grow&glow_KIKI◆8OwaNc1pCE氏_第04話

Last-modified: 2012-07-29 (日) 14:23:10

 やわらかい陽射しが差し込み/暖められたアパートの一室。

 

 その中で、一人の少女がたどたどしい手つきではあるものの、ゆっくりとキュウリを切っていた。

 小さな右手をさらに小さく丸め――時折、ゆらゆらとキュウリと一緒に揺れてしまうのはご愛敬。
 厚さはバラバラ。
 形は何とか輪切りを維持する程度。
 しかし、少女の兄とおぼしき青年は、何をするでもなく、静かに少女を後ろから見守っていた。

 

 そして数分後、

 

 少女は口の端をつり上げ、自慢げに兄を見上げて言った。
「お兄、できた」
 まな板の上には、丸々一本分のキュウリが輪切りで並ぶ。
「ちゃんとできたな」
「えへへ~」
 頭を撫でられ、嬉しさのあまり兄の脚に抱き着く少女。兄としては、いつまでも離れそうにない妹をほほえましく思うのだが、このままでは昼食が3時のおやつの時間になってしまう。
「これでおしまい?」
 兄のことばに少女は首を横に振ると、まな板に向き合った。
 トマト、キュウリ、キャベツはすでに片付いている。最後に残されたのは、白い球状のモノ。少女にとっての難敵……玉葱だ。
「僕がやろうか」
「一人でできる」
 振り返り/小さく舌を出し、少女は包丁を構えてみせる。
 そして、深呼吸。

 
 

 包丁を動かすこと15回。
 そこで、包丁の音が止む。
「ギブアップ?」
「ギブじゃないもん」即座の否定。
 だが、その瞳は兎のように紅い=目が滲みていた。
 それでも、兄に「一人でできる」と言った手前、少女は包丁を再び動かした……3回だけ。
「ギブアップ?」
 再びの問い掛けに、少女は小さく頷いた。
 目が滲みることに、我慢ができなくなっていた。
「一人で出来るってお兄に言ったのに……」
 うなだれてしまった妹に、腰を落として目線を合わせる少女の兄。
 彼は、少女を抱き寄せると優しく耳元で囁いた。
「今はできなくても、頑張ればいつかきっとできるからな、ティアナ」

 
 
 

(久しぶりに見た……兄さんの夢)
 頬に感じたひやりとした感触。
 ティアナはそっと手を触れてみると、
「……なんでよ」
 涙に濡れた跡が確かにそこにある。
 それが懐かしさによるものなのか、哀しみによるものか彼女はわからない。
(昨日のあいつの言葉が原因よね)
  あいつ――ニコルの言葉は、ティアナの心に己の過去を振り返らせていた。

 
 
 
 

 両親を早くに亡くしたティアナは、兄であるティーダに依存するようになっていた。
 いつも見守ってくれる兄に/頼りがいのある兄に、両親のおぼろげな姿を重ねてしまいながら――。
 少しでも同じことをしたいがために、彼が得意としていた射撃魔法を教えて欲しいと頼みこみ。
 片時も離れたくないと思った時は、こっそりと仕事に出かける兄を追いかけ、迷子になって兄を困らせたことは一度では無く。
 時に強く叱られることがあろうとも。
 周りの友達よりも多くの我慢が強いられる暮らしであろうとも。
 優しくもあり、己を何時も受け入れてくれる兄といる世界が、ティアナは大好きだった。

 

 だからこそ、

 

 兄であるティーダの死を知らされたその日、彼女の世界は崩れ、心の時計は針を進ませることを拒む。
 ――どうして自分の兄だけが死んでしまったのか。
 周りには聞ける相手もおらず、何度も何度も、返ってくることのない答えを自分に問い掛けては気持ちを沈ませていく。
 両親を亡くしたときは、兄がいた。
 だが今は、自分一人。
 パラパラと自分の心が壊れていくことを感じながら――それでもティアナは、兄が死んだことを拒絶し続けるのだった。

 
 
 

