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アズキニア王国の歴史の項目に関してのアンケート
詳細
名称 | アズキニア王国 |
---|---|
読み方 | あずきにあおうこく |
漢字表記 | 亜津吉尼亜 王国(一字表記は「亜」) |
英語表記 | Azkinia kingdom(三字表記は「AZK」) |
別名 | 病気の巨人 |
首都 | 王宮首都シュマリ、経済首都メクトフォール*3、司法首都イドリュス、行政首都メクトフォール、立法首都オーズデン |
国家元首 | 神聖皇帝???*4、大統領アラン・レーキンル*5 |
成立 | 未定*6 |
政体 | 権威主義体制、立憲君主制 |
位置*7 | ナゴン諸島?全域、シェイエロー諸島全域、ポラリス諸島全域、北エステル諸島、ニューペルス島全土、ラスフェル島全土、メロロンバー大陸北西岸地域 |
人口 | 172,427,189人 |
言語 | 神聖語、アズキニア語など |
通貨 | ダカット |
GDP | 120,923,182,490,369ダカット |
イデオロギー | 自由貿易主義、中道主義、孤立主義、インターカルチュラリズム |
標語 | アズキニアよ、鷹揚であれ |
この国の一般ニュース
目次
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概要
アズキニア王国(アズキニア王国、英語: Azukinia Kingdam)、通称アズキニアは、大泉洋南西部に位置する君主制国家である。首都はダイナゴン島に位置するメクトフォール特別市。3710キロメートルと東西に非常に長く連なり、多くの海域に9000を超える島嶼を抱える世界最大級の海洋国家である。多様性に富む領土の中には冷帯から亜熱帯、大山脈から沈水海岸まで幅広い気候や地勢が見られる。国土の多くが温暖冬季少雨気候と温暖湿潤気候に属し、一年の気温差が比較的大きい。
海洋国家でありながら歴史的経緯によって周辺の大陸にも領土を有しており、その他に世界各地に植民地を持つ。島嶼国家であるため、その広大な領域に対して本土の陸上の国境線で面しているのは、エステランド島におけるエステランド共和国、シャルケー半島におけるリアランズ帝国、ダイナゴン島におけるストレーザ公国、西方大陸領土における南YouTuber連邦、粘土帝国のみである。北で中漠海、北西で大泉洋、東でアントガール海とメロビア大陸、西でレニア海、南東でエステル海、北西でベーシック海峡を隔ててクロイシアと隣り合う。
人口は1億7000万人を超え、西アズキニアの東部平原おいて特に人口の集約度が高い。特にレヴァン側北河口部周辺に集中していたが、8.31により壊滅したので、新経済首都の建設が計画中である。主要民族はアズキニア人であるが、国境部で様々な民族を抱えており、インターカルチュラリズム政策によって文化的多様性を容認しながらも、アズキニア社会への同化を進めてきた。公用語はアズキニア語を基本としながらも、地域によっても変化する。
アズキニアは百以上の国家と国際関係を樹立しており、これは世界中で最多である。それに加えて世界最古級の長大な歴史や、美しい自然や建築物などの豊富な観光資源を有し、唯一無二の独自文化を形成してきたため、知名度*8世界一位の大国として知られるようになった。但し外交的には基本的に孤立主義政策をとり、同盟を組まず、必要以上に国際情勢に関与しないことを軸とした外交を行なっている。これは『平穏なる孤立』と呼ばれる。
産業は広い植民地で大規模な商業的・企業的農業が盛んであり、本土でも主食は完全に自給できているため食料自給率は150%を上回る。粗放的な側面が見られるため土地生産性はそこまで高くないが、その分土地が広いので労働生産性は高い。脱工業化が進んでいるため、鉄鋼や輸送用機械類の生産量は少なく、ICT産業などを除いて工業はそこまで盛んではない。第三次産業が大変盛んで、前述した国交樹立国家の多さや立地的な優位性によって貿易が大変盛んであり、中継貿易はアズキニアにおいて重要な外貨獲得手段である。また、その知名度も相まって世界的な金融や流通の中心地となっている。また植民地や保護国などからなる強大なアズキニア市場を形成しており、経済的な覇権を握っている。
選挙や議会などは完全に充実はしておらず、完全な民主主義体制ではなく中道体制に当たる。
小豆などの豆類が主に栽培されている。軍隊は物量だけの雑魚。改革が進まなかったせいで軍隊が弱く国の制度も後進的。*9戦争などの国家間対立には基本的に中立。
余談だが、この国は一度も公にアズキニア王国と名乗ったことはなく、正式名称はアズキニア国である。但しほとんどの場合でアズキニア王国と呼称される上に、当国もそれを公式に認めている。
国旗
国旗?うちにはまだないよ......。
*10
アズキニアの定義
地理的名称
アズキニアとはどこまでを指すのかには未だに議論があり、はっきりと定義されていない。ナゴン諸島、シェイエロー諸島全域、北エステル諸島、ラスフェル島全土がアズキニア統一戦争までのアズキニア系王朝が継承する王国群の慣習的な領土とされ、同時にここまでの範囲が、その地域の言語分布においてアズキニア語の話者が最大派となる範囲である。ポラリス諸島、ニューペルス島、メロロンバー大陸北西岸地域についてはアズキニア統一戦争や対外戦争期に獲得した領土であり、アズキニア語話者の割合は低い。特にメロロンバー大陸地域では昔からリアンスと、この地の支配をめぐり争ってきた。この三地域は多くの場合アズキニアに含まれないが、現在のアズキニア王国の中央政府の統治下にあり、王国の行政区分的にはアズキニア本土に分類される。
アズキニア王国は東部に非中核州を三つ、中漠海に二つもつ。また、周辺の非自国領の十一州に請求権を持つ。
また、単にアズキニアという場合には植民地も全て含んだアズキニア王国全体を指す場合があるので地域としてのアズキニアを指す場合には『アズキニア本土』と呼称される場合が少なからずある。*11
歴史的名称
アズキニアという名称が初めて使われたのは青銅器時代後期だと推測されている。それ以前にクロイシア地方ではアズキニアのことをアズケルク、メロビア地方ではキニアナと呼んでいた。それが東西公益の活発化により混ざってアズキンニアという言葉が生まれ、アズキニアへとなまってクロイシア、メロビアにもアズキニアという呼び方が普及したとされる。尤も、アズキニアとはクロイシアにとってはロード山脈以東のダイナゴン島などの島嶼を漠然と指す言葉で、メロビアではマトリア海以西を漠然と指す言葉であり、意味は大きく異なっていた。どちらにせよその歴史において自らをアズキニア王国と名乗ったことはなく、アズキニア王国というのはジラント朝の国王が支配していた歴代の国家を総称していう言葉である。アズキニアの範囲は時代によって大きく変化してきた。
そしてこんな言葉がある
『アズキニアは大陸と呼ぶには小さすぎ、ただの島々として扱うには大きすぎる』
国民精神
- 神聖皇帝の慈悲
数千年に渡ってアズキニアを治めてきたジラント家の威光は君主主義が廃れつつある現代に於いてもまだ健在である。アズキニアの統合に於いてこれほど優れた象徴は未だかつて存在せず、これから現れることもないだろう。偉大なる神聖皇帝陛下万歳!- 安定度+45
- 戦争協力度+15
- 政治的準内戦
直近100年で引き起こされた一連の出来事は、アズキニア全体に経済格差をもたらした。経済格差はイデオロギーの対立を生み、アズキニアの人々を分断している。- 降伏限界-50%
- 安定度-20%
- 安定度20%以下で内戦が発生
- 平穏なる孤立
アズキニア王国は小諸島戦争における苦い敗北の経験から、他国と同盟関係にあることを極端に嫌悪するようになった。その恩恵か、数百年にわたってアズキニアは大戦争に巻き込まれず安定した平和と貿易による莫大な利益を享受し続けることができた。しかし、妄信的な非同盟主義はやがて国際社会からの孤立へと変貌を成し、軍隊の守旧化や工業の衰退などの現在まで続く問題を引き起こした。さらに、昨今のアズキニアを囲む状況は変化しつつあり、アズキニア周辺は最も緊張が高まる地域の一つとなった。今やこの『平穏なる孤立』は国際協調が叫ばれる時代にアズキニアの地位を低下させているのかもしれない。アズキニアは外交政策の見直しを迫られている。- 日毎の政治力獲得-0.5
- 安定度+10
- 戦争協力度-20
- 異なるイデオロギーの国家との関係改善コスト-50%
- 国際緊張度の上昇-50%
- 陣営加入の国際緊張による制限+100%
- 義勇軍派遣の国際緊張による制限+50%
- 独立保障の国際緊張による制限+100%
- 我々に対する戦争目標正当化時間+500%
- 禁輸の国際緊張値+250%
- 日毎の中道主義への支援+0.01
- 貿易への依存
アズキニアは古来依り貿易によって莫大な利益を獲得し、- 民需工場建設速度+30%
- 民需工場出力+20%
- 造船所出力+20%
- 軍需工場出力-20%
- 生産効率上限-20%
- 州毎の建設上限-1
- 消費財工場30%
- インターカルチュラリズム
- レジスタンスの目標値-0.001%/日
- 安定度-10
- 請求州の徴兵可能人口補正+100%
- 迫らざる脅威
- 徴兵可能人口-30%
- 指揮力獲得-10%
- 軍の消耗+10%
- 師団攻防-20%
- 師団の訓練速度+35%
国歌
題名:アズキニアに栄光あれ!
神秘の元に栄えし土地よ
神なる我等が主の元で
全ては我等の栄華のために
我等にさらなる繁栄を!
世界中の民は我等の同胞
共に親交を築こうぞ
たとえ血が流れようとも
美しき祖国に栄光を!
ああ 偉大なるアズキニア!
神よ 我らに祝福を!
ああ 偉大なるアズキニア!
友よ 我らに永幸を!
恩寵の大地 アズキニアは不滅なり!
植民地、海外領土、傀儡国、保護国、自治領など
海洋生存圏*12を完成させるのが目標。世界各地に広大な領土を持つ。最近植民地にして直接支配するより市場に入れて経済的に支配した方が効率がいいことに気づいた。南方に巨大勢力圏を持つ
海外領土
本国と同じ扱いで直接統治される海外の領土。軽度な自治権が認められている。基本的に小規模な島嶼や商業植民地としての海外の拠点が該当する。
- アズキニア王国領コールドランド
コールドランド島の海外領土。海峡に面する重要拠点。とても寒冷な気候のため人口は極端に少ない。鯨やオキアミの漁が盛ん。 - アズキニア王国領ナラキア
分割大陸にあるアズキニア最北の植民地。面積は極端に狭いが港があるためそこそこ人は居るため、唯一の隣国であるナラキア国にいろんなものを依存している。
直轄植民地
- アズキニア王国領リガルフィア
分割大陸の植民地。原住民が元々アズキニア人と同一のハプログループだったので入植と繁殖によって大きく人口が増えている。文化が近似的なので同化政策の必要がない。世界随一の穀倉地帯で、アズキニアのパン籠とも呼ばれる。 - アズキニア王国領西オメガ
OMG大陸の領土。現地人を働かさせている。に働ける場所を提供してあげている。アズキニア王国の経済を支える重要な基盤の一つ。昔から政情が不安定な上に近年は経営赤字に苦しんでいる。 - アズキニア王国領メリア
西オメガの近くに位置する島。香料諸島。 - アズキニア王国領北フリーステート連邦
冷帯と寒帯に属し、人口は少ない。自治度が高い。緩やかな連邦を構成する。この土地を支配する勢力たちが、各々政治をしているため統合はほとんどされていない。植民地というよりは、名目上アズキニア王国領とすることで政情不安定地域の混乱を防ぐ統治機構に近い。ただし実質上経済的に支配しており、富のほとんどは東部平原に流れていく。 - アズキニア王国領エルドビア
イルネシア共和国から移譲された。 - アズキニア王国領ケタスグルク
極夜王国の崩壊に伴い孤立した極夜王国領アズズキバーを接収したもの。投資を進めて人口を増やそうとしている。 - アズキニア王国領マニア?
- アズキニア王国領ルクミル?
保護国
政治
神聖皇帝を首長とする立憲君主制国家。神聖皇帝は聖ティアナスファの王冠の元で『国家の信念』に従って国家方針を決定する。神聖皇帝の力は神から与えられたものである。裁判は裁判所で公正公平に行われる。人道的な視点とこの国の風俗から、死刑制度はない。かつては神聖皇帝の下に統領政府があり第一統領から第五統領までがいたが、国民と皇帝が統領制に限界を感じ、大統領制を導入。しかし旧体制派は元老院となり依然として権力を握っている。
アズキニア王国は一応民主主義を導入してはいるものの、政府の権力が強い。国王の権力は弱いが、元老院や補完議会の権力が強く、国民の権利は弱い。貿易と植民地収入に依存して改革を怠ってきたため、諸制度や技術も経済力の割に非常に後進的である。さらに大統領と元老院が互いに干渉可能であるため、政治は全く進展しておらず大きな問題となっている。
改革を求める大衆と体制の維持を試みる上流階級。これらの間の緊張はもう限界がきている...。思えば、2000年前から改革を怠ってきたアズキニアで革命が起こるのはもう時間の問題なのかもしれない。
首都
王宮首都のシュマリ、経済首都のメクトフォール*13、立法首都のノバルスレムス、行政首都のメクトフォール、司法首都のオーズデンに分かれている。権力の集中を防ぐためである。だが、行政首都と経済首都が同都市に置かれる今、財界の有力者と行政の結びつきが問題視されており、首都を分散する効果が疑問視されている。
かつては最も発展した都市であるシュマリが単一の首都だった。しかし航海技術の発展による海上貿易の活性化によりレヴァン川河口部のウルシワフが経済力で、戦乱で疲弊したシュマリに変わって首位都市となったことでウルシワフに首都機能が移転された。だがこの時、神聖皇帝は伝統ある歴史都市シュマリに残ることを決定。これが現在採用されている複数首都制度の原点である。メクトフォールは各地の経済的不平等の緩和のために建てられた都市だったが、現在は行政首都になるまでに発展を遂げた。同様に過密の緩和と分権化を目的としてイドリュスとオーズデンに立法権と裁判権が委譲され、五首都制が確立した。
大統領
大統領の権力は本来強力だが、既得権益層の支持を得た元老らとの対立によりそれを活かせないでいる。
主な政党
- アズキニア保守連合
中道右派政党。反社会主義、反議会主義を採って現在の体制の維持を最大の理念としている。歴史も古く、地方貴族や上層ブルジョワジー、教会などの既得権益層によって強く支持され、議会制度が形骸化している現在においては元老院との協力のもと寡頭政治体制を確立している。
- アズキニア共産党
極左政党。議会制共産主義の実現により、格差により分断された国民全員の真の平等の実現を目指す。人民戦線に加わらなかった極左派が人民戦線派と分離して作った政党。共産党主体のプロレタリアート独裁を経て、共産主義世界へ移行することを目指す。知識人によって、貧しい市民からの支持を集めつつある
- アズキニア人民戦線
21世紀に入ってから、右派への対抗を目的としてアズキニア社会民主党とアズキニア自由党が合併したところにアズキニア共産党が加わって作られた。もともと議会主義をめぐって対立していたためある程度の分裂はあるものの反ファシズムで連携している。アラン・レーキンルの師によって一つにまとめられ、知識人や共和派ブルジョワジー、とし労働者の強い指示を集めている。議会制度の健全化と格差の解消を主張している。長年の活動の結果、七月暴動によって中央政府に自分達に有利な大統領制度を取り入れさせることに成功し、勢力拡大を目指す。
- 神聖で大いなるアズキニアの復活を目指す党
極右政党。カンブリカ大陸の全領土の占領などの植民地拡大で強大な勢力圏を作り上げ、閉鎖経済と搾取により経済を躍進させて余った金を軍事費に費やすことで、さらに植民地を広げてかつての栄光を取り戻すことを主な目標としている。ナゴン人以外の民族のアズキニアからの排除や非人間の絶滅なども目指している。言わずもがな大アズキニア主義。
- 投票倶楽部
政治は全て国民投票のみで決めらるべきだと主張する政党。直接民主主義を異常なほどに神聖視している。政策の斬新さが人気を博している。一部の農民などによって支持されているがほとんど勢いがない。
- アヴァンギャルド・アズキニア
超過激派の加速主義政党。新古典主義を否定しており、歴史の抹消を目指す。現在議席なし。とある勢力と繋がっているという噂がある。
国家方針
- 軍の再編
軍部を国家権力のもとに集約しかつての軍事力を取り戻す。 - インターカルチュラリズム
多様性の尊重と社会への統合を目指す。 - 経済帝国主義
停滞した経済を立て直すために、植民地政策を大幅に見直す。 - 富の再分配
富裕層にのみ集中している富を貧困層にも分配し、格差を是正する。
実際はどれも一割も進んでいない
制度*14
本国 *15
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 君主制 | 経済システム | 干渉主義 | 言論の自由 | 集会の権利 |
権力の配分 | 寡頭制 | 貿易政策 | 自由貿易 | 労働者の権利 | 規制機関 |
市民権 | 多文化主義 | 税制 | 比例課税 | 子供の権利 | 小学校義務教育 |
教会と国家 | 完全分離 | 農地改革 | 商業的農業 | 女性の権利 | 女性参政権 |
官僚制 | 世襲制の官僚 | 植民地化 | 本国のためなし | 福祉 | 救貧法 |
軍の体制 | 職業軍人 | 警察活動 | 専門的な警察機構 | 移住 | 移住規制なし |
国内治安 | 国家警備 | 教育システム | 公共学校 | 奴隷制 | 遺産奴隷制 |
医療制度 | 民間健康保険 |
リガルフィア
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 農本主義 | 言論の自由 | 検閲 |
権力の配分 | 専制政治 | 貿易政策 | 保護主義 | 労働者の権利 | 規制機関 |
市民権 | 文化的排斥 | 税制 | 人頭税 | 子供の権利 | 児童労働の制限 |
教会と国家 | 完全分離 | 農地改革 | 小作制 | 女性の権利 | 女性の職場進出 |
官僚制 | 世襲制の官僚 | 植民地化 | 植民地再定住 | 福祉 | 救貧法 |
軍の体制 | 国民民兵 | 警察活動 | 専門的な警察機構 | 移住 | 移住規制 |
国内治安 | 国家警備 | 教育システム | 民間学校 | 奴隷制 | 遺産奴隷制 |
医療制度 | 慈善病院 |
コールドランド
本国より先進的な法律。ただし、それ以上に気候が厳しいので住民は少ない。
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 干渉主義 | 言論の自由 | 言論の保護 |
権力の配分 | 長老評議会 | 貿易政策 | 保護主義 | 労働者の権利 | 労働者の保護 |
市民権 | 多文化主義 | 税制 | 比例課税 | 子供の権利 | 小学校義務教育 |
教会と国家 | 完全分離 | 農地改革 | 入植 | 女性の権利 | 女性参政権 |
官僚制 | 選挙制の官僚 | 植民地化 | 植民地再定住 | 福祉 | 賃金助成 |
軍の体制 | 国民民兵 | 警察活動 | 専門的な警察機構 | 移住 | 国境閉鎖 |
国内治安 | 国家警備 | 教育システム | 公共学校 | 奴隷制 | 奴隷廃止 |
医療制度 | 民間健康保険 |
西オメガ
酷い制度
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 産業禁止 | 言論の自由 | 異議の禁止 |
権力の配分 | 専制政治 | 貿易政策 | 重商主義 | 労働者の権利 | 労働基本権の無保障 |
市民権 | 民族国家 | 税制 | 消費ベース課税 | 子供の権利 | 児童労働許可 |
教会と国家 | 良心の自由 | 農地改革 | 農奴制 | 女性の権利 | 法的被後見 |
官僚制 | 世襲制の官僚 | 植民地化 | 植民地搾取 | 福祉 | 社会保障なし |
軍の体制 | 農民召集兵 | 警察活動 | 警察なし | 移住 | 移住規制 |
国内治安 | 秘密警察 | 教育システム | 学校なし | 奴隷制 | 奴隷貿易 |
医療制度 | 医療制度なし |
北フリーステート連邦
バラバラ!
