玉ねぎ戦争

Last-modified: 2023-09-04 (月) 00:04:42
玉ねぎ戦争
年月日:1915年7月~1918年11月
場所:ニューラシア大陸
結果:イゲレス=フランチュ連合軍の勝利
   ロントン条約が結ばれた。
交戦勢力
イゲレス
フランチュ
共同参戦国
美華殿帝国と愉快な仲間たち''
バウストリア=ニャンガリー二重帝国(以下バウストリア)

概要

1916年にバウストリアはパリィ玉ねぎ事件の報復のため、またフランチュの領土獲得のためにフランチュに宣戦布告した。一時はフランチュが敗北寸前まで追い込まれたが、土壇場でイゲレスが参戦し最終的にはイゲレスとフランチュの連合軍が勝利した。

背景

バウストリアはヤーラッパでの領土こそ多かったものの、肝心の植民地が全くといっていいほどなくフランチュの植民地を得るため、また、過去の度重なる植民地戦争でフランチュと戦いその結果バウストリアの植民地が大幅にフランチュに奪われたことなどの理由によりフランチュに対する印象はあまりよくなかった。そのためフランチュに対し戦争の機会を昔から伺っていたが、ある時パリィでの首脳会談の時にフランチュ首相が誤って玉ねぎを時のバウストリア首相に振る舞ってしまい*1その数時間後にその首相が死亡したこと*2(パリィ玉ねぎ事件)からバウストリアはその報復の意味を込めてまたフランチュの植民地の獲得(バウストリア国内では”奪還”と呼称された)をするためフランチュに宣戦布告した。

開戦直後

開戦後のバウストリアは先ずフランチュの一部を占領後敢えて一度撤退をしフランチュとの国境に予め建設したマジニョ線に立て籠り防衛戦を展開した。
マジニョ線は当時最新鋭の要塞で巡洋艦クラスの砲や敵の攻撃の危険に晒されずに移動できる地下鉄等至れり尽くせりな要塞であった。
この要塞の圧倒的防御力を使いマジニョ線の戦力を軽視した結果、半ば強引にバウストリアへの報復的攻撃を画策したフランチュの主力を消耗させた。
ここでフランチュの主力を消耗十分させた後機甲師団を用いて電撃的に攻勢を開始し僅か10日でフランチュ軍の主力を包囲し壊滅させた。(10日攻勢)
余りの攻勢の速さにフランチュのある将軍が”降伏には断る、我が祖国に乾杯!!*3”という謎のセリフをはいたのは有名。
この戦いでフランチュ本土の主力を喪失したフランチュ軍は各地に防衛線を築く事しか出来ずまたその防衛線も貧弱だったためほぼ無傷のバウストリア軍主力部隊に各個撃破されてしまった。

パリィ防衛戦

こうしたバウストリアの緒戦の勝利によりバウストリアの主力部隊による大攻勢により戦線は遂にパリィまで達した。
バウストリア軍5万人フランチュ軍3万人が戦ったこの戦いは玉ねぎ戦争で最も悲惨な戦いとして知られている。
数的不利だったフランチュ軍は市内でゲリラ的防衛戦を展開し、バウストリア軍を消耗させたがバウストリア軍はフランチュ軍が隠れている可能性のある場所を徹底的に破壊しフランチュ軍の隠れられる場所を減らし
一人一人殺していった。
また戦闘はパリィ中心部まで届きパリィの美しい街並みは破壊されることとなった。
この戦いはパリィの東地区に存在するフランチュ軍の本営が占領された所で終結し、パリィはバウストリアに占領されることになった(血の日曜日)。
しかしフランチュはパリィを占領されたにも関わらず降伏をせず北部で包囲されかかっていた部隊はタンケルクでいつかの本土奪還作戦に備えるため植民地に撤退(ダイナマイト作戦)、チャルル-ドチョール将軍?などの一部の士官の麾下の部隊はパリィ占領後もフランチュ本土で戦闘を続けフランチュ軍は絶望的な防衛戦を続けることになる。

