RePlus_第八幕_中編3

Last-modified: 2011-08-02 (火) 16:24:56

「なんだよ…この状況」
 白い湯気が濛々と立ち込め、シンの視界を白く塗りつぶしている。
雰囲気作りの為か単純にボイラーが壊れているのか、大浴場の視界は非常に悪く
三歩先の様子も分からない程だった。
 アズサは、この濃い湯気の中を慣れているのか途惑うことなくひょいひょいと進
んでいく。
 アズサとは別に シンは、周囲の状況が全く分からない為に、ぬめり気のある大
理石のタイルを滑らないようにゆっくり歩かざるを得なかった。
 だが、温泉から立ち上る湯気のお陰かシンは、バスタオル一枚羽織らず、シンの
前を練り歩くアズサの肢体を見ることも、バスタオルで完全防備の自分の体を晒す
心配も無かった為、シンにとっては非情に好都合とさえ言えた。
「どうですか、アスカさん。我が社の大浴場は中々の物でしょう?」
「そ、そうですね」
 好都合だったのだが、すぐ前から聞こえてくるアズサの声は、シンが今女湯に居
る事を嫌でも思い起こさせ、湯気の向こうに薄ぼんやりと見える、年下の少女の裸
体から意識をそらすことに必死だった。
 浴室は、湯気で良く見えないが、虎だか獅子だか知らないがやたらと荘厳な彫刻
が掘り込まれ、シンは、まるで、己の痴態を彫刻に監視されているような気がして
気が気ではなかった。
「なんで、そんなに離れるんですの?」
「いえ、足元が良く見えないので」
 極度の緊張の為か裏声までが震えている。
 はやてとシャマルは、シンの体は"改造"してくれたが、声帯までは気が回らなか
ったらしくシンの声は以前のままだ。
男にしては、元々声は高い方だったが、流石に万事が万事この調子ではとっくの
昔に男とバレてしまっただろう。
 ハスキーボイスだと言い包める手もあったが、終始裏声で話す無難な手法に落ち
着いていた。
 普通その時点でバレだろうと思うが、シンの似合い過ぎた女装に、アズサの男に
対するの固定観念が敗北した結果とも言えた。
 簡潔に言えば、似合いすぎてシンが女以外の選択肢が思い浮かばなかったのだ。
 これで男なら本当の意味での性別詐称が成立するだろう。
「ふーん?まぁいいですけど」
「…ふぅ」
 シンが、助かったと思った矢先の事だった。
 アズサは、何を思ったか突然シンに振り返り、シンが、見てはいけないとアズサ
から視線を外したのも運の尽きだった。
 一体何処で習ったのか、綺麗な足払いがシンの利き足を刈り取り、アズサは絡め
取った左腕の力を逃がす事無く綺麗に利用し、シンを薄緑色の浴室へと投げ放った。
 シンは、派手な飛沫を上げながら頭部から落下し、鼻と口から入ってきた湯に思
わずむせ返ってしまう。
「合気道っていいますのよ。護身術で習ってますの」
 シンは、今の技は完全に柔道であって、断じて合気道では無いと心の中で毒づき
ながらも、浴槽に漂うバスタオルを手繰り寄せ必死に体に巻きつける。
「同じ釜の飯を食べているのに、今更恥ずかしいもなにも無いでしょうに」
「親しき仲にも礼儀ありって言葉があるんですよ」
「少なくとも私には最低限の礼儀でよろしくってよ」
「…ありがとうございます」
 頑ななまでにバスタオルを取らないシンは、アズサにどう映ったのだろうか。
 恐らく変な人としか映らないだろう。
 同性同士で風呂にまで入って体を隠すなど、シンだって当然そう思う。
 しかし、今ここでバスタオルを取ると、シンの"ソード"が晒されてしまう。
 只でさえ、女湯に居ると言う妙な背徳感と罪悪感で揺れ動き微妙な予兆すら見せ
ているのだ。
 早い話が"ソード"が"エクスカリバー"に換装されてしまうかも知れない。
実大剣のままならまだ救いはあるが、比喩的な意味でレーザー刃まで展開されて
しまうと既に犯罪の領域だ。
 湯の中で股をモゾモゾとさせるシンをアズサは、不思議そうな顔で見つめ足元の
桶でかけ湯を浴び静かに入浴した。
「はぁ~気持ちいい。風呂はいいですわ。人類が生み出した文化の極みですわねえ」
 湯に浸かるのが本当に気持ち良いのだろう。
 さり気無くシンの隣に腰を下ろしたアズサは、緩みきった顔のまま浴槽に背中を
預けた。
 シンの気持ちを知ってから知らずか、アズサは依然警戒心ゼロのまま、全身を伸
ばし油断しきった表情を見せ始める。

(そんなに近づくと見える)
 視界の隅にアズサの鎖骨と首筋が映る度にシンの心臓が早鐘のように鳴り響き、
血が頭に昇っていくのを感じた。
 二人の距離は手をほんの少し動かせば触れ合える程近い。シンが本能に負けても
今のシンは女だ。
 アズサの体にシンの手が当ったとしても、不可抗力の一言で済んでしまうような
気さえする。
「どうかしました?」
「いえ…なにも」
 シンは、馬鹿馬鹿しいと頭を振るい、そのまま自己嫌悪に陥ってしまう。
 アズサは自分を信用してくれているからこそ、入浴よ言う一番無防備な時間を共
有してくれているのだ。
 頭の中の天使と悪魔よりも、はやて達の怒声の方に自尊心を打ちのめされながら
、シンはアズサから逃げるように湯に顔を沈めた。
 シンが、これ以上挙動不審な態度を見せれば、アズサのいらぬ誤解を買う事は間
違いない。幸いシンが叩き落された温泉は濁り湯だ。