ナラキア
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 干渉主義 | 言論の自由 | 言論の保護 |
権力の配分 | 長老評議会 | 貿易政策 | 保護主義 | 労働者の権利 | 労働者の保護 |
市民権 | 多文化主義 | 税制 | 比例課税 | 子供の権利 | 小学校義務教育 |
教会と国家 | 完全分離 | 農地改革 | 入植 | 女性の権利 | 女性参政権 |
官僚制 | 選挙制の官僚 | 植民地化 | 植民地再定住 | 福祉 | 賃金助成 |
軍の体制 | 国民民兵 | 警察活動 | 専門的な警察機構 | 移住 | 移住規制 |
国内治安 | 国家警備 | 教育システム | 公共学校 | 奴隷制 | 債務奴隷 |
医療制度 | 民間健康保険 |
エルドビア
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 農本主義 | 言論の自由 | 言論の保護 |
権力の配分 | 寡頭政治 | 貿易政策 | 重商主義 | 労働者の権利 | 労働者の保護 |
市民権 | 文化的排斥 | 税制 | 比例課税 | 子供の権利 | 小学校義務教育 |
教会と国家 | 完全分離 | 農地改革 | 商業化農業 | 女性の権利 | 女性の職場進出 |
官僚制 | 選挙制の官僚 | 植民地化 | 植民地再定住 | 福祉 | 賃金助成 |
軍の体制 | 国民民兵 | 警察活動 | 専門的な警察機構 | 移住 | 移住規制 |
国内治安 | 国家警備 | 教育システム | 民間学校 | 奴隷制 | 債務奴隷 |
医療制度 | 民間健康保険 |
ケタスグルク
権力構造 | 経済 | 人権 | |||
---|---|---|---|---|---|
政府の原則 | 大統領共和制 | 経済システム | 農本主義 | 言論の自由 | 集会の権利 |
権力の配分 | 専制政治 | 貿易政策 | 保護主義 | 労働者の権利 | 労働基本権の無保障 |
市民権 | 人種隔離 | 税制 | 人頭課税 | 子供の権利 | 小学校義務教育 |
教会と国家 | 良心の自由 | 農地改革 | 小作農 | 女性の権利 | 女性の職場進出 |
官僚制 | 任命制の官僚 | 植民地化 | 植民地搾取 | 福祉 | 賃金助成 |
軍の体制 | 農民召集兵 | 警察活動 | 地方警察 | 移住 | 移住規制なし |
国内治安 | 治安維持なし | 教育システム | 民間学校 | 奴隷制 | 遺産奴隷制 |
医療制度 | 慈善病院 |
国内の政治対立など
大アズキニア主義と小アズキニア主義
大アズキニア主義はアズキニアの直轄植民地をさらに広げ、武断統治により徹底的に服従させて自国の生存権だけで全ての物資を自給することを目指す主義。ごく少数だが、丸々島やメロビア大陸全土などのパクス・アズキニアの時期に支配していた全ての領土を取り戻すべきと主張する過激派*16もいる。小豆が育つ土地は全てアズキニア領と主張する超過激派*17もいて、悩みの種になっている。
対して小アズキニア主義は、植民地は直接的に支配せず経済的に支配するのみにとどめて国外との貿易への注力によって本国の産業の発展を目指す主義である。今植民地の運営に使っている資金を市場内の国家に回して、治安維持費や軍事費をかけずに経済的に従属させ市場を広げ、アズキニアに富をもたらすという理論。ナゴン諸島以外の領土の放棄を主張したりアズキニア王国の解体を主張する過激派も存在し、前述した過激派大アズキニア主義者と闘争を繰り広げている。
この二つの主義の対立により国内はさらなる分断を引き起こしている。
地方行政区分
アズキニア王国は本国をいくつかの管区に分けて統治しており、他にいくつかの伝統ある自由都市がありそれぞれが管区と同程度の権限を持つ。中でも聖都シュマリの市長は王族が兼任し、メクトフォールも上院議員の一人が治めることになっている。
主な都市
- シュマリ
王宮首都 - メクトフォール
行政首都、暫定経済首都 - イドリュス
司法首都 - オーズデン
立法首都
ヴィクフォア
ノバルスレムス
ニーズ
ヨルラント
フィラン
アルン
ソンボラ
ガイロン
ベルメゾン
アデイラ
ステフブール
ユレスト
ヘフェンステッド
ステラリス
ニューアズキニア
フレスタ
トレアド
チューリーズ
パームーン
デリテーヌ
トムリッカ
ティアナスファ
シュローリンゲン
アルヴィク
国民
アズキニア王国国民は国家と皇帝へ忠誠を誓う。現在アズキニア王国は、辺境を中心に多くの多民族を抱え、移民や難民も少なからず来訪する。そうした理由でアズキニア王国は多民族国家のため文化と法律は、国籍を人種や民族と同視するのではなくアズキニア王国市民権と永続的忠誠と同視する。またアズキニア王国では、どの種族でも本質的には平等という考えに基づき種族を理由とした差別は禁止されている。これはどんな種族でも種族を理由に差別を受けないということである。*18しかし経済的な不平等は未だ残り、アズキニア在住テープコナル人の平均所得はナゴン系アズキニア人の3分の2ほどである。また、植民地のアズキニア王国領リガルフィアやアズキニア王国領西オメガでは使い捨ての農民や労働力として反奴隷的な扱いを受けている。
人種政策
また、アズキニアには「奇跡論及び現実改変能力を有する者への事前防衛の許可に関する法令」というものがある。これは相手が超理論的な能力を有する者の場合は、治安機構の事後調査により危機的な状況であると判断されたときに、相手がこちらに危害を加える前に事前防衛として実力の行使を伴う抑止を目的とした過剰防衛は罪に問われないという内容だった。元々は相手が暴力を伴わず超能力を用いて襲ってきそうなときに力で抵抗しても良く、その防衛の正当性の是非は警察などの治安機構が判断するという健全な法令だった。しかしなろう系転生者γが襲来してからはアズキニア人はγへの憎悪から、この法令を根拠にして超能力を持つ者に対して暴力を伴う差別・迫害を加えるようになった。治安機構による正当性の是非についても相手が超能力者、特になろう系転生者の場合は一般市民側の先制攻撃が正当な者だと判断されており、中立であるはずの司法ですら特殊能力側への迫害に加担するような立場をとっている。
また、アズキニア王国では『獣人』や『魚人』に分類される種に市民権が与えられない場合が少なからずある。これはアズキニア王国は孤立主義によってヤーラッパの列強の介入を受けず、啓蒙思想が育ちにくかったという背景に起因する。具体的には、ヒト優生保護法によって『分離不能な体組織の75%以上がヒト遺伝子に起因する生物』のみが人類として認められる。そのため過去のには獣人と人間のカップルがこの国に旅行した際に、獣人だけペット待機場に隔離されたり、獣人が辱めを受けた場合も器物破損剤として処理され僅かな賠償金しか払われなかったという事例が多々ある。そのためアズキニア王国は世界一の知名度や有名な文化があるにも関わらず、獣人や魚人の観光客、移民が極端に少ない。また、アズキニア王国のこのスタンスは言うまでもなく獣人や魚人を国内に多く抱える国家を中心に批判されているが、内政不干渉の原則を理由に改善を拒否している*19。アズキニア王国にはこういった人種問題に関して保守的な思想を持つ層が多く、こうした政策は国民からの一定の支持を得て行われている。だが近年では国内からの批判も増加しつつあり、政府は政策の見直しを迫られている。
民族政策
昔はアズキニアと呼ばれる領域は今よりずっと狭く、国内には民族問題はほとんど存在しなかったが、ジラント家を王に頂くアズキニアがその長い歴史の中で版図を拡大し他系統の民族を領域に抱え込むようになると民族問題が発生するようになった。当初弾圧政策や絶滅政策をとっていたが、かえって抵抗を招いてしまい他民族の排除政策は失敗に終わった。そこでアズキニアは辺境部の多民族に対しインターカルチュラリズム政策を取り、同化主義とも多文化主義とも異なる政策を展開するようになる。同化主義は統合の推進という面では優れているがそれは被統合者からの大きな反発を生む。しかし、多文化主義は多くの異なるアイデンティティが共存するのには適しているが、国民としての連帯感を保つのは難しい。そこでインターカルチュラリズム政策は多様性を認識しつつ共通のものにも焦点をあて、神聖皇帝やアズキニア語などの7項目を移民を含めたすべての人々が尊重すべき「共通の価値」と位置付けている。それによって少数派のアイデンティティを保ちながらも、アズキニア社会に統合し共通の帰属意識を育むことが可能となっている。つまりは社会の基本的なルールや根源的な価値を守るのであれば、多様性が確保されるということで、それは多様性は豊かさの源であり社会に彩りを与えうると言う考えに基づく。文化主義と異なるのはあくまでアズキニアへの帰属意識を中心としつつ文化の多様性を認めている点であり、同化主義と異なるのは、あくまで求めるのはアズキニア社会への統合であってアイデンティティの抹消ではないということである。多様派と少数派の関係に最も重点を置いた考え方であると言われ、アズキニア王国が長い歴史をもとに培ってきた最善の統合方法である。アズキニアにおける数少ない成功政策であると言われている。
但しインターカルチュラリズム政策は代々国内に住む多民族への政策という面が強く、近年増加しつつある遠方からの移民への政策ではない。移民はアズキニア語を最低限行えるほどであれば入国が可能なので、移民の数は比較的多く多くの文化や風習を持ち込んでいる。現状この制度によってアズキニアは安定を維持しているが、アズキニア社会に同化しない移民はアズキニアにおいての問題となりつつある。
インフラ
水道
アズキニア王国は比較的水資源に恵まれており、地域差は少なからずあるものの、全域で人間の生息に必要な量の水を確保できる。ただし、人口が集中しており水不足に陥りやすいカラカン平原や西部台地などでは、ロード山脈以西に降った雨を地下水路で運び込んで一定の降水量を確保している。また熱帯ほど顕著でないものの僅かに雨季と乾季と呼べるほどの降水量の違いは特に東部平原の周辺の高地で存在する。そのため昔からため池が作られ、灌漑が行われてきたりした。山地に降った雨や雪が川となって平原に流れ出し、一億人を超えるアズキニア人の喉を潤している。
西アズキニアはほとんどがナゴン諸島が占めることから水道整備は進んでおり、東部平原ではほとんどの国民が水道水を利用できる。一方で東アズキニアは多島海の上に幾多もの島が浮かぶ地形であるため、水道整備にもコストがかかるという理由で有人島の約4分の1には水道が通っていない。それらの島に住む人々は島嶼部の豊富な水量を活かして、昔ながらのため池などに水を溜めて生活している。近年では主要な有人島から、一部の過疎が進行している離島に船舶を通して水を供給するなどの取り組みが行なわれている。
電気
本土では火力発電が中心である。石油や天然ガスを燃料としている発電所は少なく、未だに石炭を使って発電している。地球温暖化や大気汚染などの環境への深刻な影響が懸念されているが、石炭が安価であることから現在でも石炭火力発電が主流である。
昔はレヴァン川上流での水力発電が大変盛んだったが、今は観光事業における景観保護の観点と交通の妨げになることから全て取り壊されている。それでも山奥には多くのダムが残り、特に傾斜が激しく高度も高いロード山脈に全体の87%が集中している。ただし、それでもアズキニア本土全体の電力の16%を供給しているに過ぎない。
また、トレアス半島やロード山脈の西側では一年を通して比較的強い風が吹くため山地での風力発電が盛ん。
原子力発電はシェイエロー諸島の離島部などに僅かに存在する。
交通
鉄道
アズキニア王国は島国なので、ダイナゴン島以外は鉄道は国力の割に少ない。ただ、いくつかの『ライン』と呼ばれる高速鉄道がある。島々を超えて繋ぐラインも多く、アズキニアの輸送において大きな役割を果たしている。
船舶
アズキニア王国は中央の二海峡を挟んで東に豊かな多島海、西に農業の基盤となる平原があり、古くから大陸との交流も盛んだったことから海上輸送がとても盛ん。特にラミダス・アルトー海峡に挟まれたマトリア海西海岸は西アズキニアの主要交通網であるレヴァン側が注いでいる上に平野が広がり開発が容易だったこともあって古代から富がとても集中しており世界で交易品が集中し富が集まる地域である。民間の輸送船保有数は世界トップクラスで、船への税金も大変安い。運河や港などの水上輸送の施設が多く、ウル・サイ・ワボケ港は8.31以前は世界で最大の貿易額を誇る港だった。
航空機
空港は一応あるし周辺地域へのハブ空港としての役割を果たしているが未だに船舶での貿易が盛んなため、そこまで発展してはいない。
自然地理
現在アズキニアと一般的に呼称される地域は、地理的区分として東西に分けられる。カナン海峡、ラロンの剣、ロール海峡、ファーリン海峡を通る線が此れの境界としてよく用いられる。もっとも、帰属意識や文化、言語や風俗はほとんど同じであるため政治的に特に差が生まれることはない。ただし、全体的に大都市は東部平原の特にダイナゴン島側に集中しており、西アズキニアの方が発展している。島国のくせに意外と面積が広い。
国土の西側は主にナゴン諸島に属するダイナゴン島が占め、特にその東部はマトリア海?を隔ててチュウナゴン島とほぼ一体化していて広大な東部平原を形成している。ティタン海峡を隔てて南西にクロイシアがある。
東側は多島海でアントガール海?を囲むように島々や半島が位置する。新期造山帯付近に位置するため、全体的に山がち。
アズキニアの海外領土と植民地に関してはそれぞれの記事にまとめられているので、それぞれを参照されたし。
各地の地理
一般的には諸島ごとに分類される。特にダイナゴン島などはもっと細かく区分することも可能だが、地理を区分するには必要ないためここでは省略する。
ナゴン諸島
ナゴン諸島は概ね温帯に属する。しかし、ナゴン諸島は温帯の中でも年中を通して気温の変化が大きく降水量にも偏りがあるため、過ごしやすく豊かであるとは言えない
ナゴン諸島では大陸の高気圧の影響により、年中北西の中漠海から風が恒常的に吹いてくる。これをアズキニアではロヴァニエミ*20と呼ぶ。それが偏西風と相まって特に北西部では風が強い。水蒸気を多く含んだ北西風がロード山脈をにぶつかるため、西部は降水量が年中を通して特に多い。また大泉洋では冬に低気圧が発生し夏に高気圧が発生するため、冬の方が夏より降水量が大幅に多くなる。気温もコールドランド海域の影響で東側よりも低く雨が雪となって降るため、ダイナゴン島西端は世界でも有数の豪雪地帯となっている。
東部は西ロード山脈を超えて乾いた卓越風が強く吹き付けるため、降水量が少ない。しかしながら大泉洋から西向きに東部平原の海岸を流れる暖流が上昇気流を発生させて、卓越風による下降気流の効果を弱めるため、東部は西部に比べて少ないものの年中一定して降水量がある。
典型的なナゴン諸島東部の自然風景。この写真は東部シュマリ地方の小高い山地で撮影されたもの*21
シェイエロー諸島
ダイナゴン北東部からメーシェール海を隔ててさらに北東にある島々。パクシス島、プルファ島、ユメイ島、カリエ島の四つの主要な島から成る。全体として丘陵や山々が広がり、平野部はそこまで多くない。「く」を時計回りに45°回転させたような形をしている。カリエ島の東にはシマン諸島があり、そこから北のポラリス諸島につながるの
ポラリス諸島
シェイエロー諸島東端のシマン諸島から北西に連なる列島。約700の島々と2,400の岩礁から成り、うち30の島々に人が住む。また、水面積率が非常に高い。面積は非常に小さく、大泉洋と中漠海を隔てている。EEZは広大なので漁業などが盛ん。古くにジラント朝がポラリス諸島の南部に一時的に逃れたことで知られており、カーゾン島などには近世に南部からの侵攻に備えて作られた城塞都市が今でも残る。
メロビア大陸北西岸地域
第四次アズキニア王国王位継承戦争で獲得したシャルケー半島を中心とする比較的新しい領土。シャルケー半島は山がちな地形であり、数多くの山系、山脈、山地、山塊、ピークが存在する。オクシアナ山脈がさらに東のメロビア大陸とシャルケー半島を隔てている。オクシアナ山脈は西側より東側の標高が高く、最高峰は3404mのララト山である。
東ツベシア地域
全体的に高温で内陸部は乾燥している。亜熱帯気候が広がる
西北地方
ラスフェル諸島、ハバン諸島、ジャンパー島、ザウェー島などから成る、ゴア半島より北かつポラリス諸島より西に位置する中漠海の島嶼からなる地方。周囲を囲む海洋の影響を大きく受けるため、冷涼で一年の気温の変化は比較的小さい。夏にはよく濃霧が立ち込める。人口は少なく、陸地での産業はわずかに観光業と自給的農業が行われるのみである。一方で排他的経済水域内での漁業は盛んで、鰤や鮭がよく獲れる。
人文地理
地図*22
右が北
この南にも結構領土があります。アレンさんが電子化してくれるそうです。ありがたい!
歴史*23
書いてないくせに項目だけは多いんだよなぁ...。
人類誕生以前
他の地域にも言えることなのだが、アズキニア王国では3億3500万年前から3億3000万年前までの地層が綺麗に抜け落ちている。また、この境界を境に出土する生物の化石の種類が大きく変化しており、何かあったのではないかと考えられている。しかし、肝心の地層がないためまったく何が起こったか分からない。現在のアズキニアにはない何かがあったと言われる。
高度な兵器や集約化された居住区などの高度な文明の痕跡が残されているが、現代の人類科学ではこれらの痕跡を説明できない。
旧石器時代 (一応完成)
ナゴン諸島の旧石器時代は、xxxx万年前までである。この間、幾度かの氷期と間氷期があり、気候・環境の変化がみられた。この時期の人類は既にクロイシアへと進出しており、陸路でxxxx万年前にはナゴン諸島へと辿り着いたと考えられる。
初期旧石器時代
サレジア及びラールドロンドで原人の化石やその生活の跡が複数発見されている。彼らは野生の小豆や生息していた大型哺乳類の肉を食糧としていた。イノシシやシカ、ゾウを崖まで追い込んでから仕留めたと考えられている。打製石器や剥片石器などを用いてその肉を解体していた。xxxx万年前からxxxx万年前にかけての最終氷期には人類はナゴン諸島から姿を消した。但し、アタ半島やシュワ半島では人類は生存に成功した。おそらく地軸の傾きの変化による急速な寒冷化に適応できなかったものと推測される。しかし、他の大型哺乳類はいずれも絶滅が確認されないことからナゴン諸島からの人類の消滅には酷寒以外の原因もあると一部の学者は唱える。xxxx万年前から現在にかけては再び気候は温暖になり、間氷期が訪れた。サレジアでは人類の痕跡が再び発見されており、再び漂着したと考えられている。また、樫や杉などの樹木が再びナゴン諸島全体を覆い始め、鹿やイノシシなどの動物が大きく増加した。しかし、xxxx万年を境に象の化石は全く確認されなくなった。これは地球の温暖化と人類による過剰殺戮が原因だと考えられる。
中期旧石器時代
xxxx万年前頃から旧人がナゴン諸島に進出し始めた。ヨーグリアでは旧人の埋葬跡が発見され、旧人の痕跡は時代が進むにつれて北と東へと拡大した。また、それに伴って原人の痕跡が年を追うごとに南と東から消えていっている。
後期旧石器時代
xxxx年前には高度な航海技術を持った新人がカンブリカ大陸などからナゴン諸島に移住してくると、旧人は新人に駆逐され、xxxx年前にはナゴン諸島から姿を消した。テッサクオキでは腰に石器が刺さった旧人の骨が発見されており、これが新人による旧人への攻撃があったことを裏付けている。一方で、現在のナゴン諸島の純ナゴン人のうち4.7%に旧人の血が流れていることが最新の遺伝学により明らかにされている。これは新人と旧人の混血があったことを示しており、現在は後期旧石器時代には新人と旧人の間で対立と融和の両方があったとされる。
最終氷期が終わると、人類は急速に勢力を拡大した。また、温暖化に伴い落葉樹がショウナゴン島を除くナゴン諸島全体を覆い始め、ロード・ナシューバ山脈を除く山岳地帯にあった氷河及び万年雪は完全に消滅した。この時、ショウナゴン島は海面上昇により山地を除いて完全に沈んだと考えられる。この時代の遺跡としてはダメーダニアの石窟群が有名であり、鹿などの動物の動きを生き生きと描いた壁画が有名である。この時期に成立した石窟文化をクリアーノン文化といいう。
ノウゴロディア文化は装飾品が見られるナゴン諸島最初の文化でありxxxx年前に成立したこの文化は、在来植物の繊維から服を作り、花などで染色していた。また、動物の骨や歯を加工してアクセサリーを作っており、遠い地域とも交易していた。最も遠い距離で、1,300Km離れたサレジアとヨルバで同じ形の骨のネックレスが見つかっている。
xxxx年前のムヘネトリー火山の噴火により、ナゴン諸島の人類は壊滅的な打撃を受けた。天候不順により彼らが主食としていたドングリなどの植物が十分に育たなくなり、それらを食糧としていた貴重なタンパク源である大型哺乳類の数も大きく減少したのが大きな原因である。特にランカーランの遺跡では食人の形跡が見られ、いかに食糧が不足したかを示している。また、この時期にダイナゴン島からは、人類の過剰殺戮と餌の減少により鹿が姿を消した。人口は20%まで減少したが、xxxx年後には元の人口に戻ったと考えられている。
新石器時代 (一応完成)
新石器時代になると、ナゴン諸島の人類の生活様式は大きく変化した。農耕が始まり、動物を手懐け、進化した石器を使って新たな道具の作成が行われた。
初期新石器時代
クロイシアから農業が伝播した。だが大豆の栽培は失敗したため、最も身近な植物である小豆を育て始めた。ナゴン諸島の農耕の開始時期については意見が分かれており、xxxx年前とする説とxxxx年前とする説がある。xxxx年前とする説は、火山の噴火による食糧の減少に対応するために農耕を開始したと主張しており、主に河口付近での小豆の不自然な群生跡などを証拠としている。一方でxxxx年前とする説は、農耕がきっかけで発明されたとされる磨製石器や穀物倉庫がxxxx年前以前の地層からは出土していないことを証拠としている。どちらの説も有力視されているが、どちらにも決定打となる証拠がなく、結論には至っていない。
当初の農耕は、焼畑を行って灰のなかに種子をまき、地力が減退すると土地を移すという略奪農法で、ふだんは移住生活をして収穫のときに戻ってくるという移住生活だった。定住は殆ど行われず、小さな洞穴を転々として生活していたと考えられる。
また、ショウナゴン島は海退に伴い再び姿を現した。
中期新石器時代
中期になると定住が始まり、それに伴って原始的な住居や食糧の保管庫が建てられた。家は地面を少し掘ったのち、固めた小豆の茎に土を塗って乾かすというものが主流だった。この頃になると祭司用の彫像がナゴン諸島だけでなく、西大泉洋地域全体に現れ、かの有名なワラネドギャの彫像群もxxxx年前頃に建築が開始されたと考えられる。
これらの文化の担い手はいわゆる“東方系”であることが知られており、僅かに元来の狩猟採集民も混在していたようである。農耕による生産性の増大に伴い、人類の精神面での発達が見られる。
後期新石器時代
農耕の発展に伴い、石器の種類の複雑化、建築技術の進歩が起こった。磨製石器はさらに進化し、現在出土しているものを用途の観点から区分すると134種類にも上る。また、高床式の建造物も見られるようになった。これらの建物は作物の貯蔵の必要性から建設されたと見られる。xxxx年前までは東方諸島系のハプログループしか見られなかったが、この頃からクロイシア*24系のハプログループG2cの混入が見られる。
トリアノンなどの遺跡では原始的戦争の形跡が見られる。人口の増大に伴い、食糧をめぐって争っていたと考えられる。ただし、この時期の集落は簡易的な堀と柵を張り巡らせただけのもので、戦闘も剣による白兵戦しか行われていなかったことが知られている。
青銅器時代 (一応完成)
クロイシア地域からの移民により青銅が持ち込まれる。青銅によりナゴン諸島の文明は飛躍的に進歩した。
ボウル文化期
xxxx年前頃からxxxx年前頃を指す、クロイシア地域から来たハプログループG2c系の人々により青銅器が伝来。ボウル人と呼称されるこれらの人々は、各地を商人や鋳物師として流放しながら銅器や青銅器を普及させた。また、食料などを入れるのに優れた性能を持つ球状ボウルを使用し、このことが名前の由来となる。ボウル人の作る球状ボウルは表面が滑らか、薄い、堅い、縁が整っているなどの特徴を持ち、ボウル人が高い窯業技術を持っていたことがうかがえる*25。ボウル人が進出するにつれて、銅器に高い価値が生まれ、ナゴン諸島には商品経済の概念が普及した。これが労働分配率の低下もとい労働生産性の向上を招いたことで貧富の差が拡大し、集落では社会の垂直構造が出来上がった。
商品経済の普及により戦争は緊急時に食糧をめぐって行われるものから、相手の資源や富を奪うためのものへと変化した。特に、クロイシア地域との貿易に必要な金属資源をめぐっては熾烈な闘争が行われ、当時のナゴン諸島では鉛の鉱山を巡って集落同士の本格的な戦争が行われ、多くの死傷者を出した。集落には何十にも堀や柵が張り巡らされるようになり、櫓や地下避難所も建設され始めた。同じ部族の集落同士で同盟が結成され、ナゴン諸島には部族社会が出来上がった。
ウィンザー文化第I期
ボウル文化期の中でも、xxxx年前頃からxxxx年間頃の時期をウィンザー文化第I期という。ボウル文化期に形成された社会秩序がこの時期から徐々に変化し始める。ただ、ボウル人がもたらした球場ボウルや銅器は主に各部族の上流階級に普及しており、ウィンザー文化は全階級に共通したものではないことには留意すべきである。ボウル人の活躍により各地に銅器や青銅器がもたらされると、石材や木材の加工技術は飛躍的に進歩し、以前より大規模な彫像が西アズキニア各地に作られる様になった。しかし、この時代の彫像からは、暦学的な意味は消滅した。商品経済のさらなる普及は、クロイシア系の支配階級化を引き起こし、経済格差の拡大を助長した。非クロイシア系の民族が上流階級での重要な役割を果たす機会は消滅し、クロイシア系民族がその役割を独占したと考えられている。
ウィンザー文化第II期
xxxx年前頃からxxxx年前にかけての時代をウィンザー文化第II期に当たる。クロイシア系民族の勢力が政治力を拡大し、ナゴン諸島の支配を確立していった時期であった。鋳物屋、交易商人としてナゴン諸島に出入りしていた流浪民のボウル人たちが時代を下るごとに定住化して富を蓄え、彼らの社会構造が地元の人々の社会を支配、徐々に政治的に同化吸収するようになった。
この支配拡大の手段が経済的なもののみであったのか、それとも武断的であって武力で服属させるのが一般的であったのかどうかについては、現在でも議論がある。だが、手段はどうであれ社会の下層に彼らの社会構造はナゴン諸島全体に水平的に拡大していった。
金属加工の技術が飛躍的に向上し、よくできた工芸品や武器が副葬品などとして多量に残されている。広い地域で貿易を行っており、クロイシアの銀器・金器も見つかっている。またこのころ、銅に錫を混ぜて青銅をつくる技術、鋳型によって大量生産する技術がさらに急速に発達した。シーケンスやマルキフの鉛鉱は豊富な埋蔵量があったため、活発に採掘が行われ、大陸に輸出された。
ウィンザー文化第I期と異なり、この時代の人々の間では彫像への興味は急速に失われていった。たとえばワラドネギャの彫像群は、その当時でもいまだ祭礼の施設として使われていた可能性もあるが、この時代のはじめのxxxx前年ごろに作られた囲いを最後に、目立った意匠がつけ加えられることはもはやなくなった。
このころからナゴン諸島の広い範囲で、それまで無数に別れていた部族群はそれぞれ大きくまとまった諸部族となった。彼らは鉱物資源などを求めて争い、戦争もおこった。焼け落ちた集落も時おり発見されている。