イゲレスの参戦

このままフランチュが敗戦するかと思われていたが狭間海にてフランチュに行く船団護衛中のイゲレス海軍の駆逐艦ウッドブリッジをバウストリア海軍の潜水艦Q-25が撃沈した*4こと(ウッドブリッジ号事件)によってイゲレス世論がバウストリアに宣戦布告せよとの論調になり、ウッドブリッジ撃沈からわずか10日でイゲレスが参戦した。
同時に当時美芸同盟を結んでいた美華殿帝国やイゲレスの属国等の国も参戦し戦争の行方はフランチュとイゲレス側に有利な展開となった。

ウホランド沖海戦

イゲレス参戦後はイゲレスの国力のお陰もありイゲレス=フランチュの連合軍が今までと一転して有利な状態となった。
またイゲレスが参戦するとバウストリアの海軍は強力なイゲレス艦隊に打ち勝つために通商破壊や制海権確保のために依然よりさらに活発に活動をした。
そしてついにはイゲレスとバウストリアの主力艦隊の艦隊決戦が起こった。
それがウホランド沖海戦である。
この海戦には30隻以上の艦艇が参加しヤーラッパ有数の大海戦となった。
またこの海戦には共同参戦国の艦艇も参加し特に大帝洋戦争で死闘を繰り広げた美華殿型戦艦とオビロリチ-ナツ級が同じ敵を倒すために戦っているのはかなり奇妙な事であった。
当時この海戦に参加した巡洋艦ブルーベリーに従軍カメラマンとして参加した は次のように回想している。
「この海戦は地獄のようだった。大芸帝国の栄光足らしめる軍艦がまるで玩具のように沈んでいく。それはまるで大芸帝国の栄光が天使によって取り去られるような感じがした。」
と後に回想している。
この海戦はバウストリア海軍が撃沈した数では勝ったがバウストリア海軍の艦艇も多くが損傷、喪失しておりこの後バウストリア海軍の活動は大きく縮小しイゲレス=フランチュの連合国がヤーラッパ大陸?周辺の制海権を手に入れた。

反転攻勢

ウホランド沖海戦で制海権を手に入れたイゲレス=フランチュ連合軍は未だフランチュ北部で戦っている部隊の支援、引いては戦局の挽回のため戦多くの輸送船をフランチュに送り込んだ。
これらの輸送船には主に植民地から徴兵した兵士やイゲレス軍の兵器が積まれており一部は潜水艦により撃沈されたものの多くの輸送船がフランチュに着くことに成功した。
この支援元でイゲレス=フランチュ連合軍はバウストリア軍にたいし攻勢をかけた。(ビーナス作戦)
一時期はフランチュは沿岸部まで追い込まれていたものもこの攻勢によってパリィ?の奪還等多くの都市を解放した。

マジニョ線攻略作戦

攻勢によりによりイゲレス=フランチュ連合軍はバウストリア国境のマジニョ線まで到達した。
先述の通りマジニョ線は巡洋艦クラスの砲や敵の攻撃の危険に晒されずに移動できる地下鉄等強力な設備があり現在の兵器では人的資源を多く消耗するのは明白だった。
その為この要塞の攻略のために多くの新兵器が投入された。
例として自走爆弾のウゴクジャンや超音波で攻撃をするガマー音響戦車がある。
しかしバウストリアはイゲレス=フランチュ軍の攻撃に備えて要塞線を何重にも置くなど*5要塞を強化しておりこれらの新兵器を用いても攻略は困難を極めた。*6
当時、この要塞に勤務していたある通信士官は後方の基地にこんな電文を送ったという。
"マジニョ要塞は敵軍死屍をもって舗装されたり"
この有名な電文は瞬く間にバウストリア全土でプロパガンダとして報道され一時的にバウストリア国民の士気を大きく高めた。
...このような大要塞を前に攻勢はここで再び膠着することになるがイゲレスが植民地の兵士を主体にこの戦いに送り込みイゲレス人やフランチュ人の部隊は後方で待機するという外道戦術でイゲレス=フランチュ連合軍は本国の人間の人的被害を押さえることに成功した。*7
そしてこの戦争はごり押しでマジニョ線を攻略後、電撃的な攻勢でバウストリア首都ウェーンを占領し終結するかと思われたが思いもよらないきっかけで誰の想像よりも速く終結することになる。

