なんで?
海底で目を回す『同僚』を揺り起こし、巣穴に運び込み、寝かされるに至るその道程。
その間ずっと、『それ』の脳裏には疑問の言葉が無数に飛び交っていた。
なんで? なんで? なんで?
なんで、自分の同僚はこんな大怪我をしているのか。そりゃあ、一方的に怯えられるだけで親しかったわけではないが、それでも『それ』は彼のことを友達だと思っていた。
誰がやったのか。誰が、自分の友達をこんな風に痛めつけたのか。
怒りで、『それ』の瞳が真っ赤に染まる。比ゆ揶揄ではなく、本当に紅く染まっているのだ。
許さない。友達を苛める奴は許さない!!
今『それ』の脳裏にあるのはその一つのみ。蜜柑の事も、滅多に暴れるなという注意も、もはや遥か彼方に吹っ飛んでいる。
どこだ。どこにいる!? 友達を苛めた奴は!
怒りで灼熱した『それ』が海面を見回し……
海面に、船の船底を発見した。
「海軍だ! 海軍が来た!」
「……なんだって??」
本来ならば真っ先に気付くべき海岸に屯した人間達は、その歓喜の声で始めて海に現れた海軍船の存在に気が付いた。
……人間達はともかく、魚人であるはずのドニールまで今更気付くあたり、本当にこの男、アーロン一味の幹部とは思えない。緊張感なさすぎである。
ドニールが眉をひそめて水平線を見ると、確かにそこには、海軍旗(カモメ)のマークも眩しい一隻の軍艦がこちらへ向かっているのが見える。
続いて声の発生源を見る。そこにいたのは、ニット帽をかぶった一人の少年だったが……その顔を見て、ドニールははたと気が付いた。
「お前、ゴザの……?」
ドニールの記憶のそこに、その少年の顔は確かにあった。アーロンパークの前で、ナミにぶっ飛ばされたところを、ドニールが助け起こしたのだ。
立ち聞きしたところによれば、先日のゴサの町の生き残りで、魚人に殺された父親の敵討ちをしにきたとかなんとか。
生憎と、そのとき差し出された腕は叩かれた挙句、無視されてしまったが……今回は反対だった。少年は、傍にいたドニールを見つけると、勝ち誇ったように胸をそらし
「ザマぁ見ろ魚人め! これで、お前らやあの魔女も終わりだぞ!」
(見当違いもいいところなんだけどなあ)
相手の言葉にさしたる恐怖も抱かず、ドニールはただ嘆息した。本当に、色々な意味で見当違いな少年だと思った。
まず、ナミが魔女だというのがいただけない。
この少年は、ナミが自分を嘲笑いただぶっ飛ばしたと思っているようだが……否である。
彼女は、倒れた少年に対して、少なくない量のお金を渡しているのだ。彼女にとって、村をアーロンから買い取るための大切なお金の一部を、である。その血肉すら分け与えてくれたというのに……そのお金を、この少年は受け取らずに放り出していった。
訓練もしたことのない少年がアーロンに挑んでも殺されるだけだったろう事を考えれば、少年にとってナミは命の恩人である。その恩人を、少年は知らずに罵っている……
ポケットの中にある札束を取り出して渡し、真相を教えようかと思ったが、やめた。ナミが少年に感謝など求めていない事は明白であったし、自分よりも更にナミに深いかかわりのあるノジコが黙っているのに、自分がどうこう言う事はない。このお札は、蜜柑の代金と一緒に還しておけば良いだろう
……本当にアーロンに魂を売ったのならば、何度も暗殺騒ぎなど起こさないだろうに。
これは、アーロンと本人、居合わせることの多かったドニールしか知らない事実である。
第二に見当違いなのが、彼の父親の死の真相だ。
ぶっちゃけ、彼の父親を殺したのはアーロンではない。彼がアーロン以外の魚人に殺されるのを、ドニールは誰よりも間近で目撃していたのだから、確かな事だ。
第三に、あの海軍船がアーロンを倒せると思っていること。
これが、最も大きな見当違いだ。
「あの位置なら、岩礁動かすだけで終わるな」
ぽつりともらされたドニールの言葉を、シンは耳ざとく拾い、推測した。
――岩礁を動かす?
