RePlus_第八幕_中編2

Last-modified: 2011-08-02 (火) 16:15:31

「眠れませんわ」

 枕元の置き時計を確認すると、既に午前三時を超えている。
アズサが、日付が変わるまで特訓を繰り返した結果、自分を護衛するはずのティアナ
とスバルは、大きな寝息を立て頬を抓っても起きる気配すら無かった。

「本当にこれでも護衛なんですの」

 アズサはスバルの餅々とした頬を突き悪態をつきながら起き上がった。
 特に気分が高揚しているわけでも無いのに、寝付けない夜と言う日は誰にでもある。
 アズサも寝つきは悪い方では無かったが、ライブの爆破事件以来素直に床に付けない
日々が続いていた。
 明確な悪意を持つ第三者に曲りなりにも命を狙われかけたのだ。
 人前で強がっていても、いざ、一人になれば、恐怖が徐々に蘇り当時の記憶を克明に
思い出させる。
 耳を劈く爆音と閃光。
 パニックに陥る観客。
 砕け散ったスピーカーの破片が舞い散り、アズサの頬に朱色の線を引いた事が昨日の
事のように思い出される。
 傷は完治しているが傷口に触れると、暖かい血の感触が蘇ってくるようだ。

「…腑抜けてますわね」

 それともこれが本当の自分なのだろうか。
 どれだけ自信と実力の鎧を着込んだとしても、一度事が起これば鎧は容易に砕け散る。
 そうなれば、中から現れるのは屈強な戦士では無く、無防備な歳相応な少女の横顔で
しかなかった
 アズサ自身「参っている」と感じているが、専門の医師にカウンセリングを受ける気
は最初から無かった。
 そんな事をすれば、父親であるライスが「だから言ったのだ」と我が物顔でいけしゃ
あしゃあとご高説を垂れて終わるだけだ。
 もう血縁以外何の関係もないだが、アズサの父である事は終生変わらない。
 父親に反抗し、母を説き伏せ、周囲に自分の力で自分の道を歩いていると宣言しても
、父が父である事実はアズサを永久に縛る鎖として在り続けている。
 仕事に没頭し家庭を省みなかったライスは、妻は愚か実の娘にすらあまり良い印象を
持たれているとは言い難い。
 事実アズサも父親であるライスに憎んでいると言わなくとも疎んでいるのは確かだっ
た。
 アズサには姉が二人居る。
 一番上の姉は、地方都市でブティックを経営。
 二番目の姉は、都内の国立病院で医療事務の仕事に従事している。
 皆、父親の亭主関白に嫌気が指し、早々に家を出て一人立ちしてしまった口だ。
 最後まで家に残っていたアズサだが、ジュニアハイスクールに上がる頃には、芸能界
への道を既に歩み始めていた。
 元々アズサの母方は由緒ある家柄の持ち主だった為に、アズサの我侭を二つ返事で許
してしまう程意思が弱く、娘と真正面から向き合う程度胸もなかった。
 幸か不幸かアズサは、今のところ芸能界で一角の成功を収めている。
 自慢では無いが、アズサには贅沢さえしなければ一生暮らしていけるだけの蓄えもあ
る。
 だが、アズサは、泳ぐのを止めれば死んでしまう鮫のように貪欲に自分の道を歩み続
けた。
 それが家族に対する当て付けなのか、それとも芸能に対する飽くなき探究心なのか、
もしかしたら、特に目的もない惰性の人生を謳歌しているだけかも知れない。

「何を今更…」

 やはり弱気になっているとアズサは、頭を振るい両隣に眠るティアナとスバルを起こ
さないよう静かに部屋を抜け出した。
 夜のスタジオは不気味だ。
 耳を澄ませば泊り込みの社員の気配がするが、煩いくらいに人が行きかう昼間と比べ
ると深夜の社内は不気味な程静まり帰っている。
 幽霊でも出るのではないかと、アズサは喉を鳴らすが、次の瞬間には馬鹿馬鹿しいと
己の考えを切って捨てた。
 そもそもミッドチルダに伝わる妖怪や怪談の類は、次元漂流者達が自分達の世界の風
俗を広める為に、また、忘れない伝承されたフィクションばかりで、ミッドチルダ産オ
カルト話と言うべき物は恐ろしく少ない。
 例えあったとしても、無限と言える広大な領域を持つ次元世界において、妖怪、怪物
の類を模す生物など幾らでも存在している。
 竜などその最たる例で、そんな与太話を信じる位ならば異界の生物の乱入を疑った方
が余程現実的だった。

「誰も居ませんわね」

 普通の社員は、皆家に帰って暖かい布団の中でぐっすりと寝こけている時間だ。誰も
居るわけが無い。
 にも関わらず、誰も居ないはずの深夜のスタジオから光が漏れ出しているのに気が付
いてしまった。

「誰かしら」

 アズサの中では、大方の予想は付いていたのだが、半開きのドアからレッスン場の中
を覗くと案の定シンが見た目ほぼ軟体生物のようなダンスを披露していた。

「やっぱり…」

 地下レッスン場程大きくない個人用のダンスルームだが防音設備は完璧だ。
 一人で特訓するには持って来いの場所だが、ドアを閉め損ねていては意味が無い。

「負けず嫌いなのかしら…」

 もう、後数時間もすれば夜明けだと言うのに、シンは流れる音楽に身を任せ、腕と足
を必死に動かし続けている。
 言っては何だが、本職の人間から見れば、ぎこちなく滑稽な程に不恰好なダンスだ。
 昼のように明るい照明は無表情にシンを淡々と照らし続けている。
 失敗する度に端末に記録していた映像を見返し、問題点と原因をノートに書き加えて
いく。
 分厚いノートは、たった一週間で文字で埋め尽くされ、今はもう残り少なかった。
 
