豊原放送局

Last-modified: 2020-02-22 (土) 16:23:18

NHK豊原放送局(エヌエイチケイとよはらほうそうきょく)は、日本放送協会(NHK)の樺太道の地域放送局である。 樺太道の知取~鵜城以南及び北海道宗谷地方の一部を放送対象地域とする中波放送(AM放送)、超短波放送(FM放送)およびテレビジョン放送の県域放送を行う。ここでは、戦前のNHK豊原放送局についても記述する。

 


NHK豊原放送局
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放送対象地域 樺太道、北海道宗谷地方
所在地 樺太道真岡支庁眞岡市眞岡


総合テレビ
開局日 1960年9月1日
コールサイン JOVP-DTV
親局 眞岡 14ch(キーID 1)


Eテレ
開局日 1960年9月1日
コールサイン JOVD-DTV
親局 眞岡 13ch(キーID 2)


ラジオ第一
開局日 1941年12月26日(再開局 1960年9月1日)
コールサイン JOVP
親局 眞岡 635kHz


ラジオ第二
開局日 1960年9月1日
''コールサイン JOVD
親局 眞岡 829kHz


FM
開局日 1970年4月1日
コールサイン JOVP-FM
親局 眞岡 79.6MHz


 

現在の豊原放送局

所在地

歴史的な経緯があり、日本で唯一放送局名と所在地が異なる放送局である。
樺太道真岡支庁眞岡市眞岡

支局・営業センター

放送エリア

樺太道の知取~鵜城以南、海馬島、宗谷地方の稚内市を放送エリアとしているが、利尻島や礼文島、枝幸町や中頓別町、天塩町、敷香郡の一部や敷香市、恵須取支庁の一部、海豹島、北知床半島の一部、さらにはロシア・ハバロフスク地方の間宮海峡沿岸の一部(ワニノ周辺)でも受信可能。

チャンネル・周波数

・地上デジタルテレビジョン放送の送信所は2005年12月に完成し、2006年3月から5月まで試験電波が送信されていた。6月中は試験放送を実施した。

・デジタルテレビ、FM放送、第1放送、第2放送親局:春日岳?

・リモコンキーIDは総合テレビは全国共通の「1」、Eテレも全国共通の「2」を使用している。

アナログテレビ放送の※は、2011年7月24日に運用を終えた中継局(他中継局のカバーによって置局不要または有線放送に代えてカバーされる地域)。

テレビ中継局

局名送信所アナログ総合 JOVP-TV(映像/音声)アナログEテレ JOVD-TV(映像/音声)デジタル総合「1」 JOVP-DTVデジタルEテレ「2」 JOVD-DTV備考
豊眞春日岳?1ch(50kW/12.5kW)3ch(50kW/12.5kW)14ch(10kW)13ch(10kW)
眞岡眞岡31ch(10W/2.5W)36ch(10W/2.5W)25ch(1W)27ch(1W)
多蘭泊※多蘭泊41ch(3W/0.75W)43ch(3W/0.75W)
緑紅※緑紅37ch(2W/0.4W)39ch(2W/0.4W)
野田野田36ch(5W/1.25W)38ch(5W/1.25W)48ch(0.5W)53ch(0.5W)
野田寒岳野田寒岳40ch(5W/1.25W)45ch(5W/1.25W)31ch(0.5W)33ch(0.5W)
落合落合テレビ塔12ch(10kW/2.5kW)16ch(10kW/2.5kW)21ch(1kW)29ch(1kW)

AM・FM中継局

局名送信所ラジオ第1ラジオ第2FM備考
周波数空中線出力周波数空中線出力周波数空中線出力
豊眞春日岳?635kHz100kW1164kHz500kW79.6MHz7kW
野田野田668kHz1kW76.1MHz100W
落合落合テレビ塔749kHz50kW1261kHz100kW81.8MHz4kW

戦前の豊原放送局


豊原放送局
放送対象地域 樺太庁全域
所在地 樺太庁豊栄支庁豊原市大字豊原字南二線東十三番地(豊原公園内)
開局日 1941年12月26日
コールサイン JDAK
出力 1kW


現在とは違い、豊原市の豊原公園内にあった。正式開局直前の1941年12月8日に太平洋戦争開戦の臨時ニュースにより、緊急に仮放送を開始し、同月26日に正式に開局、放送開始した。しかし、僅か開局4年後の1945年8月9日にソ連が南樺太に侵攻し、8月28日に空襲で局舎が破壊され、事実上の廃止となった。

放送局の豊原移転

戦後は日本軍や連合国軍とは違う軍(詳細不明)(以下「占領軍」)が南樺太を占領し、その軍によってマスメディアの拠点が眞岡に移転された。占領軍がマスメディアの拠点を眞岡に移した理由は不明だが、港町ということもあって調査員の島外派遣が容易だったためと考えられている。また、マスメディア拠点の眞岡移転は暫定的なもので、交通網の回復後は豊原に戻す予定だったということが書かれた資料が1994年に局内の倉庫から発見されたことから、マスメディア拠点を豊原に移転する計画が占領軍統治時代からあったことが判明している。しかし、日本復帰に伴い、その計画は白紙となったとされている。
その後も何度か豊原に放送局を移転するという話が持ち上がり、実際に移転の手続きが進められたこともあったが実現しなかった。
現在は、豊原移転の計画はないが、今でも局内外から移転すべきという意見が多く出ている。