RePlus_閑話休題三幕_後編

Last-modified: 2011-08-02 (火) 17:00:14

「アスカ、勤務時間過ぎてんぞお。残業代払えないから早く帰れよお」
「分かりましたぁ」
 シンは、車内の老人に愛想笑いを浮かべ、電気自動車のコネクタから電力供給
ケーブルを外し、絶縁を確認し元の場所に戻す。
大学受験に失敗し浪人生になってから、シンは近所のガソリンスタンドで週三
回アルバイトをしていた。
 当初は自宅浪人をする予定だったが「引きこもるのは良くない」と二人の義姉
の猛烈な反対に会い、ひとまず駅前の予備校に籍を置いたのが春先の事。
 八神家にこれ以上経済的負担を負わすことは出来ないと思っていたシンは、お
っかなびっくりではあるが、経済的援助を申し出る為に自らオーブに住む両親に
連絡を取っていた
 四年ぶりの両親とシンとの話は酷くギコチナイ物だったが、思っていたよりも
自分の気持ちを素直に打ち明ける事が出来た。
 幸いな事に両親は、シンの一年間の学費を二つ返事で引き受け、そればかりか
「小遣いは足りているか?」「欲しい物はあるか?」など息子であるシンが引い
てしまいそうな勢いで話しかけてくれた。
 そればかりか、あろうことか卒業祝いに託けてわざわざ原付まで送ってくれる
溺愛っぷりだった。
 シンの出自と受けた心の傷を考えれば両親の気持ちも分からないでものない。
 しかし、もうすぐ成人式を迎えるシンには、親の過保護とも言える愛情がむず
痒くて仕方無く、何度も辞退したが、両親の熱意に押し切られ渋々プレゼントを
受け取った。
(全く…父さんと母さん何考えてるんだか)
 だが、自分を心配してくれる両親の顔を声を思い浮かべれば、シンの頬が自然
と緩むのもまた仕方の無い事なのだろう。
 シン自身、もう家族との間には軋轢と確執しか残されていないと思っていただ
けに、両親の暖かさは何より嬉しいものだった。
 以前のように家族に戻るのは、今直ぐにとはいかないだろう。
 しかし、時間をかけて進んでいけばそう遠くない未来に両親をもう一度父と母
と呼べる日が来るかも知れない。
 そう考えれば、浪人のショックも別段大した事ないと思えるのだから実に現金
なものだった。
「今日は上がります。お疲れ様でした」
「はいよ。お疲れ様」
 両親の暖かさとは別に、シンにはもう一つ嬉しいことがあった。悪魔の甘言か
天使のご褒美か、あれから一言も口をきいてくれなかった妹のマユが電話に出て
くれたのだ。
 意外な出来事に緊張と興奮で顔中汗まみれにしたシンは、今日の天気や昨日の
晩御飯等など、当たり障りの無さ過ぎる世間話に徹していた。
 あまりに下らな過ぎる話の何処が一体面白いのか。マユは、シンの言葉を一言
一句聞き逃すまいと必死に耳を傾け、ギコチナイながらも時折小さな相槌を打っ
てくれた。
 そんな、サービス精神(勿論シン主観だが)旺盛な妹気を良くしのか、シンは
話の本筋を日本での近況と周囲の人達の話題に切り替えた。
 シンの日本での生活を興味津々活嬉しそうに聞いて居たマユだが、二人の義
姉や日本での幼馴染の話題を出す度に眉が吊りあがり、シグナムを迎えに行った
事件の後大学に落ちた事を伝えると「馬鹿じゃないの!」と一方的に罵られた後
に通信を切られてしまった。
 妹の強烈な一言に、思わず尻尾と耳を下げたシンだが、通信が切れる間際「で
も、頑張って…お、お兄ちゃん」の一言を盛大に聞き漏らすのも実にシンらしい
と言えた。

閑話休題三幕-後編-
"無用なりても運命故に-RePlus If…Ⅲ"

 シンがアルバイトから帰宅すると時刻は既に午後八時を超えていた。
 いつもは騒々しい我が家も、家主を筆頭にシン以外誰もいないせいか、不気味
な程静まり返っている。
 シンは、梅雨の熱気でじっとりと汗をかいたシャツを乱暴に脱ぎ、洗濯機の中
に投げ込み、上半身裸のままリビングの留守番電話をチェックする。
「留守録はなしと」
 携帯電話やメールが普及した昨今では、自宅の固定電話に電話がかかってくる
事は殆ど無い。ビデオの録画に手間取る機械音痴のシグナムですら、携帯電話を
持っているのだから、効果は押して知るべしだろう。
 それでも、極稀に二人の義姉の研究室、勤め先関係から電話がかかってくる事
がある為、シンは、一人の時は尚更確認を怠らなかった。
 シンは、洗濯物の中から黒いタンクトップを無造作に取り出し、少々生乾きの
感触に眉を潜めながら、夕食を用意すべく冷蔵庫の中身を物色し始めた。
 意外に小器用なシンは料理も一通りこなすことが出来る。
 と、言ってもそれほど本格的な物ではなく、切る過程の次に煮るか焼くと言っ
た、味付けも手順も大雑把であまり手間の掛からないものばかり得意だった。
「なんにもないな」
 冷蔵庫の中身は、呆れる程何も入っていない。数本のミネラルウォーターとシ
ンでは使い道すら分からない調味料だけだ。
「ガラムマサラ?なんだよこれ、トムヤンクンに使うんだっけ」
 読み方も用途も微妙に違う気がしたのか、シンは、謎の調味料を見なかった事
に決め込み冷蔵を閉じた。
 "男の料理"は諦めて、手っ取り早くうどんでも作ろうと思ったが、買い溜めし
ておいた冷凍麺も切らしてしまっている。
 宅配ピザでも取ろうかと思ったが、、シグナムやはやての家庭料理の味に慣ら
されてしまっては、わざわざ夕食にジャンクフードを食べる気にもなれなかった。
「食べに行くか…」
 コンビニ弁当で済ませる手もあったが、アルバイトが忙しかった性か、妙に小
腹が空いている。
 コンビニ弁当だけではとても足りる気がしない。サラダや惣菜を買えば、宅配
ピザよりも高く付く。  
 結局台所とリビングを右往左往している内に、食べに出た方が早いことに気が
付いたのか、シンは原付のキーを手に取り、再び夜の街へと繰り出した。

 勢い込んで駅前まで出てきたもの、夜の九時過ぎとなれば飲み屋を覗けば食事
処は限られてくる。シンは、高校は卒業したが、法的に飲酒出切る年齢には少し
ばかり早い。
 勿論、素知らぬ顔をして入店すれば、ほぼばれる心配も無くご相伴に預かれる
だろうが、アルコールの購入にも身分証明書の提示が求められる時代だ。
 例え飲む目的ではなく食事の為の目的だとしても、シンは、一人で飲み屋に行
く勇気はまだ無かった。
 そうなれば、夜遅くまで営業している店で未成年が堂々と入店出来る場所とな
れば、自ずと選択肢は狭められてくる。
 牛丼屋やジャンクフードかファミリーレストランかの何れかだ。
 最寄駅に向かい幹線道路を北上する際に、何件かのラーメン屋やハンバーガー
ショップが目に付いたが、ここ数日麺類ばかり食べているに加えてジャンクフー
ド系は、遠慮したいとなれば、残された選択肢はファミリーレストランくらいし
か無かった。
 シンは、交差点を曲がり、そのまま、駅前のローターリーを横切り、飲食店が
立ち並ぶ番地へと原付を走らせる。
 シン一人だけならば席の心配は無いだろうが時間が時間だ。
 新歓コンパも落ち着いた時期だが、シンが目指すファミレスは、近所の学生達
のたまり場だ。
 これ以上遅くなれば、夜をそこで明かそうと画策する騒がしい人達に混ざって
食事をする羽目に陥ってしまう。
 友人達と一緒に同じ立場で居たとすれば何の問題ないが、一人で食事する中で
わざわざ嵐の中に入って行こうとは思わない。
 ならば、違う店に行けば良いだけの話だが、学生達が溜まり場にはするにはそ
れ相応の理由があった。

 まず第一にメニューが豊富。
 何故かデザート系が異様に多い。
 第二に店員も諦めているのか、少々騒いでも文句の一つも言われない。
 しかし、ドリンクバーでお痛が過ぎるとブラックリストにすぐさま載せられる。
 第三の理由、これが最も、学生達の心を掴んで離さないのだろう。
 とにかく安いのだ。
 しかも、そこそこに美味い。
 と、なれば万年金欠病の彼らが、こんな理想郷を見逃すはずもなく、学生達の
たまり場になるのは当然の帰結だった。
 シンもティアナやスバルを連れる折、主に奢らされる方面だが値段の安さにい
つも助けられている。
(チキン南蛮かチキンライスか…何にしよう)
 赤信号が目に付き、停止線前で原付を停車させる。止まっている間もシンの頭
の中は夕食の献立で一杯だった。
 どれくらい原付を走らせただろうか、ふと、道路脇に視線を戻せば、見知った
顔がシンの瞳に飛び込んで来る。
(高町先生?)
 あの特徴的なサイドポニーは、間違いなくなのはだろう。
 なのはは、電柱の傍で数人の男連れと談笑しているようにも見える。
 だが、なのはを囲む男達は、どう控えめ見てもあまり品が良いとは言えず、な
のは自身も困惑しているように感じられた。
 シンは、好奇心半分、正義感半分といった所でなのは達に近づいていく。
 なのはも近づいてくるシンに気が付いたのだろう。瞳をぱっと明るくさせシン
に向けて大きく手を降り始めた。
 もうこうなれば見てみぬふりも出来ないだろうと、シンは覚悟を決め、なのは
達の前に原付を停車させた。
 暗がりで良く見えなかったが、脱色した髪にだらしの無い格好。貴金属類をジ
ャラジャラと身に着け、皆総じて品の無い笑みを浮かべている。
 偏見かも知れないが、彼らをなのはの男友達やボーイフレンドと言うには、少
々無理があるような気がした。
 男達も突然の乱入者に気を悪くしたのか、軽薄な笑みを潜め、訝るような表情
を浮かべ始める。
 簡潔に言えば「どっか行けよガギが」と言った空気を隠すことなく、あからさ
ま過ぎる視線をシンにぶつけて来た。
 ここまで拒絶されればいっそ気持ち良いとさえ言える。
「あの」
「んだっお前?」
 シンは、恐る恐る声をかけるが、逆に男達は御決まりの台詞を巻き舌で喚きな
がら高圧的な態度でシンに歩み寄る。
 至近距離で大きな声で喋られればそれなりに身を竦めてしまうものだ。シンも
例外に漏れず、いつでもなのはを連れて逃げ出せるように、原付のエンジンは切
らず男達に対峙した
 完全に不埒者を決め付けている辺り、シンの大概慇懃無礼な性格をしている。
 いざとなれば喧嘩をしてでもなのは"だけ"は逃がさなければと、覚悟を決めた
シンだが、なのはの天真爛漫な声が場の空気を切り裂いた。
「んもう、遅れ過ぎだよ、シン」
「シ、シン?」
 シンとなのはは、生徒と教師の間柄以上に親しいわけではない。当然お互いの
名前を言い合う仲でもない。しかし、なのはのシンに対する物言いは明きからに
男友達以上の物を感じ、シンは、動揺からか思わず口篭ってしまう。
「遅いよシン。三十分の遅刻なんだからね」
「す、すいません」
 なのはは、人差し指を立て「メッ!」のポーズを取る。お姉さん節全開のなの
はとは別に、シンは、どれだけ記憶を穿り返しても、なのはとの約束した事を思
い出せずより困惑に困惑を重ねていた。
「ごめんね、私彼氏居るの。機会がもし"出来れば"誘ってね」
 なのはの彼氏と言う言葉にシンの耳がカッと熱くなる。
 なのはは、予備校教師と言うステータスを覗けば、現役の女子大生だ。限りな
く黒に近い黒で、有罪確定物だが、シンが年上の女性に弱い事は周知の事実であ
り覆し難い。
 特になのはのような隣のお姉さんタイプに非常に弱く、耳朶を赤く染め俯いて
しまう始末だ。。
 なのはは、シンの了解を取る事なく後部座席に手を掛け、舌打ちし苦い表情を
浮かべる男達に「バイバイ」と一声"だけ"告げシンに発進を促した。
 シンは、なのはの声に漸く正気を取り戻し、言われるがままに原付のギアを切
り替える。
 なのはが、後ろに腰掛ける途中、シンの耳元に小さく「ごめんね」と声が届く。
 なんのことはない。自分は、なのはのスケープゴートに使われただけなのだ。
 そう思えば、真に自分勝手な言い草だが、心に抱いたドキドキを返して欲しい
と思うシンだった。
「せめて、メットは被ってくださいよ」
 シンは苦笑し「まぁいいか」と嘆息しながらも急ぎ早に原付を発進させた。

