海拉爾飛行場

Last-modified: 2020-08-27 (木) 20:13:38

海拉爾飛行場

飛竜狩りの武装民間機が展開する最前線、この世界における重要な舞台ではあるが、実を言うと史実における(そして現実を下地としたこの世界線でも)その場所ははっきりしていない。
というのも、2つの理由から詳細な情報が無いのだ。
1つは、対ソ連防衛の要地としてハイラル要塞が構築され、ハイラル市全体が軍事要塞に取り込まれていたこと。
飛行場は今も昔も重要な軍事施設なので、そういった風景が写真として残り辛いというのがある。そもそも当時は写真機自体が高い。
2つ目に、ハイラル自体が満洲の端の方にある僻地であること。
北満の大都市であるハルビンの西、チチハルをさらに西に飛んだ西のほうにある都市であるハイラルのさらに西にあるのは、満州里と国境ぐらいという北満の西の端に立地する大きな都市なので、観光に訪れる人間自体が少ないのだ。
一応観光地もあり、絵葉書として満鉄が紹介されているのが、満州の端っこに来る物好きはそうそう居ないので、やはり記録としての残り辛さに拍車をかけている。

 

ただし、大まかな陸軍飛行場の位置は、ハイラル要塞の博物館に掲載されている。
関東軍北山陣地
(写真1枚目の右側に大きな四角に”飞机场”とあるのが、飛行場である)
この図の位置にあるのが現在のハイラル国際空港なので、どうもその位置あったようだと言える。
満州航空の路線も就航してるので、この飛行場は陸軍管理の軍民共用空港かもしれない。
現在のハイラルを航空写真で確認すると飛行場が2つ存在するが、市街地東側にあるハイラル国際空港に対して、市街南南西に存在する軍用の訓練と思しき空港は新しい空港であるようだ。

 

さて、この飛行場は四角く書かれているが、当時は滑走路以外の土地も転圧で固めて背の低い雑草で覆えば滑走路代用として使用していたので、四角いエリア全体が滑走路として使用できる。
メインの滑走路に対する横風滑走路として、飛行場の空き地を使用していた訳である。主たる滑走路は現在の滑走路と同じ方向であると推測できる(年間を通して吹く風の向きを考慮して滑走路が設定されるため)。


ここからは武装民間機世界の設定となる。
日中戦争の終結や戦後情勢から、ハイラル飛行場からは陸軍の戦闘部隊は撤退して、飛竜観測用の偵察機部隊と空港管理部隊のみが展開している。
飛行場自体は日本陸軍が管理し、民間との共用空港となっている。
滑走路は舗装整備され(色々な飛行機が飛んでくるので)、長い滑走路も設置されている。
空港に建設された格納庫と駐機場では、飛行機の整備サービスを受ける事が出来る。
大規模な修理となると流石に長春にまで飛ばないといけないが、長春まで飛ばせるようなガッツが要る応急修理は可能な能力を持つ。
最悪は満州鉄道の長物車をチャーターしての鉄道輸送となってしまうが…。
武装民間機は(金額の面から)指定エリアでの野外駐機がメインだが、お金を払えば屋根の下も選択できる。
滑走路の長さ?深山や震電居るから1800mのコンクリート舗装滑走路あると思うよ。

ハイラル市街地とハイラル駅

武装民間機乗りの生活拠点であるハイラルの都市と、その玄関口である満鉄のハイラル駅について記述する。
当時の市街は低階層の建物ばかりで、駅前を離れれば屋良ぶき屋根や木造の1階建て建物が立ち並ぶ光景となる。ただし電柱は見られるので電気はちゃんと来ていたようだ。
ハイラルの玄関口であるハイラル駅であるが、ホームの南西側、川にそって広がる市街と反対側に建設されていたので注意が必要である。現在の大きな駅舎は当時の玄関口ではない。
グーグルアースで見た当時の駅舎
天井にドームが無く正面に時計が付いた少々小ぶりな駅舎がそうである。
現在の大きな駅舎が立つ側は、かつての駅裏であり、日本軍の司令部が設置されていたようだ。

