評議会人民共和国

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基本情報

評議会人民共和国
Советская Народная Республик
Sovetskaya Narodnaya Respublik
People's Republic of Councils
-目次-
国旗soviet.jpg
現状の構成soviet.jpgペンザ州
soviet.jpgベルへスト州
soviet.jpgバレンツク州
soviet.jpgナジンスカヤ州
soviet.jpgチェルケー州
Tula.jpgツーラ自治ソヴィエト共和国
Samalua.jpgサマルア自治共和国
romasha.jpgロマーシャ自治共和国
国家変遷taikokoku.jpg大公国(962~1912)

soviet.jpg評議会人民共和国(1913~2020)

民主エルステア(2020~)
サマルア共和国(2020~)
ベルへスト連邦共和国(2023~)
Tula.jpgツーラソヴィエト共和国(2022)
政治体制社会主義,一党独裁制,連邦制
国家評議会議長*1パーヴェル・ボリーソヴィチ・ツィービン
人民議会議長*2ヴィクトル・ヴァシリエヴィチ・パヴァーロフ
共産党書記長エゴール・マルティノヴィチ・リヴィンスキー
公用語エルステア語*3
ベルへスト語*4
ツーラ語*5
サマルア語*6
与党139.jpg共産党
首都ストリーチナ特別市
最大都市ストリーチナ特別市
貨幣共和国ルーブル
建国日大公国革命
1912年2月15日
“ソヴィエト共和国”建国宣言
1913年11月7日
人口131,556,127人(1915)
185,675,871人(1971)
219,861,705人(1994)
127,981,231(現在,民主エルステア)
国歌国際労働歌*7(1913~1954)
ソヴィエト共和国国歌(1954~)
国の標語Угнетенные, объединяйтесь со штыками в руках!
(虐げられたる者よ、銃剣を手に集え!)

概要

評議会人民共和国(エルステア語:Советская Народная Республик、三光語:People’s Republic of Councils)は、トーラサズ大陸西部に存在する社会主義国家である。略称はSNR。1913年11月7日から2020年まで存在した急進ゲラノド主義、評議会社会主義を掲げた一党独裁制の連邦共和国であり、複数の州・自治共和国から構成された。首都はストリーチナ。1913年の建国以来世界初の社会主義国家として計画経済を堅持し続け、グラス=ゲラノド連邦の庇護下で目覚ましい発展を遂げて自国で衛星打ち上げ能力を保有するまでになった。1970年代から湾岸戦争に至るまでグラス連邦の影響下を脱した独自路線を保ち続け、国際的には孤立しつつも北西トーラサズの国際政治に大きな影響を及ぼし、外交的な孤立と周辺国の国力の高さのため地域大国とはなりえなかったが一時期は北西トーラサズにおいて有数の国力を誇り、硝子戦争後に自由化した旧グラス連邦諸国に脅威を与え続けた。湾岸戦争後は財政破綻による深刻な経済難により国内の流通はほぼ崩壊したものの経済自由化を行い外資を導入することで立て直し、徐々に湾岸戦争以前の水準に回復しつつあったが2020年の民主化運動により連邦共和国体制が崩壊し、1世紀以上に及ぶ歴史に幕を閉じることとなった。

名称

エルステア語における正式名称はСоветская Народний Республик。通常SNRと略されるが、単にソヴィエト(評議会)と呼ばれることも多い。Сoвeтは会議、あるいは評議会を意味し、この国における権力組織あるいは自治組織であるソヴィエトを指す。世界的に稀有な、固有名詞を全く含まない国名である。
三光語では公式にはPeople’s Republic of Councilsとされており、評議会による人民共和国であることを表している。しかし国外では直接的にSoviet People's Republicと呼ばれることがある。

国旗

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1915年に定められた国旗。
大きな変更なく2020年まで使用された。
1932年に定められた国籍旗。
共和国に所属するすべての船舶が掲揚し、軍艦はこれに加えて海軍旗を掲揚する。

金の槌と銃剣、および五芒星と国名の略称を表示した赤旗である。赤は解放に向かい社会主義を建設する労働者人民の闘争と団結を、五芒星は共産主義を先導する五つの社会集団(青年、兵士、産業労働者、農業労働者、インテリゲンチャ)を、槌と銃剣は労働者と兵士の絶えざる団結を表す。1915年の全共和国中央委員会による公布においては次の通り定められている。

ソヴィエト人民共和国の国旗は幅に対する高さの比が2:1の、赤ないし緋色の矩形である。中央に槌と銃剣を配し、その高さは旗の1/2とする。その上には、旗の中心に対して左右が対称になるように旗の1/5の高さの、金色の縁取りを持つ赤い星を配する。その下には、旗の1/5の高さで、旗の中心に対して左右が対称になるように金色のアルファベットで国名の略称を表記する。五芒星、槌と銃剣、文字、および旗の上下の間隔は、それぞれ旗の高さの1/40とする。

