そうなんだけど…ね。せめて…焼くか煮るかすればもうちょっとマシなんだろうけど」
 フェイトは嘆息し、六課の食堂に思いを馳せる。
 仕事柄自炊する事が少なく、外食に頼りがちなフェイトの食事は専ら六課の食堂だ。
 完璧な栄養バランスに加え、人を飽きさせる事の無いメニューは感嘆に値するし、勤務するシェフ
は昔何処ぞの三ツ星で働いていた経歴を持つらしく、味にも文句の付け所が無い。
 普段何気無く口に運んでいた食事だが、今考えて見ると恐ろしく高価な物を口にしていたのでは無
かろうかと思う。
 食は全ての基本である。
 阿呆みたいな事だが、組織内における士気の構築で"食"が占める割合が以外に大きい。
 食に手を抜く組織は、官民問わず大成せず中から崩れていく傾向が強い。
 例に漏れず、はやても課長として隊員達の食事や健康管理には気を使っていたりする。
「レーションの方がマシかも知れませんね」
「あれも結構クルものあるけどね」
「六課のレーションはまだマシな方ですよ…俺が知ってるのは、栄養補給だけ出来れば良いって代物
でしたし、食べるって言うより飲み込むって言った方が早かったです」
 ザフト時代の軍用レーションもビニール臭くて食べられた物では無かったが、この豆の不味さはそ
れを三足飛びで上回る強烈な物だ。
(まぁオーブのは美味かったけ)
 そう言えば合同軍事演習で口にしたオーブの軍用レーションは美味かった記憶があった。

「飲み込めるだけマシかも」
「…否定出来ないのが辛いですけど」
 終始無言のまま豆を突く二人。
 正直に言えば腹一杯は愚か、腹三分目程度でもごめん被りたい味だったが、食べられそうな物がこ
れしかない現状では文句を言っても始まらない。
 生き残る為には最善手と最適手を履き違えてはならない。
 サバイバルで一番大事な事は、常に考え出来る事を取捨選択し続ける事だ。
「キャロどうしたの?」
「…なんでも無いです」
 顔を顰めながら豆を黙々と食べ続けるシンとは対照的に、キャロは元気が無く食が細い。
 先刻に比べ心なしか顔色も悪く調子も悪そうだ。
「やっぱり何処か怪我してたんじゃ」
「してません!」
 心配し身を乗り出したシンを他所にキャロは、目を鋭く吊り上げ攻撃的な口調で鋭く言い放つ。
「あ…」
 キャロの態度は、明らかな拒絶の意思を表しており、シンは驚きその場で目を剥き、驚きのあまり
固まってしまう。
「キャロ!」
「すいません…でも、調子が良くないのは認めますけど…怪我なんかしてません。心配されても困り
ます」
 フェイトはキャロの物言いを咎めるが、キャロは無視するようにフェイトから視線を背けてしまう。
「キャロ…どうしたの、さっきから変だよ」
「私は前からこんな感じです。別に変なんかじゃありません。私を変と感じてるのは、フェイトさん
の方が変なんじゃないんですか」
「キャロ!」
「ごめんなさい…言い過ぎました」
「キャロ…どうしたの?何かあったの」
「なんでもないです」
 声を荒立てるフェイトとは対照的に、キャロは、もう話す事は終わりだとばかり、荒々しく缶詰を
置き不貞腐れたようにベットに寝転がってしまう。
 普段のキャロは、癇癪は愚か駄々を捏ねる事は滅多に無い。
 いや、フェイトが彼女を引き取ってから一度も無いと言って良いだろう。
 まだ養母のフェイトにすら、何処か気を使い余所余所しさが抜け切れていないと言うのに、何故シ
ンにだけ感情を剥き出しで突っかかって行くのだろうか。
(悪い子じゃ無いのに)
 キャロに邪険にされたシンは、すっかり意気消沈した様子で無言で豆を口に放り込んでいる。
 その仕草は実に子供っぽいもので、とても自分と二歳違いの男性とは思えない。
 どちらかと言えば、はやての副官であるグリフィスの方が余程大人っぽく見える。

フェイトは、シンの事を悪戯盛りの弟のように見ている節があり、その扱いはエリオと殆ど変わる
事が無い。