「根性ありますのね…」

 アズサは自他共に認める努力家だ。努力する事に才能を持った人間、努力する天才だと
言っても良い。だが、他人の追随を許さない苛烈な努力は、皮肉な話だが、同世代の少女
との繋がりを疎遠にし彼女を徐々に孤独に追い込んで行った。
 孤高の天才。
 天才とはいつも孤独なのだろうか。
 孤独だから天才だとと言うのだろうか。
 その問いに答えてくれる者はアズサの前に現れない。
 今はまだ---誰も。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第八幕『瞬間心重ねて-IDOL@MASTER』-中編2-

「…眠いか、ヴィータ」
「あぁ、おかげ様で眠ぃよ」

 腫れぼったい目を擦りながら、勝気な瞳を持つ赤毛の少女鉄槌の騎士ヴィータは、サス
ペンションが硬いくとてつもなく眠り難いで有名な六課ご自慢の公用車の座席の上で大欠
伸を三度続けて漏らした。

「結局、なにも起こらなかったな」
「相手もそうそう尻尾は掴ませてくれんだろうさ」

 珍しく人型形態を取ったザフィーラが、いつの間に用意したのか、コンビニ袋の中から
パック牛乳とアンパンを取り出しヴィータに手渡す。

「おっ、これこれ。やっぱり、張り込みにはアンパンと牛乳だよな」
「そうか。良かったな」

 アンパンに勢い良く噛り付くヴィータを他所にザフィーラは、些か不満げな様子だった。

(狭い…)

 六課所有の軍用ジープは、見かけに反し車内は広く快適だ。だが、はやてが用意したカ
モフラージュ用の軽自動車では、ザフィーラの筋骨隆々とした体格では狭く窮屈だ。
 せめて、なにか起きるまでは、犬型で居ようかと思ったが、夜通し車の中に幼女と犬一
匹だけでは警察に通報されかねず泣く泣く断念した。

「眠いのならば、これに目を通しておけ。少なくとも眠気は覚めよう」
「なんだこれ?」
 
 ヴィータの膝の上に分厚い紙の束が乗せられる。
 紙の束は右上に極秘と刻印され、隣にはやての印鑑が捺印されている。

「アズサ・サニーサイドアップの中間報告書だ。お前のPDAにも送信されているはずだ
が?」
「知らねえ。機械は苦手何だよ」
「だから、紙媒体で用意しておいた」
「あいよ。しっかし、たった数日でよくここまで調べたなって、うげ…上級委員直轄と噂
の第七セクターに公安印のデータかよ。誰がやったんだこれ?」

 管理局内部の犯罪を取り締まるのが公安委員と呼ばれる管理局の警察だが、それとは別
に"第七セクター"と称される謎の組織が存在する。
 管理局上級委員の私兵と専ら噂されているがその全貌は不明。
 ライブラリに登録されているデータは、機密の文字で埋め尽くされ、構成員、設立目的
、規模の一切が不明。
 部署名と隊章だけが定められた謎の部署だった。

「あのアルトとルキノの通信士コンビだそうだ。方法は私も良く知らん。読んだら燃やし
ておけよ」
「分からんって。これ、どう考えても正攻法じゃねえぞ。つうか、あの二人身内にハッキ
ングかけたのかよ。良くやるよ…ったく。こんな真っ黒な書類文書のまま残しとけるかっ
て」

 管理局外に持ち出すだけで実刑判決も已む無しと言われる、極秘捜査資料を前に流石の
ヴィータも目が覚めたのだろう。リクライニングを起こし、残った牛乳を飲み干し書類を
目を皿のようにして覗き込む。

「足跡を残すような、ヘマはしてないそうだ」
「ログなんか残されてみろ一発でアウトだろうが。それになにも分からない組織相手にど
うやって情報戦を仕掛けたんだ、あの二人は」
「陸のお偉方の横槍かも知れんな。上を疎んでいるのはどこも変わらん。ちょっかいかけ
るのに体よく利用されているだけかも知れん」
「で、はやては更にそれに乗っかった言うのか?」
「憶測だ。真相等分かるはずもない」
「…泳がされてるだけかもしんねえぞ。先導したのが陸の関係者なら、六課を目の仇にし
てる奴ばっかだかんな。つうか、何で只のアイドル無勢にこんな上の組織が捜査書類保管
してるんだ?」
「アズサ・サニーサイドアップは、ライス上級委員の娘だからな。世間に出る前に向こう
で止めているのだろう。マスコミにこの手の話題は格好の標的だ。事実の有無に関わらず
な」
「随分親馬鹿なこって…」

 情報とは恐ろしい物だ。
 例え事実と違っていようとも、悪意を持った人間が情報を発信すれば、真実は簡単に捻
じ曲がって伝わっていく。
 たった一度のスキャンダルで、芸能人生の終わりを突きつけられたアイドルも珍しくな
い。
 それは、今をときめくアズサも変わる事はなく、むしろ、トップを突き進むからこそ、
今度の事件はアズサの失脚を企む人種にとっては、どんな些細な事でも良い、アズサの不
利を誘発出来るような出来事であれば喉から手が出る程欲しい代物だ。
 確かに手段は褒められた物では無いが、実の娘の危機を救おうとしたのだ。ルール違反
だと切って捨てるのは容易いが、そこに親子の情が挟まれば無遠慮に思えるから不思議だ
った。

「爆破物、化学薬品、魔力反応の痕跡無し。スタッフにも過去を遡って調べても怪しい素
性の者も無し。アズサ本人にも当然怪しい点は無しか。書類は真っ黒でも内容は驚きの白
さって奴だな」

 ヴィータは、文庫本程もある分厚い報告書を捲るが、出てくる内容はどれも当たり障り
も無い内容ばかりだ。
 関係者の犯罪歴は当然として、家族構成や過去の交友関係までを詳細にリストアップさ
れているのを見て、ここまでやるのかとヴィータは舌を巻き嘆息した。

