南西トーラサズ戦争

Last-modified: 2022-07-15 (金) 06:49:16
南西トーラサズ戦争
Great War of the Southwest Taurahsaz
年月:1967年〇月×日~1971年5月20日~1971年8月23日
場所:南西トーラサズ地域
結果:沿海州連合の事実上の独立
南トーラサズ共同体:国内体制の不安定化。五・二〇事件の発生
沿海州連合:国内体制の不安定化。サラトレアとの関係悪化
サラトレア:北部ヤチェリノ諸島占領に失敗。沿海州連合との関係悪化
交戦戦力
アルトゥン・サンジャーク政府(STC Altin government)
タン・グランダ政務委員会(Toros-Balismila clique)
ハヴズニア・トーラ軍閥(Havuznia-Torah clique)
スベ・コルサニア軍閥(Sube-Corsania clique) (1967-1971)
ジャン・チョプロチュニア軍閥(Zhang-Choprochunia clique)(1967-1968,1970-1971)
カリムネス・ベグザーディミラ軍閥(Karimnes-Begzadimila clique)(1967-1969)
ヴィシェノール評議会(PU Vishenorle Council)
ヒストラマー鎮守府(PU Behestun-ul-armaan Naval District) (1968-1971)
ヤチェリノ軍政府(PU Military Government of the Yachelino Islands) (1967-1971)
コルサニア・トーラ軍閥(Corsania-Torah clique) (1967-1971)
ハリチュミラ・トーラ軍閥(Halicmila-Torah clique) (1970-1971)
ケィプ自治国(PU Keip autonomous oblast) (1971.1-1971.5)
シガナーグィ自治国(PU Shiganargui autonomous oblast)(1970-1971)
サラトレア連邦共和国(Federasien Republiqe'e v Salatrea)(1967-196〇,1970)
戦争指導者
アルトゥン・サンジャーク政府:アナヤスィ・シフィク
タン・グランダ政務委員会:トロス・バリシュ
ハヴズニア・トーラ軍閥:マフムート・ハヴズ・トーラ
スベ・コルサニア軍閥:プラジュ・スベ・コルサン・トーラ
ジャン・チョプロチュニア軍閥:ジャン・チョプロチュ
カリムネス・ベグザーディミラ軍閥:カリムネス・ベグザーディ
ヴィシェノール評議会:ムズラク・カラ
ヒストラマー鎮守府:アブラヒム・サイード
コルサニア・トーラ軍閥:トゥッジャール・コルサン・トーラ
ハリチュミラ・トーラ軍閥:ティルキ・ハリチュ・トーラ
シガナーグィ自治国:
シガナーグィ自治国:
サラトレア:ミシェル・ミレ
指揮官
シディク・デニズ(スベ・コルサン軍閥)
コペク・ハヴズ・トーラ(ハヴズニア・トーラ軍閥)
シェヒル・ドゥルマ(ハヴズニア・トーラ軍閥)
シモン・コルサン(コルサニア・トーラ軍閥)
シャルク・イーグィルメック(ハリチュミラ・トーラ軍閥)
(サラトレア)
戦力
南トーラサズ共同体:沿海州連合:サラトレア:
損害
戦死
南トーラサズ共同体全体:
ハヴズニア・トーラ軍閥:
スベ・コルサニア軍閥:
戦傷
南トーラサズ共同体全体:
ハヴズニア・トーラ軍閥:
スベ・コルサニア軍閥:
戦死
沿海州連合全体:
ヒストラマー鎮守府:
ハリチュミラ・トーラ軍閥:
コルサニア・トーラ軍閥:
戦傷
沿海州連合全体:
ヒストラマー鎮守府:
ハリチュミラ・トーラ軍閥:
コルサニア・トーラ軍閥:
戦死
サラトレア全体:
戦傷
南西トーラサズ戦争
おもな戦いや計画について時系列に沿って書くゾーンです。他の方の記事を参考にしてやりましょう!