1978年には、裏面に限って国名の略称である「С.Н.Р.」の文字が無いように変更された。*8

国籍旗は共和国に所属するすべての船舶が掲揚するものとして1932年に定められた。中心に国章、それを囲む五芒星、そして五芒星を挟むように中央に黄色いラインが入ったデザインであり、縦横の比は国旗と同一である。国籍旗は夕暮時に赤旗が視認しにくくなるためデザインされたとされており、軍艦を含めたすべての外洋船と一定以上の大きさの内航船によって掲揚されていた。軍艦はそれまで国旗を軍艦旗として掲揚していたが1932年に軍艦旗も定められ、艦首に国籍旗、艦尾に軍艦旗を掲揚することとされた。戦時にはマストに軍艦旗を掲揚する。1950年代には民間航空の発達とともに国際的な航空輸送が行われるようになったためアエロフロート機も国籍章だけでなく船舶に倣って尾翼に国籍旗を描くようになった。*9

歴史

大公国革命

評議会人民共和国の前身である大公国では1911年の暮れからインフレによる労働者の生活苦のため首都において暴動およびストライキが続いていたが、1912年2月の暴動で近衛兵が襲撃されたことをきっかけに陸軍が反乱を起こしたことで革命が勃発した。当時の大公国は厳格な身分社会であり、平民と貴族などの特権階級の間には明確な待遇の差があった。軍隊では平民である下士官兵たちが貴族である将校に抑圧されており、体罰が横行していて、兵士たちは召使のように将校のために雑務を行わねばならず、将校たちは兵士を人間扱いせずに鞭で叩いていたと言われている。また、同じ兵士でも近衛兵は特権階級に属しており、彼らは陸軍の兵士たちを“百姓”と見下していた。このため暴動の警備に駆り出されていた陸軍の一般兵たちは庶民に同情的であり、近衛兵襲撃の報復として暴徒に対する攻撃を命じられたいくつかの中隊の兵士たちは抗命して将校を拘束し、暴徒との連帯を表明したのである。これを知った社会主義者や民主主義者からなる革命派はその日のうちに行動を起こし、民衆や兵士たちを扇動して大公国政府を転覆した。夜には第6サマルア歩兵連隊の野砲2門の砲撃を合図に、大公宮殿に立てこもる近衛兵との銃撃戦*10の末大公宮殿を占領した。翌朝に大公国の消滅と臨時政府の設置が宣言され、一般的にはこの宣言が行われた2月15日が革命記念日とされている。

革命戦争

大公国革命により大公国政府は消滅したが、大公国そのものは完全に消滅したわけではなかった。国内には有力な公*11が残っており、また大公の家族は第二公子マクシム*12を除いて革命の際に国外に逃亡していた*13。このうち大公ニコライ3世が亡命先のトーラ帝国において死亡した*14のは良く知られているが、第一公子アレクサンドルは早くも大公家復権のために活発に活動していた。当時の陸軍大臣であったミリノ公アナトリー・アンドレ―エヴィチ・ユーゴはツーラで陸軍50万を率いて首都進攻を目論んでおり、ニフゴロド公エゴール・マルクヴィチ・ゴリツィン*15は反革命派の資金となり得る彼の莫大な資産を持ってエルヴァーサに逃亡していた。さらに、周囲の国家は全て君主制国家であり彼らは革命の波及を警戒していた。
革命派はまず全国の反乱軍を組織化することに取り掛かった。革命後には各地で革命家たちが労働者や農民、兵士の評議会を組織していた。首都労兵評議会では6月から7月にかけて“禿げ頭のウラジミール*16”として知られる革命家が主導権を握り、彼はブルジョワ反革命派と国外の帝国主義者に対する団結のために全国の評議会から代表者を招集し全国評議会を開いた。その日は1912年9月1日であり、現在は人民議会記念日として祝日になっている。さらにウラジミールは中央革命委員として8月24日に赤軍の編成を命じており、これが現在のソヴィエト人民軍の建軍の日とされている。さらにウラジーミルは革命戦争のためであれば如何なる物資の徴発も許容される戦時社会主義体制を導入するなど反革命との戦いへの備えを整えていた。
対する反革命派の活動は当初不活発だった。周辺諸国では一時的な内乱と考えられており、大公国以外に波及することは無く、大公国自身が対処可能であると考えられていた。事実、50万人に及ぶユーゴの大公国陸軍や、サマルア共和国*17およびベルへスト王国*18といった反革命勢力が革命派を席巻しつつあったのである。特にユーゴの軍は雨季に入る前に首都を攻略することを目標に3月から攻勢に入っており、雨期に入った6月の時点で首都ストリーチナを5キロ先に臨む位置まで前進していた。革命派は貴族である将校をすべて解任したため深刻な将校不足に陥っており、また部隊が兵士評議会における賛成が無い限り命令を遂行できない非効率な戦闘態勢のためにユーゴ軍に対する組織的な抵抗が困難だった。ユーゴ軍と主に相対していた首都評議会の無策に憤慨した“禿げ頭のウラジミール”はそれまでの革命家たちを糾弾し、「革命戦争においては全てより勝利が優先される」として独裁体制に近い戦時社会主義体制を導入した。彼は革命軍の組織化に取り掛かり、また旧大公国軍の将校たちを積極的に登用した。その結果8月24日に赤軍が創設されたのは述べたとおりである。さらに9月1日から開かれた全国評議会で各地の労兵評議会の大半を指導下に収めることに成功した。このため、乱立していた党派を統合するために10月7日に共産党が創立された。
軍隊としての体裁を整えた赤軍は反撃に転じ、8月にはすでにユーゴ軍を首都正面から撃退していた。さらに12月にサマルア共和国でクーデターが発生して社会主義政権が誕生し、全国評議会に合流したため赤軍はサマルアの有力な戦闘部隊を利用することが可能になった。1913年に入るとユーゴ軍は兵士の支持も失って完全に勢いを失い、A.A.ユーゴはグラス連合に援助を求めた。また、この頃にはベルへスト王国と赤軍の戦いが激化しつつあり、ここに至って周辺諸国は革命の波及を防ぐための介入を決めた。