「内容は最後まで読め。肝心な所が抜けている、そこだそこ」
「ん?これか」

 ザフィーラが指差したページには、数枚の写真が掲載されていた。爆発で焼け焦げた音
響機器や舞台袖が当時の状態が克明に写し出されている。

「派手に壊れてるな」
「あぁ派手に壊れすぎているな。損傷の痕跡から音響機器は内部から破壊されているよう
だが」
「例によって破壊方法は不明か」
「そうだ。変わりに残されているのが、大量の砂と言うわけだ」
「砂?」
「そうだ砂だ」

 何故そんな物が音響機器の中から出てくるのか。
 音響機器に限らず精密機械に砂や埃と言った細かな物質は鬼門のはずだ。
 少量ならば、音響スタッフがメンテナンスを怠っただけと思ったが、内部から両手で溢
れる程の砂が発見されたとなると首を傾げざる得ない。

「成分はどうだ?何かが爆発して、その結果出て来たのが"砂"とか」
「少々粒子が細かいと言う点を除けば普通の砂だそうだ。公園にでも行けば転がっている
だろう」
「現場に残されたのは砂だけってか…確かにこいつはミステリーだな」
「私には、ミステリー(推理)ではなく、ミステリー(不思議)の部類のような気がするがな」

 ヴィータの言うとおり、砂だけであんな破壊を起こせれば、推理小説家は商売上がった
りだろう。
 逆に言えば砂だけを使い巨大な爆発を起こせるトリックを考え付く頭があれば、それだ
けで一財産築けるだろう。
 思慮深いと称されるザフィーラだが、管理局の知恵所が雁首揃えて頭を捻っても分から
ない問題を自分が解けるとも思えず、失礼な話だが、隣で自分の分のパンを頬張る赤い少
女にも分かるとも思えなかった。

「で、どうするよ」
「どうするもこうするも交代だ。流石にこれ以上の徹夜はいただけない」

 原因が分からないとなると、結局捜査には足を使う以外方法はなくなる。
 犯人がアズサを狙っていたのは確実なのだから、ならば、アズサを再び狙おうと考える
のは道理だ。
 依頼を受けたはやても内部犯行説も考慮し、アズサの直援にシン達三人を派遣し、外部
からの攻撃にも備えさせた。
 ヴォルケンリッターまで出撃させ、今用意出来る範囲の中で最も堅固な監視網をアズサ
の周辺に敷き詰めたのだが、現在のところ空振りに終わっている。

「お疲れっす、旦那」
「ヴァイスか」

 ザフィーラが、窓が鳴る音に気が付くと、サングラスをつけ、黒いシャツとジーンズ姿
のヴァイスが苦笑を浮かべている。
 少々胡散臭いが変装のつもりか肩に担いだギターは案外様になっている。

「交代の時間です」
「助かる」
「やっぱり、軽の車内は狭いですか」
「文句は言えんさ。移動しても一晩中ジープが車道に止まっていては嫌でも目立つ。主は
やての選択は正しい。それに狭いのは私の体が大きすぎるだけだ」
 
 ザフィーラが珍しく零す愚痴にヴァイスは苦笑いし、空いた窓の隙間からアンパンを寄越
す。

「アンパン食べます?やっぱり徹夜明けの張り込みはこれでしょう」
「頂こう」

 腹を減らした狼のように目を光らせるヴィータを無視し、ザフィーラは今度こそアンパン
にかぶりついた。

 アズサの特訓が始まって七日間が過ぎようとしていた。
 今日も今日とてシン、ティアナ、スバルの三人は、スピーカーから流れるアズサの曲に合
わせ腕と足を振り続けている。
 スピーカーから流れてくるベースとドラムの重低音が疲弊した体に響き、胃が揺さぶられ
る衝撃にシンは思わず眉を潜めた。

「はい、今日はここまでですわ」

 アズサの快活な声がスタジオに響き、アズサがダンスとピタリと止め、ステレオの曲が止
まると同時に三人はその場にへたり込んでしまった。

「つ、疲れた」
「スバル、水取って…体が水分を求めてるの…」
「ナカジマ…俺も頼む」

 最早立って歩く事も億劫なのだろう。
 シンとティアナは地べたに座り込み、必死に息を整えている。
 唯一"まだ"元気なスバルが微苦笑を漏らしながら、机の上に常備されている水の入ったペ
ットボトルをシンとティアナに手渡した。

「はい、シン君、ティア」
「助かる」

 しかし、ティアナは既に体力の限界なのか、へたり込んだままピクリとも動かない。
 かと思うと突然壊れたロボットのように突然起き上がり、差し出されたミネラルウォータ
ーを一気に飲み干すと、間髪入れずその場に倒れこむと言う奇行をこの数日繰り返している。

「だらしないですわね。まだ、五曲目ですわよ」
「す、すいません」

 確かに曲数的には全体の四分の一だ。確かにアズサの言うとおり、まだまだ終わりが見え
た言い難い。
 先は遠く、見通しは暗いと言うのに何故かシンの心は軽かった。
 体を苛め抜くのが楽しいと言うより、なにか一つの事に熱中するのが好きなのであろう。
 踊りも日々上達していくのが体感出来たし、目に見える努力ほど嬉しいものはない。
 シンは、アズサには悪いと思ったが今の現状を楽しんでいた。

「アスカさん」

 シンが思考の海に沈むこと数分。
 ふと気が付けばアズサの顔が、もう少し近づけば唇と唇が触れ合う距離まで迫っていた。
 僅かにグロスを縫った唇が照明に反射し妖しく光り、アズサの鼻が小さく揺れる。

「貴女達汗臭いですわよ」

 シンは、何事かと思い顔を仰け反らせるが、アズサの口から飛び出た"臭い"と言う単語
に火照った頭が一気に冷えていくを感じた。

(そりゃね)

 朝から晩まで踊り続けていれば、汗の一つや二つかこうと言うものだ。
 シンも自分の腕を嗅いで見ると確かに汗臭い。
 いや、汗臭いと言うレベルではない。Tシャツを見れば、首周りが塩を噴き薄らと白く
なってすらいた。