この頃のナゴン諸島の人類はは20ヘクタールほどの土地を壕と柵で囲い集落を作った。そのなかで小豆を栽培し、豚などを飼育していた。戦士たちが貴族として支配層となり、農民たちは豚に犂をひかせていた。夜になるとボウルとよばれるベル型の器に小豆酒を注ぎ、晩餐を楽しんだ。戦士たちは時おり戦争に行き、勇敢さを競いあった。特に錫などの鉱山はしばしば争奪戦がおこった。というのも、こうした鉱物はクロイシアと取引するために必要だったからである。ビーカー人たちは金銀がちりばめられた美しい装飾品に魅せられ、クロイシアまで商取引に赴いた。死者には石碑をつくり、装飾品などを添えて埋葬した。
鉄器時代 (半分完成)
紀元前xxxx世紀頃、ナゴン諸島の各地に点在する諸部族は鉄を入手し拡大。それに伴い“国”への変態を遂げた。
小国の乱立
新石器時代にあっても、『古ローナ記 北東伝』からは現在のナゴン諸島は「アズキンニア」と称され、一定の領域を「首領」とよばれる権力者が統治していたことがわかる。各地に小国が乱立し、覇権をめぐって争っていたと考えられる。ただ、当時の集落は青銅器時代とさほど変わらず、首領を君主とする政治システムが成立したという点から国と呼称されることには留意が必要である。
鉄器時代には農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代とさほど変わらず、実力社会であった。すなわち農耕の知識のある者が首領となり、その指揮の下で耕作が行われたのである。また、耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さな国が生まれ原始的な国家システムが誕生するに至る。
紀元前x世紀頃から南部を中心に首領が強大な権力を持つ原始的国家が誕生した。当時の首領は戦闘に長けた者や農耕の知識に富むものが選ばれたが、占いで祭礼を行う者がなることもあった。農耕や漁業のスケジュールは首領によって管理された。
鉄器時代にはクロイシアとの交易がさらに活発化していった。鉄の利用による航海技術の進歩が大きな要因であり、鉄がほとんど取れない西アズキニアでは鉄をクロイシアとの交易に頼りきっていたため、原始的国家における交易の重要性は大変大きかった。
初期の製鉄は炉内に木炭と鉱石を層状に装入して鞴で空気を送って燃焼させ、一酸化炭素が鉄と結合している酸素を奪って二酸化炭素となり金属鉄になる。この化学反応に必要な温度は400から800度ほどで、温度が低ければ固体のまま還元されて酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になり、硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけ直すことで純粋な鉄にすることができる。これが「鍛える」という操作である。更に炭に包んで炭素分を加えて鍛えることで「鋼」が精製できる。ナゴン諸島にはこのような製鉄技術はなく、各国は既製品としての鋼をクロイシアとの交易で入手していた。
後期には世襲制が確立され、一部の部族国家では首領である親の跡をその子が継ぐようになった。これは首領の権力の増大が原因であると考えられる。世襲制の影響が特に色濃く見られたのは、ダイナゴン島西部であり、この地域が島の中でも土壌が痩せていて、農業において強力な指導力を持つものの権力が増大する傾向が強かったからであると考えられる。世襲制の確立は権力の集中と内政の安定化を引き起こし、のちの五王国時代には東部の島嶼部に成立した国を除いてほとんどの国が世襲制を採用した。
北虜大乱
紀元前x世紀頃にはアズキンニア一帯で大戦争が起こった。これは当時東部平原で権勢を誇っていたライレルモ国に対しその他諸国連合が連合して戦ったものである。きっかけはライレルモ国が停戦を破ってマガタ国に侵攻した際に、首領の一族は公開処刑し住民を虐殺し当国の中心地の村を徹底的に略奪したことである。これに対し危機感を抱いた諸王国は普段は争いに明け暮れているにも関わらず、一時停戦して対ライレルモ連合を結成した。ライレルモは春に『我々の先祖の魂を蛮族どもが汚した』として連合に対し戦争を開始した。無論これは名目で真の理由があったとされるが確固たる証拠は見つかっていない。大乱の原因としてまず想定されるのは、アズキンニア王位の承継をめぐる争いであるとし、鉄器時代のアズキンニアは多くの政治勢力に分かれており、アズキンニア王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定されている。しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、アズキンニア王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。ただしライレルモ以前に「アズキンニア王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。北東伝に出てくる帥升にしても、アズキンニアの統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。一方で大乱の原因としては、アズキンニアの王の座をめぐる争いというよりは、前x世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。
古典記ではライレルモは序盤から圧倒的な強さで敵を蹂躙し、わずか二カ月で勝利したとされる。ただし発掘からは戦いは冬まで長引き、辛くも勝利したというのが実際のようである。ただし、この戦いについて記した資料はクロイシアから渡来して永住したアレクサンドル・マリーが著した古典記以外になく、その古典期もライレルモ国側から書かれたものであるため情報が著しく不足している。この戦い自体なかったとする学説もある。
北虜大乱の歴史的意義として、ライレルモを中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。東部地方などで前x世紀まで盛んに創られた旗が前x世紀になってから急速に作られなくなっており、大乱と前10世紀前半のライレルモによる新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある。
また、この頃にクロイシアではローナ帝国が第二次帝政期へと移行し、中央集権と軍政改革の成功により他地域への侵略と入植を開始し強大な勢力圏を築くが、アズキンニアとの国境部の海峡はまだローナの支配下にはなく、西域と交易を継続していた。
ジラント朝の成立
ジラント朝アズキニア王国が成立する。ジラント家は有力な豪族であり、周辺の豪族を統合してアズキニアで最も巨大な勢力となった。そしてアズキニア王国を名乗り、アズキニアを初めて王国として統一した。
属州時代
西アズキニアは古ローナ帝国に征服され、属州アズキンニアが成立した。ローナ文明への同化が進み、インフラや技術が大きく発展した。一方で東アズキニアでは先史時代からの部族国家が存続した。
二文明時代
東アズキニアにはイケア文明とアクトル文明が成立した。
イケア文明は、紀元前600年頃、北上したアズキニア人の第一波とされるアカイア人によってシェイエロー地方で興り、地中海交易によって発展した。エステル諸島のアクトル文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはエステル諸島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、イケアはメロロンバーのケンリアをケンリアス戦争で滅ぼした。紀元前400年頃、突如勃興した海の民、もしくはクロイシア人によって、イケア、テーボルトが破壊され、イケア文明は崩壊したと思われる。また、内部崩壊説や気候変動説も存在するが、はっきりとした事情は不明である。この後、アズキニアは属州時代と呼ばれる支配時代に突入し、アズキニア人国家は形成されなくなった。イケアやテーボルトの遺跡などは1976年以降からジュライアーによって発掘された。
一方で西アズキニアには統一国家・文明がなく、トレアス半島に至っては多くの人類がまだ狩猟最終の生活を続けていた。
ローナ・コンクエスト
ルードヴィッヒ・バレンツがクロイシア征服戦争中の紀元前55年と紀元前54年に2度の遠征を行ったときが、古ローナ帝国とアズキンニアが直接に接触した最初である。ただ、この遠征は東クロイシアを掌握する一環として行われたものであり、アズキニアに恒久的な拠点を獲得するものではなかった。
紀元前40年にバレンツは再びアズキンニアへの遠征を画策したが、この計画自体は実現性に乏しく、その後ローナ帝国で政変が起こり、結局実行されなかった。
アズキンニアが実際にローナ帝国の勢力に組み入れられたのは、紀元前43年のシュヴァルツ帝の遠征によってである。このときベン・シュタイナーを総司令官とする4個軍団約4万のローナ軍は、ムンキア族の王ガラパゴスに率いられたナゴン人部族連合を破り、ついでシュヴァルツ帝自身による援軍を待った後、ムンキア族の都であるデッサーヴァンメル*26を占領した。直後にシュヴァルツ帝は同地で属州設置宣言を行い、紀元43年に属州アズキンニアが誕生した。占領当時はデッサーヴァンメル(後に植民市化)を中心とする南西部一帯のみを支配下に置いていたが、その後オーラ帝国は南部、西部、南西部の各方面に軍を展開、抵抗する部族を平定し、着実に領土を増やしていった。
属州支配の確立
属州アズキンニアの統治は、基本的に圧倒的な軍事力による武断統治である。総督には代々軍団長やそれに準じる経験を持つ者が就任し、前述のデッサーヴァンメルは退役兵に住まわせるための植民市とした。各軍団は、時代により異動があるもののシュマリ地方のイスカ・ドムニシン*27、ウルマティア南部のイスカ・ボーダード*28、マリオネアのポグロム*29、ポニエッタ北部のデウァン*30にそれぞれ正規軍団要塞を構え、各方面の辺境を守備するとともに属州領内部を監視した。領土内では、従属させた各部族をそのままオーラ式の行政単位に改変し、税を課した。しかし一方で、従順な部族の権利は実質的に温存された。また、ローナ軍に協力した隷属部族*31は一時的に独立が許されたが、王統が途絶えると軍事力でもって強制的に属州領に併合させられた。属州アズキンニア最大の先住民反乱であるチランコーカーの反乱もケマル族の併合に端を発する動乱であった。
以上のような統治体制の下で属州アズキンニアは比較的安定し、ヴァンドロシー総督の時代(78年 - 85年)にはシルプス*32東部を除くほぼ全領域を支配、属州時代最大の版図を現出した。もちろん帝国の力を持ってすれば東部の制圧は容易だったが、北部との交易収入は無視できなかったので支配はしていなかった。
しかしそれ以降は東部のイルマ族からの圧力が強まり、七雄時代には東部前線が後退するとともにハンブルの長城、シュタイナーの長城が築かれた。補助軍の基地の一つロールスルーズべン遺跡には当時の守備兵の風俗を伝える大量の木簡文書が発見されている。
アズキンニアには前述の通り多数のローナ軍が駐在し、総督には皇帝の信頼が厚い熟練した人材を充てられることが多かった。このためアズキンニア総督を経験した皇帝は少なくない。ペルティナクス、ゴルディアス1世がこれに含まれる。
百国時代
紀元前5世紀ごろには古ローナ帝国は、内部の反乱や度重なる政変によって弱体化し、ナゴン諸島の領土を失った。それによって出来た空白地帯にさまざま王国が乱立した。
ゲーテ人の侵入
古ローナ帝国の弱体化
紀元前523年、古ローナ帝国では次男のオクシターヌと長男のブラキア*33の間で後継者争いから反乱が勃発。反乱の影響は古ローナ帝国各地に影響を与え、アズキンニア属州も例外ではなかった。
アズキンニアの総督コミュミアヌはオクシターヌと親戚関係にあり、アズキンニアはオクシターヌ側につくことを決定しようとした。しかし、重臣たちはブラキアにつくことを主張。話し合いは紛糾し、ついに総督領と重臣領の間で戦闘が発生した。
五王国時代
大帝国
ランジュー帝国時代
注意:この項目では便宜上ランジュー帝国という国名が用いられますが、これはネルベル合同から小諸島戦争に至るまでアズキニア王国を含む、ジラント家が統治した領域の歴史的俗称であり、正式名称ではありません。ただ、ランジュー帝国内の国家は全てアズキニア王国の強固な支配下にあったためほとんどアズキニア王国と同義と考えて貰って構いません。また、ジラント朝は現在まで続くアズキニア王国の唯一の正当な王朝であるため、ジラント朝アズキニア王国の誕生は紀元前十八世紀頃となります。
東方の軛
アズキニアはランジュー帝国の東西分裂により、東西に分割され、辺境部は数多の国家に分かれ独立する。広大な大陸領土を次々と失陥しその後ポラリス諸島を除いたアズキニア本土はマトリア海を境に西ランジュー帝国はユーラン帝国王家に継承、東ランジュー帝国はメロルビア諸国連合に加盟してマクウルの支配下になった。
また、この頃から戦乱によって荒れ果てた聖都地方に変わって東部平原の生産力が急速に向上し始め、レヴァン川とロースラ川を通して西アズキニアの南北を繋ぐ地点であるシュマリの重要性は低下した。それに加えてラミダス・アルトー海峡の価値の上昇もそれを後押しした。もともとラミダス・アルトー海峡は西アズキニアの富の集約地域であるマトリア海に入るために絶対に通る必要があるので重要性は高かった。しかしチュウナゴン島を通してさらに東部との交易が活発化したり南部のエステランドとの安全航路が確立されたりしたこと、レヴァン川とロースラ川を支配するのが単一勢力でなくなったことで政情不安などからこの二つに大河を利用する意義が低下したことが挙げられる。
戦国時代
ジラント朝の運命 (完成)
1283年2月23日、サンプレヒト王国の創始者となるアムアールは、シェイエロー諸島のダーメルに生まれた。アムアールが誕生した当初、大帝国であったアズキニア王国は東のオデシア王国と西の神聖ローナ帝国からの侵攻を受けてすっかり弱体化していた。ナゴン諸島を完全に喪失した1270年以降、アズキニア王国はレーベルとダーメルを拠点にしてシェイエロー諸島北部を支配し、なんとか国を維持していた。しかしオデシア王国はたびたび北シェイエローへの侵入を試み、アズキニアを脅かしていた。
1300年、オデシア王国の王ユルマ5世は2万の軍勢を率いて、既に支配下にあったバクシス島のカドワから海を渡って北に侵攻。1299年に王となったアムアールをはじめとするアズキニア残党は必死にの抵抗も虚しくプルファ島南部のレーベルを占領される。同年にアムアールは奇襲によってユルマ5世からレーベルの奪回を試みるもユルマ5世に敗れ、プルファ島南部を諦めてダーメルに逃れた。1304年以降、ダーメルも安全ではないと考えたアムアールは他の王族の反対を受けてもなお単独で、当時アズキニア王国の支配に抵抗していたユメイ島のオディルネを新たに対オデシア王国の拠点とすべく北に遠征し、1305年にこれを征服した。だが、1307年にユルマ5世は最後の主要都市ダーメルを奪ってプルファ島全土を掌握したことでアズキニア王国の正統領土は消滅し、ジラント朝アズキニア王国は滅亡した。ただしこの時にジラント朝が当時アズキニアと呼ばれていた地域に対する支配が失われたことで『アズキニア王国』でなくなったということであり、ジラント朝自体は存続しているため国が完全に途絶えたわけではない。ジラント朝の王族のほとんどが殺害されたが、アムアールはかろうじて脱出しユメイ島に亡命政権を立ててジラント朝はなんとか存続することに成功した。これを機にアムアールはもはやオデシア王国に武力で対抗することは不可能と悟り、ジラント朝存続の道を探り始める。
その後もアムアールは現地の諸侯と同盟してオデシア王国に対抗しようとしてきたが、歴史的な対立による摩擦から強力は結局うまくいかず、そもそも諸侯たちの力も微々たるものであった。1311年、アムアールは最後のプルファ島征服を敢行しオデシア王国に侵入して一時的にダーメルを奪った。だが、アムアールの帰還によりダーメルが戦場になること嫌ったダーメルの住民は早くも離反し、1312年にダーメルはユルマ5世に奪い返された。これを最後にアムアールは完全に領土奪還を諦め、プルファ島奪還を目指してオデシア王国に攻撃を行うことはなくなった。
これらの事情により、アムアールはナゴン諸島でのアズキニア復活を事実上あきらめなければならなかった。この後の数年間は、アムアールはオディルネを中心に最後の領土ユメイ島の支配を固めることに専念するようになる。そしてアムアールが長年の試行錯誤の末たどり着いたのが、ユメイ島を放棄して、諸島連合が支配するカリエ島やシマン諸島を奪ってさらに東に逃れ、さらにその先の辺境まで征服するというもでであった。これらの島々はアズキニアにとって辺境であったが征服する価値がなく、オデシア王国から逃れるには最適な土地であった。諸島連合とはカリエ島、シマン諸島を支配していた勢力であり、その実態は各島々を収める豪族の集合体のようなものであった。諸島連合はもともとアズキニアに対する緩やかな従属の代償として、不可侵を約束されていた。しかし、アズキニア王国は弱体化しきった当時では従属は形骸化しており、諸島連合はアズキニアとほとんど対等な関係にあった。もとよりユルマ5世がシェイエロー諸島を狙ってユメイ島に攻めてくるのは時間の問題であったし、アズキニア亡命政権が逃げる場所はそこしかなかった。
1319年、アムアールはついに家臣の反対を押し切って、諸島連合に対し侵攻を開始。当時オデシア王国の勢力はさらに力を増しており、ハテス海をアズキニアの船が自由に通ることもままならなくなっていた。これをユメイ島侵攻の前兆と見たアムアールは、諸島連合の首長が死んで後継者が決まっておらず不安定になっていた1319年を絶好のチャンスとみていたのである。アムアールは1400の軍を率いてカリエ島の西端のパウラに上陸。西カリエ山地を東西から迂回し、首都トゥーカーンで継承の話し合いをするため軍をシマン諸島においていた諸島連合の隙を突く形で最大首都ヨルラントを占領した。これには諸島連合の政治体制に不満を持つカリエ島西部の有力な諸侯の協力もあった。そして、1320年5月、アムアールは協力した諸侯の軍と合わせた2,000の兵をもってイート海峡を越えてシマン諸島に侵入し、1326年4月にアムアールの軍は諸島連合の軍とトゥーカーン付近のルルーシュラントで対峙した。同月21日、およそ一週間にわたる対峙ののち、両軍は刃を交えた。諸島連合の君主ララク・オクシタニアは1万以上の兵を擁していた。だがアムアールは、圧倒的な兵力差を大砲などの火器を駆使して諸島連合の大軍を破り大勝し、この戦いでララク・オクシタニアを討ち諸島連合を滅ぼし全土を支配下に置いた。
しかしアムアールの警戒はそれだけでは止まらなかった。シマン諸島はユメイ島からある程度離れているとはいえハテス海に面していたし、狭い海峡を通してシェイエロー諸島と接続されており、侵攻の可能性がないとは言い切れなかったためある。アムアールはシマン諸島の北の海の果てに豊かな大地があるという伝承をもとに積極的に北の海に船団を派遣。結局新天地を見つけることは叶わなかったが、1330年にシマン諸島の北東にてカーゾン島などから成るポラリス諸島を発見した。ポラリス諸島はシマン諸島などから十分に離れており、オデシア王国から逃れるには絶好の地であった。アムアールはカーゾン島の複雑な地形を目にして、島を丸ごと要塞家すればオデシア王国のからの攻撃を防ぐことができると気づき、1331年に城塞都市サンプレヒトの建設を開始した。カーゾン島には多数の原住民が住んでおり、それらを強制労働させることによって建設は進められた。原住民は独自の文化を持ち平和に暮らしていたが、強制労働の負担や虐殺、アムアール一行が持ち込んだ疫病などによって大きく数を減らし絶滅した。また、シマン諸島などからも旧諸島連合兵などが徴発され建設に従事した。
1334年、アムアールの予想通りユルマ5世は7万の兵を連れてカリエ島への遠征を敢行。アムアールは抗戦か逃避かの決断に迫られたが、ジラント朝の存続のためポラリス諸島への逃避を決断。1334年にカリエ島を蜂起しシマン諸島を経由してサンプレヒトに逃れた。この時一部の交戦派はシマン諸島に籠城し抵抗を試みたが、軍事の才能に長けたユルマ5世の大軍に蹂躙されて全滅した。1335年にカリエ島とシマン諸島は正式にオデシア王国の領土となり、アムアール率いるアズキニア亡命政権の領土はポラリス諸島のみになった。これ以降のジラント朝によるポラリス諸島の亡命政権を都市名にちなんでサンプレヒト王国と言う。
このようにしてジラント朝アズキニア王国はアムアールの活躍によってサンプレヒト王国と形を変えながらも存続することができた。サンプレヒト王国になったことによって領土は最盛期の5%まで縮小されたが、1338年にオデシア王国国王ユルマ5世が死去したことによって危機は去り、アムアールも1341年に死去したものの彼の子孫によってジラント朝は途切れることなく存続していった。しかしながらアズキニアは依然として外部勢力によって支配され、外部勢力がさった後も各地で諸侯が台頭し国が分かれる時代が続いた。ここからジラント朝の末裔が聖ティアナスファの王冠を再び手にするには200年近く待たなければならない。
小諸島戦争
大諸島戦争
ここら辺の歴史は諸侯が散らばっててものすごく複雑なので三行でまとめると
途中から執筆を開始して見ました。EU4などを参考にしております。
遂にフィガーラ朝アルトー王国とメユン朝フューランド王国の軍は1548年3月23日、メクトフォール近郊で遭遇した。アルトー王国の兵力は4万6000、フューランド王国の兵は5万2000であり、オデシア王国の義勇軍と合わせて7万1000であった。現在のメクトフォールを流れるシキュリラ川を挟んでアルトー軍は南西、フューランド軍は北東に布陣し、数日間睨み合いが続いた。4月5日フューランド軍が先にシキュリラ川を渡って攻撃を開始。
外部からフルボッコにされた衝撃でバラバラになって
みんな全国に分かれて戦って
最後に昔から続くテラリシオス大王のアルトー家が勝ってジラント家との結婚でアズキニア王位を正式に継承し、統一した
ってことです。いずれ詳しく書きますが、近世の歴史は得意じゃなくて...。ナポレオン戦争以後くらいが一番得意なんですよね...
新大陸へ (完成)
時は遡り1503年、自由都市イドリュス出身の航海士セザンヌ・ベルメールは当時のアルトー王国*34国王フェミリア二世に東への航海費用の捻出を打診する。当時、ニューラシア大陸に渡るには勃海もしくは南大泉洋を通ってクロイシアの南か北を大きく迂回しさらに西に航海する必要があった。しかしセザンヌは世界は球体であり、大泉洋を北東に航海し続ければ西ニューラシアに到達できると考えていた。これは必ずしも安全ではないクロイシアを経由せずに直接ニューラシアと交易ができるということを意味し、アズキニア全体にとって大きな魅力であった。1512年8月3日、セザンヌ一向はフェリクト港からニューラシアを目指して大泉洋へ出航した。このときの編成はメーベル船のアニャー号とシカール号、ゴア船のロヴァ・ドリーネ号の5隻で総乗組員数は約90人。
いったんモルー諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に東進した。南大泉洋は島の少ない海域であり、船員の間には次第に不安が募っていった。度重なる嵐で貴重な食料や水が流されたことによって船内は慢性的な食糧不足であったことや、壊血病によって船員の5分の1程度が死亡したことも一因である。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識だが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。セザンヌ自身は平気なふりをしていたが、長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、セザンヌに迫って「あと10日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、ココナツの実などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。
そして10月14日夜明けごろ、船員の一人が東の方角に陸地を発見。セザンヌは小型ボートで上陸し、アルトー王国領土として宣言。これがアズキニアによる西オメガ支配の始まりである。彼らが上陸したのは現在のアズキニア王国領西オメガ直轄領に属するコトン半島の付け根あたりであり、東である程度発達した文明を築いていたテープコナル人と違って原始人しかいなかった。セザンヌ一向は上陸場所をニューラシア大陸だと思っていたため原住民をニューラシアンと名付けた。セザンヌはニューラシアンと交流を試み、交易によって船の中の小豆と引き換えに原住民のつけていた金のネックレスを入手する。セザンヌはこの航海でニューラシアの文明を見つけれてなかったため、第一次航海の重要性を証明し第二次航海にこぎつけるためにも金のような価値のある物品の入手は彼にとって必須であった。セザンヌはこの島で交易を行い、次に現在のタルカソーヌ島を発見した。ここを「ブルチ島」と名づけたあと、11月6日にはロヴァナシャーニャ島と名づけた島に到達。そこで簡易的な要塞を建設し、西オメガにおけるアズキニア初の入植地を作った。この入植地には27名の男性が残った。第一次航海では発展した文明を見つけることはできなかったが、地球が球体であるということが証明されニューラシアへの新航路を獲得したという意味で大変重要なものとなった。ただ、この時航路は嵐などの影響で北東から東北東にずれていたようで正しい方向に進んでいなかったことが帰りの航海で分かる。いずれにせよ当時のアズキニアでは東北東にニューラシア大陸があるとの通説が広まった。
セザンヌは1503年12月15日にデリテーヌ港へ帰還した。帰還したセザンヌを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。セザンヌは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、セザンヌはニューラシアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がアズキニア諸国王から与えられることになっていたが、セザンヌは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたセザンヌは、次の航海目標としてこう述べている。「彼らが欲しがるなら私はありったけの黄金を持ってこよう。彼らが欲しがるならありったけの香辛料を持ってこよう。彼らが欲しがるならありったけの奴隷を持ってこよう。」ニューラシア発見の功績と折からの関心の高まりによって、セザンヌは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。
1506年の9月に17隻1,500人で出発したセザンヌの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、交易拠点の建設目的であった。11月にロヴァナシャーニャ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は荒廃しており以前置いて行ったはずの人々は誰も残っていなかった。セザンヌはここを放棄して新しく「ヨークト植民地」を築き交易拠点の完成を目指した。しかしアズキニア人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、セザンヌは仕方なく本来全て自分の取り分であったはずの土地を入植者の私有地として与え、先住民と交易したり奴隷にしたりすることを認めた。これによって植民者や船員の士気は大きく向上し、しかしセザンヌは本国が求めていたニューラシア文明と思われるような文明を見つけることができず、奥地にいけどもあるのは原始的な集落と鬱蒼と茂る亜熱帯林のみであった。さらにセザンヌが発見した土地では入植者が持ち込んだ小豆が育ちにくく、恒久的な入植地の建設はもはや絶望的であった。セザンヌは失意のうちに帰還し、そこからも3回航海を続けたが遂にニューラシア文明を見つけることはできなかった。
