SCA-Seed_平和の歌◆217 氏_第07話

Last-modified: 2009-01-22 (木) 21:59:36

 モニターの中で、二つのフラスコが時を止めていた。
 宇宙は真空で、ラグランジュポイントは複数の天体が持つ重力の均衡により、ほぼ完璧
な無重力状態を保っている。コロニーは遠心力により、擬似的に重力を作り出す。長径6
㎞を超える巨大な構造物を回転させるのは大仕事だが、一度適正な回転周期さえ得てしま
えば、後は放っておけばいい。寧ろ、回転を止める方が余程厄介だ。
 目の前で、廃棄コロニーが眠っている。回転を停止させてあるのは、当然、効率とかけ
離れた所に理由が有る。プラントの統一も治安も全く不安定な物だ。放置しておけば、ゲ
リラや犯罪組織の拠点と化す恐れが有る。
 バベルの塔の逸話が頭を過ぎった。誰でも知っているだろう。天まで届く塔を建てよう
として、神の怒りを買った人々の話だ。
 思うに、彼の地の人々は幸せだった。塔が天に届く前に、神様が壊してくれた。プラン
トは神様が呆れ返っている内に天へと届いてしまって、もう、誰にも地上に降りる方法は
分からない。

 

 地上の人々は罰として言葉をバラバラにされ、その御陰で多様な文化を生み出した。
 塔の上では、同じ言葉を話す人々が、今も争い続けている。
 凍て付いた空の中で、飴色の光が襞を作っていた。
 足下に埃が舞った。塩素とクレゾールの匂いがする建物は、どれもこれが白く塗られて
いたが、それでもプラントの住宅街よりは余程個性的だった。誰からも尊重され、擁護さ
れて育った、鉄火場では何一つ通用しない意味合いでの個性だ。古びた銀塩フィルムみた
いに白々しい光が、壁と言う壁にこびり付いていた。
 人間に見捨てられた街は、ブリキのマグカップやハードカバーにとりつく、妖精達の踊
り場だった。それも、何時のことかは分からない。躍り疲れた妖精達は、呼吸を諦め、沈
殿した時間の中に溺れていた。
 溺れているのは、雑貨ばかりじゃなかった。

 

「またかっ!あんたって奴は!」

 

 手にした噴射機の生む反作用が、俺を頭上に放り上げた。細い手首を掴んだ時、無性に
腹が立った。特別に鍛えている訳でも無い、柔らかい体を、男に仕立て上げられるなんて
考えた、どこかの誰かの無思慮が腹立たしかった。
 着地。とは言え、ベルクロが張ってある訳じゃない。このコロニーで上下をはっきりさ
せたければ、高圧ガスの噴射機で体勢を整える必要が有る。

 

「す、すみません」

 

 言った時には、もう体が横になっていた。ピンクブロンドの18歳が手にする噴射機は、
スカートを抑える役割しか果たしていない。
 ロングスカートの裙が、水中花となって揺れた。脹ら脛まで丈が有るから、注意してさ
えいれば、無重力下でもそれほどの心配は要らない筈だ。だけど、個室で溺死する様な人
間が、二つ以上の物事を一度に考えられる訳が無い。

 

「えーっと……」

 

 ゆっくりと噴射機を巡らせ、姿勢を整えようとする。真っ白な膝が、スカートを割った。
熱中症でへばった冷房が青い息を漏らす、蒸し暑い事務所で見慣れた筈の部位が、スカー
トの下から現れると、妙に艶めかしく見えた。予め用意されていた服?宇宙船にスカート
を常備?サイズはぴったり?なるほど、我が社長は慧眼だ。もう少し、着いて行っても良
いかも知れない。

 

「どこ見てるのっ!」

 

 いきなりだった。高圧ガスが目を潰し、鼻の中を殴りつけた。

 

「えっ!きゃっ!」

 

 赤毛の罵声が、逆時計回りの女学生をパニックに陥れた。二発目は喉の奥に飛び込んで
呼吸を潰した。

 

「きゃーっ」

 

 咳と涙の向こうに、噴射機を人に向けてはいけない、と言う常識を忘れたピンクブロン
ドがすっ飛んで行く。

 