 シンとエリオは仲が良い。休日良く一緒に訓練しているのを見かけるし、キャロはその横でぼんや
りとしながら二人の訓練風景を眺めている事が多かった。
 ティアナとスバルと一緒に居る事が多いシンだが、その次に一緒に居る事が多いのはダントツでエ
リオだろう。
 気になる異性が、悪い意味で気になる異性と常に一緒に居る。
 特にエリオがシンに向けている感情は、弟が兄に向ける親愛そのもので、キャロが置いてきぼりに
されている感は否めない。
 あの年頃の男の子は、異性と遊ぶよりは同性と遊んでいた方が楽しいのも理解出来る。
 シンも見た目より幼い所がある為波長が合うのだろう。
 それがキャロの勘に触ったのかなと思ったフェイトだが、キャロがシンに感じている物はもっと根
深い気がした。
 フェイトも、もう子供では無い。
 当然、人間は善意だけで成り立っている生き物では無いと知っている。
 しかし、幼いキャロにはそれが理解出来ない。
 虐げられた過去を持つ彼女は、人の善意よりも悪意の方へより敏感に反応する。
 シンが悪意の塊だと言っているわけでは無い。
 きっとキャロは、シンが招き入れるかも知れない悪意を心配しているのだろう。
 キャロもシンが根っからの悪人であるとは思っていない。そんな人間をはやてやティアナは好いた
りしないだろうし、何よりあのシグナムが黙っていない。
 善と悪。
 スイッチを切り替えるように、1か0でしか感情を割り切る術を知らぬキャロは、自分の感情に折
り合いは愚か噛み砕く事も出来ずに苦しみ、結果としてキャロは人の悪い所ばかりに目が行き過ぎている。
「…もう」
 フェイトは、本当はいま直ぐにでも叱りつけてやりたい衝動に駆られたが、溜息と共に振上げた手を力
なく引っ込めた。

 叱り付けるだけが"教育"では無いと思うが、肝心な所で叱る事が出来ない自分は保護者失格では無い
かと思う。
 結局の所、キャロやエリオがフェイトに気を使っているのでは無く、自分自身が二人に気を使っている
だけかも知れないのだ。
 自ら進んでやった事とは言え、自分の不甲斐なさに腹が立つと言うより、悲しくなって来る。
 フェイトは、二人の隊長である前に保護者なのだから、教育にはもっと毅然とした態度で望まなければ
ならないのだろうが、今のように肝心な場所で尻込みしてしまう事が多かった。
 話は聞いてやれても、道を示してやる事が出来なければ保護者失格である。
(何か自信無くしそうだよ…お母さん)
 フェイトは、シンが六課に入隊してからと言う物、色々な事が目まぐるしく変化している気がする。
「後でしっかりお説教だからね」
 出来うる限り不機嫌そうに喋ってみたが、元々怒る事が苦手な上に、生来のお人好しが災いしてどうに
も迫力が無かった。

「成る程な…」
「なんじゃい」
 スカリエッティは、ほろ酔い気分のアンビエントを捨て置き、テーブルの上のカナッペに手を伸ばした。
 フランスパンの上のクリームチーズと生ハムの味が口の中に広がり、生ハムの上に添えれらたピクルス
が味を引き締めている。
「原因が分かった」
「ほぉ」
 アンビエントは、ソファーにもたれ掛り、グラスに並々と満たされたワインを景気良く煽りながら胡乱
気な視線でスカリエッティを見つめている。
「漸くか、童」
「ああ、待たせたな爺さん」
 随分と待たされたのだろう。アンビエントの足元には、空になった空き瓶が何本も転がっている。
「あの馬鹿…やっぱり異物を飲み込んでやがった」
「異物?」
「見たほうが早い…ほらよ」
 スカリエッティは実に不機嫌だと言わんばかりに、アンビエントに端末を投げて寄越す。
「ぱそこんを放り投げる奴が何処におろうか。壊れたらどうする、童」
「ロートルは黙っとけ。後、今時投げた位で壊れる端末なんざ世の中にねぇよ」
「…つくづく口の減らん童じゃ…これはフェイト嬢と…ほぅシン・アスカか」
 端末には、暗闇の中を進む三人が映し出されている。
