加賀修吾の落とし穴

Last-modified: 2018-09-03 (月) 22:53:13

 加賀修吾は赤城笹の事を考えていた。元より「赤城笹が生きている」という相手の言を本気で信じたわけではない。けれど、虚言にでも縋りたかった。そして、やはりこの世で友に会う事は叶わないのだという現実を突きつけられて、加賀は酷く落胆した。

 

「その顔忘れんぞ眼帯」
両手を後ろ手に縛られ、床に顔を押し付けられた加賀の頭上から、憎しみの籠った声が降ってくる。
「貴様の所為で、私は裏切者の烙印を押され、国を追われた。仲間は死に、家族も皆捉えられ……」
悲痛な声が身の上話をはじめたが、そんな事は加賀の知った事ではない。

 

(笹……)
『お前、笑った顔の方が絶対良いって!』
友の忠告の通りに、最近はよく笑うようになったと思う。
長きに渡る戦の中で”不死身”と称されるほどになったのも、友の忠告を忠実に守っている自身への加護があるからだろう。皮肉にも、その加護故に、唯一無二の友との再会が先延ばしになっているのだが。

 

 この時も加賀は笑っていた。手足の指を順に潰され、幾度も水桶に顔を押し付けられ、罵倒と執拗な暴力に晒されながら。
すると不意に頭上で舌打ちが聞こえた。続いて加賀の横腹に激しい衝撃が走る。
「聞いているのか貴様!」
友との追憶の旅を邪魔された加賀は、思い出したようにチラと声の主を見やる。
「ちっ、全く不気味な顔をしやがって。少しは辛そうな顔でもして見せたらどうだ!」
追い打ちをかけるように腹部を蹴りつけられ、加賀は抵抗もできないまま今度は天井を見上げる形に倒れた。

 

 男が喚き散らす度、仰向いた加賀の顔面に唾が飛んでくる。全く不愉快な事極まりない。
加賀はその体勢のままわざとらしく溜息をついた。
「臭え唾を飛ばすな。猿野郎」
それを聞いた男は瞬時に血管を浮き上がらせ、両目に憤怒の光を宿した。口を真一文字に結び、唾を飛ばすのは止めた様だが、そのまま加賀の胸倉を掴み起こすと、彼のトレードマークである眼帯をむしり取った。そしてその奥に隠れていた義眼を乱暴に抉り出すと、床に叩きつけ、思い切り踏み砕いた。
「―――気は済んだかよ。用件が済んだらさっさと帰らせてもらいたいね」
「生きて帰れると思っているのか。めでたいやつだ」
「殺すならさっさと殺せ。殺せるものならな。
 敗戦国のアナトリアが身勝手に条約を反故し、扶桑の人間を殺したらどうなるか。
 お前の祖国がお前にどんな処罰を下すか、見ものだな」
「……今更アナトリアに帰ろうなどとは思わん。とうにあの国に私の帰る場所はない」
男の言葉を聞いて加賀は眉を上げた。
「ならどうする。扶桑の情報を持って他所の国に亡命でもするつもりか?」
「…………」
「はあん。その顔は図星か。亡命先は、、クー公国、という事はねーだろうな。
 戦争の気運が高まっているこの時期に危険を冒してまで扶桑の人間を捕らえているんだ。
 余程の大国が背後にいるんだろうよ。となれば、、、」
「余計な詮索はしなくて良い」
男は加賀の胸倉を掴んだまま、横っ面を拳で殴りつけた。鈍い音と共に口内に鉄臭い味が広がる。
「残念だったな。こうして苦労して扶桑の人間を捕まえたのに、お前はなんの情報も得られない。
 仮に貴重な情報を得たとして、お前の頼りの”後ろ盾様”が余所者を保護してくれる保証もない。
 体よく情報だけ抜き取られてその場で口封じに殺されるのがオチだろうよ」
口内の血を吐き出し、飛んでくるであろう追撃に備え加賀は息を止めたが、男は憎悪の籠った目で加賀を睨みつけただけだった。
『私はな、眼帯。お前を殺す事さえできれば、それで良いのだ』
それまでのアナトリア語で発せられた喚き声から一転、低く抑えられた声はアナトリア訛りの扶桑語だった。突然の扶桑語に、男の仲間のアナトリア人たちが怪訝な顔をする。

