RePlus_第五幕_前編

Last-modified: 2011-08-02 (火) 12:27:09

0075年 七月中旬
時空管理局遺失物管理対策部隊 機動六課隊舎。
同、部隊長オフィス。

「あ~あ…どないしよか」
「本当ですねぇ」
 手に持った作戦計画書と特別招待客名簿と見ながら、デスクの山盛りの書類に埋もれたは
やてとリィンフォースⅡは盛大に溜息を付いた。
「まさか、この人がオークションに参加するとは…予想外やわ」
「管理局の外郭団体に移ったと思ったら、別の団体に天下りしてたなんて」
 名簿の中の写真には、アッシュブロンドの髭を結った老人の顔が写っている。
「でも、なんやこの"ミットチルダ式魔法技術保存の会"って…うさん臭いにも程があるわ」
「ですねぇ…」
 はやては、ディスプレイを消し、椅子の背もたれに体重を乗せる。背もたれが、はやての
沈んだ気分のと同じように軋んだ音を立てて傾いて行く。リインフォースⅡもふわふわと力
なく飛び、そのままはやての頭に軟着陸する。その際に、靴を脱ぐ最低限のエチケットは忘
れない。二人は、はやての小さな額の上で互いに視線を絡ませながら、同時に深い溜息をつ
いた。
「まぁ、この人の事は置いといてや…問題は、オークション内の警備や」
「両者要望では六課隊長格をご指名ですけど、いっその事現場の判断で変えてしまいましょ
うか」
「そないしよか…」
 よっこいせと声を掛合い姿勢を正す二人。
「そうなると、編成やけど…リイン曹長殿、なにか案はある?」
「両分隊のフォワード陣から選抜すると、子供が保護者無しで出歩くのは、色々目立ってし
まいますですぅ。そう言う意味で、エリオ、キャロ両名は最初から除外。そうなると、スタ
ーズ分隊の中から誰かと言う事になりますけど」
「…アスカさんか」
「はい…アスカさんです」
 シンの顔写真とプロフィールが端末のディスプレイに映し出される。しかし、管理局側に
登録されている、"対外用"のシン・アスカの公式記録は全て偽造されたものである。顔写真
も当然の事ながら加工され、シンに微妙に似ていない顔が映し出されていた。
「この人さえおらんかったら、私達が行くねんけどな」
 シンのプロフィールと見比べるように名簿を睨みつけるはやて。
 クロワッセル・S・アンビエント。
 六課設立に最後まで反対した、管理局運営委員会の重鎮である。とある出来事、高町なの
はが本当の意味で"白い悪魔"と言われるようになった事件の末に委員会幹部の座を追われ、
管理局を放逐された人物だった。
「この人、今でも管理局上層部との太いパイプ持ってるから困るんよ。下手に突付くと藪か
ら蛇じゃすまなくなるかも知れんし。そうで無くとも、このアンビエント"元"上級委員は六
課を目の仇にしてたからなぁ」
「はいですぅ…」
 蛇足ではあるが、管理局と言う巨大な組織の中で六課のように人材機材共に充実している
部署は殆ど無い。皆限られた予算と人手不足の中で必死に遣り繰りしているのが現状だ。
 潤沢な予算と治外法権に近い人材の引き抜き。総務や人事部の猛烈な反対を押し切り、騎
士カリムの一声で設立が決まってしまった六課は、管理局の金の動きを牛耳る立場にあった
、アンビエントにとって目の上のたんこぶであった。
 管理局を離れた今も、彼は独自の交渉ルートから虎視眈々と六課解散を目論んでいる噂が
ある。そんな危険人物が居る現場で、六課の地雷、管理局全体の爆弾でもある、シン・アス
カを彼の目に晒す事、記憶に残す事はしたく無かった。
 可能性は摘んでおくに越した事は無いのだ。