「お兄、お兄どこ」
 居間も、玄関も、風呂場も、トイレもさがした。
 それでも、ティアナの兄はどこにもいない。
 「お兄……おに…い……うっ」
 止まることのない、後から後から溢れる涙。
 家具のすべての扉を、引き出しを、まるで自分の兄が、かくれんぼで隠れているかのように開けていった。
 家中を、そして外までをもさがしまわる。

 

 だが結果は……見つからない。
 そしてティアナは、最後に残る兄の部屋の前に立っていた。
 なぜここを最後にしたのか。
 ここにもいなければ、本当に兄がいなくなったと思ってしまうから? それとも……

 

 最後の望みをかけて、ティアナは部屋に足を踏み入れる。
「お兄……いる? いるんだよねっ」
 怯えた子猫のように弱々しく問いかける。
 答えは――静まり返った部屋が教えてくれた。

 

 ぺたり、と床に座り込む。
「お兄はいる。お兄はいる。お兄はいる……」
 壊れたレコードのように繰り返される言葉。
 言い続ける限りはそこに兄がいると信じるように。
 ――自分が認めてしまえば、兄が本当に死んでしまう。
 それはまるで、そんなティアナの最後の抵抗でもあった。

 

 それでも、時が経てば経つほど、ティアナは事実を突き付けられていく。

 

 いないのだ。
 帰ってこないのだ。

 

 口にだして/心の中で、“兄がいる”“兄は帰ってくる”と言い続けたところで、何も変わらない。

 

 それでももう一度と、何日も閉ざしたままだった玄関の扉を開けてティアナが外への一歩を踏み出したその瞬間――いくつものマイクが目の前に突き出されていた。
「妹さんですね。亡くなったお兄さんのことで何か一言」
「お嬢ちゃん、亡くなったお兄さんはいつもどんな人だったのかな」
「今はもしかして一人なのかな」
「亡くなったティーダ一等空尉は」

 

ガンッ

 

 問いかけ/言葉の濁流に、思わずティアナはドアを閉めていた。
 外の世界とこの家を隔離するかのように。外の人間を拒絶するかのように。

 

 それでも、ティアナを呼ぶ声は止まらない。
「何か一言でもいいんです。お兄さんが亡くなったことで。……他に誰かいないのかな」
「ティアナちゃんだよね。お兄さんが亡くなったのは、あなたのお兄さん隊長のせいだと思う?」
 今一番聞きたくない、“兄が死んだ”ということを繰り返し口にする/教えてくれる何人もの報道記者。
 必死に両手で耳を閉じても、その言葉のナイフは両手を擦り抜け、ティアナの幼い心に突き刺さる。

 

 声が止んだのは、偶然だ――ある青年の怒声が喧噪の中に突き刺さる。
「おまえら! あいつの妹に……まだ小さい子供に何言ってんだ」
 震えた声は、青年がそれだけの怒りを滾らせていたからだろう。
 そして、瞬間。ティアナに掛けられていた声が止む。
 ほんの瞬間。
 ほんの瞬間だ。

 

 管理局の制服を纏う青年という新しいターゲットを見つけた彼らは、彼の周りへと殺到。
 ティアナにとって聞いたことのある青年の声でもあったが、ドアを開けてまで確認する力はもう残ってはいない。
 壊れたロボットのように足を引きずるように動かし、兄の寝ていたベッドの上に倒れこむ。
 僅かに残っていた兄の匂いが優しくティアナを包み込み、身体を埋めるようにしてティアナは眠りについていた。大好きなお兄が抱きしめてくれていると思いこみながら……。

 
 

 それでも、目が覚めたときには、ティアナはようやく兄の居ない世界を認めたのだった。

 

 目が覚めても兄がいつも焼いていてくれたトーストの香ばしい匂いがしない。
 「おはよう」と口に出したところで、何の声も帰ってこない広く感じてしまうリビング
 夜寝るときに「おやすみ」と言ってもそれは変わらない。
 朝起きるときも、ご飯を食べるときも、夜寝るときも、何をするにも同じ。
 どんなに否定しようとしても、人の力ではどうしようもない時間の流れが、ティアナに事実を受け入れさせる。

 