 首まで浸かってしまえば、直接触れられれでもしなければ、バレる心配はまず無
い。
 シンは、半ば自棄だとばかり、隣のアズサを警戒しつつも体の力を抜いた。
(これは確かに…気持ちいい)
 確かにアズサが自慢するだけの事はある。
 一度リラックスをしてしまえば、体の芯まで熱が浸透し、硬くなった筋肉が解き
解され疲れが溶けていくのか感じる。
 六課にも大浴場はあるが人の出入りが激しく、今のようにのんびりと時間を気に
せず湯に浸かれるといったことはなかったのだ。
 湯に浸かり足を伸ばせる幸福をかみ締めながら、シンは事のほか上機嫌だった。
 暫し静かな時間が流れる。
 全身を巡る血が暖められ気分が落ち着いてくる。
 湯船に浸かるのが、これ程良い物とは知らず、風呂と言えば専らシャワー専門で
鴉の行水だったシンは人生を損していた気分になっていた。
 ふと、気が付けば、浴槽にもたれ掛かり、静かな寝息を立てるアズサの横顔が目
に入った。
 やはり、相当の無茶をしてきたのだろう。
 シンが、アズサの体を揺すっても全くの無反応な上に艶っぽい寝言すら立てる始
末だ。
 アズサは、それが巻き込んだ最低限の礼儀さと言わんばかりに、シン達のレッス
ンを人任せにせず全て自分の手元に置き直接指導して来た。
 専門のコーチにシン達を任せて方が、アズサの負担は減り楽が出来たにも関わら
ずだ。
 どっちが負けず嫌いだと、シンは微苦笑を漏らしアズサの肩に手をかけた。
 湯当りにせよ、湯冷めするにせよ、どちらにしてもアズサをこのままにしてはお
けない。シンは、一頻り悩んだ後、ティアナ達を呼んで来ようと湯船から上がると
すると、脱衣所にドタドタと雪崩れ込んでくる足音をシンの耳が捉えた。
 衣擦れの音もそこそこに、シンが誰だと思うよりも早く、浴室の引き戸が勢い良
く開かれる。
「お、遅れました」
「ごめん、寝ちゃってた」
 白く漂う湯気の向こうに映る影が二つ。
 影からは、シンの普段聞き慣れた声が響き、それと同時にシンの顔が盛大に引き
攣るのを感じる。
 このままでは、まず間違いなくいらぬ誤解を招く。
 シンの日常レベル、もとい女性関係の脅威を察知する感覚は最早サバンナに生き
る老成した草食獣レベルだ。
 だが、脅威が訪れると理解していても、シンは、蛇を前にした蛙のように、身じ
ろぎ一つせず湯の中で立ちすくんでしまう。
「ら、ランスター、ナカジマちょっと待った」
「あ、あ、あ、ああ」
「シン君…それはちょっと駄目じゃない?」
 さも微妙な顔で咎めるような視線を送ってくるスバルとは対照的に、バスタオル
に身を包んだティアナは今にも倒れそうな程顔面蒼白でその場に佇んでいた。
 第三者から見れば、壊れたレープレコーダーのように「あ」と繰り返すティアナ
は滑稽に映るだろう。
 と同時に、湯の中で立ち上がり、寝入った少女の肩に手をかけた女装した男は、
ティアナの目にどう映っただろう。
 恐らくあまり良いように映ったとは考え辛い。
 ティアナの青白かった顔が次の瞬間には瞬間湯沸かし器のように真っ赤に染まり
、背後に久方ぶりの仁王像が浮かびあがる。
 シンを背筋が寒くなるような重圧がを襲い、ティアナから発せられる怒気がシン
の喉元に刃のように突きつけられ、シンの命はまさに風前の灯だと言えた。
「な、何やってんの馬鹿アスカ!こんな小さい娘相手に!犯罪よ。こんな娘に手出
したら速攻で逮捕なんだからね」
「ご、誤解だ。俺は何もして無い」
「してたらクロスファイヤーじゃすまないわよ!」 
「な、なんで泣くんだよ」
「泣いてないわよ!」

 ティアナは、目尻に薄らと涙を浮かべながら、うろたえるシンを逃がすまいと一
気に距離をつめる。
 本心で言えばシンが、女の子の寝込みを襲うような人間だとは思って居ないが、
それはそれ、これはこれ。
 想い人を信じたいと思う気持ちと状況証拠から来る"シンのお痛"に板挟みになっ
てしまい、たまったものでは無かった。
 何しろシンは、ティアナが知らない間に女性に粉をかけてまわる事に定評がある。
 大げさに言えば、目を離した瞬間、「きゃっ」だの「っぽ」だの擬音語が後から
ついてまわるような男だ。
 悔しいのか寂しいのか「そんな小さな娘に手を出すなら、私に手を出して見なさ
いよ根性無し」と思う辺り、華も恥らう乙女も裸足で逃げ出す剣幕だった。
 ティアナの傍から見れば微笑ましい嫉妬も、当事者にすれば冗談事ではなく、テ
ィアナの折檻はシンにとってある意味命の危機とも言える。
 嫉妬は醜く、気持ちを伝えていないティアナにとって、シンの行動を縛ろうとす
る行為は身勝手で不公平でさえ言える。
 しかし、世界は妙なところで帳尻を合わせようとする。
 それとも機会は平等に与えられることになっているのか。
 ティアナの願いを聞き入れたのが、運命の気まぐれか、はたまた悪魔の悪戯かは
窺い知る事は出来ないが、一つの奇跡がティアナではなくシンの元に舞い降りた
 怒り心頭。
 まさに、怒髪天を突くとばかりに、羞恥か嫉妬か、とにかく猛り続けるティアナ
の元へ一陣の風が吹いた。
 後々種を考えようと思えば幾らでも考えられる出来事だ。外気温や気圧差が原因
か、単純にティアナのガードが甘かったのか。