「委員本人と揉めた、なのはちゃんと会わすわけにはいかへん。そうなると、私とフェイト
ちゃんかになるけど」
「どっちも困りものです」
「私は正直に言えば、会った瞬間に火種作りそうで怖いわ。となると、フェイトちゃんに会
場内の指揮を任せるんやけど」
「能力的に問題は無いですけど、倫理的に問題と言うか」
「フェイトちゃんは、純情過ぎる所があると言うか…人を疑う事を知らないと言うか」
「…戦力的に見れば単独強襲ユニットに近いですから、賊が複数の場合に備える必要もあり
ますし」
「そうなると、スターズのフォワード陣の三人にヴィータかシグナムを直援に付ける事が望
ましいけど…ヴィータは大人しくしてるタイプや無いし」
「本当に困りものです」
 ああで無い、こうで無いと悩み続ける二人。ようは、シンの存在さえ何とかしてしまえば
警備計画は簡単に立つのだ。シンを会場外警備に回してしまえば何の問題も無い。広い会場
を六課だけで警備するのだ。陸戦のみならず、空戦適性も持つシンは適任に思えるが実情は
そうでは無い。
 シンの魔力が不安定なのは、六課内では周知の事実だが、対外的にはそうでは無い。一応
六課の制服を着て警備する以上は、隊員達の姿は衆目に晒される。何事も無く終れば問題無
いが、賊が襲撃して来た時に間違いでも起これば、痛くも無い腹を探られる事になる。
 悪い言い方をすれば、シンが魔法を失敗して怪我をするだけなら問題無い。しかし、もし
、シンが魔法を暴走させた場合の被害は見当も付かないのだ。法と秩序を守る管理局の魔道
師が、一般市民を巻き込み怪我をさせたでは洒落にもならない。
 日々目まぐるしい成長を遂げるシンだが、彼は魔法を使い始めて半年も立っていない素人
だ。オークション会場には、各界の重鎮達も足を運ぶと言う。もし、彼らに怪我でもあれば
六課解散の危機を迎えてしまうだろう。
 そんな事情から、シン・アスカの能力を補う上でも、ティアナとスバルとチームを組む形
が最も望ましかった。
 論議が暗礁に乗り上げたと思った矢先に、執務室の扉が静かに開く。
「失礼します、八神部隊長。今宜しいでしょうか」
「ん、ええよ、アスカさん」
「「失礼します!!」」
 山盛りの書類を抱えたシン続き、両手の塞がった彼の代わりにティアナとスバルが敬礼し
ながら執務室に入ってくる。
「訓練予定計画書と各施設の使用許可申請書。後、日報と月報です。八神部隊長、内容のチ
ェックと判子お願いします」
「えらい多いな…」
「三人分ありますから」
「ああ、なんや、ティアナとスバルの分もか。てっきりアスカさん一人の分かと思ったわ」
 ははは、と乾いた笑いを漏らすはやて。
「はい…って、何処におけば」
「ああ…そ、そやね」
 ああ、と呟きながら途方に暮れるはやて。はやての執務用デスクは大きめの物だが、その
面積の殆どを紙媒体の書類と金文字の報告書が占めている。どう考えても、シン達の書類を
置くスペースなど何処にも無い。
「こ、こっちに置いてくれるかな」

 はやては、何処から持って来たのか、安物のパイプ椅子をシンの前で組み立て始める。年
代物のパイプ椅子は、動かす度に埃が舞い、その度にはやてとリインフォースⅡが咳き込ん
だ。
「ティア…部隊長苦労してるんだね」
「…み、みたいね」
「あはは、ごめんな皆、散らかってて」
 六課始動当初こそ片付いていた執務室だが、時が立つにつれて段々と未整理の書類が増え
始め、現在では設立当初の清潔さは見る影も無く、報告書と捜査資料に埋もれ始めていた。
「整理手伝いましょうか?」
「ありがとうな、アスカさん…でも、今その場所から動かすと、私もリインも何処に何があ
るか分からんくなるから…」
 苦笑いしながら答えるはやて
「なんで六課って紙媒体使ってるんですか。データで纏めた方が整理出来ると思うんですけ
ど」
 最もな疑問をティアナが口にする。量が多いなら全てデータに纏めてしまい、必要な分だ
け印刷して閲覧すればいいだけの話だ。
 実際シン達も事務仕事の時はそうしている。
「まぁね。でも、多少古臭いけど紙は処理の仕方によって、データと違って改竄も効かせん
から、ある程度は安全なんよ」
 レリックのデータの一部でも漏洩すれば大災害に直結し兼ねない。そんな理由から特一級
案件に関わる六課ならではの悩みと言える。
「でも、これじゃあ書類」
「あっ、それは大丈夫ですぅ。六課執務室には、機械的にも魔法的にも特殊な防犯処置を施
してるから、無断で何か持ち出されれば速攻で御用ですぅ」
「そ、そうですか…」
 実に無駄な豪華仕様だった。
「でも、この量凄いですよ…なんていうか書類の山」
「ティア、山って言うより、これ山脈だよ」
「アンタねぇ…もうちょっと言い方あるでしょ」
「否定できへんのが辛いねんけどね…でも、せっかく来たんやから、お茶でもどない。私達
もちょっと休憩しよう思てたんや」
「いいんですか?」
「かまわんよ…上司と部下の触れ合いも大事や。カリムから美味しいお茶貰ったんや。飲ん
で行き。リイン、お茶請けあったやろ。水嶋屋の羊羹。丁度人数分あるはずや」
「はいですぅ」
 甘い物と聞いて、リインフォースⅡとスバルの瞳が輝き出す。その様子を見たシン達は顔
を見合わせ合い苦笑いを漏らした。

「ちょっと次の任務でな…困った事があって、それで、頭悩ませとったんよ」
「困った事ですか?」
「そうや、会場内の配置で上層部の意向と現場の判断が噛み合わへんのよ」
 はやては、シンが原因とは口が裂けても言わない。
「上層部の意向?」
 羊羹の甘い匂いがシンの口腔に広がる。あくまでシンの好みだが、羊羹は日本茶の渋みと
合わせるとお茶請けには最適と言える。

