RePlus_第八幕_後編3

Last-modified: 2011-08-02 (火) 17:58:32

 深夜のエレベーターの駆動音は何故こんなにも響くのだろうか。
 普段は気にならないというのに、耳元でゴンゴンと鳴るエレベーターが昇る音
が妙に気に障った。

『ちょっと真面目な話な』

 妙に真面目くさったはやての表情が、先刻まで周囲に漂っていた、桃のように
甘酸っぱい雰囲気を一瞬で粉々に打ち砕いてくれた。
 先日アズサのイベントを襲撃した犯人が、漸く取り調べに応じた。
 最も犯人は心身虚弱状態にあり証言内容に一貫性は無く要領を得なかった。
 しかし、男は、アンビエントを言う言葉をうわ言のように繰り返し、その様子
は犯人がアンビエント言う言葉を六課に印象付けたいようにも思えた。
 クロワッセル・S・アンビエント。
 管理局運営を任される元上級委員であり自動車業界の異端児。
 豊富な財力と人脈を持つ経済界の重鎮だ。
 六課、主に執務官フェイト・T・ハラオウンの尽力によって、アンビエントと
ジェイル・スカリエッティの間に繋がりが判明する。
 アンビエントが運営する外郭団体から、幾つもの幽霊会社を経由し、とある人
材派遣会社に多額の資金が送り込まれていた。
 件の会社の名前は"チルチル・ミチル"
 役所に登録こそ出されているものの、登記記録も地権者も全くの捏造。
 それどころか、いつから、その場所に存在していたのかすら確かでは無く、記
録は愚か証言すら得られない。
 フェイとがアンビエントに辿り着いた頃、アンビエントは捜査の手から逃れる
為に既に姿を消した後だった。
 金の流れが、脱税や裏金作りの資金洗浄の線も大いに考えられたが、社員名簿
に記載されたジェイル・スカリエッティの名前が、アンビエントとジェイル・ス
カリエッティを関連付ける決定的な証拠だった。
 名前以外の一切の痕跡を残さず、追えるものならば追ってみろとばかりの挑発
行為の数々、まるで、子供の喧嘩のような稚拙な挑発だったが、こちらの闘争心
を煽るには十分だったが、これだけで具体的な罪状も立件出来ず、六課に対する
挑発と牽制と同時にやってのける辣腕は流石と言えた。

「アズサさんの父さんが…」
 
 ウォルター・ライス。
 アンビエント同じ、と言ってもこちらは"現役"の管理局上級委員で、シンの身
分からすれば文字通り天井人と言える存在だ。
 六課の財政難に便乗し、娘のアズサの護衛に六課を利用した親馬鹿な人間。
 それだけならば、苦笑一つで済ませる事も出来たが、ウォルター・ライスとア
ンビエントが師弟の関係にあると判明すれば話は別だ。
 はやてから見せられた報告書には、学生時代のライスの大学で教鞭と執ってい
た若いアンビエントが映っていた。
 考えすぎかと思う事は容易い。
 しかし、アンビエントとライスが裏で繋がり、全ての黒幕であるジェイルスカ
リエッティが裏で糸を引いている。
 シンも子を心配する親の気持ちを疑いたくは無い。
 だが、全ては最初から仕組まれていたと考えれば、パズルのピースが収まる場
所にすんなりと収まってしまのだ。

「なんだっていうんだよ…」

 何かが起きようとしている。
 シンは、形すら定まらないまま、漠然した何が身近に迫って来るのは理解でき
ても、それによってどんな事が起こるのか、アズサや自分達にどんな被害が起こ
るのか、想像する事すら出来ない自分に僅か苛立ちを覚え、エレベーターの壁を
小突いた。
 シンの懊悩を知ってか知らずが、エレベーターがチンと場違いな程に珍妙な音
をたて、自動ドアがゆっくりと開いた。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第八幕『瞬間心重ねて-IDOL@MASTER』-後編3-

「お早いお帰りですのね」
「アズサさん?」

はやてと夜の密会?を楽しみ、はやてを玄関まで送ったシンを出迎えたのは、
意外にもアズサだった。
 チンとエレベーターの音が鳴り、自動ドアが開くと、エレベーターの前で腕
を組み、何故か眉を潜め仁王立ちでシンを出迎える様子からは並々ならぬ気迫
を感じる。
 先刻までのシンの懊悩も、アズサの重圧にあてられ一瞬で霧散し、不意打ち
の内に重圧をまともに受けたシンは、背中から冷たい汗を盛大に垂れ流した。
 アズサの服装は見慣れたスパッツとTシャツ姿では無く青色のパジャマだ。
 同年代の少女が着るパジャマと比べてもアズサの使っているパジャマは可愛
いデザインで、悪く言えば子供っぽい印象を受ける。
 普段大人びて見えても中身はまだまだ子供。
 妙な所で辻褄を合わせる神様にシンは苦笑し、アズサの意外な面に安心した
ような気持ちになった。  

「てっきり寝てるんだと思ってました」

 時刻は既に十二時を超え日付が変わっている。
 時間だけ見れば、随分話し込んでいた見えるが、言う程時間の経過を感じな
い。
 きっと楽しい時間は瞬く間に過ぎていくのがお約束なのだろう。
 アズサが用意した徹底的なカロリー計算に基づいて三ツ星のシェフが作った
食事は味も品も良いが、男のシンには少々食べ応えが足らずいつも不満気味だ
った。
 久方ぶりの暴飲暴食に気を良くしたシンは、結局殆どのメニューを食べつく
し、上機嫌ではやてと別れ、シンの予定ではこのまま何事も無く夜が更けてい
くはずだったが、そうはアズサの問屋が卸してくれないようだった。

