
概要
九七式中戦車 チハは、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の主力中戦車である。
「太平洋戦争」機動戦セット(3947円)を購入すると使用可能になる(プレミアム分隊付属)日本軍戦車である。
BR・Tier
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| Tier | 2 |
| BR | Ⅰ |
車両性能
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 乗員(人) | 4 |
| 砲塔旋回速度(°/C) | △△⇒20.4 |
| リロード速度(秒) | 4.1 |
| 最高速度(km) | 39.70 |
| 車体装甲厚 (前/側/後/底)(mm) | 25/25/20/9 |
| 砲塔装甲厚 (前/側/後/上)(mm) | 32/25/25/11 |
| エンジン出力(rpm/hp) | 2000/170 |
| 重量(t) | 15.0 |
| 視界(%) | △△ |
武装
| 名称 | 搭載数 | 弾薬数 | |
|---|---|---|---|
| 主砲 | 九七式五糎七戦車砲 | 1 | 120 (HEAT60:HE60) |
| 同軸機関銃 | 九七式車載重機関銃 | 1 | 3000 |
| 砲塔上部機関銃 | 九七式車載重機関銃 | 1 | 1000 |
解説
特徴
榴弾威力の高い短砲身57mm砲を搭載している。装甲は並で、機動力はそれなりに確保されている。
1枚目が指揮官がハッチから乗り出した時の視界図、2枚目がハッチから乗り出す前の照準、3枚目が砲手の照準全体図、4枚目が照準時の見え方、5枚目が運転手席の視界となっている。





火力
主砲の97式5糎7対戦車砲ではAP弾は無く対戦車用のHEであるHEATが使用可能であり、この砲弾の貫通力は約50mmと現在実装されている米軍の戦車をすべて貫通可能な貫通力を有している。更にHEATの特性上、弾薬に当たれば即撃破可能なのも大きい。
但し、すべてHEであるため、土嚢など障害物に当たると貫通することなく爆発してしまい、有効打を与えられないのでなるべく障害物のない広い地形の方が効果を発揮する。
機銃についてはハ号と同じく車体についているが、仕様が変更され、車長席でのみ主砲と機銃の射撃が可能となった(砲手席では撃てないことに注意)ハッチから顔を出せば、砲塔上と併せて2倍になる。
更に本戦車の特徴として、俯角を-15度取ることが可能な為、盛り土や丘の頂上のギリギリのところで車体を隠しながら撃つことがことから、数値以上の攻撃力を有していると言える。
装甲
車体前面は25mm、砲塔装甲は32mmと中戦車にしては薄い。対戦車ライフルやM13対空戦車のブローニングには一定の距離以上では貫通されなくなったため、正面切って戦うことができるようになった。
但し、対戦車砲や戦車砲はもちろん、至近距離から対戦車ライフルやブローニングを撃たれた場合は貫通してしまう為過信は禁物。車体の大きさも相まって、他の戦車なら隠れることのできたところもはみ出ることがあるため、山など地形の把握は必須。
機動性
最高時速40kmと中戦車としては平均的である。整地された道では特に不満は無いだろう。
但し、アンダーパワー気味で加速がやや鈍く、車体が長い為進路変更する際には大幅に減速してしまう。履帯が細いため凹凸のある地形は弱い。(これは戦車全般に言えることであるが)車体の大きさも相まって航空機と爆発パックは天敵である。
総論
現状、BR1日本軍戦車の中では上位にランクインする性能を有している。
地形を味方につけ敵戦車にHEATを叩きこみ、攻め時にはHEを叩きこみ敵歩兵を撹乱せしめる万能型の戦車である。
元々のコンセプトが「歩兵を支援する戦車」であるため、その役割通りに仕事をこなせれば活躍は約束される戦車である。
日本軍で無双したい諸君には是非購入をオススメする。
史実