「六課としては、アスカさん達を使いたいんやけど、上層部は私達隊長格を押してる」
「ああ、俺上層部に受けが悪いですからね」
 言った後でシンは、しまったと後悔する。シンの脳裏に五月の事件が浮かんで来る。管理局
本部を強襲した不特定生物群相手にシンはMSデスティニーで迎え撃ち、シンが魔道師として
生きて行く切っ掛けとなった事件だ。
 ミッドチルダでは、質量兵器の使用は愚か保有すら禁じられている。全身兵器で固められた
デスティニーは管理局にとって鬼札そのものだ。
 現在は大破し本局地下格納庫に安置されているが、ミッドチルダの技術ならば、時間をかけ
れば技術解析は難しい事では無い。
 シンの失言に、はやては眉を潜めるだけに留める。ここで、シンの失言を話題に上げれば、
シンの過去に言及する必要が出てくる。はやてだけなら、巧くまとめる自信があったが、性格
的にシンに嘘を付き通せる事が出来るとは思えなかった。
(アスカさんには…後でお説教やな)
 ぞくりと背中に悪寒が走るシン。はやてはニコニコ微笑みながら、シンに無言の重圧を向け
ていた。
「ふぅ~ん。アスカって優等生っぽいと思ってたんだけど…訓練生時代に何かやったの?」
「あ、ああ…そうだな。ちょっと昔に命令違反をな…少しだけ」
「へぇ…意外ねぇ」
 珍しい物でも見たかのように、キョトンとするティアナ。シンは、苦笑いしながら必死で誤
魔化そうとしていた。シンは、ティアナがザフト時代の自分の少々どころでは無い問題行動を
知ると、腰を抜かしてしまうか知れないなとは思い苦笑いを漏らす。
「ティアナ二等陸士。人の古傷抉ったらあかんよ。その辺は察して上げな、アスカさんが可哀
想やで。脛を蹴られるはティアナも嫌やろ」
 この話題はここで終わりとばかり、はやては、わざと音を立てながら日本茶を啜る。
「す、すいません」
 ティアナは、はやてに咎められ視線を伏せてしまう。実際シンの場合、探られると命令違反
では済まない過去が大量にある。
「八神部隊長?それって、結局"シン"君が"シン"君じゃなきゃ良いんですよね」
「そらそうやけど。何やスバル妙案でも浮かんだん?」
「だったら、こんなのどうですか?」
 今迄羊羹を食べるのに必死で会話に入って来ようとしなかったスバルが、急に席を立ちはや
てに耳打ちし始める。食べるのに夢中かと思ったが、聞くべき処はキチンと聞いていたようだ
。口元にへばり付いた餡子を除けば、この辺りスバルは雑に見えて案外卒が無い性格だった。
「…成る程…な…それは盲点やったかもしれん…しかも意外に悪くない。でも、待ちやスバル
。そうするんやったら、こんなんどうやろ」
「…それいいかも八神部隊長。ほら、シン君って結構…だから」
 互いの耳元でひそひそ話しに興じる二人。その様子にシンとティアナは怪訝そうな視線を向
ける事しか出来ない。はやてとスバルは、完全に二人の世界を構築してしまい新参の二人が入
る隙間が無いのだ
「ティアもちょっとこっち来てよ」
「なによ、急に」
「いいから!」
 スバルに手招きされ、はやてとスバルの間に入るティアナ。
「えっ!でも、そんなの…アスカって…でも」
 何を吹き込まれたのか、驚き、そして、頬を朱に染め急にモジモジとし出すティアナ。背中
に妙な悪寒を感じながら、シンは三人が一体何の話をしているかのか、益々分からなくなって
来る。

「ええか、先入観を捨てるんや。常識に縛られた"現実"の目で見るんや無いで。妄、失礼。想
像で彩られた"心"の目でしっかり見るんや」
「でも、部隊長…」
「ええから、やってみ!」
 はやては、鼻息を荒くしながらティアナの肩をがっちり掴む。まさに進退窮まるホールドア
ップ状態である。ティアナもシンに対する罪悪感からか「でも…」と戸惑うが、最後ははやて
達に乗せられる形となる。そのまま目を細めシンに危ない視線を向ける新三人娘。リインフォ
ースⅡも便乗し頭の上で目を細めている。シンは、四人から妙な重圧を感じ思わず気圧され湯
飲みを落としそうになる。
「な、なんだよ、急に…」
「元々目つきはキツイけど、アスカって女顔だし…やだ、どうしよう…案外いけるかも」
「ティアもそう思うでしょ。八神部隊長!これでいきましょうよ」
「そやな、これなら全部丸く収まりそうや。よし決めた。スバル、ティアナ、これで行くで!
協力してや」
「はい!」
「え、ああ…はい」
 スバルは元気良く。ティアナは、まだ迷っているようにおずおずと返事を返す。
「リインはシャマルに至急連絡取って。到着次第、速攻で採寸と調整や」
 執務室内に先刻まで漂っていた陰鬱な空気が消え、解決策が見つかった事が大きいのか、は
やての顔から影が消え活力に漲った表情を見せ始めた。
 はやては、通信ディスプレイを開きシャマルに大急ぎで指示を出し始める。その横でリイン
フォースⅡが「アスカさんの身体データ、解析結果出ましたですぅ」と激を飛ばす。
 スバルがカタログを取り出し、何かを吟味し黄色い声を上げ、その横でティアナが、チラチ
ラとシンを盗み見て時折頬を赤く染める。
 まぁ問題が解決したならばいいかと、蚊帳の外のシンは一抹の寂しさを覚える。突撃が"大"
好きなシンでも、異様なテンションの四人組に入っていく根性は無かった。
 結局、妙な悪寒を感じながらも、聞こえてくる言葉に無視を決め込み、シンは必死に現実逃
避を始めていた。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第五幕"ホテル・アグスタ-imitation"