「ご不満?」
「まさか、ランスターとナカジマはどうしたんですか?」
「お二人なら、ぐっすりと眠りの園ですわ。あの様子じゃクラナガンに隕石が
落ちて来てもも起きませんわよ」

 アズサの胡乱な視線に、シンは苦笑するが、ティアナ達が寝てしまった事実
に顔を引き攣らせた。
 練習が過酷なのは理解出来るが、護衛対象よりも先に眠ってしまうのは護衛
係りとしては些か問題がありすぎる。

(それ、護衛の意味ないんじゃ、、、ないのか)

 恐らく全く無いのだがそれを断言してしまう勇気はシンには無かった。

「す、すいません」
「貴女が謝らなくていいでしょう」

 シンは、反射的に謝るが、アズサの表情は未だ硬い。脊髄反射で謝ったわけ
では無いが、相手にそうとられなければ意味は無く、アズサは「付いて来なさ
い」とシンを目線一つで促した。
 アズサの苛烈なまでに鋭い視線は、怒った時のティアナは彷彿させ、出会っ
て数ヶ月とは言え、怒れるティアナの恐怖を骨の髄まで"調教"されてしまった
シンには、逆らうと言う選択肢すら存在せず、ほぼノータイムで首をブンブン
と振りし抱く。

「ふん。夜はまだまだこれからですわ。貴女まだ練習するんでしょ」
「そりゃしますよ」
  
 芸達者で器用な人間ならば、一日程度の遅れは容易に取り戻せるだろうが、
不器用を自称するシンでは、たった一日と言えど致命的な遅れに繋がりかねな
い。
 情けない話だが、シンのやる気に反比例するように時間は貴重で有限なのだ。
 一秒たりとも止まっている暇は無い。
 シンは、アズサを連れ添い、戦意も新たに個人レッスン用のスタジオに入っ
た。
 元々一人で使う為に設計されている為に、アズサと二人で入れば、いつもよ
りも狭く感じる。
 肩と肩が触れ合うとはまではいかないが、物理的な距離の近さも合い間って、
シンは肩に力が入るのを自覚した。
 シンに宛がわれた楽器はベース。
 黒光りするメタルフレームに縦に走る真紅"六本"の弦。過剰な装飾を一切排除
し、実用一点張りのデザインは、先刻のメイド服と意を同じくするが、使えるも
のなら使ってみろとばかりに、他者を威圧する態度はメイド服のもてなしの心と
は天と地ほどの差がある。
 シンに与えられたベースには、一目で特注品と分かる独特のとっつき難さがあ
ったが、精巧かつ精密な匠の作品に思わず感嘆の溜息を漏らしていた。

「珍しいですね。六本なんて」

 普通ベースの弦と言えば、四本が基本だが、シンに用意されたベースは六本
弦。
 素人目には明らかに難易度の高そうな構造だ。
  
「作曲家先生の拘りですわ。そっちの方が響くんですって」
「響くって、音がですか?」
「魂…にだそうですわ」
「魂ですか」

 何とも抽象的な作曲家の言い分にシンは苦笑するが、それで曲のクオリティが
上がるのであれば、プロとしては妥協出来る点では無いだろう。
 愛機に心を預ける点では、MSも楽器も厳密な意味では違いはないのかも知れ
ない。

「あの方の曲…とてもいいんですけど、弾くの面倒臭いんですのよ」

 ブツブツと文句を言うアズサに苦笑しながら、シンは、シールドをベースとチ
ューナーにつなげ音を開放する。
 様子を確かめながらペグを回し、B、E、A、D、G、Cと順に音を合わせ、
適当に演奏してみると、素人意見だが「なるほど」と唸る四本弦では表現出来な
い深みのような物が感じられる。
 ニッケルで作られた弦が、腹に響く太く重い音を奏で、シンの胸に懐かしさが
浮き上がってくる。
 シンが戦後の治安維持部隊で使っていたベースは、ろくに手入れもされておら
ず、フレームは傷だらけチューニングは狂いっぱなし。 
 演奏者が何度も何度も変わる為に、その度落書きや傷が絶えず、弦を弾けば音
は鳴るが、アズサの用意したベースの音色とは雲泥の差、月とスッポンですらそ
の差は埋めがたく、正直同じ楽器なのかと疑いたくなる程だった。
 それでも、心底にこびり付いた根っこの"何か"は変わらないのか、ベースを鳴
らすだけで、郷愁にも似た想いが胸を駆け抜け、鈍い痛みを伴って心の奥底に消
えていった。
 頭を振るい、痛みを遮るように手渡された楽譜を覗き見ると、やはり、素人に
は手が出し辛い構成だ。
 譜読みするだけで相当な時間がかかるだろう。 
 アズサは、歌と踊りだけでは無く、楽器の演奏もこなすある意味完成されたア
イドルだ。
 何でもござれのアズサが、わざわざ面倒くさいと評するのだから、余程難易度
が高い曲なのだろう。
 弾きこなせる、使いこなせるか不安はあったが、乗りかかった船を途中で降り
るのはシンの趣味では無かったし、細かい事は考えず行動してから考える。
 実に六課的な行動指針と言えたが、シンも例外に漏れる事無く今ではずっぽり
と六課的な考え方に染まっていた。

