SSR石田三成

Last-modified: 2017-10-26 (木) 14:21:49

SSR石田三成(いしだ みつなり)詳細データ

nolink言語English日本語
初期データ副将0(初期値/~100Lv極)副1234
コスト4046(SSR,cost60,3500,+0.1(+0.15)の副将時)
兵卒数30203370354537203895
攻撃1010/~2310
防御950/~2250
知力1220/~2520
機動力+0.10+0.12+0.14+0.16+0.18
(+0.13)(+0.16)(+0.19)(+0.22)
適正槍A,馬B,弓S,工A
所持スキル大荒の平定Lv.1出陣時アクティブスキル 中継地でも戦闘が発生する 全移動速度20.0%アップ
野戦回避Lv.525.0%の確率で 野戦を回避する。
運用方法通常は1部隊を犠牲にして隣接塗りをさせて開幕速攻するが、この武将の固有スキルを使うと砦立てるポイントを2つ塗りつつ全部の部隊が直接包囲戦に入ることができ、無駄がない。
プロフィール関ヶ原の合戦は結果論から見れば(そして後から見れば)豊臣VS徳川の戦いであるように見えるが、元々は豊臣家内の三成ら文治派と加藤清正(SR)、福島正則(SR)、黒田官兵衛(SR)ら武断派の内部対立でしかなかった。見方を変えれば三成は秀吉の死後、規則違反を武力的な背景を理由に堂々とまかり通る不正を悪として立ち向かったに過ぎない。家康も秀吉生前時にできた規則を破って大名同士の婚姻を盛んに行っていた。関ヶ原の戦いの少し前には武断派による石田三成襲撃クーデターが起きている。その後家康の仲介により豊臣中央政権からの失脚が決まった。(そういった追い詰められた事情と、家康が越後征伐に向かう流れがあったことを好機と捉えて反旗した。)そして徳川家康(SSR)も豊臣家の一員として内乱に参加して利用し、手柄を親徳川派のみで独り占めするようにしてめきめきと力をつけて、250万石から500万石と主家の豊臣よりもずっと勢力的に格上の存在になってしまったというわけである。これに対して三成は30万石程度の1大名に過ぎず、最初から家康のライバルにはなれる存在でもなく、表向き毛利輝元が総大将になっていた。三成は関ヶ原の合戦の首謀者として領地は没収されて刑死し、父と兄も留守城預かりで落城とともに自決するが、三成の子供は13歳だったこともあって罪は問われず、その一族は津軽藩の南部家で家老職についている。三成には過ぎたるものがありと言われた家臣として、島左近(SR)は有名。また三成と同じ西軍側軍師としては大谷吉継(R)が有名で三成と同じ豊臣秀吉(SSR)の小姓出身である。