一方で1514年、セザンヌの発見は誤りであったことが分かる。セザンヌの甥であるユーラン・ベルメールがニューラシアとされた大陸に行くため東北東に向かったときに嵐で大きく進路が北にずれ、北東に流された結果、現在のヤーラッパの西端に到達したのだ。当初ユーランは海岸近くのは風車や家を見て、ニューラシアとは全く別の文明と邂逅したと錯覚した。しかし彼は西ニューラシア語で話されている言葉を理解できる通訳を連れており、通訳がニューラシアの言葉が通じることに気づいたため、彼の叔父が探し求めてきたニューラシア文明であることが明らかとなる。現さらに地にあった王国と国交を結無事に成功し、ニューラシアの真の発見の確固たる証拠である国交の書簡を得ることに成功した。ユーランの帰還はその3年後の1522年であり、当時死んだと思われていたユーランは到着したデリテーヌの港で住民に大変驚かれたという。ユーランの発見はすぐさま彼の叔父と王室に伝えられ、書簡の厳重な鑑定が行われた結果ユーランがたどり着いたのは紛れもないニューラシア大陸であることが認められ、ユーランはニューラシア大陸発見者の称号を手にすることになる。しかしユーランが到達した陸地がニューラシア大陸であることが証明されると、当然セザンヌが発見した陸地に関する疑問が生まれた。
当初セザンヌが発見した陸地はニューラシアと接続されている陸地なのか、それとも全く新しい巨大な陸地なのかが最大の疑問点となった。後の航海でセザンヌが発見した大陸は新大陸だということが分かり、「オメガ大陸」と名付けられた。既に一線を退いていたセザンヌは、この知らせを聞くなり「私は誰も見つけていない大陸を発見したのだ。既に知られているものを発見するよりはるかに難しいだろう!」と言い新大陸の発見の功績を手に入れたことに喚起したという。また、幾分か前からオメガ大陸の入植地にて芋類や熱帯の豆などが生育に適していると判明し始め、食糧事情が大幅に改善されたことから本国での農地不足にあえぐ農民やエステランドなどで迫害された人々を中心に急速に移民が来始めるようになり、無益の地と思われていた西オメガの入植地は畑が広がる豊かな大地へと変貌した。この頃原住民を奴隷にし金山や銀山が盛んに採掘されるようになり、それも本国に莫大な収入をもたらした。こうした功績からセザンヌに対する評価は見直され、セザンヌは王室から西アズキニアに広大な私有地を与えられ、同時に貴族の称号を手にした。
地位と名誉を手に入れたセザンヌは彼の甥が発見したニューラシアに行くことを夢見ていたが、1517年にデリテーヌで風を拗らせて肺炎にかかり、54歳で死亡した。セザンヌが発見したオメガ大陸はアズキニアからの入植者によって数世紀にわたって支えられ、テープコナルとの本格的接触まで安定した発展を続けていった。
アズキニアの完全統一
エステランド侵攻(完成)
1679年、アズキニア王国エリス・ヨルダーは神聖皇帝アミネスター3世の名の下でエステル諸島の大部分を占めるエステランド島に位置するエステランド公国に侵攻する。事の発端は1777年、アズキニア王国の南方軍司令官エリス・ヨルダーが四年戦争での勝利への貢献に対する褒美を求めたことに始まる。王室はそれに対してヨルダーに褒美としてエステランドの支配権を与えた。エステランド島は一司令官が褒美として受け取るにはあまりにも広大であったが、当時エステランド北部のミュッスター植民地はエステル人の反乱によってすでに壊滅していた。アズキニアはエステル諸島においては北部に僅かにルガースイ島とそのほかの小規模な島々をいくつか押さえているにとどまっており、支配は名目上のものであって実効支配していたのは多民族であった。そのため王室にとってはエステランドを手放すデメリットは全くなかったのである。王室にとってはヨルダーがエステランドを制圧できずに所領を得られないまま司令官としての勤めを終えることが最も望ましいシナリオであった。
そして1679年4月、ヨルダーは自身の支配下の6万7000の軍を引き連れエステランド島北部ミュッスターに上陸。ヨルダーの戦闘は私闘とみなされており王室から兵糧などの援助を得られなかったため、ヨルダーは兵站の安定のためミュッスターで徹底的な略奪を行なった。
ミュッスターを陥落させるとヨルダーは続いて軍を幾つかに分けて南下を開始。鹿と馬の雑種を利用した軽騎馬兵を用いて、少数精鋭の重装歩兵突撃戦法で対抗するエステランドの現地国家兵を機動力と数で圧倒した。1679年12月にはエステランド最南端の街ママリースを攻め落とし、エステランドでの交戦戦力は消滅した。
エステランドにはケテルオ人と呼ばれるアズキニアのナゴン諸島の人々がいたが、ヨルダーは彼らから肥えた農地を奪って南部の痩せた大地に追いやり、抵抗をした住民がいる村に対しては虐殺を行って土地は自らの兵に分け与えた。こうしてエステランド北西部からはケルテオ人は消滅し、民族浄化が行われた。また南部の痩せた土地での農業は困難を極め、さらに1680年の冬には史上類を見ない寒波がエステランドに到来し、エステランド南部の農業は壊滅的な打撃を受けた。そのため南部に逃れたケテルオ人も多くが餓死・凍死し、17世紀の間に少なくとも合計470万人の人がエステランドから消えた。
ヨルダーの遠征によってエステランド島はヨルダーの領地となり、ケリテオ人を追い出した北部ではアズキニア人の入植が進み、南部ではケルテオ人を使ったアズキニア人地主による農場がいくつも建設された。王室はヨルダーが北エステランドを完全に征服したことに驚いたが、約束をした手前エステランドの支配権を認めるほかなかった。しかし当のヨルダーも軍事的才能こそあったが、統治の腕は酷いもので先住民反乱が相次ぎ税もほとんど徴収できていなかった。そこで1688年のティエルアミナ条項でヨルダーはエステランドの徴税権などをアズキニア王室に正式に献上して統治は任せ、自身とその子孫が名ばかりの領主として分前をもらうことで合意した。そのためエステランドは名目上はヨルダーとその子孫の統治領とされ、正式にはアズキニアに編入されなかった。しかし実態はアズキニア王国の植民地で、前述の通り北部を中心にアズキニア人が入植し、南部ではケルテオ人を使った農場が運営された。
このようにしてエステル諸島はアズキニア王国の支配下となり、今後数百年にわたってアズキニアによる苛烈な支配が続いた。両民族による和解は進んでおらず、それは現在でも大きな対立の主要因の一つとなっている。
産業革命
クロイシア大陸での戦乱に危機感を感じ、アズキニア王国は徹底的な軍備拡充と国家体制の近代化を行った
アズキニアにおける産業革命の発生原因は大きく分けて2つある
帝国主義の目覚め
サークル帝国への侵攻 *35
アズキニア王国が最初に目をつけたのは大泉洋の北東のサークル帝国であった。サークル帝国のあった丸々島は石炭を豊富に算出することで知られており、アズキニア王国は当時アズキニア市場内で不足していた石炭を賄うために丸々島の獲得を目指すようになった。サークル帝国は当時1794年に即位したカネ・サン(サン6世)によって圧政が敷かれており、大虐殺や大粛清で十万人近くの人が処刑された。
アズキニア王国は1797年、サークル帝国に対し石炭の採掘権の購入を打診し、アズキニア王国のへフェンステッドで両国間交渉がなされる。アズキニア王国は六千万アズキ*36での買収を図るが、これをサークル帝国側は拒否。おまけに「我が国の石炭は我が国民のためにのみ使われるべきであり、我が国に他国に渡す石炭はない。六十億なら売ってやらんこともないが。」と返答したことで交渉は決裂。これに対しアズキニア側の大使は激昂し、本国へ送った手紙には「あんな腐った国には死んでも行きたくない」と書かれていたとされる。そして大使の手紙は新聞で誇張されてアズキニア国民に伝わり、アズキニア国民の間に強い反サークル感情が生まれた。国民の強い反サークル感情を無視できなくなったアズキニア政府はサークル帝国に対し禁輸をする。この決定によりアズキニアでは石炭の値段が上昇したが、サークル帝国はもともと外国に対し石炭の輸出量の上限を決めていたため大きな打撃にはならなかった。しかし、サークル帝国ではアズキニア王国領西オメガから砂糖やとうもろこし、植物油などの輸入が途絶えたことでこれらの商品の値段は最大で四倍に跳ね上がった。これが引き起こした市民の生活苦はサークル帝国内でのカネ・サンへの批判につながり、1798年には首都では砂糖の安売りを求めて暴動が起こった。これに対しカネ・サンは軍隊を出動させ武力で鎮圧させ、二千人以上の市民が殺された(血のマールバーグ事件)。この時殺害された市民の中にはアズキニア王国の大使の召使の少年がおり、アズキニア王国はこれに介入し賠償金の支払いを求めるが、カネ・サンは拒否。これを受けアズキニア王国はサークル帝国に宣戦布告し、通称「亜丸戦争」の火蓋が切って落とされた。
アズキニア軍は4月20日、10万人で南部の三箇所から上陸戦を展開する。この時サークル帝国は防衛陣地を築いており、6,000人が防衛していたが、アズキニア王国軍は十二時間にわたって艦砲射撃を浴びせ続け、これを壊滅させた。そして翌21日、アズキニア王国軍は悠々と上陸し残存兵を駆逐した。その後サークル帝国の首都マールバーグを目指し、その前地となる南部平原は主戦場となった。
アズキニア軍は分進合撃を企画して南部平原へ進撃し、シェクイ軍56,000人はラルト付近、第一軍33,000人はエッセス付近、第ニ軍15,000人はゲルナール付近に集結した。26日にはシェクイ軍が進発して南部平原に侵入して28日に南部の主要都市ドレを占領した。サークル帝国軍はドレの陥落より、この方面がアズキニア王国軍主力とみなしてユーベを離れヨーゼフシ要塞まで前進した。29日、アズキニアのシェクイ軍は第一軍とアルチャーンで合流すべくく東進し、ラルクを経由して5月5日日頃には南部平原の北端ガッベルスに到達した。アズキニア第一軍は集結地エッセスを進発して5日にライヘンブルクへ到達してシェクイ軍と併進態勢を取った。
アズキニア第一軍がアボット、第二軍がジェラール平原でサークル帝国軍と戦闘になったが、装備の良いアズキニア王国軍が勝利し、サークル帝国軍は甚大な被害を受けた。
サークル帝国軍軍総司令官は戦闘に自信を失い、講和を上申したが、サークル皇帝の意向は決戦であった。サークル帝国軍はアラルダ要塞の西北近郊のケンム高地を中心に布陣した。
5月13日朝、第二軍は未着であったが、地勢に有利なクルム高地のサークル帝国軍15万に対し、第一軍とシェクイ軍の約8万のアズキニア王国軍が攻撃を開始し、アラルダの戦いが始まった。前夜の雨は上がっていたが泥濘の中で、サークル帝国軍の抵抗にあいアズキニア王国軍の進軍は低下した。
午前中からの戦闘は戦力が拮抗していたが、午後になって約2万人のアズキニア第二軍が戦場に到着し、作戦通りの三方からの包囲攻撃が成立した。戦況は一転し、第二軍が攻撃したサークル帝国軍右翼が崩れはじめると、中軍も動揺して退却が始まった。また、銃の性能差による慢性的なサークル帝国軍の疲弊が現れ始めていた。アズキニア王国軍では奪取した高地に砲兵を挙げて退却するサークル帝国軍を砲撃するだけでなく、騎兵と歩兵による追撃を続けた。サークル帝国軍はヤックシロ川へ追い落とされて全滅した。
こうしてアラルダの戦いは一方的な結果となり、アズキニア王国軍の死傷者はニ千人に留まったのに対し、サークル帝国軍の死傷者約五万人、捕虜十万人を数えた。
また、カネ・サンの暴政に耐えかねた人々がアズキニア王国軍の侵攻に呼応するようにして各地で武装蜂起し、知事や地方領主の館を襲撃し、サークル帝国の統治体制は崩壊した。また、カネ・サンの統治に不満を持っていた地方軍はサークル帝国軍に離反し、アズキニア王国軍と協力してサークル帝国軍と戦った。その中でもアレッサンドロ=リュウ率いる「国民の怒り軍」は約8万人の大軍勢にまで膨れ上がり、地の利を生かして東部で倍以上のサークル帝国軍を破ってアズキニア王国を勝利へと導く大きな要因となった。
アズキニア王国軍はアラルダの勝利の勢いのままマールバーグに進軍。この時、マールバーグの民衆はアラルダでの敗戦によりかねてよりあったカネ・サンへの不満が爆発し、王宮を襲撃。王宮では近衛兵と武装した市民により激戦が展開され多くの建築物が被害に遭った。
5月20日、アズキニア王国軍はサークル帝国首都マールバーグに到達。アズキニア王国軍総司令官マスクード公は市民の激しい抵抗を予想し、戦列歩兵と大砲を従えて四方向からマールバーグに迫った。しかし、マスクード公の予想に反し、マールバーグ市民は城に白旗を掲げ戦意がないことを示し、街の門を内側から開いた。そして、正午ごろアズキニア王国軍はマールバーグに無血入城。アズキニア王国軍は馬に乗ってマールバーグを凱旋し、市民はアズキニア王国旗を振りながら敵国の軍を歓迎するという異様な光景が見られた。また、アズキニア王国軍はマールバーグ城に対し砲撃を開始。この間にもアズキニア王国兵は歓迎され、市民は自分の家にアズキニア兵を呼んで温かい料理でもてなしたという。
21日、未だに中心の城に籠城に抵抗を続けていたカネ・サンはアズキニア王国軍の城への砲撃により戦意を失い、近衛兵と共に投降し、降伏文書に調印。ここに亜丸戦争は終結した。
当初アズキニア王国はカネ・サンを本国に送って裁判にかけて終身刑にしようとしていたが、マスクード公はマールバーグ市民のカネ・サンにたいする復讐心を利用し今後の統治を円滑に進めて今後もサークルで権力を握ることを目論み、本国の意向に反し独断で裁判をマールバーグ城で行うことにした。城外では終始市民による死刑を要求する声が飛び交い、城内のカネ・サンは終始怯えた様子であったという。無論法曹はアズキニア出身であったため裁判は終始アズキニア側のペースで進み、正午ごろにマールバーグ広場での公開処刑が決定した。マールバーグ市民はこの知らせを聞くなり、踊り狂うように喜んだという。
そして22日にカネ・サンは市中引き回しにされ、道に並んだ住民から石打ちに処されながら、広場へと運ばれた。広場に着く頃にはカネ・サンは投石の痛みで既に気絶しかけていたが、鞭で叩かれ起こされて磔にされ、マスクード公の命令でアズキニア王国兵に腹を割かれ絶命した。腹割きは時間をかけてゆっくり行われ、傷口に塩を塗しながら行われ、当初は命乞いをしていたカネ・サンも最後には早く殺してくれと言いながら死んでいったと言われる。処刑後、遺体はそのまま放置され、市民たちは道すがら唾をかけたり石を投げたりしたという。これは本国の命令に背く処置だったが、マスクード公は部下が独断でやったということにして処罰を免れた*37。
亜丸戦争での敗北によりサークル帝国は事実上滅亡し、しばらくマスクード公による暫定統治が施行された。6月23日、マールバーグ裁定でサークル王家の廃位が決定され、アズキニア王国神聖皇帝がサークル帝国皇帝位を兼ねる形でアズキニア王国領サークル帝国?が成立。サークル王家の一族は南部のドレ城に軟禁された。サークル帝国はここから約140年に渡りアズキニアの支配を受けることとなる。マスクード公は彼の目論見通りマールバーグ市民から支持を集めて初代副王に任命された。アズキニア王国領サークル帝国では超上層以外は現地人を登用する間接統治が採用された。これは当時地域大国であったサークル帝国を直接統治するのは困難であったのと、サークル人の中でも上級階級を作ってサークル人を分断し、アズキニア人にヘイトが向くのを防ぐというのが理由である。また、国民の怒り軍を組織したアレッサンドロ=リュウはのちにアズキニア王国軍配下のサークル帝国軍の元帥まで上り詰めた。
また、亜丸戦争において当時世界最新鋭の前装式小銃であるシェルフィールド銃が初めて実戦で本格的に投入された。特に南西部では不正確な命中精度で短い距離しか射撃できない旧式のフリントノック式の滑腔銃で戦うサークル帝国軍を、アズキニア王国軍は相手の射程外から一方的に正確に射撃にして圧倒した。シェルフィールド銃は亜丸戦争においてその有効性が証明され、その後長きに渡ってアズキニア王国軍を支え続けた。
テープコナル共和国への侵攻
パクス・アズキニア
アズキニア王国は産業革命の成功と広大な植民地の保持により諸外国に対し優位に立つことが出来るようになり、全盛期を迎える
海洋支配の完成
アズキニア王国は第四次アズキニア王国王位継承戦争でペルファス~シュローリンゲンを結ぶ線より西側のシャルケー半島を含む領土をを奪って、周辺の海の完全支配を確立させた。これは当時はコールドランド島以北のカンブリカ大陸が発見されておらず、リガルフィアやアクーサリア、ガラルーク、ソーカやシテンなどの領土があるあたりは当時は氷海と考えられていたからである。どちらにせよ、実質的に中漠海の海運を完全に掌握したのはアズキニア王国であった。
但しポラリス諸島はアズキニア王国領であったものの海外領土とされており、編入には至っていなかった。また、北シェイエロー、シマン、ポラリスなどの『新王国領土』はシュマリへの回帰の際にアズキニアの本土としては編入されなかった。
揺れる大国
アジャール戦争
西オメガの動乱
二十一世紀後期に入ると西オメガでは隣国からナショナリズムが波及し始めアズキニアの強権的な統治体制が揺らぎ始めていた。既に徹底的な言論統制による国民思想の流入の阻止にも限界が出ており、街では知識人層が独立に関しての討論を盛んに行なっていた。アズキニアはこれらの活動を徹底的に取り締まり指導者を万単位で逮捕していったが、活動は収まるどころかむしろ活発化していった。
西オメガの民族運動の明確な始まりは1926年のテープコナル大学法と1930年のパテイン分割令である。テープコナル大学法において、官吏の統制が強化され、テープコナルにおける高等教育の発展が阻害された。パテイン分割令において、パテインを二分し、パテイン東部とシューラヒル地方でもって東パテイン州を新設し、パテイン西部とバクーク州、ビハール州とを合わせて西パテイン州を新設することで、それぞれの州の多数派をテープコナル人とマンダレー人にしてしまうことで、パテインで盛り上がっていた反アズキニア運動を分断することにあった。パテイン分割令は、1937年に撤回されるが、それは分割したパテイン州を再統一し、パテイン、バクーク、チキット、シュラーヒル各州に自治権を与えるという、いわばパテインに対して妥協がなされる形となった。
1938年クロイツ=アズキニア戦争が勃発すると、多くの民族主義指導者はアズキニアへの支持を打ち出した。彼らの期待は、テープコナルのアズキニアによる支持は、終戦後に結果として、テープコナルへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた。その結果100万人以上のテープコナル人が徴兵に応じ、クロイシアで戦死した。大戦期、アズキニアは戦費を賄うために西オメガから徹底的に搾取したため西オメガ経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、各地で飢饉が相次ぎ多くの人が餓死した。これに対し西オメガの勢力は1940年4月8日、ハンウ合意でテープコナルのテープコナル国民議会とマンダレーの全マンダレー連盟が西オメガの独立について合意した。
アズキニアはテープコナル、マンダレーの二大勢力が大同団結した事態を重く見て、1941年8月20日、シロン・ジャフ・プライア、テープコナル担当国務大臣により、プライア宣言が発表された。アズキニアは植民地テープコナルの即時独立を容認することはなく、全人的に自治権を拡大させる政策を採った。テープコナルの民族主義者の懐柔と同時に、1942年には、スケイト法が可決され反亜主義者の弾圧も行う姿勢を見せるようになった。スケイト法が適用されて展開された悲劇がバラノアの虐殺である。
しかし、この時代、テープコナル独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたチュロスの死亡、リガルフィアからのプノン・エールザラン・タミルの帰国である。タミルは先の戦争で協力したにも関わらず、アズキニアが西オメガの自治を認めなかったことでアズキニアを信頼しておらず
サークル独立戦争
当初暴政を破ったアズキニアを救世主として歓迎していたサークル人だったが、アズキニア王国は戦争の目的であった丸々島の豊富な石炭の多くを本国への輸出に回したため、サークル帝国では慢性的に石炭が不足し生活水準が大きく上昇することはなかった。カネ・サンの統治下のように不条理な虐殺が行われることはなかったものの、穀物の収奪や過度な徴兵などで生活は苦しくなった。それでも植民地時代の前半はアズキニアから持ち込まれた農業技術や農作物の自由取引基準の緩和によって市民は恩恵を少なからず享受してアズキニア統治への不満は小規模なものに留まったが、後半に入ると知識人が力をつけ始めて本国との格差解消や民族自決を訴えるようになると独立の火種が燻り始めた。また1921年頃リーダー不明の秘密結社「サークル・フリースラント」が結成され、サークル人の扇動とアズキニアへのレジスタンスを精力的に行って植民地政府を苦しめた。一方でアズキニアから鉄道や電信の技術が伝播し、限定的ではあったがマールバーグでは都市化が進み富裕層が多く生まれた。
アズキニア王国はもともとある程度文明化が進んでいたであったサークルが反乱を起こすのを恐れて二重支配体制をとった。まず、亜丸戦争以前から貴族や大地主、ブルジョワであった人を『名誉人』として小作人や労働者と区別した。その上でこの階級を固定化することで権力が強い少数派の支配層と権力が弱い多数派の被支配層の間でサークル人内での対立構造を作り、アズキニアにヘイトが剥くことを回避していた。この武断統治制度はサークレジェクション体制と呼ばれ、独立直前まで存続する。また、皮肉にもサークルの民族自決運動を扇動した知識人はこの階級の出身者が多かった。
アズキニアによる武断統治は反発を受けながらもなんとか一応の成功を見せていた。しかし、独立の原因となるのは『コール・ラダスト』と呼ばれるサークル領内の石炭問題である。事の発端は1944年に始まったアジャール戦争である。アジャール戦争にあたってアズキニア王国は航空機や戦車の燃料の十分な確保のため、民間へ石油の利用を制限し戦争を優先させた。しかし、アズキニアでは既に石油を燃料とした工業生産システムが多くの工場で採用されており、民間への石油使用の規制は工業製品価格の高騰を招き、国内経済の混乱や世界におけるアズキニアの地位の低下に繋がることは誰の目から見ても明白であった。そこでアズキニア政府は石油に代わる燃料としてサークルの石炭に目をつける。当時アズキニア王国領サークル帝国では大規模な石炭鉱山のほとんどはアズキニア資本によって支配されており、アズキニア政府が企業に働きかけることで石炭の生産量を増やすことは簡単であった。
1945年、アズキニア王国領サークル帝国で石炭法が制定される。石炭法はサークル領内の石炭鉱山を全てアズキニア政府の管理下に置き、産出量、市場への流通量などを全てアズキニア政府が決定するというものである。石炭鉱山の保有企業とは、引き換えとして今後のアズキニアの公共事業において、優先的に仕事を発注することが約束された。石炭法が施行されるなり、アズキニア政府は産出する石炭のほとんどをアズキニア本国への輸出に回し、石炭を政府の専売品とした。また、産出量を少しでも増やすために鉱夫に過酷なノルマを要求し、危険で劣悪な状況下で長時間低賃金で労働させた。
当時サークル帝国では工場から一般家庭に至るまで石炭燃料の使用が主流となっており、既に石炭は生活に欠かせないものとなっていた。なので当然このことはサークル領内での石炭不足を招き、サークル市場では石炭に代わる燃料となる薪の価格が急激に高騰。薪を買えない貧困家庭では寒さの厳しい冬に凍死するものが相次ぎ、そうでない一般家庭でも生活必需品たる燃料の価格の高騰は、深刻な生活苦を招いた。また、薪作りや炭鉱鉄道の枕木としての使用のため、大規模かつ無計画な森林伐採が広い範囲で行われ、サークル領内の森林面積は大きく減少した。過度な森林伐採は地盤の不安定化や海の貧栄養化を引き起こし、サークル領内の農業生産に決定的な打撃を与えた。森林はもとより地盤の安定化や平野部の農地の保全、川を通しての海への栄養供給などの自然界において大変重要な役割を果たしている。肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、各地で治安が大きく悪化した。
また、炭鉱の非人道的行為も大きな問題であった。以前は炭鉱では、効率第一の元鉱夫は峻厳な状況で働かせられていたが、それでも十分な給料が与えられ、最低限の保障もあり、最低限の安全規則に基づいた運営がなされていた。しかし、石炭法が施行されると状況は一変する。アズキニア政府は石炭増産のため、鉱夫の給与を採掘量の順位によって決め、厳しいノルマを達成することを要求した。そのために鉱夫たちはガス漏れや落盤の危険が伴うところで採掘を行うことを余儀なくされ事故が相次いだが、しかし十分な保証は行われなかった。こうしたアズキニア政府の現場の実情を無視した過酷な運営は現地の指導者と鉱夫の間に軋轢を生むこととなる。1946年9月4日、サークル帝国南部のフラストブール炭鉱で大規模落盤事故が発生。地下で採掘に当たっていた749人が生きたまま坑道に閉じ込められた。また、落盤に伴うガス漏れと電気系統の故障により坑道内で火事が発生。これに対し、鉱山側は石炭生産の停止と坑道内の石炭の燃焼による損失を恐れて坑道への注水を断行。これにより全員の死亡が確定した。この事件をフラストブール炭鉱事件という。この暴挙にサークル人は当然激怒。各地で「アズキニアは出て行け運動」が勃発し一部の『名誉人』にもこの運動は広がった。サークル領内の迎合度は著しく低下。アズキニアの支配の終焉はすぐそこまでやってきていた。
同年11月27日、フラストブール炭鉱の鉱夫はアズキニアの厳しい支配に耐えかねて遂に大規模ストライキを起こす。このストライキは瞬く間に全国に広がり、サークルでの生産活動は完全にストップする。事態を重く見たアズキニア王国は、12月3日、全土の港を一方的に封鎖。アズキニアから輸入している生活必需品の流入を阻止し、サークル人の戦意を削ぐことを試み、それでも出入港を試みるものは逮捕して厳しい罰を与えた。47年1月5日、市民はアズキニアに捕まった政治犯や貿易商人の解放を求めて当時最大の監獄があった東部のヤルババーグに集結し、監獄前でハンガーストライキを行い、緊張は一気に高まった。当初は平和的なデモに過ぎなかったが、過激独立派の市民といつまでも退かない市民に苛立っていた兵士の間で9日の13時ごろ*38に煽り合いが勃発。次第にそれは周囲の市民を巻き込んだ乱闘になり、監獄の責任者にもデモの指導者にも止められなくなってしまった。そして14時頃*39、ついに一発の銃弾が放たれる。銃声を聞いた市民とアズキニア兵はお互いにこれを相手側からの発砲だと思い込み、武装市民と兵の間で銃撃戦が発生。尚、最初の銃弾がどちら側から放たれたものなのかは今でも不明である。銃撃戦の末、市民は130人ほどが犠牲になりながらも、監獄内の囚人とアズキニアに雇われていたサークル人の手助けにより5時間後には監獄を占領。これによりサービス市民は大量の銃や大砲を手に入れるとともに、アズキニアに対し独立を宣言し、サークル独立戦争が開戦する。1月10日の出来事であった。ほぼ同時期に秘密結社「サークル・フリースラント」が活動を本格化し、主に東部を中心にレジスタンス運動を展開する。これまでとは違い武器を大量に入手上に何故か練度も高く、植民地軍を大きく苦しめた。そしてナグロ・ロヴァンスサークル総督は、『名誉人』であり数々の戦果により政府からの信頼も厚かったマルノ=リュウ中将に植民地軍第一軍の統帥権を与え、反乱の鎮圧を命じる。アズキニア王国領西オメガにいた彼は第一に民意に逆らう事が不可であること、第二は冬に大軍を動員するのが不可であり、第三に内戦をすれば、他国がその虚に乗じてくること、第四に寒くて雪の多い時に当たり、兵糧が不足し、大軍が疫疾にかかりやすいことを理由に鎮圧に反対するが聞き入れられなかった。ロヴァンスはミエン・シンラン内務提督の意見に従い反対論を無視し鎮圧を開始した。実はこの出兵には反乱鎮圧以外にも新興商人勢力やマルノ=リュウら武人の勢力を削るという目的があった。ロヴァンスは軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった。また、反乱に備えて遠征する将軍らの家族は総督府に来させて人質*40とした。リュウは5月に進軍を開始してその際にマールバーグで装備の補充と兵站の補給を行うことを決定した。マールバーグへ立ち寄る事を聞いた市民はリュウを歓迎し、リュウを讃える歌が流行した。