「へぇ…基本は出来てますのね」
「本当に基本だけですけどね」

 シンが、弦を弾くとベースの重低音がスタジオに木霊し、簡単な音を鳴らすだ
けでも一端の音楽家に演奏に感じるから不思議だ。
 シンは、アズサから渡されたMP3プレイヤーに意識を集中し、デモ演奏の再
現に余念が無い。
 プレイヤーからは、予め録音されたアズサの歌声とベースの音源しか聞こえて
こない。
 シンは、音階に乗ると瞳を閉じ余計な情報を遮断する。
 感覚機器として目はとても優秀な器官だが、目から習得される情報は莫大で、
処理するだけ脳のリソースを無意識に消費する。
 五感の一部を意図的に閉じ、集中力を高め、自己が放射状に広がる感覚は魔法
的集中力と呼ばれている。
 魂と同義と揶揄されるリンカーコアに働きかけ鉄の意志を呼び起こす。
 脳を最大に活性化させ、未知なる領域に足を踏み込む魔道師特有の集中法は、 
自身の身の内に働きかけ、大気に散らばる魔力素に働きかける分、雑味が多い一
般人の集中力と比べ桁が違う。
 シンは、魔法を使う要領で弦を一本一本弾く事に集中し、アズサの歌声に合わ
せ流れてくるベースの音を一つ一つ丁寧に再現した。
 真剣に一つ一つのコードを噛み砕き、飲み込むように習熟に努めるシンだが、
ぶっちゃけて言えば、ベースは楽曲その物にそれ程必要性はない。
 必要ないのだが"無い"と音合わせが難しく曲が締まらず、無ければ無ければで
困るし、無いからと言って困るが、困らないと言えなくも無く、結局どっちなん
だと言われれば、無いと困ると言った何とも妙な楽器なのだ。

「合わせます?」
「幾ら何でも無理ですよ。まだ、一時間も練習してないんですから」
「別に構いませんわ。適当にリズム取って下さい」

 アズサは元々シンの意見など聞くつもりも無かったのか、言うや否や、いつの間
に用意したのか、自前のギターを取り出しセッティングし始めてしまう。
 往年のロックファンが好んで使うフェンダー社のカスタムタイプ。
 貴賓溢れるシルバーメタリックのフレームは、シンのベースが暴れ馬なら、アズ
サのギターは、剣を振りかざした白騎士だろうか。
 しかし、妙な事にアズサのギターには、フェンダーでは無く、スェンダーと刻印
されている。
 しかも、何故か油性マジックで。

「スェンダー?フェンダーじゃなくてですか?」
「お約束と言う奴ですわ。分かる範囲狭いでしょうが。因みに私は量販店で値切っ
たりしませんわよ。全部自分のお給料で買ってますから」 
「はぁ」
 
 主張と文字自体に意味は無いのか、いきなり、ギャンと激しい指捌きでギターを
奏でると、シンも男なのか自然と心が沸き立つのを感じる。

「ついて来て下さいましね…もうご理解出来てると思いますが、私スパルタなので」
「りょ、了解」

 ギターの激しい高音がスタジオに鳴り響き、アズサは一面の狂いも無く、精密機
械の如く正確無比にリズムを刻んでいく。
 アズサの演奏は、メトロノームのようなリズムを奏でる為だけの演奏では無く、
生の感情、生き物としての生々しさがあった。
 熱く、激しく、大渦のように感情を取り込み、掻き乱し、理性的な思考を取り除
き、原始の本能とも言うべき、感情の発露に抗う事無く心のままに演奏する。
 耳を劈き、鼓膜を揺らし、心臓を熱くさせる、まさにギターの真骨頂と言える音
階がシンの心を揺らし惹きつけた。
 耳で聞き分けなくとも分かる。シンとアズサの技量には、大人と子供以上の圧倒
的な程の開きがある。
 人を熱くさせ、自身すら熱くさせるアズサの演奏に対してシンの演奏は、本当に
只楽器を鳴らしているだけに過ぎない。
 他者に見れば「大げさな」と失笑されるかも知れない。
 しかし、間近で聞くアズサの演奏は、刻むリズムと打ち鳴らす音階は、固く滑
らかな芯鉄の通った意志、信念、魂の響きすら感じさせるのだ。

「ふぅ…」
 
 演奏時間は僅か三分と少し。
 怒りや悲しみ、未来への希望、多種多様の感情が狭いレッスン場に溢れ、そし
て、名残を惜しむよう消えていく。
 歌詞も無く、感情のままに演奏しただけなのに、たった三分間の間にこれだけ
の事が表現出来る。
 冷静と情熱の間に設けられた感情の吐露。
 言葉や力を振るわなくとも、楽器一つあれば人々の心を打ち震わす事が出来て
いた。
 アズサにあってシンに無いもの。 
 それは、芸の道に限らず、何か一つの事を極める為の覚悟か執着か、それとも
全く別の要因があるのか。
 シンに理解出来た事は、シン・アスカには口先の決意や執着では無く、もっと
深い場所に作用する何かが"決定的"に足りていないと言う事だった。
 演奏を終えたアズサが

「どうかしら。私も結構出来るほうでしょ」
「それで"結構"なら、アーティストを廃業しなきゃならない人達…きっと大勢居
ますよ」
「お上手ね。私が男の方ならポイント高いですわ」

 アズサは、偲び笑いを漏らし、治具にギターを戻し、大きく息を吐いた後、シ
ンの方へと神妙な顔で向き直った。

「その…ティアナさん達にも言ったんですけど、昨日はありがとうざいました。
貴女達が居なければ、私どうなってか分かりませんでした」
「別に大した事じゃないです。俺は、貴女の護衛なんですから、やって当たり前
の事に褒められるわけにはいかないです」
「なら、助けて貰ったらまずお礼を言う。人として当然の事にアスカさんが、断
る権利はありませんわね」