 
 

おまけ小話:当時の滑走路と補助設備

そもそも飛行場とは何か?というお話。
現代の空港の設計基準は国交省がホームページで公開しており、この文書を読めば空港に必要な設備の知識を得る事が出来る。ただし現代では高速で離着陸する大重量の大型旅客機に搭乗した多数旅客を安全かつ迅速に運用する為の技術的に厳しい基準が設けられており、昭和17年あたりの人命も安全も飛行機も軽い時代とは最低ラインが異なってしまっている。
空港土木施設に関する技術基準

 

また、当時の飛行場を含む設備設営に関しては「基地設営戦の全貌」という古本が存在する。
滑走路の設営基準もまとめられているので探してみてはいかがだろうか?

 

滑走路

1930年代あたりまで、滑走路とは別になくても良い存在だった、というと驚かれるかもしれないが、実際そうであった。
単発の軽量で低速な飛行機が離着陸するには、平坦で地盤が安定した平地があればどうにかなったのである。
長野飛行場跡地
このページに当時の飛行場をどのように使っていたか、よくわかる資料が書かれている。

 

>着陸地域は概ね図示の北東-南西625米、幅30米の舗装滑走路を最適と認むるも風向等に依りては植芝全地域を使用するを可とす

 

横風滑走路として滑走路以外の敷地芝生エリアを使用可能である、と堂々と書いてある。
実際に旧日本軍も戦時中は急速発進と称して、単発戦闘機や双発戦闘機が駐機してある芝生エリアから滑走路を無視(斜め横断等)して飛行場の芝生敷地を滑走して離陸している。
このように軽量なレシプロ機では特に土木工事で滑走路を整備しなくとも、四角く飛行場の敷地を整地すれば事足りていた。それがなぜ滑走路を造る必要が出始めたのか?
機体の大型化でタイヤの接地面にかかる圧力が、ロードローラーで固めても間に合わなくなってきたことと、機体の高速化で離着陸速度も増大し、抵抗の多い草地ではなくきれいな舗装面が必要になってきた事があげられる。
また、芝生が成長するまで待っていられない急造飛行場では、埃避けの意味もあり隙を見て舗装工事を行うのが当然となっていた。

 

さて、旧軍が使用した滑走路の標準はいくらであるのだろうか?
太平洋戦争初期までは幅100mx長さ1200mが大型機も使用可能な滑走路であり、それに飛行機が移動する道路(≠誘導路)とエプロン+格納庫を取り付けたものだった。
これに横風滑走路として使用するエリア(草地もしくは滑走路整備)を設けたものもある。
所が大戦中の機体高性能化に伴い長さ1200mの滑走路を延長する必要に迫られたので、標準寸法は長さ1500mまで延ばされる事となる。
ただし、大型化著しい爆撃機の運用はこれでも足りず、新設された東千歳基地の滑走路はコンクリート3m厚で幅80mx長さ2500mを建設し「連山滑走路」と呼ばれる事となる。
千歳基地の秘密
東千歳の滑走路
これは深山が利用していた長さ1450mのウシ飛行場よりも遥かに長い滑走路である。

 

また、長い滑走路が必要なのは何も大型の機体のみでない。例えば震電が離着陸の試験を行っていた蓆田飛行場は現在の福岡空港の位置にあり、長さ1500mと長さ1800mの滑走路を持つ大規模な飛行場であった。
福岡空港(陸軍福岡/席田飛行場、板付飛行場)

メイン滑走路に対して、横風が強い場合に使用するのが横風滑走路である。
年間を通して吹く風の向きを考慮してメイン滑走路が選定されるが、風向きにも例外があるので、その場合に安全な着陸を出来るよう整備するのが横風滑走路となる。
滑走路とおおよそ90度直交するX型配置や、三角形状に+2本を設置するΔ型の配置がある。