ミッドチルダ首都南東地区
「ほんなら改めて、ここまでの流れと今日の任務のおさらいや」
 青空の中を六課保有の輸送ヘリが、ローターをはためかせながら飛翔する。大型の輸送ヘリ
と言えど、貨物室に六課前衛隊員の殆どが乗り込んでいれば手狭にも見える。
「これまで謎やったガジェット・ドローンの製作者及びレリックの収集者は現状ではこの男」
 中空にモニターが現れ、紫色の髪と金色の瞳を持った優男が映し出される。
「違法研究で広域指名手配されてる、次元犯罪者"ジェイル・スカリエッティ"の線を中心で捜
査を進めます」
「こっちの捜査は、主に私が進めるんだけど皆も一応覚えておいてね」
「ぷぷぷ」
「クスクス」
 ブリーフィング中、はやてとフェイトが真面目に話をしている間にも、ヘリ内には何故か忍
び笑いが漏れている。パイロットであるヴァイスも操縦桿を握りながら必死で笑いを堪えてい
た。
「で、これから向かう先はここ、ホテル・アグスタ」
 モニターが切り替わり、森林の中に一つ聳え立つ瀟洒なホテルが映し出される。
「骨董美術品オークションの会場警備と人員警護、それが今日のお仕事ね」
「取引許可の出ているロストロギアが幾つも出品されているので、その反応をレリックと誤認
したガジェットが出て来ちゃう可能性が高い…との事で私達が警備に呼ばれた、で、ですぅ!」
 リインフォースⅡの明るい声が響く。しかし、その声は何処か無理をしている風に映る。ま
るで、何かを我慢しているようで特
に会話の語尾が変な風に裏返っていて、聞いていて不自然極まりない。
「…シンさん、ちょっとそれは…似合い過ぎで…す」
 エリオは既にもう我慢の限界なのか、表情こそ必死に堪えているのだが、目が笑ってしまっ
ている。
「この手の大型オークションだと密輸取引の隠れ蓑になったりするし、色々油断は禁物だよ」
「駄目…似合い過ぎてます」
 普段真面目なキャロでさえ、フェイトの声は既に耳に入っておらず、シンの"格好"を見て忍
び笑いを漏らしている。
「現場には昨夜からシャマルとシグナム、ヴィータ副隊長が待機してくれてるから」
 真面目な話の真っ最中なのだが、そこらかしこから聞こえる忍び笑いの性でどうにも緊張感
が無かった。
「私達は建物の外の警備に回るから、前線はシグナム副隊長の指示に従ってね」
「はい!」
 こめかみに青筋を浮かべながら、シン一人だけがヤケクソ気味に答える。会場内の直接警備
に参加する、シン、ティアナ、スバルは、六課の制服では無くそれぞれ特別なお仕事着に着替
えていた。
 ティアナは、鮮やかな若草色のサマードレス身を包み、薄らとルージュを引いてめかし込ん
でいる。スバルも髪色と同じ青色のドレスに身を包み、普段絶対しないであろう化粧を施して
いる。

 ティアナに比べて、スバルのドレスはスカートの丈が短く、健康的な脚線美をこれでもかと
魅せ付けていた。
 二人は美少女と言っても問題程の器量の持ち主だ。普段訓練、訓練と勤しんでいても、キチ
ンと身なりを正し、化粧をすれば、マイク片手にテレビに出演していても可笑しく無い存在な
のだ。そして、そんなティアナ達の間を、不機嫌さを隠す事無く、これまた二人に"負けず劣ら
ず"の美女が座っていた。
 腰まで伸びた黒髪に勝気そうな赤い瞳。漆黒のドレスを着込み、上背の性もあってか街中で
すれ違えば生唾モノの美女である。

「…ごめ…ん、アスカ…さん…私…もう限界かも」
「はやて…折角アスカ君が無理してくれてるのに」
「でも、似合ってる…からいい…じゃない、かな」
「そうやねんけど…予想以上に似合いすぎて…ごめん、アスカさん」
 もう、真面目な顔をするのも限界なのか、はやて達もお腹を抱え、笑い声を上げ始める。
「あ、あんたら一体何なんだ!!!」
 止まらない笑い声の中、若干涙目になった"女装"したシンの大声が響き渡る。
 しかし、それでも笑い声は絶える事は無く、そんな面々と見てザフィーラ、付き合ってられ
んとばかり大きな欠伸を漏らした。