評議会人民共和国の成立

1913年1月よりグラス連合軍がツーラに侵入した。当時世界で最も強力な陸軍であるグラス陸軍の前に赤軍はなすすべもなく、奮戦したものの後退を続けた。赤軍は士気旺盛だったものの大公国軍の旧式兵器を引き継いでいたため装備で劣っており、また将校は実戦経験はあったものの部隊を指揮統制する能力が低かった。また、赤軍は食料が不足しがちでありしばしば農村から徴発を行っていた。このため、よく統制され、最新の武器で武装し、潤沢な補給を受けた正規軍相手にはまるで敵わなかったのである。グラス軍は順調に南進を続け、2ヶ月が経った3月にはストリーチナに入城すると見られていた。しかしグラス軍は首都から100キロメートル程度の位置で停止し、一方的に停戦を宣言した。当時グラスはブルジョワ階層を中心とする民主化運動の只中にあり、介入する理由は私有財産を否定し専制体制を許容する共産主義の侵入を食い止めるためであったが、実際には大公国の工業力の半分を担っていたミリノ公領の産業を収奪するためであったと考えられている。
赤軍はグラス軍に反撃する能力はなく、この侵略を受け入れる外なかった。しかしこの停戦は赤軍にベルへストに兵力を集める余裕をもたらすこととなった。グラス軍の正面にあった部隊をベルへスト方面に再配置すると赤軍は強力に攻勢を仕掛けた。ベルへスト軍は三光騎士帝国などから援助を受けており、最新の武器で武装していたが旧大公国軍の旧弊な体質を受け継いでおり、兵士たちの士気は低かった。有能な将校と優れた装備のためにベルへスト王国は赤軍に対して良く抵抗したが、国内でも革命運動が盛んになっており徐々に追い詰められていった。1913年11月には首都であるヴェロヌが陥落し、その月の7日*19にヴェロヌの旧王宮で評議会人民共和国の建国宣言が行われた。1914年2月にベルへスト王国は完全に消滅して旧首脳部は国外逃亡し、ここに一連の革命戦争が一応完結したのである。

戦時からの回復

ようやく平和を得た評議会人民共和国を襲ったのは経済難であった。戦争のための総動員を許容する戦時社会主義体制により国土は大きく疲弊しており、さらに工業生産の半分を担っていたツーラを失ったことにより工業生産力は革命前の1/8、農業生産力は1/2に落ち込んでいた。また、大公国政府の消滅により大公国ルーブルは信用を失っていたため深刻なインフレに陥っており、革命政府は新しい通貨を発行する必要に迫られていた。これらの問題を解決するために革命政府は資金を必要としていたが、大公国時代には銀行預金残高の半分以上が貴族と資本家階層の資産であり、革命によりそれらの大半が銀*20として国外に持ち出されていた。このため国内の銀は払底しており、新しい紙幣の発行は困難だった。苦肉の策として大公国ルーブルとの兌換を保証した最初の共和国ルーブルが発行された。交換率は1:1であったが大公国ルーブルの価値が低かったこともあり、通貨流通量の増加による更なるインフレを招く結果となった。
このため、革命政府は革命後しばらくは自由経済を導入しなければならなかった。民間経済を活発化させることによって生産力は徐々に回復し、またインフレも次第に落ち着いて行った。1915年には共和国基本法が制定されて評議会人民共和国が国家として確立し、最高指導部である人民委員会*21の委員長*22には革命中指導力を発揮し続けたウラジミールが選ばれた。折しも隣国であるグラスは内戦に突入しており、これを機に革命の世界的な波及を図るべきだと言う声も強かったが、またソヴィエトにそれを行う国力が無いことも明らかであった。ウラジミールは革命の拡大を否定し、今後10年間は赤軍と共和国に自衛以外の戦闘を禁じる声明を発表した。このことは自由経済の導入と併せてウラジミールに対する反発を招き、彼は1919年に党内左派により暗殺された。
跡を継いで人民委員会委員長に就任したのは党政治局長であったマトチキンと言う男だった。マトチキンは計画経済への移行を断行し、またウラジミールによる革命不拡大方針を維持した。この頃にはグラス内戦が終結しており、また1916年から1917年にかけて飢饉が発生したことから内政に注力することの重要性が改めて認識されていた。すでに生産力は革命前の水準に回復しており、さらに成長する段階に至っていたのである。

