概要
スターリングラードキャンペーン枢軸軍側兵站のBattlepass Unique Vehicleから金チケット1枚と交換して入手できる車両。
通常のPz.IV F2戦車とは迷彩が異なるほか、フル改修済みとなっている。
BR・Tier
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| Tier | |
| BR |
車両性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 乗員(人) | 5 |
| 砲塔旋回速度(°/C) | 14°/ C |
| 俯角/仰角(°) | -10 / +20 |
| リロード速度(秒) | 5.9 |
| 車体装甲厚 (前/側/後/底)(mm) | 50 / 30 / 20 / 10 |
| 砲塔装甲厚 (前/側/後/上)(mm) | 50 / 30 / 10 / 10 |
| 馬力 | 300hp at 3000rpm |
| 重量(t) | 22.7 |
| 視界(%) | △△ |
| 速度(km/h) | 42.76 |
武装
| 名称 | 搭載数 | 弾薬数 | 貫徹力 (前/側/後)(mm) | |
|---|---|---|---|---|
| 主砲 | 75mm KwK 40 L/43 | 1 | 87(AP44:HE43) | △△ / △△ / △△ |
| 同軸機銃 | 7.92mm機関銃MG34(同軸機銃) | 1 | 2850 | △△ / △△ / △△ |
解説
特徴
ーー加筆求むーー
【火力】
ーー加筆求むーー
【装甲】
ーー加筆求むーー
【機動性】
ーー加筆求むーー
【総論】
ーー加筆求むーー
史実
【車輌】
連合軍・ソ連軍が重装甲の戦車を続々と投入していた中、ドイツ国防軍の主力戦車だったIV号戦車の75mm短砲身砲は対戦車威力に不足し歯が立たなくなっていた。この状況を打破すべく量産中だったIV号戦車F型に75mm KwK40長砲身砲を搭載した急造の型。1942年3月に170輌が生産された。グロースドイッチュラント師団の配備表を確認すると、1942年夏~秋にかけて配備されたことが記録されている。
【部隊】
装甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントは1943年5月19日、ポルタヴァ地域で自動車化歩兵師団グロースドイッチュラントから改称・再編成されて編成された。師団はベルリン衛兵連隊(Wachregiment Berlin)とデーベリッツ陸軍学校の歩兵教導連隊を起源とする部隊で、1939年7月1日に歩兵連隊「グロースドイッチュラント」として発足し、1942年4月から5月にかけて師団規模へと拡大されていた。師団は装甲教導師団とともに武装親衛隊を含む全ての部隊に優先して最良の装備を支給されたエリート部隊であり、全国から兵を徴募できる特権を有していた。
師団長はヘルマン・バルク中将(編成時1943年6月30日)で、作戦参謀にはフォン・ナッツマー大佐(任期:1943年5月19日~1944年7月19日)が任命された。バルク中将は短期間ヒャツィント・グラーフ・シュトラッフヴィッツ・フォン・グロース・ツァウヒェ・ウント・カミニエッツ大佐(1943年5月)に指揮を代行させた後、1943年6月30日にヴァルター・ヘルンライン中将へと交代した。
1943年夏、師団は南方軍集団・第4装甲軍に属しツィタデレ作戦(クルスクの戦い)に参加した。師団は南側攻撃翼の主力として投入され、擲弾兵連隊「グロースドイッチュラント」、猟兵連隊「グロースドイッチュラント」、装甲連隊「グロースドイッチュラント」などで構成されていた。注目すべきは、師団がティーガーI戦車1個中隊を保有していたことで、これは武装親衛隊以外の師団としては唯一の配備であった。また作戦期間中、新型のパンターD型戦車で編制された「フォン・ラオハート」戦車連隊が師団の作戦統制下に置かれたが、パンター戦車の多くはエンジンの発火や停止など技術的問題に悩まされた。師団は7月18日にトマロフカまで戦闘を継続した。