「いらっしゃいませ」
 ホテル・アグスタ。
 地元で有名な一見さんお断りの完全会員制の宿泊施設である。会員になる為には、収入は勿
論の事、血筋や学歴その他諸々含めて厳正な審査が行われる。一部の上流階級の人間しか入る
事を許されない超高級ホテル、それが"ホテル・アグスタ"だった。そんなホテルに政財界の重
鎮達がのオークションに参加しようと、セキュリティゲートで長蛇の列を作っていた。
「ようこそ」
 シンが差し出した市民カードをボーイが確認する。ボーイの視線は、シンの顔とカードを何
度も往復し、その度にシンは寿命が縮んだ気がした。
「こ、こんにちは」
 精一杯の女の子っぽい声を出してみる。緊張し過ぎて裏声になって無いかと肝を冷やす。幾
ら、外見だけ完璧に化けようがシンの心は男性だ。心まで化ける事は難しく、仕草一つ取って
も男性特有の荒っぽさは拭えない。
 シンを見つめたまま押し黙るボーイ。
(ばれたか?)
 シンの背中に冷たい汗が流れる。一応格調高い高級ホテルである。ホテル側の要請で警護に
付いているシン達だが、ホテル側も自衛手段を怠っているわけでは無い。賊が、女装した変質
者が侵入したと分かれば、強面の警備員が即座に飛んで来るだろう。
 両者の都合上、今回の警護は秘匿性が第一である。その為世間的に顔が割れているはやて達
は、元々今回の任務には相応しく無いのだ。
(ここで変装がばれたら不味い)
 シンの心の中では、今回の処置はあくまで"変装"であって"女装"では無い。あくまで任務、
あくまで作戦行動の一環である。と言うか現実を認めてしまうと、心が折れてしまいそうなシ
ンだった。
「ごゆっくりアスカ様」

 何故か頬を薄らと朱に染めるボーイにシンは薄ら寒いものを感じ、即座に退散しようとする
が、左右の手足が同時に動いて巧く動けない。
「アスカ姉さん、後が仕えてるんだから、ほら」
「ら、ランスター?」
「馬鹿アスカ、あんた設定忘れたの」
 ジト目で睨み、シンを小声で叱責するティアナ。そのまま、シンの体に身を寄せ、耳元で呟
く。普段髪を結っているティアナだが、この日は解きストレートに伸ばしている。いつもと違
う感じがする性で、どうにもやり難いシンだった。
 ティアナの着ているサマードレスは、生地が薄く滑らかなもので、触れ合っている部分から
ティアナの熱が直接伝わっている。胸元も下品で無い程度に開き、スリットから見える白く健
康的な足とハイヒール姿は魅力的だった。アクセント程度に付けたパールブルーのイヤリング
と潤った唇は、ティアナをより女性的に見せる事に成功していた。
「いや、すまん…えっと、ティ…ア…ナさん?」
「一文字単位で喋らないでよ。それに何で疑問系なのよ、アスカ姉さん。後"さん"もいらない
から」
「…何で俺だけ呼び方がファミリーネームで、ランスター達がそのまんま何だよ。シンでも別
に良いじゃ無いか」
「知らないわよそんなの。部隊長に聞いてよね。それにシンって、男性の名前じゃないの」
「それは…」 
 確かに自分の姉妹相手にファミリーネームで呼ぶのは、流石に不自然である。だが、これで
はティアナとスバルの名前を呼ぶ事だけでも難儀してしまう。普段呼び慣れた名前で呼べば良
いのに、三姉妹など妙な設定を作るから現場が混乱するのだ。
 不公平だとシンは心の中で愚痴る。
 はやてが、シン達三人に与えた仮の身分は至極単純なものだった。都内在住の資産家の三人
娘。娘達の名前は、それぞれ、アスカ、ティアナ、スバル。シンの場合ファミリーネームが女
性のような響きだった為、コールサイン等の利便性を考え、そのまま採用となった。両親が急
用の為、本人達の社会見学を兼ねて、オークションに急遽代理で参加すると言った実にベタな
ものだった。それで本当に大丈夫なのかと、シンは心配していたのだが、案外簡単に潜入出来
てしまいシンの心配は杞憂に終わった。
(いっそ、ここで失敗していれば良かったかも)
 ろくでも無い事を考えるシンだった。
「待ってよ、ティア、シ…アスカお姉ちゃん」
「な、ナカ…落ち着け」
 声をドモらせるシンの後から、スバルが駆け足で近づいて来る。二人ともティアナに一睨み
され慌てて言い方を改める。
 お前が落ち着けと、心の中で溜息を付くティアナ。意外であるが、シンの年齢は十七歳。三
人の中で一番年上であった。必然的に長姉役を拝命したシンは、お姉ちゃんと言う呼び方に大
いに戸惑った。
「ふぅ、まぁ良いわ。取り合えずシグナム副隊長と合流しましょ」
「そうだな。待ち合わせ場所は?」
 ロビーのど真ん中で漫談していては目立ち過ぎる。一応隠密性が最優先なのだから、こちら
から目立っては本末転倒である。
 シンは気持ちを切り替え、表情を引き締めた。
「二階歓談室よ。集合時間まで…ねぇアスカ、アンタ何でそんなに蟹股なの?男ってばれちゃ
うじゃ無い」
「いや、それは…」