6月5日、マールバーグに到着したリュウは総督府に入ると、大広間で総督への謁見中に、突如剣を抜いて総督に襲いかかった。それを合図にリュウの私兵が総督府を襲撃。その後リュウは6時間で総督府を制圧し、1日でマールバーグを占領。主要なアズキニア人は全員暗殺され、植民地在留アズキニア軍の指揮系統は一日で崩壊した。その後リュウは「私はアズキニアのために働くことが祖国のためだと信じていた。私の祖先は少なくともそうした。だがそれは間違っていた!アズキニアは我々から多くのものを奪っていった。資源と領土ではない。彼らが奪ったのは我々の尊厳と誇りだ!さぁ、今こそ我々は尊厳と誇りを取り戻す時だ!」と演説を行い、『名誉人』を追放。マールバーグ全体を反乱勢力の味方につけた。リュウは最初からアズキニアを信用しておらず、アズキニアを見限って独立勢力に味方する事を決めたのである。さらにリュウこそが秘密結社「サークル・フリースラント」のリーダー*41であり、長年植民地政府が当組織のリーダーを見つけ出せなかったのは『名誉人』であり信頼も厚いリュウを捜査対象としていなかったためである。この一連の事件は丸五事変と呼ばれる。丸五事変の後リュウはアズキニア中央部政府に対し、ロヴァンスは病気のため自分がアズキニアとの通信を担当しており、優勢であるから援軍を送る必要はないとの連絡を送る。実際には中央指揮系統を失って混乱するアズキニア軍に対し奇襲を仕掛け、北部のほとんどを奪還し南にアズキニア軍を追いめていた。さらに一月後には王党派も合流し、この攻勢期は領土奪還において反乱側を優勢にするのに大きく貢献した。しかし、アズキニア中央政府は事前から潜伏させていたスパイを使ってリュウの予想より早く現地の状況を掴み、即座に援軍の派兵を決定した。ただしアジャール戦争がこの時まだ終結しておらず、主力を送ることは不可能であった。そしてアズキニア軍は数と練度では劣っていたものの航空戦は圧倒的に優勢であり、なんとかサークル反乱軍の進行を少しでも遅らせようとしていた。具体的には地の利で勝敗が決まりやすい山岳のある東部は放棄して近接航空支援や戦術爆撃がより有効な平野の南西部で港を維持し続けるというものだった。リュウの軍はすでに国土の8割近くを奪還していたが、アズキニア軍が築いた強固な防衛線を前に攻めあぐね、膠着状態が続いた*42。そして時間は流れ1948年10月ついにアジャール戦争が終結し、アズキニア側はより多くの戦力を割くこちができるようになった。これはリュウにとって最悪の事態であったが、リュウは戦線ごとの状況を把握して川と山脈を利用し巧みに防衛を行う。だがそれでもアズキニア軍の爆撃と通商破壊はサークルにとって大きなダメージとなり、劣勢が続いた。だがアズキニア軍の進撃は南部オルガン川で停止する。これは占領地での強固なレジスタンスと大河の渡河ペナルティのためである。さらに1949年1月、アズキニア王国領西オメガでテープコナル大反乱が発生。アズキニアは最重要植民地であるテープコナルを失陥することを恐れて、兵を大量に引き上げ、サークル反乱軍に対し継続的な石炭輸出と引き換えに独立を承認する方針で和平交渉を開始。2週間後に中立国でアントン条約が結ばれ、1949年2月12日にサークルは150年の時を経て再び独立した。4月27日には王政復古がなされ正式にサークル帝国へと回帰した。この戦争の結果としてアズキニア王国は丸々島を失い、180億の戦争賠償金を支払うこととなった。この賠償金はサークルの戦後復興を支えた。この後サークル帝国は1967年の亜丸平和友好条約でアズキニア王国と和解し、現在では互いに友好関係を継続している。
アズキニアの落日
衰退の始まり
それでもアズキニアは10世紀の年月をかけて作り上げてきたマトリア海から世界へとつながる大交易網が未だ健在であったことや、革命などの国家の信用が揺らぐ大事変が未だ起こっていなかったこともありアズキニアは経済的な信用を失ってはいなかったこと、世界中の植民地はまだ残っておりそこから外貨を大量に獲得できたことなどの要因から
帝国への一撃
しかしながら弱りつつあったアズキニアに最後のトドメを刺したのは、アズキニアと争ってきた近隣諸国たちでも、台頭する新興国たちでもなかった。
2020年8月31日、アズキニア王国次元崩落テロが発生した。このテロはウルシワフ体制下の政権に対する最大の打撃となった。
エルドビア戦争
魔法戦争の発端は2023年10~11月ごろなろう王国及び第一魔法師団*43と呼称されるテロ組織が活動を開始した事だった。同勢力は全世界への敵対宣言や無差別爆撃テロを行い、ヒイラギシティなどの国際都市に甚大な被害を与えた。当時各国が協力して魔法側勢力の撃破を目的とした連合を結成し各地で戦闘を繰り広げていたが、アズキニア王国は伝統的な孤立主義政策に従って両勢力と距離を置き、その動きを静観していた。またアズキニア全体で魔法側勢力が中立を宣言したアズキニア王国に侵攻することはあり得ないとのムードがあり、当時政府は軍のほとんどを独立戦争が展開されているテープコナルや最重要植民地のリガルフィアなどに割いていた。
しかし2023年11月14日、なろう系転生者Σを指揮官として持つなろう王国軍が旧領奪還を目的に突如アズキニア王国領エルドビアを急襲。それまでなろう王国に対し中立を保っていたアズキニア王国はなろう王国に対し宣戦布告した。なろう王国軍は港湾に空から降下し、電撃的に敵を殲滅。アズキニア王国第六軍が駐留していたが、アズキニア軍は突然の空からの急襲に大混乱し、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。アズキニア軍は対空砲を完備し連絡があればいつでも対抗できるようになっていたが、なろう王国軍は海をすっ飛ばして空から侵攻したため、準備時間が全くなく、あえなく敗北した。次に、なろう王国軍は沿岸部の飛行場に狙いを定め、第二部隊が降下し、全て占領。アズキニア軍は制空権を喪失した。ここでようやくアズキニア海軍にも急襲が伝わり、海軍は艦砲射撃や艦載機による機銃掃射で足止めを試みたが陸上部隊との連携不足により敵部隊の位置が明確に把握できなかったためこの攻撃はほとんど効果がなかった。16日にはアズキニア軍は沿岸部の支配権を喪失し、本土からの補給は不可能となった。アズキニア第六軍残存部隊は沿岸部の奪還を諦め、山中で抵抗し援軍を待つ方針に転換。木が生い茂る山中ではなろう王国軍は空を自由に飛べても敵の位置に把握は難しく、山中への撤退一定の効果があった。しかし17日にはなろう王国軍は絨毯爆撃を開始。森ごと焼かれ、部隊は次々と殲滅されていった。
停戦しなければアズキニア王国本土侵攻もあり得ると判断されたため、他国はなろう王国と戦闘を継続していたものの、アズキニア王国はなろう王国と講和することを決定した。そして19日にアズキニア王国がなろう王国に対し降伏。残存部隊は武装解除され強制送還された。講和時にはアズキニア王国に対しなろう王国はその立場を生かし苛烈な条件を提示し、受諾するよう要求した。この内容は当然アズキニア王国にとって到底受け入れ難いものであったが、取り残された兵士の命と本土の安全には代えられず、調印を強いられることとなった。これによりナグプール条約が結ばれ、『アズキニア王国はその領土であるアズキニア王国領エルドビアにおいて、その自治領としてなろう王国を成立させる。なろう王国の領域はエルドビア島全土および周辺諸島とする。』『なろう系転生者Σをエルドビアの総督に任命する。また、いかなる場合であろうとその地位は確約される。』『なろう王国行政府には領域の徴税権、警察権並びに外交権などの諸権利がアズキニア王国政府から委譲される。』『アズキニア王国が今後なろう王国にとって軍事的に不利となる行動をとることは禁止される。』『アズキニア王国の行動の監視のため、なろう王国はシュマリ、ニューロフト、メクトフォール、オーズデン、ノバルスレムス、フィランに大使館を置き、監視団が駐留する。』『なろう王国の領域全土についてアズキニア王国には防衛義務が発生する。』『アズキニア王国はなろう王国の領域の人的資源、物的資源などのあらゆる資源に対する利用権を主張してはならず、許可を得ずに輸送並びに利用してはならない。』『この条約はアズキニア王国大統領とアズキニア王国領エルドビア総督の名の下で絶対的な効力を発し、これを破ることはいかなる場合でも許されない。』などの条項が規定され、事実上アズキニア王国領エルドビアはなろう王国に支配されることとなった。しかし、形式的ではあるもののアズキニア王国の支配下にあり、対なろう王国連合は容易に手を出せない状況となった。これはアズキニア王国が法治国家であるが故に条約を破ることができないことが招いた事態である。なろう王国はそれを利用して連合のエルドビア侵攻を遅らせた。
しかし、12月9日連合軍によりアイアン・レイン作戦が始動。第一段階として連合軍が近海で小競り合いをしているうちに魔法側勢力の交渉材料として捉えられていた人質が救助された。同日にアズキニア王国の行政首都メクトフォールにてイルネシア共和国との協力のもと暗殺計画が始動し、指導者なろう系転生者Σはイルネシア軍に狙撃で頭部を撃たれて死亡した。それとほぼ同時に前述のナグプール条約にて定められていた監視団の殲滅を試み、ニューロフト以外の都市では大した被害を出さず撃破に成功した。ニューロフトはリガルフィアにある都市だったので攻撃の遅れにより監視団に勘付かれ、激しい市街戦が行われ2,000人近くが死亡し、総督府などの行政施設も破壊された。
連合軍は12月9日午前10時から市民の避難と同時に、大規模上陸作戦の敢行を決定。南部のセントフェアとユーランデラヴァ、西部のクーロンとヒュジュールとシネランク、北部のセントコークとウィキンヘルスとジュヘーナとアークシュタットの計九箇所に同時に上陸を開始。セントフェアとクーロンでは天候不順と張り巡らされた防衛陣地を活用した魔法軍の熾烈な抵抗により上陸に失敗し撤退することとなったが、その他の地点では上陸に成功。ただしひとえに上陸に成功と言っても上陸地点によって連合軍の被った損害は大きく異なった。特にアークシュタットでは魔法軍の戦力が集中しており、空中飛行が可能な飛行兵士のせいで航空優勢を生かした近接航空支援や空挺降下を行うことができず、大量の機関銃と艦砲射撃だけで上陸を完遂することになり上陸戦において最大の激戦地になった。飛行兵士は航空機の役割を果たす存在にも戦車の役割を果たす存在にもなりうる上に二つの役割を瞬時に切り替えられるのが最大の強みであり、常に空と陸の両方で過密な連携による繊細な攻撃を加えなければ殲滅が困難であった。当初は上陸地点の10km西のアークシュタット港を占領し市民の避難を行う予定だったが、ここでの激戦によって急遽輸送能力が劣るセントコーク港に変更された。しかし連合軍は重機関銃と対空砲によって確実に飛行兵士を殲滅していき、水陸両用戦車と歩兵による迅速な浸透戦術によって防衛陣地の奪取に成功した。
上陸作戦から半日後のエルドビア島北側のセントコーク港から市民の避難が開始され、既に中心部を後にしていた市民たちが次々と連合国の船に乗り込み、アズキニア王国本土への脱出作戦が開始された。他の北部の港からも脱出作戦は展開されたが、早期に占領に成功した港で港の容量が最も大きかったのはセントコーク港だったためセントコーク港から全体の30%が脱出した。しかしこれは当然の如く勘付かれ、魔法側勢力の軍勢が南部から大挙して押し寄せ、港は包囲された。これに対し連合国はユーランデラヴァから上陸した機甲戦力の集中投入により南部から包囲の突破を目指し攻撃を開始。なろう王国は頑強に抵抗したが、包囲した師団の殲滅に戦力を大きく割くことができず、市民にセントコーク港からの脱出が完了した。連合国軍は包囲の突破はできなかったものの、なろう王国の戦力を大きく削ぐことに成功し、市民の避難にも大きく貢献した。しかし、砲弾が飛び交う戦場の中で市民全員が脱出することはできず、市民一万人近くが死亡または行方不明となった。
12月10日正午、上陸してから機動兵器と戦車を用いて海岸の重点的な占領を進めていた連合軍は全ての海岸の占領を完遂。これによってエルドビア島の魔法軍勢力は海上を経由した外部とのつながりを遮断された。しかし連合軍はその過剰戦力の投入による補給の圧迫と不十分な航空優勢による攻勢限界により損害が多く出ていた。そこで戦線の歩兵師団の攻勢を一時的にストップして後方の占領地の安定に当て、足の早い機甲師団で広がりすぎた戦線を維持。それが完了し次第連合軍側の圧倒的な火力を誇りながらも地形による攻勢能力低下を受けにくい、精鋭歩兵や重装甲機動兵器部隊、現実改変・奇跡論兵器部隊などからなる精鋭師団によって火力集中一点攻勢を仕掛け、直ちに飛行場やその先のエルドビアシティを奪取し航空優勢や補給を確実にしつつ長大な突出部を形成して敵を半包囲し再度全面攻勢を仕掛ける作戦を立てる。これはレイカー攻勢と呼ばれさらなる侵攻の加速を望める作戦であったが、敵によって戦線に穴を開けられて仕舞えば精鋭部隊を含む多数の師団が包囲されるリスクを孕んでいた。作戦司令部ではこの作戦が実行されることとなり、12月11日午前11時よりレイカー防戦が開始。8時間後に戦線の師団の移動が完了すると精鋭師団は飛行場の占領を目指して山がちな北東に侵攻を開始。精鋭部隊は厳しい地形をものともせず進撃し、僅か2時間後にはロヴァエルドビア山地の分水嶺に到達し更なる突破を目指す。一方で魔法軍も精鋭師団の脅威を認識しており、高速での飛行が可能な精鋭飛行兵や奇跡論による強力な対地攻撃が可能な超火力戦力などから成る主力をエルゲザー峠に投入。史上最大の激戦となるエルゲザー峠の戦いが始まろうとしていた。ただし機甲師団・歩兵師団の双方にとって最大の脅威である飛行兵士の多くがエルゲザー峠に回されていると考えた作戦司令部は飛行場を確保する前に空母などから発艦した航空機を利用して山地周辺で限定的に大攻勢を開始しており、この攻勢を含めてエルゲザー峠の戦いと呼ばれることに注意されたし。12日午後3時ごろ飛行兵士と精鋭航空師団の戦闘機が接敵したのを皮切りに双方の軍が攻勢を開始し、エルゲザー峠の戦いが始まる。連合軍は南西から大規模攻勢を仕掛けるが、当初は連合軍は戦闘正面幅の制限により全ての戦力を最前線に投入できていなかった上に飛行兵士の徹底的な対地攻撃と幹部級戦力による機動兵器への効果的な直接攻撃を受けて大苦戦していた。しかし午後8時ごろ闇夜に紛れて山岳師団が、飛行兵士によって甚大な被害を被りながらも防衛が薄かったエルゲザー峠の南東側で戦線の突破に成功し機動力を利用してエルゲザー峠の主戦場を裏から回り込んで峠の南東と北東の斜面を確保する。連合軍は直ちに精鋭師団を南東と北東の斜面に向かわせて二方面から攻勢を開始。三方面から攻撃を受けた魔法軍の主力は混乱に陥り瞬く間に敗走し、12月11日午前4時ごろエルゲザー峠の戦いは連合軍の勝利という形で集結した。また、これに乗じて機甲師団も戦線が崩れたエルゲザー峠の北東から電撃的にエルドビアシティ周辺の主要な平野部に侵攻することを決定したが、まだ戦線は戦いの前に比べて北東に伸びきっており、北西側の斜面から撤退した魔法軍精鋭に攻撃されれば捕球が遮断される恐れがあった。よって軍の大半は補給を十分に確保するまで師団の移動を停止すべきだと主張したが、エルゲザー峠の北西から撤退しているであろう魔法軍主力を殲滅し迅速に飛行場とエルドビアシティを確保したかった作戦司令部は12月11日正午ごろアズキニア王国に無断で核をエルドビア島山間部へ十発投下。アズキニア王国は逃げ遅れた市民の潜伏の可能性への考慮と自国領に核を落とすことの嫌悪によって核兵器の使用には強く反対していたが、作戦司令部はそれを知りながら無断で核を投下した。結果的にこの核投下は敗走中だった魔法軍主力に決定的な打撃を与え、その後の勝利に大きく貢献したものの、アズキニア王国はこれに対して憤慨し非難声明を出し、作戦司令部とアズキニア王国との間に大きな軋轢を生むこととなった。
核投下を伴ったレイカー攻勢の成功は連合側の侵攻をさらに加速させ、戦線に空いた穴に連合軍側の機甲師団が次々と雪崩れ込み既に崩壊しかかっていた戦線を食い破るようにエルドビアシティを目掛けて突進していった。そしてついに飛行場を奪取し、これによって上空を巡回する飛行兵士を航空機の数の力で圧倒し完全制空化での戦闘が可能になった。そして間も無く全戦線にて自動車化歩兵を中心とした連合軍は波状攻撃を開始。既に主力を失った魔法軍はこれに抵抗できる余力を残しておらず、エルドビアシティ周辺を除く島の大部分が瞬く間に占領されていった。魔法軍は残った全ての戦力をかき集めてエルドビアシティに立て籠もり大西毱子を中心として最後の抵抗を行うことを決意。そして連合軍は12月12日午前9時ごろついにエルドビアシティに到達。市街地を駆使した魔法軍の戦略と幹部級戦力の決死の抵抗により連合軍は大損害を出すが、それでも精鋭師団などをはじめとする戦力によって絶え間なく攻勢を続ける。そして12月13日午前6時ごろにエルドビアシティを完全に包囲した連合軍は総攻撃を実施し圧倒的な空軍力で猛進。そして午前9時ごろ遂に総督府が陥落し、建物の天辺にはアズキニア王国の旗が掲げられた。これによって組織的抵抗は完全に終了し降伏したが、大西はエルドビアシティからの脱出を試みながら最後まで足掻き続けるが、正午ごろエルドビアシティより5km北西で精鋭部隊の機動兵器に捕捉され、激戦の末戦死。これによって完全に戦闘は終了し、勝利宣言がなされた。
魔法側勢力の完全な降伏に伴い連合国陣営で戦後処理が行われ、12月17日の第一次イドリュス裁定で正式に戦後処理の様相が決定された。これにより降伏した魔法軍は膨大共和国に移送されて、戦争裁判にかけられたのちに監獄への収監が決定。12月21日に正式に撤退が完了し、エルドビア島はアズキニア王国の支配下に戻った。しかし未だに裏で活動を続ける残党も存在し、ヒイラギシティがたびたび標的にされている。エルドビア島は現在も復興中で、避難の影響で激減した人口も戻りつつある。
また、この一連の戦争はアズキニア国民の強い転生者・反能力者感情を一層掻き立てた。もともと魔法側陣営は虐げられてきた転生者たちの名誉回復や人権の獲得などを目標にして武力行使を行なっていた。しかし彼らの行動には以後アズキニアでは『転生者狩り』などの反転生者運動を活発化させてしまい、皮肉なことに目的と真反対の結果を生み出してしまった。現にアズキニアは今日世界中で進んでいるなろう系転生者の人権保護運動に対して非常に非協力的で、国内でもなろう系転生者に対する犯罪の減刑などなどの重篤な差別問題が発生している*44
ラクロス戦争
だがアズキニアに降りかかる厄災はこれだけではなかった。年が明けた2024年1月5日、ラクロス解放戦線を名乗る勢力が国連軍を追い出し、ラクロス島を占領。島本などのラクロス軍幹部はラクロス島が国連軍基地が置かれていながら貧しくその恩恵の享受していないことに不満を持ち、分割大陸を生存圏として確保し、主要国を従えることでラクロス帝国を建国し新たな世界秩序を構築することを目標として兵士を集め反乱を決意したのである。また、島本は世界中の発展途上国に対し戦争協力と引き換えに戦後の地位向上を秘密裏に約束していたため、島本に賛同するラクロス島民だけでなく世界中から義勇軍が集結した。アズキニアはこれに対しても自国と直接関係のない事象として、伝統的な孤立主義に従いまたしても静観の姿勢を決定した。
しかしその二日後、ラクロス解放戦線はアズキニア王国に対し突如宣戦布告。ラクロス解放戦線の宣戦布告の理由はアズキニアは過去に二回なろう系転生者によって甚大な被害を被っていて、軍事力に似合わぬ国力を持っているので淘汰されるべきであるという正当性のかけらもないものであった。そして宣戦布告とほぼ同時刻に東部平原の一帯をラクロス解放戦線の空挺兵が強襲。空挺兵はステラリスやシュマリ、メクトフォールやアルトーなどに次々と上空から降下して、次々と攻撃を開始。ラクロス軍は直ちにアズキニア主要部を制圧して、一週間以内にアズキニアを制圧するという作戦を立てていたのだが、東部平原一帯に展開していたアズキニア第三軍がエルドビア戦争の反省を踏まえて設置されていたレーダーでこれを察知し、制圧がなされる前に戦闘状態に持ち込むことに成功し、主要部の陥落という最悪の事態を免れることに成功した。また、カナン海峡沖海戦で長旅によって消耗していたラクロス海軍を数の差でなんとか退かせることに成功し、海からの脅威を排除した。その後、地上部隊の活躍によって空挺師団を殲滅することに成功した。しかしながらアズキニアが負った損害は決して少ないものではなく、主要都市郊外の戦闘で多くの市民が死傷した他、アントガール海でのラクロス軍の通商破壊の影響で貿易が大きく妨げられ経済的な損害を被った。
国際社会は当然ラクロス解放戦線の行為に対して軍事制裁を課し、同日にストロンゲスト共和国やイルネシア共和国、ケミサリー共和国連邦やアンリオス、サークル帝国をはじめとする数多くの国家が解放戦線に対し宣戦布告した。また、シャングリア帝国などもアズキニアへの支援を表明し、オルシオ電磁国なども別の理由で宣戦布告した。こうしてアズキニア王国への宣戦布告をきっかけに世界中で対ラクロス包囲網が出来上がっていった。しかしこれはラクロスも予想しており、逆に宣戦布告を受けたことを大義名分に分割大陸を全て占領したラクロス軍の狙いは大国とされる中でも軍事力が高くなく知名度が最も高いアズキニア王国を倒し、世界に自身の権威を認めさラクロスを独立させることにあった。そのためラクロス軍は分割大陸を南下してガラルークまで激進し、中漠海とクロイシアからアズキニアの東部平原に侵入する作戦を立てた。この分割大陸を南北に跨ぐ壮大な作戦はランスロード作戦と呼ばれた。
1月5日、ラクロス解放戦線の軍は分割大陸北部の半乾燥地帯に攻撃を開始。ストロンゲスト共和国領セガトール、イルネシア共和国領ナルピアを占領するため準備を進めており、その前哨戦として行われたのがセントナラキア占領戦であった。同日午前8時ごろ、アズキニア王国領ナラキアはラクロス軍の空挺師団による奇襲を受けてわずか二時間で全土を占領され*45、政府高官などは陸上を経由してナラキア国に逃れた。一部の軍人はセントナラキアの水産加工工場に立て籠って抵抗を試みたが、それも1時間で制圧された。この時ナラキア国への侵攻も計画していたとされるが、後述するバレル・テルメの戦いによって無期限の延期となり、結局最後まで実行されることはなかった。これによってアズキニア王国は重要港であるセントナラキア港を奪取され、貿易協定を結んでいる中立国ナラキア国経由で遠征軍に物資を送ることが困難になった。
1月5日午前11時ごろ、セントナラキアの占領成功が伝わると、事前に海上に待機していたラクロス軍はセガトール、ナルピアへの上陸戦準備を開始する。分割大陸北部の西部と中央部は、最北部の硬葉樹林が生い茂る沿岸部に降水が集中しているため沿岸部に人口や富が集中し、内陸部は乾燥限界を下回るまばらに灌木が見られる草原となっていて人はほとんど住んでいない。そのため主要な戦いはキタイア川河畔やキタイア・デルタを除いてほとんどが海岸から25km以内で行われ、内陸部は戦いの発生はおろかどちらの軍もほとんど侵入しなかった。それは後方の砂漠地帯を占領しようとも土地そのものの価値は高くなく、補給は孤島に援軍を送るように困難であり、かえって兵站を圧迫するからである。そのため前線においては、その地形を利用した大胆な機動戦が行われた。その進撃距離は長いが地域は細長く、同時に両軍の戦力や補給量の問題により、戦線が短時間で大きく移動することとなった。
ラクロス軍は西方第一任務部隊、西方第二任務部隊、中央任務部隊、東方任務部隊に分かれてそれぞれニューカビール、コラン、ナルジェ、セーセンエルの港湾を目標とした。宣戦布告から12時間も経っていない状態での奇襲であったため、連合国軍はわずか8師団しかおらず、西方第一任務部隊の歩兵6師団は二手に分かれてニューカビールのピレア地区とツユレン地区にそれぞれ上陸。コランでは西方第二任務部隊の歩兵8師団がそのまま上陸し占領。10の歩兵師団、10の機甲師団から成る中央任務部隊はナルジェでストロンゲスト共和国軍4師団の抵抗を受けたものの艦砲射撃や航空支援で上陸に成功し、13時間の戦闘ののちにこれを壊滅させ後方に撤退させることに成功した。東方任務部隊の10の機構師団もセーセンエルに無血で上陸し、占領。ラクロス軍の奇襲上陸は全て成功し、連合国軍はセーセンエル以西の十分な補給キャパシティを持つ港をわずか四日で全て失い、反攻作戦は容易でなくなることとなる。
連合国の8師団は1月9日午前10時ごろからのクヂュラ・アレモスの戦いで防衛線の構築を目指し決死の防衛戦を行ったが、数で勝り多方面からに攻勢を仕掛ける連合国軍に敗北。4師団は捕虜になってもう4師団は南に敗走し、ラクロス軍は44師団は瞬く間にセガトールと西ナルピアの北沿岸主要部をわずか4日で完全占領。南に逃げた4師団4万人のうち、ヘキアのモンテ帝国に逃れたられたのはわずか五千人であり、大部分は過酷な砂漠での行軍中に枯死した。
ラクロス軍はセガトールの完全占領を確認すると、軍を第一軍集団と第二軍集団に分け、第一軍集団には第一軍~第五軍、第二軍集団には第六軍と第七軍が配属された。第一軍集団は当初の目標通りアズキニアに進出するため比較的湿潤なナラキアやヘレモアにキタイア川沿いに進出し平原が多い南部にたどり着くことを目標としていた。第ニ軍集団はセガトールを更に南下して西部中央山脈の西側のヘキア、バカチク、チローラに進出し大東洋からの上陸に対処するとともに山脈沿いに防衛線を築いて北と西から分割大陸を挟むように進撃することが目標だった。またこの作戦に最終目標は世界随一の穀倉地帯にしてアズキニアの生命線であるアズキニア王国領リガルフィアの中核都市ニューロフトを陥落することと位置付けられ、第一軍集団の作戦はリテロリガー作戦、第二軍集団の作戦はガウス作戦と名付けられた。ラクロス解放戦線は両作線について、敵軍が分割大陸に集結する前に可及的速やかに広域を電撃的に制圧することを最重要事項とした。具体的には敵の補給結節点の包囲と遠方への進撃のみに集中し、主要都市の奪取や敵軍の殲滅を決して優先して行わず大きな抵抗があれば即座に転進するというものであった。このような無茶な作戦を遂行するために連合国からの鹵獲物資によって補給を行い、その装備で敵軍の物資の鹵獲を目指して戦うという寄生虫のような戦法をとった。実際に
カンブリカ戦線の末期ではラクロス軍の装備の80%以上は連合国製であり、最初から用意されていた物資はほとんど残っていなかった。そのため連合国による海上封鎖は通商破壊は当初あまり効果をなさなかった。