 ようは、シンの目の前でティアナのバスタオルがはらりと静かにその場へ落下し
た。
「…えっ」 
「お、おい」
 瞬間世界が凍り、刻が完全に停止した。
 ティアナが視線を下に向ける。
 瞳には長年慣れ親しみ、成長期なのか若干の体重の増加を弊害を残した見た目よ
りもずっと大きくボリュームのある双丘が見える。
 シンのように白磁器のようで病的に白いとまではいかないが、健康的な肌色は控
え目に見ても魅力的ではないだろうか。
 ティアナは視線を上に向ける。
 壊れた機械のように首を小刻みに揺らし、噴火してしまいそうなほど耳朶を赤く
染めたシンが映った。
 過呼吸でも起こしたのか、口をパクパクと開け閉めし、なんとも言えぬ愛嬌のあ
る表情を見せている。
 ティアナはもう一度下を見る。
 何一つ纏わぬ生まれたままの自分が見える。
 上を見る。
 顔を真っ赤に染めたシンが見える。
 ティアナの首が、油の切れた蝶番のような音を立てスバルの方を向く。
 訓練校時代からの親友で相棒様は、手で目を覆い、形容し難い表情をお作りにな
っておられる。
 ティアナは、最後にシンの方をもう一度見る。
「ランスター…その、前を隠して…くれ」 
「きゃあああ!!!」
「グゲ!」
 耳を劈く大咆哮とはこの事だろう。
 音が物理的な衝撃を伴い、シンの全身を打ちつけ、
 次いでティアナの渾身の蹴りが下顎を襲い、シンは「この感覚懐かしいなぁ」と
しみじみと思いながら錐揉み上に吹き飛んでいく。
 だが、シンも伊達に殴られ慣れているわけではない。
 顎を強打され意識が朦朧とする中で、なんとか体を保持し着地体勢を整えようと
悪戦苦闘する所までは良かった。
 シンは、滑り易い大理石の床を持ち前の運動神経で足捌きを巧みにコントールし
軟着陸したと思った矢先、シンの両手に妙な感触を感じる。
 何かは、もっちりとした弾力があり非常に柔らかい。
 しかし、シンは、それが何であるか認識する前に、ぶつかると思った時には時既
に遅しだった。

 ぐにゅと、決して慣れ親しんだつもりは無いが、ミッドチルダに来て何度も味わ
った感触を顔面に感じる。
 シグナムよりも控え目だが、この感触は間違い無く乳房だ。
 次にシンの頭に浮かんだのは、この乳房は一体誰の物であった。
 ティアナは、立ち位置的に在り得ない上に、アズサの胸はここまで大きくない。
 シンは、シグナムよりも控え目だと表現したが、一定水準、有体に言えばこの胸
の持ち主は平均値を大幅に上回っている。
 それが証拠に乳房は、シンの手からはみ出し、手から溢れ出した乳房は、マシュ
マロのように柔らかい。
 状況証拠から見ずとも、シンは、スバルの胸をこれでもかと揉みしだいていた。
「え、いや、ちょっと待った、な、なかじま」
「…えっ…えっ」
 急な事態にスバルも思考がスパークしたのか、言葉を覚えた始めた赤子のように
喋る言葉はたどたどしいものだ。
 普段滅多に怒る事がなく温厚なスバルでも、胸を"無遠慮"に揉まれれば怒る事は
必然だ。シンは、飛んでくるであろう鉄拳制裁を甘んじて受けるべく身構えた。
 しかし、待てども待てども、スバルの鉄拳は飛んで来ず、シンは、得体の知れぬ
恐怖に体を撃ち震わせた。
 シンは、スバルお得意の蹴打で金的強打は流石に勘弁して貰いたいと思いながら
も薄らと目蓋を開け、恐る恐る顔を上げれば、シンの赤い瞳に映ったのは、何故か
顔を薄い桜色に染めたがスバルだった。
 ティアナのように、怒りの形相のまま殴りかかってくれれば、シンもリアクショ
ンを取りやすい。痛いのは嫌だが、先に"お痛"を働いたのはシン自身だ。
 鉄拳も罵倒も甘んじて受けるのが、責任の取り方と言うものだ。
 女装して女風呂に入浴している段階で破廉恥極まりないのだが、そこは緊急避難
と言うことでシンは、心の自己弁護に徹した。
 しかし、肝心のスバルが照れたような、困ったような、何とも言えない態度を取
る為に、シンもどうして良いか分からず、内心困り果ててしまう。
 いっそ、泣かれた方がまだマシだと思える気まずい空間がシンの周囲に展開され
、針の筵のようにシンの心臓をチクチクと撫で回している。
「その…シン君。そう言う事は…その…手は離して欲しいんだけど」
「ご、ごめん」
 シンは、手に感じる生々しい感触に、生唾を飲み込み、若干の名残惜しさすら感
じながらスバルの胸から手を離した。
 シンは、鼻腔の奥に生暖かい感触を感じ、手で鼻に擦れると、手の平に粘ついた
血が付き、鉄の香りが鼻につく。
「わっ、シン君、血」
 裸を見て鼻血を出すなどまるで子供だ。
 シンは、慌てるスバルを他所に自嘲気味な笑みを浮かべ「最低だ俺…」と軽い自
己嫌悪に陥ってしまう。
 とにかくさっさと謝らねばとシンが顔を上げた瞬間、憤怒の形相を浮かべたティ
アナが目に入った来る。
「ご、誤…」
 などと正面切って言えればどんなに楽だろう。シンの必死の弁解も喉を僅かに振
るわせるだけに留まり、相対的にティアナの怒りは天井を知らないのか、目に見え
て増大していく。
「エッチ、馬鹿、変態、信じらんないわよ!」
 ティアナは、シンの静止の声も聞かず、まさに電光石火の勢いでシンに接近し必
殺の一撃をお見舞いすべく、カモシカのような長く白い足を天に振り上げた。
(だから、み、見える!)