 シンは、山の手の方目掛け暫く原付を走らせ続けた。
 男達は追いかけて来るつもりは無いようだったが、念のために何度か道を変え
、裏道を抜け、山の手の方へ原付を走らせる。
 流石に午後十時近いだけあって、人の行き来は愚か、車の往来もまばらだ。山
の手の方へ向っているのだから尚更だろう。
 こんな遅くに何故わざわざ山の方へと思うが、なのはに何処か静かな所で休憩
したいとお願いされれば仕方の無い事だ。
 道路脇の電球の切れかけた街頭が明滅し、羽虫達が光に誘われるようにして群
がっている。山の方は雨が降っていたのだろうか。
 アスファルトが湿り気を帯び、ヘルメット越しでも独特のむせ返りそうな匂い
が鼻についた。
 シンは、山の中腹にある展望台に原付を停車させる。
 海が見える高台と聞こえは良いが内情は只の市民公園だ。
 昼間は、近くにある小学校と幼稚園児達の遊び場で、文字通り足の踏み場も無
い。足元に注意して歩かなければ、前方不注意の園児を蹴り飛ばしてしまうなど
ざらだ。
「大丈夫だと思いますけど、少し時間潰しますか?」
「そうだね」
 なのはは、二つ返事で答え、シンは、なのは無警戒ぶりに頭痛を感じながら原
付を押し展望台まで歩き出した。
 幾ら生徒とは言え、シンも男なのだから、もう少し警戒心を持っても罰は当ら
ないと思う。結局の所"男"扱いされていないだけかと、シンは苦笑し、上機嫌に
鼻歌を歌うなのはの後に続いた。
「ごめんねぇ、あの人達しつこくって」
「別にいいですよ。乗りかかった船ですし」
 確かに男達はしつこそうに見えた。あの時は、そこまで深刻に考えなかったが
、夜半過ぎの駅前の治安はお世辞にも良いとは言えない。なのはも姉御肌が目立
つとは言え、年頃のか弱い女性で何かあってからでは遅すぎる。
 物騒な世の中だ。注意して注意し過ぎることはないだろう。
「もう少ししつこかったら、防犯ベルと痴漢スプレーと警察通報のトリプルコン
ボだよね」
 前言撤回。
 か弱い女性である事は認めるが、これはキッチリやり返して泣き寝入りしない
タイプだとシンは思った。
 シンはベンチに腰掛け、眼下に広がる夜景に暫し視線を傾ける。海側に隣接す
る郵政公社のドックから、大型船舶が離岸するのが見え、街を横断するように東
西に伸びた高速道路では、赤と黄色のヘッドライトが明滅し次々と過ぎ去って行
く。
 最初は柵に手をかけ、夜景を眺めていたなのはだが、何を思いついたのか突然
走り出し、あっという間にシンの視界から消えていく。 シンが唖然と立ち尽く
す中、これまたあっという間にシンの元へ戻って来た。
 余程急いだのだろう、なのはは、肩で息をし額に大粒の汗をかいている。両手
には、缶コーヒーと紅茶が握り締められ、なのはは、微笑みながらシンへ缶コー
ヒーを差し出した。
「はぁはぁ…はい…これ、助けてくれたお礼だよ。どっちが良い?」
「俺は何もしてませんよ。あれだって、何だろうってパパラッチ根性丸出しで近
づいて行っただけですし。そんなご大層な物じゃないです」
「でも、アスカ君、あんな怖そうな人達を前にして逃げなかったでしょ?それっ
て助けてくれた事にならないのかな?」
 アレほどあからさまに"助け"を求められて、無視出来る人間が果たして居るだ
ろうか。居たとすれば、凶悪極まる冷血漢かド天然どちからだとシンは思った。
「駄目だよ。謙虚も度が過ぎると嫌味なんだからね。これは私からのお礼。人の
好意を無視するのは感心しないよ」
 シンの黙考と何と取ったか謎だが、なのはは頬を膨らませ飲み物を差し出す。
「ど、どうも」
「はぁ、全力で走ったからちょっと疲れちゃった」
 だが、余程喉が渇いたのか、なのはは、シンが選ぶ前に紅茶を開け飲み始めて
しまう。平気そうに見えて案外動揺しているのだろう。
「言ってくれれば一緒に買いに行ったのに」と妙な所に食いつきながら、シンは
苦笑し、なのはから缶コーヒーを受け取った。

(助けたお礼が缶コーヒーか)
 シンは、なのはから缶コーヒーを受け取り、プルタブを開け喉に流し込む。
 六月は、ホットコーヒーかアイスコーヒーか迷う所だが、なのはから差し出さ
れたのはホットコーヒーだった。
 シンは、砂糖の塊とも言うべき、凶悪な甘みにばれない様に顔をしかめ、一気
に飲み干した。
 時間にして僅か五分の救出劇だ。三分しか戦えない宇宙人よりは、コストパフ
ォーマンスは良いつもりだったが、地球を守る英雄でもなく、片手間な上に成り
行き任せで女の子の危機を救った程度ならば妥当な報酬だろうか。
 しかし、幾ら美味しく無いとは言え、糖分を腹に入れれば、我慢していた空腹
感が蘇ってくる。
 せめて、家に帰るまで我慢しようと思っていたが、迫る空腹を押さえようとシ
ンが下腹に力を入れる直前に、お腹がぐぅと声高に自己主張を始めてしまった。
「もしかして、食事まだ食べてない?」
「ええ、まぁ」
 シンは、顔を赤くしながら、慌ててそっぽを向いてしまう。
 良い年齢した男が、腹の音を聞かれるのも勿論恥ずかしいのだが、食い意地が
張っていると思われる方が堪えた。
「そっか。なら、今度ちゃんとお礼しないとね」
「そんないいですよ。さっきも言いましたけど、俺、そんなつもりで助けたわけ
じゃないですから。別にいいですからね、お礼なんて」
「さっきも言ったけど過度の謙虚さは美徳じゃないからね。助けた自覚があるな
ら、尚更お礼くらいちゃんと貰っとくべきだよ。そうだなぁ。夕食をご馳走なん
てどうかな。ちょうどアスカ君、ご飯食べ損なったわけだし」
 なのはは「にゃはは」と年齢よりも随分と幼い笑い声を漏らす。
「俺、結構食べますよ」
 シンは、なのはの意外に強引な性格に驚きながらも、不承不承ながらもお礼の
件を受け容れる。
「平気、平気。その時は大枚降ろしていくから、フルコースだって大丈夫なんだ
から」
 なのはは、薄い胸を叩き微苦笑する。
 言ってはなんだが、なのは元高校生の阿呆のような食欲を舐めているとしか思
えない。野郎と言うナマモノは、タダ飯で遠慮する必要がないと分かると、冬眠
前の熊のように必要以上に胃に詰め込む生物なのだ。
 フルコースだろうが牛丼山盛りだろうが、二人前、三人前は"確実"に軽く平ら
げるだろう。
「お姉さんの懐は、アスカ君の思っているより広いんだよ」
 シンは、妙な雰囲気になったと、バツが悪そうに頭をかく。シグナム、ティア
ナ、スバルと二人っきりになった時は、甘さと気恥ずかしさで胸と頭が停止して
しまうが、なのはの場合はそうではない。
 奢ってくれると言うのだから、素直に奢って貰えば良いだけで、そこにはお礼
以外の感情は無い。しかし、何事も経験不足であるシンには、その辺りの機微が
荒い。まだ、誰とも付き合っていない癖に頭の中には、浮気や罪悪感と妙な単語
が浮かんでは消えを繰り返しているのだ。
 そんな事を考えている時点で、気持ちが浮ついている証拠だが、深夜の公園、
年上の女性、予備校と言えど先生、しかも、美人と二人っきり。
 なのはの持つカードは実に多種多様だ。どのカードを引いてもシンのストライ
クな上に何やら明け透けな態度で話しかけられれば、どう反応して良いか分から
ない。
 シンは、断るべきか、断らなかった場合、相手の要望にどう答えて良いのか心
底困り果ててしまった。
 そんなシンの百面相を神様は察したのか、実に慎ましやかではあるが、助け舟
を出してくれた。