「…これはちょっと…拙いな」
 
 バリアジャケットは、人体の老廃物を除去してくる魔法が付加されている為に通常の訓
練ではまずお目にかかれない光景だ。
 塩が噴く程過酷な練習だった。言ってしまえばそれだけの事だが、だからと言って不潔
にしていて良いはずがない。

「臭い…」
「ティ、ティア、どこ行くの?」
「お風呂よ…お風呂ー…アンタ達の分の着替えも持ってくるから…待ってなさい」
 
 臭いと言う単語に反応したのか、年頃の少女として、汗臭いままで気絶する事が我慢出
来ないだろうか。
 ティアナは、突然起き上がり、幽鬼のような青白い顔のまま、覚束無い足取りでスタジ
オを後にする。

「シン君…どうしよ」
「一緒に行ってやってくれ」
「うん了解っと。ティア待ってえええ」
 
 ドップラー効果を残し、スバルがシンの視界か瞬く間に消えていく。
 スバルが、一瞬でティアナを追い越し追う者と追われる者の立場が逆転したのはご愛嬌
だろうか。
 シンも体力には自信があっただが、スバルの底なしの持久力には性別の差を越えて感心
する事しか出来ないでいた。

「元気ですわね」

 そう思っていたのだが、スバルと同じ体力の持ち主がここにも居たようだ。
 この細い体のどこにそんな体力が眠っているというのか。
 シン自身は息が上がり疲労困憊だと言うのに、年下のアズサは、さほども苦しくないと
言った様子でシンの隣で走っていくスバルを呆れ顔で見つめている。

「あの、疲れてないんですか?」
「疲れてますわよ。でも、今日のレッスンはここまでですし、後は気合と根性でどうにか
なるものですわ」
「そう言うものですか?」
「そういうものですわ」

 あっけらかんと告げるアズサに、シンは心底溜息をつく。
普通に考えれば、この細身の少女にそんな体力が眠っているわけはない。
 確かに必要最小限度の体力は持ち合わせているだろうが、仮にも元軍属だったシンの方
が体力が少ないわけは無かった。
 では、何故こうまで二人の間に差が生まれるのか。
 アズサの言う、精神論も大事だが、とどのつまり、シンの体の動かし方が依然無駄だら
けだの証拠だだった
 アズサが、必要最小限度の動きで最大効率を生むの対し、シンは、その有り余る体力を
効率良く運用出来ず無駄に消費している。
 元値が高い為に現在は、アズサに"なんとか"着いていけているが、この先のどこまでつ
いていけるのか保証できない。
 このままでは、いざ犯人が目の前に現れても、まともに戦う事が出来ずダンスで膝が笑
って、アズサを守れませんでしたでは洒落にもならない。

(こんなので本当に大丈夫なのか)

 残された時間は、もう残り少ない。
 不安になるシンだが、任務を引き受けた手前、泣き言を言っている暇があれば、もっと
練習すれば良いだけのことだ。
 愚痴など自分らしくもないと、シンは頭を振るい一人ごちた。

「そう言えば、アスカさん。貴女って魔法使いですのよね」
「ええ、まぁ一応」
 
 シンは、眉間に皺を寄せ考えに耽るが、アズサの声に視線を上げる。
 正確には、魔法使いではなく魔道師なのだがこの際細かい事はどうでも良い。
 細かい些事などニュアンスも問題で会話が通じれば問題ない。
 問題なのはアズサが、まるで、悪戯を思いついたような子供のように表情を明るくさせ
ていることの方だ。
 他者の感情に鈍いシンだが、アズサがナニかを企んでいるのは顔を見なくても分かった。

「待ってる間って暇ですわよね」

 アズサは、催促するように足を鳴らし、シンへ猫科の動物を彷彿させる笑みを向ける。
 シンは、一瞬「食われる」と実に動物的な危機感を覚え、どうか杞憂に終わってくれと
願うが、そうそう巧くはいかないのが世の常だ。
 シンは、今度はどんな無理難題を押し付けられるか戦々恐々としながら、どうも、自分
の周りには、肉食系の動物に例えられる多い気がして途方に暮れてしまった。

「そ、そうですね」
「本当に退屈ですわね。なにか珍しい物…みたいと思いません?」

 なんのことはない。
 アズサは、暇潰しにシンに魔法を使って見せろと言っているのだ。
 確かにに生で魔法を見る機会など一般市民には殆ど縁がないことだ。
 色々とストイックなお嬢様だと思っていたが、それなりに時間付き合ってみれば、彼女
も十二分にミーハーな部類に入ってるようだ。
 シンは、僅かばかりの逡巡の後、胸を諦念感で埋め尽くしながら覚悟を決めた。

「最初に断っておきますけど、俺達魔道師は、デバイスが無いとまともな魔法は使えない
んです。ですから、あんまり大したことは出来ませんよ」
「デバイス?」

 一応最初に予防線を引いている辺り、シンにも成長の片鱗が伺える。
 シンは、渋々と言った様子でアズサに、まずは、魔道師とデバイスの関係を説明し始め
る。

「あぁ…その、ストレージデバイスです。管理局魔道師が持ってる杖みたいなの見た事あ
りますか?」
「杖?あぁ、あの黒いのですね?」

 アズサが言っているのは、一般局員が持つ量産型のデバイスの事だ。
 魔道師が主役のドラマや映画などに登場し、一般市民がデバイスと言われ、まず思い描
くのが量産型の杖だった。

「色々種類はあります。作ってる会社で名前も違いますけどね。まず、俺の持ってるデバ
イスは、インテリジェンスデバイスって言うんですけど基本的に機密保持って言うか、そ
の」
「軽々しく人に見せては行けないと言う事でしょ」
 