 下半身がスースーして落ち着かないとは、口が裂けても言えないシンだった。
 シンが着ているドレスは、太ももまで深いスリットが入った、漆黒のロングドレスだ。際ど
いスリットなど入れては、隙間から見えたらどうすると思ったシンだが、計算に計算し尽くさ
れた匠の意匠は、シンが幾ら蟹股で練り歩こうが、禁断の花園を外に晒す事は無かった。
 無駄な筋肉が一切付いていないシンの脚線美は中々のもので、そのしなやかさは鴨鹿を彷彿
させる。
 当然無駄毛の処理は完璧で、妙なスキンクリームを塗られた性か、足が妙に白く見えて仕方
無い。シンの上背は、男性にしてはそれ程高いモノでは無いが、女性から見ると十分で体型と
相まって現役の女性アスリートのような力強さを感じさせた。
「でも、凄いねここ。外見は案外地味なホテルなのに、中は目茶目茶豪華だし。ほら見てティ
ア、シン君!この壷とか凄く高そうだよ!」
 展示されている、やたらと高級そうな壷をペタペタと無遠慮に触るスバル。ティアナは、溜
息を付きながら、何気なく端末のカタログから壷を検索する。
 誰にでも触れる所に展示してあるのだ。大した値段ではあるまいと思うが、壊して事である
。やめさせなければと思ったティアナだが、カタログの検索結果を見て顔が見る見る内に蒼白
になる。
「スバル…」
「なにティア?」
 ティアナのいつに無く緊張した声が聞こえる。気のせいか、声が引き攣り上擦っているよう
にも聞こえる。
「そのまま、ゆっくり壷から手を離して…こっち来なさい」
「?」
 頭の上にクエッションマークを浮かべ、ティアナに怪訝そうな視線を送るスバル。ティアナの
端末を何気無しに覗き見たシンが、同じように顔を青くしながら声を震わせた。
「…ナカジマ…ランスターの言う通りにしろ…そのまま静かに…ゆっくりでいいんだ。こっちに
来い…いいなゆっくりだ…焦らなくていい」
「シン君まで、どうしたの?」
「「いいから来なさい!!」」
 二人の有無を言わさない迫力に気圧され、スバルは不満そうに壷から手を離す。そのまま、シ
ンとティアナは、スバルの両手をそれぞれ拘束し、スバルを抱えるように強引に引っ張っていく
。二人は、ロビー中央の螺旋階段を駆け足で上り二階、来客用の休憩室でようやく一息ついた。
「危なかった…」
「ええ…もうちょっとで若い身空で返しきれない借金を背負うとこだったわ」
 ソファーにもたれかかり、荒い息を付く。
 因みに無造作に展示されてあった壷のお値段は、二人の年収の二十倍強。一介の陸士程度の年
収では、返済するのに何十年とかかってしまう代物である。
「なんであんな馬鹿高い物が、柵も警報装置も無しに置いてあるんだ…か、金持ちのやる事は良
く分からないぞ、本当に」
「そうね…一応保険には入ってるでしょうけど、不注意で壊して、請求が六課に来たら八神部隊
長泣く位じゃ済まないわね」
 実際何十億円もするMSに乗っていたシンだが、あれは軍の備品でありシンの専用機ではある
が私物では無い。庶民であるシンは、その辺の金銭感覚は常識的と言えた。
「魔窟だ…」
「ええ…この任務…予想以上に辛いわよ、アスカ」
「ああ」
「もう…急にどうしたの二人共?」
 妙な方向に職業意識を燃やす二人に、スバルは怪訝そうな視線を向けていた。

「遅かったな三人共。迷ったか?」
「いえ、ちょっと色々ありまして…」
「そうか、ご苦労だったな」
 嘆息するティアナを見ながら、シグナムは何処か上の空が答える。
「シグナム副隊長?」
「あっ、ああ、何だ?スバル」
 スバルの声も聞こえていないのか、どうにも普段と様子が違う。表情こそ、目を吊り上げ理知
的な装いを見せているが、浮き足立っているのか、それとも地に足がついていないのか、シグナ
ムは辺りを忙しなく見回しながら落ち着かない様子だった。
「いえ、なんか…そわそわしてますけど。どうしたんですか?」
「あ…まぁな…そうだな。少し…だけな」
(…足元が落ち着かん)
 元々公式の場以外では、着飾る事が少ないシグナムだ。自分は、てっきり会場外警備に回され
るものとばかり思っていたのだが、当日蓋を開けてみれば、会場内警備に配置変えされていると
はシグナムにとっても予想外だった。
(それなら、そうと言ってくれれば覚悟も決まったものを)
 一体何の覚悟を決めると言うのだろうか。眉間に皺を寄せながら、シグナムは目を吊り上げて
いる。
「シグナム副隊長?」
 自分達は、何かシグナムの気に障る事をしただろうかと、表情を曇らせる三人。こうなると、
嬉々としてドレスを持って来たシャマルが余計に忌々しく思えて仕方ない。
「そんな顔をするな。本当に大した事じゃ無いんだ。それに、スバル。私は、アスカほどソワソ
ワしていないぞ」
 女装したシンを見て、余裕を取り戻したのか、シグナムは口元を隠し微苦笑する。シグナムと
の待ち合わせ場所は、来客者が歓談に使う休憩室だ。オークション開始まで二時間以上ある。当
然歓談室には、多くの人が出入りしボーイ達が軽食や飲み物を配っていた。
 そんな中でシンは、自分の"変装"がばれてしまわないかと気が気で無かった。
「アスカ…あんたねぇ、そんなにビクビクしてたら、バレない物もバレるわよ」
「し、仕方ないだろ。こんな事したの始めてなんだ。慣れて無いんだよ」
「慣れてたら逆にヒクわよ」
 シンは、眉をへの字に曲げながら、ぶっきら棒に答える。
「まぁ分からないでも無いけどね。作戦とは言え、そんな格好してるんだもんね。ちょっとだけ
同情してあげるわよ」
「誰が好き好んで変装なんかするか」
「女装の間違いでしょ、アスカ姉さん」
 むっとするシンをティアナは微笑みながら見つめる。
「ランスター、お前…実は鬼だろ」
 シンは抗議の声を上げるがティアナは何か嬉しいのか、シンの言葉な何処吹く風と言う具合に
上機嫌だ。どうにも今のシンをからかう事が楽しくて仕方ないらしい。
「でも、アスカ姉さん。それ、すっごく似合ってるんだよ。まるで、本当のお嬢様みたい。自信
持っていいよ」
「…そんな自信はいらない」