「あがっ!」
 湯気の奥で、シンは、ティアナの秘部をバッチリ網膜に収めながら、ティアナの
踵落としを脳天に受け、目蓋の奥に火花を散らし、出血のショックも後を押し今度
こそシンは意識を暗闇に手放した。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第八幕『瞬間心重ねて-IDOL@MASTER』-中編3-

「貴方…そんな仕事ばっかりやってると疲れません?」
「煩い。邪魔するなら、消えてろクアットロ」
「ここ、"わたし"の研究室なんですのに」
「借りると最初に断ったはずだ」
「人がいない間に勝手に入ってきて、人のラボを不法占拠する事を借りるとは言い
ませんわね」
 私室では無い為、研究室を言うほど綺麗に使っているつもりは無いクアットロだ
が、二、三時間部屋を留守にして居ただけで、生ゴミ塗れにされると流石に気分が
悪い。
 生みの親であるドクターの息子で無かったら、今頃鉄板で殴りつけて流血事件が
起きている頃だろう。
「ほらよ」
「なんです…これ?」
「コーラだ。見て分からないのか」
「見たら分かりますわね」
 クアットロは、スカリエッティが振り向きざまに投げて寄越した"物体"を慌てて
掴み取る。
 スカリエッティがクアットロに投げて寄越した物は、どこで手に入れてきたのか
瓶に入ったコーラだった。
 確か、スカリエッティが好んで飲んでいるジュースだ。
 瓶に何か拘りでもあるのだろうか。折角ドゥーエが買ってきた"缶"コーラを、本
人の目の前にも関わらずダース単位でゴミ箱に捨てたも呆れたが、「瓶以外のコー
ラはコーラじゃねえ」と素知らぬ顔でのたまった表情はまさに人格破綻者の顔だっ
たのをクアットロは思い出していた。
 クアットロ自身も、スカリエッティに負けず劣らず性格がひん曲がっていると認
めるが、スカリエッティ程に偏屈では無かった。
 命の次に大事なコーラを投げて寄越したと言う事は、これが研究室の賃貸料のつ
もりなのだろうか。
 最初何の冗談かと思ったクアットロだったが、このヘソ曲がりならば、嫌がらせ
をする時は、もっと大真面目に正々堂々嫌がらせを仕掛けてくるはずだと思いなお
し、顔を引き攣らせながら手元の瓶に目を移した。
 もしかして、開発中の試薬か何かだろうかと思い直し、栓抜き匂いを嗅いでみる
が、瓶の中に怪しげな試薬がボコボコを音を立てている事も無い。
 ただ、甘い香りが鼻腔をくすぐるのだが、果たしてコーラとはこんなにも薬品の
ような甘い香りだっただろうか。
 ジャンクや清涼飲料水の類を殆ど食べない、飲まないクアットロとっては、どう
にも判断がつかない代物だ。
「美味いぞ…飲めよ」
 クアットロは、気が乗らないと思いながらも、スカリエッティに促されるままに
コーラらしき飲み物に口をつける。
 クアットロは、口腔の中に広がる何とも言えない小児科で処方される飲み薬のよ
うな凶悪な甘みと、喉を刺すような炭酸の強烈な刺激に思わず顔を顰めた。
「なにこれ?味が凶悪にケミカル臭いんですけど」
「ドクターペッパーとコーラをカクテルした俺のオリジナルだ。ドクターペッパー
のケミカル味とコーラの不健康さが合わさった最高の飲み物だ。レシピは企業秘密
だ。教える事は出来ない。教えて欲しけりゃ百万クラナガンドル寄越せ」
「味からして絶対1:1で混ぜただけですわね」
 スカリエッティの嫌味で小馬鹿にするような視線が勘に触ったのか、クアットロ
は、夜景ほどの価値もないと嘯き、ケミカル臭いコーラをシンクに捨て流し、空き
瓶をスカリエッティに向け明確な悪意を込めて投げつけた。
 スカリエッティは、綺麗な放物線を描き飛んでくる空き瓶を振り返りもせず避け
、溜息交じりに椅子に体重を預ける。
「何故髪型を変えた、クアットロ」
 次にスカリエッティが振り返った時は、普段の嫌味ったらしい表情は成りを潜め
、いつのも態度が芝居に思わせるほど静謐な雰囲気を秘めていた。
 彼の知る"正史"のクアットロは、腰まで伸びた髪を三つ編みにして背中に流して
いた。

 だが、今の彼女は長かった髪をおかっぱ頭までばっさりと切り、こげ茶色の髪を
毒々しいオレンジに染め上げている。
 そこまですれば眼鏡も外せば良いものを、なにか眼鏡に拘りでもあるのか"以前”
と同じ眼鏡を執拗にかけ続けていた。
「別に気分だけど…もう少し付け加えるなら"毎回同じ"髪型だと飽きますから…色
々と考えてわけですわね。ほんと、どうせ"思い出す"とも違いますけど、繰り返す
んだったら生まれる順番も変えて欲しかった…ですわね」
「以前のお前はどうかしらねぇが、俺が知ってるのは"現在"のお前だけだ。それが
お前の意思だってんなら尊重もする。だがな、クアットロ、不貞腐れるも腐るも勝
手だが、記憶の残滓に拘るなよ…引っ張られるぞ」
「もう遅いですし…」
 例え話をしよう。
 全ての生きとし生きるモノの運命が平等に定められていたとすると、果たしてそ
の世界で生きるモノはどう思うだろうか。
 いつ、どこで、なにをして、なにを考えて、どう行動するのか。
 舞台の脚本のように、全てが予め定められているとしたらどうだろうか。
 誰かを愛し、憎み、誰かの死を悲しみ、尊び、今まさに感じている思いが、誰か
を楽しませる為の演出だとしたらどうだろうか。
 釈迦の手の平の上で回り喜ぶ猿のように、その事実にだれも気が付かないとすれ
ばどうだろうか。
 必死に生きているはずが、その実全てが決まりきった硝子のように脆い予定調和
の作り物だとすれば一体どう思うだろうか。
(最低…)
 まさしく最低の気分だろう。
 誰かに決められた運命ほど面白みの無い人生はない。
 当然それを良しとする人間も確かにいる。だが、クアットロは、決められた運命
を良しと出来る人種ではなかったし、次の曲がり角を右か左どちらに曲がるか、も
しくは元来た道を戻っていくのか、そんな些細な事すら決められない運命など路傍
の草以下だと思っている。