九七式中戦車 チハは、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の主力中戦車である。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。
開発
1931年(昭和6年)に勃発した満州事変以降、大陸へ本格的な侵攻を始めた日本陸軍は、国産戦車の速度不足に悩まされ、用途外の軽装甲車を戦車の代用として使用しなければならない事態が頻発した。
そのため、新たに速度を重視した軽戦車と中戦車を計画した。まず陸軍はハ号こと九五式軽戦車 ハ号を開発し、これを1935年に採用している。
続いて中戦車の開発に取り掛かる日本陸軍であったが、この際に2つの中戦車案が持ち上がる。
1つは「良くいえば生産性重視かつ堅実設計、悪くいえば安かろう悪かろう」のチニ車、もう一つは「良くいえば高性能な意欲作、悪くいえば重量過多かつ量産性や信頼性軽視」のチハ車である。
どちらも一長一短だった為、意見が割れ、議論は長引いた。特に議題の中心になったのは当時の工兵器材の性能である。
この工兵器材は平たくいえば組み立て分解式の仮設橋である。
この仮設橋は複数の形態を持ち、最大形態で16トン前後の戦車の通過に耐えられたが、悪天候下で使う場合は安全性の問題により、どんなに重くても12トン以内までに制限される代物だった。
くわえて、形態が大きくなるほど組み立てや分解に要する時間が増える為、より軽いチニ車を押す声も強かった。
しかし日中戦争が勃発したことで予算が増加し、新型戦車の量産が急がれたため、とりあえずチハが「試製*1九七式中戦車」として採用された。
改良
本車を含む戦車の対戦車能力不足については陸軍上層部は軽視していたものの、戦車隊内では海外の情報から戦車同士の戦いが今後、増加していくであろうという認識は九七式中戦車の開発時にはすでに存在していた。その後本車に代わる新型戦車の開発やその搭載砲であった試製四十七粍戦車砲などを含む試作・試験・計画変更が繰り返された。
そこからさらに紆余曲折あって生まれたのが「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」である。
この新砲塔チハは、一説によると九七式中戦車の後継機に搭載する予定だった、試作砲塔及び試製四十七粍戦車砲の出来栄えを確認すべく作られた実験的な車両であったとされる。そのため、新砲塔チハは当初の計画では量産する予定はなかったが、太平洋戦争の直前から直後にかけて、前線部隊の強い希望により急遽量産されることになったという経緯を持つ。
そのため太平洋戦争開戦までに十分な数が揃わず戦力化できなかったが、M3軽戦車の出現に対応すべく1942年(昭和17年)4月、フィリピン攻略戦における追撃戦に実戦投入された。戦車第7連隊に編入された同車を装備する臨時中隊(松岡隊)が投入された(戦争初期におけるM3軽戦車との交戦の項目を参照)。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型と並行する形で一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、攻撃力ではM3軽戦車には優越するようになったものの、戦争中盤からアメリカ軍は75mm砲を装備したM4中戦車を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
(この改良により九七式中戦車の重量は15.3tから15.8tに増加しているが、末期になるまで海上輸送や陸揚げに問題は発生していない。)
戦後
終戦時の時点で九七式中戦車は、日本本土の各部隊に57mm砲搭載型が74輌前後、47mm砲搭載型が418輌前後、南方軍には31輌前後(搭載砲不明)が残存していたと思われる。
終戦後には中国大陸において、日本軍の装備の多くが国民革命軍(国民党軍)と紅軍(共産党軍、1948年以降は人民解放軍)に接収され、九七式中戦車も両軍で使用された。これらはのちの国共内戦でも使用され、特に人民解放軍のものは国民革命軍相手に大きな戦果を挙げている(「功臣号」)。