生憎、海洋学については無知きわまるシンだったが、ドニールの口調から彼が海軍を脅威と感じていないのはよく理解できた。まさか、岩礁でどついてあの舟を破壊するわけでもないだろうが……そもそも、その手段じゃ岩礁とは言わない。
……そうこう考えている間に、海面にはシンが必死で推測しようとしている手段の、その結果が現れようとしていた。
前進する海軍船の正面に、小さなくぼみが出来たかと思うと……くぼみは貪欲に周りの水を吸い寄せその体積を増していき、巨大な渦潮へと成長した!
「渦潮!?」
「ほら、な」
まさか、渦潮が起こるとは思っていなかったシンは、思わず演技を忘れて叫んだ。ドニールは肩をすくめて、
「強い流れの中に岩礁を動かすと、渦潮が出来るのさ」
――アーロンパークの難攻不落の正体はコレか!
アーロンパークを偵察したシンの脳裏に出来上がった、疑問という名の巨大な氷河。それが氷解すると、中から飛び出したのは予想も出来ない、出来るはずのない突飛な真相だった。
可笑しいとは思っていたのだ。いくらマンパワーが絶大だといっても、限度というものがある。軍事的に非合理極まりないアーロンパークを、ソフトウェアの力だけで持たせられるはずがない……何か、他に要因があるはずだと、シンは予測していたのだが。
魚人達は、その肉体ポテンシャルだけではなく、付近の海そのものを防衛兵器として使っているのだ! 何の備えも必要ないわけである。建物ではなく、海が防壁であり、城砦であり、大砲なのだから。
しかも、相手はその海面の状態を自在に操れる……!
「舵も破壊済みみたいだし、こりゃあいつら沈むなあ……仕事の速さからして、やったのはクロオビ達か。あ、クロオビってのはうちの幹部の名前ね」
愕然とするシンを尻目に、ドニールの説明は続く。
「うちの海賊団には、幹部が三人いるんだよ。チュウ、クロオビ、ハチって言ってな。それぞれがキスの魚人にエイの魚人、タコの魚人だ。チュウは水鉄砲の名手で、クロオビは魚人空手の使い手! ハチに至っちゃあ、人間には不可能な六刀流の使い手だ。
チュウとクロオビとはウマが合わないんだが、ハチとは気が合ってなー」
続く。
「いい奴だぜーハチは。ドニールのえさ一緒に調達してくれたり、あいつの甲羅磨くの手伝ってくれたり。何より、他の連中みたいに俺のことを軽く扱わないのがいい!
この間、あいつが作ったたこ焼き食わせてもらったんだが……いや、絶品だったね」
……続く。
「他の二人は……ま、それなりだな。親しくもねえし、あんまり話せる事ないんだわ。あ、そういえば! クロオビの奴、初対面でブロームに吹っ飛ばされてなー。それ以来、あいつの前に出るたんびに身構えてやんの! 笑えるぜー!」
……よく喋るやっちゃなぁ、オイ。
上記のはっちゃけたコメントが、シンがドニールに抱いた印象である。シンでなくても大多数の人間ならば同じ感想を抱いただろう。しかも、話が明後日の方向に脱線し始めている。
「あ、そうだ! お前さんがた、魚人が魚食わないとか先入観持ってるだろ? ところがどっこい、俺たちゃどっちかといえば魚のほうが好きでなー。ハチがたこ焼きや久野が得意なのも、そういう関係さ」
ドニールの無駄口が同僚達の食事の好みに流れ始めてから、シンは彼の口から有益な言葉が飛び出す事はないと確信した。放っておいてアーロンパークの機密でも聞き出そうと思ったのだが、この調子ではろくな情報は得られないだろう。
「……姉ちゃん、何、この魚人」
先程大げさにタンカを切った少年が、いぶかしげにノジコに問うた。なんと言うか、抽象的に過ぎる問いだが、それもしかたがないだろう。
彼の中の魚人という生き物は、人間を見下し蔑んで虫けらのように扱う輩なのだが……
ドニールはその先入観の枠を踏み外しまくっていた。
やったらフレンドリーな上におしゃべり。こんな魚人見た事が無い。そんな戸惑いが、そのまま形になったのがこの質問だった。
少年のあいまいな質問の意味を察し、ノジコは嘆息して、
「人畜無害なニシンよ……うざいけど」
本当にそうとしか言いようが無かった。
「ドニール、あんたは行かなくていいのかい?」
自分はその会話には関係なく、聞き手であるシンはあくまでおとなしく無駄口に付き合っている。それが分かっていてあえて、ノジコは話に口を挟んだ。
ナミつながりで少なくない親交がある彼女の経験上、放っておいたら夕暮れまで喋り倒しかねない。
「ん? 大丈夫だよ。俺これから餌やりだし」
ひょいと背中の蜜柑籠を上げる事で、ドニールはノジコの問いに答えた。そして、にかっと笑って少年の前にしゃがみこみ、
「坊主もどうだ? うちのブロームに餌やってみないか?」
「……ばっ、馬鹿にすんな!」
父親の死と故郷の壊滅でささくれ立っていた少年の神経に、ドニールの笑顔は少々刺激が強すぎたらしい。激昂して海を指差して、吼えた。
重要かつ、異常極まりないことを。
「海軍の船はまだ沈んでないんだ! まだ終わってない!!」
――は?