 相手の事を気遣っているとは微塵も思えない唯我独尊の台詞だが、アズサが言
えば小気味良く聞こえるから不思議だ。
 アズサの教本通りのお礼に、シンは最初こそ面食らったように後ずさったが、
他人も自分にも厳しく根が優しいからこそアズサの言葉は他者の心底に響くもの
がある。

「全く…貴女と言い、ティアナさんと言い、同じリアクションとってくれますわ
ね。これじゃあ、私がお礼の言い損ですわね」
 
 損などと微塵も思っていない口調でアズサは呟きシンの額を小指で小突いた。

「ランスター、不器用ですから。ありがとうって素直に言われてる照れるんじゃ
無いですか」
「不器用さでは、貴女程じゃありませんわよ、はい、お水で良かったんですわね」
「どうも」

 シンは、アズサからをペットボトルを手渡され会釈して喉奥に流し込む。
 火照った体ともたれた胃に冷たい水が心地良く、考える事が多すぎて、熱に浮
かされた思考が引き締まっていく。
 楽器を演奏しはやての報告書を反芻する中でも、結局の所シンに出来る事は限
られている。
 アズサを守り、事件を未然に防ぎ、ライブを成功させること。
 単純かつ明瞭な思考は、依然霧の中の真実に幾分かの光明を照らしてくれる。
 シンは、元々考えるよりも手が出るのが早い性分なのだ。
 アスラン・ザラのように思慮深く事を運ぶ事など到底不可能なシンには、目の
前の事を全身全霊を賭けて戦っていく事しか出来なかった。
 そう考えると、生来の単純な性格も合い間って心が軽くなるのを感じる。
 シンは、「練習、練習」と鼻歌交じりに楽譜を捲りベースに指を沿わせた。

「今度ね…私の父がライブを見に来るんです」

 シンが、弦を打った瞬間、アズサの小さな声が耳に届いた。

「お父さんが?」
「ええ、三年もまともに会ってませんけど」

 アズサの顔に一瞬だけ陰るが、ギターをかけ直す頃には陰りは消えていた。

「やな父親でしたわ。自分の敷いたレールが、子供の為になると本気で思い込ん
でいたんですもの。娘を認めているようで、全く認めてない。ある意味人格を肯
定されていませんでしたの。私を人形か何かと思い込んでいたのかしらね。それ
が嫌で姉二人も私も実家を出てしまいました」

 シンから視線を逸らし、俯いたアズサの表情は見えない。

「子供が実の父親の事を悪く言うのは、俺…苦手です」

 アズサのプライベートな話題に土足で踏み込んだ感触は生温く、シンは、失言
だったか悔やんだが、アズサは、そうは思わなかったようだ。

「…ごめんなさい。信じて貰えないかもしれないけど、私、父の事…実は好きで
すのよ。本当に父親らしいこと何一つしてくれた事はありませんでしたけど。馬
鹿みたいでしょう。あの事故が起こったのが耳に入った瞬間、自分の持ってる権
力全部使って私を守ろうとするなんて…今度のライブだって、貴方達六課の視察
が名目なんですのよ…どこの世界に前線にはせ参じる指揮官が居るのかしら、し
かも私情で国民の血税をなんだろ思ってるんだか」

 父が娘を想うのは当然の事だ。
 お腹を痛めて産んだ子にも関わらず、否定する親も中には居るが、殆どの親御は
、子を愛し存在を祝福する。
 愛情は家族の象徴だ。
 瞬間、シンの胸に鈍い痛みが走った。
 妹の顔は今でも鮮明に思い出せる。
 贔屓目な感想だが、仲が良い親子だったと断言出来る。
 しかし、父と母の顔を思い出そうとすると、巧く思い出せない自分が居て、そん
な自分にシンは少し驚いた。
 親不孝だなと思うと同時に、磨り減った感情は記憶を徐々に風化させ、色褪せた
思いは、心に深雪のように深々と積もっていくだけだ
 シンが幾ら求めても、もう決して手に入れる事が出来ない物を本心で無いにせよ
、蔑ろにされれば面白くは無い。
 それが、シンの本音だろう。
 そんな私事をアズサに言っても始まらずシンのお門違いの嫉妬に過ぎず、人には
人の事情があり、家族の在り方は千差万別だ。迂闊に踏み込んで容易に自己理論を
振りかざせば済む問題でも無い。 
 だが、家族を失ったシンであるが故に、せめて、どんな形にせよ仲良くして欲し
いと切に思うのだ。

「別に今更父と娘に戻りたいとは思いませんわ。でも、察してくれなんて、野暮っ
たいこと性に合いませんの。人間ですもの言わないと分かりませんしね」

 言わないと分からない。
 アズサの何気ない一言が、シンの胸に深く深く突き刺さる。
 気持ちは、伝えないと伝わらない。
 まさに、その通りだ。
 黙っていても気持ちは伝わる物。
 そんな事は、本当に人を好きなった事の人間の戯言だと、シンは信じていた。
 言葉を伝えなくて、全てが万事巧く行くならば、あんな悲劇的な戦争は起きな
かったし、ルナマリアを傷つけなかった。