「いい加減にしてくれっ!」

 

 空に沈んで行くスカートの中を追い掛けて、俺は地面を蹴った。

 

「どうも、すみません」
「いえいえ」
「どういたしまして」

 

 一度に一つの事も満足にこなせない相手を、どう扱えばいいだろう。答えは簡単だ。何
もさせなければいい。
 右にルナ。左にアビー。両側から仰向けに運ばれる女学生は、まるで水難事故の要救助
者だった。放っておけば溺死すると言う点で、両者は一致していた。

 

「ったく。不器用だな」
「あっ。そんな事無いですっ」

 

 誰にとも無く零した声に、手足のついた荷物が食いついた。手足が無い荷物より、数倍
厄介な御荷物だ。

 

「私、折り紙得意ですし。ホタテとか折れますし」
「帆立?」
「ええ。カニもタコも折れます」
「魚介類ばっかりだ。スシバーか。あんたは」
「別のだって折れます。この前、羽根鯨だって発明したんですから」
「やっぱ魚介類だ」
「羽根鯨は哺乳類ですよお」
「分かるもんか」

 

 三百枚の羽根で羽ばたくペーパーバックが、耳に吸い付いた。いやに、本が多い。元は
研究施設らしいから、そのせいだろう。

 

「シンさん、なんだか冷たい」
「気にしなくていいわよ」
「5割増しの人生に、諦めがつけられないんだわ」

 

 俺はトリガーを小刻みに絞って、背後の姦しさから距離を取った。
 社長はアレックスに手を引かれていた。一見若作りだが、それなりにいい年だ。無重力
下を自由自在に泳げるほど、中年男の脳と体は柔らかく出来ていない。

 

「一体、ここに何があるんですか?」

 

 社長に計画が有る。アレックスはそう言っていた。目的地に着けばなんとかなる、と。

 

「ノートを探しに来た、と言ったら?」
「ノート?端末の?」
「手書きのさ」
「今日日、そんなの使っている奴が居るんですか?」
「ラクス・クラインの古い知り合いが、その陰謀について記した物だよ」
「今なら差詰め、建国神話だ。そんな物が何の役に立つ、て言うんです?」
「冗談だ。我々は一つの機材を必要としている。ZAFTの監視から漏れているのは、こ
この物だけだ」
「その機材と言うのは……」

 

 アレックスの手が、俺の質問を遮った。

 

「まあ、待て。お前の疑問には、現地で全部答えてやる」
「確かに。その方が話が早い」

 

 それきり、社長は前に向き直った。
 背後では、黄色い声が花を咲かせていた。

 

「ふーん。ミニベロに乗ってるんだ」
「ええ。6インチの。軽くて、小さくて、便利ですよ」
「それ、遅くない?自分で走った方が速いでしょ」
「あまり速いと怖いじゃないですか」
「段差や速度を考えると、16インチは欲しいわね」
「段差は一度降りればいいですし」
「私はバイクがいい。自分で漕がないといけないの、面倒臭い」
「貴女はその方がいいかも知れないわね。自動なら、速度違反で捕まる事も無いでしょう
し」

 

 通勤用の自転車をあれこれと悩んでいたサラリーマンが、なんだか懐かしくなった。今
後、社長はどうするつもりなのだろう。偽造IDを調達してプラントに戻るつもりか――
――社長が提案した依頼人の変装は、誰一人騙す事が出来なかった。整形しても、いつD
NAから特定されるかと言う怖さが残る。なら、地球に降りる?プラントの影響力が薄く
て、コーディネーターが生きていける地域なんて、どれくらい有る?大抵の国はプラント
に睨まれた途端、“自由の敵”を放り出すだろう。大西洋連邦ならプラント相手だって意
地を張ってくれるだろうけど、あそこじゃコーディはコミーと同義語だ。
 雑貨を払い除けた時、何かが俺を追い越した。一つ。二つ。三つ目を捕まえて見る。
 ペーパーバックの1ページが、奇妙な形に折り畳まれていた。ハロー、ハロー、こちら
プラント。このメッセージが俺宛で無いのは間違いない。
 髪に何かが絡んだ。後では、スカートを穿いた18歳が、ぺったんこなお腹の上で、ヒ
トデの養殖に追われていた。左右から伸びる手が、それを次々放るものだから、幾ら作っ
ても追いつかない。無重力下における種々の発見や、初期のプラントでの生活のあり方を、
ごく軽い筆致で纏めた本のなれの果てが、手裏剣に化けて、あまり役に立たない知識を俺
の頭に刺し込んだ。

