【旧き秘法】ヨグ＝ソトース

[ある花売りの証言]

それは私が季節に合わせ、馬車で大陸の西へと

移動していた時の話です。

広い荒野の中心で、ある兄妹に出会いました。

後にも先にも、しばらく街はありませんでした。

兄妹はこの途方もなく長い道を、たった二人だけで

歩いてきたようでした。

馬車を停めたのは兄である少年でした。

彼は妹に遠くで遊ぶよう言いつけると、小さな声で

花を一輪売ってほしいと申し出ました。

補足1

申し出に応じる前に、私は疑問を口にしなければなりませんでした。

二人はどこから来たのか。

親はいるのか。なぜここを歩いているのか、と。

少年は何も言わず、もう一度花を売ってほしいと繰り返しました。

その手には、金貨が何枚も握られていました。

私は諦め、金貨を断った上で誰に贈る花かを尋ねました。

意外な事に、少年はその質問には答えるつもりがあるようでした。

『妹が･･････誕生日なんです。』

そのとき少年が見せた表情は、こちらが少し驚いてしまうほどに穏やかで優しげなものでした。

私が馬車から花を見繕おうとしたとき、ふと遠くで

短い悲鳴が聴こえました。

それは少年の妹である少女が、石につまずいて

転ぶ声でした。少女はすぐに立ち上がり、

何事も無かったようにまた駆け回ります。

その膝からわずかに血が滲んでいることに気が付くと、

私は少女を呼び止めようとしました。しかし

それより早く、傷に伸びるものがありました。

それは尾にも、腕にも、あるいは

それ自体が自我をもつ蛇のようにも見える

半透明の長い蔓でした。

蔓は少女の体から何本も生えていました。

それは玉虫色に光を反射し、絡まりあいながら

少女の膝へ伸びると、一瞬のうちに傷を覆いました。

やがて少女の膝から蔓が引き上げたとき、

傷は跡形もなく消え去っていました。同時に、

私は少年が自分を見つめる気配に気が付きました。

『今、何か見ましたか。』

少年の年齢を考えると、不気味なほどに

低く温度のない声でした。驚いて彼を振り向くと、

その目には異様な光が宿っていました。

それは直感だったかもしれません。私には

二人がこの世の存在でないように思えました。

･･････そうして、こうも予感しました。

何か見えたか、という少年の問い。

その答えによっては、私もまたこの世のものでは

いられなくなるのではないか、と。

補足2

『今、何か見ましたか。』

遠く長い道を、たった二人で歩いてきた兄妹。

その異変に気付いた私を少年の目がじっと見つめます。

私が答えに迷っていると、不意に遠くから少年の妹が駆けてきました。

『ヘンゼル、何話してたの？』

『･･････取るに足らない話だ。』

『わあ！きれいな花がたくさん！

ねえヘンゼル、もしかしてお花を買おうとしていたの？』

『気付かれてしまっては仕方ないな。

そうだ。お前の誕生日に花を買おうとしていた。』

『あたしの誕生日は明日でしょ？』

『いいんだ。･･････今日祝うんだ。』

花を前に穏やかな会話を続ける二人に、

先程の異様な雰囲気はありませんでした。

私は、自分の見たものが幻だったように思えました。

『じゃあ、あたしが花を選んでいい？

えっとね･･････これ！この花が良い！』

『･････････････････････････。』

『ね、キレイでしょ。

青くて小さくてリボンみたいで。

･･････不思議ね。

この花を見ていると、心がなんだかあったかくなる気がするの。

ヘンゼルもそう思わない？』

『････････････ああ。

･････････とても、きれいな花だ。』

籠いっぱいの花を掲げて、

少女が踊るように馬車を後にします。

少年もゆっくり歩いてそれに続きます。

･･････なぜでしょうか。

私には、その光景がひどく美しいものに思えました。

そうして、馬車を引くことも忘れて

二人の後ろ姿をいつまでも見送っていたのでした。