『シンの馬鹿!ちゃんと言ってくれないと、私、アンタの事何にも分かんないじ
ゃない』

 赤い髪の少女との別離の瞬間がフラッシュバックし、シンの心を激しくかき乱
す。
 他者と触れ合う事において、お互いの気持ちを伝え合うのは同義だ。
 そんな極々当たり前の事が出来なかったから、シンとルナマリアの気持ちは離
れてしまった。
 戦争被害と言えば聞こえは良いが、全てを戦争のせいにして生きてしまったツ
ケが、回ってきただけの事なのだろう。
 言葉は相手を時として傷つけるが、相手を深く癒せるのは他者の言葉だけだ。
 シン自身、何度言葉によって救われたか分からない。
 言葉と言葉を重ね合わせる気持ちを伝え合う。
 人間は言葉を交わし合せ、互いに理解出来る生物だ。
 言葉と理解を恐れてはならない。
 最も簡単で最も困難とも言える行為だが、シンの目の前に居る少女は、逃げず
、恐れず、困難に立ち向かおうとしている。
 少し普通の人は違う特別な立場だが、魔道師も兵士でも無い、何の力も持たな
い只の少女がだ。
 
(俺は…まだまだ弱いんだな)

『へへ、ようやく笑ったな、この子は』  

 アズサの放つ光に眩しく感じ、目を背けようとした瞬間、シンの脳裏に不意に
一人の少女の声が蘇る。
 八神はやて。
 シン・アスカに再び力を生きる意味を与えてくれた少女で恩人だ。
 デスティニーのコクピットに蹲り、何もしようとしなかった自分を、煤で汚れ
るのも構わず手を取り、絶望から引き上げてくれた手。
 手と手を重ね合わせた暖かさが、冷たく冷え切ったシンの心に再び熱を燈して
くれたのをシンは忘れない。

『なぁ、アスカさん。人の手は何の為にあると思う』
『食事とか、仕事とか…後は嫌な事されたらぶっ飛ばす為ですか?』 
『相変わらず物騒やなぁ』

 記憶の中のはやてが、苦笑し、シンの手を取り、自分の手を重ねる。
 シンは、異性の柔らかい感触に心臓がドクンと跳ねたのを覚えている。 

『人に手があるのは、誰かと手を繋ぐ為にあるんや。そりゃ、誰もが一概にそう
やないけど…私は、どうせ手を握るんやったら、優しさとか愛とか、そんな心を
込めて誰かの手を握りたいな』

 記憶の中のはやてが、シンの手を取り優しく微笑む。
 陽だまりの中でまどろむような暖かい感触が軋んだ心に染み込んで行き、濁っ
た泥が洗い流されるような感触に、シンは思わず目を逸らした。

『誰かを守るって事は、誰かの為になる事と同じやけど、それ以上に自分の為思
うんや。偽善とか自己犠牲の精神や無くて、誰かを想う気持ちは、きっと自分を
強くする』

 なら、誰かの為になる事は、シンが求める力に繋がっていくはずだ。
 はやての言葉に、後押しされるように、シンは我知らず右の拳を力強く握って
いた。

「ランスターとナカジマ何て言ってました」
「何って?」
「アズサさんのお父さんの事です」

 シンは、微苦笑を漏らしながらアズサに問いかける。

「折角お父さんが来るなら、なら、せめて一曲は弾けるようにならないと駄目で
すね」
「なら、せめて一曲は弾けるようにならないと駄目ねって言ってませんでした?」

 シンの返答にアズサは目を丸く驚き、次いで何かを堪えるように、アズサの口
が綻んだ。
 声色は別にして、雰囲気、口調、全てがほんの数時間前にアズサがティアナと
スバルに投げかけられた言葉と瓜二つだ。

「当ってますわ。聞いてましたの?」
「いえ…あてずっぽうです。でも、二人なら多分こう言うなって思ってました」
「お仲が宜しいことで。でも、そんな安請け合いして宜しいんですの?私、本気
にしますわよ」
「いいです。俺、今はアイドルですから。アイドルは歌って躍るのが仕事です」
「そうでしたわね…歌もダンスも酷いですから、アスカさんがアイドルだって、
私失念してましたわ」
「そ、それはそれで傷つくんですけど」

 確かに歌も躍りのタコのように芯が通っていないが、あからさまな肯定はやは
り堪える。
 自分で分かっているだけに尚更である。
 アズサは、顔を引きつらせるシンを見つめ、そして、何処か遠くを見るような
視線でギターの弦に目を落とした。

「私も、貴女達のように勢い任せで…父に言えたらどんなに楽か」
「やっぱり、言えないですか」

 アズサは、物憂げな表情でギターを撫でる。
 楽器を父と想って触れ合うのは、これ程容易いのに、いざ正面にすれば何を話
せばいいのか、何を伝えればいいのか検討もつかない。
 いっそ、物心ついていない子供ならば、自分の気持ちを素直に表現出来たのだ
ろうか。
 しかし「それもきっと無理ね」と嘯き表情を暗くさせた。
 人間は逃げる事の出来ない瞬間が必ず訪れる。
 アズサがある程度の経験を積んだ大人であるならばm"言い訳"を"考え"足掻き
取り繕ってでも、現実に慣れてしまった素直な理性が経験を積んだ人間の決意を
後押しし、覚悟を決めさせてくれる。
 理性が嫌でも目の前の困難と向き合うのだ。
 しかし、年端も行かぬアズサに、目前に迫った不安から逃げ"ない"覚悟を決め
るのは、酷と言う物だ。
 逃げ場があるなら逃げたい。
 逃げたいから逃げ場を作ろうとする。
 若い感性だからこそ、理性では無く父とのわだかまり、これ以上の溝を作る事
を恐れる本能がアズサを父から必要以上に距離を取らせていた。
 