「フェイト嬢が何故、こんな場所に」
「食ったんだろ。シン・アスカ諸共」
「食った?フェイト嬢を…何故故に?」
「知るか。ディープホエールがうろつけるのは海だけだ。大方浜辺で乳繰り会ってたんじゃねぇのか」
 どうでも良いと投げやりかつ出鱈目を告げるスカリエッティとは別に、アンビエントは、怒り心頭とば
かりに目を皿のように吊り上げている。
「赤い童め。私の心を弄んだばかりか。わしらのアイドルまで手を出すつもりか」
「アイドルって…爺…アンタ、年齢考えろよ」
「黙っしゃい童。老い先短い老人の最後の楽しみまで奪われてはたまったもんじゃ無いわい」
「ああ、そうかい」
 スカリエッティは馬鹿馬鹿しいとばかりに、呆れた様子でアンビエントを見て溜息を付く。
フェイト・T・ハラオウンは、執務官としても優秀だが、その女神のような美しい容姿から管理局内外
に問わずファンが多い。
 容姿端麗才色兼備。
 溢れる才能に慢心せず、誰にでも分け隔て無く優しいフェイトは、男の理想像、まさに管理局の女神と
言っても過言では無い。
 雑誌取材やグラビア記事のトップを飾った事も少なくなく、高町なのはと八神はやてと並ぶ管理局の広
告塔の一人だ。
 アンビエントは元々管理局の要職に付いていた人物である。
 当然フェイトとも面識は有り、はやてに、その地位を利用し勉強会と言う名の接待を持ちかけた事もあ
った。
「くおおお、手なんぞ握りおって。何様じゃこの小僧!」
「爺の趣味なんざ知るかよ」
 スカリエッティはげんなりとした様子で、カナッペを口に放り込み、アンビエントは端末を食い入るよ
うに見つめ、何やら物騒な言葉を連呼している。
 余談だが、アンビエントが立案したフェイトに対するセクハラ紛いの勉強会は、全力全開で怒り狂った
なのはによって、主に暴力的な意味で未然に防がれる事となる。
 結局アンビエントは、その事件が切っ掛けで管理局を追われる事となるが、今は語るべき話題では無い
為に割愛する。

「いい加減…話戻していいか」
「…よかろう」
 一頻り文句を言って気が済んだのか、アンビエントは佇まいを直し、スカリエッティに向き直る

「そのテンションの落差、何とかなんねぇのかよ爺さん」
「童も年を重ねれば自然とこうなるよ」
アンビエントは、「ふぇふぇっ」と空気が抜けたようにな笑みを浮かべる。
「食えない爺さんだ。まぁいい。話を本題に戻すぞ」
「おおとも」
「…俺が作ったMシリーズは、ドクターの戦闘機人とコンセプトこそ同じだが、別アプローチと思
って貰っていい。ようは、機械部品を生命にインプラントする事により、身体能力を爆発的に増加
させるサイボーグ。ドクターは、素体に人造魔導師を使い、俺は一から培養した人間外の生物を使
った。だたそれだけの違いだ」
スカリエッティが端末を操作すると、アンビエントの目の前にスクリーンが投影される。
「Mシリーズは、無から作られた生物を素体として使っている。多種多様な細胞をクローニングし
融合させ、高配させ、創造されたMシリーズには、総じて自我と言う物が生まれない。生命の尊厳
を究極的に踏み躙って調整してるからな。細胞の一つ一つに自我や魂を産むためのキャパが残され
てないのが原因だ。元々ディープホエールは、拠点制圧兼移動要塞として俺が培養した。出力不足
で戦略兵器としては色々問題があった為に、一年位前に廃棄されたのは知ってるよな」
「ああしっとるよ。今のアジトに移る前の話じゃな」
「そうだ。その後ディープホエールは、俺が再調整するまで誰にも見つからないように、海底深く
に沈められたんだ」 
「そんな代物を何で今また使おうと思った童」
「レリックレプリカなら設計通りの出力が出せると思ったからな。本家と違って扱い易いし、暴走
後の危険性も少ない」
「だが、ディープホエールは暴走した」
 二人は同時に頷き、端末に目を落とす。
「原因はこいつ…シン・アスカだ」