 

「よせよっ」

 

 俺は噴射機で迫り来るヒトデの群を払い落とした。失敗だった。高圧ガスの生み出す推
進力が、俺の後頭部を水酸化カルシウムの塊に叩き付けた。
 今日も厄日だ。

 
 

 そこは、高度遺伝生殖医療研究所と言う長ったらしい名前の建物だった。禁断の聖域、
遺伝子研究のメッカ、コーディネーター発祥の地。円筒形に、大仰なばかりの二つ名は、
パテとバンズを積み上げられるだけ積み上げた、背高のっぽのハンバーガーを思い起こさ
せた。広告かメニューになら幾らでも見掛けるが、現実にはどこにも存在しない。萎れ、
潰れた姿を晒して、若者に失望と粘土細工を喰らわせる。

 

「コロニー・メンデルか」

 

 漸く、ここがどこか分かった。

 

「バイオハザートが起きた所じゃなかったですか?」
「X線で消毒されている。今は無害だよ」
「それじゃあ、データなんて消えてるでしょう。機材だって無事とは思えない。一体、何
の用が有ってここに来たんです?」
「安心し給え。動作は確認してある」

 

 破れた屋根から温い光が落ちて、照明と入り交じった。電気は生きている。だが、満足
にシールドも施されていない精密機器が、X線の洗礼に耐えられる物だろうか。それとも、
社長が復旧したのか。だとしたら、年甲斐もなくノースリーブを来た中年男は、かなり早
い段階から、この事態を想定していた事になる。
 研究所は蟻の巣だった。それぞれ違う女王アリを奉じる群の巣が入り組み、混じり合っ
て生まれた蟻塚の全貌は、案内図を見ても把握が困難だった。機密として、何一つ記載さ
れていないブロックが有るとなれば尚更だ。
 その中を、社長はアレックスにあれやこれやと指示を与えて、迷うこと無く進んで行く。

 

「よく、道が分かりますね」
「昔、勤めていた場所だからね」
「そうだったんですか」
「もう10年以上も前の話になる」

 

 大抵の研究員は、自分に関わりのないセクションについては、なにも知らない。知らさ
れない。だが、社長は殆どの設備について精通している、と言う。勿論、機密の壁が、若
き日の社長一人に、笑顔で胸襟を開いた訳が無い。こっそりと調べたのだ。

 

「好奇心、て奴ですか?」
「知っておく必要を感じたのだよ。いずれの為にね」

 

 二人は足を止めた。アビーとまだ首が完調では無いルナが、大荷物を抱えて到着する
まで、さしたる時間はかからなかった。仮に追っ手が在ったとして、この迷宮を当てにす
る事は出来そうも無い。俺達が通った後には、ノートや本の切れ端を材料したスシのネタ
が、整然と列を作っていた。
 社長はコンソールに手を伸ばした。三つのキーコードに、三重の扉が息を漏らす。
 中は暗かった。計器と小さなディスプレイの群だけが、低血圧な光を放っていた。

 

「ここが、女王蟻の部屋ですか?」
「うん?……なるほど、女王蟻の部屋か。言い得て妙だ」
「蟻の巣みたいですからね。この建物」
「ここは確かに女王蟻の部屋だよ。紛れも無く、ね」

 

 広大な空間が、唐突に出没した。大聖堂みたいな広間と、ステンドグラスの輝きで信者
の目を奪う巨大な集積回路の塔が、背後の通路が穴蔵だったと教えてくれた。
 ここが、目的地らしかった。

 

 “塔”は手摺りで囲われていた。その天辺が、陽光の中へと伸びているのだとしたら、
反対は奈落の底まで通じていた。手近に漂うマグカップを放って見たが、反応は期待出来
そうも無かった。

 