日本国内では、砲塔や武装を撤去し障害物撤去用のドーザーを取り付けたブルドーザー(「更正戦車」)が相当数作られ全国で使用された。
その他、本車車体を利用して作られたクレーン車が1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)頃まで横浜港で使用されていた。
部隊
本車を運用する戦車第三師団・戦車第十七連隊は1942年8月20日に千葉県・津田沼で編成された。通称号は「滝一四五〇部隊」。同じく1942年に内蒙古で編成された戦車第三師団に所属して北支方面で活動した。連隊総員は1291名で保有車輌は戦車・装甲車合わせて173輌。軽戦車中隊1個、中戦車中隊3個、砲戦車中隊1個、整備中隊1個という内訳だった。1944年4月中旬から5月末にかけて行われた京漢作戦*2に参加、その後一年ほど北支での駐屯・警備任務を担当した。1945年になると天津方面へと移動し、そこで終戦を迎えている。
小ネタ
豆知識
大日本帝国陸軍は伝統的にロシア帝国を一番の仮想敵にしていたが、ロシア帝国が革命により倒れ、ソ連が建国されると今度はアメリカを仮想敵に据えるようになった。ところが満州事変により、中国北東部にある満州一帯を日本が勢力下に収めたことで、ソ連と国境を接することになり、日本陸軍はソ連を最大の仮想敵とした。
豆知識2
ソ連を仮想敵とした日本陸軍は、国防の方針として万が一ソ連と開戦してしまった場合は、沿海州に迅速に上陸を行い、ウラジオストックを中心とした、ソ連の空軍基地を制圧することで、ソ連による日本本土への空襲を防ぐことになっていた。
そのため、日本陸軍は上陸戦を重点に置いた兵器開発を行っていったが、太平洋戦争の勃発と推移により無駄になってしまった。
豆知識3
ソ連を仮想敵国としていた日本陸軍は、太平洋戦争が勃発する段階になっても、アメリカとの戦争を考慮した作戦や訓練、兵器開発をほとんど行わなかった。兵器が南方の気候に合うかどうか見直しもせず戦争に突入したため、爆薬が南方の湿気により動作不良を起こしたり、機動戦に向かない地形であったため、九五式軽戦車などの装甲車両は序盤の快進撃を除いて、利点を活かしたりできなかった。また、2箇所同時に上陸作戦を行ったので、上陸作戦のために作ってきた兵器も不足し、数を揃えるのに苦労した。
チハ車の風評被害について
よくこの戦車は「雑魚、弱い、時代遅れ」などと言われ、「シャーマン戦車」とよく比較されているが、そもそも作られた時代が違うのである。
この戦車の同期は、チェコの「35・38t」、「ドイツの三号」、「ソ連のBT」なども皆、30mm程度の装甲である。(チハは25mm)つまり開発当初は他国の戦車と比較しても遜色無いわけである。
また同戦車の開発コンセプトは歩兵支援を主軸に設計されているため、主砲には短砲身の57mm砲を搭載している為、これは対戦車戦闘は考慮されていない。したがって、巷で言われているこの戦車に対する評価は、不適応だということを意味する。
そもそもの話ではあるが、昭和13年(1937年)に開発された本車と昭和17年(1942年)に開発された「シャーマン戦車」とでは、開発期間に5年の差があるわけなので、歩兵支援を主任務とした本車と5年後に開発された車両同士とでは、本来は比較対象となり得ないわけである。が、当時の日本軍は予算配分と戦車を運用するに当たり必須の工兵機材とクレーンがクソ雑魚脆弱であった為、最新の戦車を量産する余裕は無くさらに重量制限のため、新しく開発された戦車も欧州の激戦により様々な戦訓を取り入れた他国の戦車に酷く見劣りするものだった。
そんな中で数だけなら揃えられたチハはハ号と共に機甲戦力の中核として運用させられ、その「5年の差」があるM4中戦車と対峙するハメとなった。日本軍の中では比較的マシなチハ改ですら苦戦必至であったにも関わらず、対戦車戦闘すらできない本車は対戦車戦においてマトモな活躍をするのは不可能であり、1輌、また1輌となす術もなく一方的に貴重な人員を巻き込んで撃破されていったのである。
手動スタビ+圧倒的俯角でアメリカ軍を怖がらせましょう! -- 2025-08-14 (木) 19:07:13