日本 RankII 軽巡洋艦 Sendai-class, IJN Sendai / 川内型軽巡洋艦一番艦『川内』
概要
Update 11.1.206 “Wild islands”にて実装された。
八面六臂の活躍をした川内型軽巡洋艦の1番艦。
しかし、ゲーム内では砲火力の低さにより巡洋艦以上には苦戦必至である。
艦艇情報
報酬
| SL倍率 | 3.2 |
|---|---|
| RP倍率 | 4.6 |
艦艇性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| シタデル装甲 (前/側/甲板)(mm) | 0 / 25.4+38.1 / 29 |
| 主砲塔装甲 (前/側/後)(mm) | 20 / 20 / 0 |
| 船体 | 鋼, 25 mm |
| 上部構造物 | 鋼, 13 mm |
| 排水量(t) | 7180.0 |
| 最高速度(km/h) | 52→60 |
| 乗員数(人) | 127~518 |
武装
| 種類 | 名称 | 砲塔 | 搭載基数 | 弾薬数 |
|---|---|---|---|---|
| 主砲 | 140mm 50口径三年式砲 | 単装 | 7 | *** |
| 副砲 | ***mm △△ | 単装 | *** | *** | *** |
|---|---|---|---|---|---|
| 連装 | *** | *** | *** | ||
| 三連装 | *** | *** | *** | ||
| 対空砲 | ***mm △△ | 単装 | *** | *** | *** |
| 連装 | *** | *** | *** | ||
| 三連装 | *** | *** | *** | ||
| 四連装 | *** | *** | *** |
追加武装
| 改造項目 | 名称 | Level | 購入費(SL) |
|---|---|---|---|
| メンテナンス | 新しいプロペラ | 4 | *** |
| 新しいエンジン | 16 | *** | |
| 強化工具セット | 22 | *** | |
| 防御力 | 貯蔵庫温潤 | 6 | *** |
| 音波探知基地 | 14 | *** | |
| 防火 | 20 | *** | |
| 魚雷 | 高速魚雷 | 12 | *** |
| 強化魚雷 | 18 | *** | |
| 武器 | 係維接触機雷 | 2 | *** |
| 爆雷 | 9 | *** | |
迷彩
艦艇ツリー
解説
特徴
【火力】
駆逐艦の127mm砲にも劣る140mm単装砲を7基7門装備している。
なんと巡洋艦なのに、駆逐艦の装甲すら貫徹できない!
雷装は優秀で、他国よりも威力の高い酸素魚雷を5秒間隔で撃ち込める。
砲においては駆逐艦よりも火力が劣るため、魚雷を主として戦うと良いだろう。そもそも、水雷戦隊の旗艦だし…
【防御】
駆逐艦あたりには強気に出れるが、他の巡洋艦ほどではない。戦艦(特にアリゾナ?)には、一瞬で半分以上削られることもある。
【機動性】
良好。通常でも60km、新しいエンジンだと75kmにもなる。
【結論】
でかい駆逐艦。
砲撃では巡洋艦ですら沈没させるのは不可能なので、良好な速度を活かし島に隠れながら敵艦に接近、魚雷で沈没させるか潜水艦相手に機雷を撒いて戦うと良い。
史実
2次大戦当時の最新鋭軽巡洋艦川内型の1番艦にして第一艦隊所属の三水戦旗艦。
八八艦隊計画により建造された川内型は、当初8隻建造予定だった。
しかしながら、ワシントン海軍軍縮条約締結により川内、神通、那珂の3隻で建造が打ち切られた。
漢字にすると読みづらいが「せんだい」と読む。「かわうち」や「かわち」、「こうち」と間違えられやすい。