 生きる事に思考も思惑も存在せず、ただ行動するだけならば機械の方が余程効率
的に行動出来はずだ。
 記憶の残滓。
 その言葉が聞こえる度にクアットロは眉を潜め憎々しい思いに駆られる。
 世界の秘密。
 盤上の駒。
 今クアットロが生きている人生が---既に何度も繰り返された上で成り立って
いるとすれば、どうだろうか。
 歴史は"何者か"の手によって今も繰り返され、日常すら定常(お約束)化されて
いる。
 クアットロは、世界が繰り返される秘密の一部に羽鯨が関係していると、理解し
てしまった。
 そして、世界の秘密を知ってしまった今はおいそれと目を背ける事が出来ないで
居る。他の姉妹達はどう考えているか知らないが、クアットロは、盤上の駒で治ま
る気は更々なく、誰かの手の平の上で踊るなど真っ平ごめんだった。
 その点に関しては、目の前の男、赤い瞳のスカリエッティとクアットロは全くの
同意権だった。
「あがっ」
 スカリエッティに不敵に微笑もうとした瞬間、突然クアットロの体に電撃にも似
た衝撃が走った。
(□□□□□□A□□□□□□D□□□□C□□□)
 次いで、クアットロの脳に直接底冷えのする声が響いてくる。
 脳裏に響いている声は、声と呼ぶにはあまりに稚拙過ぎる物だ。
 凡そ人間の話す言語とは程遠く、どちらかと言えば動物の鳴き声のようにも聞こ
える。声は、遠雷のように激しく明滅し、地響きのようにクアットロに重く圧し掛
かる。
 声は「オォ」と一定のリズムで遠吠えのように鳴り響き、その度にクアットロの
全身に体が砕け散るような痛みと衝撃が駆け抜けた。
 脳髄に直接焼き鏝を詰められたような暴力的な痛みが頭から足先までを突き抜け
る。クアットロの脳が張り裂けそうな程膨張し、濁流のような情報が流れ込んでく
る。

 曖昧で判然としない情報の欠片達はクアットロの脳を我が物顔で蹂躙していく。
 不思議な事に全く意味のない情報に見えるが、全てが補いあい相互関係にも似た
共鳴現象を起こしているようにさえ見えた。
まるで、正解の無いパズルを永遠に解かされているようだ。
 戦闘機人の屈強な肉体を持ってしても耐え切れぬ責め苦に、クアットロは顔を顰
め痛みが過ぎ去るのを必死に耐え続けた。
 尋常では無いクアットロの様子にスカリエッティも異常を感じたのだろう。
 椅子から立ち上がると蹲るクアットロに駆け寄り、神妙な顔つきでクアットロを
見つめた。
「どうした…整備不良か」
 この男はどこまでデリカシーが無いのだろう。
 うずくまる美少女相手に言う事に事欠いて"整備不良"とは何事か。
 クアットロは憤るが、スカリエッティはドクターの遺伝子を組み合わされて出来
た人間だ。
 クアットロの生みの親であるジェイル・スカリエッティは、お世辞にも人格者だ
とは言えず、禁忌の技術である、人と機械の融合体"戦闘機人"をもと創造する程の
研究マニアだ。
 その血が目の前に男に流れているのだから、気遣いやデリカシーを求めるのは無
謀と言うものだろうか。
 クアットロは苦笑しながらに呟き、仏頂面で自分を見つめるスカリエッティを手
で制した。
「心配ありません…あのくそったれな羽鯨様の事をちょっと考えただけです」
 再度クアットロの体に感じた事の無い激しい痛みが走る。今度は打撃による直接
的な痛みでは無い。
 全身を巡る絶え間ない痛みは、金属が錆びて朽ち果てるように、体の内側、それ
こそ魂から腐り落ちてしまうような錯覚さえ覚えた。
 臓腑が焼かれ、肺腑が腐り落ち、脳髄が弾け飛ぶ。
 クアットロは、全身を駆け巡る痛みで気絶しそうになるが、また、痛みの衝撃で
覚醒を短時間で繰り返していた。間断なむ続く拷問は、クアットロの体力を確実に
削りとり、精神すら磨耗させていった。
「そこまでだ四番目。何も考えず深呼吸しろ」
 クアットロが、幾度目かの気絶から目を覚ますと、スカリエッティの燃えるよう
な赤い瞳がクアットロを覗き込んでいた。
 口と性格が最悪に近いスカリエッティだが、今は珍しく人を気遣うような視線を
クアットロに向けている。
 クアットロは、痛みと熱で朦朧とした意識の中で「明日は雪だろうか」と場違い
な考え抱いていた。
 スカリエッティの赤い瞳を覗き込んでいる内に不思議と気分が楽になって来る。
 スカリエッティに促されるままに深く深呼吸を繰り返している内に、全身を襲う
痛みは嘘のように消え去った。
「大丈夫か」
「ええ、まぁ」
 痛みが引く瞬間にクアットロの脳裏に一つの映像が浮かぶ。
 靄が掛かり判然としないピンボケ写真のような映像だが、スカリエッティが血ま
みれの誰かを抱え泣き叫んでいるのが見えた。
 そして、その背後に悠然と浮かぶ巨大な生物がクアットロの視界に大写しにされ
る。巨大な鯨のような体躯を白磁器のように白く透き通る鱗が全身を覆い、背部か
ら伸びる六対の羽が天を衝くように扇状に広がっている。
 のっぺりとした表情の中心で、鮮血のように赤い、大小合わせて七つの瞳がギョ
ロリと脈動し、紺碧の複眼がクアットロを威嚇するように揺れ動いていた。
 魚と鳥の合いの子ようなアンバランスな形状をしているが、逆に不整合性極まり
ないフォルムこそが、羽鯨の神秘性を際立たせていた。
「これが羽鯨…」
「悪趣味だな。人の記憶を除き見たのかよ」
「…別に見たくてみたんじゃありませんわ」
「だろうな。あんな化け物伊達や酔狂で見るもんでもない。お前の言うとおりあれ
がエビデンス01…羽鯨だ」
 クアットロから羽鯨と言う単語が出た瞬間、スカリエッティから表情が消え、只
僅かに眉を潜めながら、荒い息を吐くクアットロに肩を貸し奥のソファに寝かしつ
けた。
「お前達は"羽鯨"にとって盤上の駒も同然だ。役者がアドリブを効かせるのは問題
無いが、観客に唾を吐く行為は許されてねえ…それが出来るのは、脚本に載ってな
い外側の住人、俺かシン・アスカだけだ。だから、今は考えるな…運命そのものか
ら削除されるぞ」