 

『……この中で扶桑語に通じているのは?』
『私とお前だけだ』
『あんた、自分の復讐のために他国の後ろ盾を頼りに自国の味方を集めて利用したってのか。大層な面の皮だ』
『なんとでも言え。私にとって大切な人間はもうこの世にはいない。貴様と赤城の所為でな』

 

 加賀は胸の裡で舌打ちをした。
戦時の殺し合いだ。買った恨みの数など数えきれないほどあるだろう。
それは相手方にとっても同じ事だろうが、復讐が目的でその後の人生を捨てる覚悟の相手を口八丁でいなすのは困難を極める。

 

(大切な人間がこの世にいないのは俺だって同じだ)
男の言葉に対し反射的にそんな思考が脳裏を掠めたが、加賀は固く奥歯を噛むだけに留めた。

 

 ならばできる事は救出部隊が来るまで時間を稼ぐ事。
とはいえ、一人でのこのこと敵の誘いに乗り捕まった自分を助ける部隊が果たして編制されるかどうか。
来るかどうかもわからない助けを待って時間を稼ぐ。神頼みも良いところだ。

 

(来ないなら。それならそれで良い)
加賀がどんな時も笑えるのは、友の忠告を忠実に護っているからであり、
また、「此処で死ぬならそれで構わない」という思いが、心の中に常駐しているためでもあった。

 

 加賀修吾は死を恐れない。ならば眼前の男と対等だ。精々この時間を楽しんでやる。
口角が上がり、笑みを形作る。
しかしそれは瞬間的なもので、加賀は嘲りの目で相対者を見た。

 

「俺はお前の事なぞ知らん」
視界に入れるのも億劫だとばかりに言うと、男は顔を真っ赤にして震えた。
「貴様……!貴様は私に何をしたのか、覚えていないのか。
 ならば思い出させてやるぞ。貴様がアナトリアの戦争で私にした仕打ちを!」
男はぶるぶると唇を震わせながら、過去の出来事を詳細に語り始めた。

 
 
 

「早く吐いた方が楽になるぜ。お前だってこれ以上痛い思いをしたくはないだろう」
「何をされたところで、味方の不利になるような情報を吐くものか。
 私の国への忠義、友への絆を甘く見るなよ!」
「ふーんそっかー残念だなあ。お前みたいな忠義ものを傷つけるのは本意じゃないんだけどなあ。
 まあいいや。折角だから、ついでに新薬のテストするよー。
 死ぬほど痛くて苦しいけど死なないから安心してねー。辛くなったらすぐ言ってー。止めないけど」
「ぐあああああああ」

 

 そうして悶絶する私の様子を眺めて、眼帯と赤城という男はへラヘラ笑っていた。
しかしこの時私は信じていた。どんな責め苦にも耐え、忠義を通す私に必ず神の加護があるであろうと。

 

 そして苦行の日が幾日か続いたある日、私は貴様らの恐ろしい計画を耳にしたのだ。
「あいつからこれ以上の情報を聞き出すのは無理だな。未だかつてあれほどの忠義ものを見た事がない。
 だが、あいつの忠義も明日には全くの無に帰す。そう考えると哀れにすら思えてくるが」
「どういう事?」
どうやら二人は私がアナトリア語しか話さなかったために、扶桑語を理解しないものと思って話をしているらしい。声は抑えられていたが、会話を聞き取るには苦労しなかった。
「簡単な事だ。敵の飲み水に毒を混ぜてきた。無色無臭、扶桑の誇る化学班の英知の結晶だ。
 この毒の怖いところは、死ぬ直前まで自覚症状がないところだ。
 気付いた時にはもう遅い。明日の今頃には、敵さんは皆お陀仏さ」
「飲み水に毒……?それは、民間人を巻き込んでしまう可能性があるんじゃない?」
「問題はない。即効性を重視しなかったのはそのためだ。血清は十分に用意してある」
「その血清は何処に?」
「尚武部隊の管理下の元、厳重に保管してある。場所は……」