計画経済の導入

第一次五ヶ年計画は1921年から行われた。五ヶ年計画は順調に進行し第一次では無事に目標を達成、生産力は1926年の時点で1921年の二倍以上に達した。1922年には共和国基本法が制定されて現在と同様のサマルア自治共和国と5州が置かれた。第二次五ヶ年計画も一応目標を達成し、1931年には共和国ルーブルが銀本位制から金本位制に切り替えられた。この成功によりSNRは北西トーラサズにおいて周辺諸国に対抗できるだけの国力を確保し、社会主義体制をより確固たるものとすることができた。
この時期は新しい社会の建設に向けて様々な社会実験が行われており、農場の集団化や工場における労働者の自主管理制度の導入、国内に居住するあらゆる児童へ教育を提供する試みなど、後世にその成果を残したもののあれば、人民食堂*23など失敗したものもあった。また、1923年から1928年にかけて全国的に実施された農場集団化は富農層の排除と貧農層の救済が狙いで、富農から財産を没収しそれを貧農層で集団農場を組織して共同所有とすることにより富の再分配を図り、さらにブルジョワであり階級の敵である富農を政府の監視下に置き社会主義教育を施して国家のために再利用することが考えられていた。
しかしこの施策は富農に近い中農の上層に脅威感を植え付け、また個人農場が没収される可能性があったため中農たちは作物を焼き、家畜を殺して自ら貧農となり集団農場に組み込まれることを選んだ。これにより1930年には深刻な飢饉に陥り、マトチキンは同年の第19回党大会で自己批判を余儀なくされた。二次に渡る五ヶ年計画における驚異的な発展によりマトチキンは党内で強力な権力を握ることとなったものの、多くの失政が重なったために*24すでに彼の権力の座は崩れ落ちようとしていた。折しも隣のグラス連合ではゲラノド主義革命が進行しており介入に対する消極的姿勢が批判されていた。さらにマトチキンはウラジミールを暗殺して権力を得たと噂されており、1932年5月の国際労働者行進に出席した直後に国家反逆罪の疑いで逮捕、銃殺された。
後に代わって人民委員会委員長となったのは内務人民委員だったザハール・キリ―ロヴィチ・ナザロフで、彼の下で綱紀粛正と失政の隠ぺいが図られ、50万とも言われる人間が粛清された。尤も第三次五ヶ年計画はそれまでの計画で過大なリターンを見込んで多額に投資したために資金不足に陥ったため振るわず、ノルマを達成することに失敗した。生産設備が旧式化・老朽化しており、そのために生産効率が上がらなかったことが一因と言われている。

グラス連邦の成立

1930年代、当時列強に名を連ねていたグラス連合はゲラノド主義革命によりグラス・ゲラノド連邦となった。このことはゲラノド主義国家に大きな影響を与えることになった。それまで世界最大の軍事力と工業力を有していた国家がゲラノド主義陣営に加わったのである。グラス連邦の支援により発展途上だったゲラノド主義諸国の技術・工業力が世界最高水準に引き上げられ、その後の生存力を与えることとなった。SNRでも第四次五ヶ年計画からグラスの援助を得られることになり、成果は目に見えて上がるようになった。ナザロフは第三次計画の失敗を“マトチキン体制の悪影響が残っていたため”と説明して前任者に責任転嫁し、マトチキン時代よりも大きく成長した成果を享受して党内での評価を大きく高めた。生産性の改善によりそれぞれの産業部門は採算を出せるようになっており、共和国は財政面でも成長しつつあった。
これらの成功による財政的余裕を背景に1946年の第六次五ヶ年計画では1952年の革命40周年に向けて様々な記念事業を行うことが予定された。具体的には大公国時代の建物を未だに利用していた官庁街の建て替え*25、主要都市の市街地の整備*26、住宅建設の促進*27、就学率100%達成*28であった。これらの記念事業は1950年代におおむね完成し、併せてインフラ整備が行われたためそれまで貧弱だった輸送体制が補強され、工業化を加速することとなった。この時代に建設されたインフラはその後50年以上にわたり共和国の発展を支えることとなった。1940年代から1950年代にかけてはルーブルの価値は上昇し続け、物価は相対的に低下し、実質賃金は大きく上昇し続けていた。田舎の発展途上国だったSNRが先進国の仲間入りした時期である。厳格な統治で共和国の発展を指導し続けたナザロフは1968年に死去し、急速に頭角を現していたセルゲイ・ハリコフが後継者となった。