「電話?」
 微妙な空気を切り裂くように、シンの携帯電話が軽やかになる。
 恐らくシンは、相手毎に着信音を変えているのだろう。先日なのはが聞いた着
信音とはまた別の曲だった。
「出ていいですか?」
「アスカ君。ここは学校じゃないよ」
「…ですよね」
 シンは、苦笑し電話の主に感謝しながら電話に出る。
 シンの携帯から流れてきたメロディは、巷の女子高生達に大人気のアーティス
トの物だ。
 街を歩いて十人にアンケートをとれば、半分はこの曲を着信音にしている程の
流行ぶりだ。しかし、シンのような人間が自ら進んで、このアーティストの曲を
着信音に使うとは考え辛い。
 何しろ歌詞が甘ったるい恋人達を歌った物なのだから、彼女か誰かが設定させ
ていると考えた方が建設的だろう。
 なのはは、おばちゃん根性丸出しで、シンの携帯の液晶に映った"ティアナ・ラ
ンスター"の文字を目ざとくも見失わなかったのは、まさに神業と言えた。
(やっぱり、彼女かな?)
 シンの携帯に映った名前は明らかに日本人の物ではない。
 なのは自身が帰国子女であり、国際化が進んだ日本で、今時外国人など珍しく
もないが、やはり、苗字名前共に全て横文字の彼女はインパクトがある。
 何と言うか、内気な性格に見えてやる事はやっているのだろうとさえ思う。
 姉2と言い、外人の彼女?と言い、実に女性の影が多い生徒だなと、なのはは
苦笑いを漏らした。

『ランスターか?』
「当たり前でしょ、誰だと思ったのよ」
『ランスターって思ってた』
「ならいいじゃないの」
 電話越しに聞こえる声が心地よい。
 北海道小樽市。
 夏を間近に控えた北海道と言えど、日中はまだまだ長袖は手放せないし、夜は
それなりに冷え込む。
 ティアナは、学校指定の部屋着に着替え、枕投げや恋バナに華を咲かせる同級
生の目を盗み、一人ロビーの隅でシンに電話を掛けていた。
 本当はもっと電話をかけたかったのだが、修学旅行中ために中々思うとおりに
はいかない。
 ティアナの学校は、ミッション系で有名な高校だが、外見の厳格なイメージと
は対照的に中身は実に大らかな物だった。
 一応規則としての校則は存在するが、律儀に守る生徒は殆ど居ない。
 週末のミサやお祈りなどの宗教色を除けば、普通の女子高となんら代わりはな
い。むしろ、自由度は他の高校よりも高いとさえ言えた。
 それが証拠に、ホテルでの消灯時間すらなく、他の宿泊客に迷惑をかけない、
常識の範囲内で行動せよとしかお達しを受けて居ない。
 普通そんな事をすれば、夜の繁華街に繰り出す馬鹿者が後を絶たないと思いが
ちだが、それなりの良家の息女達が集まるティアナの学校では、精々夜更かしす
る程度の発想しか出来ないようで、修学旅行最後の夜に似つかわしくない、実に
静かな夜だった。
「そっちはどう。何か変わった事あった?」
『別に、特に何も無かったけど』
 無愛想に答えるシンに、ティアナは思わず苦笑いを漏らす。シンならば、そう
答えると分かりきっていたのが、一日一回はシンの無愛想な返事を聞かなければ
、何処か落ち着かないのだ。
『そっちこそどうなんだよ。北海道初めてなんだろ』
「馬鹿ね、修学旅行なのよ。そんなに自由時間も無いし、シーズン前の時期で目
新しいのは何もないわよ。料理は美味しいけどね」
 夏や冬の北海道ならば、もう少し違った楽しみ方もあるのだが、残念ながら六
月の北海道はシーズンオフ。
 観光名所以外指していく場所もない。確かに料理は美味しいが、修学旅行で友
人と連れ添って自由に食べ歩きツアーとしゃれ込むわけもいかず、ティアナは、
まぁそこそこな修学旅行を満喫していた。
『そんな物か?でも、料理が美味しいのは羨ましいかな』
「まさか、また、うどんばっかり食べてるの?」
『ランスターまで…俺はそんなに信用ないのかよ』
「アンタ、肝心な時にポカするし、無茶するでしょ。生意気言いたかったら、ち
ゃんとしなさいよ、せ、ん、ぱ、い」

先輩としっかりしなさいの二言が余程堪えるのだろう。
 ティアナには、シンが電話の向こうでうろたえているのが手に取るように分か
る。言っては何だが、一体何年一緒に同じ釜の飯を食べていると思っているのだ
ろうか。普段からシグナムの手料理に飼い慣らされた人間が、そこそこの料理で
我慢出来るわけが無いのだ。
 シンの料理の腕も男にしては中々のものだが、そこは男の悲しい性か、手早く
食べられる料理に傾倒する為、あまり凝った物を作らない。
 手を抜いているのは見え見えだ。
 因みに八神家の台所事情の全権を握っているのはシグナムだが、こと味に関し
て最高の実力者ははやてだ。
 普段店を理由に食事当番から外れ、昼行灯を気取っているはやてだが、いざ本
気を出し包丁を手に取れば、八面六臂の大活躍で、文字通り頬が滑り落ちるよう
な料理を作り出す。その実力たるやプロと比べてもなんら遜色は無く、今のティ
アナの実力では太刀打ちすることすら出来ない腕前なのだ。
 ティアナもはやてをいずれ追い抜かすつもりだが、今は素直に敗者の座に甘ん
じている。
 それほどはやての料理は美味しい。それが、黙っていても出てくるのだから、
シンが料理に関して杜撰になるのは無理からぬ事と言えた。
『それ、なんか卑怯だ』
「ふふ、なんとでもいいなさいよ」
 たった一週間しか八神家を離れていないはずなのに、もう何年も帰って居ない
ような錯覚を受ける。シンと話すのはやはり「楽しい」と感じる。スバルや友達
と話すのも当然楽しいのだが、それとはまた別種の楽しさ、心が温かくなり落ち
着いてくるのだ。
 周りから見れば、シンの手綱を握っているのは、ティアナのように見えるが、
実は飼い慣らされているのはシンではなく、自分なのかも知れないとティアナは
常々思っている。
 声を聞いただけで、今迄の機嫌の悪さが嘘のように一瞬で吹き飛んでしまった
のだ。現金だとは思うが、恋とはそう言う物なのだと、ティアナは切に実感して
いた。
「ティアぁぁ電話中?」
「ひゃい!?」
 間延びした舌足らずの声と胸を揉みししだかれる感触に、ティアナは思わず嬌
声を上げた。ティアナの年齢の割りに意外に大きな乳房は、突然の乱入者の手で
柔らかに変形し、下から揉みしだかれている。
 それでも、抗議の声こそあげれど、ティアナが全く抵抗する気がしないのは、
不届き者がティアナの見知った人間だからだ。
「ちょっとスバル、やめなさいよね」
「えへへ、ごめんねぇ」
『どうかしたのか?』
 スバルの顔が赤い。異様に赤い。顔だけではなく、首筋から胸元にかけ、絵の
具でも塗ったかのようにひたすたに赤く染まっている。
 大方部屋で何処かの不届き物が持ち込んだお酒でも飲まされたのだろう。
 ぐでんぐでんに酔っ払ったスバルの格好は、それはもう憐れなものだ。
 学校指定のジャージは捲くれ上がり、体操服の下から可愛い御へそが覗き、呂
律が回って居ない。
『おい、ランスターどうした?』
「なんでもない。ちょっと待ってて」
 ティアナは少々不満げな顔で纏わり付くスバルを引き剥がしにかかる。本当に
酔っ払っているのか、スバルは蛸のようにティアナの体に纏わり付き、色々な部
分に触ってくる。
 ティアナは、耳の裏に息を吹きかけられ、デリケートな部分に伸ばされる手を
手刀で迎撃する。
 アルコールを体に入れ、酔っ払ったスバルの本性は完全なおっさんだ。
 華も恥らう乙女が胸を揉んだり、耳元に息を吹きかけたりするのは、同性とは
言え度が過ぎていると思うのは、ティアナが性格的に硬いからだろうか。
 それよりも、ティアナは、スバルがクラスメイトに余計な事を話していないか
心配になる。ただでさえ、最近友達付き合いが悪いとクラスメイトに疑われてい
るのだ。一応お嬢様学校なので、その手の話題は生徒達の格好の標的になる。特
に携帯電話の待ち受け画像を見られて以来、追求の手が益々強くなるばかりだっ
た。
「ティア~」
「何よ」
「抜け駆け、げーんーきーん」
 上機嫌に笑うスバルに、ティアナは、こいつ本当は酔ってないのではないかと
疑惑の視線を送るのであった。

「すいません」
「彼女?」
「いえ、まだ、そう言う関係じゃ…」
 そこまで言いかけてシンは口篭る。
 告白までして貰って、シンもティアナの事を憎からず思っているのだ。
 とても無いですとは言い切れない。しかし、それを大っぴらに言える程、残念な
事にシンは垢抜けていなかった。
「これからなるとか?」
「もういいじゃないですか」
「ふふ、良くないよ。ちょっとお姉さんに言って見なさいな」
 焦るシンとは対照的に、なのはの瞳が好奇心に彩られシンを掴んで放さない。
(拙いなぁ)
 女性は他人の恋愛話が大好物。少ない経験の中で学んだ数少ない実例だったが、
防げなければ意味は無い。適当な事を言ってはぐらかす事も出来たが、シンはそ
れを良しとしなかった。真剣な想いを寄せてくれているティアナにも、親身に接
してくれたなのはにも失礼に当ると思ったからだ。
 しかし、例え適当な事を言って納得出来るとは思えない。
 ここで、はやてが居てくれれば、的確な知恵を授けてくれるかも知れなかった
が、残念ながら頼りになる義姉はここにはおらず、シン一人で切り抜けなければ
ならなかった。
(メール)
 シンは、なのはの追求に四苦八苦する中、メールが届いている事にきがつく。 
 どうやら、電話中に受信したらしく、相手はシンのお助け袋"義姉1"こと八神
はやてだ。
 シンは、天の助けとばかりに受信メールを開き、
『で、結局誰が一番好きなん?』
 はやての悪魔のような一言に、心底頭を抱えてしまった。

