生まれ
とうどうたかよし
1579~1670
どんな人?
戦国時代~江戸時代初期の武将
1579年 | 丹羽長秀の三男として生まれる。 |
1582年 | 羽柴秀長の養子(跡継ぎ)になる。 |
1588年 | 秀長の跡継ぎが甥の秀保に変更されたため、藤堂高虎の養子に出される。 |
1592年 | 朝鮮出兵にて初陣を飾る。 |
1595年 | 溝口秀勝の七女を娶るが数年で離縁。その侍女を側室に迎える。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いに東軍として参陣。武功を認められ伊予2万石を拝領する。 |
1601年 | 養父高虎に実子が誕生。これにより高吉は次第に高虎から冷遇されていく。 |
1604年 | 藤堂家と加藤家の諍いのとばっちりを受ける形で、高虎に蟄居を命じられる。 |
1606年 | 無実の蟄居を知った家康に助けられ、伊予今治城の城代に命じられる。 |
1630年 | 高虎の死後、義弟の高次に家臣として仕えるようになる。 |
1636年 | 高次の命で伊賀国名張に移封。名君として名張藤堂家の始祖となる。 |
1670年 | 享年92歳で死去。 |
3歳の時、父親の主君織田信長が本能寺の変で死去し、豊臣秀吉が丹羽長秀を自分のチームに取り込むために、秀吉の弟・豊臣秀長の養子に迎えた
そのままいけば豊臣秀長の跡継ぎになるはずだったんだけど、9歳の時に秀吉が甥っ子の豊臣秀保を秀長の跡継ぎにしようとした
秀長は高吉をことのほか可愛がっていたため、秀長と秀吉は対立してしまう
そこで当時豊臣秀長の家来だった藤堂高虎が「じゃあワシの養子に」とゆーことになった
高虎はここで秀吉に恩を売って出世を狙っていたみたい
高虎にも実子がいなかったので、高吉を跡継ぎにするつもりだったんだけど、関ヶ原の合戦の後に実子の藤堂高次が生まれたので、その話しは無くなった
で、我が子かわいさにだんだん高吉のことが疎ましくなっていく
25歳の時に加藤嘉明の家臣と藤堂家の家臣がプチ喧嘩をしてしまう
高吉が疎ましくなっていた高虎は、この騒動の責任を高吉に押し付けて幕府にはナイショで無期限謹慎処分にした
「あれ?高吉くん最近見ないねー」と家康が気付いてくれたから約3年で復帰したけど、気付かれなかったらずっと蟄居してた可能性があった
大阪の陣では徳川方として参加
大阪夏の陣では長宗我部盛親隊を相手に活躍した
51歳の時に義父の藤堂高虎が死ぬと、うやむやのうちに養子の立場から家臣の立場に格下げされてしまい、義弟にあたる藤堂高次の家臣として働くようになる
高次もまた高虎と同様に高吉の存在を疎んでいたので、さまざまないじめをおこなった
高虎のお葬式にも出席させなかった
さすに高吉もムッとしたらしく、以後、藤堂本家と高吉の所領がある伊賀国名張の名張藤堂家はずっと対立していく
逸話
●溝口秀勝の七女と結婚したんだけど、数年で離縁。その侍女の慶法院を側室に迎えた
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関連のある人々
父・・・丹羽長秀
母・・・杉若無心の娘
養父・・・豊臣秀長、藤堂高虎
義理の兄弟・・・藤堂高次
正室・・・溝口秀勝の娘
側室・・・慶法院
子
藤堂長正 他
娘・・・藤堂勘解由の妻
娘・・・生駒正幸の妻
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祐筆の人物批評
ハガクレ・・・なんだかお気の毒ですね。政略によって人生めちゃめちゃにされた感じですなぁ
祐筆
●一番手・・・ハガクレ