SR真田昌幸

Last-modified: 2017-09-09 (土) 00:57:29
プロフィール昌幸は本来武田信玄(SSR)の軍師である真田幸隆の嫡男でもなく、養子に出された身であったが、長篠の戦いで真田の当主とその次の候補が立て続けに戦死してしまったため武田勝頼(SR)の推挙により当主になった。昌幸の正室の山手殿(SR)の出自はざまざまな説があるが、大河ドラマ・真田丸では宇多頼忠(宇田下野守頼忠)の娘(真武内伝、諸家高名記)という説をとっている。また昌幸の娘・於菊は、石田三成(SSR)の妻の従兄弟(宇多頼忠の兄・尾藤知宣の子)・宇多頼次に嫁いでいることとから関ヶ原の戦いでは西軍についたとも言われている。西軍敗戦により上田城は奪われ、昌幸は監禁され死ぬまで復帰を許されなかった。初代真田藩主の信之(R)と幸村(SSR)の父で武田信玄(SSR)の元で育った名軍師であり、徳川家康(SSR)にも恐れられて、大坂冬の陣で昌幸が入城していないかをとても気にしていたと言われている。