革命記念事業

先ず官庁街においては大公宮殿をそのまま使用していた旧国家評議会庁舎*29を1950年に爆破解体し、1952年には大きなガラス窓が特徴の、軽快な近代建築である新ソヴィエト宮殿*30が建設された。市街地整備事業に基づきナザロフカと呼ばれた5階建てのプレハブアパート*31が大量に建設され、またストリーチナやペンザ、ヴェロヌなどの主要都市の中心部には広い緑地を備えた革命公園が整備されて都市の景観が改良された。また、この時代にグラスからの技術供与によりテルニヤ自動車・トラクター人民公社*32で開発されたTATカーと通称されるバス・路面電車の普及により、市街地整備に伴う軌道や道路の整備により公共交通網が急速に充実しつつあった。TAT電車は軽量で高性能*33なためそれまでの電車と比較して高頻度な運転を可能とした。
前述のプレハブ工法を利用して各地で急ピッチで学校の建設が進められ、また僻地に居住しており居住地に学校を建設することが難しい児童の送迎のために大量の資源が費やされた。山奥の一軒家で子供が1人しかいなかろうが、自動車や航空機を利用して遠く離れた学校まで送迎するのである。このような国策輸送を担うために1947年に人民航空*34が設立された。それまで同種の路線を委託されていたアエロフロートは公共輸送に専念することになり、人民航空は国策による地域路線や貨物輸送*35を行うこととされた。
これらの施策により革命40周年である1952年には外務省などを除き、共産党本部など大公国以前からの建物だった官庁街の庁舎の8割が建て替えられ、住宅の供給量は倍増し、全国でバスと路面電車はおよそ800系統が新設された。就学率は、通学インフラの整備が追い付かないため9割超に留まったが所定の目標は殆ど達成された形となり、1957年にはついに100%に達した。それ以外にも第6次五ヶ年計画で国道48路線5000㎞と鉄道2700㎞が建設され、1960年までに電気の普及率はほぼ100%に達していた。
1963年にはグラスの技術供与を受けて革命50周年記念として人工衛星“ズヴェズダ”が軌道に乗せられた。これにより、SNRは7番目の衛星打ち上げ国となった。

サマルア開拓

サマルア自治共和国は深いジャングルに覆われており、それまでまったく開発が進んでいなかった。しかし高温多湿の気候のため、穀物やゴム、砂糖の供給地となることが期待された。またすぐ南に面するリノード湾は石油資源が豊富なことからサマルアには豊富なエネルギー資源が眠っていると考えられ、それらの獲得のためにナザロフ政権末期からサマルア開拓事業が始まった。1966年から1979年にかけてのべ380万人がサマルア自治共和国に動員され、30万の人口が移転し、数十箇所の油井と30万平方キロメートルの農地が開発された。これにより1970年代後半にはサマルア共和国は人民共和国の石油生産の半分以上、天然ゴム生産の7割を担うまでとなった。その一方で過酷な環境下でサマルア人民も含め170万人が命を落とし、その多くは熱帯林の中に多数建設された労働キャンプに収容されていた政治犯や重犯罪者だった。労働キャンプでは常にあらゆる生活物資が不足し、酷暑が身体を蝕み、多くの人間が疫病の犠牲になったのである。労働キャンプは、害獣が充満し植物が強力な障害となる未開拓の密林に囲まれていて時として柵で囲まれることさえ無かった。脱走しても樹海を突破することは困難だったためである。また一般労働者や入植者も疫病により少なくない犠牲者を出し、建設した農地も度々水害に見舞われて収量が年々低下し、食糧生産増大という目的を達成できたとは言い難かった。