軽巡の命名規則(河川名)に則って川内川(熊本県を起点に宮崎県を経由し鹿児島県で海にそそぐ川)から命名されている。
河口にある薩摩川内市(平成の大合併まではそのまま川内市だった)に九州電力川内原子力発電所がある為、とくに九州内では最近よく耳にする地名だったりする。なお、昔は読みの通り「千台」と書いたが江戸期に「川内」の表記になった。その歴史は古く神話時代に遡るという。
三菱造船長崎造船所にて1922年(大正11年)2月16日に起工、1923年(大正12年)10月30日に進水。1924年(大正13年)4月29日に就役。
就役後は揚子江などの警備任務に付き、開戦直前の1941年11月20日に三水戦(司令官:橋本信太郎少将)の旗艦となった。
歴代艦長には、名だたる人物が多数いたりする。
| 十一代 | 岸本 鹿子治大佐 | 酸素魚雷、甲標的を開発。岳父は豊辺新作陸軍中将。 |
| 十九代 | 木村 進大佐 | 最後の海軍航海学校長 |
| 二十代 | 伊崎 俊二大佐 | 第二水雷戦隊司令官でコロンバンガラで神通と運命を共にした。 |
| 二十三代 | 森下 信衛大佐 | 榛名、大和の艦長を務め、天一号作戦で第二艦隊参謀長。数少ない大和沈没時の生存者。日本海軍屈指の操艦の名手。 |
5,500t型軽巡は瓜二つな外見と性能だが、川内型だけは煙突が一本多い4本なので見分けやすい。
その川内型でも、川内だけ艦首形状が違ったり*1改装で一番煙突が短くなってたり*2艦橋が低くなってたり等々するので見分けやすい。
煙突が多いのは他の5,500t型軽巡と機関が違い混焼缶が増えており*3排気能力がより必要だったから。重油消費量増大を見越し、石炭使用の割合を増やしている。
先述の「一つだけ長い一番煙突」は煤汚れ等煤煙の多い混焼缶の排気を担当する為である。なお川内型を含む全ての5,500t型軽巡は、開戦までに全ての缶が重油専焼缶に改められている。
また海外艦等他の四本煙突艦との違いは「四本の煙突形状が一つ一つ違う」事*4。特に分かり易いのは先述の一番煙突と太い三番煙突*5。二番と四番は一見同型に見えるが微妙に異なる形状をしている。
先述の通り一番煙突を改修で切り詰め煙突の高さを揃えた。これは友鶴事件や第四艦隊事件が理由の「復元性改善の為」と一般的には言われている。全ての缶が専焼缶になった為煤煙の心配をする必要が無くなった事もあるのだろう。
ただ、それまでの5,500t型で採用されていた小型専焼缶を無くし*6専焼缶を全て大型缶にしていた事や鬼怒に採用されていた蒸気過熱機が付いている事もあってか、軸馬力出力は5,500t型軽巡の中でもトップクラスで、球磨型が大体九万~九万一千馬力、長良型が九万二千~九万五千馬力なのに対し川内型は九万五千~九万七千馬力の出力が出せた*7。
なお、川内型のスペック上の最高速度は35.3ktだが川内だけは公試で36.2ktを記録した(軸馬力出力も川内型の中で最高値の97000馬力をマーク)。
実は、川内型の中で川内だけは四連装魚雷発射管を装備していなかった。
比べてみると川内は連装を4基、神通、那珂は4連装2基で一度の発射数自体は変わらないが、酸素魚雷未対応*8の点で劣る。
川内の艦暦として特筆すべきは、参加したほぼすべての海戦が夜戦であり、最期の戦いも夜戦だったことだろう。以下時系列順に記す。
1937年の第二次上海事変における中国国民党軍機空襲*9の際、巡洋艦「出雲」*10と共に搭載水上機を発進させ迎撃*11、高角砲で応戦するなどして3機を撃墜し、敵機を撃退しており、搭載水上機による航空戦を行った珍しい艦でもある。
北部仏印進駐の際には第一護衛隊旗艦として現地で直接上陸部隊援護の任にあたったのだが、現地陸軍部隊は大本営の平和進駐の意向を無視して強行上陸を開始。
