戦国時代史

Last-modified: 2017-09-08 (金) 14:09:00

年表

戦国時代前期

西暦毛利元就斎藤道三北条氏康武田信玄三好長慶上杉謙信大友宗麟
1467
77
応仁の乱
97元就生まれる
1504道三生まれる
15氏康生まれる
21信玄生まれる
22長慶生まれる
30謙信生まれる宗麟生まれる
53川中島の戦い川中島の戦い
55厳島の戦い
56道三没
64長慶没
71元就没氏康没
73室町幕府解散信玄没室町幕府解散
78謙信没
87宗麟没

戦国時代中期

西暦織田信長豊臣秀吉長宗我部元親徳川家康浅井長政伊達政宗
1534信長生まれる
37秀吉生まれる
39元親生まれる
43家康生まれる
45長政生まれる
60桶狭間の戦い(今川義元没)
67政宗生まれる
70姉川の戦い姉川の戦い(長政没)
75長篠の戦い長篠の戦い
82本能寺の変(信長没)
90秀吉の天下統一
 

長篠の戦い(東海)

意義:この戦いが織田徳川連合軍であの有名な鉄砲の三段撃ちが適用されて、雑兵クラスの
兵隊に鉄砲を扱わせて武田の精鋭騎馬部隊に対して織田徳川連合軍が圧勝した。
この時武田側は重臣クラスの人材がかなり討ち死にしてしまい、真田の当主とその弟も
ここで戦死し、昌幸が家督を継ぐ流れになる。これを機会に武田から離反する者が続出
するようになった。

 

73年に武田信玄が病死すると、四男の武田勝頼は武田家の正式の当主ではなく、後見役
兼当主代行という井伊直虎と同じような立場になった。
信玄は生前駿河遠江だけでなく三河まで侵攻していた。
武田と織田は一時期同盟関係にあり、勝頼の奥方として信長の養女を迎えるまで進んでいたが、
15代将軍足利義昭の蜂起に応じて信玄が同盟破棄したため手切れとなっていた。
信玄は勝頼を次の当主にしたかったが、武田家親戚の反対にあい遺言により後見役兼当主代行
となった。
遺言により信玄の死は隠され、信玄が生きてるが如くに勝頼が外交を対応した。

 

バレたのは信玄であれば積極的に攻めてくるはずなのにいつまでも攻めてこないこと、
また徳川から武田側に寝返っていたある武将が信玄の死を疑って徳川に舞い戻ったことだった。

 

この戦いは勝頼が政権代表となって初めて領地奪還で攻めてくる織田徳川に対するものに
積極的に対応したものだった。
徳川によって奪還されたばかりの長篠城(愛知県新城市)を勝頼側が包囲したことによって開戦した。

安土桃山期

西暦大友宗麟島津義弘豊臣秀吉北条氏政長宗我部元親徳川家康毛利輝元伊達政宗
1530宗麟生まれる
1535義弘生まれる
1536秀吉生まれる
1538氏政生まれる
1539元親生まれる
1543家康生まれる
1553輝元生まれる
1567政宗生まれる
1590小田原征伐氏政没小田原征伐

秀吉の天下統一は自分の手勢を出来るだけ使わずに現地の大名を総動員して
行うやり方だった。現地の争いに朝廷の権威を利用して干渉し、戦争停止命令を
出して聞き入れなければ朝敵とみなして総動員討伐する名目にした。
そうやって外交的に回りくどいやり方で持って天下統一という最も望む結果を
得た。

 

ただし徳川家康のように秀吉の石高に並んだり超えたりする大大名がそのまま
残っていて表向きの体裁だけ駆け足で天下統一したのが実体だった。

四国平定

長宗我部元親VS豊臣政権側(毛利輝元+吉川元春+小早川隆景+)

九州平定

島津義久VS豊臣政権側(大友宗麟、長宗我部元親、毛利輝元)
原因:島津が九州を統一しようとして大友宗麟と戦っていて勝利も目前であったが、宗麟は
豊臣秀吉に助けを求めた。
秀吉は関白という地位と朝廷の権威を利用して戦争停止命令を出し、違反した島津を
朝敵として征伐する名目で戦った。
結果:島津義久の降伏と出家謝罪

東北平定

小田原征伐(関東)

北条氏政VS豊臣政権側(前田利家、上杉景勝、徳川家康)

 

原因:直接には朝廷の代行者として仲裁者となった秀吉の裁定を無視して北条氏政が
戦争を勝手に始めたこと。(恭順の意思は示し、上洛予定もあったらしい)
しかしそれ以前にも信長が本能寺の変で倒れると織田体制に対して恭順していた
にもかかわらず攻め込むなどしていたことなどが積み重なっていたと思われる。