 暗がりの中で厳しい顔つきのシンがズームされる。
「Mシリーズには、全て俺の人格データがフィックスされて擬似的な自我を形成させている。だが
、所詮擬似は擬似。偽物は偽物だ。Mシリーズの感情は、薄氷の如く薄く脆い。ふわふわと形を成
さず漂っているだけで、ほんの少し触れるだけで形を成さず散っていく程危うい存在だ。そこに、
絶対遵守するべきコマンドを組み込み、強制的に自我を確立させている」
「アシモフじゃのお」
「詳しいな爺。そうだ。SFじゃねえけど、Mシリーズが遵守すべき命令は。造物主である俺の命
令は絶対に逆らうな。自身の命を護れ。最後にもう一つシン・アスカの捕獲。只これだけだ」
「たったそれだけか…もう少し複雑な処理を受け取るもんかと思ったが」
「所詮獣だ。そこに高潔な精神性は期待出来ねえし、単純であればある程獣には効果が出る。ディ
ープホエールは、俺の命令に従いシン・アスカを捉えなければならない。しかし、暴走によって、
普段也を潜めている俺のコーディネーターに対する憎しみが浮き彫りになってきやがった。殺した
いが殺せない。殺したい程憎い相手が、自分の体内を我が物顔でうろつき回っている。ゴキブリが
体の中を這い回っていると想像して見ろよ…耐えられるか?」
「無理じゃな。文字通り虫唾が走るわ」
「もっと酷く言えば常に強姦され続けてるようなもんだ。想像を絶するストレスがディープホエー
ルの精神を犯し、各機関の異常行動を更に誘発してやがる…造物主の命令を言う事を聞く余裕が無
い位にな…これが暴走の真相だ」
 画面が切り替わり、ディープホエールのバイタルデータが表示される。赤と青の線が三次元曲線
を描きギザギザに入り乱れている。
「即席だが、ディープホエールのエモーションゲージを数値化してみた。青が許容範囲。赤が精神
汚染の危険域だ。本来平行に保たれるはずの両曲線が見ての通り、岡持ちが蕎麦ひっくり返した見
たいにグジャグチャだ。何が何だか分かりゃしねぇ」

「狂っとるわけじゃな」
「体の中に劇物入れてんだ。重度の薬物中毒者みたいなもんだ。ストレス解消の為に魔力を食らい続け
、自壊する精神を何とか支えてる状態だ。行き過ぎた魔力摂取は、人間に例えるなら高血圧過ぎて脳卒
中寸前だ。ディープホエールの”脳”に該当する部位は擬似魔力炉心"レリックレプリカ"。そこに規定
以上の魔力量が流れ込んでる今の状態じゃあ…脳が破裂するまで…もう時間が無い」
 スカリエッティの頬を冷たい汗が流れる。
「そこまで異常事態ならば、中におる小僧やフェイト嬢が、気が付きそうなものじゃが…特に焦った様
子は無さそじゃが」
「忘れたか。アレは"実験室"兼要塞なんだ。対侵入者用に初期型AMF機構が搭載されてる。循環器系に直
接触れない限り分かりゃしねぇよ」
「しかし、大げさでは無いか。もし、爆発したとしても対した事はあるまい。精々廃棄寸前のMシリーズ
と小僧を失うじゃ。事後処理さえ抑えれば騒ぎには並んじゃろ。童が小僧を使って何をするか知らんが、
童が危険を犯して出張るような問題か…まぁフェイト嬢は惜しいが」
「忘れたか爺。ディープホエールが一体何万発のカードリッジを飲み込んだと思ってやがる。塵も積もれ
ば山となる。一発一発の威力は対した事は無くとも、数万発のカードリッジと臨界状態に入ったレリック
レプリカの魔力量は桁外れな威力を秘めてやがるんだぞ」
「ふむ…なるほどな…で、予測しうる具体的な被害は?その場で圧壊でもするのか?」
「いや、一応周囲を巻き込んで大爆発を起こす…な…中のシン・アスカ毎な。規模だけの話じゃねぇが、
確証は無いが、爆発の余波で世界を分ける次元隔壁に干渉して未曾有不の魔力汚染が引き起こされるん
じゃ無いか。次元の壁から溢れた未知の物質は、重度の海洋汚染を引き起こし、まぁ手っ取り早く言え
ば、死の海の一丁出来上がりだ。もひとつおまけにミッドチルダ水産業は大打撃を受け、失業率の増大