第二遣支艦隊司令部(旗艦「鳥海」)は陸軍部隊の勝手な行動にマジギレ。「川内」に対して陸軍と談判し、聞き入れない様ならすぐに援護を打ち切って帰るよう厳命した。困り果てた「川内」側は徹夜で陸軍を説得したが聞き入れられず、上陸を開始した陸軍部隊を放置し、目印の澪標だけ立てると部隊を率いて帰投した。
一応護衛の引継ぎを空母「飛龍」の航空隊が行ってはいるが、これが世に言う「陸軍置き去り事件」である。陸海軍間の意思疎通はここに完全に破綻したのだった。
太平洋戦争開戦時は第三水雷戦隊旗艦を務め、小沢治三郎中将率いる馬来部隊(マレー部隊)に所属。マレー侵攻作戦の支援を行っていた。
開戦時日本海軍には6つの水雷戦隊があったが、第三水雷戦隊だけある特徴があった。所属する駆逐艦が全て『特型駆逐艦*12』なのである。太平洋戦争全期間を見てもこういった事例は珍しい。
1941年12月10日に起こったマレー沖海戦に際しては、英国東洋艦隊に対して夜戦を挑もうとしている。
戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルスら英国東洋艦隊が出撃しているとの潜水艦からの報告を受けて、「金剛・榛名を至急参加させて一大海戦を決行するから三水戦は本隊に合流すべし」との小沢長官の指示に対し、三水戦司令官橋本少将は当然従うつもりでいた。
ところが川内艦長の島崎大佐は「このままにては昼間に敵艦隊と遭遇し、砲戦となる公算大にして勝算覚束なし。仮に脱出し得たとしてもタイランド湾奥深く数十隻の我が輸送船があり、これらが全滅の憂き目を見ること必定なり。ここは我が水雷戦隊を挙げて全速にて敵艦隊を襲撃、未明までに夜間水雷戦を以て敵を撃滅する外に方策なし」と司令官と参謀を相手に強硬に主張。普通は当然艦長が折れるはずが、大激論の末なんと島崎艦長は司令官側を丸め込み、夜襲決行を決断させた。なんともまあ、恐るべき夜戦への執念であった。
駆逐艦への燃料補給ももどかしく、川内は長官に「ワレ突撃ス」との簡単極まりない報告を打電するや、駆逐隊を率い全速で敵艦隊へ向かっていった。
しかし2時間ほど突っ走ったところで潜水艦から敵艦隊変針の報告を受け、襲撃は残念ながら中止と相成った。
その後、英東洋艦隊は航空部隊の攻撃により全滅したのは周知のとおりである。
また、同海戦では「綾波」ら第十九駆逐隊(駆潜艇も含)と共に敵潜水艦を撃沈している。この時の初撃は哨戒に当たっていた「川内」搭載の九四式水偵の爆撃だったりする。
ちなみに輸送船団護衛の最中の出来事だったので「川内」の行動は水偵での索敵と爆撃のみで第十九駆逐隊に爆雷攻撃を任せて*13その後は船団の護衛に戻っている*14。
1942年1月27日未明、エンドウ沖で輸送船団を護衛中に英駆逐艦「サネット」、豪駆逐艦「バンパイア」の襲撃を受ける(エンドウ沖海戦)。
三水戦所属の「白雪」が探照灯を照射しつつ砲撃を行い「バンパイア」を撃退するものの煙幕を焚かれて逃げられてしまう。しかし逃げ遅れた「サネット」を「川内」と三水戦の駆逐隊(「白雪」、「吹雪」、「初雪」、「夕霧」、「天霧」、「朝霧」)で砲撃によって撃沈し戦果を上げ*15、ここから夜戦伝説が始まった。
同年2月12日には「由良」が三水戦の指揮下に入り、13日以降「由良」と共にシンガポールから脱出する艦船を攻撃しバンカ湾北方にて3,000トン級英特設巡洋艦1隻撃沈を報告。この後も三水戦はこの方面で撃沈戦果を上げている。
ガダルカナル島への輸送作戦の方針を巡って、二水戦司令官・田中頼三少将が上級司令部と対立して増援部隊指揮官の任を解かれていた*161942年8月末から11月頭にかけて、「川内」を旗艦とする三水戦司令官・橋本信太郎少将が増援部隊指揮官を務めた。