自立路線と繁栄の時代

ハリコフは、すでに共和国は十分に発展していると判断してグラスからの経済的自立を目指した。折しもグラス連邦は国内の混乱が広がりつつあり、国家の崩壊さえ予想されていた。果たしてその予想は現実になり、1969年に硝子戦争が勃発してグラス連邦がゲラノド世界の盟主として君臨する時代は終わりを告げた。それはもはやグラス連邦からは一切の援助がもたらされないことを意味していた。自立を目指すどころか余儀なくされたのである。SNRが自分の手で為した最初の事は、1971年に人民軍で以てして1913年の革命戦争でグラス連合に奪われたツーラを奪還することであった。
ハリコフの自立路線の骨子は三つだった。すなわち、“経済の自立”、“食糧の自立”、“資源の自立”である。第一に、経済の自立のためにハリコフは国内の流通体制の効率化を指示した。これは生産管理・事務システムと統合され、VRTPES*36として大成した。食糧の自立のためにナザロフ政権から引き続きサマルアの開拓が進められ、また既存の農場における設備や栽培の改良が行われた。これらの施策により1970年から1990年にかけて穀物生産は1.8倍に増加した。資源の自立のためには同じくサマルアにおける資源開発が進められた。サマルアで得られたゴムや石油などの資源は貴重な外貨獲得手段となり、サマルアはハリコフ政権にとって命綱と言えた。そのため、ハリコフ政権はサマルアにおける独立運動をを抑え、サマルア人をソヴィエト市民と同化させることに注力し、そのために開拓を名目として国内の他の地域からの移民を行った。
1970年代から1980年代にかけてはSNRの経済が最も安定し、最も隆盛を誇っていた時期であると認識されている。事実、ハリコフ政権下を通して比較的リーズナブルな銘柄のウォッカである“リトフスカヤ”が常に5ルーブルであったように物価はほぼ変動しないどころか食肉などは下がり続け、賃金は20年で倍加したためその分人民生活は豊かになった。技術開発に投入する十分な資金があったため工業製品はなんとか国際競争力を保つことができており、また1962年に設立された国際貿易経済会議*37の恩恵をたっぷりと受けていたためこの時期は史上最大の貿易黒字を記録していた。
しかしハリコフ政権末期の80年代にはほころびが見え始めていた。技術投資、軍事への投資を優先したため、設備投資がおろそかになり、そのために設備が老朽化して生産効率が低下していた。また、労働モラルの崩壊が深刻で、労働者による銀蠅が横行していた。というのも、生産高は確かに多かったものの輸送体制の非効率により、遅配や破損、紛失などで生産物の大部分が輸送段階で消費できない状態になっており、実際に消費者に届く物資は需要に対して不足していたのである。このため90年代には全国で国営商店の前の行列が一般的な光景となっていた。小売部門は労働者の待遇が悪かったため特にモラルが無く、商品をぞんざいに保管したために販売できたはずの商品を台無しにしてしまうことが多々あった。これらによる経済的損失は統計の取り方によって異なるが最大でGDPの3割に達していたと言われている。

湾岸戦争

第15次五ヶ年計画の予想に反して1992年は凶作となり、深刻な穀物の不足に陥ったためソヴィエト政府は3000万トンに及ぶ穀物の輸入を余儀なくされた。“大穀物強盗”と称されたこの緊急買い付けは世界市場における穀物価格を吊り上げたため食糧輸入国の経済を直撃したが、それ以上にソヴィエト政府の財政を直撃した。この買い付けのための支出は30億ルーブルに及び、当時の国家予算の30%に及んだばかりか工業近代化のために外国企業に支払う予定だった外貨を使い果たす事態となった。速やかに収入を補強する必要に迫られたため、産油国として有名だった隣国のサレヒローニアに侵攻して石油資源を奪取することが最善とされ、1994年9月に侵攻に踏み切った。リ・ノード湾岸が発端であるため、一連の戦争は湾岸戦争と呼称される*38。仮想敵国であるエスティオ連邦はエネルギーの一部をサレヒローニアに依存していたため反発する可能性が高かったが、当時政治的混乱が激しかったため問題は無いとみられていた。
サレヒローニアの占領は滞りなく行われ、1994年11月にはおおむね完了したが同月にエスティオがツーラに攻撃を仕掛け、人民軍を圧倒した。人民軍は装備や練度で優位に立っているエスティオ軍に苦戦し首都目前まで迫られたもののエスティオ本国でのクーデターのためエスティオ軍の攻撃が停止し、さらに雨季の洪水を利用してエスティオに反撃し国境線まで押し返すことに成功、逆侵攻の可能性さえあったものの失敗し戦線は開戦前の国境付近で膠着した。最終的に両者痛み分けとして旧国境に復元し、サレヒローニアから撤退することとして1998年2月に講和した。

新規立て直し(ペレストロイカ)

湾岸戦争でSNRは国土が荒廃し、さらに戦費によって債務が大幅に増加した。あらゆるものを戦争に利用したため国内の産業とインフラは平時への転換を要しており、また破壊された機能の復元を要していたものの政府にはそれを支出することさえ困難だった。さらに物資不足も相まって戦後は深刻なインフレに陥り、ルーブルの価値は暴落した。一時は戦前の3000分の1の価値まで下落したと言う。もともと工業力はあったため経済が完全に崩壊することは無かったが、ハリコフの後を継いだアナトリー・セミョノヴィチ・ミコヤン議長は公務員の賃金さえ支払えない状況下で難しい選択を迫られることとなった。しかし彼は国家の立て直しに取り掛かる前、1999年に急死してしまう。後継となったのは“熊”と呼ばれる風貌が特徴だったミハイル・サーヴィチ・ネルネンコだった。彼は革命戦争後の施策に倣って大胆な自由化政策による経済回復を図り、外資の参入を認めた。これによりハミマのような小売企業やアークのベルニシュタット社*39による外食チェーン・ナクロマルロが進出したことは有名である。強引な改革は共産党の反発と社会的混乱を招き、この時期の共和国ではギャングが横行し極めて治安が悪化していた。2010年代に入るとなんとか経済は上向きになって来たものの大きな爪痕を残したことは批判が強く、ネルネンコは2014年に辞任を余儀なくされた。後任のスタニスラフ・マルティノヴィチ・ロストフは有能な男で、彼は石油産業と化学工業の復興を優先することで工業生産の回復を図った。これにより彼が政権を担当していた6年間で生産力は戦前の8~9割程度まで回復したもののロストフは2020年に病死してしまった。しかしこの頃には急速な自由化と外資の導入に批判的な社会主義右派が勢力を伸ばしており、後任は頑迷な社会主義者であるパーヴェル・ボリーソヴィチ・ツィービンとなった。