 言い難そうに言い訳を考えるシンにアズサが助け船を出す。
 本当は、機密に関わる設計仕様を漏らさなければ、デバイスなど誰に見せても構わない
代物だ。
 そもそも、展開前のデバイス知識の無い人間に見せても喋る"何か"にしか過ぎない上に
外装だけで性能を看過出来る人間はまずいない。
 しかし、シン個人が管理局にとって機密の塊である上に、シンが途方も無い口下手の為
にシン自身でも気が付かない内にどんな地雷を踏むのか分かったものではない為に、シン
は自ら進んで管理局関係の話をした事はなかった
 本当なら謹んでお断りしたい気分だが、護衛対象の機嫌を損ねるのはあまり良い事とは
言思えない。
 アズサの性格を未だ掴み兼ねているシンだが、気まぐれで気が強い事は良く理解出来て
いたし、異性にヘソを曲げられる事程心臓に悪いものはなかった。

「デバイスは、触媒、魔力の増幅器の一面もあります」
「あら、デバイスって、そんな意味もありましたの?只の補助機具じゃ無かったんでのね」
(頭の回転が速すぎるんだよなぁ…この娘)

 シンは、やりずらそうに頭をかき、咳払いを一つ漏らした後、気を取り直すように説明
を再開する。
 デバイスの機関技術は時空管理局が厳重に管理しているのは、一般市民でも周知の事実
だ。
 近年漸く大量生産され始めた量産型カードリッジ製造方法においても、実は従事する民
間委託の従業員の主だった仕事内容は、梱包や出荷で有り、簡単な単純作業に限定されて
いる。
 アズサの言うとおり、デバイスとは魔道師の魔法行使を手伝う補助機具である同時に、
契約者の魔力を増幅する増幅器の側面も持つ。
 時代が流れるにつれ、魔法の使い手、魔道師の在り方は変化している。
 古代魔道師は、デバイスなど使わず、口頭詠唱、言霊のみで魔法を制御したと伝えられ
ている。
 大規模な魔法には、それ相応の言霊の量が求められ、つまり、適当な文章を延々繰り返
しながら魔力を練り続ける必要があるのだ。
 だが、次元犯罪者相手に、長々と映画のような大業な言霊を唱えていては、質量兵器を
持つ犯罪者には対抗出来ない。
 杖を振って林檎を出せば食い扶持に困らない時代は終わり、言うなれば、魔道師は只の
奇跡の使い手から、責任を求められる公僕へと時代と共に変化して来た。
 より緻密に、より合理的にと進化し、長々しい言霊の術式はAIによって制御され魔道
師本人は電池のように魔力を加工し放出するだけの存在だ。
 今の魔道師の在り方を見れば、古代魔道師達は何と情緒の無い輩共だときっと目を覆い
頭を抱える事だろう。

「つまり、デバイスが無いと殆どの魔道師は張子の虎ってことですの?」
「そこまでは言いませんよ。身内贔屓な発言ですけど、どんな魔道師でも基本的な格闘術
は備えてますし、デバイスなしも魔法は使えるんですから」
「ふ~ん」

 アズサは、デバイスの含蓄には食指が動かないのか、興味なさ気にシンを見つめる。
 シンは、思ったよりの張り合いの無さに拍子抜けするが、学者のように専門知識を尋ね
られても困るのも本音だった。
「まぁいいですけど。さっきも言いましたけど、デバイスが"無い"と俺、本当に大した魔
法は使えませんよ。アズサさんが満足出来るか責任持てませんし」
「でも使えるのでしょう」
「少ないですけど一応」
「なら、見せて下さいません?満足出来る出来ないは私が決めますし」
「本当は突然そんな事言われても困るんですけど」
「あら、何故かしら?」
「何故って…それは」

 本当に一度言い出したら聞かない娘だと、シンは盛大に溜息を付く。
 シンは最後の抵抗を試みるが、好奇心で期待を膨らませたアズサの視線がシンに突き刺
さり、更に顔を引き攣らせる。
 本当のところは、簡単な魔法なら使っても全く問題無かった。
 我侭気まぐれなお嬢様だが、アズサがその事を吹聴して回る性格で無い事は分かってい
たし、火でも風でも、もっと言えば小さな魔力弾や浮いて見せれば納得して貰えただろう。
 シンも魔道師たる者、むやみやたらに一般人に魔法を使って見せるものではないのは理
解している。
 今が緊急時でもないのなら尚の事だ。
 だが、そんな"当たり前"の理由の他にシンには、もう一つだけ魔法を見せる事を渋る理
由があった。

「笑わないで下さいよ」

 本当に気が乗らないのか、シンは不承不承ながらも指に魔力を込め始める。
 シンの周囲に赤い魔力光が淡く輝き、それだけでアズサは目を見開き、小さく感嘆の声
を漏らした。
 アズサの期待と羨望の眼差しに、シンは若干の居心地の悪さを感じながら、自身が最も
得意な魔法を口頭詠唱によって唱え上げていく。

「設置圧操作。ポテンションを1から0.2へ。等速変化」

 シンの魔力が言霊によって形を成し術式が構築されて行く。
 魔力の奔流が大気を僅かに揺るがし、静電気にも似た痺れがシンの全身を駆け巡った。
 なにかが起こると確信したアズサは、微動だにせずシンに視線を釘付けにしている。
 そして、シンの魔力光がより一層輝き、机の上のマグカップが音も立てず独りでに動き
出した。
「あらっ」

 何事とカップに大げさに振り返ったアズサだが、カップは派手な魔力の奔流とは裏腹に
只延々と机の上を滑り続け、板張りの床に鈍いを音を立てて落下した

「何ですのこれ?」

 アズサは、微妙極まりない表情で、シンに無言の抗議を上げ、シンは、バツが悪そうに
アズサから顔を背けた。
 アズサの疑問は最もだ。コップは只動いて只落ちただけだ。本当に只それだけだ。
 アズサは、これが魔法だと言われても納得出来ず首を傾げざる得なかった。

