スィーザーラント共和国/歴史

Last-modified: 2020-02-27 (木) 12:45:17

歴史

1500年ごろからこの地域のスィーザー人部族をまとめ上げ"スィーザーラント王国"を建国したヘルマン・イザラートが傭兵産業を確立し、当時すでに騎兵・歩兵・砲兵からなる高度な戦術と大国相手の任務引き受けなどを請け負う"国有軍"を確立していたと考えられる。
スィーザー人傭兵の大々的な使用例として有名な例にグラス=センナニア植民地紛争があげられ、当時から彼らがPMC的な顔を持っていたことがうかがえる。
しかしそんなスィーザーも、1735年のスィーザーラント編入戦争で独立を奪われる。
その後の度重なる蜂起に手をこまねいたグラス公国は「スィーザーラント辺境伯」をスィーザー人から選出することで実効支配をしつつ地域の安定化に取り組むことになる。
その後はグラス公国の構成国。

UGSR(Glass連邦)時代1948年6月UGSRの自治権はく奪に対し、自治区であるカーラニズ(現在のスィーザーラントのスィーザー人居住区付近?で反乱(6月一揆or北西部紛争)
反乱軍はUJSUからの支援を要請し、支援しようとするもUGSRが発見したことにより即座に中止
1949年8月カーラニズ自治州首都ヴェレーンが陥落。
スィーザー人はゲリラ戦術を駆使して損害こそ強いたが虐殺される羽目に(ヴェレーンの血塗られた8月)
1953年6月11日北西部紛争が終結。一部強硬派はゲリラ戦を継続していたが、1960年頃には全て制圧される。
ロマーシャ戦争1971年8月23日UGSR降伏で独立、同じく独立したトルトーリアとロマーシャ地方の領土帰属問題が発生
当時の地図8699e6aad74cc5be872b3528ebd4a5c0.pngロマーシャ地方(緑)b3f76b32a9c43f77969f387761c1f89d.png
1971年9月トルトーリア軍が越境して国境の測量を開始するなどの挑発、スィーザーは対抗し動員開始
1971年12月24日午後7:14:22「スィーザーラントからの銃撃」を口実にトルトーリアがスィーザーラントに宣戦布告(血の聖夜)
スィーザーラント軍はCSFの支援を受けるトルトーリア軍に大苦戦、戦線を後退させ焦土戦術をとる羽目に
ちなみに制空権は拮抗
1972年1月12日トルトーリア軍・ニイタカヤマ作戦
スィーザーラントの有力な都市、バズーラが陥落
1972年1月22日スクウェニアの戦い
スクウェニア・ルーテアが包囲される
1972年2月17日ネーヴィジュアの戦い
スィーザーラント軍総司令官・ミッターマイヤー元帥が狙撃により死亡、臨時的にジャコブ大将が元帥に
ジャコブ元帥は「ゲリラ・アインクライズン戦術」を策定し実行開始
1972年3月1日ヴェレーンの戦い
あらかじめ市郊外の森林へ潜ませたゲリラ部隊が敵補給線に大損害を与え、ヴェレーン市内に侵入してきたトルトーリア軍2個機甲師団を壊滅させT69戦車127両他の鹵獲に成功
しかしトーヴァは陥落
1972年3月28日クスノキ攻防戦
スィーザーラント軍は「VWXゲリラ線」を構築、市から撤退するふりを見せかけて少ない残留領土に敵を誘引、ゲリラで補給線をたたき劣勢になったことを狙うことで戦果を挙げる
1972年4月7日スィーザーラント軍・サイクロプス作戦
スィーザーラント軍は一転攻勢を開始、トーヴァを奪還
1972年4月27日スィーザーラント軍・ウォール・ナジギオテマ作戦
スィーザーラント軍はウォール・ナジギオテマの高速鉄道を使い機動的に支配地を広げる
1972年5月12日トルトーリア軍・二等分作戦
