西暦23XX年。
この時点において、地球圏にある政治機構は、「統一政府」のみ。
厳密には、その下に各特殊自治区や特区都市があるが、国家としてのくくりで見れば、それただ一つである。
統一の二文字を冠とする政府。
他に国家は、無い。
人類が金属の船と飛行機という、高速移動手段を手に入れてから、いやもっと昔、地球が丸いということが常識ですら無かった頃から、それはずっと一種の夢であった。
地図を一色に塗り替える、という夢想は、数多くの政治家、革命家、理想家、宗教家の脳内に巣食い続けてきた。
もちろん、それを現実に達成した者は絶無である。
ほとんどが、その中道どころか門をくぐったところ、はたまた靴を履くことすら出来ずに挫折してきた。
最大の「結果」を残したのは、中世のモンゴル帝国だが、それでもアジアの東西過半と東ヨーロッパの一部を征服するのみにとどまった。
尤も、当時の地域人口率から見れば、ある意味「世界の半分以上を支配した」とは言えるかもしれないが。
統一、それはまさに甘美な響きを持つ言葉である。
物が散らかっている部屋より、整理整頓された部屋が良い印象を与えるように、バラバラな足並みで前進するより、リズムに沿って脚をあげ、きちんと行進する隊が美しく見えるように、「ひとつに統べられた」「完全にコントロールされた」ものに、人間は憧れを持つ。
それは、人間が群れで生きる、個体として脆弱で、不完全な生物であるからかもしれない。
輪郭を崩し、色を乱し、形の意味そのものを否定するような絵でも芸術と成り得るのは、統一感に対しての、生物としての強烈な欲求の裏返しであり、そうありたいという願望があるからに他ならない。
だからこそ絵画は、真実として統一された写真より、遥かに人の心に訴えかけてくる。
不格好な積み木の家は、一度壊さねば、新しい家は作れない。
ページが抜け落ちた本は、一度バラバラにせねば、新しく綴じることは出来ない。
破壊による再生、統一の為の解体。
つまりは、そういうことなのだ。
……東西冷戦が終結し、政治の手綱が思想から経済に移ったのが、今より三百年以上も前のこと。
その傾向を加速させたのは、化石エネルギーの枯渇と、太陽光発電の進歩であった。
国家間の貧富差は拡大し、国家群を束ねる国連やその他の国際機関は、それにより二十一世紀の後半より、影響力と統率力を失った。
二十二世紀の半ばに大国を中心に次々と実施された宇宙コロニーの建設は、人口増加問題と環境問題をある程度解決させたが、一方で地球と宇宙に暮らす者の対立という新たな火種を生んだ。
それらの諸問題は、二十三世紀において、アジア、アメリカ、欧州、そしてコロニーの四大経済圏の強引な周辺吸収と搾取化を促し、宗教的思考、観念的思想による小国家の乱立、地域紛争の激化に繋がった。
危機感より生まれた、軌道エレベーター建造という連帯も、結局は大きな効果を生むことは出来なかった。
そして、それらは国家という括りを超えた『OZ』なる軍事結社を台頭させ、全人類の実効支配という、暴走状態を招いた。
これらを乗り越え、地球圏に統一政府が出来るまでにかかった年月、これが果たして短いのかどうか、それが判断出来るのは、今の段階では誰もいない。
統一政府が続いたにしろ続かないにしろ、さらにあと百年近く経ち、評価を待たねばならないだろう。
同じく、流された血と涙の意味も。
統一政府は、ようやく立ち上がって歩き始めたばかりの赤ん坊と同じである。
それを転倒させるのに、大きな力は必要ない。
その爪先に、何かを置いておくだけで良い。
善意と悪意、そして稚気と無邪気が複雑に絡み合い、時代は歩みを止めることなく、無慈悲に動いていく。
ようやく人類が手に入れた平和を守ろうとする者、逆にそれを面白く思わず、壊そうとする者。
歴史に積極的に関わっていく者、消極的に関わらざるを得ない者。
理想の為に闘う者、野心のままに戦う者。
奪おうとする者、奪われまいとする者。
運命の女神は、果たしてどちらに加担するのだろうか―――