この際、二水戦所属の第二十四駆逐隊(「海風」・「江風」・「涼風」)が「川内」の直率として参加し、ガダルカナル島への揚陸作業を援護したことがある*17。敵の飛行場があるガダルカナル島への揚陸作戦は、夜に紛れての行動が必須であるため、ここでも夜間作戦に従事し被害を出さず帰還している。
第三次ソロモン海戦第二夜戦では、偵察の為掃討隊として第十九駆逐隊(「浦波」、「敷波」、「綾波」)を率いて前進、針路上にあるサボ島周辺を偵察すべく近づいたところで戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」を擁する米艦隊を発見、「綾波」を除いた3隻で追撃するが、「ワシントン」から40.6cm砲弾の釣瓶撃ちの洗礼を受け、敵が「巡洋艦が転覆した」と錯覚するほどの水煙に包まれたという。
しかしそこは夜戦伝説の「川内」。直撃弾は1発も喰らわず、さらに米艦隊と並走。煙幕を張って距離を取った。ちなみに当時艦長を務めていたのが前述の「操艦の神様」の異名を持つ森下信衛大佐である。
「綾波」が島影で通信を遮られた状況にもかかわらず突入。「川内」率いる3隻が目を引いた後、「綾波」が単独突撃で敵を混乱に陥れた隙に、敵側面に回り込んだ「長良」率いる第十戦隊の雷撃機会を作るという獅子奮迅の激闘を繰り広げた*18。
1942年7月9日夕刻、鮫島司令長官が率いる水上部隊(「鳥海」、「川内」、警戒隊「雪風」、「夕暮」、「谷風」、「浜風」)、輸送隊(「皐月」、「三日月」、「松風」、「夕凪」)はブーゲンビル島ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送に成功。しかし米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。明けて7月12日、今度は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦「神通」)が増援部隊を指揮して輸送作戦を実施したが、同日夜のコロンバンガラ島沖海戦で「神通」が沈没、第二水雷戦隊司令部も全滅した。 これを受けて、第七戦隊司令官西村祥治少将を指揮官とする夜戦部隊が編制され、7月16日夜および18日夜にラバウルを出撃。戦力は、第七戦隊旗艦「熊野」以下主隊「鈴谷」、「鳥海」、水雷戦隊「川内」、「雪風」、「浜風」、「清波」、「夕暮」、輸送隊「三日月」、「水無月」、「松風」であった。7月18日と20日にコロンバンガラ沖で、夜間哨戒機の支援を受けた爆撃機による夜間空襲を受け「雪風」・「浜風」と共に応戦したが、この時も無被弾であった。
1942年11月のブーゲンビル島沖海戦では、最初夜間爆撃を二回受けるが回避し無被弾だった。しかし本戦の夜戦で先頭を走っていた「川内」は、砲雷撃の為回頭し魚雷を撃った*19直後、舵を故障し集中砲火を受けて機関停止*20。
さらに射撃指揮所に敵弾が命中し射撃指揮装置が破壊され、砲術長と方位盤射手も重傷を負い、ここに至って戦闘力の大半を喪失してしまった*21。
第三缶室への魚雷命中により缶が損傷、しかもなお悪い事に缶の運転に必要な真水を全部喪失していた。
だが艦長達はなおも突撃を諦めなかった。調査の結果第一缶室がどうにか使えることがわかり、「川内」の命と引き替えの覚悟で海水を注入*22、再始動が試みられた。
至急点火により川内は煙突から凄まじい黒煙を吐き始め、息を吹き返すかに見えた。
しかし、応急班の報告により肝心のスクリュー軸が折れていることが判明。ここに「川内」の死が確定したのだった。
戦闘後取り残された「川内」は、先頭にいて米軍に一番近かった事もあり、「妙高」との衝突などで大損害を受け落伍漂流していた「初風」と共に敵艦隊の乱打を浴びた。
無数の敵砲弾が着弾炸裂し続ける中、伊集院松治司令官と荘司喜一郎艦長の最後の訓示と軍艦川内万歳三唱の儀式が厳然と行われたのち、総員離艦となった。