「設置圧操作と摩擦係数の操作です」
「コップが動くのが?」
「デバイス無しで出来るのは…これが限界なんですよ」
「理科のレベルですわね」
「…ほっといて下さい」

 本当に嫌だったのだろう。シンは、渋かった顔を更に深め不貞腐れたようにアズサか
らそっぽを向けてしまう
 その様子がからかわれた犬のように見え、魔法の出来とは裏腹にアズサは思わず頬を
緩めた。

「ちょっと失礼でしたかしら。貴女魔道師ですから、てっきり消えたり現れたり出来る
のかと思ってましたわ。ほら、杖振って雲になるとか」
「だから、嫌だったんですよ…見せるの」

 どうもアズサが抱く魔道師のイメージは和洋折衷節操が無いように感じられる。
 大体煙の雲のように消えると言う事は、体を微粒子状にまで分解する事に他ならない。
 体を粒子状にまで分解して自我を保てるかのか疑問だったし、シンは、そんな大魔術
を触媒無しで行使出来る魔道師が居れば会ってみたいとさえ思った。
 しかし、翌々考えて見れば自身の直属の上司達が、素知らぬ顔で数日前に転移魔法を
行使していた事を思い出し、純然たる実力差に暗澹たる思いに陥ってしまう。
 シンも努力しているが、あの圧倒的とも言える魔法の技術はどこから沸いて出てくる
のだろうか。
 一般市民、つまり非管理局関係者は魔法は万能だと思っている節があるが、現役魔道
師であるシンにしてみればとんでもない話である。
 当然アズサの言うとおり姿を消す事は可能だが、それは本当に霞のように姿を消すの
ではなく光の屈折角を制御して消えたように見せかけているだけだ。
 魔法はリンカーコアを通じて人間が行使する列記とした物理現象だ。
 出来る事と出来ない事は明確に区分されているし、人間が制御不可能な事象、例えば
時間跳躍や死者蘇生等が不可能魔法に当る。
 前者を簡単に説明すれば、次元航行艦で横軸移動、空間移動は可能だが、縦軸移動、
時間移動は不可能であり、後者は魂を人類が知覚出来ないからだといわれている。
 肉体の損傷は癒せても、生命の根源を癒す術を人類は未だ見つけられずにいた。

「お、俺のポジションはガードウイング!中衛なんですよ"中衛"。遊撃なんです。アズ
サさんの期待してるような魔法は後衛の人が得意なんですよ」
「あら、そうなんですの?」

 シンは、頭の中で愚痴なのか含蓄なのか分かりもしない言い訳を展開しながら、苦し
紛れにまくし立ててみるが、アズサの含み笑いを見る限り、シンがあまり魔法が得意で
ない事はとっくにバレてしまっているのだろう。
 それが証拠にアズサは、シンに向けて生暖かい視線を送り続けている。
 確かに、期待に答えられなかったのは事実だし、魔法の腕が未熟なのも本当の事の為
に、シンはアズサに言い返す事が出来ない。
 しかし、シンは、アズサよりも三つも年上の男だ。
 年下の女の子に微妙な視線を送られ黙っていられる程穏やかな性格の持ち主ではなく
、何とかあの手この手を考え、是が非でも驚かせてやりたいと対抗心を燃やしてみるが
、アズサを任務現場まで引っ張っていくわけもいかず、当然作戦行動中以外にバリアジ
ャケットを展開するなど管理局の魔道師としては言語道断、非常識の極み、始末書物が
ダース単位で空から降ってくるだろう。

「…ランスターとナカジマは俺じゃなくて、私よりも器用ですからバインドって分かり
ます?」
「分かりますわ。映画とかドラマで出てくる光る紐でしょう」
「紐って」

 魔道師の十八番拘束魔法(バインド)を光る紐と言ってのけるアズサの感性も酷い物
だと思うが、シンは苦笑いしながら話を続ける。

「バインドは得て不得手があっても魔道師なら殆どの人間が使えます。でも、俺が使う
と」

 シンの腕が再び赤く輝きだす。
 先刻のコップを動かした時よりも魔力の光は色濃く激しい物だ。
 アズサは、今度こそ何かが起こると思い、どんな些細な動きも見逃すまいと目を皿の
様にしてシンを見つめる。
 赤い魔力光が明滅し光は点となり、やがて数を増やし線となりそれぞれが絡まり付く
ように回転する。
 渦となった魔力光は、アズサの腕目掛け牛歩のようにのろのろと飛翔し、やがて意を
決したようにアズサの腕に纏わり付いた。

「あら、可愛らしい」

 赤い光がおさまると、アズサの腕には、赤く輝く小さなバインドが構築されていた。
 別にシンが気を利かさせ可愛らしいブレスレットのようなバインドを詠唱行使した訳
ではない。
 単純にシンの実力では、デバイス無しでは、このサイズのバインドを作るのが精一杯
なのだ。

「出力の問題じゃ無いんです。俺、魔力量は人並み以上にあるみたいなんですけど。魔
力の制御が徹底的に下手なんです。必要以上に魔力を練りこむから、体力は人並み以上
にある癖にばて易いんです」
「下手?意外ですわね、貴女頭良さそうに見えますのに」
「頭良いって…誰がです?」
「いえ、アスカさんがですけど」
「お、俺が!?」
 十七年間生きて来たシンだが、頭が良いと褒められたのは生まれて初めての事だった。
 何しろオーブの頃は問題無いとしても、ザフト時代は命令違反を繰り返す問題児だっ
たのだ。
 むしろ褒められた事の方が少ないとさえ言える。

「魔法の技術に頭の良さは関係なくないですか?」
「何故です?物事を効率良く習熟する為には、頭の良さは必要不可欠だと思いますけど」
「なら、俺は…頭も要領も悪いですよ。何度繰り返しても上手く出来ないですし。俺の
魔法はダンスと同じですよ。両方とももうちょっと巧くなりたいですし」