「なんです。ここ?」
「言ったろう。女王蟻の巣さ」
「随分と馬鹿デカい蟻も居たもんですね」
「宇宙に住む蟻だ。遺伝子を最適化され、資源衛星に巣くう蟻だ」
「ラクス・クラインでも作るつもりですか?」

 

 サングラスの向こうで、社長の目尻が皺を作った。一見の店で、15:1のドライ・マ
ティーニを見付けた目だ。

 

「君は思いの外、鋭いな」

 

 合成革の靴がしっかりと地面を掴んだ。本格的なロードレーサーに跨りながら、白線に
も蹴躓く6インチ乗りと一緒になって、サイクリングの予定をポタリングに書き換えて来
た中年の脚も、AGが停止したコロニーでは十分に力強く見えた。

 

「確かに、ここはラクス・クラインが生まれた場所だよ」
「どう言う事です?」

 

 キラ・ヤマトがスーパーコーディネーターとか言う代物なのは知っている。多分、企画
書を書いた研究員は、前日に財布を落としたか、散々貢いだ女に棄てられでもしたのだろ
う。

 

「お前はプラントに来て数年だから、分からないだろうが……」

 

 社長に代わって、アレックスが説明を始めた。
 コロニーの建設から月日が経つにつれ、宇宙に住むコーディネーター達は、理事国から
の独立を考え始めた。初期の投資と開発に切りが付いてしまえば、宗主国の干渉を煩く感
じ始めるのは世の常、人の常だ。
 プラントがそうした常と事情を異にするのは、理事国が複数国に跨っている点だった。
独立して地球諸国と相対するには、国家の統一と中央集権体制の樹立が不可欠だが、理事
国との関係も事情も異なるコロニー群が統一勢力を形勢するのは無理が有る。
 プラント各市、各コロニーは理事国の離間策一つで簡単に分裂し、相争った。プラント
統一と独立を目指す自由条約黄道同盟は、共産主義政党の常で反革命分子の弾圧と虐殺に
走り、市民の心も次第に独立から離れて行った。

 

「士官学校で習った歴史と大分、違うみたいだけど……」

 

 言ってから、当たり前だと気付いた。自国の暗い歴史を好んで語り継ぐ国家は存在しな
い。まして、共産主義者にとって、革命成就の為の嘘は、必要悪ですら無く、推奨される
べき善行だ。

 

「そんな状態で、よく独立出来たな」
「地球諸国がコロニー市民を見捨てて、自由条約黄道同盟に売り渡したからな」
「どう言う事だ?」
「連合軍の派兵が共産主義国家の拒否権により否決された。唯一、独力で動けるだけの力
を持つ大西洋連邦は、当時、容共政権だった」

 

 なるほど、要はZAFTに逆らったら、生きていけない状態だった訳だ。
 でも、それだけだろうか?
 心の中で、数年前にプラントへ移民した地球人が首を傾げた。どんなに取り繕った所で、
全体主義共産国家には暗い影が付きまとう。東アジア共和国の大陸側じゃ、口で熱烈に愛
国心を叫ぶ人々が、腹の底には犬に生まれ変わっても、東アジア人よりはマシだと言う本
音を飲んでいる。
 だが、プラントでその手の暗さにお目にかかった事は無い。

 

「もう一つ。コーディネーターの殆どが、心を一つにして独立を望む様になった」
「そうなる、何かが有ったって事か」
「彼等は女王を得た。ラクス・クラインと言うな」

 

 まるで、自分がプラント・コーディネーターでは無い様な言い種だった。

 

「あの女が政権を執ったのは、ついこの前だろ?」
「TVに初登場したのは、子役の頃からだ。気付いた時には、プラントの全市民が、年端
も行かぬ幼女を歌姫と呼んでいた」
「それが、どう市民の統一と関係するんだ?」
「ラクスの歌声には、コーディネーターに対する洗脳作用が有る」

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。いや、分かりたくなかったのかも知れない。
 背筋を冷感が撫で、米神の拍動が半ば凍ったゲルに変わる。洗脳作用?質の悪い冗談だ。
そう思いたかった。だけど、ラクス・クラインの呼びかけ一つで寝返ったZAFTの軍人
達が、冗談で革命をやっているとも思えなかった。

 