1月11日、ラクロス軍総司令部は第一軍集団に対し東進命令を出した。その頃第一軍集団はまだセガトールに点在しており、作戦開始地点となるセーセンエルにいたのは装甲師団5師団に過ぎなかったが、持久戦に持ち込まれれば到底勝ち目がないことは理解していたため、無理矢理にでも敵がまだ集まっていないうちに戦線をできる限り東に押し出す必要があったのである。5つの装甲師団は命令に従って早速セーセンエルを出撃し、5時間後にクランティアナ付近で連合国の防衛線に接触。元から現地にいた連合国軍はここまで早く進撃してくるとは思わなかったため、防衛線を捨てて沿岸部のクランティアナに撤退し死守を画策。しかし先鋒部隊はこれらの敵兵の殲滅をせずに都市を迂回してさらに東へ駆け抜けていった。クランティアナに立てこもった連合軍の部隊は、ラクロス先鋒部隊が通り過ぎていったことが分かると背後から攻撃を仕掛けるとともにラクロス先鋒部隊の分断することを狙って再び都市から出撃するが、セガトールから先鋒部隊を追って東進してきていた後続の師団に遭遇し撃退され再びクランティアナに逃げ込んだ。ラクロスの後続師団はこの間に連合軍が防衛線のに残していった装備や燃料を鹵獲し輸送専用師団を用いて戦法部隊に届けたり、クランティアナの包囲の持続のために用いたりした。これがクランティアナの戦いであり、ラクロス軍の無茶と言えるほど速い進撃によって敵を最終防衛拠点まで撤退させて先鋒部隊が迂回し、後続部隊によって包囲を継続しつつ鹵獲を進めるという戦法が大成功した戦いである。戦線を押し上げて占領地を拡大させる前に包囲した敵軍を殲滅するというのは連合軍側の定石であり、ラクロス軍もそれをすると信じて疑わなかったため連合軍はラクロス軍の突飛な戦術に対し現地の少ない師団だけでは到底対応できなかった。ラクロス軍はこの方法でレーメルバカ、シューズ・フロリカ、パン・カ・ミアンの戦いなどで勝利し連合軍側の予想を遥かに上回る速さで占領地を拡大させていった。しかしながらラクロス軍は敵が防衛戦を強固にする前に進軍するという方針を忠実に守っていたため、カンブリカ大陸沿岸の都市群に撤退させた敵軍の殲滅に力を割かず、沿岸の10以上の都市にはまだ反撃可能な連合軍が立て籠っていて占領はできていなかった。そのため沿岸都市の港は敵軍の補給結節点として機能していなかったものの、自軍の補給結節点としても機能しておらずラクロス島本土からはセガトールからと陸上輸送で伸び切った補給船を伝って物資を届けるしかなかったため、本国からの補給は届かずラクロス軍は鹵獲物資だけで戦闘を継続しているような状況になっていた。
そして1月18日にラクロス軍先鋒部隊はリテルロガー作戦最大の中間目標であったキタイア川に差し掛かる。キタイア川は乾燥地帯を南から北に流れる外来河川であって、緑が見られる河岸部は占領する価値が十分に存在するため中間目標とされていた。そのため北カンブリカ戦線でもここでは例外的に戦闘が盛んに発生した。ラクロス軍はこれまでと同じように敵軍圧縮包囲戦法で敵を半無力化しようと試みるもすでに連合国軍はキタイア川に沿って強固な撤退線を築いており、ラクロス軍がそのまま渡河をするのは困難を極めた。また、この頃になるとアズキニアなどを中心とした地理的にも近い国々の兵がリガルフィアからヤバンナ川・チェリー湖を伝ってキタイア川に侵入してきており、まだ到着したばかりで士気統制の整っていない師団が多くを占めていたものの、それでも敵の戦力は単純な人数比較だけで五倍になっていて、この時点でラクロス軍を超えていた。キタイア川をそのまま渡るのが不可能と判断したラクロス軍総司令部は、何らかの要因でキタイア川の防衛線を無力化することを模索していた。最初に考えられたのは航空戦力による空からの爆撃によって防衛線を崩壊させることであったが、ラクロス軍にはそこまでの航空戦力がなかったことや新しく航空基地を建てている時間がないこと、すでに空は連合軍が支配しており今からキタイア川下流空域の制空権を奪取するのは多くの損害が伴うであろうことから断念された。次にデルタ地帯を陸と海から突破する地形であった。キタイア・デルタは微高地、低湿地、無数の小さな支流や小さな三角州、砂嘴、砂州、ラグーンなどからなる複雑な地形が広がっておりラクロス軍の攻勢が最も成功しやすいような場所であったがそれでも渡河は厳しかった。
そこでラクロス軍はキタイア川上流の、チェリー湖との境界にあるリガ・クーラントダムを破壊して人工的に大洪水を起こし、防衛施設をすべて水で流すことを画策する。最初にラクロス軍は独立派の原住民に対してコンタクトをとり、ラクロス軍の特殊工作部隊をキタイア川上流に侵入させることを計画。ナルピアおよびヘレモアでは肥沃なデルタや下流の狭い地域で灌漑農業を営む農耕民と、上流で原始的なヤギやラクダの牧畜を行い砂漠や高地のオアシスを点々と移動する遊牧民の二つの民族が暮らしていた。原住民の農耕民は外国の入植者の支配を受け入れて近代文明に適応することに成功し、ダムや農薬によって恩恵を受けていた。一方で遊牧民は農耕民による河川工事や過耕作によって、家畜の飲み水を確保したり十分な食料を手に入れるのが難しくなっていた。
それにラクロス軍は目をつけ、遊牧民のラクダ兵や山羊による輸送によって1月20日に特殊工作部隊を上流に送り込むことに成功。現地で原住民の協力で現地の飛行場で連合軍兵に紛れて動乱を起こして無力化した上に数機の爆撃機を乗っ取ることに成功。ラクロス軍がダムに仕掛けた爆弾が作動するタイミングでダム周辺に戦術爆撃を行い、ダム周辺軍の指揮系統を麻痺させ、ダムへさらなるダメージを負わせた。これによってリガ・クーラントダムは1月21日午前10時ごろ損傷によって遂に決壊し、チェリー湖の水は一気にキタイア川から流れ出した。キタイア川はもともと乾燥地帯を流れる河川であったため、長さの割に極端に流量が少なく、分割大陸最大のチェリー湖の水を大泉洋に差し支えなく流し出すほどのキャパシティはなく、特に下流では大規模な洪水が発生した。流れ出した水は下流の三つのダムを勢いのまますべて決壊させて、キタイア川下流にほとんど弱まることなく流れ出した。1月20日午後5時ごろには増水はとうとう連合軍の防衛戦の最南端に当たるアブジャ・ナルキールまで到達した。連合軍はダム決壊の知らせを聞いていたものの、7時間の間に装備を含めた軍をすべて撤退させることは到底不可能であった。連合国総司令部は大量の野戦砲やレールガンを一つでも多く運び出すように現地軍に命令を下したが、現地兵の連隊は洪水から助かるために命令に従わず自分の身を優先して蜘蛛の子を散らすように東に逃げ、防衛線には連合国が短期間で集まられるだけ集めた火砲やミサイル、戦車はすべて置き去りにされた。洪水は止まることを知らずに下流を流れ、連合国の装備や現地の人々を海に流し出していった。午後8時、遂に洪水はキタイア・デルタに位置するナルピアの最大都市フリエガに到達し、午後8時半ごろには海に流れ出していった。この洪水によって連合軍の防衛線は完全に崩壊し、指揮系統も壊滅した。これによって連合軍は最新鋭の陸上装備の多くを失ったほか、多くの逃げ遅れた兵士が死亡した。また、最も被害を被ったのは軍ではなく下流から河口にかけて農業を営む農耕民であった。下流に広がる広大な畑はは洪水によって作物のほとんどが流されてナルピアの農業は壊滅的な打撃を負った。また砂漠地帯の特性上逃げる道が限定されるため住民が一気に避難することができず、住民の約五人に一人が死亡又は行方不明となった。さらに伝統的な灌漑農業のための水路が上流からの土砂で埋まって農業ができなくなったほか、流路も短期的に大きく変わってしまった。これによってキタイア川沿いに住む500万人以上の人が被害を受けて、深刻な食糧不足や住居の亡失が起こったため、合わせて50万人近くが最終的に死亡した。洪水が完全に引き切るまでは14日かかり、その後反動で5日間にわたってキタイア川は干上がってしまった。
ラクロス軍は最初は洪水の水が完全に引くのを待つことが提案されたが、またしても敵の意表をつくため1月22日正午ごろ、かろうじて通行ができるほどまで水が弱まったことを確認すると、アブジャ・ナルキールの第一、第二軍、キタイア・デルタの第三、第四軍、上流のパルキアール峡谷の第五軍に分かれて3つの地点からキタイア川の渡河を開始。アブジャ・ナルキールは南の崖状地形を背にして前衛に戦力を集中し第一軍の水陸両用戦車と第二軍の空挺戦術によって強行的に突破を行い、未だ水浸しの対岸に橋頭堡を構築。第一軍は引き続き東に進み続け、第二軍はそこから戦線を食い破るように進撃し第三軍、第四軍の補助を目的に対岸を川沿いに進み続けた。パルキアール渓谷は洪水の影響が比較的少ないことから敵軍の陣地は壊滅状態にまでは陥っておらずキタイア川の峡谷を挟んで両陣営によって激しい火砲やミサイルの撃ち合いが行われた。これにはラクロス軍は根負けし24日ごろの砲弾がなくなると第五軍は攻撃を停止し南部への転進を決定した。キタイア・デルタは3つの中で最大の戦いが行われた。連合軍は22日時点で既に、洪水によって新しく生成された微高地に最底辺の防衛拠点を築き上げており、ラクロス軍は防衛拠点を避けて通るわけにもいかず、低湿地や残水地を直進するしか突破方法がなかった。一方で連合軍の防衛拠点も点々と散らばっているのみであって接続されていなかったため指揮系統に重大な弱点を抱えていた。そのため連合軍も武器や人員を最前線に輸送して防衛線を再構築する必要があり、しばしば戦いは幾多もの支流によって区切られた中洲で行われた。25日まで両陣営で合計1000を超える突撃命令が出され大きく消耗していたが戦線が大きく動くことはなかった。これによってラクロス軍の進撃も終わると思われたが、26日の午前10時ごろに戦況を大きく変える出来事が起こる。連合軍の中で二番目に大きい防衛陣地があった中洲の一つのクライシューナ島が水の浸透による地盤の不安定化と砲撃などによる地面の揺れに地形が耐えきれなくなって瞬く間に崩壊してしまったのである。ラクロス軍はこの機会を逃さず、クライシューナ島があった地点を迂回する形で水陸両用戦車を集中投入しキタイア川最後の支流を渡り終え、キタイア川の渡河に成功した。そこから戦車部隊は最後の支流の東側に沿って敵防衛陣地を迂回し、南下中の第二軍とも午後6時ごろに合流し連合軍を包囲し27日正午にはデルタの中央を除いてキタイア川東岸を完全制圧した。ここまでのラクロス軍のキタイア川渡河作戦と連合軍の防戦を合わせてキタイアの戦いと呼ぶ。この戦いによって連合軍はキタイア川の防衛戦を破られ、ラクロス軍のナラキアとリガルフィアへの侵入が現実味を帯びることとなる。しかしラクロス軍も装備を今回の他界でほとんど鹵獲できなかったため、これ以降は最初期ほどうまく戦いを進められなくなっていく。
キタイア川の戦いによって連合国中央セガトール軍司令部は完全に壊滅し、北カンブリカの防衛体制は壊滅的な打撃を受けた。総軍司令部は北カンブリカに残された30万の軍を使って再び、ナラキアに辿り着かれる前に防衛線の構築を目指したが、軍には十分な士気が残っておらず装備も補充には時間が足りないと判断された。もはや連合軍にはラクロス軍に抵抗する力は全く残されていなかった。そこで人的資源を保全するためキタイア川からナラキア国までの間の軍はほとんどがキタイア川から20km東のパルチザリカから撤退することが決まった。身一つで先の洪水から逃げ出した兵士たちは乾燥地帯に連隊単位で転々と取り残されていて脱出命令を下すのは不可能と思われていたが、連合軍はかろうじて残っていた航空機を総動員してビラ撒きや上空からのアナウンスで残存兵に撤退を促した。この時の命令はひたすら南に向かえという極めて単純なものであり、多くの兵士はそれに従ってわずかな食料や現地からの収奪によって南に行軍し続けた。撤退命令に従わず現地に残った兵や途中でラクロス軍の捕捉され捕虜になった兵、食糧不足によって行軍から脱落した兵はパルチカリザに辿り着けなかったが、それでも13万の兵がパルチカリザに辿り着き、27日から撤退を開始した。撤退は30日にかけて3日間かけて行われその間には戦闘教義に従ってパルチカリザ後方の占領を優先したラクロス軍からの攻撃がなかったため12万3000人の兵が撤退に成功した。
ラクロス軍はキタイア川全域を占領すると南方のチェリー湖周辺と東方の乾燥地帯に二つの戦線を抱えた。そこでラクロス軍は軍を再編成し、キタイア川上流で戦闘慣れした歩兵師団を中心に第四、第五師団を再編成。また、機動兵器や戦車、機械化歩兵を中心に第一師団、その他歩兵を中心に第二、第三軍を再編成した。第四、第五軍は南方戦線に配属されメガロド作戦と呼ばれるヤバンナ川に沿ったヘレモアへの侵攻作戦を担当。第一~三軍はユーゲント作戦と呼ばれるナラキア、ヤデント方面への侵攻作戦を担当した。ラクロス軍の再編成は各兵科ごとに適した戦地を担当するという合理的なものではあったものの、急であったため兵器の輸送や人員の急な交換が起きて再編成は滞り、完全な再編成がされないうちに出撃命令が出されたためその後の先頭に悪影響を与えた。また、クランティアナ、レーメルバカ、シューズ・フロリカ、パン・カ・ミアンでの包囲下の連合軍を25日にようやく殲滅し東に向かっていた師団がかなり後方取り残されており、命令の伝達や補給も怪しくなっていった。
一方、ラクロス軍第二軍集団はヘキア戦線でもラクロス軍は滞りなく前進していた。1月12日から1月15日にかけて戦線は280km近く南方に移動し、ヘキアの連合軍はラクロス軍の奇襲侵攻によって次々と後退させられていった。しかし1月16日のキユリヒトの戦いの後は進行は大幅に鈍化し北ヘキアの中央あたりで戦線はほとんど動かなくなった。西海岸戦線は北カンブリカ以上に乾燥した地域で行われ、都市も少なく、占領に対する土地の価値が相対的に低かったため、北カンブリカ戦線のように機動兵器や戦車によって激戦が繰り広げられることはなく、細々と歩兵によって戦いが続けられた。
南方戦線の戦闘は険しい高原地帯で行われた。ラクロス軍はリガ・クーラントの戦い以降は低インフラ地帯を強行突破を目指し突撃。そしてクレ峡谷の戦いで戦線を突破し連合軍12師団を包囲し、ヤバンナ川を下りリガルフィアに入るため前進を続けた。しかしヘレモアの亜熱帯林に進軍を阻まれて思うように進軍できず、時間を浪費している間に南から連合軍が集結したために戦線は膠着し、ラクロス軍のメガロド作戦は失敗に終わった。
主戦戦の東部戦線はキタイアの戦い以後しばらくラクロス軍の猛進撃が続いた。パルチカリザの戦いが終わった30日時点で、既に26日のクライシューナ島沈没によってキタイア川東岸に渡り終えた機動兵器を中心とする第一特殊装甲師団が連合軍がほぼ撤退したためユーゲント作戦に従い狭い無人の海岸を補給環境を無視して猛進した末、ちょうどナラキア最東端から1600km、つまり分割大陸北岸の丁度四分の一の地点に達していた。ラクロス軍の進撃は止まらずナラキア国に侵攻する勢いであった。連合国は13日の時点でエルドビア侵攻時と同じように各国と国連から総勢700万にも及ぶ軍をかき集め分割大陸に派兵することを決定していたが、セガトール、西ナルピア、東ナルピア海岸部の高インフラ地帯を占領されたことやラクロス潜水艦隊の通商破壊によって東部大熱帯雨林や中央大山脈、ピアナラ回廊*46後方のシルヴァン砂漠などの低インフラ地帯を通過せねばならず、北リガルフィアに派兵されたのちに一気に主戦戦に送ることはできなかった。それでも連合国軍は少しずつ南部から北部へと歩兵を中心に軍を移動させ続け続けたが、そうしている間にラクロス軍はどんどん進撃を進めて占領地を拡大させていた。
そこで連合国軍は1月26日、戦略爆撃のために温存して置いた大量の航空機を使って機動兵器を宙吊りにして主戦戦まで運ぶという異色の作戦の実行を決定。当初この作戦はラクロス軍の爆撃に市民を危険に晒すことに抵抗を覚えた守旧派から猛反発を受けたが、最終的には守旧派も直接占領されては元も子もないということで作戦の実行に合意。また作戦内容には大中央山脈の峠を機動兵器などで確保し、大量の兵士を送り込むための街道を開くという内容が付け加えられ、連合国が優勢になるとラクロス島侵攻までの全ての過程を総称して桜花作戦と呼ばれるようになった。そしてピアナラ回廊の東端から約50kmのバレル・テルメで両軍の機動兵器が相見えた。キタイア・デルタから撤退した連合軍であったが、先程の連合軍の機動兵器降下作戦によって機動兵器をバレル・テルメ付近に大量に降下させ、強力なバレル・テルメ防衛線を構築していた。尤も、可能な限りの航空機のリソースを補給に割いていても充足しておらず、一度防衛線が突破されれば再興は不可能であったため後にハイリスクな作戦と評価されている。その防衛線は北は海岸から南はサラーラ低地まで30kmにも及ぶものであったが、この全線を固めることは困難であったので、要所要所に一般機動兵器部隊を待機させ、一般機動兵器部隊がラクロス軍を足止めしている間に、精鋭機動兵器部隊が戦場に駆け付け反撃することを想定していた。また一般機動兵器部隊と言っても殆どの部隊が重装甲化されていたので、戦線のどこかが攻撃されれば、他の陣地を守っている部隊も増援に駆け付け、さらに砲兵も集中し、車両で機動的な運用を行って、敵に向けて集中砲火を浴びせられるようにしていた。これはラクロス軍が少数精鋭の機動兵器による一点突破浸透作戦を用いたのに対抗して、防衛線の中で戦力を速やかに戦闘地帯に集中することが目的である。敗北の中で着々と防御を固めていた連合軍に対して、ラクロス軍の総統である島本は勝利に驕って連合軍を完全に舐めており連合軍防衛線の側面と背後に回り込んで一撃を加えれば戦線は崩壊するものと信じて疑わず、ひたすら東に向かって猛進撃を続けていた。軍内ではそのような島本の姿を見てラクロス軍内では、ソリトイアにある高級ホテルに島本が既に宿泊予約を入れているという噂が流れた。また、ソリトイアで勝利パレードをするため、既にラクロス首脳が北カンブリカに訪れていた。しかし、これらラクロス側の慢心は明らかに軽率であり、連合軍は暗号解読によっラクロス軍の作戦の概要を既に掴んで準備を重ねていた。1月28日にラクロス軍が進撃を開始した。作戦ではラクロス軍防衛線を大きく迂回して避けたのちに海岸線に向かって北上する計画であったが、前日の激しい砂嵐で事前の偵察を殆どしておらず、連合軍の配置の情報がないままの進撃で、迂回するつもりが逆に連合軍陣地の真ん中に突入してしまい、激しい戦闘となった。ラクロス軍は連合軍が築いた防衛線は海岸から15kmくらいまでしか広がっていないと予想していたが、前述の通りサラーラ低地までの30kmに渡って防衛線を築いていたため、ラクロス軍は予想していなかった進行を強いられて消耗していった。ラクロス軍は中央軍司令部に攻勢の中止を訴えたが、島本の過信によってそれは聞き入れられず、後方迂回作戦の継続を続けなくてはならなかった。ラクロス軍は補給もままならいまま、連合軍の側面からの攻撃を防ぎながらひたすらになんかを続けた。しかし30km進んだところで杜撰な補給体制とあまりにも厳しい砂漠の複雑な地形によって攻勢限界を迎えた機動兵器部隊や自走砲部隊が動かなくなり始め、作戦の続行は困難を極めた。後方迂回作戦を物理的に不可能と判断したラクロス軍は独断で撤退を開始したが、時すでに遅く砂漠の奥地に引き込まれたラクロス軍は撤退中に連合軍の自走砲による集中攻撃や量産型機動兵器による白兵戦で次々と精鋭の重装甲機動兵器を失っていき、初期の陣地まで撤退した頃には戦力は三分の一にまで減少していた。これを好奇と捉えた連合軍は撤退するラクロス軍への反撃を命じ、ラクロス軍第三特殊装甲師団は多方面攻撃によって殲滅寸前にまで追い込まれたが、それまで目立った活躍が見られなかった近接航空支援機数機が運よく連合軍の旅団司令部を急降下爆撃で破壊し、旅団長が戦死したため、攻撃は中止され第三特殊装甲師団は難を逃れた。ラクロス軍は部隊の配置換えを行い、陣地前には厚く地雷を埋設し、陣地前面に野戦砲を押し出した。さらに後方から戦車の補充が到着し、機動兵器は44機まで回復した。ラクロス軍は海岸道路の奪取を目的に再度攻勢を仕掛けたが、強力な防御陣地の前に突破は叶わ攻勢を中止した。一方連合軍は当時戦力で上回っていたものの、砂嵐と海陸風によって敵の情報を思うように掴めず、相次ぐ敗北で慎重になっていた連合軍司令部は攻撃を命じなかった。その間にラクロス軍は機動兵器を配置して防御陣形を構築し、その後もラクロス軍は連合軍の攻勢を凌ぎ続け、両軍は一進一退の攻防を継続した。連合軍軍の攻撃で大損害を被ったポラ・ハート第4特殊装甲師師団や第60歩兵師団のようなポラ・ハート軍の不甲斐ない戦闘に島本は怒りを募らせ、ラクロス軍とポラ・ハート軍の間ではきつい言葉が飛び交った。連合軍第1特殊装甲師団を率いていた司令官は勇敢で有能な指揮官ではあったが、これまでの敗戦で必要以上に慎重になっていた。甚大な損害以上にラクロス軍を悩ませていたのは補給問題であった。戦後にはラクロス軍は不十分な補給しか受け取っていなかったとも見られるようになったが、これは明らかな誤りであり、ラクロス軍を悩ませていたのは、補給量ではなく補給路の長さであった。北カンブリカのラクロス軍に対する補給は、ラクロス海軍が主役を担っており、必要な量の補給はなんとか港を輸送船が出航する時点では確保されていた。しかし、周辺海域の制空・制海権が連合軍に奪われていく中で、揚陸港はよりラクロス軍に近いセガトールのナルジェやセーセンエルであった。一方でラクロス軍は攻勢限界を超えてナラキアに向かって猛進しており、揚陸港からの距離は離れる一方で、せっかく揚陸した物資も最前線に届くまで数日を要した。
ナラキアまで進攻したラクロス陸軍は、ラクロス海軍に攻略したフリエガやパデント・アレルまで補給品を輸送するよう要求した。それまでラクロス海軍は連合軍航空機や潜水艦に海路の安全を脅かされる中でも、海上における海上輸送能力のほぼ全てを投入して陸軍に補給品を送り続けたが、ラクロス陸軍の矢のような要求にやむを得ずナラキア周辺まで航路を伸ばした。しかしラクロス海軍の懸念通り、連合軍の攻撃は激烈でフリエガへの海路はラクロス海軍の墓場と化して損失は4倍に跳ね上がり、陸揚げ量は約60%にまで落ち込んだ。また、装備鹵獲作戦も連合軍精鋭部隊の登場によってうまくいかなくなり始め、補給に加えて充足率もじりじりと下がっていった。ラクロス軍は本国から持ちこたえることを要請されたが、守りに入っては連合軍の物量に押されて持ち堪えられないのは明らかであったため、もう一度全力を結集して攻勢に転じることを決めた。作戦計画はこれまでの砂漠戦の集大成のような雄大なもので、海岸沿いでポラ・ハート軍歩兵師団が連合軍の注意を引いている間に、ラクロス第3特殊装甲師団とラクロス第1特殊装甲師団及び戦車師団、自動車化歩兵師団が前線から南東方向に大きく迂回、連合軍の後方に達したところで海岸線に向けて一気に北上して、足止めしているポラ・ハート軍歩兵師団と共に連合軍を包囲して殲滅し、その後にソリトイアを目指して進撃するというものであった。しかし連合軍は背水の陣で士気はこれまでないほどに高まっており、これまでの戦いからラクロス軍の行動パターンを徹底分析し入念な対策を行っていた。連合軍はサラーラ低地の遥か手前から厚い地雷原を敷かせ、サラーラ低地の20km前から強力な陣地を構築して量産機体を配置、さらに精鋭機体も砂の中に埋め、銃身だけを地上に出して待機させた。もしラクロス軍が正面から攻撃してくれば、厚い地雷原に阻まれたところを攻撃し、一方でいつもラクロス軍の常とう戦術の通り、地雷原や陣地を大きく迂回すれば、それに釣られて連合軍機動兵器が白兵戦を挑むのではなく、連合が想定している戦場まで機動兵器を引き込んでから、補給線が伸び切ったところで反撃することとしていた。これまでは連合軍はラクロス軍の攻撃に対し戦略的撤退や防衛陣地の変更などで柔軟に対応することを試みていたが、機動力で勝るラクロス軍には通用しなかった。そこで今回は死守によって一切の陣地の変更を行うことなく、戦いの主導権をなんとしてでも保持することを最優先目標とした。
先述の通り、このままではじきにジリ貧に陥ると先行きを悲観していたラクロス軍が2月1日に乾坤一擲の攻撃開始を命じた。しかし、この進撃開始の時間さえも連合軍は察知していた。戦線北部の海岸沿いのポラ・ハート軍歩兵が攻撃を開始したとの報告を受けたは、これは陽動作戦であると断じて特に対抗策を講じることはしなかった。ラクロス軍工兵は必死に地雷原処理を行ったが、地雷は予想以上に多く、処理は捗らなかった。島本の計画では明け方までに50km進撃している予定であったが、厚い地雷原に阻まれ、実際には15kmしか進撃できていなかった。やがて夜が明けると、連合空軍の戦闘爆撃機多数が飛来し、ラクロス軍機動兵器隊を攻撃し始めた。激しい爆撃で損害が続出し司令官の妹である副司令官島本が負傷、ラクロス第1特殊装甲師団は大きく消耗してしまった。ここで島本は計画を変更し、当初は夜間に敵陣深く50km前進し、それから進路を北方に変えて進撃して、連合軍を背後に廻り込んで叩く予定であったのを、計画より遥かに手前で部隊を北方に転進させた。しかし、燃料補給に手間取り、ラクロス軍が進撃再開できたのが午後1時、ポラ・ハート軍に至っては3時となってしまった。この間さらに連合軍は防御を固めて、ラクロス軍、ポラ・ハート軍を待ち構えた。また、こうして戦闘が繰り広げられている間にも連合軍によって空から次々と補給物資や兵士、機動兵器が運ばれ続けていた。ラクロス軍の早期攻撃は連合軍がこれらの支援によってさらに防衛力を高めることを恐れたのが一つの要因である。連合軍の空輸を妨害するためラクロス軍航空機がこれらを迎え撃ったが、当初は立地などの関係上十分に妨害できていたものの、量で勝る連合軍の前に制空権を維持し続けることはできなかった。さらに不幸なことに激しい砂嵐が発生、先頭を行ラクロス第1特殊装甲師団とドイツ第3特殊装甲師団は視界不良のなかを手探りで進まざるを得ず、やがて目標のサラーラ低地10km手前までどうにかたどり着いたが、そこで待ち構えていた連合軍からの激しい機動兵器によるバルカン砲、機関砲、レールガンの砲撃が浴びせられた。戦車師団も戦場に到着したが、そのタイミングを見計らって連合軍特殊装甲師団精鋭部隊が砂の中から現れた。歩兵隊と見事な連携攻撃を行い、視界不良の中で不意に連合軍陣地から攻撃されたラクロス軍戦車隊や、遅れて到着し連携不十分なポラ・ハート軍戦車隊を圧倒した。激しい戦車戦となり、両軍機動兵器や対火砲が次々と撃破されたが、ラクロス軍、ポラ・ハート軍は全く前進できなかった。やがて日が暮れたので両軍は進撃停止したが、燃料の備蓄が乏しくなっていたうえに、眼前サラーラ低地の堅陣を突破する妙案もなく、2月2日の夜が明けても、小規模な攻撃しかできなかった。動きの止まったラクロス軍、ポラ・ハート軍の機動兵器相手に連合軍戦闘爆撃機が襲い掛かり、次々と機動兵器が地上で撃破された。島本自身も爆死かという危機も味わった。タイミングを見計らっていた連合軍は、計画通り防衛線南端を守っていた第1特殊装甲師団師団にラクロス軍の後方に回り込んで退路を遮断するように命じた。包囲されることを恐れた島本は突破した地雷原まで後退し、2月3日夜には、島本はサラーラ低地の攻略をあきらめて、軍の撤退を命じた。
しかし、島本は奪取した地雷原の一部や、占拠した見通しのよい展望点いくつかには部隊を残させた。彼女は先述の戦闘で戦いの主導権を失ったことをすでに確認しておる、後続の歩兵師団が到着するまでいかに守り切るかを考えていた。連合軍は討ち漏らした島本などが搭乗する精鋭機動兵器を殲滅するため入念な作戦を立てた。作戦計画では、まずはラクロス軍の戦力が薄い防衛線南部で欺瞞作戦を行い、島本に防衛線南部から攻勢をかけるように誤認させて、戦力の分散を狙った。この欺瞞作戦は極めて巧妙なもので、防衛線北部で軍主力が攻撃準備のために、車両を移動させると、防衛線南部でも同数の車両を動かしてラクロス軍の目を欺いたり、さらには、給水パイプに見せかけたフェイクのパイプをわざわざバレル・テルメの補給基地から防衛線南部まで構築した、張りぼての戦車や軍用車や火砲などが大量に作られて砂漠に並べられ、あたかも大部隊が防衛線南部に集結しているようにも見せかけた。一方で実際の攻勢が行われる防衛線北部においては、火砲や戦車を張りぼてのトラック内に隠したり、歩兵も日中は幌のついたトラック内で待機させ、兵力があまり配置されていないように見せかけた。そして、この作戦の最大の目的はラクロス軍の機動兵器を全滅させることにあった。