経緯

 南トーラサズ共同体では建国当初、1912年から常に地方軍閥の扱いに苦慮してきた。南トーラサズ地域*1は東部のレポーラ盆地を始めドランガ半島、グランダ半島、西部のヒストラマー半島、またル・クス湾沿岸部や辺境ナシーヴァ地域、および北部のクルード人地域や外アンゴルモア地域など極めて広範囲かつ多様な風土と民族的多様性を保有する国土であり、その広大な領域の保持が困難であるがゆえ伝統的に中央とされるレポーラ盆地西部の城塞都市“アルトゥン・カレ”からほぼ同心円状に支配力の低下が発生する風土となっている。特にサズニア朝トーラ帝国の崩壊を引き起こしたENOCH発生によってヤチェリノ諸島やクルード人地域に対する支配を手放して以降、国家体制がほぼそのままラトーミラ朝トーラ帝国に引き継がれて以降もその支配力の低下は引き起こされ続けた。一例として19世紀中ごろに発生したサレヒ・トーラ戦争や19世紀末のナシーヴァ遠征はトーラ帝国の地域支配力の低下を如実に表すとともに、治安維持を行うべきトーラ帝国正規軍の腐敗とヒストラマー総督(ビヒシュトゥ・ウル・アルマーン・ベイ)の半独立を促す結果となった。また腐敗の進行と共にトーラ帝国に存在した皇位継承権の保有者、いわゆる選帝卿(ヴェズィール)の下に各種権益が集積される結果となり、さらに社会不安の醸成から下剋上が横行した。*2
 1912年に発生した青年トーラ政変によってトーラ帝国は解体され南トーラサズ共同体*3に統合*4*5された。
 しかし統合されたばかりの南トーラサズ共同体は即座に大きな問題に直面することとなった。1つがヴィクトリア戦争により“トーラ”のソフトパワー*6を失い、それに伴い朝貢圏を失ったこと。*7そして青年トーラ政変の立役者にして国父とも言えるソン・ダーグクを革命数年で失ったことであった。*8
 ソン・ダーグクの後継者として大トーラサズ統一委員会を纏め、委員長に就任したのは“水煙草の”アリ・エトヘムであった。当時のSTCは一種の半大統領制であり、国権を司る大トーラサズ統一委員会委員長と行政府の長である内閣大学士という役職が存在した。これら二つは職権上対等であり、本来あるべき優劣は存在しなかった。この問題は革命勢力である“青年トーラ人”内部の微妙な権力争いに対して極めて最悪な形で表出する事となる。*9ソン・ダーグクの朋友としての名声やこれまでの実績をもとに委員長に就任した“水煙草の”アリに対し、内閣大学士に選出されたのは当時若手で新進気鋭、かつ“青年トーラ人”とは別のゲラノド派勢力出身の“象牙の”エフィ・マントゥカであった。二人はすぐに対立するようになり、徐々に国内統制が取れなくなっていく。*10
 事態が急変したのはその直後、1915年の事であった。大庭粛官から逃れた親皇帝派将校“細波の”エヴリア・ネディームが自身の首都アルトゥン・カレで前皇帝イスハーク・ラトマ・トーラ6世を復辟*11させようクーデターを引き起こした、所謂復辟事変の発生である。事件自体はすぐに鎮圧されたものの、これまで以上の政治的安定化のためには実力行使をも辞さない強大な権力と中央集権化が必要であると当時の政権中央は判断した。この理由の一つには、この事件によって就任間もない“水煙草の”アリは死亡し、他の派閥の構成員も多数負傷し中央政界を追われる*12こととなったからである。ここにおいて“象牙の”エフィ・マントゥカが内閣大学士と大トーラサズ統一委員会委員長を兼任することとなり、大トーラサズ統一委員会委員長の職権をさらに拡大し発展させた大棟梁職*13を設置することになる。
 当然このようなカデア的な中央集権化政策はゲラノド派にとって好まれることではなく、トーラ・ゲラノド派の“避役の”ソン・ケマルや“蒼空へ謳う”ジャン・ヒクメットらは現在のハリチュミラ・トーラ軍閥地域周辺で反カデア闘争を開始した。これらはナシーヴァ地域に存在するナシーヴァ民族のトーラ民族への反発や密林という地形の影響などを受けながら長らく勢力を残存させ、徐々に複数の選帝卿家すら巻き込み直接的には13年、無政府状態の解消までに20年以上と長年に渡るトーラサズ内戦の引き金を引くこととなった。*14
 1916年。サヴンマ・ヒサール囲剿戦において“象牙の”エフィ・マントゥカ率いる国軍側として参戦するも国軍内部の命令の行き違いや様々な戦後処理問題への対処から兵糧を送られることなく、また収穫期に入っても根拠地へ帰還することが出来ず糧食の危機に陥った“鬚髯の”ハルーン・ムハーフス・トーラは、現地の国軍司令官“華鬘の”ムラト・アジャドを斬殺し軍旗を強奪。「徳のない皇帝に任せては天地が滅びるので、自分が黄金の御旗を取って平定する」*15として包囲戦中のサヴンマ・ヒサールから独自に撤退し、抗命および上官殺害に対する追及を目的として追撃して来た国軍歩兵第15師団を撃退。アルトゥン・カレに向けて攻撃を開始する。*16