と経済の悪化のダブルパンチ。内閣総辞職とは言わんが副次的被害は選り取りみどりだ。そうなったら
、揺り篭の件もどうなるか分からねぇ。計画は大幅な見直しと遅れが生じるんじゃねぇかクソッタレ!」
 スカリエッティは、徐々にテンションが上がって来たのか、それとも半ば自棄になっているのか、ど
っちにしても只ならぬ様子でバンザイしながら大声で喚きたてている。
「それは…ドクターの計画も遅れると言う事か、童?」
「俺達のな…まぁ金の流れが不安定になるのは目に見えてる。今までのようにやりたい放題は出来なく
なるな…自重しろって事だ」
 スカリエッティの端末の右上に時刻が表示されるのが見える。計算結果から予測される自壊までの限界
時間は約二十四時間。二十四時間以内にディープホエールの中からシンを助け出さねばならない。
 憎むべきコーディネーターを助けるなど、虫唾が走るを通り超して魂を陵辱される気分だ。
出来る事ならば、コーディネーターなどこのまま放っておいて、ディープホエールの体内で朽ち果てて
行けば良いとすら感じる。
「だが…」
 シン・アスカの死亡。
 スカリエッティの目的の為に、それは何としても避けねばならない事態だった。
 しかし、状況は絶望的で打開策すら見つからない。
 今から事を起こそうにも時間が経ち過ぎているし、何より手持ちの戦力はまるで無い。
 ドクターに泣き付いて戦闘機人を借り受ける時間さえ無いだろう。
 管理局も馬鹿では無い。
 そろそろ事態の深刻さに焦れ付き始め、六課か聖王教会辺りに尻拭いをさせる為に部隊を動かすはずだ。
 だが、スカリエッティの計算では、どれだけの大部隊を動かそうとも、暴走状態に入ったディープホエ
ールに敵うとは思えない。
 ただでさえディープホエールは魔力過多の状態だ。
 もし、高位魔道師による砲撃魔法でディープホエールの魔力融合炉が爆発した場合、空間が歪み大規模
な時空震が発生するかも知れない。
 どの道手を拱いていては、遅かれ早かれシン・アスカは死ぬ。シンが居なくては、次元跳躍は可能だと
しても目的地が設定出来ない上に、不確定な座標のまま時間跳躍を敢行すれば望んだ未来に辿り着ける保
証は無い。復讐を誓い志し半ばで倒れた無念も、折角現世に蘇った奇跡も全て水泡に帰す。
(残された戦力は…ディープホエールの中の警備用素体"ボーンソルジャー"三十二体か)
「賭けになるか…やるだけやって見るか」
 スカリエッティは肩肘を付き、赤い瞳を爛々と輝かせ、引き攣った顔のまま薄く笑った。

「次を右ですね」
「うん」
 薄暗い通路をフェイトとシンは、逸れないように手を繋ぎマグライトの光だけを頼りに慎重に進んで
いた。
 電気が来ていたのは、倉庫があった階層だけで、通信室と書かれた区画に差し掛かると周囲は暗闇に
支配されていた。
 マグライト程度の光量では、足元を照らすだけで精一杯な上に、湿った苔のような物が通路中に繁殖
して酷く歩き難い。
 壁伝いに慎重に移動し、曲がり角毎に地図を確認する。
目指す通信室はもう直ぐのはずだが、両手足に伝わって来る苔の気味の悪い感触の性で方向感覚が狂
いそうだった。
 進めば進むほどに空気は生臭くなり、段々と湿り気を帯びて来るのが分かる。
 まるで地獄の釜が開き、ヨモツヒラサカを無言に歩き続ける亡者にでもなったのでは無いかと錯覚し
そうだった。
「キャロ大丈夫…」
「平気です」
 先刻とは違い、キャロを背負っているのはフェイトだった。
 目覚めたキャロをシンがおぶろうと背中を向けたが、キャロが無言のまま拒否したのだ。
 シンはキャロの態度に傷ついたのか、頭を垂れ苦笑いのまま先に歩き出した。
「キャロ…帰ったら、お説教だからね」
 フェイトの小言にも、キャロは無言で無視を貫き通す。ただ、何かに脅えるようにフェイトの背中に
必死にしがみ付き身動ぎ一つしない。
 一体何がそんなに気に入らないと言うのだろうか。