「さて、この研究所がバイオハザートで壊滅したのは凡そ5年前だ。事故と言う事になっ
ているが……」

 

 アレックスの後を、社長が継いだ。

 

「シーゲル・クラインは傘下の派閥が生み出した成果を十分に確認していて、その成果が
損なわれる様な事態は好まなかった」
「遺伝子調整の新しい技術が生まれるのを恐れて、破壊した、て事ですか?」
「そう言う事だ」
「そん時はもう、出生率の問題とか分かってた筈でしょう」
「だから、議会には秘密だ。取り分け、ザラ派にはね」

 

 信じられない話だった。要するに、シーゲル・クラインは自身の権力と、プラント・コ
ーディネーターの未来を交換したのだ。穏健派?ナチュラルとの協調派?ニュートロンジ
ャマーを無差別投下した男が?そんな疑問も、自ら選択肢を潰したが為の、仕方無しの行
動と考えれば説明がつく。

 

「一つ、宜しいですか?」

 

 何かを言いたかった。何を言っていいのか分からなかった。二つの拳の中で、二つがぶ
つかり合っている時、アビーが控え目に切り出した。

 

「シーゲル・クラインの専攻は遺伝子関係では無かった筈ですが?」

 

 可能性の無い所から、発想を掘り起こして来る政治家は居ない。シーゲルは遺伝子の専
門では無かった。なら、コーディネーターを統べる女王蟻なんて可能性に気付き、吹き込
んだ誰かが居る筈だ。
 女王蟻の卵だろうか。その制御装置だろうか。社長は集積回路の尖塔を見つめていた。
ウィスキーグラスの中に人生を探す男の背中だった。
 社長は現実に振り返ると、言った。

 

「君は、ギルバート・デュランダルと言う人物を知っているかね?」

 

 唐突な一言だった。振り向いた先と、俺の頭の中で、18歳の水瓶座が訳も分からず左
右を見回していた。
 反応は半々に分かれた。ルナとアビーは、黙って社長を指差していた。

 

「えーと……ミスタ・ギルのフルネームは、アフランシ・ギル・バート・デュランダルさ
ん?」
「んな訳あるか」

 

 そんな欧州貴族を気取ったつもりのイカれた名前なんて、オーブの氏族だけで十分だ。

 

「私はアフランシ・ギルだ。それ以上でも、それ以下でも無い」

 

 社長の手が、サングラスに伸びた。その下の素顔を見た記憶が無い事に、俺は初めて気
付いた。若い女の子が集まる自転車の愛好会で、目線の行く先を隠しながら生きて来た人
だ。不精と虚飾を間接照明の中に溶かしたバーの中でさえ、サングラスを外さなかったか
らと言って、何の不思議も有りはしない。
 不思議なのは、その顔だ。

 

「……そう言いたい所だが、そうは言ってもおれまい」

 

 頭の裏側で、俺そっくりの声が息を飲んだ。サングラスの下に覗いた顔は、よく知って
いる人物にそっくりで、彼に双子の兄弟が居ると言う話は、ついぞ聞いた事が無かった。

 

「シンさん、何か驚いてる……お知り合いですか?」
「て、あんたっ!自分の所の前議長の顔も覚えていないのかよっ!」

 

 そう。そこに立っていたのは、前プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルそ
の人だったのだ。

 

「知りません。私、別の方に投票しましたし。省エネを推進する為、自転車に補助金を出
して下さる、てお話でしたから」
「駄目な奴だな。あんた」
「あっ酷い!シンさんこそ、ちゃんと選挙に行ってるんですか?」
「俺がこっちに来て最初の選挙は、ラクス・クラインの信任投票だよ!御陰で三ヶ月は武
装警察が張り付いてた。おまけに、何故か支持率は100%だったんだっ」

 

 俺は何に驚いていいのか分からなくなった。社長の正体にか?自国の前首相も知らない
スイーツポテト頭にか?衝撃の事実に驚いた素振りも見せない、いやに白けた瞳をした二
人組か?一つを選び取るより早く、新たな事実が棍棒の硬さと重さで俺の心臓を殴りつけ
た。
 アレックスが、サングラスを外した。
 頭の奥で、氷の風船が膨れた。鼻の付け根は頭の熱を吸い上げて火が点いた。全く、信
じられない光景だった。