 シンが指を鳴らすと、バインドが量子化し音も立てずに大気へと還っていく。

「貴女と私の違いは踊り慣れているか、そうでないか。その程度の違いですわ。一度コ
ツを掴めば残りはあっという間ですわ。それに七日程度で追い抜かれたら、私の立場は
ありませんわよ」

 微笑むアズサだが、シンの表情は暗くなる一方だ。
 アズサは、最初こそ謙遜しているのかと思ったが、シンは、アズサから目を背けたま
まだ。

「自分の弱点を冷静に真摯に受け止めれる人間って実はそう多くないですのよ。大抵の
方はカッなってと喚き散らしたり、心を無理矢理自分の奥底に押し込めて自尊心を守る
のが精一杯ですわ。アスカさん。ちょっと貴女自分の事を低く見積もり過ぎじゃありま
せん。行き過ぎた謙遜は、人によっては不愉快にしか映りませんわよ。なんて言うんで
すの?貴女から自信が全く感じられませんの」
「す、すいません」
「褒められ慣れてませんのね。もしかして、褒められると落ち着きません?」
「それは」

シンの心臓がドクンと大きく跳ねる。
 褒められると落ち着かない。
 アズサの言い分はシンにとってまごうことなく図星だった。
 怒っているわけではないが、アズサの強い口調にシンは思わず口ごもってしまう。
 アズサの言う通り、シンはMSのパイロットをやっていた頃と比べると自分自身に自
信が持てなくなっているのは確かだ。
 ミッドチルダで愛機デスティニーを失い、MSの操縦と言う優位性(アドバンテージ
)を保てなくなったからではない。
 デスティニーの代わりに得た"魔法"を巧く使いこなせない自分に嫌気がさしているわ
けでは無い。
 シンが自信を持てない原因は、もっと根深くミッドチルダに転移してくる前にまで遡
る。
 戦後改めて自分を省みたシンは、自分には"力"を求める事以外何も無く、シン・アス
カと言う存在から力を取り除いてしまえば、予想以上に何も残されていない事をまざま
ざと見せ付けられた事が原因だった。
 何しろ学業も満足に修めない内にザフトに渡り戦技教育を受けた身だ。
 シンの体に根付いた知識と技術は、人と戦う為の物であり、それ以外には殆ど使い道
が無い物ばかりだった。
 シンの卓越したMS技能は、シンから礼儀作法と社会常識を奪い取り、戦後に出来上
がったのは、何とも中途半端な存在でしかなかった。
 結局シンの唯一の存在理由、自己同一性にはずであった"力"は彼から全てを奪い去っ
た。
 平和。
 守る。
 戦争。
 シンは、この三つの出来事でしか世界を量り見つめることしか出来ない存在になって
しまったのだ
 それ故にシンは、第三者からそれ以外の思惑でアプローチをかけられ評価されると心
が上ずり無意識に卑屈になってしまうのだ。

「それにしても、ティアナさん達遅いですわね」

 アズサが何か話しているが、シンの耳に入っては来ない。
 だが、一時は力を否定したシンだが、今の自分を滑稽とは思わない。
 結局自分には力しか残されていないのだから、今はその力に縋り生きていく他ないの
と分かっている。
 いつかは、力を求める以外に生きる道が見つかるかも知れない。
 しかし、シンは、足元も見えない深い霧の中を一人で歩くつもりは更々なく、いつか
の為の現在を否定する気はもっと無かった。
 腹を割って話せる仲間も居る。
 尊敬出来る上司も居る。
 少し気になる同僚と恩人が居る。
 シンの周りを囲む状況は昔ほど悪くないと言えた。
 戦争、平和、守る事に必要以上に左右される事が無くなれば、本当の自分を見つける
ことが出来そうな気さえしていた。
 しかし、胸の内に秘める思いは、結局"誰か"を守りたい事だけだった。 
 シンは、それならそれでも良いと思っている。
 シンに出来るのが力を振るう事だけならば、今は余計な事は考えず力を振るえば良い。
 その先に待つ"何か"を手に入れる為には、まずは力の制御を覚える事が一番の近道に
なるはずだ。

(そうだよな。まだ、間に合うよな)

 確かに褒められる度に、今の自分で本当に良いのかと不安になる日々は多い。
 強く握った手を開くを薄らと汗ばんでいる。
 心臓の鼓動が早く、熱い血潮が皮膚の下を流れて行くのを感じる。
 心底から湧き上がる渇望に身を任せていれば、いつの日か、別れ際にルナマリアが流
した涙の意味が分かるかも知れない。
 シンは、悩み、迷い、不安になろうとも立ち止まるつもりは全く無かった。

「聞いてますの、アスカさん」
「うぇ、あぁはい」

 頭の上から聞こえて来た声でシンは、またしても考えを中断させられる。
 周囲が少し見えるようになったシンだが、深く考えもせずに思った事をポンポン口に
出していた時よりもマシと言えばマシかも知れないが、場所も弁えず思考に耽るには悪
癖としかいいようがない。
 
「考え事ですか?」
「…そんな感じです」

 年下の少女にここまで好き放題言われれば、性別関係無く含む事もあるはずだが、シ
ンからはアズサに対する嫌悪は愚か敵意すら伝わって来ない。
 自分に無関心かと思いきや、迷惑をかけぬ為に一人深夜に練習を繰り返し、それを誇
る事もしない。
 異様なまでの素直さと謙虚さと併せ持ち、荒々しく、しかし、どこか繊細で脆さ危う
さすら感じさせるシンをアズサは見ていて飽きなかった。
 今もそうだ。
 考えるよりも体が先に動くタイプだと思っていたため、シンの脇目も振らない"熟考
っぷり"は新鮮に映ってしまう。
 アズサが感じる、シンの感情表現の豊かさは女性と言うより、男性の領域のようにさ
え思えた。