 キャロは、普段聞き分けが良い子だがこのように一度ヘソを曲げてしまうと、抑圧された感情が大爆
発を起こし、保護者のフェイトが尻込みしてしまう程に性格が豹変してしまうと言うのだろうか。
 誰も気が付いていない事だったが、キャロは、その大人しい外見に似合わず実に苛烈な性格をしてい
た。
「ここか」
「見たいだね」
 三回ほど階段を昇り何度も苔で滑りながらも、シン達は漸く目的地である通信室に辿り着いた。
 案の定と言うか電源が死んでいて、エアロックはウンともスンとも言わない。
 シンは、扉を思い切り蹴り飛ばし、出来た隙間から強引に体をねじ込む
 背筋と両腕をフルに使い、手動でエアロックをこじ開ける。扉が軋んだ音を立てて徐々に開いていく。
「お疲れアスカ君」
「どうも」
 フェイトはシンの功を労い頭を撫でながら微笑む。
 その事じたい別段悪い気しないシンだが、ライントニング分隊の隊長さんにせよ副隊長さんにせよ、
シンの事をどうにも便利な弟か何かだと思っているようだ。
 一つ、二つしか年齢が離れていないはずなのだが、この扱いは一体何なのだろうか。
「電源は来てないよね…キャロ降りて。真っ暗だからね。二人共勝手にウロウロしちゃ駄目だよ」
「は…い…」
 完全に子供扱いされている。
自分は、そこまで頼り無く、いや、無鉄砲に見えるだろうかと若干諦念感で一杯なシンだった。
 フェイトは、キャロを降ろすと、シンからマグライトを受け取り暗闇を照らす。端末の陰がぼぉと浮
き上がり、あまり広く無い室内はそれだけで全容を把握出来た。
 通信室の中は特筆する点は無く、数台の通信専用端末に背後には大型ワークステーションが控えてい
る。内装は、六課指揮車両よりもアークエンジェル級戦艦のCICに近く、シンにとっては見慣れた物
に感じた。
「使ってる端末は…うん…六課の奴と同じタイプだねこれなら」
 フェイトは埃に塗れるのも構わず、端末のダッシュボードを剥ぎ取り、端末の中身をむき出しにする。
「何してるんですか」
 マグライトを口に咥え仰向きに倒れ込み、端末の中身を弄くっている。
「この手の端末には、電源が無くても非常通信用の内電源があるの。それを今手動で起動してるとこ。俗
に言う裏技って奴だね」
「はぁ…そんな事出来るんですか?」
 フェイトは、束になった配線を回路から引き剥がし、基盤の下に内臓された制御用のコンソールを取り
外そうと悪戦苦闘している。
「あんまり得意じゃ無いんだけど出来るよ。なのはが、こう言うの詳しいんだよ。もしもの時に覚えてお
けって言われてたんだけど…本当に役に立つとは思わなかったけどね。えっと、あとは確かこれを…ごめ
ん、アスカ君。ちょっとこれ持ってて」
「どれですか?」
「その右奥のソケット、そうそう、それ。ちょっと待っててね」
 シンは、端末下部の奥まった部分。丁度拳台の大きさが入る程度の大きさスペースに膝を付き右手を差
し込む。シンは、至近距離で丁度フェイトを向き合う形になる。
 そうなると、黒い水着の奥に隠された凶器が、シンの鼻先でたわわに揺れる事となる。
 エリオも"メロン"と称した高級感溢れるフェイトの豊満な胸は、正直見ているだけで眼福物である。

シンの目の前で、フェイトの胸がぶるんと大きく揺れる度に、頭と別の部分に血が集まりそうになっ
たが、この世で最もリビドーを刺激しない人物、アスラン・ザラを思い浮かべ必死で煩悩と戦ってい
た。
「取れた。ありがと、アスカ君。もういいよ」
「はい…」
 ほんの数分間の出来事だが、気力と精神力を根こそぎ削り取られ、もう何時間も闘いっぱなしのよう
な気がしたシンだった。
 フェイトは「そんなに疲れたの」と苦笑しながら、基盤に数本の配線を接続し始める。
 シンは「体力的にはでは無く精神的疲れました」と、文句の一つも言ってやりたかったが、考えて見
えれば、最初から左手を差し込んでいれば問題は無かったのでは無かろうか。