開戦

 


*1 特に南西トーラサズ地域
*2 これによって成り上がった地方行政官ないし軍指揮官を造反卿(イシャーン・ベク)と呼ぶ
*3 トーラ語ではBuyuk Taurahsaz Federasyon=大トーラサズ連邦と称する
*4 政体的には「禅譲」という手法を用いて帝政からゲラノド的な連邦制への転換が図られた
*5 なお青年トーラ政変後もトーラ帝国という外交的地位自体は存続しており、その主権はトーラ皇帝に帰属するとされた。事実最後のトーラ皇帝イスハーク・ラトマ・トーラ6世、ならびに後胤アブドゥル=アーリー・ラトマ・トーラ2世は1924年のアルトゥン・クーデターで追放されるまでアルトゥン・カレ内の“聖者の会堂”(ヴェリェー・ジャミィ)神殿において事実上の軟禁状態にあり、ナシーヴァ諸国やアンゴルモア、およびグランダ王国内の一部氏族など幾つかの地域内諸国は遅くとも1919-20年前後まで実質的な大使にあたる有力者を通じた接触を図っていたとされる。そのため国内政治史的には青年トーラ政変によって即座にトーラ帝国が解体されているものの、直後に南トーラサズ共同体が内戦状態に陥ったことも相まって国際政治史的には南トーラサズ共同体の中央政府にあたる大トーラサズ統一委員会(1915年以降は大棟梁職)よりも外交上の機能が保持されていたとして、1912年から1924年までの間はトーラ帝国の後継政権と言えるヴェリェー・ジャミィ小朝廷に国家承認が存在していたと言われる
*6 トーラ帝国という絶対的権力の下で朝貢を行っていた朝貢圏にとって、トーラ帝国がヴィクトリア戦争で対等な条約を結ばされたことは大きな衝撃となった。また同じく支配的民族であったトーラ民族の豪放な享楽趣味がソフトパワーの凋落によりそのまま放蕩であるとされたこと、またトーラ帝国の庇護によってトーラ信仰正統派の地位を維持していたタウラー=サンジャーク主義の腐敗やサレヒ・トーラ戦争時の敗戦により指導的地位が落ちてきたなどにより、トーラ地域に幅広く存在していた一種の魅力が失われてしまったことを言う
*7 トーラ帝国にとって朝貢圏の保持は確かに負担も極めて大きかったが、アンゴルモアの騎馬やナシーヴァの特産品などを他国・他地域へ売買することで貿易を行っていた側面もあった。また朝貢貿易を介してトーラ国内自体の民需活性効果もあった
*8 死去は1914年。後任決定が1915年
*9 そもそも“青年トーラ人”内部自体が小規模なゲラノド的改革勢力の集まりであるということもあり、1913年にはソン・ダーグクらによる親皇帝派官僚の大粛清(大庭粛官、ギュルハネ政変と呼ばれる)を含む強権的政治姿勢に反発した守旧派“青年トーラ人”幹部の“恐れ慄く”ナスレッディン・コルクトらが武装蜂起した事件も存在した
*10 閣委分立と言われる
*11 復位と同義
*12 中にはそのまま地方政界へ向かった者もおり、軍閥時代の“駱駝の”エレン・シャフリヤールや“哀毀の”ラティーフェ・オズテュルクらは中央政界を追われた“青年トーラ人”議院ないし彼らの後援のもとで軍閥の形成に一躍買ったものであるとされる
*13 大統領、ではない。これは元々トーラ貴族のまとめ役として武人たちの長=棟梁(アミール)という一種の司令官に相当する役職が存在したことに由来する。なお現在の大棟梁のトーラ語発音では武官の長にして司令官を表すAmirではなく文官の長にして宰相を表すUlu-Vezirで表記される
*14 トーラ・ゲラノド派はこれを護国戦争と呼ぶ
*15 東語では黄天将立(こうてんまさにたたんとす)、言い換えればトーラ帝政への復帰を訴えた武装蜂起の文言である
*16 この後複数の選帝卿系の軍閥が現れてアルトゥン・カレを奪い合ったため、一般的にトーラ帝政継承戦争と呼ばれる