共和国の崩壊

ツィービンが国家評議会議長に就任することは自由な社会に慣れていた市民から大きな反発を受けた。ツィービンは就任すると7月に早速私企業の運営を制限する指示を出したがこれに対して反対デモが活発に行われ、首都ではデモ隊と内務省の治安部隊がにらみ合う局面が見られた。その状態がしばらく続いたが8月になると数件の爆弾テロが発生*40したため治安部隊に市民を無差別に排除する命令が下された。しかし内務省の一部や警察が反発し、その銃口を国家評議会に向けて革命を起こした。自由主義者が掲げていた、旧大公国国旗からゲオルギーがデザインされた紋章を取り除いた、オレンジの地に黒三本縞が入ったエルステア旗から国旗革命と呼ばれたこのクーデターによって共産党は解体され、既存の評議会人民共和国政府の消滅が宣言された。代わりに民主エルステア政府が評議会人民共和国を引き継ぎ、独立運動が激化して分解寸前だった共和国を連邦化して延命することを図ったが共産党政府が消滅した翌日にサマルア共和国が独立して内戦状態に陥った。さらに連邦加盟国だったツーラソヴィエト共和国は共和制連邦と迎合し、連邦からの離脱を宣言した後に共和制連邦に加わった。ツーラを連邦に戻すためにツーラへ攻撃し、二正面作戦を行ったために他方面へ割く余力が無くなったことによりベルへスト州が独立し、ますます連邦の解体が進んでいる。

地理

概要

国土はおおむね正方形に近く、東西・南北の幅はともに1500㎞程度に及ぶ。国土のほとんどが熱帯および亜熱帯であり、全体として温暖かつ比較的多湿な気候である。国土は全体的に平坦で、北東から南西に向かって低くなるように緩やかに傾斜している。南部のサマルア共和国とチェルケー州は全体が熱帯であり、リ・ノード湾から蒸発した水分により降水量が多く、多湿な気候であるため深い森林におおわれている。ペンザ州以北はハドレ―循環のため南部ほど湿度が高くなく、グドユト山脈から北内海の湿気を含み山脈北側で降水させた乾燥した空気が吹き下ろすため比較的乾燥しており、夏季には南部の多湿帯の発達により降水量が増加するため温帯夏雨気候に分類される。グドユト山脈とバズーラ山脈に降水が多いためこれらの山地を水源とする複数の大河が国土を横断しており、豊富な水資源と河川交通の便を与えている。

構成

ストリーチナ特別市

人口891万人(1990)。共和国の首都であり、国家の主要機関が置かれている。「大公の都市」であるとか単に「中央」と呼ばれた、17世紀に当時の大公によって建設された計画都市を起源としており、革命後はそれらの呼称に代わって単に「首都」を意味する“ストリーチナ”と呼ばれることになった。ポトスキ川沿いに建設された城塞都市であり、旧城壁に沿って建設された環状道路の内側にある旧市街と外側である新市街、さらに郊外に区分できる。
旧市街には海軍省やヴェリキー劇場など革命以前の建築物が多く残り、中世の都市計画に由来する整理された区画が特徴である。市庁舎や国家評議会、人民議会が入居するソヴィエト宮殿*41や様々な国家式典が行われることで有名な宮殿前広場、共産党党本部や官庁街などが存在するのも旧市街である。旧市街はほぼ中心を通るようにポトスキ川が横断しており、上流に石灰岩質の河床があるために河川敷に白い砂が堆積することで知られている。ポトスキ・ベロスカヤ競馬場はポトスキ川沿いの、この白い砂地に設置されたことに由来している。
新市街は革命後に大きく開発された地域で、殆どが住宅地になっておりプレハブ建築による5階建て以上のアパートが無造作に立ち並んでいる。アレクサンドルⅠ世中央大学を前身とする首都総合大学を除く首都の大学群は用地を確保するために新市街に置かれているほか、新市街には首都アルコール公社やラザネンコ記念首都発動機公社などの工場が置かれている。市内には都市電車や路面電車、バス、地下鉄によって公共交通網が整備されており、自動車の普及率の低さを補っている。
自動車の絶対数が少ないため道路網が人口規模のわりに貧弱であり、いくつかの環状道路は整備されているものの都市内高速道路やバイパスなどは一切存在せず、郊外では鉄道と道路の平面交差はそのまま残置されている。このため21世紀に入り中古車の流入で自動車が急速に増加した際には恒常的な渋滞がもたらされた。また、都市が幾何的に造成されているため規則正しい区画分けがなされている旧市街や同じような建物ばかりが立ち並ぶ新市街が組み合わさり、土地勘のない人は迷いやすいことで知られている。