 

「レイっ!」

 

 サングラスの下から現れたのは、二度と見る事は叶うまいと諦めていた、友人の顔だっ
た。
 今、自分がどんな顔をしているのか、よく分からなかった。何を言いたいのかも分から
なかったし、何も言えそうも無かった。生まれてこの方、俺は今日ほど神様に感謝した事
は無かった。
 レイには別の意見が有る様だった。

 

「やはり、気付いていなかったか」

 

 背筋を、冷たい風が過ぎった。首が知らずの内に回った。俺が目尻に涙まで貯めて破顔
していると言うのに、ルナもアビーも、揃って気の毒な人間を見る目しかしていなかった。
議長の目線はどこでも無い、ただ俺が居ない方向へと向けられていた。ピンクブロンドの
彼女が浮かべる笑みは、観る番組も無いのに点けられたTVみたいな物だった。

 

「そんな事は無い」

 

 俺はそう言った。

 

「理由が有って正体を隠していると思ったからさ。フリだよ、フリ」

 

 そう言いたかった。色とりどりだが、温度はだけは全く変わらない三つの目線が、それ
を許してくれなかった。
 プラント移住直後、入軍の手続きを進めていた時の出来事を思い出した。
 空きっ腹を抱えて歩いていると、いきなり腹に穴が空いた。バラバラになった視野の一
つに、ドス黒い液体が張り付き、その感覚が決して錯覚では無いと教えてくれた。
 不幸中の幸いだったのは、蹌踉け、倒れる先に人が居て、すがりついた男が、医者の卵
だった事だ。胃か十二指腸の穿孔。男はそう、診断した。
 俺は道路の脇に転がった。新品のシャツに真っ黒なシミを付けられた医学生を除き、誰
一人見向きもしなかった。救急車はなかなか来なかった。穴の空いた消化器が鉛の重さで
ぶらさがる肺を必死で動かしながら、俺は目の前の車道に、今、工場で組み立ての真っ最
中じゃないかと疑いたくなるほど遅い、白い車が到着するのを待った。
 声をかけられたのが、どれくらい後の事かは分からない。おかげで、千切れかけた意識
が繋がった。

 

「どうしで、まだこんな所に居るんだ?すぐに病院に行った方がいい」

 

 例の医学生だった。生まれてこの方、病気らしい病気をした事の無かった俺には、信じ
られない言葉だった。

 

「……救急車」
「何を言っているんだ。君はまだ歩ける。病院に行けば助かる。このままでは、歩けなく
なる。助からない。簡単な理屈だ。分かるだろう?」

 

 俺はこの国のルールを、身を以て理解した。ZAFT党員ならいざ知らず、国籍を持た
ない永住希望者、外貨を持っていない外国人の為に動かす救急車など、プラントのどこに
も有りはしなかったのだ。
 俺はもう一度、廻りを見回した。誰も俺と目を合わせようとしなかった。壁を伝い、地
面を這いずり、病院に転がり込む。待合室で待つ事三時間。天井を相手に視力検査の片手
間、人生の意味について語り合う羽目になったあの時だって、これ程の孤独感を覚えはし
なかった。

 

「……悪い」

 

 結局、それだけ言った。

 

 議長が両手を翳して、元の話題を一座の真ん中に放り込んだ。

 

「私がまだ紅顔の美少年で、駆け出しの研究員だった頃の話だ」

 

 ここで咳を一つ。肝心の部分を無視されて、厚顔の中年は少し寂しそうだった。
 コネと金と持ち前の頭脳と、清濁問わず、あらゆる手段を用いて研究所に忍び込んだ未
成年の学生は、一つの発見をした。遺伝子調整に際して殆ど例外無く加えられるマーカー
の中に、情動を左右する性質の物が有る。これを利用して、コーディネーターの心理を外
的に操作する事が可能ではないのか……。
 少年は躊躇わずに、その発見を派閥の先輩研究員に報告した。純粋な知的興奮もあった
が、何より、プラントに平穏をもたらす可能性を見過ごす事が出来なかった。例えそれが
機械的洗脳による物にしても、粛正と弾圧と血みどろの権力闘争が相次ぎ、地方コロニー
をゲリラの恐怖政治が支配する現状よりは、余程マシと考えた。
 最初、先輩達は見向きもしなかった。それ所か、研究所は勿論、党からも排斥される恐
れが有った。市民を洗脳する装置を作り出し、権力奪取と統治に利用する。それは、あら
ゆる既存道徳から自由であるべき革命家にとっても、おぞましい悪魔の発明だった。
 状況を一転させたのは、派閥の総裁たるシーゲル・クラインの鶴の一声だ。