バウストリアかぜ?の流行

1918年8月頃からバウストリア国内で発生したバウストリアかぜは非常に感染力が高く瞬く間にバウストリア全土に広がった。
またこのウイルスは一度感染した後でも抗体がつきにくく何度も感染するためとても厄介なウイルスだった。*8
幸いなことにこのウイルスが発表されて直ぐに周辺国はバウストリアに対して国境封鎖を行いこのウイルスが周辺国に広まることはなかったがこのウイルスによりまたそれに伴う周辺国の国境封鎖によりもはやバウストリアは戦争どころではなくなり、
1918年11月20日にバウストリア皇帝ワンル一世はバウストリア全軍に戦闘中止命令を出しその7日後の11/27日にバウストリアは正式にイゲレスやフランチュ等の連合軍に降伏をし玉ねぎ戦争はイゲレス=フランチュ連合軍の勝利に終わった。
バウストリア降伏後直ぐにイゲレスからの特効薬やワクチンが届き幸いなことにこのウイルスが世界に広まることはなかった。
また連合軍兵士は全員バウストリアかぜのウイルスを打っていたためイゲレス=フランチュ連合軍の中でバウストリアかぜが流行ることはなかった。

戦後

  • バウストリア=ニャンガリー二重帝国はロントン条約により解体され、一部の領土を除くほとんどの地域が民族自決の考えにより独立した。
    しかし独立した国々の経済基盤は貧弱であり、半数の国が直ぐに社会主義革命を起こしイゲレスやフランチュ等と対立している。
    またファ!?シズムの台頭によりこの国々にもこの思想が蔓延しておりヤーラッパで今後再び大規模な戦争が起きるのは明白だろう。
    ちなみに地域としての名前としてはバーニャンの名は残っており*9今後も多くの国の地図でこの名称が使われるだろう。
  • 国土のほとんどが戦場となったフランチュでは復興に賠償金の半分以上が使われている。
    結果的にフランチュがこの戦争で得られた物は焦土化した国土と作りすぎた兵器となった。
  • イゲレスは植民地により大量の資源を同盟に供給ができた。
    またイゲレスはその資源によりまたあまり被害を受けなかったこともあり復興もかなり容易にすることができた。
    しかしこの戦争で植民地の反イゲレス感情は高まっており今後のイゲレスは難しい判断が必用となる。
  • バウストリアかぜについてはイゲレスが開発した生物兵器のプロトタイプという説があり旧バウストリア領に存在する国では教科書に乗るほどこの説が有力視されている。
  • 戦後旧バウストリア国内(猫系住人が多い国を除く)ではユダニャ猫が連合軍に協力してバウストリアの軍備やインフラにダメージを与えそれが影響でバウストリアが負けたのだという噂(背後の引っ掻き論)が流れ今も続くユダニャ猫差別の原因のひとつとなった。*10

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Tag: 戦争 バウストリア イゲレス フランチュ 玉ねぎ


*1 フランチュでは玉ねぎ料理で客人を歓迎するのが風習
*2 犬にとっては玉ねぎは毒
*3 元ネタ:西犬大西洋条約機構
*4 当時フランチュに行く船は無差別に攻撃をするとバウストリア側は通告していた つまり...
*5 扱い上はマジニョ線の一部とされた
*6 結局戦争の終結までには第三要塞線までしか攻略が出来なかった。
*7 尚植民地の人間は...おっと誰か来たようだ
*8 どういう仕組みなのかはご想像にお任せします
*9 バウストリアとニャンガリーの地域名として定義されている
*10 この出来事を今日の猫犬対立の遠因とする歴史家もいる。
*11 これから作る