 

意義:軍神と呼ばれた上杉謙信でも落とせなかった難攻不落の小田原城に対して
豊臣政権側は北条氏政の親戚という人の心の弱さにつけ込んで先に下していって
手引きさせ、結果的に心理的に追い込んで氏政を降伏させたが、戦場での約束は
合戦を有利に進めるための小道具にしかすぎず、降伏すれば命と所領は安堵して
もらえるという伝聞を信じた北条氏政は切腹になった。

 

小田原城はたとえ名城でも、それを守る大将の質が低いことに注目して心理的な
揺さぶりをかけて、今降伏したら所領安堵してやるとかそそのかして
結果的には先に寝返って来た親戚や家臣を真っ先に攻め込ませた。
また女子供まで見せしめとなった小田原城最大の支城八王子城(東京都八王子市)の
悲劇は有名。

 

軍師竹中半兵衛の名言に次のようなものがあるが、この時点ではすでに故人で
あったが、後任の黒田官兵衛はまさにそれを証明した。
「要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければものの用をなさない。」

関ヶ原の戦い(中部)

西暦徳川家康毛利輝元島津義弘上杉景勝黒田官兵衛福島正則加藤清正石田三成
15

意義:豊臣家の武断派と文治派の内紛をうまく利用して徳川家康が親豊臣派の大名を
軍縮して、親徳川派の大名の勢力を拡大させて事実上の徳川政権を作り上げた。

 
  1. 石田三成襲撃事件
    前田利家が亡くなって武断派と文治派の間を仲介する古参がいなくなったため、
    武断派は徒党を組んで武力行使でクーデター活動をするようになった。
    利家の子の利長は徳川の求めに応じて生母まつを徳川に人質に出した。
  2. 石田三成の奉行職失脚
    徳川家康の仲介で石田三成は奉行職失脚が決まる。
  3. 会津征伐(対上杉景勝)
    豊臣政権下の代表の徳川家康が豊臣政権の大名を取りまとめて上杉を征伐する
    ために指令を出した。
  4. 石田三成の武装蜂起
    関西以南の大名を味方につけ、徳川と敵対するであろう上杉と真田昌幸を味方に
    できれば徳川に勝てるかもしれないと石田三成は考えて武装蜂起した。
    三成は大垣城(岐阜県大垣市)を出発し、関ヶ原(同関ヶ原町)に向かった。
     
    武断派の親豊臣派の大名達は自分達が主体の内紛でむしろ徳川家康は脇役で
    手伝ってくれてるものだと関ヶ原の戦い前は信じ切っていた。また主だった大名も
    名目が豊臣家の内紛だからという意味で積極的に関わろうとしなかった。(秀吉の
    天下統一の平定は関白という地位と朝廷の権威の元で行われたことに注意。)
     
    しかし現実は戦争は全くの徳川勢力のさらなる拡大のために利用されただけに
    すぎなかった。
    関ヶ原の合戦で勝利した徳川は250万石から550万石まで勢力を拡大させた。
    東軍の徳川についた大名も親豊臣派と思われる大名は九州など江戸から遠い
    ところに領地代えしたりいちゃもんつけて改易したりして失脚させてしまった。
     
    戦後:豊臣政権内の奉行衆が総失脚し、西軍についた大名の所領を削減していった。
    この時点で最初の目的だった上杉景勝は領地を120万石から30万石に削減された
    だけにとどまった。また島津も例外的に処分されなかった。

大坂冬の陣・大坂夏の陣

西暦徳川家康長宗我部盛親真田幸村黒田長政豊臣秀頼
15

この戦いが開始される前、豊臣秀頼の所領は50万石程度で、豊臣家に仕える
大名は同時に徳川家康にも仕えるという二股構造になっていた。

 

そして戦争する以前から全ての大名は基本的に表向き徳川に逆らえない
状況にされていた。石高的にもほとんどの大名が50万石程度以下に
抑え込まれてしまった。

 

そのため豊臣側で参加したのは、せいぜい関ヶ原の戦いで取り潰された大名で浪人の
長宗我部盛親と同じく軟禁されていた浪人の真田幸村であった。
(真田昌幸はすでに他界していた。)

 

それにもかかわらず大坂城はさすが元石山本願寺の跡地で、信長が11年かけて
やっと落とした軍事的な要塞でもあったため、簡単には落ちなかった。

 

そこで大坂城の秀頼の生母の茶々が戦の素人であろうことを予想して、
豊臣を滅ぼすことを前提とした軍事的機略手段としての和睦を巧みに利用して
堀を全て埋めてしまうという、徳川に戦いが有利になる状況を次々と作り上げて
から一気に勝利したのである。

江戸時代前期