セルゲイ・ウラジミーロヴィチ・ハリコフ Сeргeй Владимирoвич Халикoв Sergey Vladimirovich Halikov | |
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ミリハニ市共産党委員会住宅供給担当委員 | |
任期 1951年3月15日~1952年3月5日 | |
タスール市共産党委員会第一書記 | |
任期 1952年3月15日~1954年2月7日 | |
人民議会代議員 | |
任期 1954年8月1日~1999年7月21日 | |
ナジンスカヤ州共産党中央委員会書記 | |
任期 1954年3月8日~1957年1月21日 | |
国家評議会評議員 | |
任期 1957年8月17日~1995年10月19日 | |
全国共産党中央委員会委員 | |
任期 1957年1月7日~1995年10月19日 | |
サマルア共産党書記 | |
任期 1958年3月15日~1959年11月27日 | |
チェルケー州共産党書記 | |
任期 1959年12月1日~1961年3月5日 | |
共産党政治局員 | |
任期 1961年3月15日~1995年10月19日 | |
国家評議会副議長 | |
任期 1963年5月6日~1966年7月27日 | |
人民議会議長 | |
任期 1966年8月1日~1969年7月21日 | |
国家評議会議長 | |
任期 1968年11月19日~1995年4月25日 前任者 ザハール・キリ―ロヴィチ・ナザロフ 後任者 ヴァシリー・アレクサンドロヴィチ・ノルシュテイン | |
軽工業評議会議長*1 | |
任期 1995年4月26日~1995年7月11日 | |
生誕 | 1910年7月18日 大公国・ペトロツク |
死没 | 2001年9月6日 評議会人民共和国 ペンザ州ネフスコイ |
墓地 | 評議会人民共和国・ストリーチナ特別市 革命表彰墓地 |
政党 | 評議会共産党 |
出身校 | ペトロツク レスキン名称五ヶ年計画ノヴォペトロツク機械学校 ストリーチナ特別市 労働英雄マノヒン名称ユジノノイシェフカ冶金大学 |
宗教 | 無神論 |
兵役経験 | |
所属国 | 評議会人民共和国 |
所属組織 | 赤軍 |
軍歴 | 1940年10月~1945年9月 |
最終階級 | 連隊政治委員 |
受賞 | 共和国英雄(1971年) 共和国労働英雄(1971年) 人民軍功労メダル2級 人民軍勤続メダル4級 セーニン軍務勲章2級 |
経歴
国家評議会議長(1968~1995)。旧ベルへスト王国ペトロツクの生まれ。父は金属工場の労働者で彼も15歳になると金属工場に勤務した。初等教育しか受けていなかったが勤務態度及び思想が模範的だったため21歳でコムソモールへの入団を許可される。これにより党の方針で中等教育を受けることになり、1932年から1935年、22歳から25歳までペトロツクの工業学校に在学し、卒業後はサマルアに送り込まれて鉄道建設に従事した。1937年、27歳の時から1940年まで首都の冶金大学で学ぶ。卒業すると同時に共産党に入党し、人民軍に入隊して第15サマルア騎兵連隊の大隊政治委員となる。
1941年、第一次ゲラノド戦争下のUGSRへの派遣に備えてペンザ州に出動。1945年に連隊政治委員の役職で除隊、ミリハニ市で製鉄技師として勤務したのち1951年に同地の共産党委員会で都市計画に関わり、1952年にタスール市共産党委員会第一書記。1954年に人民議会代議員に選出されナジンスカヤ州共産党中央委員会書記に就任した。1957年、国家評議会評議員並びに共産党中央委員会委員。1958年以降はサマルア共和国、チェルケー州などの共産党中央委員会書記を歴任し1961年、共産党政治局入り。1963年、国家評議会副議長。1966年、人民議会議長。
1968年、中央入りして以来の努力により党を掌握していた彼は前任のザハール・ナザロフが死去すると葬儀委員を務め、人民議会での全会一致により国家評議会議長に就任、若き聡明な指導者として歓迎された。彼は”三大自立”を掲げ、“経済の自立”、“食糧の自立”、“資源の自立”の三大自立路線が掲げられ集団農場の近代化、国営企業の近代化、国内の資源開発を推進することでUGSRへの経済的依存の軽減を図り、折しも硝子戦争が勃発したことにより脱グラス化が急速に進行、さらに硝子戦争を利用してツーラの旧領を回復し就任してすぐに大きな功績をあげたことから党・人民の両方から人気が高かった。共和国の産業はUGSRが消滅した後の国際市場の隙間にうまく入り込んで輸出で大きな成果を挙げ、共和国経済はかつてない好調となった。ソヴィエト経済の黄金期は1980年代まで続くが軍事費の増大、旧UGSR諸国の経済発展、技術での立ち遅れによる競争力の低下により赤字が増大、産業構造の非効率性も浮き彫りになり80年代の末から好調な経済に陰りが見えた。当時ハリコフは高齢のため後進の若い幹部に仕事を任せるようになっており、彼らは新型のVRTPESを開発したり産業系の官公庁を整理して管理体制を見直す、流通体制に市場経済を取り入れ自由化するなど改革を図っていたが保守的な指導部によりそれらの策は徹底されないでいた。しかし1994年、エスティオでの政情不安定を察知すると工作によりエスティオを動けなくしつつサレヒローニアに侵攻して膨大な石油資源を入手することで貿易赤字を改善することを図りサレヒローニア侵攻を決定、湾岸戦争を引き起こす。エスティオでは予期されたクーデターは発生しなかったものの即座に反応を取らなかったため成功したかに見えたがサレヒローニアに現地政権の樹立を宣言したと途端にエスティオが来襲、人民軍は潰走し首都に敵が迫ったため改革派により敗北の責任を取らされて辞任させられた。その後は数か月だけ軽工業評議会議長を務めていたがそれも辞任、年金生活に入った。2001年に首都で死去。