生まれ
かたくらこじゅうろう
1557年~1615年
どんな人?
戦国時代の武将
伊達政宗の軍師
おいたち年表
1557年 | 0歳 | 片倉景長?の子として誕生 |
?年 | 歳 | 伊達輝宗に仕える |
1575年 | 19歳 | 伊達政宗の傅役になる |
1581年 | 25歳 | 伊達政宗の初陣に行く |
1584年 | 28歳 | 伊達輝宗の隠居。伊達政宗が家督を継ぐ |
1585年 | 29歳 | 人取橋の戦に参加 |
1589年 | 33歳 | 摺上原の戦に参加 |
1590年 | 34歳 | 豊臣秀吉の小田原征伐。政宗とともに小田原へ |
1591年 | 35歳 | 小田原に参陣するのが遅かったため米沢から玉造郡に減封になる |
1592年 | 36歳 | 文禄の役に従軍 |
1600年 | 44歳 | 関ヶ原の合戦 |
1601年 | 45歳 | 政宗が仙台城(青葉城)に移る |
1602年 | 46歳 | 白石城の城主になる |
1615年 | 59歳 | 死去 |
逸話
●幼い政宗が疱瘡になり右の目が飛び出してきて、劣等感の塊のような子になった。そのとき、景綱が政宗の右目をえぐりとった。
●政宗が危険な時は、つねに身代わりをしたという
●剣術が優れていて、幼い頃の伊達政宗の指南役だった
●笛の名手だった
●豊臣秀吉にも気に入られていて、景綱を家臣にしたかったがんだけど、景綱は断った
●伊達家では「武」の伊達成実と「智」の片桐景綱と言われていた
●自分の妻が妊娠した時、まだ主君の政宗に子供がいなかったため実子を殺そうとしたほどの忠臣だった
●景綱が死んだ時、家臣が6人殉死した
関連のある人々
主君・・・伊達政宗
息子・・・片桐重長?
義理の兄・・・鬼庭綱元
祐筆の人物批評
祐筆
●一番手・・・あいら