 スバルの容赦の無い一撃にぐったりとうな垂れるシン。
「何で俺がこんな恰好を…大体同じするなら、服の種類はともかく、色くらいは選ばせて欲しか
った」
 シンは、せめて、好きな色ならばもう少し我慢出来ると思った。
「黒も似合ってると思うけど。因みにアスカ、アンタ何色が好きなの?」
「そうだな…赤とか好きかな」
 シンにして見れば、聞かれた事に素直に答えただけだ。だが、そんな事を言われて額面通りに
受け取る面子では無い。
「なっ…年上をからかうなアスカ」
 シンの言葉に、眉を潜めるシグナム。しかし、その表情とは怒っているとは言い難く、困惑し
ている、戸惑っていると言った方が近い。シグナムの衣装は、深いワインレッドが印象的なロン
グドレスだ。胸元にクリスタルが煌き、シグナムの容姿も相まってか、派手な色合い割に上品な
イメージがある。トレードマークの真紅の髪は今は結い上げられ、白いうなじが丸見えになって
いる。大きく露出した肩口等、往々にして見直して見れば四人の中でシグナムが一番際どいドレ
スを着ていた。
「あ、いや、その」
 別に服を褒めたのでは無く、好きな色を言っただけなのに何故こうなるのだろうか。ティアナ
がシンの背中を無言で抓り、襲ってくる鈍痛にシンは必死で堪えていた。

 会場内を警備するに際にシグナムは、シン達を二人一組に分ける事を提案した。広い会場を四
人で固まって警護するのは手間であるし何より確実性に欠ける。
 事前に見取り図は頭の中に叩き込んでいるシン達だが、実際に見て回った方が理解度も違って
来る。そんな理由でシグナムは、シンと落ち着きの無いスバルを組ませ、自分は来後詰めとして
ティアナとチームを組み、会場内を巡回し始めた。
「流石に会場内の警備は厳重ですね」
「ああ。これなら、一般的なトラブルにも十分対処出来るだろう」
 実際にオークションが行われる劇場内を見渡す。来客に気づかれないように、ホテル側のSP
達が、周囲に気を配っている。普段は洒落た演目が行われているのだろう、高そうな革張りの椅
子には、既に老紳士達が席にもたれ掛り談笑している。
「外は部隊長達が固めてますし、入り口には、非常用の防犯シャッターもありますから、ガジェ
ットがここまで来てドンパチって事は無さそうですね」
「油断は出来んがな…どちらにしても、私達の出番は本当の非常事態だけだ…それに」
「それに?」
「入って来たら、レヴァンティンの錆にするだけだ」
 首元にかけた、待機状態のレヴァンティンを撫でながら好戦的な笑みを浮かべるシグナム。
 確かにシグナムならば、市民の避難誘導そっち退けで、敵陣へ一人突っ走りそうなイメージが
あった。そのまま、シグナムは赤いドレスを翻し意気揚々と劇場を後にする。呆気に取られたテ
ィアナもシグナムに続き劇場を後にする。
 会場から出る瞬間、最後にシグナムは席で談笑する一人の"老人"を目に焼き付けた。