「無理ですわね。三年も殆ど口を利いてませんもの。さっきは、あれだけ豪語し
ましたけど、いざ、父と向かいシーンを想像したら、どうして良いのか分かりま
せん」

 悔しさからか、アズサは右腕で左手首を力一杯握り締めている。
 白い肌が鬱血し青く変わり、情け無い自分を叱咤するように唇を真一文字に結
ぶ様子は、やはり、親から逸れた孤独な小さな子供に見え、親子関係に置いて、
アズサは想像を絶する我慢をしていると容易に想像させた。

「無責任ですわ貴方…言いたいだけ言って。この事件が終れば、"私"の前から消え
てしまう
のに…」

 無責任よりも、"私"の方に熱が篭っていたのは聞き間違いだろうか。
 シンは、妙な引っかかりを覚えたが、自分の
 シンは、いつも決まってそうだった。
 頭の中で多くの語彙が飛び交い理論的に物事を組み立てるが、いざ言葉に出そう
とすると、結果だけで喋ってしまう。
 本音で話していると聞こえは良いが、考えるている事を素直に表現出来ない様は
ある意味シンのコンプレックスになっていた。

「でも、俺、今はアズサさんの味方です。さっきは失礼な事いいましたけど・・・その
巧く言えないんですけど、守るって事はきっと物理的な意味合いだけじゃ無いんだ
思います」

 シンは、アズサを傷つけないように、壊さないように、伝えなければならな事を
自分の出来る限りの配慮で言葉を紡ぐ。

「勢い任せで良いんだと…この場合はきっとそうだと思います。考えながら動き続
ける。俺もランスターもナカジマも、少なくとも六課でそう習いました。お父さん
が居なくなったわけじゃ無いんです。今度のライブで伝えられなくとも、伝えられ
るまでチャンスは何度も巡って来ます」
 
 両親と死に分けれたシン、ティアナ、はやてとは違い、アズサの両親は生きてい
るのだ。
 機会が永久に失われたわけでは無く、分かり合えるチャンスは何度でも巡ってく
る。
 シンが、如何程の言葉を重ねたとしても、アズサの孤独を真に癒せるのは、アズ
サが望む人、父親だけだ。
 ならば、自分の気持ちが伝わるまで父親に訴えかけなければならない。

「勝手過ぎます。私達家族の事何に知らないのに癖に」
「それは…」
「アスカさんだって、そうでしょう。家族問題に無遠慮にヅケヅケ土足で踏み込ん
できて、お節介な発言して」
「でも、生きてます。生きてるなら…きっと次も生まれます。永遠に来ない明日な
んてないんです」

 シンの口から漏れる言葉は単調だが何故かアズサは無視出来なかった。
 堪える事でしか形に表せない鬱屈した感情だが妙な重みがある。
 しかし、自身の体験と他人の天秤が吊りあうと信じ込んだ類の人間の説教臭さが
感じられない。
 相手に自分の考えを伝えたい、理解させたいのでは無くただ伝えたい。
 その仕草は拙い感情の吐露のように感じ、一重に嫌味では無かったからだ。
   
「好き放題言ってくれますわね」
「言わないと伝わらないんです…俺はそうやって学びました」
「本当に好き放題ですわ」

 一本取られたと言う風にアズサは苦笑し肩を揺らして笑う。

「まぁ、私はアスカさん達と違って、そこまで向こう見ずじゃありませんのでボチ
ボチと考えときますわ」

 一頻り笑った後、アズサは、譜面を確認するシンの隣に腰を降ろした。
 先刻に比べると幾分か距離が近いと感じるは、シンの自意識過剰だろうか。
 シンは、隣に感じるアズサの吐息を極力気にしないように、ベースの弦に意識を
移した。
 意外に動く義手の指に感心しながらも、黙々と譜面を拾っていく。
 幸運にも基本は忘れていなかったが、やはり、楽曲を弾けようになるには、少々
時間が必要だろう。
 振り付けの課題もまだまだ残っているし、その上、ベースまでマスターしなかれ
ばならない。
 最大の敵はやはり時間だ。
 しかし、アズサの力になると自分自身に誓ったばかりだ。
 シンは、ほんの数分で挫けそうになった自分を叱咤し、譜面を凝視し、隣から聞
こえてくるギターの音を頼りに指を必死に動かし続けた。

「腕本当に無いんですのね」
「腕?ああ。無いですね」
  
 アズサも気を抜くことがあるのだろうか。
 間の抜けた音が響き、アズサのギターもシンのベースも不思議を申し合わせたよ
うにピタリと止まった。
 シンの左腕は、簡易的な人工皮膚しか貼り付けていない為に無骨な金属フレーム
が照明に透け丸見えになっている。
 耳を澄ませば、ベースの音とは別にキュンキュンとモーター音も聞こえ、腕が生
身では無く、本当に機械の腕なのだと改めて実感する。

「差し支えなかれば、聞いてもいいかしら?」
「何をですか?」
「腕、何で無くなったんですの?」

 また妙な事を聞いてくると、シンは思わず苦笑してしまう。
 確かに興味が引かれるかも知れ無いが、普通腕が無くなると言う事は、それ相応
の事故ないしは事件に巻き込まれたと言う事だ。
 女の子は、流血沙汰は嫌いだと思っていただけに、シンは、目を丸くし、ベース
を下ろした。