誘導路と運搬路

エプロンから滑走路までの飛行機が移動する道路を誘導路や運搬路という。昔は飛行機が移動する事だけ考えていたので「運搬路」の機能しかなかったが、機体を効率よく運用する為の流動経路として進化する事となり、これが「誘導路」と呼ばれるようになった。ただし、運搬路という言葉はそれほどメジャーではないので、誘導路と呼んで差し支えない。
小型機では幅25mを用意し、その真ん中部分15mを滑走路と同じように仕上げた。この滑走路と同等の仕上げをしない部分は、今風に言えば「ショルダー」に相当するといえる。
中型機ではこれが幅35mで、仕上げをするのは内20mとなる。
初期の誘導路は滑走路とエプロンを適当に繋ぐ役割しかなかったが、太平洋戦争によって経験値を積んだ結果爆撃を避けるために600mほどの曲線で構成し、飛行機駐機場所は100m以上の間隔で構成するようになった。大戦末期の飛行場航空写真で飛行場の敷地外に飛行機駐機エリアが広がってるのは、これのせいである。

管制塔

昔の飛行場は今のように背が高い管制塔が無かった。平屋の普通の小屋でも十分役割を果たせたのである。
それが見晴らしのいい窓が付き、階層が高くなり、そして今では空港内で一番背が高い建造物となった。
ただし、当時の管制塔は海外を含めても精々2階建て程度までである。
例外的に、競馬場等の用地を接収して設営された鳴尾飛行場では、競馬場の建屋が管制塔に転用され、現在でも保存されて残っている。
海軍・鳴尾航空基地
高くて見晴らしがよければ何でもいいが、わざわざ建てると費用が掛かる…とも言える。

吹き流し

これが無いと空港と言えないのが吹き流しである。
吹き流しを見て風の向きを見るので、今でも吹き流しと設置場所は図面として規定されるほど重要視されている。後よく見える事も。

電波誘導

クルシーの帰投電波が有名だが、昭和17年代でも既に無線誘導による自動着陸が研究されており、特に日本で研究されていたのは、無視界下で滑走路に着陸までを行う現在のILS進入による自動着陸に匹敵するほどの高度な物であった。もちろん高度すぎて実用化出来なかったが。
研究とは別に実用化されていた物は、滑走路進入方向と滑走路進入降下角度をそれぞれ2つの電波ビーコンでとらえ、干渉波形が平らになるように操縦すれば飛行場滑走路までたどり着けるという代物であった。

除雪車

雪が多い場所に設置された飛行場だと、除雪も問題になってくる。
当然のように除雪車が開発された。アメリカ製のコピーである。
旧日本軍滑走路用除雪車
ロータリーユニット付きと、ラッセル機能のみの2種類が存在したようだ。
日産工機50年のあゆみ
もっとも、これ以前にもいろいろな除雪車量が存在したが、終戦後にGHQの命令で使用された除雪車量が上記のトラックだったことを見るに、使える性能だったのはこいつぐらいだった可能性が高い。
昭和9年の除雪車量
余談だが、除雪性能が高い(というか詰まらずに使える)ロータリーヘッドは、ウニモグ式と称される耕運機の後ろに付いてる爪のような形である。

牽引車

単発機程度なら人力で押して移動できるが、大型機になるとそうも言ってられなくので、飛行機を引っ張る牽引機が登場するようになった。
牽引力が必要ならキャタピラ式の方が良いだろうと思われるかもしれないが、大型の動力車輪を持った4輪車も存在する。
用は「速度が出なくても良いがトルクは欲しい」という需要に合致していれば使えた訳で、砲兵トラクターと似たり寄ったりになってくる。
なお、世代落ちした戦車から砲塔を除去して牽引車として使っていた事例もある。
89式中戦車が南方でトラクターとして使われており、米軍の攻勢により飛行場で確保された事例がある。この89式はガソリンエンジンの車両だったそうで、飛行機の燃料との共通化…というより活用しやすい場所に回されたという方が正しいかもしれない。通常、飛行場にはトラックが居るからである。