 なのはは、港沖に敷設された人工島のマンションに住んでいる。人工島まで伸
びるモノレールの駅でなのはを降ろし、シンは八神家へ向けて幹線道路を原付を
走らせていた。
(なんか今日は疲れたな)
 なのはのお説教に始まり、シグナムとの会話でドギマギし、ティアナとスバル
との会話で癒され、トドメとばかりはやてのメールで釘を刺されてしまった。
 これも優柔不断な態度を取る天罰なのかと、シンは深い溜息をつきながら、原
付の速度を上げる。
(まただ…)
 シンは、目蓋が重くなっていくのを感じる。
 運転中にも関わらず、今直ぐにでもベットに潜り込み、惰眠を貪りたい衝動に
駆られる。シンは、眠気を追い払うように頭を振るい原付の速度を上げた。
 ここ最近居眠りのペースがどんどん速くなって行くのを感じる。
 体の力が抜け、頭がボゥッとして考えが纏まらず、酷い時など目の焦点が合わ
ず、自分でも気が付かない内に眠ってしまうのだ。
 そして、起きた時に決まって左目が酷く疼くのが特徴だった。
(不味いかな)
 このまま睡魔に負け、眠ってしまってはいかに深夜と言えど事故を起こしかね
ない。深夜営業の店で仮眠を取ろうかと思った矢先に妙な事に気が付いた。
 シンが走っている道路は街の中心を横断する物で、深夜と言えどそれなりに人
通りや車の行き交いもある。道路沿いには、飲食店も多く、ネオンの明かりが絶
える事のだが、周囲からは、人の気配も車の走る音も聞こえない。申し訳程度に
明かりを燈した街頭が、暗闇の中鉄筋が剥き出しになった建造途中のビルが目に
入った。
 シンは、不信に思い原付を止め、ヘルメットを脱ぎ辺りを確認する。
「ここって…まさか」
 市内再開発地域。
 シンの住む街は、二十年前の大地震で壊滅的な打撃を受けた。今でこそ復興し
ているが、当時の傷跡は大きく、今と昔では、街の様子もがらりと変わってしま
っている。
 街は確かに復興したが、当時の面影をまるで残さない街作りに失望し、新天地
目指して移住した住民も多い。
 この場所も地震の再開発事業と銘打ち、大手ゼネコンが国の融資を受け、開発
を急いだが区画だが、住民との訴訟問題やITバブルが弾けた影響で、そのまま
開発は止まり放置されてしまった区画だった。
 夜は、ホームレスやチンピラ達の溜まり場となる為、地元の住民もあまり近づ
かない場所だ
 八神家と再開発区画は見当違いの方角にある。道を間違えても辿り着くわけが
なく、シンは、まるで、光に吸い寄せられる羽虫のように吸い寄せられた気さえ
した。
 シンは、いよいよ病院に行った方が良いかもしれないと、自嘲気味な笑みを浮
かべ原付に腰掛けた。

「こんばんは」
 こんな物騒な場所に場違いな声が響く。シンが、声の方角、暗闇の中に目を凝
らすと、薄ぼんやりとだが誰かの姿が確認出来た。
 影の形と聞こえて来た声から、幼い少女だと推測出来たが異常な程現実感がな
い。まるで、狐か狸にばかされたような錯覚さえ覚える。
「こんばんは」
 少女特有の柔らかい声色が再度シンの耳に届く。
 やはり、少女の姿は、輪郭はぼやけ良く見えない。しかし、耳に届く声は、少
女が現実の物だとシンへはっきりと教えてくれた。
(なんでこんな所に)
 こんな時間、こんな場所に幼い女の子が居る事自体不可思議な物だが、問題は
そこではいない。シンは、少女は、流暢な日本語を放しているが、微妙なイント
ネーションの違いから、少女が外国人だと思った。
 旅行者だろうか。それならば、尚更妙な事だ。
 土地勘も無い旅行者の子供が、何故こんな場所に居るのか。
 土地勘が無い故に迷いこんだと考える事も出来たが、再開発地域は市街地から
随分と離れている。
 子供、しかも、年端もいかない娘が、深夜に一人迷い込むとは考え辛い。シン
が、怪訝そうな顔で少女を見つめる間に変化は起こり続けた。
「ふふ」
 少女は何が楽しいのか、突然微笑みを浮かべ、かと思うと突然シンから視線を
切り、即座に踵を返し再開発地区の奥へと走り去っていく。
「お、おい」
 少女は、途中立ち止まり、シンに向け「おいでおいで」と手を振り、そして、
また小さな足で闇の中へと駆け込んでいく。
「まったく、どうかしてる」
 シンは原付を道路脇に止め、ヘルメットを乱暴に脱ぎ捨て、少女を急いで追い
かけ始めた。所詮大人と子供だ。歩幅や体力の差から考えて、直ぐに追いつくだ
ろうと、たかを括っていたシンだが、少女との差は一向に縮まる気配を見せない。
 そればかりか、本気で走っているはずのシンが、時間が経つに連れ少女との差
を徐々につけられてい始める始末だった。
 シンは、いよいよ化かされいるか、幽霊に出くわしたと本気で考えるべきだと
思ったが、あんな小さな子供をこんな物騒な場所に置いて行く事はシンには到底
出来ず、汗だくになりながら少女を追いかけ続けた。
 再開発地域の中心部。
 廃棄された高層ビルに囲まれるように建設途中の陸上競技場で少女との追いか
けっこは唐突に終わりを告げる事となる。
 シンは、少女を追いかけ、柵と虎ロープで封鎖された通路を駆け抜け、競技場
内部に辿り着く。
 競技場の中は、当然照明等は付いておらず、陸上トラックに埋め込まれた非常
灯の翡翠色の光が点々と周囲を照らしていた。
「見失った…なんで」
 シンは、少女に追いつけなかったが、常に少女を視界に捕らえていた。入り口
から、競技場までは一本道だった。見失うわけが無い。
 だが、競技場には少女の影は愚か人の気配が全く無い。
 本当に幽霊だったのだろうか。
(やっぱり疲れてるのか…)
 シンは、背中に薄ら寒い物を感じながら、嘆息しながら競技場を後にする。今
日は何も考えず眠ってしまいたい気分だった。
「よう…初めましてか、シン・アスカ」
 シンの耳に、先刻聞いた少女とは違う異質の声が響く。明らかな敵意を含んだ
声色に、シンはその場から思わず後ずさった。
 暗闇の向こう側。非常灯の翡翠色の光に照らされ人影が見える。
「誰だ!」
 シンが、見知らぬ声に警戒の雄叫びを上げた瞬間、競技場の照明が一斉に点灯
し始める。
 昼間と見間違うような強烈な閃光が輝き、声の主から、巨大な影が伸びシンを
飲み込むように広がった。
「ヴィータ…」
 闇から聞こえてくる声は、まるで、声の主とシンが既知の間柄のように耳に酷
く馴染んだ。
 闇と光のコントラストの中から、人影が一歩ずつ近づいてくる。光に慣れたシ
ンの瞳が捉えたのは、大きな女性の輪郭だった。
 高いヒールを履いているが、それを差しいても、身長は百七十センチを超えて
いるだろう。モデルのようにスラリとした体躯にはち切れんばかりの胸。
 そして、燃えているような真赤なスーツが印象的だった。
 見ているだけで、美人過ぎる容姿に感嘆の溜息すら漏れだしそうだ。
 だが、そんな好印象の全てをぶち壊しにしているのが、ヴィータの抱える物騒
な獲物だった。

 自身の身長もありそうな、飾り気も何も無い無骨な金属の固まり。チェスのビ
ショップをスケールアップした、西洋風のハンマーと言うべきだろうか。
 殺傷目的に作られている印象は受けないが、美術品や芸術品と言うには、ハン
マーの纏う雰囲気が血なまぐさい。
 軽金属で出来ていても、相当な重量になるはずだ。そんな代物を顔色一つ変え
ず、傘のように軽々と扱うヴィータの膂力は饒舌に尽くしがたい。
 ハンマーでなく、素手で殴られただけで、死んでしまうのではないだろうか。
(なんだよ…この感じ)
 ヴィータが一歩、また、一歩近づいてくるにつれ、シンの両目が熱を持ち疼く。
 まるで、遥か昔に離れ離れになった同胞を歓迎するように、シンの赤い瞳が歓
喜の雄叫びを上げているようだった。
「あっつ…」
 両目の疼きに連動するように、シンの首筋に鋭い痛みが走る。手を当てるとベ
ッタリとした血の感触にシンは、小さく悲鳴上げた。
「刻印も生まれたか。血が馴染んで来た証拠だな…良い感じじゃねか」
 困惑するシンを他所に、ヴィータは嬉しそうな声を上げる。
 そして、耳に届く声は、反響するように、シンの脳と精神を大きく揺らし、そ
の度に瞳が疼くのを止められない。
「刻印、血?なんだよ、アンタ」
 全く訳が分からない。シンは狼狽し、今直ぐにでもその場から逃げ出したい衝
動に駆られる。
「あたしは、御託は嫌いなんだ。説明する義理もねえしな。いきなりで悪いが、
シン・アスカ。お前は私の物だ」
「はい?」
 普通ヴィータのような美女に「私の物なれ」と問われれば、男ならば心臓の一
つや二つトキメキを覚える物だが、今は辛うじてヴィータに対する恐怖の方が勝
っていた。
「行くぜ!」
 ヴィータは、シンの困惑を無視し、ハンマーを振りかぶり、雄叫びをあげ飛び
上がった。
 まるで、人工衛星の打ち上げのように、垂直に飛び上がるヴィータを見て、シ
ンは顎の骨が外れそうなほど驚愕する。
 目算で垂直飛び五十メートルオーバー、オリンピックに出れば、金メダル間違
い無しの大記録だ。
「アンタは一体なんなんだ!」
「…!?」
 シンの問いかけは聞こえたのか、ヴィータは、上空で何か大声で叫んでいるよ
うだが当然シンの耳に届くはずもない。
 豆粒のように小さくなったヴィータが、やがて、重力に従い猛烈な速度でシン
目掛け落下し始める。
「ちょっと待った!」
 五十メートルも跳躍すれば、それはビルの屋上から飛び降りると大差ない行為
と言える。いや、ヴィータの落ちてくる速度を考えれば、それは、落下ではなく
最早墜落の領域だった。何の準備もなく、ビルから飛び降りれば、良くて全身複
雑骨折、普通は死んでしまう。
 だと言うのに、ヴィータはシンの心配を他所に猛禽類のいうな獰猛な笑みを浮
かべ、ハンマー片手にシンに迫ってくる。
「行くぜ、シン・アスカ!」
 ドップラー効果を残し、ヴィータの咆哮が競技場内に木霊する。
 ヴィータの、ハンマーの振り下ろされると同時に耳を劈く爆音が響き、猛烈な
土砂を巻き上げ、大地を揺らす程の衝撃が走った。
「くそっ、巧く避けるじゃねか」
「さ、避けるって」
 別にシンが、巧く避けたわけでは無く、ヴィータが高く遠くに飛びすぎて打撃
点が明後日方向へ飛んでいっただけの事だ。
 ヴィータの攻撃で、競技場には巨大なクレーターが開き、巻き上げられた粉塵
が照明に照らされ大気中で雪のように輝いている。
「ちっ、やっぱりろくに制御も出来なくなって来たか…あまり無駄使い出来ねぇ
んだ。さっさと死ねええええ!」
「死ねとか私の物になれとか、アンタ、一体どっちだよ!」
 シンは、再度振り下ろされようとするハンマーから一目散に逃げ出した。