 

 私はそれを聞いて戦慄した。そして、この時のために自分は生き永らえていたのだと確信した。
眼帯は「明日の今頃には」といった。それまでに、どうにか此処を逃げ出して、血清を盗み出し、味方の元へ帰還するのだ。

 

____

 

 その夜、好機は訪れた。

 

「笹、ちょっとクソしてくる」
「いってらー」

 

 ヤバそうな眼帯が席を外し、その場には赤城と私の二人だけになった。
赤城は昼間の新薬の効果を調査すると言いながらバインダーに挟まれた用紙に何か書きこんでいる。
 その妙な薬の所為で、今日も散々だった。嘔吐と下痢を繰り返す私を見て赤城は「そっかーふんふん」などと適当に答えながら笑っていた。「出したらお腹すいたでしょ?」と出された食事は冷凍したら死んでしまったという金魚だった。何を言っているのかわからない。

 

 そんなこんなでこの夜も私はぐったりしていた。事実疲労困憊ではあったのだが、わざとそう見せかけていた。先ほど眼帯が外へ出たまま、鍵は開きっぱなしになっている。瀕死の状態の私が脱出を計っているとは思わず油断しているのだろう。
「こんな感じかなー」
赤城がバインダーに注視しているところ目がけて、私は体当たりを食らわせた。
すると「うわっ」と声をあげて、赤城はバインダーを持ったまま転がった。

 

 脱走する私を、赤城は転がった姿勢のまま呆然と見ていた。その様が滑稽で思わず笑いが漏れた。

 
 

「おい、どうした。何があった?」
脱出し近くの茂みに身を隠したところで、眼帯が戻って来たらしい。
「捕虜が逃げちゃったんだ。捕まえないと!」
「逃がしただ?馬鹿野郎、油断しやがって!」
「悪かったってば!早く皆にも知らせないと」
「いや……知らせなくていい。逃げられた事が知られたら俺達の責任になる。俺達だけで捕まえるぞ」

 
 

(――馬鹿な奴らだ)
否。直ぐに私は考えを改めた。これこそが”神の加護”というものであろう。
このタイミングで、全てが私に味方してくれている。

 

 そのまま闇夜に紛れ、血清の保管場所まで忍び寄る。
暗闇の中で眼帯と赤城の声が聞こえるが、私が直ぐに此処から逃げると考えたのか、血清の保管場所からは程遠い位置だ。その上奴らの声に釣られて血清の見張りの連中まで持ち場を離れている。

 

 ああ。神よ。その加護に感謝します。
 これで大勢の仲間を救える。御身が救いたもうた仲間が、更なる信仰を誓う事でしょう。

そうして私は血清を盗む事にも成功し、そのまま闇夜に溶けてその場を離れた。

 
 

「行ったか?」
「行ったねえ。上手くやってくれると良いけど」
間抜けにも捕虜を逃がした拷問官二人は、捕虜の影が遠くへ逃げ去るのを見届けていた。

 

「アナトリアの神々の加護のあらんことを」
「健闘を祈る」
揃ってそれらしい言葉を並べると、戦時にあるまじき感情が沸いて、二人は声を殺して笑った。

 

「ところでお前、いつまでそのバインダー持ち歩いてるんだよ」
「ああこれ?修吾に見せたくってさあ。ほら、良く描けてるだろ?」
そう言って赤城が加賀に見せたバインダーの用紙には、加賀修吾の似顔絵が描かれていたため、加賀は思わず閉口した。

 
 

_____

 

「皆、戻ったぞ!」
無事に仲間のところへ帰還することができた私は、興奮しながら皆に事情を説明した。
「だが安心して欲しい。即効性のない毒だ。
 逃げる際に奴らから血清を盗んできた。水を飲んだものは直ぐにこれを」
水を飲んだと慌てふためく仲間たちに血清を配り、全員の使用を見届ける。
(良かった。間に合ったのだ。誰も死なずに済んだ。私は私のすべきことを成し遂げた)
私はほっと胸を撫で下ろした。

 