「私、羽鯨って言っただけですわよ」
「字面の問題じゃねえよ。認識の問題だ。お前は羽鯨がどんな生物でどんな存在か
を知ってしまってる。先の展開が全部分かってる。ゲームにそんなチート許される
わけ無いだろ。それに今のは警告なだけだ。いや、あいつにして見れば、テレビに
向って野次っただけかも知れねえな。とにかく今は羽鯨の事を考えるな。命が幾つ
あっても足りない」
「そうさせて貰いますわ。流石にさっきのを何度もされると、私壊れちゃいます…
。それとも貴女が私を壊す方が先かしら」
「それだけ皮肉が言えれば上等だ。寝てろ」
 それだけ言うと、スカリエッティはクアットロに興味を失ったのか、端末に向き
直りキーボードを叩き始める。
 もうこれ以上は話す事はないとばかり、スカリエッティの背中はクアットロを拒
絶している。
 本人が幾ら冷徹冷静の仮面を装っていても、スカリエッティの根っこの部分はマ
グマのように鮮烈で苛烈な性格の持ち主だ。
 スカリエッティは、利己的主義の皮こそ被っているものの、薄氷のように脆い皮
を剥ぎ取れば、現れるのは他者の追随すら許さない激情だ。
 行き場の無い怒りと虚無を抱えているのは、スカリエッティも同じだとクアット
ロは思っている。スカリエッティとクアットロの違いは、希望と絶望、二律背反の
思いに板ばさみのあいながらも、鉄のような硬質な意志を持ち合わせているか否か
にしか過ぎない。
 クアットロは世界の秘密を垣間見た。だが、垣間見たからと言って、許せないと
と思う事は容易いが、正面切って戦う勇気を持てないでいた。
「その分貴方は気が楽ですわね。自分が何回"繰り返してるのか"分かっている
から…だからあんな意味の分からない怪物を戦える勇気が持てる」
 揶揄するようなクアットロの言葉に、スカリエッティの手が止まる。
「まだ二回目だ。記憶がある限りに限定だけどな」
 気に入らないなら無視を決め込めば良いものを、スカリエッティは不機嫌を隠す
事もせず、クアットロの問いかけに律儀に答える。
 クアットロとスカリエッティの付き合いは長いようで短い。
 クアットロの記憶に残る原初の風景は、翡翠色の培養液と隣で浮かぶ姉妹達。
 そして、クアットロを嬉しそうに覗き込む金色の瞳と不機嫌そうな赤い瞳だった。
「…ねぇスカリエッティ…」
「なんだ四番目」
「私は一体何回目の"私"なの?」
 小刻みに揺れていたスカリエッティの体がピタリと止まる。やがて、何かを振り
切るように貧乏揺すりをしながら、キーボードを叩き始める。
「…その質問に意味は無い。さっきも言ったはずだ。俺が知ってるのは今のお前だ
けだ。風化しそうな記憶の果てで、お前が何度繰り返したのか俺は知らない。知る
術もない。だが、俺が知っているお前は四番目のお前だけだ。他は知らない」
 再びクアットロに向き直ったスカリエッティは酷く不機嫌な顔をしていた。まる
で、慣れない演技を強要された役者のように、眉間に皺をよせ顔を引き攣らせたま
ま鼻をヒクヒクと鳴らしている。
(慰めているつもりかしら)
 恐らく当人は大真面目に慰めている"つもり"なのだろう。だが、慰めの言葉にし
ては、険が篭り過ぎて上に、弱っている人間に向けて喧嘩腰にも見える態度はいた
だけない。
「…六十点。私が聞きたい答えをそう言う意味じゃないのよ、ボウヤ。ラボに引き
こもっていないで、お外で女の扱い方くらい勉強しないさいな」
「殺してぇ…」
 更に眉間の皺を深め、頬を痙攣させるスカリエッティを見ると、クアットロは鬱
屈した溜飲が少しだけ下がるのを感じた。
 クアットロが、培養層から出るほんの数日前。
 赤い瞳のスカリエッティも時を同じくして培養層から誕生していた。
 生まれた時期が近い為か、ドクターの性格を顕著に受け継いだのが二人だったの
かは謎だが、スカリエッティとクアットロは不思議と馬が合った。
 最も他のナンバーズと比べて馬が合う程度の物で、親友や相棒には程遠く顔を合
わせればいがみ合うの日々の方が多かった。
 何かと偉そうな態度を崩そうとしないスカリッティに腹を立てるのは毎日の事だ
ったし、不機嫌疎な顔を視界に入れるだけで気が滅入った時期もあった。

 だが、それも慣れるまでの辛抱だったし、慣れてしまった現在では一日一回スカ
リッティをからかうのがクアットロの日課になった。。
 そもそも、ほんの数日だけ早く培養層から出ただけで兄貴面されてはたまったも
のではない。本人は気が付いているのか知らないが、スカリエッティがクアットロ
を見つめる視線は肉親の情そのものだった。
「少しいいか?」
「客が多いんだよ。仕事が進まねえだろが!」
 人を小馬鹿にしたような声が聞こえ、苛々したスカリエッティが振り返ると、い
つの間に部屋に入ったのか、壁に背を預け、腕を組んだチンクが微苦笑を浮かべな
がら二人を見つめていた。
「お邪魔だったか?」
「場違いな上に見当違いな気きかせてんじゃねよクソガキが!」
 スカリエッティは、怒気をばら撒きながらチンクに詰め寄る。
「何の用だ」
 身長差もさることながら、スカリエッティの大股歩きにメンチ切りの様子は、控
えめに見てもチンピラが無垢な少女に因縁をつけているようにしか見えない。最も
日本刀のような鋭い殺気を放つ少女を無垢と言うのは些か疑問に残るではあったが。
「私は今から出撃する。ドクターが行く前にお前に挨拶しておけというんでな。寄
っただけだ」
「そうか」
「それだけだ。じゃあな」
 用事は済んだとばかり、チンクはクアットロの研究室を後にする。
 チンクは、本当に挨拶に寄っただけなのか。素っ気ない態度にスカリエッティは
、やや憮然とするが、急に何かを思い出したようにクアットロに声をかけた。
「クアットロ、お前は寝てろ。また、後で話がある。俺は、あのクソチビに渡さな
きゃいけない物がある」
「はいはい。行ってらっしゃいな」
 クアットロは、ソファーの上でスカリエッティに振り返りもせず、手をひらひら
とふり退場を促す。