ペンザ州

ベルへスト州

バレンツク州

ナジンスカヤ州

チェルケー州

ツーラ自治ソヴィエト共和国

サマルア自治共和国

ロマーシャ自治共和国

西端ローナソヴィエト共和国

政治

行政

共産党

外交

軍事

経済・産業

技術

計画経済

交通

文化

言論の自由

宗教

スポーツ


*1 事実上の国家元首
*2 事実上の首相
*3 ロシア語と同一
*4 ウクライナ語と同一
*5 英語と同一
*6 カザフ語と同一
*7 五月の歌とも
*8 旗の縫製を簡略化するため、また染め抜きで旗を作りやすくするためという説がある。
*9 国籍旗の代わりに国旗を描いたり、尾翼ではなく機首に描くなど一定していたわけではない。
*10 この際多数の革命派が斃れた宮殿前広場は後に「赤い広場」と呼ばれている
*11 クニャージ。各地方を支配する、大公に次ぐ有力な貴族
*12 革命派の兵士を面と向かって侮辱し、激高した兵士たちに射殺された
*13 長子アレクサンドルは三光へ、長女ソフィアはアークへ亡命した
*14 青年トーラ革命の際に発作を起こしたと伝えられている。個別記事(未成)を参照
*15 後にアーク帝国に移り砂糖の取引と酒造で成功する
*16 ウラジミール・リソゴロヴィ(禿げ頭)。現在SNRの国父として神格化されている。因果関係は不明であるが第一世代のウラジミール・レーニンに酷似している。
*17 革命後に大公領だったサマルア地域にて独立
*18 それまで大公家を国王とする同君連合で、事実上大公国の一部だったが国王不在のまま独立した
*19 この日が建国記念日とされる
*20 大公国ルーブルは銀本位制だった
*21 内閣に相当。
*22 首相に相当。
*23 労働者に給食する大規模食堂で、すべての食事をここで賄うことで女性を家事労働から解放する狙いがあった
*24 しかし失敗した政策は彼が承認こそしたものの発案者や実行者は若手の幹部たちだった。マトチキンは有望な若者を粛清から守るために全て自分の責任でこれらの政策を行っていたとも言われている。
*25 18世紀から使用されている建物もあり、拡大し続ける官庁組織を収容しきれなくなっていた。
*26 革命以前からの街並みは道路が狭く曲がりくねっており、自動車の普及に対応できなかった。また過密化による環境の悪化も深刻だった。
*27 革命以前空の集合住宅が多く残っており、老朽化したアパートの一部屋を仕切って4つの家族が入居するなど住宅不足が深刻化していた。
*28 当時は都市部を中心に60~70%ほどだった。
*29 通常「ソヴィエト宮殿」と呼ばれる
*30 国家評議会やその付属組織、人民議会の議場、ストリーチナ特別市の市庁舎などが入居する複合施設だった
*31 コンクリートパネルを使用した組み立て式(プレハブ)速成建設は当時最新の技術だった。柱だけでなく壁など建物全体で荷重を負担する構造で、熱帯地であることから保温の必要が無かったため建物を軽量に設計することが可能なことから軟弱地にも適し、改良を加えながら大量に建設された。5階建てであるのは当時の保健基準でエレベータを設置しなくて良い上限だったため、安価かつ速やかに建設することを優先したことによる。後の改良では10階建て以上に及ぶプレハブ建築も出現した。
*32 Telnia Avtomobilny i Traktop GK,省略してTATと呼ばれるのが慣例である。当時テルニヤ市はグラスの領土だったがTATはキユニェ川を挟んで対岸のSNR側にあった。
*33 初期のものは小型だったため特に速く、全力で加速すると乗客が手すりにつかまっていないと転倒しかねないほどだったため制限が課されていたという。市民からは“車輪付きジェット機”とか“電動ロケット”などと呼ばれて親しまれていた。
*34 Aero Narodu
*35 後に平時に大量の貨物機や飛行場を非稼働状態で保有し、戦時に人民航空の塗装のまま空軍に提供する事も行われた。これらの貨物機は空軍機と同じ仕様で自衛用の武装が搭載されているのが特徴だった。その状態のまま営業運航に使用されることもあった。
*36 全共和国文書処理・経済システム。共和国全土に及ぶコンピュータ通信網で、1978年に完成した
*37 INTERTEC。第一世代で言うところのコメコンに相当し、加盟国同士で交易上の便宜を図ったり加盟国全体の利益のための経済的協力を行う場だった。
*38 主戦場は湾岸ではなかったためエスティオとの戦争はツーラ戦争として別に呼称することもある
*39 パパチコーラの代金として廃軍艦を受け取ったがアーク海軍に標的艦として没収されたため代わりに出店を認めた。この時引き渡された艦船は“パパチ艦隊”として知られている。
*40 これ自体はサマルア独立派によるもので自由主義者とは無関係だった
*41 1950年までは旧大公冬宮