「これで皆助かるんだな?」
「ああ。その筈だ。本当に、皆が助かって、本当に良かった」
「良くやってくれた。しかし扶桑軍め。
 飲み水に毒を混入するなど、民間人を巻き込みかねぬ方法をよくも平然と」
「そうだ。こうしてはいられない。水を飲まぬようにと早く皆に知らせなければ」
「我々の他にも水を飲んでしまったものがいるはずだ。
 直ぐにでも血清をうった方が良い。血清は未だ残っているか?」
「何か別の飲み水を用意しなければなるまいな。水がなければ死活問題だ」
「それも連中の策のうちということか。えげつない事をする」
「全くだ」

 

 そして、私たちは民間人へ注意喚起と血清配布をしようと立ち上がった。ところが仲間の一人が扉の辺りで急に足を縺れさせ、その場に前のめりに倒れ込んだ。
「おいおい、どうした。大丈夫か」
駆け寄って声をかけるが、反応がない。
「……? おい、どうした。しっかりしろ」
頬を叩く。反応がない。よく見れば口角から泡を吹いている。
それを見た瞬間、恐怖と動揺が腹の中を走り回った。
「……こいつは確かに血清をうった筈だ。皆、見ていただろう」
 そう言って仲間たちの方を振り返ると、その様子は二極に分かれていた。
足元に倒れている味方と同様に泡を吹いて倒れているものと、青ざめた顔でそれを揺さぶっているものとの二種だ。

 

「まさか、間に合わなかったのか……?」
喜びも束の間だった。無念の思いが胸中を占領する。
それでも一人でも救えたものはいないか、例え一人でもいたのなら、それだけでも救われる。
そんなことを願いながら、生き残った顔ぶれを見た。皆が毒にでも犯されたような顔でこちらを見返していた。

 

「おい!飲み水に毒が混ぜられていたというのは本当か!?
 お、おれも今日の昼に水を飲んだんだ。早く、血清を早く!」
重苦しい沈黙の漂う中、外から声と共に他の仲間が勢いよく飛び込んできた。
毒水を飲んでいなかった仲間が、一足先に連絡に走っていたのだ。
皆が机の上に置かれた血清を目にとめると、それに飛びついた。

 

「待て」
倒れた仲間を揺さぶっていたうちの一人が、青白い顔で制止した。
「何を待てというのだ。未だ間に合うかもしれない。少しでも可能性があるならおれはそれに賭けるぞ!」
「待てというのだ。何かおかしいと思わないか」
その場の生存者の視線が、その男に集中した。

 

「お前、昼に水を飲んだと言うが、それは今日の何時頃だ?」
「はっきりとは覚えていないが、確か11時を過ぎた頃だった」
それを聞いた男は目を閉じて無念そうに左右に頭を振って、心臓の停止した友人の胸にそっと手を置いた。
「こいつが水を飲んだのは13時過ぎだ」
「?! 毒を混入されたのはおれが水を飲んだ後ということか?」
「いや、お前と同じ頃に水を飲んで死んだやつもいるはずだ」
「な、ならば、毒の効果が表れるのに個体差があるのか?」
「そうかもしれん。或いは……」

 

そこまで言うと、男は言葉を止めて、私の顔を見た。
「……??!」
困惑して言葉を返せずにいると、今度は少し離れた場所から耳を劈く爆音と銃声が聞こえてきた。

 

「なんだ!?今度は何が起こった?!」
「扶桑軍だ!扶桑軍が攻めてきたぞ!!!」

 

まるで悲鳴のような凶報が私たちの元へと届いた。
爆音、銃声は絶え間なく続き、味方の悲鳴がその中に混じり、火薬臭に鉄の臭いが加わる。
毒水騒動に続く動揺と混乱の中、生き残った者たちはそれでも懸命に武器を取ったが、誰もがまともに戦える状態ではなかった。

 

「……?!」
何が何だかわからないまま私も戦った。せめて一人でも多くの扶桑軍を葬ってやろうと奮起した。
そんな私の前に、見覚えのある顔が二つ並んでこちらを見ていた。

 

「死ぬ直前まで自覚症状がない毒だ。遅効性にしたのは、”皆がそれを使用するまでの時間を稼ぐため”」
「よくやってくれたね!おかげで楽にこの拠点を制圧できるよ。これはお前の手柄だ」
「扶桑軍で厚遇を受ける事だろう。良かったな」