一方で島本も隷下の歩兵6個師団降下猟兵旅団に30kmに渡バレル・テルメ戦線に渡って塹壕を掘らせ、戦線中央部の歩兵陣地後方に防衛線を強化するためラクロス第1装甲師団の戦車を砂の中に埋めて待機させた。これまでセガトールからナラキアまで前進に次ぐ前進を続けてきた、島本たちはついに陣地での防衛戦を強いられることになった。島本はいつ連合軍が攻勢をかけてくるかを確実に知るために、常に機動兵器たちに見回りをさせており、その数約全体の3分の1であった。しかしこれによって機動兵器をさらに消耗させてしまう。さらに島本は鹵獲した地雷を全て巧妙に配置し、その間隔は5mでしかも連動して誘爆するようになっていた。その上地下三層にわたって地雷が埋め込まれておる、地雷撤去に手こずったところを精鋭機動兵器で集中して殲滅することを繰り返して防衛を行うつもりでいた。2月5日から、連合軍航空機による、爆撃と機銃掃射がラクロス軍の各飛行場に行われ、制空権はあっさり連合軍のものとなった。そして2月7日午後8時から満月の下で連合軍が北部戦線のポラ・ハート軍陣地に向けてバルカン砲などによる集中砲撃を開始した。連合軍の砲撃はラクロス第1歩兵師団と第2自動車化師団が守る北部戦区約3kmの範囲に集中した。連合軍の自走砲数は約3,000門であり、3mごとに1門の火砲が12時間に渡って休みのない猛射を加えた。ラクロス軍とポラ・ハート軍の陣地には連合軍の砲弾が1分毎に2900発着弾し、コンクリート製のトーチカは破壊され、機動兵器陣地も陥没した。島本が精魂込めて築き上げ、絶対の自信を持っていた地雷原も例外ではなく、鉄条網は砂や小石と混じって間欠泉の様に吹き上がり、地雷や航空爆弾も空中に舞い上がるか、激しく誘爆した。このような地雷処理は島本には想像もできなかったもので、ラクロス兵とポラ・ハート兵は連合軍の砲弾で身体に何の痕跡も残さず死ぬか、誘爆する地雷や航空爆弾の爆発で、土砂に埋もれてしまった。砲撃は事前の入念な観測により正確にラクロス軍、ポラ・ハート軍陣地に着弾した。また、空からは連合空軍の爆撃機や戦闘爆撃機がひっきりなしに飛来し、砲撃と連携して銃爆撃を浴びせた。砲撃開始早々に通信網が断絶されてしまったので、第一線で何が起こっているのかまったくわからなかった。激しい砲撃の下、連合第30軍団の歩兵が進撃を開始したが、猛砲撃で地雷を鋤き返したと言っても、まだ大量の地雷や航空爆弾が砂漠に残っていた。各歩兵師団の先頭には、これまで徹底的に訓練されてきた工兵隊がおり、手際よく残った鉄条網を切断し、地雷を処理していったが、急に用意された地雷探知機はその多くがまともに機能せず、結局殆どの工兵たちは、銃剣を砂に突き刺して地雷を探索するという原始的な方法に頼らざるを得なかった。工兵隊は2輌の機動兵器が同時に通行可能な30mの幅員の通路数本の開通を目指したが、原始的な手法のため、地雷や航空爆弾の起爆による犠牲者が後を絶たなかった。ある部隊は110kg航空爆弾を起爆させて一瞬で1個小隊30人の身体がバラバラになって吹き飛ばされるなど、連合軍各部隊は、敵と遭遇する前から地雷や爆弾で多大な損害を受け、野戦病院には次々と負傷した兵士が運び込まれ、押し入れのような小部屋で軍医による緊急手術が行われ、野戦病院はパンク寸前だったという。地雷探知機が使用できた部隊ですら1時間に180m進むのがやっとであり、8日の夜明けまでに司令部が求める突破口を開くことができるのか、各師団は大きな犠牲を払いながら時間との闘いを強いられた。また、砲撃や地雷などの誘爆ですっかりと掘り返された砂漠を見て、連合軍兵は生き残ったラクロス兵やポラ・ハート兵はいないのではと考えたが、それは間違いで、ラクロス、ポラ・ハート兵は身を隠しながら連合軍を待ち構えており、接近するや、機銃や対戦車砲を浴びせて、連合軍各歩兵師団は激しい抵抗で前進を止められ、両軍近接した中で激戦が繰り広げられた。激しい戦闘の前で連合軍兵士は次々と散っていったが、やむなく司令部の命令に従い、第1軍団は強攻の末9日午前8時には地雷原を突破したが、これは当初の作戦計画から丸一日遅れていたうえ、16,000人もの兵士が死傷するという大きな損害を被った。一方でラクロス軍は機動兵器対機動の戦闘を諦め、自走砲やレールガンなどの砲撃を集中してどうにか連合軍戦車隊の足止めを図った。連合軍の猛砲撃のなかでわずかに残った地雷原も活用して連合軍量産型機動兵器隊をうまく地雷原内に誘導した後に集中砲火を浴びせ、大型航空爆弾の誘爆連鎖で12輌の連合軍機動兵器を一気に撃破するなど、相手に相当の損害を与えどうにかその突破を防いでいたが、数も質も勝る連合軍戦車の前に損害は蓄積しており9日の終わりには第1特殊装甲師団の可動機動兵器は31輌にまで減っていた。
そして遂に大量の歩兵の命と引き換えに一部戦線の地雷の撤去が完了し、10日の正午ごろに連合軍ナラキアの機動兵器が一斉に開いた穴から敵軍陣地に傾れ込んだ。ラクロスはこの時点で敗北を確信し、なんとか機動兵器を撤退させるため、大量のレールガンや自走砲を最終防衛陣地まで下げて連合軍に集中砲火を浴びせ続けた。しかし、一部の精鋭機動兵器はこれを突破し、逃げるラクロス軍の機動兵器を捉えることに成功した。この時戦線で機動兵器同士の激しい白兵戦が繰り広げられ、ラクロス軍の多くの機動兵器が背後からの攻撃で殲滅された。ラクロス軍とポラ・ハート軍は11日にはありったけの自動車を総動員して兵士を逃がそうとしたが、激しい砂漠の前に撤退をスムーズに行えなかった。結局連合軍の猛追の前で逃げられたのは島本を含めた少数の少数の機動兵器のみで、ラクロス軍はこの戦いで戦力の多くを喪失し以後戦いを優勢に進めることは無くなった。そのため、この日バレル・テルメの戦いはラクロス戦争全体の転換点として記録されている。
バレル・テルメの戦いでラクロス軍は初の本格的な敗北を喫し、戦線は120kmほど西に押し戻された。これ以降ラクロス軍がピアナラ回廊を超えて西ナラキア低地に侵入してくることはなく、連合軍はラクロス軍をナラキアの手前でなんとか食い止めることができた。連合国はラクロス軍特殊装甲師団の無力化を目的として疲弊したラクロス軍を猛追し、ピアナラ回廊を西にに進むラクロス軍を背後から攻撃し続け、2月12日正午から13日未明までのピアナラ回廊撤退戦でラクロス軍に甚大な被害を与えた。しかしラクロス軍は歩兵を狭いピアナラ回廊を塞ぐように配置して、死守防衛を命じなんとか特殊装甲師団がケルキューレイの拠点まで撤退する時間を稼ぐことを試みた。その結果歩兵は連合軍の猛攻によって全て玉砕したものの、バレル・テルメの激戦を生き残った特殊装甲師団の機動兵器をほとんど失わずに撤退することに成功した。2月14日、ラクロス軍はピアナラ回廊の占領地を放棄してピアナラ回廊の西の端に当たるパデント・アエルまでの撤退を決定した。パデント・アレルから南南東に引かれる線のから東には前述の通り高原状の砂漠や塩水湿地が広がるシルヴァン砂漠があるためピアナラ回廊以外の東方向から攻めることはほぼ不可能で、同時に南からヤデントに伸びる平地を守るのにも適した拠点であり、パデント・アレルは最も防衛に適した地点の一つでありそれをラクロス軍も理解していた。しかしこれはラクロス軍にとっての大きな誤算を一つ含んでいた。それは、連合軍がピアナラ回廊を奪い返したことによって連合軍の兵輸送路が大幅に改善されたことである。これまでは東部戦線においてはリガルフィアからヤデントを経由して兵士を送っていたため中央大山脈や東部大熱帯雨林を通るしかなかったが、ピアナラ回廊を占領したことでシルヴァン砂漠を海路で迂回しバレル・テルメなどの港を経由して大量の兵士を送るという新たな選択肢が確保できたからである。しかしそれだけでは兵士を送ることは困難であった。ラクロス軍の潜水艦隊が周囲の海域に展開し通商破壊を行なっていたためである。そこで、この気を逃すまいと連合軍は各国からかき集めた艦隊をヤデント沖に派遣した。
そして2月18日未明、両軍の主力艦隊がヤデント沖で邂逅したことでヤデント沖海戦が発生した。ラクロス軍の潜水艦は奇襲攻撃を狙って分散し魚雷や機雷による連合艦隊への集中攻撃で駆逐艦16隻、重巡洋艦1隻、巡洋戦艦2隻を撃沈し勝利を確信し更なる攻撃を加えることを画策した。しかし連合艦隊は海域からの脱出を行わず副砲や魚雷で潜水艦を18隻撃沈させた。しかしそこでヤデントの熱帯林から発進した大量の艦上攻撃機と艦上爆撃機がヤデント沖に急行。海上戦に於いての制空権は完全に連合軍のものとなり、ラクロス潜水艦隊は全滅し、南方と北方を繋ぐ海上ルートは再び連合軍のものとなった。
そして、連合軍はラクロス軍を完全に大陸から叩き出すべくパデント・アレルを奪還し西に押し返していくことを目的として攻勢を開始。しかしパデント・アレルの守りは硬く20日から22日まで断続的に攻撃を加えたにも関わらず前進は敵わなかった。そこで連合軍は25日に南方・東部・西部戦線の全てで一斉に攻撃を仕掛け強攻によって突破する作戦を立案。しかし、この作戦は甚大な人的被害が予想される上に得られるものが攻勢の労力に見合っていないとして、パデント・アレル後方のキタイア川河口部のフリエガへの上陸によりパデント・アレル方面のラクロス軍を丸ごとごと包囲して殲滅することを計画した。その前には陽動作戦として南方戦線全体で戦線を北に押し上げるための一斉攻勢が行われ、チェリー湖畔を完全に奪還す、キタイア川にまで戦線を押し上げることに成功した。しかしながらキタイア川の流域以外はほとんどが砂漠の軍隊侵入不可領域でありパルキアール峡谷に密集するラクロス軍を突破できなかった。しかしそれが真の狙いであり、キタイア川にラクロスの兵力を引きつけることでフリエガやアブジャ・ナルキールから兵力を引き剥がすのが目的であった。また、更なる陽動準備として死亡した兵士の死体に偽の文章を持たせてラクロス軍に発見させるように仕向けることで、次の作戦地点を西部戦線のヘキアだと誤認させることに成功。パデント・アレル後方はガラ空きとなった。そこで満を持して連合軍は26日にフリエガへの上陸を開始。しかし最重要都市とも言えるフリエガには連合軍の予想と反して少数ながらも守備隊が配置されており、軽装で挑んだ連合軍は苦戦を強いられる。だが十分な近接航空支援と艦砲射撃、そしてキタイア川の渇水によって水不足によってうまく水際陣地をラクロス軍が構築できなかったことによりラクロス軍はフリエガより西に20kmの地点で戦線が突破されたことを皮切りに崩壊を始め、フリエガは28日に陥落しパデント・アレル方面軍は包囲された。包囲の情報が伝わったパデント・アレル方面軍はパデント・アレル港からの脱出を図るも、連合軍艦隊により船は兵員を輸送中に徹底的に狩られて、ラクロス島に到着できたのは3分の1に過ぎなかった。そこで残ったパデント・アレル方面軍はまだ上陸したてで駐屯部隊の準備が整っていないと思われるフリエガを再度奪還しパン・カ・ミアンなどを通ってセガトールよりラクロス島に帰還することを試みるも連合機動兵器部隊が逃げる歩兵を執拗に追撃。ほとんどが捕虜になった。しかし東部戦線にいたと思われる島本は機動兵器により連合軍の海上探知網を潜水によって掻い潜って、30日にラクロス島に命からがら帰還。島本は大陸放棄と全軍撤退を命令するも時はすでに遅く、指揮官の不在により混乱に陥っていたラクロス軍は各地で敗退を繰り返し、キタイア川以西のセガトールを保持しているのみになった。また、遂に31日にフリエガから東進していた連合軍とパデント・アレルから西進していた連合軍が最後の敵師団を倒して合流。ラクロス軍はセガトールの残党を残すのみになった。
3月5日、連合軍はラクロス軍の最終掃討作戦を開始。2000両を超える戦車が一斉に西進、北進を開始し、補給不足に苦しむラクロス軍は海岸沿いの都市とそれらをつなぐ鉄道に立て籠ることを試みるも、6日午前5時にラクロス軍師団が防衛線に到着する前にセーセンエルとクランティアナの間で連合軍が海に到達。ラクロス軍の補給拠点であるナルジェとレーメルバカ、シューズ・フロリカ、パン・カ・ミアンの三都市は切り離された。その12時間後にパン・カ・ミアンは陥落。最終的に三都市が陥落し23万人が死傷もしくは捕虜となった。8日には遂に連合軍は少なくない犠牲を出しながらラクロス軍の最後の拠点であるナルジェを攻略し、ラクロス軍は大陸から完全に追い出された。しかしながらこの時ばかりはラクロス軍は西に大きく迂回することで、連合軍艦隊の追撃を免れつつ兵士を本土に送り返すことに成功し、30万の兵力を温存することが出来た。
ラクロス軍の作戦は全て完全に失敗し分割大陸から叩き出されたほか、ラクロス軍は初期と比較して兵の7割を失った。ラクロス軍はなんとか引き上げに成功した戦力と残された工業力で島の要塞化を試みたが、開戦前に国連軍から奪った武器はすでに底をつき始めており、資源生産も追いついていなかった。また、連日のように夥しい数の戦略爆撃機がラクロス島に来襲してラクロス軍の軍需工場やインフラを破壊し、継戦能力を確実に削いでいった。また、ラクロス軍兵士は島本のラクロス帝国による世界新秩序の構築に賛同し従軍していたため、敗退を続けるラクロス軍に不満を持ち多くの兵士が離反を開始した。島本は必死の説得のもと引き止めを図ったものの、兵士たちの前にかつてのラクロスの夢を語る総統の姿はなくて、姿を見せたのはボロボロの機動兵器に乗る草臥れた戦闘員であり兵士は聞く耳を持たなかった。また義勇軍も戦後処罰を免れるためラクロス島からの脱出を開始。最終的に兵力は20万にまで激減した。
3月17日、連合軍はラクロス砂丘、チョクトー川河口部に同時上陸。ラクロス軍は島全体を要塞化して戦うことは不可能と判断して、首都ラクロスシティ周辺を徹底的な防備によって固ることを決定した。しかしラクロス軍には救援の当てのある味方もおらず、戦局の打開はもはや絶望的であり物資にも当然ながら限りがあるため、この抗戦は悪あがき的な側面を持つものであったと考えられている。島本の部下たちは徹底抗戦して生まれ故郷で散る予定であったが、一部の部下は兵士の命の保障のために無血開城からの降伏を提案したが、聞き入れられなかった。そこで、降伏派は敢えて連合軍に降伏してラクロスシティの防備の手薄なところを教える代わりに兵士の安全を保障させた。連合軍は警備は脆弱な西の海岸方面から上陸を仕掛けて突破を試みたものの河川や建物を用いた巧みな防衛の前に突破は叶わず、ラクロスシティ郊外には死体の山が積み上がっていった。しかしながら、ラクロス軍も連合軍に無停止攻撃の前に弾薬も銃も目に見えて減っていきジリジリと後退を続けついに行政中心地区まで連合軍が迫った。そして臨時国会議事堂が陥落し敗北を悟ったラクロス軍兵士の大半は降伏して武装解除された。こうしてラクロスシティの防備は崩壊したが、島本は単騎で機動兵器に乗って連合軍に挑み最後には自爆して戦死した。こうしてラクロスシティ攻囲戦は連合軍の勝利で幕を閉じた。
エルドビア戦役に続く、国際的テロ組織による大規模武力攻撃はアズキニア国内、ひいては世界全体に大きな衝撃を与えた。数年前までは一民間組織にすぎない団体が国連軍の武器を奪ってこのような規模の武力攻撃ォすることはまずあり得なかったのである。さらにはさまざまな理念に基づいて行動する過激派組織が急増しており、世界中で緊張が高まり始めている。これら一連の騒動を経てアズキニアは非同盟孤立主義政策を緩和し、国際協調に重きを置き始めるようになった。これによりアズキニアは世界各国の暗黙の相互独立保障体制に組みいることができたものの、その弊害として貿易的な安定が少しづつ揺らいでもいる。アズキニアは対外政策の転換点に立たされている。
植民地の内憂外患
2000年頃になると西オメガでは再び独立運動が再燃する。
年表
クオリティ低かったんで消しました。歴史できたら書きます。
経済
経済力は世界トップレベルだが、貿易の利益と植民地からの収入の割合が非常に大きい。アズキニアの経済形態は物資を生産して富に変えるという形態ではなく、他から来たものを他に流す中継地点として機能させることで富を生み出すといういわゆる再輸出・中継貿易を行っている。ただし、最近は慢性的な不景気に陥っている。工業製品をほとんど生産しないのに植民地を含めた巨大で単一市場を有しているため、アズキニア市場での工業製品シェアを拡大し利益を上げるために工業国たちが鎬を削っている。工業国たちの過度な開発競争によってアズキニア市場には安い工業製品が大量に流入する。また、アズキニア王国が同盟を組まないのは中継貿易を行うにあたって特定の国家を経済的に優遇すると市場のバランスが崩れる可能性があるからである。
貿易経済
アズキニア王国は経済を完全に貿易に頼り切っている。中継貿易により他国から入ってきた商品を輸出することで莫大な収入を得ている。但し、市場規模は経済の割には小さい。
中継貿易に頼っている割には自給はできている
“アズキニア病”
アズキニア王国次元崩落テロからアズキニア王国は深刻な経済危機に陥り、実質GDP成長率は-14.8%を記録した。緊縮財政と復興政策によりなんとか経済の再稼働には成功したものの、不況は長く続いた。完全失業率はかろうじてテロ発生以前の水準にとどめられている。しかし、スタグフレーションにより物価は上昇し続けるのにも関わらず、所得は変化しないという状況になっており、慢性的な貧困が深刻化しつつある。不況から抜け出せず衰え続けるアズキニア王国の状況は“アズキニア病”と国内外から揶揄され、実際にアズキニア王国の経済的な威信は大きく低下している。ただ、それでも世界有数の超強大な経済力を誇る。
産業
新大陸などで企業的・商業的大規模農業が盛ん。産業の空洞化や脱工業化が原因で第二次産業の割合は高くない。第三次産業の中でも特に貿易業・運送業・観光業が盛ん。格差が激しいため未だに生産性の低い自給的農業に従事している者もいれば、貿易業などで巨万の富を稼いだ者もいる。
第一次産業
農業
アズキニアでは主食かつ特産品の小豆以外の作物は育つのに適さないが、生産の改良により生産量は前近代に比べ急増し、大量の小豆を輸出できるようになった。正確な統計はないが、小豆の生産量と輸出量は間違いなくアズキニア王国が世界一。
- 本国の農業
アズキニア王国の農業は概して商業的といえるが、自給的性格も多少見られる。アズキニア王国の小豆は副食物というよりは、主食といった側面が強い。これは数千年に渡って品種改良を続けてきたからであり、アズキニア王国の小豆は他国で栽培される小豆は違って、糖質の割合が品種改良によって非常に多くなったために、主食になりうるほどの栄養価を有しているというのが主食とされる原因である。但し一般的な小豆と呼ばれるものも概ね栽培されており、それらは国内で消費される他、海外へも輸出される。だが他国へ輸出された小豆は主食としてではなく、副食物として消費される場合がほとんどである。三圃式農業。
- アズキニア王国領リガルフィアの農業
短い乾季に降水量が少なくなるため、黄土・黒土平原が果てしなく広がっている。広い農地を使って小麦や大豆などの作物を主に生産している。アズキニア王国随一の穀倉地帯で、アズキニアのパン籠とも呼ばれる。作られた小麦は現地や本国でも消費されるが多くは国外に輸出される。やや乾燥した地域では羊や牛が放牧されている。北から南へ行くごとに降水量は減少し、気温も低下する。小麦畑では大型農機を使っているので一人当たりの耕地面積はとても広い。機械化が困難な農地でも、海外から出稼ぎに来た人を小作人として安い賃金で長時間*47労働させているため農業生産性は高い。企業的穀物・畑作農業、企業的放牧が基本であり、産物は大量に安価で国外へ輸出される。
- アズキニア王国領西オメガの農業
西の沿岸部を除いてラトソルや赤黄色土が広がっており、土地は痩せている。プランテーション農業や商品作物の栽培が盛ん。内陸部のジャングルでは焼畑農業が主に行われている。自給的農業の側面が強い。西部のアルハラ川流域では棗椰子の生産が盛んで、流域には合計5000万本近くの木があると言われる。これらは現地で食卓に並ぶ他、乾燥させて本国や国外に輸出される。アルハラ川の棗椰子は小ぶりだが甘みが強く濃厚で高級食材としても用いられる。
水産業
海洋国のためまあまあ漁業は盛ん。遠洋漁業、沖合漁業特にが盛ん。南部の入り組んだ多島海では牡蠣や真珠の養殖が盛ん。アズキニア王国の西部は寒流が流れるので中緯度でも北方系の魚が獲れるが、主要な輸出品はアズキニア王国領コールドランドの鯨とオキアミ。
春には多くの機械化大型漁船が船団を組んでアズキニア本土の港から東のコールドランドに向けて出発し、数週間かけて漁をして帰ってくる。東方漁と呼ばれるこの方式の漁は、船が機械化されていることに加え他国の船が漁をできないため生産性が非常に高い*48。そのため先進国にしては珍しく漁業従事者が多い。
北方に遠洋漁業に出かける船も多く、アズキニア王国領ナラキアはそうした船の一大補給拠点になっている*49。アズキニア王国領ナラキアで水揚げされた魚の多くはナラキア国を始めとする分割大陸北部に運ばれる。こちらも分割大陸北部では魚の需要が大きいため高い収益を上げられる。
近年、アズキニア王国に寄港する船が難破し重油が流失したりその船員が海にゴミを捨てたりすることもあるので、近海は最近少し汚れてきている。そのため近海の漁獲量が少し減ってきている*50。
林業
現在は林業はあまり盛んではない*51。
かつてはアズキニア王国領リガルフィアでも本国への輸出用に木が大量に切られ伐採跡地は畑となったが、リガルフィアの人口増加に伴い木の輸出が減少したのに加えて、リガルフィアでは広大な森林を伐採したことによる弊害で災害が増加しておりその反動として持続可能な林業が推進されるようになったため、今はリガルフィアからの木材の輸出はほとんどされていない。
現在最も木の伐採が進んでいるのはアズキニア王国領西オメガであり、中北部のジャングルや落葉広葉樹林が伐採されている。伐採された土地は放牧のために利用され、羊や豚が飼育されることが多い。西オメガでは急速に森林面積が減少していて、毎年本国の王宮首都シュマリと同程度の広さの森林が伐採されている。急速な森林破壊は環境の激変を招くとして多くの学者が警鐘を鳴らしているが、植民地政府は無視して森林破壊を続けている。
第二次産業
鉱業
国土全体で銅やアルミ、チタンなどの非鉄金属がそこそこ産出する。しかし鉱脈が小規模で採掘コストがかかるため、輸出には回されず主に国内で消費される。鉄鉱石や石炭はあまり取れないためサークル帝国などから輸入している。
植民地では劣悪な環境での鉱山採掘が行われている。奴隷的労働が行われているという噂もあるが、真実は定かではない。
- 石油
リガルフィア北西部やアントガール海、中漠海など各地で産出するが、巨大なアズキニア市場全体を賄うには到底足りないため輸入の割合が大きい。自給率は42%。
- 金
アズキニア王国で現在最も注目されている鉱産資源は金である。近年アズキニア王国領コールドランドで大きな金鉱脈が見つかったが、コールドランド島の99.5%は氷床に覆われているため、技術的に採掘は困難であった。近年温暖化で氷が溶け始めて採掘が容易になった。
食料品工業
特産品の小豆の生産が世界一ということもあって、食品加工技術はとても発達している。もちろん小豆以外の食品も加工している。主に国の南部の工業地帯で生産され最大の港ウル・サイ・ワボケから大量に輸出される。食料の加工品の輸出は全体の50パーセントを占める。これは発展途上国の輸出品目の中で軽工業の産物の割合が大きいのとは違い、国の政策によりブランド化され個々が高く取引されるからである。マグマでも溶けないアイスやダイヤより硬いアイスを生産している。一番有名なのは特産品である大納言あずきで、ホッピングシャワーより美味しいとされる。大納言あずきを作るにはファイブティーンワンアイスクリームの特殊技術がいるので、アズキニア王国でしか作れない。大納言あずきは年々進化を続けており、年を追うごとにおいしくなっていく。中でも最高級の大納言あずきは中小国を一つ買えるほどの値段で取引される。過去にはこの大納言あずきをめぐって争いが起きた。
繊維工業
繊維工業は性能の高い防護服を作れるほどに発達しており、自国に行き渡らせられるほどには発展している。化学繊維は作れていない。
最近は綿や麻の服がよく見られる。
化学工業
化学製品は輸入の割合が大きい。アズキニアは商業国家であるため石油を持ってきてわざわざ作るよりは他国に売ってできた製品を買う方がはるかに効率的だからである。そのため様々な工業国家が巨大なアズキニア市場のシェア争いをしていて、外交にも影響している。
金属工業
アズキニア王国の本土及び植民地には鉄鉱床は存在するが、どれも特別大きなものではないので、採掘コストが高い。掘ったとしても国内の需要を賄うことは困難。そのため、外国から鉄鋼を大量に輸入している。但し金の加工産業などはとても盛んで、世界シェアの半分以上を占める。
機械工業
アズキニア王国は中継貿易に頼って栄えていたが、貿易だけでは工業化が進まないので、国を挙げて重工業を育成中。機械はそこそこ生産してる。複雑な回路基盤も研究中。
造船業
造船数世界トップクラス。性能もそこそこいいし、安いので各国から好評。軍需も民需も対応。頼まれれば特注で戦艦も作ってくれる。
先端技術産業
最近はいち早く時代の流れに乗って、軍需産業の一環としてドローンの研究が活発に行われている。pcを開発中。また、各地の鉱石の解析作業も行われている。研究員募集中。
第三次産業
研究産業
なろう系転生者γの襲来を踏まえて国営の研究所ができた。現実改変などに関する研究が盛んに行われている。不況のため予算は少ない。
文化・観光
アズキニア王国は大洋に面していながら三大陸に近いという特殊な立地を持つ島国で、クロイシア地域と分割大陸、メロビア大陸と西大泉洋という四つの文化圏の影響を色濃く受けながら独立した文化圏を築いてきた。古来から積極的に他国との交流をして貿易しながら発展してきたこともあって外国からの文化には比較的寛容。但しこの国において社会的統合と文化的寛容は全く別であり、文化的多様性は尊重されるがアズキニア王国に住んでいる以上はアズキニア社会への統合を求められる。また、全ての国民が尊重すべき共通の価値観を定めており、それを中心に各地から持ち込まれた文化が共存することによって、アイデンティティの確保とアズキニアへの帰属意識の統一を実現している。このような同化主義とも多文化主義とも一線を画す政策はインターカルチュラリズム政策と呼称され、導入が本格的になされた近代から現在まで大きな成果を挙げている。
アズキニアの文化の中で特筆すべきものとして、『残し伝える精神』と『新しいものを受容する精神』というものがある。アズキニアは4000年の歴史の中で拡大と縮小を繰り返し、それに呼応して文化もめぐるましく変化してきた。その中でこれまでのものを残しつつ新しいものを受容し融合させていく国民性を育んできた。そのため歴代の国は戦争においても相手の文化は必要以上には破壊せずに、吸収してきた。このような精神は現在においても深く残っており、昨今のアズキニア本国においては特に重大な文化的分断はなく、アズキニア王国の国籍を取得する人々は、人種やルーツに関わらずアズキニア国民であることを帰属意識としている。
アズキニア王国は世界で最も世界遺産が多い国の一つであり、本土の歴史の中で育まれてきた文化的遺産はもちろん、植民地などの豊富な自然遺産も多く有している。
衣
上流階級の間では絹で作られた服が主流。庶民の間には麻や綿で作られた服を着る者が多い。寒暖差が大きいため服の生産が盛ん。古来から取れる染料が豊富で、服の種類も豊か。
食
古来から小豆を主とした豆類に、穀物や海や山の幸を足し合わせたものが主食として食べられてきた。
大納言あずきという小豆のアイスクリームが国民の生活に浸透しており、年中を通して食べられる。大納言あずきを作る技術は国家機密。そのためかアズキとあずきの使い分けに世界一厳しい。大納言あずきと食べ物としての小豆はひらがなのあずきだが(例:大納言あずき、改造型あずき、など)、人名や知名、組織や国家名に入っている場合はカタカナのアズキとなる。(アズキニア王国、アズキ親衛隊、など)。これを破るのはアズキニア王国ではタブーであり、場合によっては無視されることもある。気をつけた方が良い。他のアイスも食べられているが、ホッピングシャワーだけは憲法により食べない、作らない、売らない、買わない、持ち込まない、という原則が定められており、非ホッピングシャワー五原則と呼ばれる。やっぱり大納言あずきが1番!
また、古くからの風習で、寒い冬にアイスを多く食べる伝統がある。水が少なく寒い環境ではパンではなくアイスを食べた方が体力を残せるためらしい。それに寒い冬に食べるアイスは美味しい!みんなも食べてみてね!