「むかつく。何か真剣にむかつく」
 捨て台詞を残したスリカリッティは、チンクを追いかけ研究室を後にする。クア
ットロは、廊下を駆ける騒がしい足音に頭痛を覚えながらも「手のかかる兄様だ」
と苦笑しながら、去り際にスカリエッティが投げて寄越した毛布に潜り込んだ。

 誰も居ない廊下に二つの足音が木霊する。
 慌ててチンクを追いかけたスリカエッティだが、あっさりとチンクに追いついて
いた。
 出撃するとは言ったが、別に急いでいないのか、チンクは、ゆっくりと一歩一歩
何かをかみ締めるように廊下を歩いていく。
 スカリッティは、チンクに話し掛ける機会を伺うが、チンクから感じる並々なら
ぬ気迫に毒気を抜かれ、チンクの後方に控えただ静かに歩いていた。
 しかし、寡黙に見えたお喋りが大好きなスカリッティにとって、あまりに長い沈
黙は苦痛でしかない。
スカリエッティは、僅か数分で忍耐力を使いきり、チンクの頭の上から声をかけ
た。
「先方はお前か。てっきり戦闘型のトーレ辺りが先陣を切ると思ってたんだが、意
外だったな。お前は戦闘型と言っても直接攻撃が出来るタイプじゃねえだろ」
「私のISを馬鹿にするな。ドクターのやる事に間違いは無い。お前に言われずと
も立派に任務を遂行して見せるさ。それにもう直ぐ生まれてくる妹達の為にも計画
の遅延は認められん…姉としてな」
「まぁそれはそれだ。今度は俺がお前に用があるんだよ」
 人の話を聞かないのは、遺伝なのだろうか。
 チンクは、敢えて無視しているのに関わらず、自分のペースでに一方的にまくし
立てるスカリッティに胡乱な視線送るが、当の本人は我関せずの態度を崩す事無く
、チンクの目の前で腕を組み、チンクに向け訝しげな視線を送り続けている。
 これが敬愛するドクターの息子で無かったら、チンクは彼の腹なり頭なりに景気
の良い一撃をお見舞いしているに違い無かった。
「お前一度矯正してやろうか、姉として」
「姉なぁ」
 チンクは、苛立たしげに指の骨を鳴らすが、当の本人はチンクの敵意を知ってか
知らずか無遠慮にチンクを見つめ続け、何かをブツブツと口篭りながら納得がいか
ないと言った表情のまま思考の海に沈んでいた。
 赤い瞳のスカリエッティの遺伝子上の親である、ジェイル・スカリエッティ。
 彼が作った作品の一つで、機械部品をその身に埋め込んだまさに現代のサイボー
グの名に相応しい少女達。
 スカリエッティは、目の前の少女を見て内心溜息を付く。
 チンクの外見年齢は十代前半。
どう高く見積もって十二歳程度にしか見えず、稼動暦こそ稼動中の戦闘機人の中で
一、二位を誇る最古参だったが、彼女が戦闘用のサイボーグだと言われても人はす
ぐに信じる事は出来ないだろう。

 それだけ精巧に作られていると言えば聞こえは良いが、戦闘用のサイボーグの素
体に見た目麗しい少女を使う理由がスカリエッティには全く理解出来なかった。
 一応理由は知っているだが、あまりに悪趣味極まる屁理屈地味た理由に、父親な
がら辟易し、途中からどうでも良くなったスカリエッティは、父親のご高説を雑誌
を読みながら聞き流していた。
 スカリエッティですら、チンクに秘められた能力を直接見なければ、自身の親を
キ印扱いしていただろう。
「それで何の用だ?再三言うが私は忙しいんだ。簡潔に言うとお前に構っている暇
は無い」
「お前…もうちょっと歯に絹着せるのを覚えた方がいいぞ」
 不可思議な表現だが、任務を控え、チンクも人並みに緊張していたのだろう。
 それはスカリッティも同じだとチンクは思うが、どうせ目の前の男は聞く気が無
い話題は徹底的に無視するタイプの人間だ。
 珍しく意思疎通が出来ている間に会話に興じるのみ一興だとチンクは思い直し、
歩みを止めスカリエッティに向き直った。
「…俺も暇じゃねえんだよ。用事がなきゃ、わざわざ追いかけていくか。前に言っ
てたお前の支援用素体<アニマ>が出来たんだよ」
「ほぅ…例のモノが出来たのか」
「ああそうだ。それとな"なま物"だからモノ扱いしてやるな。ヘソを曲げても知ら
ねえぞ」
 言うや否や、スカリエッティのポケットからから一匹の猫が姿を現した。
 白と茶色の斑模様。
 典型的な三毛猫だが、怪しく輝く金色とネイビーブルーの瞳、翡翠色に淡く発光
する"髭"が、猫が作られた命である事が如実に告げていた。
 まだ生まれて間もないのだろうか。猫は、スカリエッティのポケットから飛び降
り、覚束無い足取りでチンクの傍に寄り、チンクの足に頭を摺り寄せ上機嫌に一声
鳴いた。
「猫…何か弱そうだな。トーレの素体は、虎かライオンだろ。私ももっと強そうな
のが良かったな」
「キャラ考えろよ。お前みたいなチンマイのが、虎の素体持ったって似合わないだ
ろうが」
 スカリッティの言葉に、非情に不本意だが、一寸の虫にも五分の魂程度の物だが
、渋々ながら同意の意を表す。
 確かに身長が低いチンクが、虎のような大型の支援用素体を持てば、性能面以前
に絵的に似合わないのは承知出来た。
「なら、もっと可愛いのが良かった。猫はベタ過ぎると思うんだが」
「一々文句が多いなお前…大体お前がハシビロコウは可愛くないって拗ねたから、
猫になったんだろうが!」
「あんな石像みたいな鳥却下だ。全然可愛くない」
「お前馬鹿か!あの造形美がわかんねえのかよ。鱗とか神級。もはや芸術品の領域
だろ!」
「知らん」
 チンクは、顔を赤くし唸るスカリエッティを、素知らぬ顔で無視し、猫を優しい
仕草で抱きしめる。
「煩い奴だな。猫が驚くだろう」
「お前いい性格してるぜ」
 猫に頬ずりするチンクを呆れ顔で見つめながら、スカリエッティも猫の頭を撫で
た。育ての親では無く、生みの親を覚えているのか、猫は一層嬉しそうに鳴き、チ
ンクの薄い胸に顔を沈める。
「後はお前が名前をつけてやれ。それで、マスターレコードにお前のデータが登録
されて晴れて契約終了だ」
「名前か」
「ゆっくり考えろ。名は体を現す。人生の初めの一歩を踏み出す為の重要な儀式だ