 

血清をうつ事を制止した男は二人の言葉を聞いて、「やはりそうか!!」と叫んだ。
「おかしいと思っていた。扶桑軍に囚われたはずのお前が、大した傷も負わず逃げ帰っただけでも妙だというのに、その上血清まで盗んでくるなど。出来過ぎた話だ。貴様、自分の身可愛さに、毒を持ち込み同胞を殺す手助けをしたな。裏切者め!恥を知れ!!」

 

それを聞いて、扶桑の拷問官は、さも楽し気に笑った。
その瞬間、私は全てを理解した。私は嵌められたのだ。

 

「その男を捉えよ!裏切者に制裁を!!」
「違う!私は嵌められたのだ!違う!違うのだ!」

 

私の悲痛な訴えを聞き届けてくれるものは誰もいなかった。
そして、多くの仲間が、混乱の中、抵抗らしい抵抗もできないまま扶桑軍に殺されていった。

 

「違う!私は、私は―――――!!」

 

無実を訴えながら、敵と味方の銃弾に追われて、私は必死に逃げた。
地面に転がる無数の同胞の亡骸が、恨めしそうに私を睨んでいるように見えた。

 
 
 
 

「貴様……貴様等の所為で、私は、私の仲間は―――!!!」
熱っぽく語る男を仰ぎ見ながら、加賀は笑った。
「お前の話を聞いていると、何故俺がお前に恨まれているのか、今一つ理解できないなあ?」
「……なんだと?」
「俺が一体何をした?
 俺は飲み水に毒を混ぜたりしていない。そんな時間が何処にあったのか、逆に聞きたいくらいだ。
 それに、そんな民間人を巻き込むような危険な方法をとるはずがないだろうが?」
男は歯茎を剥き出しにしてギリギリと奥歯を鳴らした。本物の猿の様だと内心で思いながら、加賀は続ける。
「アナトリアに毒を持ち込んだのは誰だ? 味方にその毒を使用したのは?
 俺は哀れな貴様を逃がしてやった。感謝される覚えこそあれ、恨まれる覚えはないなあ?」
加賀が言い終えた瞬間、男は吠えた。加賀の胸倉を掴んで顔面に拳をぶつける。
「眼帯、貴様が、貴様の所為で」。全ての言葉を途切れ途切れに発しながら、男は加賀を続けざまに殴打した。

 

生暖かいものが鼻腔を伝い、唇の上を滴り落ちる。床は点々と赤の斑模様に染められていく。
(――いよいよ、かな)
死の間際には走馬灯とやらが見えるという。
しかし、窮地の加賀の脳裏に浮かぶのは、いつもと同じ、かつての親友とのささやかな日常ばかりだった。
(笹。俺もやっと、お前のところに行く事ができそうだ)

 

後はこのまま、この男に殴り殺されるのを待てばいい。
俺と笹とで追い詰めた男に殺される。
笑えるな。笹。お前のところへ続く道を、俺とお前でとうの昔に用意していたんだ。

 

そして、何処か安堵すら感じさせる表情を浮かべ、加賀は残された目を閉じた。

 
 

______

 

 加賀が閉じた瞼を上げたのは、その直後だった。
激しい轟音。続く閃光。銃声。アナトリア語の悲鳴。血と火薬の入り混じった臭い。

 

揺さぶられた鼓膜と光に焼かれた目が慣れる頃には、加賀は事態を理解していた。
(――――サイアクだ)
また自分は死に損ねたのだ。それも、よりにもよって、最も助けられたくない男に救出されて。

 

「生きているか? 生きているな。”不死身”」
「…………クソ犬」
予想を裏切らない落ち着き払ったその声は、先ほどの轟音よりも強く激しく加賀の鼓膜を揺すった。
どんな仕打ちにも笑みを湛えていた加賀の顔に、この時初めて苦渋と絶望の表情が浮かぶ。

 