クルスク攻勢中止後の8月、師団はハリコフ西方地域に投入され、ベルゴロド=ハリコフ作戦におけるソ連軍のハリコフ奪還攻勢と対峙した。9月までに師団はドニエプル川まで後退し、クレメンチューク近郊で橋頭堡を形成した。この間、師団は9月6日から28日にかけて「焦土作戦」を実施し、1,260台の農業機械と165箇所の穀物・製油工場を爆破、9,268頭の家畜を徴発し1,393トンの穀物を移送、13,627名の民間人を強制移送した。10月中旬までミシューリン・ログ=ボロダエフカ地区の橋頭堡防衛に従事した後、南方のクリヴォイ・ログ方面へ後退した。年末にはキロヴォグラード地域で防衛戦を展開し、この期間に師団は「消防隊」(Feuerwehr)という異名で呼ばれるようになった。
1944年1月から3月にかけて師団はキロヴォグラードからチェルカースィ包囲戦に一部部隊を投入しつつ、3月にはブグ川とドニエストル川を越えてルーマニアへ後退した。4月にはヤシ近郊で防衛戦を展開し、トゥルグ・フルモスで1ヶ月以上にわたる激戦を繰り広げた。この戦闘における師団の防御戦術は後に冷戦時代のNATOで研究対象となった。5月2日のソ連軍攻勢では、ルーマニア油田への進出を阻止すべく激しい戦闘を展開した。6月には休養と再編成のためヤシ南方約100キロメートルの地域に移動し、近代的な装備への更新が行われた。
1944年2月1日、ハッソ・フォン・マントイフェル中将が師団長に就任した(~1944年9月1日)。7月末、師団は東プロイセンへ移動し北方軍集団指揮下に入った。8月初旬にはグンビンネン周辺で防衛戦を展開後、リトアニアのシャウレン西方へ移動しクールラント方面軍の孤立を防ぐため東方への攻撃を実施した。8月末にはトゥックムとミタウ方向へ北上したがドブレン手前で停止を余儀なくされた。10月から11月末にかけて師団はメーメル橋頭堡の防衛に従事し、この戦闘で兵員と装備に甚大な損害を被った。
1944年9月1日、カール・ローレンツ少将が師団長に就任し終戦まで指揮を執った。11月26日から師団はメーメル橋頭堡からフェリーで東プロイセンへ撤退しOKH予備となり、ラステンブルク南方で「1944年型戦車師団編制」に基づく再編成を受けた。12月14日、装甲軍団グロースドイッチュラントが編成され師団とブランデンブルク師団を指揮下に置くこととなり、12月20日には擲弾兵連隊第3大隊、猟兵連隊第1大隊、戦車連隊第3大隊(ティーガー)、砲兵連隊第4大隊が軍団直轄部隊として転出した。
1945年1月12日のソ連軍大攻勢開始時、師団はラステンブルク地域に位置しプシャスニシ南部での反撃命令を受けた。第302戦車大隊(火炎放射戦車)が戦車連隊に配属され第7装甲軍団指揮下で戦闘を展開した。1月26日、師団はケーニヒスベルクへ移動し降下装甲軍団ヘルマン・ゲーリング指揮下に入り、30日にケーニヒスベルク南西のブランデンブルク周辺に展開した。3月23日、激しい防衛戦の末バルガ半島に追い詰められ、29日に海軍上陸用舟艇により脱出した。この時点で師団の人員は約4,000名前後まで減少していた。
4月、師団はザームラント半島へ渡り戦闘を継続したが、4月25日にピラウ周辺の戦闘で完全に壊滅した。数百名の残存兵がシュレースヴィヒ=ホルシュタインまで海路撤退しイギリス軍に投降したが、多くの将兵は置き去りにされソ連軍の捕虜となった。
師団は独自の部隊章として「GD」の組み文字の肩章用モノグラムと、ジュッターリン体で書かれた黒地の袖章(初期型はフラクトゥール体の緑地)を使用し、陸軍部隊であることを示すため右袖の袖口から15センチメートルの位置に着用した。また全ての車両には白いヘルメットのマークが描かれた。
小ネタ
ーー加筆求むーー