 ティーダが死亡してから三日経ったその日、ティアナはなぜかテレビをつけていた。特に見たいものがあるわけでもない。ただ、それは本当に偶然だった。
 ティアナがテーブルに突っ伏したときに落ちたリモコンが、テレビの電源をつけたのだ。

 

 テレビに映し出されていたのは、『第13,14首都航空隊壊滅』『違法魔導師逃走』についての記者会見。
 兄の上官として出演していた男達は、部隊壊滅について息付く暇のない批判に晒されていた。
 やがて会見は進み、隊でただ一人の殉職となったティーダ・ランスターについても取り沙汰され始める。

 

「隊員の一人が亡くなられたことについて何か一言」
「ランスター一等空尉が後続を待たずに勝手な行動をしただけです。言うことはなにもありません」
 度重なる非難の言葉のせいか、上官の男はぞんざいに切り上げた。だが、その程度で記者が質問をやめるはずがない。むしろ今の切り上げかたで、記者の口調が強まった。
「上官として止めるべきではなかったのですか」
「だがらそれは……」
「たった一人残された遺族への補償は」
「あなたの責任を問う声もありますが」
 波状攻撃のように投げかけられていく言葉。
 優秀な(+容姿も優れた)若いエリート魔導師の犠牲/親もおらず、たった一人残された幼い少女――格好の話題となる=数字をとれる悲報。

 

「あなたの指揮能力に問題があったのではないんですか」
 度重なる言葉によって、上官の心の箍(たが)が外される。
「あなたがたは思わないのか! 勝手に追い掛けていったくせに何もできないただの馬鹿だと。彼はただの役立たずだと。無駄死にだと」男は咆哮。拳をテーブルに叩きつけ/侮蔑を込めた瞳で周囲を一望。

 

 刹那、誰もが言葉を失った。
 会見場は冷水を浴びせ掛けられたように静まり――だが、次第にざわめきがそこかしことわき上がる。

 

 一方で、
 ――役立たず役立たず役立たず役立たず役立たず……
 何度もティアナの頭の中で繰り返される男の言葉。

 

 ――そんなことはない。
 依存していたからこそ/いつも一緒にいたからこそ、ティアナは知っている。
 兄の魔導師としての実力を。
 その射撃魔法の腕前を。
 ……時々、兄の友人だという青年が話しては聞かせてくれた言葉をティアナは思い出す。
「精密射撃でティーダの右に出る男はいないぜ、きっと。ランスターの弾丸に撃ち抜けないモノはないってくらいにな。まあ、次は俺だけど」

 

 そう。
(お兄が役立たずなわけない)
 ティアナの瞳に焔が灯る。
 それも、怨嗟とは違う決意の炎。
 兄を無能発言した男を恨むのではなく、兄が無能ではなかったことを認めてみせるために。

 
 

 その後、ティアナはすぐに寮制の魔法学校への転入を決意する。
 兄の魔法は役立たずじゃないことを証明するため、がむしゃらに魔法を勉強する日々。暇な時間ができようとも、歳相応の遊びたい気持ちを堪え、その時間すべてを魔法の勉強に回すのだった。
 ひたすら魔法の勉強をしていたからだろうか、いつの間にか成績は上位グループに食い込むようになり、そして数は少ないけれど友達もできていた。

 

 しかし……いいことばかりというわけにもいかないのが現実なのか。
 突然やってきて成績が上位となれば、当然なってしまう妬みの対象。特に、ティアナは本局の偉い人間のお嬢とは反りが合わなかった。
 片や奨学金娘、片や良家の娘。
 片や独学自習、片やエリート指導の下で。
 故に、必然だったのかもしれない。
 ティアナの成績がその少女よりも上になったとき、事件は生まれた。

 

 成績表を見て、思わず小さくガッツポーズしたティアナに少女が言い放った一言。
「何が凄いのよ。どんなに頑張ってもね、あなたの射撃魔法なんて、あなたのお兄さんとおんなじで役に立つわけがないわ」

 

 刹那。室の気温が凍り付いた。

 