特産品
- 小豆
小豆。うん、小豆。とれたての生の小豆。いくらアズキニア王国でも小豆を生で食べる人はほとんどいない。*52 - 大納言あずき
こしあんが練り込んである小豆のアイスクリーム。100年連続人気最上位、栄えあるトップランキング第1位は…大納言あずき!多文化主義のアズキニア王国には多くの料理が持ち込まれる上に海外から移民が多くやってくるが、どの人も一口食べた瞬間大納言あずきを好きになる。*53なぜか暑い夏よりも寒い冬に売り上げが伸びる。*54 - 餡子
小豆に砂糖や塩を加えて加工した食品。他国でもよく食べられる。また、過去に内戦になりかけたため、こし餡と粒餡のどっちが美味しいかを議論することは禁止されている。*55 - 茹で小豆
餡子を作る過程で砂糖を混ぜず、煮込み時間を長くしてできるもの。ほろほろ口の中で崩れて美味しい。 - 渋きり汁
餡子を作る過程で生じる渋みのある汁。渋いが健康にはいい。 - アズパイ
小豆をすりつぶしてペースト状にしたあと、切ってパイの中に入れた料理。小豆の上品な甘味とふんわりしたパイの食感が絶妙にマッチしてとても美味しい。バターをつけても美味しい。白糖を含まないので健康にもいい。 - リトミール
まず、小豆の殻を全て取ったあと、天日干しにより乾燥させた後粉々にして粉状にする。それを牛乳、豆乳に混ぜて溶かした飲料。作るのが大変なため高級品。ヤギの乳を使ったものは最高級品。 - アリニ
小豆の皮を燻して作られた料理。昔、アズキニア王国が貧しかった頃に、捨てられてしまう小豆の皮をどうにか美味しく食べられないものかという発想の末に作られた。大量生産大量消費社会への移行によって食べられなくなり、最近ではお土産屋ぐらいでしか売られていない。 - 小豆煎餅
小豆を練り込んだ煎餅。しょっぱさによって甘みが引き立つ。見た目の色は少しアレだがアズキニア王国ではまあまあ食べられている。
住
アズキニア王国の家は主に木材や石材を使って建てられる。森林資源が豊富であり、レンガと複合させた建造物も見られる。近年、国内の林業が衰退しているため、現在は木材は植民地や国外からの輸入で賄っている。
冬の厳しい寒さに耐えるために窓を二重にする、床暖房の設置、地下室を作るなどの方法で寒さ対策を行う家が多い。アズキニアの伝統的な家には「シロイリ」と呼ばれる暖房装置が見られる。これは地面を掘り下げて開放的なかまどを置いた炉であり、調理や湯沸かし、家族が団欒する場としての役割を果たす。ただ気温の年格差が大きいため、夏にはそれなりに暑くなるので冬以外は窓は開けられている。食文化の影響で、アイス専用冷蔵庫を持つ家庭が大半。床暖房の効いた部屋で家族みんなでアイスを食べる光景はアズキニア王国の冬の風物詩である。
文学
アズキニア王国では古くから出来事や神話が文字によって記録されてきた。アズキニア王国で最も古い文書は紀元前11世紀に書かれた『古典記』で、紙ではなく粘土に文字が彫ることで神話及び歴史を記述していた。この文書が解読されたのはそれから2,500年以上も後のことである。その後は木の皮に小豆から作った染料を塗るという方法で記録され、14世紀に紙の製法が伝来してからは紙に記録がなされた。
有名な本
- 『古典期』-アレクサンドル・マリー(紀元前11世紀頃)
- 『新古典期』-アレドラ・マリー(紀元前10年頃)
- 『ナゴン諸島における土人の文化について』-作者不詳(紀元前320年頃)
- 『共和論』-カール・マクルス(紀元前156年)
- 『メルト黙示録』-メルト・ロベア(354年)
- 『センエン福音録』-センエン・シー(372年)
- 『おお神よ、我が子を生き返らせ給え』-ゲーテェ・オロロフ(1098年)
- 『美しきナゴンの大地』グラノチェフ詩人作家団(1365年)
- 『市民の生活における科学の重要性について』-エリック・キム(1560年)
- 『仔馬と少年』-ネリーナ・レーキンル(1686年)
- 『偉人達の哲学』-バクー・アーザーデガーン(1699年)
- 『南亜妖狐七獣伝』-チョン・チャンシー(1721年)
- 『人民統治論』-パラノイズ・エマル(1888年)
- 『エレベ川の奇跡』-ボフマン・コロンボ(1895年)
- 『同志よ、加速せよ』-ノイアー・ロックハート(1987年)
- 『infinity world』第一巻-ユウキ・チャウシェスク
- 『赤い恒星』-二ラン・ドラーム(1988年)
- 『文字の世紀』-ヤン・デレナン(2000年)
- 『paranoia,index』-リミット・シンチャン(2005年)
- 『北部戦線異常なし』-ジョニー・マーキュリー(2015年)
- 『2020年2月9日、僕は君とキスをする。』レイ・ミギュ -(2020年)
- 『コップ一杯の水が欲しい』-ドラゴン・カロリーナ(2021年)
- 『僕の仕事は大統領』-アラン・レーキンル(2023年)
美術
伝統芸術は古くから継承されてきた。近年は移民が多く各文化が混ざり合ったため、新古典主義的素朴派芸術が盛ん。風刺的な絵がよく描かれる。
音楽
伝統音楽文化は、独自のあずきを使った楽器などで、EDMのような曲を演奏する不思議な文化。近代的な音楽は発展途上。
スポーツ
サッカーなしをはじめとする多くの競技が盛んだが、陸上やバスケなどでは選手は多くがアズキニア王国領西オメガなどの植民地の出身者。アズキニア王国領ナラキアの住民は未だスポーツ大会に出場したことがない。*56ウインタースポーツの大会は、アズキニア王国領コールドランドで開かれる。最近、アズキニア王国の勢力圏全体のスポーツが開かれるつもり。
世界遺産
自然遺産
- ハサ湖及び周辺地域
ダイナゴン島最大のハサ湖。湖の美しい自然と周囲に広がる小豆畑を支える広大な水路が特徴。
- マトリア海自然保護区
アルトー海峡とラミダス海峡に挟まれたダイナゴン島とチュウナゴン島の間の内海。産業革命以降は腐海と呼ばれるようなエリアだったが、近年の顕著な自然保護活動により生態系が回復し、登録された。
- アスンシオン国立公園及びロヴァ・リガルフィア国立公園
標高6000mを超える分割大陸最高峰、アスンシオン山。山岳地帯の貴重な植物群と山岳の美しい景観が見どころ。
- アネット峡谷
- アズキ・エスチュアリ
- ルグンド国立公園
アズキニアの南西部に本土最大の国立公園。絶滅危惧種を含めた多くの生態系が暮らしていてアズキニアオオワシやトルリアサンショウウオ、キイロシカなどの珍しい動物に出会うことができる。ルグンド国立公園には数万羽の渡り鳥が飛来し、5月中旬の渡り鳥野一斉飛来の見物目当てに来る観光客も多い。アズキニア本土に9つある自然遺産のうちの1つ。世界遺産だけでなく生物圏保護区、テザラン条約登録地にも登録されている自然保護地区で、アズキニアの生物が織りなす美しい自然を体感できる。
文化遺産
- アルトプリシア運河とパミュースター橋
- 城塞都市サンプレヒト
近世初期、東と西の略奪者によって北の不毛の島々に追いやられたジラント朝アズキニア王国。幸い彼らは辺鄙な島嶼に追いやられたジラント家を攻めることはしなかったが、それでも弱ったジラント家にとっては周囲のあらゆる物が脅威となりうる。そこでジラント家は彼らの新天地を徹底防備化。その集大成がポラリス諸島南部カーゾン島、城塞都市サンプレヒトである。20メートルにも及ぶ城壁はジラントの王が再び聖ティアナスファの王冠を手にするまで幾十年にも渡って野蛮な略奪者からジラント家の末裔を守り続けた。その後は半ば放棄されていたがその歴史的価値が見直されて改修が施されて今に至る。複雑に入り組んだ城塞と当時の人々の生活が未だに息づく石レンガの街並みが見どころ。
- サレジア・ロールドランドの洞窟群
- ワラドネギャの彫像群
新石器時代ウィンザー文化第二期を代表する巨大建造物。現存する10メートル以上の彫像としては世界最古で、太古の人々の神秘的なスピリチュアルが今でも息づいて残っている。 - ゲルン・ヴァグーダ古戦場
- ラールプラット王立植物園
ラールプラット王立植物園は1678年に作られた世界最古の近代的植物園。文化帝として名高いメールオ一世の命令によって作られ、アズキニアの植民地を中心に世界中から植物が集められた。特に中央の温室聳え立つバオバブの木は、テープコナルから運ばれたもので樹齢は300を超え、現在でもゆっくり成長を続けている。それに加えて近世アズキニアの文化も施設の壁や床の装飾として残っており、世界中から集められた植物と新古典主義的芸術を一度に楽しめる人気スポットとなっている。
- 古代イケア・テーボルト文明遺跡群
アズキニア東部で栄えたイケア文明とテーボルト文明の遺跡群。 - ラミダス・アルトー連続海峡都市の歴史地区:アズキニアへの玄関口
ラミダス・アルトー海峡。それは何千年にもわたってレヴァン川の富を守り続けてきた自然の要害。この海峡たちは富めるマトリア海を外海の脅威から守り、同時に莫大な交易価値をもたらしてきた。その中で東部平原につながる二つの歴史都市。決して広くない海岸平野に建設されたことで、小ぢんまりと入り組み密集した建物群の歴史的景観が見どころ。 - マームン・リベスト村の水路群
- シェイエロー諸島前衛要塞群
ジラント朝アズキニア王国を一時的に滅ぼし、シェイエロー諸島を手に入れたオデシア王国はサンプレヒト王国となったジラント朝の復讐と、旧アズキニア領の豪族の台頭に常に脅かされてきた。そこでシェイエロー諸島全体に投石機などを兼ね備えた要塞の建設を行い、シェイエロー諸島の護りを固めた。その要塞群のうち幾つかは現代でも残っており、オデシア王国が当時の技術を結集して建設した兵器が各地に見られる。特にカリエ島に築かれたマルティナ要塞が最も大規模かつ有名で、5回の進行を全て跳ね返した。各地の要塞ごとに異なった構造を体感できるのが特徴で、意匠ある装飾を追体験できる。
- ノースフィラーナのクモラ遺跡
アズキニアで近年世界遺産として登録されたのが、ノースフィラーナのクモラ遺跡。巨大な石のモニュメントが点在するとても迫力のある世界文化遺産。ここでは多くの古代遺跡を見ることができるが、世界遺産に登録されているのはそのうち保存状態がいいものに限られる。特に注目されるのはアズキニアが世界に誇る世界最大級の支石墓。幅25m、高さ4m、奥行き5mもある巨大な墓はウィンザー文化第二期の真っ最中の紀元前3000年ごろに造られたもの。太鼓の昔に作られた岩の美しい古代遺跡を見て、歩いて、触れて、味わうことができる。
複合遺産
- シュマリ旧市街エリア
西はロード山脈、東はトランセンド山地に囲まれた天然の要害、ネーメネ盆地に位置するアズキニアの聖都シュマリ。20世紀以上に渡ってアズキニア文化を育んできた世界最高の古都にしてアズキニア王国の王宮首都。
- ガナシャル山とロード山系:自然景観と山岳信仰、及び山岳鉄道群
アズキニア王国西部に聳える大山系、ロード山脈。ロード山脈は極西アズキニアと東部平原の行き来を阻むとともに、その中にあるティアナスファやシュマリなどの都市を外敵から守ってきた。その中の最高峰であるガナシャル山は古代から人々を魅了し、その美しさによって絶大な信仰を集めてきた。そして、二文化圏を繋ぐ要衝という特異性によって多くの文化を育んできた。二文化圏の境界という立地は周辺の人々に独自性ある信仰を与え、アズキニアの人々はこの山を聖地として崇め奉り、数多くの神話や民謡が作られてきた。また特筆すべきものが、狭い谷間に造られた街を縫うように作られた山岳鉄道である。アズキニアにおける産業革命の最初期から運営されてきたこの鉄道は時代の移り変わるとともに姿を変えつつ人々を運び続けて生き残ってきた。さらに、一部の路線や車両は観光路線として保全されており、18世紀の古き良きアズキニアを実際に体験できる。
- コールドランド島-氷床と人々の共生
大泉洋と大東洋を繋ぐ氷の島、コールドランド。コールドランドから東西に広がる巨大氷床は盛衰を繰り返しながら存在し続け、上空の高気圧と共にカンブリカ大陸の発見を現代まで阻んできた。コールドランド島の北端と南端には僅かにも原住民シェブリャが暮らしてきており、その文化は氷によって隔絶されたことで数千年間外部からの干渉を受けず成熟してきた。コールドランド島に残る美しく貴重な氷床と、シェブリャが育んできた厳しい自然に適応した文化の共生が見どころ。
哲学
ロマン主義が主流
祝日
- 1月1日~1月5日
元日。アズキニアは休みが3日間だけじゃなく5日間ある。 - 1月29日
寒い冬こそ小豆を食べようの日 - 2月5日
隣人と家族の日
教育・科学技術
アズキニア王国は世界でもトップクラスの教育水準を誇る。アズキニア王国は機会均等政策をとっており、親の収入に左右されず誰しも努力や才能に応じた教育を受けられるようにするため、学費がとても安い。*57また個性や努力を大事にする方針をとっており、多様な人材の育成に努めている。しかし、この政策は努力意欲の低下の危険性も孕んでいるため、高校の学費無料と大学生への金銭的補助以上のことは行われていない。
アズキニアは4000年以上の歴史の中で根付いた『残し伝える文化』の影響で考古学が発達していて、特にへフェンステッド考古大学は世界の考古学の権威である。
外交
アズキニア王国は世界で最も貿易している国の数が多い国家で、その数なんと90カ国以上であり、2位に大きな差をつけてダントツ一位である。膨大戦兵条約第6条を遵守している。アズキニア王国を介せば90以上の国と貿易できるので国際的に最も重要な国家の一つである。基本的に国交を申請すれば快く了解してくれる。*58
平穏なる孤立
この国は『外交的孤立、経済的自由』を掲げているように、外交と貿易は別物だとの姿勢をとっている。そしてアズキニア王国は外交的には孤立主義を貫いており、極度に同盟を組みたがらない。現に分割大陸宗主国条約以外の多国間平和友好条約に加盟していない。過去に多くの国がアズキニア王国との同盟を打診してきたが、全て断っている。アズキニア王国は過去に同盟関係のこじれで周辺国からフルボッコにされた経験*59があり、それがトラウマになっているからというのが最も大きな要因である。
また、この国は自国に関係のない外交問題に関わることをひどく嫌うため、それを避けるのも同盟を組まない一つの要因である。面倒な戦争もしたがらないので基本的に相手の要求を飲むことで問題を解決しようとする。実際、近代以降この国は国連軍を含むどこの国の軍隊にも軍事通行権を認めたことはない。国際連合についても、ムネスコに加入するために加入しているのであって、国際平和や国際協力に貢献する意図は薄い。連合を組んで共同作戦を行う時でも、自軍の統率権を作戦司令部には渡さず名目上はあくまでアズキニア軍として独立して戦闘する。また、基本的に他国に借りを作りすぎることも嫌う。このような、恒久的な同盟関係を徹底的に避け国際関係にも不用意に関与しない姿勢は『平穏なる孤立』と呼ばれる。この国が他国と協力する時の方針は白い猫だろうと黒い猫だろうと、鼠を獲るのが良い猫だである。二国間の不可侵条約や友好条約なら喜んで結んでくれる。
貿易
アズキニア王国(植民地含む)の主な輸出品
- 特産品
大納言あずき、小豆、その加工品など - 農業
大豆、緑豆、レンズ豆、いんげん豆、えんどう、そら豆、ひよこ豆、小麦、大麦、ライ麦、燕麦、稗、粟、砂糖、カカオ豆、コーヒー豆、とうもろこし、根菜類、キャッサバ、卵、パーム油、オリーブ油、棗椰子、ココナッツ、トナカイの毛皮、トナカイの肉、山羊乳、山羊肉など - 漁業
鯨、オキアミ、ズワイカニ、タラバガニなど - 鉱業
金、白金、アルミニウム、チタン、ニッケル、コバルト、クロム、亜鉛、鉛、ビスマス、ガリウム、タングステンなど - 軽工業
アイス、餡、冷凍食品、缶詰、水飴、ジュース、豆腐、醤油、酒、ジュース、デーツなど - 重工業
基本機械類、輸送機械部品、回路基盤、船舶、レーダーなど
これだけしか輸出していないわけではない。このほかにもアズキニア王国を通してアズキニア王国の貿易国から運ばれてきた商品を取引できる。
正式な国交がある国 ・勢力 募集中! 自由追加可!
ここでいう国交を結ぶということとは、正式にお互いを国として承認し貿易するということです。軍事同盟ではないです。(軍事同盟などを結んだ国々は、同盟国として別に承認します )。国名が変わってたら変更お願いします。(あと、うち大納言あずきだけ輸出してるわけじゃないんだけどなあ......。)
敬称略
- 鎖国ヒカセイ帝国
- アンリオス社会主義共和国連邦
- アンリオス
- 浅順民主主義人民共和国
大豆と小豆をお互いに輸出入している。 - 西方沖共和国
未知の海域に浮かぶ埋め立てでできた島国 - 犀曐ノ國
輸入のみ - 神聖ヒカキングダム
大陸にある国 - サークル帝国
鉄と石炭を輸入している重要貿易相手国の一つ。過去には対立していたが現在は和解し対等で友好的な関係を築いている。 - サークル帝国領南カンブリカ
アズキニア王国領リガルフィアと硫黄、野菜などを貿易している。 - ヴァレス考古学主義国
石油とイアーナなどの鉱石を輸入。 - シャングリア帝国
オールスターバサミサンドなどの特産品を輸入。あと、内戦中のため人道的な理由から食糧を支援している - シャングリア国際交流タウン
- クロイツ帝国
- 極夜王国
貴金属、宝石などを輸入 - ブレイド帝国
刃物などを輸入 - ディスノミア共和国
- ラグダール国
武器などを輸入。 - ペナ国
紅茶の茶葉などを輸入 - テープコナル共和国(傀儡国)
貿易というより、小豆や砂糖を無理やり作らせている - モンテ帝国
温泉卵を輸入 - プランテット星国
宇宙の宇宙人の国 - インヴイ自治共和国
- レギュラー帝国
- イゲレス
ビスケット、コーチャなどを輸入 - フランチュ
チーズ、玉ねぎ、車などを輸入 - 新帝国カインノシア
- ジオティック連邦
鉄鉱石、ボーキサイトなどを輸入 - 智慧(ラファエル)之王国
- 野菜王国
野菜などを輸入 - 焼肉王国
肉などを輸入 - パリピーナ公国
栃の木などを輸入 - ストロンゲスト共和国
- ホッピングシャワー帝国
特にケンカは売っていない。ただ関係を良くしたいだけの国 - 月皇国
銀や銅を輸入。 - 新生鎖国ヒカセイ帝国
- カルロマス連合国
海産物などを輸入 - ピクト共和国
- デュナミス連邦
農作物など - ロザリア王国
マスカット、プラスチックなど - イルネシア共和国
新元素を輸入 - 新ヒカキングダム
- 校舎大王共和国?
- サエンスナ
- AVA社
- 緋陽皇王国
- ピクト社会主義人民共和国
- バルトーネ国?
- 南部ヒカ帝国
- ヒエピタ王国
- 隼公国
第三次Youtuber大戦の時に共に救助にあたったことから仲良くなった。 - ノストクラ王国?
鶏肉・砂糖などを貿易している - ヒカルク諸島
ゴムを輸入 - マルブルグ・ワークス社
- 佐戸王国
- ロジリック連邦
- カモナ共和国
- フェルリアの王国?
宝石の貿易 - エルドビア民主主義人民共和国
- パスラストン国
- 幽玄共和国
作物のみ貿易 - 横須賀帝国
鉱産資源を輸入 - ストロベリー帝国?
- グリモア魔導帝国
- サッカ民主国
- どうぶつの森国
- イェヒメ共和国
魚介類、電気銅、アンチモン、紙製品、陶器などを輸入 - ローゼンハイム・エレクトロニクス
- 硝子魔法国
- ヤマシタ・ミリタリー・インダストリー
- テンド
- 穏和
- ケツパサ
- ケミサリー共和国連邦
- PhigrOS
- 妖蘭国
- マンタル国
- なろう王国
戦争に負けた - 典型国
- 東亜大帝国
- ヒカキングダム
- ボラァーヴァ・ソヴィエト共和国
石油・科学製品などを輸入。 - アスキー国
- アリの巣王国
- ハチスブルク二重帝国
- 赤星鉄条連邦
- アライスカ
- マナコ公国
- キュウビノ国
- フィレンツィーナ大公国
- 鉄オタ共和国
- スニハラ
- ジェンコ―ノ民主共和国
- 大アルタ帝国
- 電脳共和国
- ういろう王国
- シコク連邦共和国
- ネコ社会主義共和国連邦
- 夢=家国
- 納豆列島
現在98*60
加盟する組織、条約など
軍事
アズキニア王国は国家として軍隊を持つ。貿易で成り立っていることから、海軍に力を入れている。他国同士の戦争は儲かるので好きだが、自国の関わる列強との戦争では貿易が捗らないので嫌う。大きな戦争に参戦する時は、敵側に宣戦布告せずに味方の支援に徹し、直接的な被害を受けたがらない。また、アズキ親衛隊という神聖皇帝直属の兵士が大納言あずきでできた部隊も存在する。アズキ親衛隊は小豆により補給を行うため、十分な小豆がある本国などでは無敵と言ってもいいほど強力だが、小豆がないと本領を発揮できない。さらに、なろう系転生者などの現実改変能力者を利用した特殊部隊も存在する。同盟国が敵と戦争状態になった場合はレンドリースを大量に送ることで味方を支援する。
軍ははっきり言ってクソ雑魚。連携も取れず、武器も充実しておらず、士気も低い。量はともかく質では最低レベル。*61これは軍部内の派閥対立が主な原因である。
アズキニア王国は単純な軍事力自体は国力の割には弱いので、外交努力により戦争を回避することに重点を置いている。実際アズキニア王国と同GDPくらいの軍国主義国家が戦ったらアズキニア王国は多分完敗する。*62これはアズキニア王国は戦争による目的の遂行より外交による利益の最大化を重視しているのが大きな要因である。しかし、戦争でのアズキニア王国は敵側についたときには非常にもうひじょーに厄介である。アズキニア王国は持ち前の経済力で敵国の戦時経済を支えるほか、世界中に持つ交易ノードを駆使して敵国同士の貿易を円滑にしつつ、資源の輸出で敵国にさらなる戦争継続能力を与える。逆に言えば味方に付けられれば非常にもうひじょーに有利になる。しかし、国際社会の一端を担う大国としての当事者意識が薄く、国民の戦争協力も低いため、参戦して全力で支援してくれることは稀である。
アズキニア王国軍の数少ない美点として、食事が他国軍と比べて大変充実していることが挙げられる。毎食美味しくて飽きない食事が用意されるため、その質に反して軍隊への入隊希望者は多い。
国防
アズキニア王国は周囲を海で囲まれているが、クロイシアからなら上陸しやすい。*63あと、大陸領土は比較的奪いやすい。だがアズキニア王国は多くの国の船が停泊する場所でもあり、侵略などしようものなら船の所有国たちを敵に回すことになる。てか何されても遺憾砲しか打たない。だが最終兵器、「無視」の前にはどんな国も叶わない*64
兵器
軍事技術はないが資金だけはあるので他国から買っている。
秘密兵器*65
- 遺憾砲*66
遺憾の意を表明し、残念な気持ちを伝える。敵に精神的ダメージを負わせる。 - 宣戦布告お断り*67
アズキニア王国の超強力兵器。上位世界の存在であるけーおー(編集者)を呼び出し、宣戦布告のコメントを消去して無視することで、そもそも戦争を起こさせないことができる。 - 著作権バリア
アズキニア王国の著作権を主張することでアズキニア王国への外部からの不快な干渉を完全無効化できる。 - 完全無視*68
相手の概念を認識せず存在を否定することで相手を無視するというアズキニア王国の最強最終兵器。けーおー(編集者)がいる限り無敵で、この兵器の存在がアズキニア王国が滅ぼされない最大の理由。
アズキニア王国軍のヘタレエピソード十選
- 戦車を大量に持っていったが、肝心の燃料を忘れた
- 合図をした敵兵に手を振りかえし、位置がバレる
- 地図を読み間違えて、自軍の陣地に向かって攻撃
- 貴重な水を小豆を茹でるために使い、水不足で壊滅
- 捕虜にした敵兵に軍の機密をバラしてしまい、脱走した捕虜により機密情報が敵軍に伝わってしまい作戦失敗
- 敵の主要都市を20万の犠牲を払って陥落させるも、守備隊の配置を忘れて無欠で奪還される。
- 敵のあからさますぎる陽動に見事に引っかかり、上陸される。
- 倒さなければならないはずの反乱軍を味方と間違えて、協力してしまう。*69
- アズキニア最大の軍艦を完成三日後に、処女航海で座礁させて沈没させてしまう。
- 軍艦用の巨砲を作るが、重すぎて乗せられなかった。
......という感じである。しかし、これは一部の師団で起こった話で、アズキニア軍はその練度の低さで知られていると言っても、全軍がこんなに間抜けではない。それに兵士一人一人が悪いわけではなく、軍部の派閥同士の対立で違う部隊同士の連絡がうまくいかなかったり、命令が他の上官によってコロコロ変えられるためである。要は、軍の上層たちがお互いを困らせるために足を引っ張りあっているのである。
これから編集していきたい項目
- 歴史の鉄器時代以降
編集するとか言っといて全然進んでません。ごめんなさい。 - 政治
構想は決まってるんですけど、編集大変すぎて無理......。 - 産業
これは一個ずつやってけば簡単そうです。 - 文化
美術・ 音楽・スポーツあたりはもうちょっと詳しくしたいですね。 - 軍事
......いつかやります*70。
いつか文字数制限に引っかからないかな......。
アズキニア王国の利用について
アズキニア王国は基本的に自由に利用可能です。以下例
:DCOなどでの地名
:キャラクターの行き先・住所など
:自国との友好関係
:宣戦布告・攻撃を除く外交行動、大規模事故・事件を除くキャラコーナーでの利用
:アズキニア王国に被害が出ないような敵対状態
ただ、下記のような利用は許可をとってほいです
:「アズキニア王国は我が国の属国」などのようにアズキニアの設定に反するもの
:勝手に戦争・敵対状態にすること。僕が戦争を許可した場合でもどこでどの程度の戦争にするのかは必ず僕に確認してください。核の使用もなしでお願いします。核が許可なしで使用された場合も下記の措置を取らせていただきます。
守っていただけない場合は、利用許可の停止・当該箇所の削除を行わせていただく場合があります。*71
こんな堅苦しいこと書きましたけど、よっぽどじゃない限り特に規制とか削除とかしないので気軽に利用してください!
コメント
来訪者数
今日 | ? |
昨日 | ? |
合計 | ? |
進捗
10000 2024/1/14に達成
11000 2024/1/24に達成
11111 2024/1/26に達成
12000 2024/2/3に達成
13000 2024/2/13に達成
14000 2024/2/23に達成
15000 2024/3/1に達成
16000 2024/3/10に達成
17000 2024/3/27に達成
18000 2024/4/25に達成
次の目標 19700*80
タグ
ここは自由に編集可能です。
Tag: 国 なんだこの自己満ページ 大納言あずき
この度、貴国との国交を断ち切らせて頂き
マスカキました。 -- 設xキン? 2023-08-12 (土) 22:30:06鉱物が足りないのは結構やばいことやし。 -- サークル帝国 2023-08-13 (日) 23:04:53
だったらサークル帝国領南カンブリカに大納言あずき輸入してもいいゾ^~ -- Mr.EXHAUST(編集者) 2023-08-19 (土) 12:25:16
あとサークル帝国の本土にも大納言あずき輸入していいですよ
大納言あずきの需要がもうひじょーに高まってるんで -- Mr.EXHAUST(編集者) 2023-08-19 (土) 14:59:50
心が痛むが、了承してくれ。 -- 戦場ヶ原 駿利 2023-08-19 (土) 22:08:06
勝手に使わせていただいていますから。 -- アズキン(編集者) 2023-10-06 (金) 22:44:46テンド側からは半導体であるテンドシルバー、宝石、テンドティーの茶葉を輸出できます。アズキニア王国さん側からは大納言あずきと小豆を輸出してもらいたい。
この前テンドに輸入された小豆で作ったスイーツが美味しかったし、農業国のケツパサでは小豆を栽培していないのでね。 -- ガナパシアヤカ 2023-10-31 (火) 12:44:07
他の国に関しては…ケツパサと穏和なら貿易できると思います。ケアトコス?とゲンタイソにもこの事を話しときますし、あの2神なら貿易しないということはないでしょう。他の国は色々と問題抱えているからなぁ…しばらくはムリかなぁ… -- ガナパシアヤカ 2023-11-01 (水) 07:47:03
穏和からは特産品に書いてあるものなら全て輸出できるけど、どれがいいかな? -- ゲンタイソ 2023-11-01 (水) 08:37:08
我が国からは「ヅチスギ」や「ヅチヒノキ」といった上質な木材が輸出できますが、いかがでしょうか? -- イェヒメ共和国 2023-11-18 (土) 16:32:59
管理プロトコルの制定とその整備をさせてもらう事、本館への定期的な連絡さえしていただければその他の管理はしていただいて構いません。 -- 当国外交官 2023-11-21 (火) 19:55:52
ところで、なろう王国や第一魔法師団の人質に関してなんですが、我が国の兵に国籍を偽らせて奪還作戦に参加させるのはよろしいでしょうか? -- サークル帝国 2023-11-30 (木) 14:55:43
同盟国が攻撃されても放置ならまぁまぁやばい国やな()あとコメントを1000件まで表示させてるのは故意ですかな? -- まひまひ。 2023-12-17 (日) 22:07:05
ちな僕が来た時はは10016だったナリ。 -- Mr.EXHAUST(編集者) 2024-01-14 (日) 13:13:10
今回の鉄道の対応について、決定させていただきました。まず結果として、アズキニア王国との国交を結んだ上での鉄道接続は許可いたします。但し、船舶での車両輸送という方式を取り、海上への鉄道敷設はおやめください。
ただ、大変僭越ながら申し上げさせていただきますと、このような頼み方は相手に強い不快感を抱かせてしまう可能性があるため強くお勧め致しません。一応私はアズキニア王国の利用について概ね認可してはいますが、場合によっては無断使用と捉えられるかもしれません。貴方は新規の方で騒動を起こすのは今回が初めてですし、私の返信が遅く最初の返信も適切なものではなくそれも騒動の原因であること、鉄オタ共和国自体には罪はないこと、今日はアズキニア王国にとって記念すべき日であり悪い結果となるのは忍びないこと、などの事由を考慮してこのような対応とさせていただきました。これから貴方がこのWikiで活動していき良好な対人関係を築いていくにあたり、許可のコメントでは今後は相手の返信を待つなどの適切な行動を行なっていくのが良いかと思います。 私は貴方に悪意がなかったことも理解しておりますし、今回の件について私はこれ以上言及致しませんが、今後このことを心に留めておいていただきたいです。-- けーおー(編集者) 2024-01-14 (日) 17:03:51
全部引っぺがしてほかの路線にたらい回しして、どうぞ。 -- Mr.EXHAUST(編集者) 2024-01-14 (日) 23:03:37
排他的経済水域内で他国の鉄道を運用されるアズキニア王国側の身にもなってさしあげろ -- てぃろるーな 2024-01-15 (月) 06:25:30
(目次だけ……目次だけ手直ししたい~) -- ヤーチャン 2024-01-28 (日) 21:31:57
今ケミサリーの方で仮目次を作成しておりますので完成いたしましたので、←こちらから見てから導入をお考え下さい。 -- ヤーチャン 2024-01-28 (日) 22:32:34了解したゾ。ちなみに不快な気持ちにさせてしまうと本当に申し訳が立たないのだが、所々読めない地名があるからそこはもしかしたら文字化出来ないかもしれません…… -- アレン 2024-02-11 (日) 12:25:48
まぁ、自分で細かく書きすぎて編集量増やしてるだけなんですけども...。 -- けーおー(編集者) 2024-03-02 (土) 15:31:16
多分自分が手がけた中で過去最高文字数を更新したと思います。 -- Mr.EXHAUST(編集者) 2024-03-10 (日) 22:28:45
こんばんは、けーおーです。現在ヒカキン様がヒカマニ関連コンテンツの規制強化を匂わせる投稿をし、ヒカマニWikiの方では画像削除などの対応が行われていることは皆様の記憶に新しいかと存じます。アズキニア王国も旧ヒカマニ記事であるため、ヒカマニ要素が残っていないかチェックをし当該項目を編集したのですが、当ページの文章量が多すぎることもあって私の確認抜けがあるかもしれません。そこで、もしヒカマニ要素が発見された場合は、ここのコメント欄でお教え頂けるようお願い申し上げます。改めてこれからもアズキニア王国を宜しくお願い致します。 -- けーおー(編集者) 2024-03-24 (日) 17:42:36
あと、少しお話があるのですが、お時間よろしいでしょうか? -- けーおー(編集者) 2024-03-25 (月) 12:16:57
ところで、電子化のために使ったサイト、ページなどでいいものがあれば教えて頂けないでしょうか?実は電子化できていない理由が「いいサイト、ページを見つけられていないから」なんです。 -- けーおー(編集者) 2024-04-02 (火) 17:43:39
もっとアズキニアについて弟から聞いとけばよかった...(ホントはコイツがページをしっかり読んでいなかったから) -- シゲ・マール 2024-04-02 (火) 13:11:14
実は自分でもページの全貌を把握できてなくて、たまに「あれ、こんなの書いたっけ...?」ってなります笑 -- けーおー(編集者) 2024-04-02 (火) 17:41:19