「なんだ!何がどうなっている?!」
主犯の男は事態を把握しきれないうち、突入した扶桑軍に抑えられ、先ほど自身が加賀にさせたのと同じ姿勢で地面に頬ずりしていた。
「一体此処までどうやって!? 見張りの隊がいたはずだ!」
「……」
「貴様、まさか、”覇狼”……?!!」
犬童は男の質問に銃口を向ける事で返事をした。男は短い呻き声を漏らし閉口する。
犬童は主犯の男を手早く拘束、念のため猿轡を噛ませるようにと指示を出し隊員に託すと、改めて加賀に視線を向けた。

 

「ハッ! ”忠犬様”はご苦労な事だな。こんなところまで危険を冒して”厄介者”を助けに来なきゃならねーとは」
救出される側でありながら、加賀は犬童へ向けて虚勢の牙を剥く。
「……お前はどうか知らないが、俺は戦いに私情を挟まない。
 ”貴重な戦力”を救出する事に、不満も躊躇もない」
犬童に淡々といなされ、加賀はギギギと奥歯を鳴らした。

 

「最っ悪だ」
「……そうでもない。未だお前が死ねる可能性は残っている」
犬童は悪態に不吉な返事をしながら、加賀の拘束を解いた。
「先ほどの騒ぎで、他の場所に待機している奴等も敵の侵入に気付いただろう。直ぐ此処まで来る。立て」
言いながら犬童は予備の武器を加賀に手渡す。
「……はあ?テメエ、この状態の俺に戦えって言うのか?」
「言ったろう。俺は”貴重な戦力”を救出しにきた。お前がそうでないならば、ここに置いていくだけだ」
「っクッソが……!!」

 

加賀が激痛を忍て立ち上がると、犬童は懐から新しい眼帯を取り出し加賀の前に差し出した。
「目は用意できなかった。戻ったら新しく作れ」
「っ――――」

 

加賀は犬童から奪い取るように眼帯を受け取ると、心底嫌そうに言った。

 

「俺はテメエのそういうところが嫌いだ」
「奇遇だな。俺もお前の事は嫌いだ」

 
 

____

 

 そして手早く脱出ルートを確認し、犬童が先行する形で進む。

(ああ。潰された指がいてぇ。腕があがらねえ。おまけにこの駄犬と一緒じゃ顔が引きつって笑えもしねえ。
 クソクソクソクソ!!!)
今頃になって、先刻までに負った傷が痛みだす。

 

 痛ぇのは笑えないからだ。こいつの所為だ。憎たらしい。なんでよりによって、お前が来る。

 

 ――分かっている。こんな少数編成で此処まで救出に来れるような奴が、他にいるか。
 俺から情報が流出する可能性もある。扶桑は俺を無視できねえ。
 一番国に被害の出ない形にするのは、これが最善策だ。

 

 心中での問答にはあっさりと答えが出て、痛みを紛らわす役に立たない。
何度目になるかわからない舌打ちをしながら、加賀は後方のアナトリア軍に向けて発砲する。
いくらかの弾丸を消費し敵を静かにさせた後、加賀はゆっくりと息を吸って、吐いた。

 

「おい駄犬。戦いながら聞け」
「――無駄話なら後にしろ」
「こんな時に誰が好きこのんでテメエと雑談したがるかよ!良いから聞け。
 今回の件の背後にツァーリ帝国がいる。ツァーリの何者かが連中を煽りやがったんだ」
「…………」
「場合によっちゃあ、ツァーリとの開戦が早まるかもしれねえ。
 ツァーリの奴等がアナトリアに妙な事を吹き込む可能性もある。早いうちに手を打った方が良い」
「それはお前が上に報告しろ」
「言われなくともそのつもりだがな。万が一の場合に間違いなく情報を持ち帰る必要があるだろうが。
 情報を託す相手が今テメエ以外に誰がいるっつーんだよ!!」

 

 加賀にとっては非常に不本意ではあったが、確実に生還する人間に情報を託す必要がある。それには犬童以上の適任者はいなかった。加賀は軍人としての責務を全うするため、知り得た情報に推測を交えながら話す。
犬童は加賀の話が終わった後に一言「わかった」とだけ返した。

 