 少女の言葉は、注目を集め始めたティアナへの嫉妬、羨望が生み出した結果。
 親(ちか)しい者の死を知らない少女は、自分の言葉がどれだけの意味を持つかをわかっていない――そう、彼女はただ幼かっただけ。後数年でも人生を過ごしていれば、きっと口にしていなかっただろう。

 

 だが、彼女の放ってしまった言葉はティアナの心に深く突き刺さっている。
 そして、その一言はティアナの起爆装置を作動させるには、十分な威力を持っていた。
 自分のことを侮辱されるのは、まだ耐えられただろう。だが、兄のことを侮辱する者は、誰であろうとティアナは許さない。

 
 

 左手にチリチリとした痺れを残し、ティアナは少女を張り倒していた。

 

 やがて、憤怒と怯えた瞳がぶつかり合うその場所に、騒ぎを聞きつけた教師が駆け付ける。

 

 彼は、室内の有様を確認。直ぐさま、単純明快にティアナ=加害者、少女=被害者と判断し、怪我をさせたティアナに寮での謹慎を命じるのだった。
 ――謹慎とまでになった理由については、少女の親への建前ではないかという憶測が当時は飛び交ったが、それが憶測の域を越えることはない。
 だが、理由はどうであれ、教師達がコトの全貌を捉えずに目に見える表面上の傷にだけ意識を向けて、目に見えない心の傷を知ろうとしなかったことは変えようのない事実。
 そして、謹慎という行為と少女には何もしなかったという行為が少女に過ちを気付かせることを、反省させること阻み、心を歪めさせてしまった。
 ――自分は悪くない。悪いのはティアナ・ランスターだ……と。

 

 学校に戻ったティアナには、どこにも居場所がなくなっていた。
 それは、卒業するまで、ティアナは存在しない者としてクラスの皆から――かつての友達からも扱われるのだった。

 

 友達って、仲間っていうのはそんなものなのかもしれない。誰もが、兄を批難した男たちのように結局は自己保身に走り、信じられるのは自分しかいない。

 

 それが魔法学校在学中にティアナが思ってしまったことである。
 卒業後もそれが変わることはなく、いつの間にか世界をどこか冷めた目で見つめ、他人との間に線を引くという彼女のスタンスは出来上がっていた。

 

 そう……それがティアナ・ランスターという、誰かに頼ることをやめた女の子なのだ。

 
 
 
 

「ランスターさん、大丈夫?」
 タイルに弾ける幾筋もの水の流れを瞳に映すティアナ。
 そんな彼女の耳に、聞き慣れた少女の声が届いた。そして時を同じくして、シャワーの熱を体が感じ始める。
(何また思い出してんのよ、あたしは)
 周囲を視認――シャワールーム。
 思い出す――一日の訓練を終えて汗を流そうとしていたことを。

 

 ニコルの言葉がきっかけとなって、目覚めと共に思い出し、意識し続けてしまった嫌な記憶を今日の疲れと一緒に洗い流そうとしたのだが、むしろ逆効果――記憶の蓋が代わりに流された。

 

「大丈夫よ」
 ――だれかに心配してもらうようなことじゃない。いつものように、一人でなんとかすればいい。
 やや乱暴な物言いになったことを自覚しながらも、スバルにそれだけを言うとティアナはシャワーから上がろうとして、
(……あれ?)
 突如として、目の前のスバルを中心に世界が回り出す。
 踏ん張ろうとしても、体がまるで他人のモノとなってしまったかのように、力が加わらない。
(ちょ、ちょっと!)
 身体から力という力が抜けていき、糸の切れた操り人形のようにティアナは床にへたりこんでしまっていた。
 訓練による疲労+長時間に及ぶ後頭部へのシャワーの熱湯浴びがもたらしたティアナの予定外。
「ラ、ランスターさん?!」
 手をワタワタとさせているスバルを視界に捉えながら、ティアナは意識を手放した。

 
 
 