白露型の面々の奮闘の甲斐もあり、「妙高」・「羽黒」・「長波」らの残存艦隊は無事戦場を離脱できた。味方の離脱と乗員の退艦を見届けた「川内」は、運命を共にした荘司艦長らと共に、夜明けのソロモンの海で眠りについた。
「神通」と似た様な状況だが、川内の場合は味方呂号第104潜水艦による救助が実施されたこともあって戦死者は艦長以下185名にとどまり、伊集院司令官以下の司令部要員を含む311名が生還した*23。
小ネタ
- 川内の名は海上自衛隊あぶくま型護衛艦4番艦「せんだい」に受け継がれた。
就役から20年間、佐世保に配属されていたが、2011年に第16護衛隊が廃止となり、呉の第12護衛隊に転籍、2016年には舞鶴の第14護衛隊に転籍し現在に至る。
あぶくま型護衛艦は、旧型護衛艦としては珍しく赤外線暗視装置を装備しているが*26、中でも「せんだい」は先代の影響があるのかないのか、自衛艦の中でもダントツで夜間の瀬取り(北朝鮮の違法貿易)現認・検挙回数を誇り、小松基地のF-15墜落事故の際も夜間に緊急出港しパイロットの捜索に向かい、知床遊覧船事故の際はたまたま大湊基地に停泊中で災害派遣が決定、深夜に出港し現場に向かうなど(ウィキペディア等参照)、生まれ変わっても夜戦を得意としているようだ。しかも、人を救うための任務にも多数従事しているというのが泣ける・・・。
小型艦ゆえに取り回しがよいのか、ここ数年だけでも大阪、佐賀、鹿児島、直江津、下関、船橋など全国各地で体験航海や一般公開を実施しており、地方隊の顔とも呼べる存在である。
2022年の国際観艦式では祝賀航行部隊第8群の先導艦を務め、外国艦艇を率いた。- 同型艦には「じんつう」(神通)もいるが、今回はこちらが2番艦であり先に建造されている。
あぶくま型は他の艦名も、「あぶくま」(阿武隈)、「おおよど」(大淀)、「とね」(利根)、「ちくま」(筑摩)と、一水戦、三水戦、そして連合艦隊の有名旗艦名が揃っている。
ちなみに、「せんだい」はKADOKAWAから正式に提供された「川内(艦これ)」等身大パネルを保有しており(乗員談)、一般公開などでよく展示されている。
本艦には河童をモチーフとしたマスコットキャラが存在するが、名前の由来となった川内川は、河童の伝承が残る場所の1つで、現地で河童は「がらっぱ」と呼ばれ親しまれている。
- 同型艦には「じんつう」(神通)もいるが、今回はこちらが2番艦であり先に建造されている。
- 後に川内型と呼ばれる新型の二等巡洋艦は、加古、那珂、川内、神通の順で命名が内令され、艦艇類別等級別表にも記載されていた。つまり、従来の慣例では、川内は3番艦になるはずだったのである。
しかしながら、加古の建造中止で2番艦となり、那珂の建造の遅れにより、起工順および竣工順では1番艦となる。
そして1926年(大正15年)11月、海軍はこれまで別れていた艦艇類別等級別表と潜水艦類別等級別表を廃止し、新たな艦艇類別等級別表を通達した。ここで古鷹型、青葉型と川内型は、これまでの慣例とは異なり、竣工順で類別されてしまったのである。
川内は、このような紆余曲折を経てタイプシップにたどり着いたのである。
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コメント
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- こいつ使うなら最上でいいじゃん -- 2025-01-31 (金) 00:40:48
- ☆産☆廃☆ -- 2025-02-19 (水) 12:11:59
- こいつちゃんと使えば強いやん 巡洋艦とかは島影から雷撃していれば意外と簡単に沈むし砲も威力は弱いかもやけど連射量でカバーすればいいし何よりかっこいい -- 2025-05-30 (金) 22:19:45