『ほら、逃げろ、逃げろ!ただの人間があたしの鉄槌に触れるとミンチになっち
まうぞ』
『クソ、なんなんだよこの人は!』
 競技場から遠く離れた廃ビルの屋上で、手を繋いだ少年と少女が、瞳を閉じ、静
かに佇んでいる。
 エリオとキャロの足元には、緋色の幾何学模様浮かび、二人の周りを赤い粒子が
蛍のように飛び交い、ある種幻想的とも言える光景が広がっていた。
「ヴィータさん楽しんでるね」
「うん…あの人可愛そう」
 ヴィータから届く思念波から、彼女の楽しそうな声と必死に叫び続けるシンの声
が聞こえてくる。時折、轟音が響き、何かが拉げる音が届いてくる。その度にエリ
オは顔を引き攣らせ、兎のように逃げ惑うシンに同情した。
「ねぇ、エリオ君。本当にあそこまでしないといけないのかな。訳を話せばきっと
協力してくれるんじゃないのかな?」
「種の覚醒には強いストレス、命の危機を感じるのが一番なんだって…ヴィータさ
んが言ってた」
「でも、あの人可愛そうだよ、エリオ君。ヴィータさんの手元が狂ったら、死んじ
ゃうよ」
「うん…でも、あの人。シン・アスカさんには、是が非でも種に目覚めて貰わない
と困るんだ。僕達が生きる残る為にもね」
 生き残る為。
 そう言われるキャロには言い返す事が出来ない。キャロは、あの地獄のような日
々に戻りたいとは思わない。二人は、研究所で性的虐待こそ受けなかったが、脳と
体を極限まで行使する、人道に外れた実験の数々に精神と肉体をすり減らし、まさ
に生きる屍に相応しい生活を送っていた。
 しかし、キャロやエリオのように創られた存在が生きていくには、たとえ地獄の
ような場所でも籠の中の鳥、箱庭の中で生きていく他は無かった。
 二人が自由に生き残る最低条件。
 それは、シン・アスカが種の起源として覚醒する事が必要不可欠だった。
「でも、ヴィータさんが、シン・アスカさんをミンチにしちゃったら…」
「多分…大丈夫」
 頭の中に流れ込んでくる、喜々としたヴィータの映像にエリオは、一抹の不安を
覚えるのだった。

「ほら、ほら、どうしたシン・アスカ。逃げてばかりじゃ拉致があかねぇぞ」
「好き放題言ってくれて!」
 ヴィータがハンマーを振るう度に、コンクリートが粘土か紙布のように、抉れ、
千切れ飛んでいく。
 それだけならば、まだいいが、ヴィータが無造作にハンマーを振るう度に、人の
拳大もあるコンクリートの破片が、散弾銃のようにシンに襲い掛かってくるのだか
ら溜まった物では無い。
 シンは、後ろに気配を配りながら、速度を緩める事なく、ヴィータから全力で逃
げ続けていた。
 競技場から、出口までは一本道だ。原付のある場所まで戻れば何とかなる。
 取り合えず競技場から出てしまえば隠れる場所は無数にある上に土地勘もシンに
味方するはずだ。
 シンは、原付の場所まで難を逃れ、そのまま警察に逃げ込めばヴィータも手出し
出来まいと算段を立てていた。
 しかし、残念な事にシンには三つの誤算があった。
 まず、一つ。
 シンが、警察に逃げ込もうと、ヴィータお構いなしだと言う事。例え立ちはだか
る警察を壊滅させてでも、シンを手に入れるだろう。
 そして、二つ目。
 シンは逃げ切れると考えているが、過去ヴィータの標的になって"無事"に逃げ延
びた者など居ない事。
 そして、最後の三つ目がシンにとって致命的な誤算だった。
 シンの五十メートル走の記録は五秒四。
 高校生の一般的な記録から見ても、中々の健脚ぶりである。
 シンの逃げる速度を五十メートル走でから換算すると、単純計算で百メートル走
るのに約十秒を要する。
 当然早々理論通りの数値が出るわけもない。実際は、体力やコース取りによって
記録は左右されるが、命の危機を肌で感じ取ったシンの本能は、アドレナリンが多
量に分泌され、火事場の馬鹿力が常時発揮されている状態だ。

 恐らく今のメンタリティで記録会に望めば高校新記録も夢では無かっただろう。
 背後から襲ってくる飛礫の恐怖と戦いながら、シンは、原付目掛けて全力で走り
続けていた。しかし、シンは、三百メートルも走った所で妙な事に気が付く。
 全力疾走に全力疾走を重ねていると言うのに、出口に一向に近づいた様子が無い。
 出口は、もう手の届く所に見えていると言うのに、まるで、蜃気楼のように揺ら
ぎ続けている。
「なんだよ、これ」
 まるで、意味が分からない。たった数百メートルの道のりを何故二十分以上かけ
て全力疾走しなければならないのか。常識で考えれば、とうの昔に出口に辿り着い
ているはずだ。
 肺が新鮮な空気を求め、シンは、喘ぐように口を開け大きく息を吸い込んだ。
 冷たい空気が肺を冷やし、アドレナリンが分泌され、ハイになった頭が冷え、
僅かではあるが冷静さを取り戻す。どんな原理か知らないが、競技場の出口は"閉鎖
"されている状況にあると見てよい。
 シンの脳裏に、空間歪曲、無限回廊などSF的な言葉は浮かんでは消えていく。
 普段ならば「そんな馬鹿な」と一笑に伏せる事が出来ても、五十メートルも高さ
も跳躍し、大地に大穴を開ける人間を見た今では、絵空事と洒落ですませる事も出
来ないでいた。しかし、そんな事はどうでも良い。
 大事な事は、このまま走り続けても、出口に辿り着けず、そう遠くない時期にヴ
ィータに捕まってしまうと言う事だ。
(どうする…どうすればいい)
 ヴィータの「私の物になれ」と言う言葉が脳裏に反響する。私の"物"が何を意味
しているか分からないが、言葉尻だけを捉えると命まで取るとは思えない。
 しかし、相手は、いきなり「死ねー」と叫びながら、クレーターを量産し、コン
クリートを引き千切るような常識外の生物だ。
 私の"物"が文字通り"物"であるならば、そこにはシンの命の勘定は入ってないだ
ろう。
「どうした、どうした、もうカンバンか?」
 ヴィータの嘲りの混じった声が、背後から聞こえる。シンが慌てて振り返ると、
壁にもたれ掛かり、両手でハンマーを弄んびながら、浮ついた笑みを浮かべるヴィ
ータが瞳に映る。
「くっそおおお!」
 完全に遊ばれている。しかし、シンは、だからと言ってギブアップする気は更々
無い。
 例え命は取られずとも、捕まれば大事な人達に二度と会えなくなるかも知れない
。それはシンにとって到底許容出来るものでは無かった。
 シンは、一階が駄目なら二階だとばかり、手近な階段を三段飛ばしで駆け上がる。
 ヴィータに誘いこまれた感は否めなかったが他に選択肢は無かった。
「頑張るじゃねえか。流石は命の水ってか」」
 ヴィータは、口笛を吹き、あごを擦り素直に感心する。
 何の訓練も受けていない人間が二十分以上も全力に近い速度で走り続け、まだ尚
余力を残している。
 血に流れる命の水の恩恵。
 ヴィータはシンを揶揄するように呟くが、頭を振るい即座に陳腐な考えを切り捨
てる。
「いや違うな。これはあいつ自身の力か。それだけ必死になる理由があるって事だ」
 既にシンの足は乳酸塗れで、もうまともに歩く事も出来ないはずだ。しかし、シ
ンは疲れを微塵も見せず、ヴィータから逃れるべく脱兎の如く駆け出していく。
 ヴィータの名誉の為に記しておくが、彼女はシンの命を奪う気は毛頭無かった。
 ヴィータの目的には、シンの"命"であり、殺してはしまっては本末転倒なのだ。
 シンの滑稽にも映る足掻きが、眼前に迫る死から逃れたいが一心から来るものだ
としても、ヴィータは笑うつもりは全く無かった。
 誰だって死にたくない。ヴィータにシンを殺すつもりがなくとも、シンは、知る
よしも無い。ヴィータも教えるつもりも無い。
 ヴィータは、職業柄死を恐れるが故に任務を放り出し逃亡する人間を星の数ほど
見てきた。偏見かも知れないが、ヴィータは、自分を見失い目的も手段も持たず闇
雲に手足を動かし続ける様子は、まさに生きる屍に相応しいとさえ思っている。
 しかし、シンの逃げ方は、そんな彼らとは明らかに違うように感じる。逃げ方に
迷いが無い。ヴィータには、何かの目的に向って一心不乱に逃げているように見受
けられた。

「あたしにも必死になる"理由"がある」
 ヴィータは、シン・アスカが、黙ってこちらの言う事を聞くタイプの人間で無い
事は一目見て直感した。
 シンに言う事を聞かせたければ、長い時間をかけ誠心誠意説得するか、シンが、
ヴィータの為に一肌も二肌も脱いで良いと言う程の信頼を勝ち取るか。
 生憎そのどちらもはヴィータには難しく選ぶ時間も無かった。
「あたしにも必死になる理由があるんだよ!」
 ヴィータは、自分に言い聞かせるように、両手で頬を叩き気合を入れる。瞳を閉
じ僅かな俊巡の後、ヴィータが瞳を開ける頃には、纏う空気が冷徹な狩人の物へと
変化する。
「遊びは終わりだ」
 ヴィータは、静かに告げシンの追跡を再開した。

「あぐっ!」
 ふとももに走った鋭い痛みに、シンは、思わず立ち止まる。
 筋肉痛などと生易しいレベルではない。
 短時間に酷使され続けたシンの筋肉は鉛のように重く、痛みと疲労に呆気無く白
旗を揚げ、休ませろとストライキの様相を見せている。
 シンは、這うように廃棄された重機の陰に隠れ、物陰からヴィータの様子を伺う。
 ジーンズを捲り上げると、太ももには大きな内出血の後が出来ている。歩けない
と言った程ではないが、痺れと痛みで今直ぐとはいかない。
「そっちは行き止まりだ。もう、逃げ場はねぇぞぉ、シン・アスカ。諦めてあたし
の物になりな」
 加えて、出口の無い通路を無我夢中で逃げた挙句が二階特別観覧席。完成すれば
、VIPご用達の豪華な観覧席も、今は、打ち捨てられた重機だけが、彼らに許さ
れた観客のように鎮座している。
「どうした?鬼ごっこは終わりで、今度はかくれんぼか?案外ガキっぽい奴だな」
 ヴィータの声の調子が違う。一つ一つの言葉は、シンをからかうようなものだが
、言葉に宿った重みがまるで違うのだ。
「まぁ隠れる場所なんか知れてるけどな」
 ヴィータは、わざとらしく、カツン、カツンと床を鳴らし、一歩、また一歩ちシ
ンの居場所に近づいて来る。
「ここかな?」
 ヴィータは、無造作に鉄屑廃棄用のコンテナを無造作にハンマーで殴りつける。
 殴られた衝撃でコンテナの側面がくの字に歪み、景気良く壁に激突して止まり、
コンテナは激突のショックで捻じ曲がり原型を留めていなかった。
「外れか、次はどれにするかな」
(冗談だろ)
 どこの世界に何百キロもあるような鉄の塊をハンマー一つで吹き飛ばす馬鹿がい
る。無茶苦茶な奴だと思っていたがここまでとは。シンは、原型を残さない程に変
形したコンテナを見て背筋を寒くさせた。
(不味い…これは不味い)
 シンは、状況を冷静に分析し、最も生き残る可能性が高い方法を模索し始める。
 再び逃げる。
 却下。
 膝が笑って、もう一歩も歩けない。
 このまま隠れてやり過ごす。
 却下。
 隠れる場所は少ない。
 いずれ見つかってしまう。
 命乞いをして、ヴィータに軍門に降る。
 却下。
 絶対に却下。
 泡沫のような拙い考えが現実の前に浮かびは消える中で最後に残った選択肢は最
も絶望的と言えた。