 それからは戦いに集中し、外で待機している部隊との合流まであと僅かのところまで来た。
加賀は既に満身創痍だったが、手酷い拷問を受けた直後の体で此処まで脱落せず自らの足で来られただけでも奇跡と呼んで差し支えない。通常時と比べて命中率は劣り銃弾の消費も激しかったが、誰もそれを責める事はできないだろう。
 そして、前後をアナトリア軍に挟まれ、前方の敵を犬童が一掃した直後。
加賀が後方に向けた銃口が虚しく空撃ちの音を立てた。数秒間だけ延命したアナトリア軍の銃弾が扶桑軍数名の命を削り取る。
「ぐっ―――」
加賀も腕に銃弾を受け呻き声を漏らした。それでも懸命に空になった銃をリロードしようとするが、潰された指が思うように動かない。もたついている間に、犬童が残ったアナトリア軍を一掃し、扶桑軍が安堵の息を漏らした瞬間だった。

 

 ずっと機会を伺っていたのだろう。それまで大人しく扶桑軍に引き連れられていた主犯が、突如自身に向けられた銃口を掻い潜り、拘束縄を掴んでいた扶桑隊員に体当たりを食らわせた。
男は必死だった。此処で捕まるわけにはいかない。憎き仇の片目をギロリと睨みつけると、それを最後にふり返る事なく全力で走った。

 

 敵を一掃し、合流まであと少しという扶桑軍の気の緩み、加賀修吾の銃弾切れと負傷。
アナトリア戦争時の彼であれば、それを”神の加護”だと信じた事だろう。
幾つかの要素が重なりあって、男は見事、その場からの逃走に成功した。

 

「捉える事も止めを刺す事も可能だった。それなのに、何故止めた」
「……あいつはどんな拷問をしても、何も情報を吐きはしねーよ。それに……」
犬童は加賀の次の言葉を待ったが、加賀は心底疲れ切ったという体で溜息をついた。
「はあ……もう良いだろ。疲れた。これ以上俺に喋らせるな」

 
 

_____

 

 その後はさしたる問題もなく、加賀はなんとか救護班が待機している場所まで自身の足で進む事が出来た。
救護隊員が駆けよると、加賀は息を切らせ青白い顔をしながら、その場に膝を付いた。
「……、犬童大尉に伝えてある。詳しいことは、奴に」
「承りました。さぞお辛かったでしょう。もう大丈夫です。後の事は心配せず、休んで下さい」
「悪ぃ、手間かける。隊長、にも、」
そこまで言って、加賀は倒れ込み、意識を失った。

 
 

「任務完了。これより撤退します」
「ああ。ご苦労だった。うちのが迷惑をかけたな。大尉」 
「いえ。問題ありません。
 それより、加賀中尉が捕らえられている間に敵から得た情報があります。帰還次第お伝えしたく」
「そうか。ただでは帰らんか」
「ええ。全く」

 手短に通信を済ませると、犬童は逃がした主犯の男の事を思った。
捉えても無駄。殺す必要もない。加賀がそう判断した意味を、あの男は理解していただろうか。

 

そして、これからそう遠くない未来に起こるであろう大戦に思いを馳せた。

 
 

______

 

「糞、糞、糞ぉ!眼帯!次こそは殺してやるぞ!必ずだ!」

 

 一時は扶桑の”不死身”を捉え、”覇狼”の部隊から逃げ出す事にも成功したアナトリア軍人は、扶桑軍の追手がない事を確認すると、憎悪を漲らせながら声高に復讐を誓った。

 

しかしそれは叶わぬ願いだった。

 

 突如、一発の銃声が響くと、アナトリア軍人は自身に何が起こったのかもわからないままその場に倒れた。
「……眼帯……っ!」
それが最後の言葉だった。弾丸によって穴の開いた頭部から流れる血が、大地を赤く染めながら広がっていく。

 
 

遠方から哀れなアナトリア軍人に狙撃した男は、つまらなさそうにそれを眺めた。

 

『任務完了。帰還します』

 

そして、通信機に向けて短く報告を済ませ、すぐさま踵を返した。
男の言葉は、アナトリア語でも扶桑語でもなく、ツァーリ帝国の言語であった。