海岸に集った全員が違和感を覚えるような言葉だった。魚人たちが渦潮で海軍の船を沈めるのは初めてのことではなく、ある意味で場に集った者たちはその光景を見慣れている。
その経験から言えば、渦潮が出来てからドニールの軽口までで、船が沈むには十分すぎる時間が経過していたはずなのだが。
全員が思わず海に視線を投げたその瞬間。
ぶ ろ お お お お お お お お お お お お お お む っ ! ! ! !
怪物の咆哮が、大気を振るわせた。
時は少し遡る。
――おかしい。
ドニールが海岸線で無駄口を叩いていた頃。
海軍の船上で陽動役をしていたチュウはも、事の異常さに気が付いた。
三人で組んで海軍船を沈めるのは初めてのことではない。いつもならば、もう沈み始めても可笑しくない頃合だというのに……船は揺れる事をやめて静かに静止している。
(何かあったか?)
船べりに座り込み、自分を取り囲む船員達を眺めながら、チュウの脳細胞は化学反応を起こす。渦潮を前に船が静止しているというこの異常な状況が、何を示すのか。
チュウが船上の船員達の気を引いている間に舵を破壊し、クロオビとハチが海底の岩礁を動かす。アーロンパーク防衛を繰り返すに当たって完成した黄金のパターンに、初めて入ったヒビ。
ありえるとすれば、船が何者かに支えられている場合だが……この規模の沈もうとする船を支えるなど、人間には不可能だ。
(海軍に、魚人が?)
ありえない話ではないが……実際に見たほうが早い。
ひょいと船べりから身を乗り出し、船底を確認しようとして……
「んがっ……!」
その表情が、こわばった。
……チュウの立ち居地から見えたのは、紅く、巨大な腕が船底をつかんでいるという、アーロン一味にとっては慄くに値する光景だったのである。
「ま、まさか……!!」
元々青い顔を更に青くするチュウの想像を証明するかのように、『それ』は海中から姿を現す。
ざ ば ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ っ ! !
ぐらぁっ!
突如盛り上がった海面に、船が大きく揺れた。余りの揺れの大きさに、船べりに座っていたチュウまでもが体勢を崩し、甲板にひざを着く。
姿勢を立て直そうと、顔を上げたその先に……
化け物が、いた。
赤い甲羅に身を包んだ、巨人という表現が最も適切であろう。赤い二つの目に、ひとつのクチ。腕に付いた五本の指と、海獣というよりは人間に近い形をしている。
モームと同じサイズなのだが、その体に秘められたパワーは比べ物にならないレベルなのだと、チュウは知っている。
紅く、怒りで染まった相貌で海兵たちを睨みつけるその怪物の名は……
ぶ ろ お お お お お お お お お お お お お お む っ ! ! ! !
突如現れた怪物にパニックに陥る海兵達の悲鳴をかき消して。
海獣『ブローム』の咆哮が、天地を揺るがせる。
ブロームは、怒っていた。
こいつらが。
こいつらが、モームを苛めた奴ら!
