スラウォミール・ウェソウスキー

Last-modified: 2023-03-09 (木) 20:41:27

スラウォミール・ウェソウスキー(Sławomir Wesołowski、1914年8月2日~2003年2月9日)は、エティア連邦共和国の政治家。
連邦政府の権限に関して国家政府との合意を決めた「222協定」の主導者で知られる。

スラウォミール・ウェソウスキー
Sławomir Wesołowski
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(1966年、テレビ番組のインタビュー中)
生誕1914年8月2日
etya.pngエティア共和国 ストレーヤ県県北地区メドリ―市
死没2003年2月9日
seisiki.pngエティア連邦共和国 ラタビア州ルディヴェスコ郡クラゲスコフ市・共和国記念大学医学部付属大学病院
墓地seisiki.pngエティア連邦共和国 ストレーヤ州アルワーデン連邦市・国立共同墓地
政党共和民主党(1947年~1953年)(改名)統一民主党(1953~1963)
国民党(1964年~1967年)(改名)pln.png自由国民党(1967年~2000年)
出身校メドリー港湾組合立高等学校
クラゲスコフ国立大学*1商学部 修士卒
宗教三光教*2
前職大学教員(教授補佐/TA)
エティア共和国軍士官
兵役
所属国etya.pngエティア共和国
所属組織共和国陸軍
所属部隊第3歩兵連隊第8小隊(1938~1939)
第9歩兵大隊(1939~1942)
北部前線司令部参謀補佐(1942~1945)
軍歴1938~1945
最終階級特務陸軍少佐
受賞1911/1939統一戦争記章(1982年授与)
戦傷章x2(1944年授与)
リタン県党支部宣伝委員
任期
1947~1950
南部選挙区
選挙戦略委員
リタン選挙区比例代表当選議員
任期
1950~1952
任期
1950~1954
首都地域選挙戦略委員リタン選挙区第2区当選議員
任期
1952~1955
任期
1954~1958
中部地区党総会
宣伝部長
任期
1956~1958
党中央委員会
国政政策部員
共和国財務相
任期
1958~1959
任期
1958~1959
党中央委員会
統一政策部長
第二大統領府長官
任期
1959~1960
任期
1959~1960
党中央委員会執行部
特務委員
共和国首相
任期
1961~1963
任期
1961~1964年1月1日
党中央委員会執行部
連邦政策局長
任期
1963年~1964年1月1日
国民党移党
pln.png党中央委員会執行部最高執行委員→自由国民党党首/連邦大統領
任期
1964年1月2日~1972年4月1日
後任:イゴール・リジェンスク
pln.png政策調査委員会長
任期
1972年4月2日~1986年12月29日
pln.png自由国民党幹事長
任期
1986年12月30日~1987年5月20日
pln.png自由国民党党首/連邦大統領
任期
1987年5月21日~1990年6月23日
前任:イゴール・リジェンスク/ミエチスワフ・マズール
後任:レイス・フィアート/イリヌス・オリンスキー
pln.pngリーリス選挙区当選議員
任期
1990年6月24日~1994年4月1日

経歴

1914年8月2日、ストレーヤ県県北地区メドリ―市(現在の連邦共和国エティア共和国ストレーヤ州レダ郡メドリー市)にて生誕。1964~1972・1987~1990において2選した初代大統領。
母親の家系は(現在は消滅してしまったが)当時名家と言われた大商会の家に生まれた次女で、父親は当時、約7割の議席が商会議席と言われたエティア共和国議会において、数少ない民選議員(=3割)として選出されたカリスマ。
幼少期・少年期は一切の苦の無い生活を送り、両親との関係も良好な期を過ごした。
18歳まで生まれ故郷であるメドリー市で過ごし、大学受験でクラゲスコフ国立大学(現在の名称は共和国記念大学(URA))商学部に合格したのを皮切りに大学があり、当時のエティア首都だったクラゲスコフ市へと移住する。
大学では1年次はかなりギリギリ*3だったもの、そのまま学士を修了し、修士課程へと進む。
修士課程終了後、同大学において教授補佐を行うが、僅か1年でとある事情で終えてしまう。
1938年、「健康な成人済の男性」を対象として行われた徴兵により、共和国軍へと入隊。6ヶ月間の訓練期間を終えると第2歩兵師団隷下の第3歩兵連隊8小隊へ通信手として編入され、南部戦線へと送られる。
1939年、第3歩兵師団9大隊へ通信手として編入され北方戦線へ、大隊本部付通信手となる。1942年には北部前線司令部参謀補佐として任命され、戦時任官により特務少佐となる。
1944年、前線にて状況報告中、フィア王国軍によって試験的に使用されたサルフィ剤*4に暴露し、後方送りとなる。
幸いにも少量暴露だったが、しばらくの間皮膚の痛みに悩まされ、それを事由に名誉除隊となる。
1946年末に中央軍病院*5を退院し、リフレン市の兵器工場にて経理担当として1年間勤務する。
1947年、大学の同期からの誘いと、後任を求めた父親からの誘いにより共和民主党へと入党し、リタン県の宣伝委員となる。1950年選挙においてリタン選挙区の比例代表として当選し、新人議員となる。
1952年には党内で首都地域選挙戦略委員会委員となり、1954年にはリタン第2小選挙区候補として出馬し当選。1956年には党内で中部地区党総会宣伝部長に任命。
1958年には財務相として遂に初入閣を果たすが、当時の政権がすぐに解体され、1959年からは大統領府第二長官。直後の1961年には首相として任命され、64年まで務める。
1964年にセントレラ合意発効*6に伴い、連邦政策局長として国民党へ移党し、党中央委員会執行部最高執行委員(実質的な党首、後に改名)として連邦大統領にも当選する。任期中は連邦政府の権限向上に尽力し、「222協定」を履行させ、基本規定法の制定に成功、現在の連邦政府の基盤を完成させる。
1972年に任期満了、後任のイゴール・リジェンスクへ大統領を譲る。

1987年までいくつかの党内重役を歴任し、再び連邦大統領として当選、だが1990年に健康問題が祟り辞任。
1990年選挙にてリーリス連邦市選挙区当選議員、大物議員として議席を保持したが、94年に離党。

2003年、敗血性ショックによりクラゲスコフ市の共和国記念大学医学部付属大学病院において死去。死体はアルワーデン連邦市の国立共同墓地にて埋葬。
墓石には本名と生存期間のみが彫られている。


*1 現在の共和国記念大学
*2 かなり世俗的だった
*3 前期12単位、後期2単位、通年14単位というそこそこ絶望的な単位数だったと残されている
*4 サルファマスタード
*5 当時はアルワイス、現在のアルワーデンに置かれていた
*6 締結は1963年中