Type 89 I-Go/Chi-Ro

Last-modified: 2018-11-10 (土) 07:22:30

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Tier 2 日本 中戦車

公式紹介ページ

スペック

HP175
車体装甲厚(mm)17/15/15
最高速度(km/h)25
重量/最大積載量(t)12.7/13.0
実用出力重量比(hp/t)9.28
本体価格(シルバー)350,500

パッケージ

Type 91
(1,240/46,500)
Type 89 I-Go/Chi-Ro
(130/3,400)
Type 89 Kou
(115/3,750)
Type 89B Chi-Ro
(235/4,430)
Type 89B Chi-Ro Otsu
(235/6,780)

詳細

パッケージ名エンジン武装履帯砲塔
出力弾種貫通力ダメージ総弾数弾代発射速度
照準時間
精度
旋回速度砲塔装甲旋回速度視認範囲HP通信範囲
Type 89 I-Go/Chi-RoType Da 100 HP5.7 cm Gun Type 90Type 89 KouType 89 Kou17590
118AP
HEAT
HE
30
55
28
75
75
95
10015
3G
20
24
2.30
0.42
4415/15/1534300
Type 89 KouType Da 100 HP5.7 cm Gun Type 97Type 89 OtsuType 89 Kou175300
118AP
HEAT
HE
30
55
28
75
75
95
10015
3G
20
24
2.30
0.41
4515/15/1534300
Type 89B Chi-RoType Da 100 HP5.7 cm Gun Type 97Type 89 OtsuType 89 Otsu200350
118AP
HEAT
HE
30
55
28
75
75
95
10015
3G
20
26.09
2.10
0.40
4515/15/1538320
Type 89B Chi-Ro OtsuMitsubishi A6120VD5.7 cm Gun Type 97Type 89 OtsuType 89 Otsu200425
120AP
HEAT
HE
30
55
28
75
75
95
10015
3G
20
26.09
2.10
0.40
4515/15/1538320

解説

  • 概要
    Tier2日本中戦車
    帝国陸軍初の国産戦車であり、日本重戦車ツリーの始まりとなる戦車である。
     
  • 火力
    • 5.7 cm Gun Type 90(九〇式五糎七戦車砲)
    • 5.7 cm Gun Type 97(九七式五糎七戦車砲)
      日本戦車ではおなじみの5.7cm砲で、九〇式の方が史実砲となっている。
      性能的には九七式の方が上だが、ほぼ誤差の範疇で外見も同一。
      性質はほぼ榴弾砲で、弾速に劣り弾道も放物線を描くため遠距離目標への攻撃や偏差射撃はやりにくい。
      それでも高ダメージの砲弾を分間24発、改良砲塔なら26発もの発射速度で送り込めるためDPMはとても高く、砲精度も高めのため同Tierで5.7cm砲が搭載出来るチニハ号より優れている。
      APとHEの貫通力は2mmしか違わないため、威力が大きく非貫通時にもダメージが見込めるHEに全弾載せ替えよう。
       
  • 装甲
    車体前面17mm、側背面15mmと非常に薄い。
    車体だけならTier2日本戦車全般似たようなものなのだが、改良砲塔まで全周15mmしかないのはこの車両くらい。
    被弾即ダメージと考えたほうがよく、Tier2軽戦車の初期装備機関砲でも簡単に穴が開く。
    改良砲塔を装備すればHPは200と重戦車ツリーにふさわしい数値になるが、上記の通り紙装甲なので油断するとあっさり溶ける。
     
  • 機動性
    戦間期の戦車だけあって鈍足で、自走砲に狙われるとかなり辛い。
    ただし旋回性能は悪くない。
     
  • 偵察
    視認範囲は悪くないが、初期パッケージでは無線機が通信距離が90mしかない信号旗(!)のため単独行動は禁物。
     
  • 総論
    装甲は薄く機動性も低いが、ダメージ性能に優れた砲を持つ戦車。
    そのため最前線から一歩引いた駆逐戦車的運用が望ましいが、弾が遅く山なりの弾道を描くこともあって遠距離砲戦が苦手というチグハグな面を持つ。
    このTier帯では相手戦車も小さいためさらに当てにくいが、静止目標等を狙っていくのがいいだろう。

史実

1920年代後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の戦車(中戦車)。
日本初の国産制式戦車として開発・量産された。秘匿名称「イ号」。
本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。
百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車の置き換えとして配備された。
1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では、重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。
また同隊にはルノー乙型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。
この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた
(当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子(てつじし)」と報じられるようになる)。
しかし、中国国民革命軍の精鋭第十九路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。
1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺進隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。
この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。
初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、九五式軽戦車と少数の九七式中戦車とともに中戦車の主力として投入された。
この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。
そのため、九七式中戦車では対戦車能力を向上させた新型戦車砲の開発(試製四十七粍戦車砲)が同年から行われ、
これは一式四十七粍戦車砲として制式採用され新砲塔チハに搭載、また1940年(昭和15年)には攻撃力・防御力・機動力全体を向上させたチヘ車(一式中戦車)の開発が行われた。
しかしながら日本の国力の低さおよび、1930年代後期から第二次大戦にかけては航空機と艦艇の開発・生産が優先され、後継戦車の開発・量産が遅延していたため八九式の改良も放置される事となった。
太平洋戦争開戦時には、九五式軽戦車・九七式中戦車への更新が進んでいたが、南方作戦のフィリピン攻略戦において戦車第4連隊が装備する少数の本車が投入された。
また、末期のルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。
1945年(昭和20年)沖縄戦において、戦車第二十七連隊が首里北方の戦いに参加した。

本車は「軍神」として有名になった西住小次郎大尉の乗車であった。
西住は戦車第5大隊第2中隊隷下の小隊長として、支那事変における1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加した。

現存車両はアメリカのアバディーンにある陸軍兵器博物館およびフィリピンのレイテ島南部ラグナ州サン・パブロ市ビラ・エスクデロにある博物館に、太平洋戦争中に鹵獲された甲後期型が屋外展示にて保管されている。
また乙型が三式中戦車(チヌ車)とともに陸上自衛隊土浦駐屯地内武器学校に保管されている。
現存する乙型は世界にこの一輌のみである。

土浦駐屯地の乙型は隊員教育の一環として自走可能状態までレストアされており、2007年(平成19年)10月14日の開庁55周年記念駐屯地祭で公開された。
エンジンや電気系統などは現代の物を使用しており軽快に走行する。
砲身は木製の精巧なダミーではあるが上下に可動し、砲塔前面の増加装甲が再現されている。
車内の石綿の内貼りは1980年(昭和55年)の再生時に既に撤去済みである。

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