「デスティニー…オークション開始まで、どれ位だ」
『約二時間です』
 電話をするフリをしながら、シンはデスティニーに会場内の様子をスキャンさせる。外に控え
る中継指揮車から送られて来るデータはリアルタイムで更新され、会場内の詳細な状況をシンに
知らせてくれた。ティアナ達と別れたシンは、スバルと共に一階を重点的に巡回し始めた。打ち
合わせ通り、非常口や緊急避難経路を確認して回る。
「ねぇシン君」
「どうした、ナカジマ」
「むぅ」
 シンが振り返ると、頬を栗鼠のように膨らませたスバルが目に入って来る。
「な、なんだよ」
「スバルだよ…アスカ、姉、さ、ん」
 スバルは、まるで、新しい玩具を見つけた子供のように瞳をキラキラと輝かせる。口を窄め上
目使いでシンを見つめてくる。
「お前、まだその設定通すつもりなのか。会場内に入ってしまえば、もういいだろ」
「駄~目。何処で誰が見てるか分からないんだから、油断は禁物だよ、シン君。これも六課の大
事な任務なんだから」
シンは、動揺を隠すようにスバルから視線を外す。スバルは、その仕草に機嫌を良くしたのか、
眉間に指差しながら、好奇心旺盛な猫のようにじわじわとシンへと迫って来る。
「近づき過ぎだぞ、ナカジマ」
「スバルだよ、ア、ス、カ姉さん」
「お前、性格悪すぎだぞ。実はランスターより」
「幸いぃ、周りには誰も居ないし。この辺でちゃんと練習しとか無いと、ティアに怒られちゃう
よ、ア、ス、カ姉さん」
 シンの言葉を途中で遮るスバル。スバルからいつも感じる、能天気で明るい年下の女の子の感
覚が抜けないシンは、今のチャシャ猫のように自分をからかうスバルと結びつける事が出来ない
。しかし、確かにスバルの言う事も一理ある。何故はやてが、シンを女装させたのか。最後の最
後まで真意を計り知る事は出来なかったが、やはり、それ相応の理由はあるのだろう。
 例えそれが限りなく後付けに近い物であったしてもだ。
 実際シン自身も口調の変化と言った基本的なミスで、自分の正体を晒したいと思うはずも無い
。しかし、理性では分かっていても、そう容易く物事を割り切れる程、シンは器用な人間では無
かった。確かに誰も居ない今は、練習する意味では適していたが、結局恥じが先に立ってしまう
のだ。
「分かった…少し練習しよう」
「流石シン君!」
 シンは、辺りをキョロキョロを見回しながら、周囲に人の気配が無い事を確認する。そして、
トドメとばかりに、デスティニーで索敵をかける程の駄目押し、いや、ヘタレっぷりを発揮する

「い、いくぞ」
 シンは、スバルを廊下の物陰に連れ込み、顔を引き締めながら、真剣な表情でスバルを見つめ
る。だが、視線が上へ下へと動き回り安定しない。スバルの瞳に自分の姿が映りこむ度に、心臓
と叩くリズムが早くなり、それと同時に形容しがたい悪寒を感じる。シンは、何故自分がここま
で躊躇っているのかと自問する。シンの脳裏を、はやてとティアナとシグナムが過ぎって行く。
 何故彼女達がと思う暇も無い。もしかして、自分はトンでも無い事をしようとしているのだは
無いだろうかと不安になった。
(何とでもなれ!)

 只、同僚を名前で呼ぶだけである。それだけの行為に何故ここまで緊張し躊躇しなければな
らいのか。考えて見れば、ホーク姉妹に対しても平気で名前で呼んでいたでは無いか。
 そう思うと、シンは、スバルの要求も全然対した事無いと思えて来た。だが、面と向かって
名前を呼ぼうと、いざ口を開こうとすると声が喉を震わせるだけで声にならない。
「す…」
「え?何聞こえないよ、アスカ姉さん」
「す、スバル」
 必死の思いで搾り出した声も、まるで、蚊が鳴くような小さな声だ。シンの口元に顔を近づ
けて、ようやく判断出来る程の小さな声。
 しかし、その小さな声でもスバルには十分だった。シンがスバルを名前で呼んだ瞬間、スバ
ルの表情がしてやったりと輝いた。
「な、なんだよ、急に!」
「ううん、別に!何でも無いよ!」
 シンに名前で呼ばれたスバルは、何故か急にそわそわし始める。深く深呼吸し、両手を大き
くふりながら否定する。シンは、予想とは違うスバルの反応に虚をつかれる形となる。スバル
がブティックの店員のように、口ごもるシンを見て遊んでいるのかと思っていたのだ。
「あのね、シン君…私なんか嬉しかった!行こっ!ティアと副隊長が待ってるよ」
「あ、ああ」 
シンは曖昧に頷きながら、駆け出したスバルの後に続く。ドレスが邪魔をして走り難い。
(何でこんな長いのを)
 同じ着るなら、もう少し動きやすいのが良かったと一人愚痴りながらも、シンの頭の上にク
エッションマークが乱れ飛んでいた。

「あそこか…」
 ホテルを囲むように覆い茂る森林の中を二人連れの男女が歩いている。男は、抜き身の日本
刀のような張り詰めた空気を身に纏い、年端もいかない少女を連れていた。男が繋いでいる手
は小さくか弱い。腰にも届かぬ体躯は、抱きしめれば壊れてしまいそうな儚さを感じた。
「お前の探し物はここには無いのだろう」
 男は、慈しむような、哀れんでいるような、名状し難い視線を小さな少女に向ける。少女は
何も答えず、何も語らず視線だけを男に向けていた。紫色の長い髪に、民族衣装を彷彿させる
衣服に身を包み、少女は木々の間から見える空だけを見つめている。
 その瞳は何を写しているのか。
 少女からは意思の光と言う物を感じる事は出来ない。
「何か気になるのか」
「…うん」
 何処から現れたのか、小さな虫のような物が少女の指に止まった。良く見れば虫は機械の体
を持ち、少女に何かを伝えようとその小さな矮躯で必死に動き回っている。
「ドクターとスカリエッティの玩具が、こっちに向かって来てる」
「ガジェットだけでは無いのか」
「うん…アレも来る。と言うか既に会場内に"入り込んでる"」
「そうか…」
 少女の瞳が悲しげに揺れ、騎士が憂いを含んだ目でホテルを見つめていた。