 目を開けたティアナが見たものは、どこまでも白い――己の心の色とは正反対な天井。
「ここは……」
「保健室だ」
 頭を押さえながら身体を起こし――即座、真横から掛けられる抑揚のない言葉。ティアナにとっては聞き慣れはじめた知り合いの言葉。
「ちなみに今は夕食の時間だ」
 胡散臭げに、「なんであんたがここにいるのよ」
 声の主――イザークの存在に訝しく思うが、
「スバルに頼まれた」
 イザークはそれだけを話すと黙り込む。眉間に刻まれている皺が、彼が若干不機嫌であることを如実に物語っていた。
(なんなのよ……)
 目が覚めたとはいえ、イザークは何も話しかけてこず+刺々しい空気を放出中=居心地は最悪。
 意識が戻らないほうがよかったと思いながら、ティアナはため息を吐きだした。

 

 時間にすれば数分だろうが、数十分は過ぎようかとティアナが思い始めたそのとき、
「……さん、持ちましょうか」
「大丈夫だ。そのかわり、ドアは開けてくれないか」
 廊下からこだましてくる喋り声――聞き慣れたモノ。
 それは、ティアナとイザークのいる部屋の前で止まり、一拍をおいてドアが静かに開けられた。
「よかった、目が覚めてる。ランスターさんが急に倒れたからびっくりしました」
 来訪者――スバルとアスラン。スバルは安堵の表情を浮かべながら、隣のアスランからパンを受け取った。
「悪かったわね。迷惑かけて」
「わたしはいつもランスターさんに迷惑かけてるから、役に立てて良かったです。……それと、晩御飯を持ってきました」
「……ありがとう」
 ティアナがパンを受け取り、瞬間、イザークは立ち上がる。
「イザークはいらないのか」
「貴様と一緒に仲良く食事なんぞごめんだ。それに、俺は甘いものは好かん」
 差し出されたあんパンをベッドの上に払いのけられ、アスランはため息一つ。
 予想はしていたイザークの行動――保健室からの退室を見送りながら、払われたパンへと手を伸ばす。
 やれやれと首を振りながら、開封。かじりつく。

 

 食べないのかと視線で尋ねられ、ティアナも菓子パンの袋に手を掛けて……ふと思い出す。
「あいつが言わなかったからわかんないんだけど、なんであんた達がいたわけ」
 二人が女子シャワー室に立ち入る/覗くような人間ではない。だからこそ、気になっていた。どうして助けられることになったのか/どうしてパートナーでもない相手にここまで手を貸したのか。
 咀嚼していた口を止め、アスランはきょとんとした顔をしたものの、彼女の聞きたいことを理解したのか、ゆっくりと思い出すように話し出す。
「俺は自主練から帰ってきたとこでイザークに絡まれてた」
「絡まれた?」
「勝負を申し込まれていたんだ。それで少し大声で言い合ってたからスバルが俺たちに気付いて……で、スバルに助けを求められたからこうしている、って言えばいいかな」
 勝負ができなかったからイザークは機嫌が悪かったな――とも教えられ、自然とティアナの口は「へ」の字に変化。数分前までの居心地の悪さが理不尽なものだったことによるものだが、
「も、もちろんティアナの裸なんか見てないぞ。俺たちは二人の荷物を運ぶのを手伝っただけだ」
 何を勘違いしたのか、アスランはうろたえる。全力で首を横に振り、詰まりながらも弁明。
「わかってるわよ。もし見てたなら……ぶん殴ってたけど」
 あんパンを取り落とすアスランを一瞥しながらティアナは思う。
 別にアスラン達は、相手が誰であっても助けたのであろうと。
 ティアナにとっては、否定し続けてきた誰かに向ける優しさの行為。
「別に、見てないんでしょ。だったらいいじゃない。それと、ありがとう。悪かったわね、手間掛けさせて」
「いや、問題なくて良かったよ。それに、困っている誰かは放っておけないだろ」
 予想通りのアスランの模範解答に、ティアナはふと思う。こいつならやりかねないと思ったことを聞いてみる。
「あんたって、自分に余裕なくても誰かを助けそうよね」
「どういうことだ?」
「たとえばよ」
 囓っていたメロンパンをアスランの前に突きつけティアナは言った。
「もし、メロンパンが一個しかなくて、そこにお腹を空かせたあたしとあんたが居たらどうするつもり?」
「ティアナにあげるな」考える仕草も見せずに即答。
「じゃあ、どっちもお腹が空きすぎて死にそうだったら?」
「……それでも、ティアナにあげるかな」
 瞳を閉じて考えて――それでもアスランの答えは変わらない。
「本当にお人好しね。それだと、あんたが飢え死にするわよ」
「俺は馬鹿だからな。やりたいいことがあっても……やっぱり目の前で困っている人がいたら放っておけないから」
 苦笑してみせながら――しかし、アスランの言葉は変わらない。
「本当に無茶苦茶ね」
「……かもしれないな」
 己とは対極の思考。そんなアスランの言葉/答え。
 ティアナなら――無論、誰かを助けず己を救う。どうしてもやりたいことが/やらねばならないことがあるが故の選択だ。
 子どもが憧れる正義の味方のように――己よりも誰かを選択するアスランの言葉が/姿がどこかまぶしくて、ティアナは不意に思う。うらやましいと。そんな選択を選ぶことが未だにできるアスランの考え/生き方に。
 瞬間、頭を振っていた/郷愁の念を振り払う。
 ――そんなの無理に決まっている。できるわけがない。
 口を開いて、全力で/ありったけの思いを込めてアスランの言葉を否定しようとして――けれど、「大丈夫じゃないかな。ニコルさんが『アスランが大変なことになっても僕が何とかしてみせますよ』って言ってたから」遠慮がちに――それでも言い切ったスバルの言葉に阻まれる。
「そうなのか?」アスラン――唐突なスバルの告白に驚嘆。自然、次の言葉をうながしていた。
「あたしもランスターさんのパートナーとして、どうしたらいいかなってニコルさんと話したことがあって、アスランさんの話にもなった時に……たしか、『アスランみたいに強くなれる自信はないですけど、目の前の一人くらいなら、アスランだけなら助けられるようになりたい』って言ってました」
「知らなかったな。ニコルがそんなことを思っていたなんて」
「あ……このこと黙っていてほしいって言われてたんだった」
「胸の中にしまっておくよ」
 苦笑――口に手を当て狼狽えるスバルを安心させるようにアスランは頷いた。

