

概要
チェニジアキャンペーン枢軸軍側の「チェニジアの戦い」:KS 750分隊(4620円)を購入すると使用できる。MG 34機関銃を装備したKS750オートバイ。
●チュニジア戦線のドイツ国防軍第1降下猟兵装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」の第1擲弾兵連隊「ヘルマン・ゲーリング」のプレミアム分隊。
BR・Tier
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| Tier | |
| BR | Ⅰ |
車両性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 乗員(人) | 3 |
| リロード速度(秒) | MG 34軽機関銃と同性能 |
| エンジン出力(rpm/hp) | 4000/26 |
| 重量(t) | 0.4 |
| 視界(%) | △△ |
| 最高速度(km/h) | 115.50 |
武装
| 名称 | 搭載数 | 弾薬数 | 貫徹力 (前/側/後)(mm) | |
|---|---|---|---|---|
| 固定機銃 | 7.92mm MG34 機関銃 | 1 | 500 | △△ / △△ / △△ |
解説
特徴
バイクのサイドカーにMG 34機関銃が搭載されている。兵士はMP 40短機関銃、ワルサーPP拳銃、爆薬パックを装備。
MG 34機関銃を搭載したKS750オートバイ。
チュニジア戦線のドイツ国防軍第1降下猟兵装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」の第1擲弾兵連隊「ヘルマン・ゲーリング」のプレミアム分隊車両兵付属のKS 750オートバイである。
【火力】
サイドカー搭載のMG 34機関銃が生命線。R 75やほかのバイク同様移動中の射撃は当て切るのは不可能に近いので、機関銃を活かしたいのならば安全な場所で停車し固定機関銃代わりにするのがいいだろう。バイクの機動力を生かしてこまめに陣地転換しよう。


【装甲】
皆無。戦車砲や対戦車ライフルは言うに及ばず、むき出しになった乗員を拳銃や小銃で撃ち抜かれて無力化されやすい。できるだけ敵に見つからないように移動しよう。
【機動性】
良好。これに限らず、R 75やWLAのような以前から存在したバイクたちは移動速度がすごく早い代わりに、ちょっとした障害物に乗り上げたりドリフトするとすぐ横転するような壊滅的操作性だった。しかし、ビルマの虎アップデートからは安定性が大幅に向上したため、そのようなことがなくなった。
【総論】
ビルマの虎アップデートからすべてのバイクに弾薬箱機能が追加されたため、本バイクも移動弾薬箱の機能も併せ持ち、安定性が向上した。そのため、拠点内や拠点周辺にこのバイクを止めて固定機関銃代わりに使ってもよし、弾薬箱としておいていくのも良しと様々な運用が生まれた。
史実
【車輌】
KS750はドイツの車輌企業であるツンダップ(Zündapp)社が開発したオートバイ。1941年にドイツ国防軍によって採用され、3年後の1944年までにのべ18000台以上が製造された。ドイツの主要な戦線ほぼ全てに配備され、サイドカーにはスペアホイールのほか弾薬ケース、ジェリカンのホルダー等が装備可能となっていた。1945年初頭に製造が停止されたものの、1946年に一部の軍隊向けと民間向けで再生産されている。
【部隊】
本車輌を運用するヘルマン・ゲーリング師団こと第1降下装甲師団"HG"は1933年にナチス党配下の警察大隊として編成され、紆余曲折を経て1935年にドイツ空軍に移籍、当初は空軍最高司令官に就任したゲーリングの警護や、総統であるヒトラーの司令部の防空任務といったものを担当していたが、1940年の北欧諸国の侵攻に小規模ながらも参戦し、その後のフランス戦役では師団が保有する8.8cm高射砲がフランス軍の戦車を多数撃破する武功を上げている。1941年6月22日より開始されたバルバロッサ作戦ではウクライナ方面のキエフ、ブリャンスクにて戦い、ここでも8.8cm高射砲でソ連赤軍のT-34などを撃破している。同年末にはドイツ本国に帰還したものの、翌年にはアフリカ戦線・チュニジアで戦闘するドイツアフリカ軍団(DAK)を支援するために分割してチュニジアに派遣された。同地ではアメリカ・イギリスを中心とする連合軍と激しい戦闘を行ったが、1943年5月のアフリカ軍集団に伴い第1降下装甲師団も降伏。しかしゲーリングによって再編成された師団は6月中旬には戦闘能力を回復させ、連合軍の大規模攻撃が予想されたシチリア島の防備に就いた。7月10日に始まった連合軍によるシチリア島上陸戦では防衛戦において善戦したものの、同じくシチリア島の防衛を行なっていたイタリア軍の降伏によって撤退を余儀なくされ、イタリア本土に後退し戦闘を続けた。1944年には数倍の規模の連合軍を相手にドイツ軍の撤退を支援していたが7月には東部戦線に急派され、ワルシャワの防衛にあたった。しかし1945年にソ連赤軍の猛攻撃を受けて包囲されてしまい、ここで大きな犠牲を払いつつ海路で包囲を脱出、脱出後はソ連赤軍の圧倒的物量と火力に押されつつ反撃により少なくない損害を与えている。だがその必死の防衛戦も限界が来ており、師団は米軍に降伏するため西に向かったがここでもソ連赤軍に包囲されて大多数の部隊はそのまま1945年5月8日にソ連赤軍に降伏し、西に向けて包囲網を脱出できた部隊はほんの少数だった。ソ連赤軍に降伏した生存者らは戦争中に残虐行為に関与したとされ、ソ連による抑留から帰還するものはいなかった。
小ネタ
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