「まぁ、いいですわ。で、ティアナさん達遅いと思いませんか?」
「そう言えば」

 ティアナとスバルが出て行ってもう二十分は経とうしている。
 これだけの時間があれば部屋とスタジオを二往復は出来る。
 シンは、鞄から携帯電話を取り出し、ティアナの番号をコールするが、コール音こそ
すれど電話を取る気配は一向に現れない。
 やがて、留守番電話に切り替わると、シンは電話を切り今度はスバルの携帯に電話を
かける。
 やはり、同じようにコール音の後留守番電話に切り替わりシンは電話を切り、通信手
段を念話に切り替えた。

『ランスター、ナカジマどうした』

 シンが、二人の身を案じ念話を飛ばすと帰って来たのは、何とも間の抜けた声だった。

『……ぐぅ』
『駄目もう食べらんない』
「…なんで二人共寝てるんだよ」

 声だけでは詳しい状況は掴め無いが、どうやら二人共眠ってしまっているようだ。
 疲労困憊だったティアナはまだ理解出来るが、そこそこ元気だったスバルまでも眠っ
てしまうのは予想外だった

(まぁ…ナカジマも女の子だもんな)

 慣れない仕事と生活が続いているのだ、気丈に振舞っていても、気を抜いた瞬間に睡
魔に襲われる事もあるだろう。
 シンは、苦笑し痛む体を持ち上げ、アズサに微苦笑を向ける。

「お二人とも、どうしましたの?」
「どうも二人共寝てるみたいですね」
「そんな事も分かるんですの?」
「念話って言うんです。テレパシーみたいな物で、頭の中で会話が出来るんです」
「今始めて魔法が便利だと思いましたわ」

 シンは、念話の方を先に見せれば良かったと後悔したが後の祭りである。
 兎に角二人が眠ってしまったのなら、スタジオに長居する意味も無い。
 シンは、さっさと部屋に戻って休憩したかった。

「なら、部屋に戻りましょうか」
「あら、お風呂はどうしますの?」
「部屋の風呂があるじゃないですか」
「嫌ですわ。お部屋のお風呂は小さいんですもの。あれじゃ入った気がしませんわ」
「小さいって…」
「私社内に泊まる時は大浴場しか使いませんの。結構豪華ですのよ、我が社の大浴
場は。ですから、アスカさんも一度どうです?」

 アズサの目の眩むような営業用スマイルに、シンは盛大に顔を引き攣らせた、
 シャナルプロダクションには、ご丁寧に銭湯顔負けのやたらと巨大な大浴場がある。
 露天風呂こそ流石に無いが、どこから源泉を引いているのか、多種多様の温泉が用
意されているのだ。
 そんな物が社内にあれば、部屋風呂は小さく見えて仕方ないだろう。
 シンは、秘密の為に部屋風呂で済ませていたが、ティアナ達三人は大浴場で入浴を
済ませている。

「風呂は、その、一人でゆっくり入りたいんです」
「あら、良いじゃないですの、たまには?裸と裸の付き合いですわ。考えて見れば、
私、ティアナさんとスバルさんとお話した事は多いですけど、アスカさんとちゃんと
お話するのこれが始めてですもの」
「そ、そうでしたっけ」
「そうですわ。私はアスカさんと"仲良く"なりたいですのに、肝心のアスカさんは私
を避けてばかりですもの」

 シンは、別にアズサの事を避けているのでは無く、男である事がバレるのを恐れて
アズサに近づかないだけなのだが、アズサにとって面白くないのだろうか。
 後ずさるシンを、アズサは、獲物を追い詰めるライオンのように包囲網を狭めてい
く。

「私の事お嫌い?」
「それは…ないです」
「ならいいじゃないの」

 微笑むアズサにシンは内心頭を抱える。
 何しろシンは今"女性なの"だ。
 ここでアズサの提案を強行に断るのも不自然に思えたし、アズサは飽く迄善意でシン
を誘ってくれているのだ。
 無下にするのも後味が悪い。シンも親睦を深める事には賛成だが、何も風呂でなくと
もと悲鳴を上げそうになる。

「やっぱり、俺、部屋のシャワーでいいです」
「何を逃げようとしてますの?初心なネンネじゃありませんでしょ」
「駄目ですよ、俺がアズサさんのファンに殺されますよ」
「女同士でなにいってますの」
「あ…あぁ…そうですよね」

 巧いと心の中で自画自賛するシンだが、アズサに一瞬であっさり付き返さ途方に暮
れてしまう。
 この状況は兎に角拙いと言える。
 シンは、ティアナとスバルに向けて、念話を飛ばし続けているが二人共起きる気配
が全くない。
 風呂に服を着て入る馬鹿はおらず、このままでは、シンの新品の"ソード"がアズサ
の前に晒される事になる。
 水着でもあればと思ったが、そんな気の利いた物があるはずも無く、逆にあったと
しても着替えるだけで、シンの自尊心がまた一つ音を立てて砕け散るだろうが、砕け
散って解決するなら安いと思える程にシンは内心焦り続けていた。
 いっそ、ソードが付いているのは、そう言う病気なのだと言い張るべきかと、毒に
も薬にもならない考えが浮かぶが即座に棄却した。
 しかし、なんとかしてこの窮地を切り抜けなければ、明日の三面記事を間抜け面が
飾る事は避けられない

「だって服は」
「そんなのジュディに持って来させれば何とでもなりますわ。それに今日のレッスンは、
自分でも言うのも何ですけど、激しかったですから、お風呂に入らないなんてそんな不
潔な事許せるわけないでしょう。さっ、アスカさん、一緒に大浴場行きますわよ」
「だから、俺は、部屋のシャワーで良いんですって」
「聞こえませんわぁ」

 シンの最後の抵抗は、抵抗らしい抵抗を見せぬまま、アズサにバッサリと切られてし
まう。
 シンは、心底楽しそうなアズサに手を引かれながら「売られていく子牛はこんな気分
だったんだろうな」と一人呆然としていた。

 ---アズサは一般人な為。
 そして、シンは慣れ親しんてしまった習慣故に、先刻の念話の異常性に"誰"も気が付
いてはいなかった。