 

 瞬間。
ティアナはベッドから腰を上げていた。
「いいお話聞かせてくれてありがとう。けど、あたしは静かにご飯食べたいから後は二人でごゆっくり」
 宣告は、一息に/まくし立てるように吐きだして。
 ティアナは振り返ることなく、ドアへと向かう。
「安静にしていなくても大丈夫か?」
「大丈夫よ。それに、もうすぐ総合発表が掲示される時間だから早く見たいしね」
「じゃあ、あたしも付き合う」
「あんた、そのパン全部アスランに食べさせるつもり?」
 冷めた視線の先、ベッドの上に転がる菓子パン10個ほど。
「あたしはこれだけで足りるから、ちゃんと残さず食べなさいよ」
 語尾は強く――スバルを追い払うかのように言葉を残し、ティアナは保健室を後にした。

 

 数拍。

 

「後、追い掛けたらどうだ」
 無言のまま、閉じられたドアを見続けるスバルにアスランは言った。
「パートナーだから、ってずっと一緒にいる必要はないとは思うが……スバルは仲良くなりたいんだろ?」
「はい」それだけは絶対に/まちがいなく――と告げる翡翠の瞳を見つめ、アスランは言葉を紡ぐ。
「俺たちがさっき助けた理由とおんなじで、そうしたいと思ったら、それをできるような行動をすべきだと思う。もう少し積極的に話してみたりとか……って、わかりにくかったな。今の説明は」
 いつもこうなるんだ、とため息をつくアスランに、スバルは首を横に振る。
「そんなことないです。わかります」
「だったら……」
「けど……それって、強引になっちゃってもいいのかな?」
 問いかける瞳に不安の色を混じらせて。
 そんな揺らいだスバルの自信をアスランは笑って励ました。
「いいんじゃないかな」
「はい!」
「それと……このパンも俺がなんとかするよ」
「あ、それくらいならあたしすぐに食べられます」

 

 数分後、心と体の充足を得たスバルはティアナを追いかけるべく保健室を飛び出していったのだった。