「戦うしかないのか」 
(戦うって何と…鉄のコンテナを粉々粉砕するような奴。)
 シンは、自分で言いつつ、それがいかに無謀で無茶で荒唐無稽な現実の前に打ち
のめされそうになる。ごくりと生唾を飲み込み、額から大粒の汗が流れる。
 ヴィータに勝つ自分が全く想像出来ない。例え不意を突いたとしても、あの凶悪
極まるハンマーで一殴りされれば、シンは文字通り肉塊と化すだろう。
 奇跡に奇跡を重ね、さらに極上の奇跡を起こしたとしても結果は神のみぞ知るレ
ベル。一か八の確率の方が容易いように感じられる。
「戦う…戦うのか、俺」
 逃げても隠れても駄目なら戦うしかない。
 戦わなければ生き残れない。
 生き残らなければ皆に会えない。二度と会えなくなる。
 分けの分からない三段論法が頭の中に堂々巡りを繰り返し、煮詰まった思考は、
やがて怒りの感情に純化されていく。
 シンの大事への人達の思いも約束も全ては夢幻のように儚く消えて行く運命だっ
たと言うのか。
 心底から沸々と沸いてくる自己に対する怒りにも似た不甲斐なさと遣る瀬無さは
、シンの血をマグマのように煮えたぎらせ昂ぶらせる。 理不尽な出来事には慣れ
たつもりだった。テロで妹を傷つけ、左腕を失い、酷い目に会い、少し人生が楽し
くなって来た矢先にこの始末か。
 それが神の戯れだとしても、シンは「はいそうですか」と素直に従うつもりも更
々無い。
 足掻ける余地があるなら足掻き続ける。
 それは何処の"世界"のシンでもきっと変わらないだろう。
「…なら、やってやるよ。やればいいんだろ!」
 シンは、恐らく生まれて初めて本気でキレたのだろう。
 シンは、恥も外聞も無く、血走った目で額に青筋を浮かべながら、ジーンズの中
から、義手の整備用にいつも持ち歩いている精密ドライバーセットを取り出す。
「力が足りないって言うんなら、あわせればいいんだろ!」
 一番大きなドライバーで、義手の人口皮膚を無理矢理引き剥がすと、ニビ色の装
甲が姿を現す。PDAから伸びたケーブルを義手に接続し、神経接続のパラメータ
ーを呼び出す。
「ニューロンネットワーク・バイラテラル角を1.0から3.2に引き上げ。ゼロ
ポイントモーメントを再設定。擬似皮質分子イオンポンプ制御モジュールに直結。
クレストファクター、危険速度を度外視。ゼロスパンを再設定。公差範囲外?動け
ばいい!」
 シンは、肘の付け根のコネクタボックスをこじ開け、ゲインを押し上げ、トリマ
を目一杯引き絞る。そのままPDAで義手のメンテナンスプログラムを起動し、目
にも止まらぬ速さでPDAを操作し全てのパラメーターを限界まで引き上げる。
「ほら、見つけた」
 重機の陰からにゅっとヴィータの顔が現れハンマーが振るわれる瞬間、義手のシ
ステムが切り替わりリミッターが完全に解除された。
「舐めるなああああ!」
 シンは、身に宿る溢れんばかりの激情を解き放つかのような咆哮を上げ、振り下
ろされたヴィータのハンマーに裂帛の気合と共に掴みかかった。
「やるじゃねぇか…」
 過去ヴィータに銃器やハイテク兵器の類で一騎打ちを挑んできた馬鹿者は、阿呆
ほどいたが、腕一本で挑んできたのはシンが始めてだった。
「お前…義手か!」
「だから、どうした!」
 義手の静音モーターがガリガリと唸りを挙げ、排気口から熱い蒸気を吐き出す。
加熱した燃料電池と駆動部の余剰熱で義手の人口筋肉が熱せられ肉の焼ける匂いが
鼻につく。
「違いねぇな!」
 ヴィータは獰猛な笑みを浮かべ、ハンマーをシンの肩口目掛け振り下ろす。
「何!」
 ヴィータが驚くのも無理は無い。ヴィータの打撃のタイミングは完璧だった。
 一見荒々しく見えるヴィータのハンマー捌きも、振りかぶりから振り下ろすまで
の一動作は、力学の極み、緻密な工業製品を髣髴させる熟練した動きなのだ。
 端的に言えば、シンのような素人が、自ら望んでタイミングを合わせる事は不可
能に近い。

「こいつ!」
 ハンマーのような超重武器は、一度攻撃動作に入ると途中で止める事は難しく、
威力は絶大だが、攻撃を失敗すると次の動作まで時間がかかってしまうのが弱点だ
った。
 生物が自身よりも巨大な物に畏怖を覚えるように、人間は高速で打ち下ろされる
物体に、無意識化の内に意識が向う。
 コンマ以下数秒にも満たない、まさに刹那の瞬間とも言える時間だが、魔女を名
乗るヴィータにはそれで十分だ。
 後は、内に秘めた殺気を叩き付ければ、相手が萎縮し更に時間は稼げる。時間に
して数秒、それだけあれば、ヴィータは次の攻撃動作に悠々と移る事が可能だった。
 だが、シンは、ヴィータの思惑を覆し、打ち下ろされるハンマー"しか"見ていな
かった。
 打ち下ろされる威容も、ヴィータの殺気も、命の危機も、そんな事は、今は関係
ない。それが最善手といわんばかりに、ヴィータの攻撃が始まる"前"から、未来が
視えているように迎撃体制を取り、ハンマー目掛けて拳打を繰り出していた。
「当てやがった!」
 甲高い打撃音が響き、ハンマーの軌道がシンから僅かに反れ、爆音を立て地面に
大穴を開ける。地面を打ち付ける衝撃波とで右腕の骨がひび割れ、鼓膜が痛む。
 しかし、ヴィータのハンマーは地面にめり込み動きが止まる。今迄守勢に回らざ
るを得なかったシンが手に入れた初めての好機だった。
「うわああああ!」
 シンは、驚愕の声を上げるヴィータを無視し、がら空きになったヴィータの腹部
を義手で力任せに殴りつけようと身構える。
 自転車を軽くスクラップにする膂力で殴られればどうなるか。普通の人間ならば
、内臓が破裂しても可笑しくない。
 しかし、絶好の好機にシンは、女性を殴る罪悪感に押し潰され、一瞬、ほんの一
瞬攻撃を躊躇してしまう。
「へぇ…ちょっとはマシになったな。だが、後が駄目だ」 
 ヴィータは、にやりと微笑を浮かべ、地面にめり込んだハンマーに力を込める。
 ヴィータの微笑を見る度にシンは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
 何と言うか、ヴィータの微笑には人に在らざる者としての根源的な恐怖を感じる
のだ。
 止まれば負ける。
 今が生き残る千載一遇の好機であり、逆に逃がせば死あるのみだと、シンの本能
が如実に告げていた。
「死ねるかあああ!」
 シンは、身から溢れる恐怖を押さえつけるように闇雲に拳を払う。しかし、その
全てが、ヴィータの左腕一本で受け止められ、尽く無力化されて行く。
「そろそろこっちの出番だな」
 シンの攻撃を蚊の息吹程も感じていないのか、ヴィータは、まるで、風呂上りの
ような暢気さで巨大なハンマーを持ち上げ大上段に構えた。
 月の淡い光に照らされたハンマーが怪しく輝く。シルバーメタルの表面が、僅か
に赤く光り、脈動する血管のように幾つも管が浮き上がり、まるで、生物のように
不気味な雄叫びを上げる。 
「あたしに向って来た褒美だ。受け取り、受け容れて、あたしの物になれ、シン・
アスカ!」
 月光を背後にヴィータが裂帛の気合と共にハンマーを打ち下ろす。
 先刻までの遊び半分の攻撃なのでは断じてない。柄をしかと両手で握り、右足に
全体重をかけた全身全霊の一撃を前に、シンに許された行為は、ヴィータの攻撃を
受け止める事だけだった。
「あぐっ」
 義手でハンマーを掴み上げると、全身に電流のような鋭く激しい痛みが駆け巡り
、衝撃で肺腑の空気が一瞬で口外に押し出される。
 鼻腔の奥に生温い感触を感じ、口腔に鉄の味が広がる。体が崩壊寸前の軋みを上
げ、肩と足首が嫌な音を立てるのをシンは確かに聞いた。
 痛みでショック死しても良さそうなものだが、シンの意識は明快そのもので、あ
まりの痛みに故に脳が"死"に対して拒絶反応を起こしたとしか思えない。
 いっその事気絶してしまえば、随分と楽だっただろう。
 度重なる攻防で、義手のアタッチメントが加熱され、生身の部分が焼け鈍い走る
が、シンは力を緩める事はせず渾身の力を込めた。だが、ヴィータのハンマーは曲
がるどころか傷一つ付かず、逆にシンを叩き潰そうと迫ってくる。
 目を血走らせ、雄叫びを上げるシンを見つめながら、ヴィータは口笛を吹きハン
マーに更に力を込める。