トルトーリア軍はスィーザーラント軍の占領地域の細長い部分を狙い、分断作戦を開始
スィーザーラント軍は鹵獲した戦車などをフル投入して何とか防衛するも作戦に遅延が生じる
1972年5月20日スィーザーラント軍・ルーテア作戦
スィーザーラント軍がスクウェニア・ルーテアの奪還作戦を開始
しかしトルトーリア軍の二等分作戦の時間稼ぎで防衛戦力が整えられておりスィーザーラントは作戦を中止
1972年6月2日スィーザーラント軍・一転攻勢作戦
スィーザーラント軍はすべての戦線で飽和攻撃を実施
唐突な攻勢にトルトーリア軍は混乱、崩壊こそ防いだものの戦線が大幅に後退、逆にトルトラ・ブールを占領される
1972年6月22日終戦交渉
CSFへの対価支払いのための税金徴用に加え農地の不足で配給制を強いていたトルトーリアで大規模デモが発生、
一方のスィーザーラントでも戦争疲弊で休戦の機運が高まって講和会議が実施
1972年8月16日水曜日協定
トルトーリアは白紙講和を望んだが、周辺諸国からの「自分から殴っといてそのざまは何だ」という批判により一部地域を割譲、国境線が現在の物に
トルトーリアは革命戦争が勃発し、長く不安定な時代が続くこととなる
スィーザーラント軍損害
143810人
トルトーリア軍損害
124545人
10月戦争1979年9/13日CSF軍が「トルトーリア政府からの支援要請」を名目に国境侵犯・越境測量を開始しトルトラ人自治4州の割譲を求める
1979年9/15日CSF=SR首脳会談
何の成果も得られず、双方がヘイトを交換して終わる
同日深夜SR、動員開始
1979年10/1日「スィーザーラントは不当に割譲したトルトラ人の土地をトルトーリアへ受け渡すとした我が国に受け渡そうともせず、愚かにも戦争準備を開始した。我が国はトルトーリア人を徴兵の恐怖、スィーザー人の圧政から解放する」
CSF大統領はこう述べてSRへ宣戦布告(10月戦争)
双方戦力
CSF軍
歩兵師団74師団
機甲師団4師団
機械化歩兵師団6師団
兵員 1,200,000名
MBT 2,000両
APC 3,200両
SR軍
歩兵師団24師団
機甲師団2師団
機械化師団4師団
ゲリラ兵10師団
兵員(歩兵) 288,000名
ゲリラ兵 70,000名
戦車 700両
APC 900両
1979年10/3日スクウェニア・ルーテアの戦い
SR軍機械化師団は敗走(したふり)で領土内に敵軍を誘引、また国境沿いにゲリラを潜伏、10月18日より行動開始
1979年10月31日バズーラ防衛戦
破竹の勢いで進撃するCSF軍だったが、ゲリラ攻撃による補給物資の慢性的な不足で士気が低下しており
大量突撃戦術を生かすことができずにバズーラの攻略に失敗
1979年12月11日ノルランドの戦い
SR軍は一転攻勢を開始
1か月間物資不足が続いたCSF軍内では混乱が生じ、そこへの攻撃開始でなすすべなく崩壊
敗走したCSF軍の物資はほとんどSR軍が鹵獲しており、今でも運用されている
1980年1月1日CSF軍がスィーザーラント領内から追い出される
国境沿いの町はCSFの焦土戦術にあっており、SRは拉致被害者の返還や物資の賠償を今でも求めている
1980年4月3日CSFとSRは国境でにらみ合いを続けていたが白紙講和に成功
スィーザーラント損害
ゲリラ兵 約20,430人
その他人員 約10,000人
戦車 約90両
APC 100両
戦闘機 10機
攻撃機 24機
ヘリコプター 6機
※SR軍は戦車121両,APC162両を鹵獲している
中欧州連邦損害
人員 約55,000人
戦車 180両(被鹵獲含む)
APC 334両(被鹵獲含む)
戦闘機 11機
攻撃機 27機
ヘリコプター 9機