生まれ
おなべのかた
興雲院(きょううんいん)
生まれは不明
1612年没
どんな人?
織田信長の側室
近江の豪族・高畑源十郎の娘
おいたち
どのような経緯で側室になったかは不明
俗説として、最初は近江の八尾城主・小倉実澄に嫁いだ。
二人の男児をもうけたが、実澄が死去してしまったため織田信長の側室になったといわれている。
本能寺の変で信長が死去した後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。
その後は豊臣秀吉の庇護下に置かれ、化粧料として近江愛知郡182石を与えられた。
その翌年には更に400石を加増される。
秀吉の正室・北政所(ねね)に仕え、大谷吉継の母東殿と共に側近の筆頭であったという。
関ヶ原の戦い?では息子の織田信吉が西軍について改易されたため連座して化粧料を取り上げらてしまう。
その後、淀殿から伯父である織田信長に寵愛された側室の一人として50石の知行を与えられ、京都で晩年を過ごした。
お鍋の方が産んだ子供
信高・信秀・長次の3人は本当かどうかは不明
逸話
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