(…俺のミスか)
 別段成功も失敗も無いのだが、シンは、己のスケベ心を看破されたような気がして何だか強烈に後ろ
めたい気持ちに駆られる。
 因みに仮に左手を差し込もうとが、体勢的に考えると、今度はシンの背中にフェイトの胸が当たるだ
けである。どちらがより業が深いか否か考えるまでも無かった。
(無防備過ぎるんだよな)
 シンも普通の男性である。
 人並みの性欲だってあるし、胸やお尻を至近距離で見せつけられれば、当然少なからず煩悩を刺激さ
れ反応する。
 シンの脳裏にティアナの艶やかな脚線美とはやての小ぶりなお尻が思い浮かべる。
 どちらも、ボリューム満点とは行かない物のスタイルのバランスが非常に良い。
 それにフェイトとシグナムの巨乳を思い浮かべると、残念な事に、ティアナとはやての艶姿が上書き
されてしまう。
(生きるか死ぬかの状況で良くこんな事考えれるよな…俺)
 逆に言えば生きるか死ぬかの極限状態であるからこそ、本能が子孫を残そうと暴走しているのだろう
か。
 一瞬だけ凄まじい悪寒を感じたシンだが、すぐさま煩悩を振り払うように別の事を考え始めた。
 視線を直せば、フェイトが基盤とコンソール片手に何やら悪戦苦闘している。
 時折バキっやボキっと言った穏やかで無い音が聞こえて来る。
 そんなに乱暴に扱っては壊れてしまうのでは無いか。
 フェイトが、力任せに基盤を弄る度にシンは冷や汗かきながら、肝を冷やす思いでフェイ見つめてい
た。 
 何か手伝える事は無いかと考えるが、手伝える事は無さそうだった。
 シンもMSの簡易整備等の経験ならばあるが、専用の端末を弄る技術等持ち合わせておらず、それが
ミッドチルダの技術で作られた物なら尚更だ。
「これで多分大丈夫」
 基盤に火花が飛び焦げた臭いが鼻腔を擽る。
 恐ろしげな現象とは別に一台の端末がブンと曇った音を上げOSが立ち上がる。
「本当に付いた」
 疑っていた訳では無いが、シンは、フェイトが端末を手動で立ち上げた事に驚きを隠せない。
 普段魔力弾や斬撃波を所構わずぶっ放す姿は、今とは似ても似つかない物だったからだ。
 フェイトはすぐさま端末を操作し、六課への連絡を試し見る。
 独自のシステムなら、フェイトもお手上げだったが、通信室の端末は全て汎用品で。
 型は古いが"管理局"で重宝されている種類の物だった。
 コンソールを操作し転送型パケット通信を選択する。
 だが、端末のラグが酷くエラーを吐き出し続けている。
「ちょっといけないかも」
 フェイトの頬を冷たい汗が伝い落ちる。
 一応内部電源で、端末は稼動しているが、残された電力が思ったよりも少ない。
 このままでは、数分の内に電力が付き端末が停止してしまう。
 転送型パケット通信は、超長距離通信に適しているが端末の処理能力を馬鹿食いする。
 データ量こそ重くは無いが、端末に残された電力だけではとても送信し切れない。
 フェイトは送信を中止し、ディープホエール内の施設を検索し始める。
 一応ある程度の電力が確保されていたのだ。生き残る為には、何としても送電室系統の施設を見つけ
なければならなかった。

 首都クラナガン。
 某高級ホテル最上階スィートルーム。
 会員制で一泊するだけで平均的なサラリーマンの数ヶ月分の給料が吹き飛ぶような超高級スィート
を、彼はまるで私室のように無造作に扱っていた。
 ソファの上にシャツを投げ捨て、素肌の上に制服を羽織り、冷たい酒に舌鼓をうつ。仕事を終えて
 室内に明かりは無く闇に支配され、開けっ放しの窓から冷たい風が室内に吹き込み、男の頬を優し
く撫でる。
 窓が開けっ放しだと言うのに、流石に最上階にあるだけ辺りは静かだ。
 男が普段生きている地上の喧騒がまるで別世界のように感じられる。
「なるほど…現状は分かった。正直に言えば身内の恥はそちらで注いで欲しいが…まぁいいだろう。
支払いは今回は此方で持つよ。後、貴方の要望通り指揮権は六課へと委譲しておいた」