。こいつは、俺に作られた命だが、自我も感情も"心"も持ってる。子供に変な名前
をつける、将来的に子供が苦労することになるぞ」
「心か。それにしても科学者らしからぬ発言だな」
「ロジックじゃないんだよ。俺もお前も・・・勿論こいつもな」
 チンクの腕の中で甘えた声を出す子猫は、生まれたばかりとは思えぬ程生命力に
満ち溢れている。目は既に開き紺碧の瞳がチンクを見つめ、純粋無垢な視線で見つ
め返してくる。
 アニマ。
 自らの意思を持つインテリジェントデバイスに類似する魔導生命体であり、スカ
リエッティが戦闘機人用に開発した支援機である。
 Mシリーズと銘打たれた人造生命体のデータを利用し、ハード、ソフト面に抜本
的な改造を加え、先日のディープホエールと機動六課との交戦データで漸く日の目
を見たスカリッティの自信作だ。
 アニマは、汎用性と出力を重視する余り、どうしても素体が巨大になってしまう
Mシリーズとは違い、特定の機能のみを付加し出力を抑えた結果、人間サイズまで
小型化に成功した。
 主<マスター>となる各戦闘機人の特色ごとにそれぞれカスタマイズされ、汎用
性を求められる量産機ではなく、彼女達の為だけに存在する専用機と言える。

「そう言えば馬鹿親父はどうしてる。ラボでなにか作ってるみたいだが」
 機動六課との幾重にも及ぶ戦闘で、実戦データに困る事は無かったと言えど、ス
カリエッティがアニマの創造を決めたのは、ディープホエール戦の直後だ。
 僅か一ヶ月程度の期間で、新しい魔道生命を一から創造し運用計画まで立てた手
腕は、最早人外の領域に達していると言える。
 チンクの薄い胸に額を擦りつけ甘える様子は本当に只の猫だが、短期促成のクロ
ーニングや素体のサイボーグ化では、一ヶ月と言う僅かな時間では生物としての"生
々しさ"を表現する事は出来ない。
 恐らく同系統の技術者や研究者がアニマを見れば慌てふためき腰を抜かす事だろ
う。
「私の妹達の最終調整だが…お前もしかしてドクターと話してないのか?」
「仲悪いんだよ…」
 それはそれでどうだろうか。
「こいつ馬鹿だ」とチンクをその時真剣に思うが、仮にも血と肉が繋がった親子な
のだから、もう少し仲良くしても罰は当らないはずである。
「お前…もう少し巧く立ち回れないのか?私が言うのもなんだか、お前は馬鹿みた
いだ」
「…性分なんだよ。今更変えられるか」
「三歳とちょっとの癖に随分と偉ぶるじゃないか」
「精神年齢はテメェよりずっと上だっての、チビ」
「売り言葉に買い言葉で反応する方が、ガキの証拠だ」
「てめぇは…」
 スカリエッティは、チンクの言葉に頭に血が昇り、思わず手を出しそうになる
が、チンクの中身がどうであろうとも外見は小さな子供だ。
 大の大人が年端もいかない少女に真剣に怒るシュチュエーションも頂けないが
、チンクと徒手空拳で本気でやりあえば大怪我では済まないのは明白だった。
 だからと言って、言われっぱなしのまま溜飲を下げる事など、スカリエッティ
の性格上出来るわけもなく、怒りを何処に吐き出せば良いのか見当をつける事も
出来ず、スカリエッティは、口腔まで昇ってきた罵声を苦々しい思いで何とか胃
に戻しこんだ。
「なんだそれは?」
「…あぁこれか?まぁなんでもない研究サンプルだ。アンビエントの爺さんと二
人で管理局直轄の博物館から強奪したんだけどな。ベルカ王朝の最強のデバイス
のコアらしいが、解析すればするほどガッカリだ。内部構造は平凡。魔力増幅率も
これまた平々凡々。まぁ伝承に尾ひれ背びれ尻尾が生えた類のロストロギアだっ
たな。思ったより全然普通だったな。VIVIOに使えればと思ったんだが…
今の所使い道が思いつかん」
 またも、何処から取り出したのか、スカリエッティの手には青色に光る直方体
が握られている。
何の変哲も無く形状で、玩具であるルービックキューブが一番近いだろうか。
「いつの時代の物なんだ」
 チンクが年代を聞いたのは只の気まぐれだった。長い通路はもう暫く続く。
 別に話す事など無かったが、目の前でこれみよがし弄ばれていては、聞けと
脅迫されているような気がして居心地が悪いのも事実だった。
(しかし、こいつのポケットは魔窟か)
 見た目は平べったいのに、目を放せば猫やらロストロギアやらジャンクフード
やらをいつの間にか取り出している。
 チンクは、まるで、青狸のポケットのような不可思議なスカリエッティのポケ
ットの中を一度真剣に問質したい気分になった。
「知りたいのか?」
「ああ」
「教えない。知りたかった自分で勉強しろ」
(こいつ…)
 漸く反撃出来た事にスカリッティは気を良くするが、拳を握り締め戦慄くチン
クを見て、生命の危機と自身の呆れる程の子供っぽさに自戒の念を強くする。

「少々悪ふざけが過ぎたな。許せ」
「分かればいい。姉として、ドクターの息子を撲殺したくないからな」
 チンクは「冗談だ」と仏様のように慈悲深い笑みを浮かべるが、握った拳と発
する重圧は、間違いなくスカリエッティを殺りにかかっている。
 一応味方である彼女達に後ろからブッスリやられましたでは、死んでも死に切
れるものではない。
 スカリエッティは、夜道に気をつけようと思い、ロストロギアを白衣の中に押
し込んだ。
「さっきも古代ベルカ王朝っていっただろ。古代ベルカ文明って言えば"二千年"
前って相場が決まってるんだよ、チビ」
「そうか。そうだったな」
 二人はお互いに嘆息し合い、再び歩き始める。
 古代ベルカ王朝。
 二千年前に栄えた古代文明。
 それが、現代ミッドチルダの常識だった。
 もし、今ここに、正史を知る人間が居れば、スカリエッティの口から出た言葉
とミッドチルダの常識に異議を唱えただろう。
 それ程までにスカリエッティの放った言葉は、正史を知る人間にとっては、奇
怪な物以外なにものでもなかったはずだ。
 当然正史を知る人間が"今回"に居ればと言う前提ではあったのだが。