「くっそお」
 足元のコンクリートがひび割れシンが肩膝をつく。ヴィータの膂力によって、義
手の装甲が拉げ罅割れ内臓モーターが異音を上げた。
「諦めろ、シン・アスカ」
 ヴィータは、これが最後通牒だと慈悲すら篭った視線をシンへ投げかける。
「…い、や、だ!」
「そうか、なら、本当に遊びは終わりだ」
 ヴィータの瞳が、冷たい氷のように急速に色を失くし、それに呼応するように、ヴ
ィータの膂力が加速度的に上昇していく。
 義手に感じる力は、これまでの攻撃が本当に児戯に等しいと思える程に圧倒的な物
だ。
「くそおおおお!」
 絶叫と共に「死ぬ」とシンの瞳が絶望に彩られようとした瞬間、ヴィータが突然後
方へ跳躍した。
「えっ…」
 突然抜けた力の性で、勢い余った、シンは、埃だらけの地面に突っ伏してしまう。
「なんだよ急に」
 命さえ賭け、不退転の覚悟で望んだシンだったが、ヴィータの突然の奇行に面食ら
い、埃を払う事も忘れ唖然とする。
 あのまま押し切っていれば、間違いなくヴィータが勝っていた。それは間違いない。
義手の反則技で力だけは拮抗していたかも知れないが、戦闘技術において、シンとヴ
ィータでは雲泥の差があった。
 いきなりの命の危険に、もたつかず逃げる事を選択出来ただけで、大した物だが今
のシンには詮無きことである。
 シンが急展開する事態に付いていけず、尚も唖然とする中で、ヴィータはダンスを
踊るように、左右に飛び続け、忌々しい表情でハンマーを振い続ける。
 キンと金属と金属が打ち合う甲高い音が響きとヴィータの足元に点々と続く銃弾を
見て、シンは、ヴィータが狙撃されているのだと初めて気が付いた。
「っち、邪魔しやがって」
「それは悪かったな」
 毒づくヴィータを無視するように、影から伸びた二筋の銀光がヴィータの喉元を過
ぎ去る。銀光はヴィータの薄皮一枚削り、ヴィータは、苛々した表情を垣間見せその
まま一旦距離を撮るように後ろに流れ行く。
 シンは、助かったと思うよりも、今度は何なのだと益々困惑の色合いを深めていく。
 やはり、何人もの女性の間でフラフラするのは、イケナイ事で罰が当ろうとしてい
るのか。緊張の糸が切れたのか、シンが、別の意味で罪悪感と自己嫌悪押しつぶされ
ようとしている頃、銀光の主が堂々と姿を現していた。
 腰まで伸びた艶やかな漆黒の髪。
 確かに顔は整っているが、戦意新たかに敵を追い詰める、獣のような形相を男性独
特の物だ。
 髪と同色の漆黒のプロテクターが鈍く輝き、逆手に持った刃渡り五十センチ程の二
振りの大型のナイフが月光に煌いた。
 天井から落ちたコンクリ片が、ナイフに触れるとビッと言う音を立てて粒子状に粉
砕される。
「超振動ナイフか。やっかいだな」
 ヴィータは、相手の獲物を脅威をと認識したのか、ハンマーを正眼に構える。
 超振動ナイフ。
 接触した物質の分子結合を超振動によって乖離させる兵器で、形状はナイフだが武
器としての性能はチェーンソウに近い。
 昨今でも工業用工具等に使用される有り触れた技術だが、カナードの持つ超振動ナ
イフは、刃先に高分子ナノカーボンを使用し、チタン と金のレアメタル"オリハルコ
ン(精神感応金属)との合金によってコーティングされ、刃先が毎秒二千回転往復す
る特別製だ。
 カナードの持つ二振りの超振動ナイフ"ロムテクニカ"は、分子間結合を解き、切れ
ない物質は存在しないと言われる理論上の超振動ナイフに限りなく近づいたと一品だ
と噂される代物だった。
「テメェ…何者だ」
「カナード・パルス」
 カナードは一言だけ名乗りを上げると、有無を言わさずヴィータに切り掛かる。
「っち!」
 ヴィータは舌打ちし、上下から伸びる銀光を力任せに振り払う。甲高い炸擦音が響
き、高密度の金属が打ち合う度に闇の中に火花が舞う。
 前後左右から伸びるカナードの斬撃と何処からともなく飛翔してくる弾丸に、流石
の鉄槌の分が悪いのか、ヴィータはカナードから慎重に距離を取った。
 形勢不利と見たヴィータは、カナードから三丈離れ、ハンマーを正眼に構えながら、
まだ見ぬ敵に慎重に気配を払う。
「もう一度聞くぜ・・テメェ何者だ」
「ハイヒールで後転か…器用な奴だ」
 カナードは、ヴィータの問いかけに不敵に微笑む。
「宇宙(そら)に煌く一筋の箒星…いや、ハイペリオン(流星)。人は俺のことをそ
う呼ぶ」
 シャキーンと効果音付きでポージングを決め、何やら色々とフルパワーでマキシマ
ムなカナードだった。

「グゥレイト!やっぱ俺って天才じゃね?」
 競技場から二キロ離れた廃ビル屋上。 
 冷たい防水シートの上に寝転がり、ライフルを首筋に挟んだディアッカは、自画自賛
の賞賛をあげていた。作戦通り、前衛であるカナードがヴィータを足止めする中で、デ
ィアッカ・エルスマンは、ヴィータ目掛けて"黙々"と狙撃し続けていた。
 二キロもの超距離狙撃に関わらず、ディアッカの放つ銃弾は、まるで、意思を持って
いるかのように、ヴィータの死角目掛けて正確に飛翔する。
 カナードのナイフと連携するように、一つ、一つ、ヴィータの行動範囲を削り取って
いく。
『南、微風。距離2112.34m。角度そのまま』
「オーライ、バスター」
 脳内に直接響く電子音声に導かれるように、ディアッカは、女の体を愛撫するような
繊細な手つきで、引き金を引き絞る。驚く程静かな駆動音の後、7.62mm×54ラシ
アン弾型"麻酔"弾が、銃口から飛び出し闇夜に赤い軌跡を引き飛翔していく。
麻酔弾と言っても通常の物とは威力も規格も違う。数ミリグラムで象をも即座に昏倒
させる、Dr.シホの特別製だ。
 緋色の一族が、いかに強靭な肉体を持っていようとも足止め位は可能のはずだ。
 そして、そんな規格外の弾丸を撃ち出すのだ。ディアッカが使う狙撃銃もまた普通は
無かった。
 ドラグノフ---通称"SVD"
 名銃と名高くディアッカと共に死線を潜った相棒だ。
 基礎フレームと設計理念は据え置き、ディアッカのアイデアを取り入れ、キラ・ヤマ
トによりソフト・ハードの両方から徹底的に改良されたカスタム機だ。
 SVDのチェンバーから薬莢が排出され、ディアッカは再度弾丸を装填する。
 ディアッカが左目に力を込めると付近の地形や湿度、温度、目標までの弾道計算結果
が瞬時に右眼の網膜に投影されている。
 ディアッカの左目は義眼だ。普段は物を写さぬ金属の塊だが、一度戦いの狼煙が上が
ると、ディアッカの左目は、比喩では無く本当の意味での鷹の目と化す。
 静止衛星軌道上にで相対停止する"狙撃"専用衛星"バスター"から齎されるデータを網
膜投影しされる。ディアッカの首筋にインプラントされた"有線"は、ディアッカとドラ
グノフを物理的に直結させ、文字通り一心同体となる。
 有線からドラグノフに流れる情報は、バスターから齎される情報だけはない。ディア
ッカの血液の流れ、骨の軋み、微細な新陳代謝、それこそ人類が持つ超直感"勘"と言う
概念すらも愛銃に伝え、ドラグノフ内に搭載された感覚AIが機体に最適な体勢を補正
する。
 トライアルシステム。
 衛星、人間、銃器を一つに繋ぐ事によって、三位一体とも言うべき神業とも言える狙
撃を可能した技術だ。
 本来宇宙から飛来するスペースデブリを撃退する為の技術だが、人道的観点や体を半
サイボーグ化する行為に世論の反対に押し切られ封印された過去を持つ。
 ディアッカ・エルスマンは、トライアルシステムを身に宿したインプラント第一号だ
った。
「グゥレイトー!」
 狙撃とは精神と肉体を極限まですり減らすデリケート極まりない作業だ。だが、ディ
アッカは、興が乗ってきたのだろうか。先刻の繊細さが嘘のように、まるで、可愛い女
の子をナンパするような気さくさで陽気にドラグノフの引き金を引き絞る。
 また一つ、闇夜に赤い軌跡が引かれ、ヴィータは、弾丸をハンマーで弾いた。ディア
ッカの義眼は、その様子を鮮明に捉え、乾きもしない潤った唇を一舐めする。
「やっぱ、俺って天才?」
 機械の助けがあろうと、道具とは使う人間次第である。技量に劣る人間を引き上げる
為の道具と言う考え方もあるが、ディアッカに関してはそれは当てはまる事はない。
 ディアッカは、一身上の都合で辞退こそしたが、オリンピック代表の座まで上り詰め
た肩書きを持つ。そんな男が、何故オーブの私設武装組織"ブルーコスモス"で腕を振る
うのは本人にしか分からない。
 有機体と非有機体の相性が抜群に良いディアッカは、人間の限界反射速度0.011
秒を超える速度で銃器と同調出来る稀有な才能を持つ。
 ディアッカの腕とシステムの精密さが加われば、文字通り針の穴を通す程の精密狙撃
を可能とする。
「ディアッカ・エルスマン!再び狙い撃つぜ!」
 こちらもカナードに負けず劣らず色々と全開なディアッカだった

