スラウォミール・ウェソウスキー(Sławomir Wesołowski、1914年8月2日~2003年2月9日)は、エティア連邦共和国の政治家。
連邦政府の権限に関して国家政府との合意を決めた「222協定」の主導者で知られる。
スラウォミール・ウェソウスキー Sławomir Wesołowski | |
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(1966年、テレビ番組のインタビュー中) | |
生誕 | 1914年8月2日 エティア共和国 ストレーヤ県県北地区メドリ―市 |
死没 | 2003年2月9日 エティア連邦共和国 ラタビア州ルディヴェスコ郡クラゲスコフ市・共和国記念大学医学部付属大学病院 |
墓地 | エティア連邦共和国 ストレーヤ州アルワーデン連邦市・国立共同墓地 |
政党 | 共和民主党(1947年~1953年)→統一民主党(1953~1963) 国民党(1964年~1967年)→自由国民党(1967年~2000年) |
出身校 | メドリー港湾組合立高等学校 クラゲスコフ国立大学*1商学部 修士卒 |
宗教 | 三光教*2 |
前職 | 大学教員(教授補佐/TA) エティア共和国軍士官 |
兵役 | |
所属国 | エティア共和国 |
所属組織 | 共和国陸軍 |
所属部隊 | 第3歩兵連隊第8小隊(1938~1939) 第9歩兵大隊(1939~1942) 北部前線司令部参謀補佐(1942~1945) |
軍歴 | 1938~1945 |
最終階級 | 特務陸軍少佐 |
受賞 | 1911/1939統一戦争記章(1982年授与) 戦傷章x2(1944年授与) |
リタン県党支部宣伝委員 | |
任期 1947~1950 | |
南部選挙区 選挙戦略委員 | リタン選挙区比例代表当選議員 |
任期 1950~1952 | 任期 1950~1954 |
首都地域選挙戦略委員 | リタン選挙区第2区当選議員 |
任期 1952~1955 | 任期 1954~1958 |
中部地区党総会 宣伝部長 | |
任期 1956~1958 | |
党中央委員会 国政政策部員 | 共和国財務相 |
任期 1958~1959 | 任期 1958~1959 |
党中央委員会 統一政策部長 | 第二大統領府長官 |
任期 1959~1960 | 任期 1959~1960 |
党中央委員会執行部 特務委員 | 共和国首相 |
任期 1961~1963 | 任期 1961~1964年1月1日 |
党中央委員会執行部 連邦政策局長 | |
任期 1963年~1964年1月1日 | |
国民党移党 | |
党中央委員会執行部最高執行委員→自由国民党党首/連邦大統領 | |
任期 1964年1月2日~1972年4月1日 後任:イゴール・リジェンスク | |
政策調査委員会長 | |
任期 1972年4月2日~1986年12月29日 | |
自由国民党幹事長 | |
任期 1986年12月30日~1987年5月20日 | |
自由国民党党首/連邦大統領 | |
任期 1987年5月21日~1990年6月23日 前任:イゴール・リジェンスク/ミエチスワフ・マズール 後任:レイス・フィアート/イリヌス・オリンスキー | |
リーリス選挙区当選議員 | |
任期 1990年6月24日~1994年4月1日 |
経歴
1914年8月2日、ストレーヤ県県北地区メドリ―市(現在の連邦共和国エティア共和国ストレーヤ州レダ郡メドリー市)にて生誕。1964~1972・1987~1990において2選した初代大統領。
母親の家系は(現在は消滅してしまったが)当時名家と言われた大商会の家に生まれた次女で、父親は当時、約7割の議席が商会議席と言われたエティア共和国議会において、数少ない民選議員(=3割)として選出されたカリスマ。
幼少期・少年期は一切の苦の無い生活を送り、両親との関係も良好な期を過ごした。
18歳まで生まれ故郷であるメドリー市で過ごし、大学受験でクラゲスコフ国立大学(現在の名称は共和国記念大学(URA))商学部に合格したのを皮切りに大学があり、当時のエティア首都だったクラゲスコフ市へと移住する。
大学では1年次はかなりギリギリ*3だったもの、そのまま学士を修了し、修士課程へと進む。
修士課程終了後、同大学において教授補佐を行うが、僅か1年でとある事情で終えてしまう。
1938年、「健康な成人済の男性」を対象として行われた徴兵により、共和国軍へと入隊。6ヶ月間の訓練期間を終えると第2歩兵師団隷下の第3歩兵連隊8小隊へ通信手として編入され、南部戦線へと送られる。
1939年、第3歩兵師団9大隊へ通信手として編入され北方戦線へ、大隊本部付通信手となる。1942年には北部前線司令部参謀補佐として任命され、戦時任官により特務少佐となる。
1944年、前線にて状況報告中、フィア王国軍によって試験的に使用されたサルフィ剤*4に暴露し、後方送りとなる。
幸いにも少量暴露だったが、しばらくの間皮膚の痛みに悩まされ、それを事由に名誉除隊となる。
1946年末に中央軍病院*5を退院し、リフレン市の兵器工場にて経理担当として1年間勤務する。
1947年、大学の同期からの誘いと、後任を求めた父親からの誘いにより共和民主党へと入党し、リタン県の宣伝委員となる。1950年選挙においてリタン選挙区の比例代表として当選し、新人議員となる。
1952年には党内で首都地域選挙戦略委員会委員となり、1954年にはリタン第2小選挙区候補として出馬し当選。1956年には党内で中部地区党総会宣伝部長に任命。
1958年には財務相として遂に初入閣を果たすが、当時の政権がすぐに解体され、1959年からは大統領府第二長官。直後の1961年には首相として任命され、64年まで務める。
1964年にセントレラ合意発効*6に伴い、連邦政策局長として国民党へ移党し、党中央委員会執行部最高執行委員(実質的な党首、後に改名)として連邦大統領にも当選する。任期中は連邦政府の権限向上に尽力し、「222協定」を履行させ、基本規定法の制定に成功、現在の連邦政府の基盤を完成させる。
1972年に任期満了、後任のイゴール・リジェンスクへ大統領を譲る。
1987年までいくつかの党内重役を歴任し、再び連邦大統領として当選、だが1990年に健康問題が祟り辞任。
1990年選挙にてリーリス連邦市選挙区当選議員、大物議員として議席を保持したが、94年に離党。
2003年、敗血性ショックによりクラゲスコフ市の共和国記念大学医学部付属大学病院において死去。死体はアルワーデン連邦市の国立共同墓地にて埋葬。
墓石には本名と生存期間のみが彫られている。