「聞いて面白い話じゃないですよ」
「興味本位で聞いてるんじゃないですわ」

 シンは、アズサの有無を言わさぬ迫力に、思わず鼻白み、何故そこまで強行な態
度に出るのか理解出来なかった。
 本当に聞いても面白くも何とも無い話だ。
 鯨の体内で骨のバケモノ達に追い立てられ、実力も階級も上だが、女性に助けら
れ、挙句の果てに、鉄をも溶かす高温を放つバケモノ相手に手を焼き尽くされ、全
身に大怪我を負った。
 そして、中と外の大捕り物の果てに、命辛々救出されて見れば、自分と同じ赤い
目の人間に慄くような深い憎しみを向けられ、臆し、吹き飛ばされ取り逃がした。
 考えてみれば全く良い所が無かった事件で、シン個人としてはあまり思い出した
くも無い。
 しかし、アズサは、聞かなければ引き下がらないと言った有様で妙な風格すら漂
わせている。
 事件の内容は今でも鮮明に覚えている為に、アズサに毛穴の先ほども正確さで、
話して聞かせる事も出来たが、年下の女の子に血や肉と言った単語は生々しすぎる。

「夏の初めに任務でドジっちゃって。ちょっと人質みたいな感じにされちゃったん
です」
「人質ですの?」

 結局アズサの並々ならぬ迫力に折れた心は、話の根幹をぼかして伝える事を選択
した。
 正確に言えば、海水浴中にフェイトとキャロと共に鯨に一飲みにされたのだが、口
下手以前に、荒唐無稽過ぎて話せる内容では無かったし、一応守秘義務にも当る。
 アズサが他言しなければ他者に漏れる心配は無かったが、バレても自分がが始末書
を書けば良いだけと割り切り、訥々と話し始めた。

「なんて言うんですか?俺達六課には追いかけている犯人一味が居るんですけど。そ
の犯人一味に休暇中襲われて、それで、その。俺と年下の先輩。それと上司が一緒に
捕まったんです」
「上司?八神課長ですの」

 シンの口からはやての名前が出た瞬間、アズサの目が釣り上がるが、シンは気付い
た様子は無く、いつもの調子でいつもの不器用さで話しを続けていく。

「違います。えっと、部隊長は部隊長で。戦闘部隊としての上司なんですけど、まぁ
実働部隊の上司です。事件の詳細は省きますけど、結局、俺達の救出作戦の為に部隊
長は管理局上層部を巻き込んで、上へ下への大盤振る舞いの末、すったもんだの大騒
動が起きた末に俺達は救出されました。幸いにも、俺は六課の皆に助けて貰いました
けど、一歩間違えた…どうなってたか分かりません。それで仲間にも沢山迷惑かけま
したし。俺がもっと強かったら良かったんですけどね」

 シンの心象に楽器も影響するのか、力強い演奏は途切れ、代わりにボボボとベース
の幾分かヘタれた音程が響いた。

「腕はその時に?」
「ええ、まあ」

 照明に透けた血の通わぬ腕は、触れれば砕け壊れてしまうような、強度的な意味合
いでは無く精神的な儚さと脆さを感じる。
 演奏を止め、生身の腕で機械の腕に触れる。
 シンの魔力に当られ薄らと熱すら持つオリジナルの義手と違い、スペアの義手の装
甲は冷たく、接合部部分の合成樹脂部分がゴツゴツとして気持ちが悪い。
 それもで神経制御系は、オリジナルよりも具合が良いのか、楽器を弾く繊細な作業
にも支障は無かった。

「そうですね。だから、この腕はきっと俺の弱さの象徴なんです」
「アスカさんは、自分の事を過小評価し過ぎね。貴女十分強いじゃない。昨日なんか
あの人、コテンパンにしてたじゃない」
「強かったら、怪我なんかしませんよ」

 全てを自分自身の背中に背負い込めるとは思えない。
 思えないが、背負い込める強さが欲しいと思うのは我侭だろうか。
 そして、強ければ怪我をしない。
 ある意味道理だが、強いか弱いかで物事の本質を判断出来る物では無い。
 シンよりも魔道師としての実力が何倍もあるなのはも昔、半身不随になるか瀬戸際
の大怪我負った聞いた。
 単純な強さだけが、全てを丸く治める事が出来るとも思っていないが、まず強く、
強くある事がシンの根幹に根付いている事は間違い。

「本当に褒められるの苦手なんですのね」
「そんなつもりは…」
「当然あるでしょ」

 アズサ強い口調にシンは、二の句を次げず、シンは後ろめたさからか視線を下げた。
 アズサの顔は、いつもの毅然とした表情に戻り、背筋を伸ばし、凛とした態度で演
奏を再開した。

「ほら、リズムが狂った。ちゃんと弾いて下さいな」
「分かってます」

 ---分かってます。

 一体何について分かったと答えたのか、実の所シン自身決めかねていた。
 認められたいが故に力を選択した過去は、苦い記憶でしか無い。
 褒められた先には、ろくな事が待っていないような気がして、どうにも気持ちがざ
わめき立ち落ち着かない。
 悪癖も幾分マシになったと思っても、忘れた頃に顔を出すから困り物だ。
 トラウマだらけの自分自身に心底辟易するが、それが原因で萎縮してしまう方が心
底腹が立った。
 ザフト最強の一角と呼ばれた赤の自尊心は何処へ消えてしまったのか。
 シンは、魔道師になって生身の人間の脆さを自覚したが、もう少し"バラつき"の無
い性格に生まれつきたかったと何度も悔やんだ。
 幾度目かも分からない溜息は、音階の渦の中へ混ざり形をなさず、終始無言のまま
二人は楽器を演奏していく。
 時折アズサが演奏を止めて、注意点を分かりやすく伝えてくれる。
 シンは、その度に譜面に注釈をいれるが、悲しいかな譜面は瞬く間に真っ黒になっ
てしまった。