確信も何もなく、思いつきだけでそう決めつけて。ブロームは、友達の敵を討つべく海兵達を睨みつけた。
そして、時は現在に戻る。
「ぶ、ぶろーむぅっ!?」
いきなり現れた相棒の姿に、ドニールは思わず素っ頓狂な声を上げる。ココヤシ村の住人達もその光景に目をむき、シンも思わず身構えてしまった。
「おい! 大人しいんじゃなかったのか!? どう見ても猛獣っぽいぞ!」
「猛獣言うな! ……一度癇癪起こすと手に負えないところがあるからな。あいつ、人間で言うと10歳児くらいだし」
「じゃあ、お前はその子供におんぶダッコの情けない奴か?」
「突っ込むなそこには! ともかく!」
ドニールは蜜柑籠をノジコに押し付けて、
「止めてくる! 預かっててくれ!」
叫び、海に向かって駆け出して、その勢いに任せて飛び込んだ。
瞬間……ブロームが動いた。
「お、おいっ!? 何する気だ!」
チュウの目の前で、状況は最悪の坂道に向かってどんどん転がり落ちていった。
自分の声が裏返っているのにも気付かないほどに、彼は動揺していた。
ブロームが怖いのではない、ドニールというブレーキのいないブロームが怖いのだ。
特に、目が赤いときは……! ブロームの目の色は感情によってころころ変わり、真紅の眼は怒りで我を忘れている証拠である。今まで、この状態のブロームのせいで何人の船員が吹っ飛ばされた事か。
チュウの裏返った声に反応したのか、ブロームはゆっくりと右腕を振り上げる……そこから想像できるブロームの行動は、唯一つ。
(お、俺ごと船叩き割る気かぁっ!?)
「じょ、冗談じゃねえ!」
「あ、紅い海獣……!? こいつがブロームかっ!」
「う、撃て! 撃てぇっ!!」
海兵の悲鳴と、指揮官の混乱した指示を尻目に、チュウはさっさと海に飛び込んだ。ブロームに対する心配は全くしなかった。
魚人でも全く歯が立たないあの怪物を、人間風情にどうこう出来るはずが無いのだから。
「――な、なんなんだよ!? あれ!」
「海獣だよ」
悲鳴を上げる少年に、ノジコはあくまで冷静に言い返した。
「ゴサをつぶしたモームと同じで、アーロン一味に飼われてる奴さ……さっきの人畜無害は、あいつの専属飼育員ってわけ」
「あの牛と、同じ……!?」
「そ。それでもって、あいつより強い」
モームというのは、少年の故郷であるゴサを叩き潰した海獣の名だ。それより強いといわれて、少年は思わず身震いしてしまった。あの、圧倒的なパワーをもつ怪物よりも、強い!?
どぉんっ!!
海軍の船から轟音が響き渡り、海岸に屯した人間達の耳にまで届いた。無論、恐怖に負けそうになっていた
――そうだ! 大砲なら!
いくら怪物でも、大砲の直撃を受ければ無事ではすまないはず……!
ゴサには大砲が存在しなかったという事実が作り出した、少年が作り出した希望。
どんっ!
どぉんっ! どぉんっ! どぉんっ!
連続する大砲の発射音と、炸裂音。追随して発生し、ブロームの赤い甲羅を覆い隠す砲煙……少年の心に歓喜と開放感が到来するが、実に儚く一瞬で崩れ去る。
「え?」
風に煽られて煙が晴れても、その向こうにある光景は変わらなかった。
それらを一身に受けているにもかかわらず、こちらから見える赤い背中は小揺るぎもしない。
「大砲の直撃に耐えた……!?」
(防御力か!)
対照的にシンは驚きつつも状況を判断し、ブロームという怪物の特徴を把握した。あの甲羅の防御力は、確かに脅威だ……モームのほうが防御すらなっていなかったのを考えると、差は歴然だろう。
(盾は十分でも、矛はどうなんだ?)
ぶ ろ お お お お お お お お お お お お お お む っ ! ! ! !
シンの疑問は、すぐさま証明された。振り上げられていたブロームの右腕が、咆哮とともに振り下ろされ……
ど お ん っ ! ! ! !
叩き割った。
頑丈な海軍の船を、一撃で。
「…………!」
「チョップ一発かよ」
飛び散る破片と海に投げ出される海兵達を、呆然としながら見つめる少年。ようやく見えた希望を砕かれたその心境は、いかばかりのものか。シンは慰めの言葉でもかけたほうが良いのかと思ったが、すぐ思いなおした。自分はこの少年の名前も事情も何も知らないし……それどころではないのだから。
凄まじいパワーだった。モームでは、あそこまで綺麗に粉々には出来ないだろう……最強の盾と矛を兼ね備えた相手というわけだ。
いや、それ以上に……
「厄介な敵だな……」
誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやき、シンはその場を後にした。
船長や仲間達と合流するために。