『すまないね、私の"息子"が迷惑をかけて。引き篭もり気味のアレが自発的に動いているのでね。つ
い手を貸したくなってしまった』
「貴方に"息子"が居た事事体驚きだが、まぁ構わんよ。年頃の子供は、娘にしても息子にしても扱いが
難しいのは変わらん」
『体験談かな?』
「貴方も所帯を持てば分かるさ。家族とは愛すべき存在だが、それ以上にややこしい物なのだよ。現に
私は娘達の破天荒な行動に頭を悩ませている」
 影は苦笑しながらワインを煽り、心底可笑しそうに笑う。
『娘さんは、確か歌手をしているとか』
「長女が服屋の店員。次女は病院の経理事務。末っ子がアイドル歌手…皆低俗な仕事だ。末っ子にいた
っては、折角良い学校に入れたと言うのに、勝手に中退した挙句、私に内緒で芸能界に足を突っ込みよ
ったわ。全く我侭ばかりやりたい放題で、娘が目の中に入れても痛く無いと言ったのは何処の馬鹿だと
言いたくなるよ。私は目では無く心が痛いよ」
 口調の割には男の声は楽しそうだ。
『なるほど…実に実感が篭っている。今度私の娘達に聞かせて見るとするよ』
「気持ち悪いと嫌がられるのがオチだ、止めてくれたまえ」
『了解した。では、引き続きアレの事を頼む。機会によっては彼女達に顔出し位はしておくよ』
「派手に動き過ぎ無いで下さいよ…こっちもフォロー仕切れませんぞ」
『心得たよ。自重しよう』
 薄く笑い通信を切る彼を見て、男は何が面白いのか、地団太を踏みながら大声を出して笑い始める。
 口ではああ言っているが、男には彼が何を考えているのか、手に取るように分かる。彼が現場に出向
いて顔見せ程度で済むわけが無い。
 ディープホエールの始末だけでも頭が痛いと言うのに、まだ更に厄介ごとが増えようとしているのに、
男は心底かわ湧き上がる愉悦を堪える事が出来なかった。
 グラスにブランデーを注ぐと、氷が解けカランと小気味良い音を立てる。
 男は口元を歪めクラナガンの摩天楼を睨みつける。
「ジェイル・スカリエッティ…二人のスカリエッティか」
 男は、彼程自分の欲望に忠実な人間を知らない。
 きっと、彼の辞書には"我慢"と言う言葉は存在しないのだろう。
 首都の中心に位置した、最上階から見渡せる夜景は絶品だ。クラナガンの摩天楼が、自分に跪いてい
るように見え、セックスとは違う極上の快感を覚える。
 夜景にワイングラスを翳すと、赤い液体の中にクラナガンの摩天楼が溶け込み、歪に歪み撓んだ世界
が除き見える。
「我等は、この街のように歪でなければならない…か」
 質量兵器によって齎された闘争と混沌は、果ての無い絶望を生み全ての希望を一時は無に還そうとも
した。
 非殺傷設定。
 魔法。
 管理局による次元世界の管理運営。
 一件するとクリーンで合理的な闘争手段に見えるが、底に見えるのは利己主義と魔法を絶対的な物と
見る排他的な思想その物だ。
「歪でなければ…世界を護れない。世界を護らなければ…悪夢は再び再来する」

ミッドチルダにおける悪夢とは質量兵器の復活に他ならない。
 質量兵器の復活阻止。
 その歪んだ思想こそが今の管理局を形作り、仮初の平和を維持している。
 彼の思想に最も近い物を持つ人物は、管理局内の人物はレジアス中将であろう。
 だが、彼とは平和に対するアプローチが違う上に少々過激過ぎる。
 聖王教会からのお目付け役であるカリム・グラシアも厄介な存在と言えたが、彼女も目論見は単純な物だ。
 彼女は予言を阻止する事しか興味が無く、当面はレジアスが隠れ蓑になってくれる事は間違い無い。
 男は含み笑いを漏らし、携帯電話を手に取る。
「私だ…例の件…承認しておけ」
 短い通話を終えた男の胸に、月の光が宿り管理局の上層部の認識表が鈍く光る。
 口にブランデーを流し込むと、喉を焼けるような熱さが通り過ぎ、頬がカッと熱くなる。
「ミッドチルダの恒久的な平和に…」
「…乾杯」と男は小さく呟いた。