「もう一度最初から」
「はい」

 アズサはシンを導くように淡々と演奏を続けている。
 十四歳と言う年齢でここまで成熟した技巧を実につけるのは、才能もさる事
ながら、余程の努力を重ねなければならないはずだ。
 努力したと呼べる努力が霞んでしまう程に。
 しかし、アズサの淡々と演奏を続ける中にも、シンは、聞き慣れてくれば僅
かな淀みにも似た響きがある事に気が付いた。
 受け取った印象は迷いでは無く困惑。
 結果はとうの昔に判明しているのに、結果に至る過程が理解出来ずに途惑っ
ている。
 シンは、アズサの演奏から苦しくもそんな印象を受けた。
 
「貴女は良くやってますわ」

 曲が終わり演奏の余韻が残る中で、アズサはポツリと言葉を漏らした。

「あ、ありがとうございます」
「護衛元の私が言ってるんですもの。掛け値無しの賞賛ですわよ」
 
 アズサの言葉に嘘偽りは無い。
 おべんちゃらで物事を誤魔化せる程に彼女は大人に染まりきっていない。
 実力主義で生きて来た彼女が、嫌な事は嫌とはっきり告げるタイプだ。
 そのアズサがシンを褒めている。
 詰まる所"しつこい"かも知れないが、本人の言うとおり、掛け値無しの賞賛に
間違い無いのだた。
 間違いないが、それを素直に受け取るか否かはシンの判断に委ねられていた。

「…何か言いたげですわね」
「その、なんかしおらしいって言うか、らしく無いって言うか」
「貴女ねぇ!私の事一体どう言う風に見てますの!」
「す、すいません」

 ガアアと唸るアズサがティアナの影に重なったようで、シンは尻尾を下げ、半
泣きの表情を作る

 耳と尻尾を下げられ、情け無い表情を作られれば、アズサもそれ以上強く言え
ず、手も感情も振り下ろそうにも振り下ろせない。

「いえ、どうかしてるのは本当なの…私最近自信が持てなくて。いいえ、この気
持ちはきっと間違いなんじゃないと思うんです。でも、なんと言うべきか方向性
の問題と言いましょうか。普通は逆でしょと思わざる得ないと言うか。むしろ、
ティアナさんと同属かと思うと何とも言い切れないといいましょうか」
「方向性?」

 語尾が濁り要領を得ない言葉は本質を容易に見失わせる。
 端的に言えば、シンにはアズサが何を言っているのか、今一つ理解出来ず、
言いすぎたと言うより、この調子の合わなさ具合は、自分に内緒で悪い物でも食
べたのでは無いだろうかと勘潜る調子だ。
 シンは、密かに周囲を見渡すが残念な事にポテトチップスの袋一つ無い。

(なんだよそれ。あれだけ散々奢って貰ったのに)

 シンは、自身の胃袋に「どれだけ底なしだ」と自嘲気味に呟き、アズサを除き
視た。
 確かに少々元気に無いが、勝気で面の皮が厚く、しかし、その心根は気高く誇
り高い自他とも厳しい小生意気なアズサだ。
 やはり、先ほどのアズサは見間違いだろうか。
 家族関係以外にアズサが不安に覚える事は、やはり、シン達の仕上がり具合だ
ろうか。
 ダンスや演奏の出来を指摘されれば「ぐぅ」の音も出ないのが本音だが、それ
は今しがた指摘されたばかりだ。
 待って欲しいと思う反面、ごめんなさいと素直に頭を下げる他は無い。
 シンは、答えの見つからぬ、何とも言えぬモヤモヤした感触に戸惑い、ベース
から手を放した。

「私…その、ううん、きっと不安なんです」
「お父さんの事ですか?それとも…犯人の」
「父の事じゃありませんわ。伝わるか分かりませんけど…今度のライブで歌えば
何か開けそうに思って来ましたし…犯人からだって、アスカさん達が守ってくれ
るんでしょう。そんな事不安に思ったわけじゃありませんの…今の不安はその」
「今の不安って」

 これ以上懸念事項があると言うのだろうか。
 悩み多き年頃だったとしても、シンの小さなキャパには、アズサの繊細な悩み
事は大きすぎる。
 これ以上は自分には手に負えそうも無いと、シンがティアナに助けを求め携帯
に手を取ろうとした瞬間、シンは、柔らかい感触と共に背中に特大の熱を感じ取
った。

「私が不安なのは…自分の気持ちが分からなくなってしまって」

 背中に感じる柔らかな感触と何かを戸惑い言い淀んだ声がシンの耳に届き、同
時に憂いすら含んだ吐息が背中を熱くさせる。
 シンの背中に顔埋めて放たれる熱い吐息は、背骨を溶かし、骨抜きにする威力
を秘めていた。
 アズサの肉声は、攻撃的な歌詞を歌い上げる反面、天使の声と称される程の美
声だ。
 そんな声で観客達では無く、一個人に向けて熱い響きを届けられような物なら
ば、効果は押して知るべし、ある意味精神兵器に匹敵するだろう。

「そうよ。貴女が…貴方が男の人なら…なんの問題も無かったのよ」

 背中に届く声は甘く熱い。
 全身の血が沸騰するような衝撃がシンの脳髄を稲妻のように駆け抜け、アズサ
の絹のように柔らかい髪が、肩口をくすぐり、言い知れぬ背徳感が背中を這い回
る。
 振り返ってしまえば、事態は泥沼のなりそうな気がしてならず、シンは、それ
はどういう意味ですかと聞き返す訳にもいかず、氷のように固まった体から滑り
降りた指で奏でたベースは「ぼへみや~ん」と妙ちくりんな音を立て押し黙った。