「どうした鉄槌!動きが鈍いぞ」
「ふざけんな!」
 ヴィータは、カナードの斬撃を忌々しげに打ち払い、怒りの咆哮を上げる。
 カナードのナイフの軌道は、ナイフ格闘術と言うよりも日本舞踊の舞に近い。水のよ
うに流麗な剣筋は見る者を魅了し、緩急を付けた斬撃は、相手に攻撃のリズムを掴ませ
ない。
 ヴィータが、炎のような苛烈な打撃と繰り出せば、水のように柔らかな剣筋で受け流
し、かと思えば、濁流のような激烈な打ち込みを左右からタイミングをずらしながら連
続で打ち込み続ける。
 まさに、暖簾に腕押しとはこの事なのだろう。
 カナードのナイフ術は一定の型を持たない。絶えず変動する水の流れのように、相手
を包み込むように姿形を変え一瞬の隙を突き牙をむく。
 だが、決定的な斬撃を打ち込むことはせず、まるで、時間を稼ぐように、のらりくら
りとヴィータの打撃を二本のナイフで受け流し続けていた。
「何故あたしの邪魔をする!」
 カナードの待ち一辺倒の戦法に嫌気が差したのだろう。ヴィータは、カナードのナイフ
払い吐き捨てる。
「さてな、俺の雇い主に聞いてくれ」
 カナードは、重機の陰で荒い息を付き、こちらの様子を慎重に様子を伺うシン・アスカ
を見つめ溜息をつく。怪我はしているようだが、命に別状は無さそうだ。さっさと逃げれ
ば良いのに、シンは腰が抜けてしまったのか、左腕を地面に放り投げ、脱力したように戦
闘の様子を見つめている。
(いや、逆に狙撃を警戒しているのか)
 カナードは形式上シンを助けているが、シンから見れば、ヴィータもカナードも得体の
知れぬ相手には違いない。カナードが、シンの命を狙っている相手と戦っているからと言
って、自分の命が狙われない保証はなく、無理に肩入れすれば、ミイラ取りがミイラにな
りかねない状況で"待ち"の姿勢を取る考えも分からなくはない。
 しかし、カナードの個人的な見解を言わせて貰えば、シンにはさっさと現場から立ち去
って欲しいのが本音だった。
 シンが、居ては折角の仕込みも全力で使えず満足に戦えない。
 二人の実力は拮抗しているように見えるが実情は違う。
 変幻自在なカナードの剣筋に対し、ヴィータが、攻めあぐねているだけ、決定打を与え
られないのはカナードの方だ。
 相手は、鉄を砕く異能の人種だ。一度でも守勢に回れば、その瞬間喉元を食い破られる。
 だが、そんな事は百も承知だと、カナードは、上下左右とトリッキーな動きを多様し、
翻弄しながら思考の海に埋没していく。
 カナードが解せないと感じるのは、鉄槌の動きだ。カナード達は、オーブから齎された
確かな情報を元に国際空港に網を張っていたに関わらず、日本で何の後ろ盾も持たないヴ
ィータ達はあっさりと警戒網を潜り抜けた。
 オーブの情報部とインターポールが太鼓判を押した確定情報を鉄槌はあざ笑うかのよう
裏をかいた。
 どうやって世界最高峰と呼ばれるオーブの情報網を潜り抜けたのか、正直な話を言えば、
カナード個人が訝しがるだけでは済まない問題だ。
 鉄槌は船で密入国した挙句にわざわざ国際線で一度国外に出てから、再入国してシンの
住む街へと街へやって来ていた。
 全く意味の分からない行動指針だが、現にヴィータはカナード達の裏をかき先手を取る
事に成功している。
 勘と経験による洞察、もしくは全くの偶然と言う線も捨て切れない。
 そもそも、カナード達がヴィータを発見したのも偶然だった。高速道路のIRシステム
が、ヴィータ達の姿を捉えのは全くの偶然だったし、その情報を張り込みに飽きたディア
ッカが見つけたのもまた偶然だった。
 偶然が偶然を呼んだ結果が今の現状なのだろうか。
 だが、その偶然のお陰でヴィータを発見出来たのも事実であり、時間が無さ過ぎて支部
に増援を要請する暇も無かったのも、また事実だった。
 ここまで、お互いに対して偶然が続けば、カナードは自分達が釈迦の手の平の上で回り
続ける猿だと錯覚しそうになる。
 カナードは釈然としない物を感じながらも、今は眼前の敵に集中するのが先だと邪推を
頭の隅に追いやった。
「ちょろちょろと!」
 カナードの頭上を暴風にも似た衝撃が通過していく。ヴィータの鋼のように重い一撃は
一撃食らえば絶命は必死。至近距離を通過するだけでも脳震盪は避けられない。

(やはり、俺一人では分が悪いか)
 ディアッカのアシストが欲しい所だが流石は鉄槌。数度の狙撃でディアッカの射角を割
り出し一瞬で死角に回りこまれ狙撃を潰されてしまった。
 これでは、ディアッカの狙撃は期待出来ない。ディアッカがバスターの恩恵を受けてい
ようと、分厚い壁に阻まれたヴィータの前では無力だ。
 戦況はまさに最悪一歩だと言うのに、意外な程カナードの表情は獲物が悪戯にかかるの
を待つ子供のように明るい。
「ここまで作戦通りだと神の手を疑うな」
「なに!」
 カナードは、頃合だとばかりに視線を伏せ静かにほくそ笑む。
「ロムテクニカ、開放(リリース)」
 ロムテクニカ内に内臓されたAIがカナードの声門を瞬時に判断認証し、柄に内臓され
たモーターが駆動し高圧ガスが噴射され、超振動ナイフの"刃"先を秒速10m/sの高速でヴ
ィータ目掛けて射出される。
「スペツナズナイフ!そんな時代遅れのびっくり兵器で!」
 ヴィータは毒づき、空気を切り裂き高速で飛翔する刃先を迎撃しようとハンマーを振り
かぶる。
 びっくりどっきり兵器は、相手の意表を付き奇襲を仕掛けるのが仕事で、驚愕して貰わ
なければ商売上がったりである。
 カナードの突然の暗器の使用に、ヴィータは、獲物を賭けた神聖な戦いに水を刺された
ような渋い顔を作る。
 カナードは、ヴィータの動物のような本能丸出しの戦闘衝動に苦笑するが、相手に合わ
せる道理は無い。
 ヴィータの能力がカナードを上回っているのだから尚更だ。
 ヴィータが、ロムテクニカをびっくりどっきり兵装を揶揄したが、が威力は折り紙付だ。
 刃先が駆動部と分離している為、回転速度こそ落ちるが、一度回り始めた刃先は惰性に
よって回転し続け、暫く振動ナイフとしての効果を失うことは無い。
 超振動ナイフは、何も切れ味を増進させる為だけに回転振動しているわけではない。
 単純な話振動構造を持つ物体でも、体組織は容易に損傷を受け、それだけで人体に甚大
な被害を促す。
 カナードは、戦闘力を削る上でこれ以上の武器は無いと自負している。
 加えて、先刻まで"線"であった攻撃に目が慣らされた中で、突然"点"と化し迫ってくる
のだ。
 相手とってこれ程やり辛い事は無い。
 ヴィータの一振りで空気が爆砕し、次いで金属の破砕音が響き渡る。刃の横ッ面を殴打
されたロムテクニカがヴィータの一撃によって粉々に砕け散り、粉雪のように舞い散る。
 重ねて言うが、ハンマーとは超重兵器に分類される武装だ。たった一度の攻撃力は莫大
だが、攻撃速度はナイフに遥かに落ちる。そこに一瞬の隙が生まれるのをカナードは見逃
さなかった。
 カナードとヴィータとの間合いは約九メートル。
 ナイフ術で、ブルーコスモスでも五指に入る腕前のカナードにとっては、こんな距離は
無きに等しい。
 丹田に力を込め、カナードは一足飛びでヴィータに向け疾駆する。
 袖口からワイヤーガンが伸び、銃口から赤い液体ワイヤーが発射されヴィータの右肩口
に付着する。空気に触れた液体ワイヤーは瞬時に硬化を始める。
「固まれば硬化ベークライト並の硬度だ。右腕は封じさせた貰った」
「今度は密着して時間稼ぎか。大方狙撃野郎を待ってるんだろうが、生憎そうはいかねぇ。
ったく、テメェら正々堂々勝負出来ねぇのかよ!」
「それには同感だ。俺だってこんなやり方は性にあわん!だが、弱者には弱者の責め方が
あるのだ!」
 ヴィータが驚くのも無理は無い。パチとイオンが弾ける音が響き、鬱積した思いを爆発
させたようなイザークの声が響くと何も無い空間から突然巨大な何か現れた。
 大きさは軽自動車程度。丸みを帯びたずんぐりとした胴体からは、走行用の車輪のつい
た人間の胴体程もある太い足が八本伸びている。
 胴体後部には、大人一人がすっぽりと納まる樽のようなコクピットを背負い、丁度蜘蛛
が樽を背負ったようなフォルムをしていた。

「熱光学迷彩に思考戦車だと!テメェら結局力押しかよ!」
 光学迷彩を解き姿を現したペイルブルーの異形にヴィータは悪態を付く。
 思考戦車とは内部に人工知能を持ち、自ら思考し行動する小型戦車の俗称だ。
 豊富なオプションに戦車とは思えない優れた機動性を持ち、電子戦をも可能にするオー
ブ軍、ブルーコスモスの主力陸戦兵器である。
 本来オーブの思考戦車はダークグリーンに統一されているが、イザークは自身のパーソ
ナルカラーであるペイルブルーに染め上げ運用している。
「貴様相手だ。四の五の言ってられんのでな。ここは強引に押し込ませて貰う。行くぞデ
ュエル!行動開始だ」
『オーケー!イザークさん』
 子供のような電子音声が響き、デュエルと呼ばれた思考戦車のAIが会戦を告げた。
 機体下部に装着されたチェーンガンが、唾競り合いのまま硬直するカナードとヴィータ
目掛けて銃弾を連射する。
「貴様、俺まで殺す気か!」
『ダイジョウブですよ。ジツダンじゃなくてボウトチンアツヨウのゴムダンですから。シ
ャゲキソフトのコウジョウでディアッカさんいじょうのセイドでピンホールショットでき
るようになりました』
「抜かせ」
 ひらひらとマニュピレーターを振るデュエルにカナードはうんざりとしながら、再度ヴ
ィータに向き直る。
 鉄槌とこれだけ密着しているに関わらず、デュエルの言うとおり、あまり命中精度の高
くないチェーンガンで、カナードの方に一発も流れ弾が向って来ない。
 デュエルから撃ち出される銃弾は、暴徒鎮圧用のゴム弾だが、当れば成人男性がその場
で悶絶するほどの威力だ。
「あだだだだだだ」
 だと言うのに、ヴィータは、ゴム弾をBB弾程度の痛みにしか感じていないのか、断続
的に襲ってくる痛みにも時折顔を顰める程度で大して効いていないように見えた。
(追い込んだつもりが逆に追い込まれてか…さて、どうするよ、あたし)
 前門の思考戦車、後門の狙撃。ナイフ使いの挙動は読めたが、まだ奥の手を隠している
風に思え、迂闊に行動するのは憚られた。
(手詰まりはあたしか…)
 獲物を前にはしゃぐのは三流の証拠らしいが、長年追い求めた希望が目の前で居るのだ。
 鴨が葱を背負って来た状況で浮かれない馬鹿は、ヴィータにして見れば何処か精神が病
んでいるとしか思えない。
(調子に乗って少々派手に騒ぎ過ぎたか)
 オーブの刺客が現れたと言う事は、日本の警察にもヴィータの存在が知られたと言う事だ
ろう。例え武装警官が幾ら来ようと、鼻歌交じりに切り抜ける自信はあったが、そうそう巧
く事は運ばないだろう。
 訓練を受け統率された人間とは言うのは、どれだけ実力差が開こうとも戦い難い事には変
わらない。
 特に数が揃えば、それだけで押し切られる可能性もある。
 しかし、ヴィータが危惧しているのは、カナード達やいずれ来る警察達では無い。
 オーブが、警察が動くと言う事は、それは即ち"奴ら"が動く事を示唆していた。
 蛇のように狡猾で執念深く、身の内より溢れる妄執と言う名の狂気に犯された老人。
 プロジェクトFの推進一派にして、オーブの覇権を握る一角。
『逃げてヴィータさん!あいつらが、あいつらが来る!カタケオ、蠍の心臓が!』
 ヴィータが暢気にも思考の海に沈もうとした時、エリオとキャロの絶叫が迸った。