 

「それで作られたのが、ラクス・クライン、て訳ですか」
「そう言う事だ」
「そして、クライン派はラクスを利用して政権を握り、独立を果たし、その挙げ句に、当
のラクスに裏切られた」

 

 随分、皮肉な話だと思った。俺も皮肉な気分だった。事情は分からないでも無いけれど、
だからと言って気持ち良く聞ける話じゃなかった。

 

「“当の”では無いよ」

 

 ここまででも十分不愉快なこの話には、まだ続きが有るらしかった。
 人体を覆う神秘のヴェールを一枚残らず剥ぎ取ったコーディネーターだが、だからと言
って、一切の病を駆逐出来た訳じゃない。あらゆる文明を超えた新世界の治安にしたって、
ゲリラが横行していた当時が、今よりマシだったとは思えない。それこそ、東アジアの大
陸側で、生活の為に血液を売ったり、物乞いの道具にしようと子供の利き腕を切り落とす
連中が道路のあちこちで寝そべる、そんな街と大差が無かっただろう。今、この瞬間、暴
走トラックが突っ込んで来ない、麻薬に頭をやられた男がサタディ・ナイトスペシャルを
振り回さない、放火魔が町の一ブロックを灰に変えちまわないなんて、誰が保証出来る?
そうじゃなくても、世の中、思い通りにいかない事なんて、幾らでも転がっているんだ。
たった一人の人間に、どうしてプラントの未来を委ねる事が出来るだろう。

 

「代わりが居る、て事ですか?」

 

 飲み込んだ唾液は、ルナが入れるコーヒーみたいに苦かった。
 だけど、疑問が残る。

 

「生まれたばかりの女王蜂が最初に果たす仕事は、他の女王候補を抹殺する事です。女王
は一人でなければならないのではないですか?」

 

 そう。アビーの言う通りだ。そんな生きた洗脳装置が複数居たら、間違いなく内紛と混
乱の種になる。

 

「だから、予備には手を加える。声を変え、顔を変え、里親の元で極平凡な人生を送り…
…だが、いざ必要となれば、すぐにでもラクス・クラインに戻る事が出来る」
「昔、あなたの傍に居たラクスの様に、ですか?」
「その通りだ」

 

 最初、目覚めたラクスは二人だった。一人はZAFTによるプラント統一に従事し、一
人は火星に送られた。
 所が、プラントのラクスは地球連合との戦争初期、事故により死亡してしまう。

 

「今のラクスは、その時に入れ替わった予備。言わば三人目。そして、戦後、議長の傍に
居たのが四人目……」

 

 ラクス・クラインは一体何人居るのか――――口から出掛けた言葉は、喉を押し開いて
腹の中に這い戻って来た。その言葉はウランの重さで腸を捩り、抉り出しでもしない限り、
二度と出て来そうもなかった。
 社長……いや、議長は言った。我々は一つの機材を必要としている。ZAFTの監視か
ら漏れているのは、ここの物だけだ。
 アレックス――――レイは言っていた。じき、分かる。何故、三人がこうした影響を受
けているのか。何故、この依頼人がクライン一派に追われているのか。

 

「ここまで話せば、もう気付いている事とは思うが……」

 

 多分、議長も俺と同じ感覚を味わっているのだと思う。だけど、見た目よりも無駄な苦
労と、経験と、年とを重ねて来た元政治家の胃腸は、俺よりずっと頑丈に出来ていた。

 

「君もラクスだ」

 

 議長は真っ直ぐに前を見据えた。そこには、元ミネルバのクルーを除いては、一人しか
居なかった。

 

                                       続