注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 北朝 花の御所(1368~1408)
室町幕府の創始者である足利尊氏を祖とする勢力。始祖とされる足利尊氏は
鎌倉幕府打倒に多大な功績をあげたが、のちに後醍醐天皇から離反して
南北朝時代と呼ばれる本格的な戦乱の時代へと邁進し、
後醍醐天皇が亡くなった後も後継政権と和解することなく1358年志半ばで世を去った。
やがて足利尊氏の跡を継いだ息子、2代将軍足利義詮は南北朝の動乱を
戦局優位に進め、3代将軍足利義満の代に南北朝の合一となる。一方で、
足利義詮は朝廷の公家である室町季顕から花亭を買い上げて別邸とし、
これはのちに崇光上皇に献上されるものの、屋敷が消失してから
足利義満が邸宅をたて、ここを事実上の本拠としたという。
後世「室町幕府」「花の御所」と呼ばれる足利政権を代表する呼称はこの時期に作られたと言われている。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
北朝 → 南北朝時代(日本・北朝(尊氏派)) 、南北朝時代(日本・北朝(直義派))、南北朝時代(日本・北朝(直冬党)) 、南北朝時代(日本・北朝 花の御所)
北条 → 鎌倉時代(正中・元弘の変)、中先代の乱(建武政権)
室町 → 室町時代、 鎌倉府・鎌倉公方
創作 → NHK大河ドラマ、漫画2
4代将軍足利義持以降の治世については 室町時代を参照。
足利将軍家
足利義満
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 95 | 42 | 98 | 99 | 91 | 虚実 | 梟雄 | 富豪 | 徴税 | 文化 | 深謀遠慮 | 活殺自在 | 以逸待労 | 混乱 | 挑発 | 牽制 | 上兵伐謀 | 覇道 |
| 90 | 66 | 98 | 99 | 91 | 虚実 | 梟雄 | 富豪 | 策士 | 文化 | 深謀遠慮 | 活殺自在 | 以逸待労 | 混乱 | 挑発 | 牽制 | 上兵伐謀 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 90 | 63 | 98 | 99 | 94 | 虚実 | 梟雄 | 富豪 | 徴税 | 文化 | 精練策数 | 治療 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 牽制 | 上兵伐謀 | 覇道 |
| 90 | 63 | 98 | 99 | 94 | 虚実 | 妙算 | 富豪 | 徴税 | 文化 | 精練策数 | 治療 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 牽制 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【アシカガヨシミツ】
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
補足:一時期、皇位簒奪説が盛んに唱えられていたものの、現在は下火になっている。
補足:皇位簒奪説が唱えられた背景には、足利義満が当時の朝廷の実権を握っていたことが由来であるが、当時の朝廷には経済力と政治力に優れた義満に頼ろうとした形跡が強く、両者の目的合致によるものとされる。
親愛武将:細川頼之、赤松則祐
足利満詮
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 21 | 17 | 61 | 79 | 88 | 寡欲 | 人脈 | 智嚢 | 輿望 | 補佐 | 鼓舞 | 太学 | 礼教 | ||||
【アシカガミツアキラ】
室町時代の武将。父は足利義詮。3代将軍足利義満の弟。
紀伊で南朝方による反乱が起こった際には数百の兵を率いてこれを鼓舞した。
以後は幕政に関与し、足利義満、足利義持を支えた。
上杉禅秀の乱が起こった際には、足利義持を鼓舞して出兵を促した。
その死は「諸人これを惜しむこと父の如し」と言われたという。
補足:足利満詮の正室、藤原誠子は、のちに足利義満の手がついて義満の側室となった。
紀良子
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 7 | 5 | 58 | 54 | 60 | 応援 | 文化 | 潜在 | 消沈 | 直情 | 鼓舞 | 混乱 | 歳出改善 | 礼教 | |||
【キノヨシコ】
室町時代の女性。足利義詮の側室で、足利義満、足利満詮兄弟の母。
足利義詮の正室渋川幸子の子、千寿王が5歳で早逝したため
側室として迎え入れられ、足利義満、足利満詮兄弟を含む3人の子を産んだ。
しかし政治の実権は渋川幸子が握っており、それらの扱いを巡って幸子とはしばしば対立したという。
晩年は足利満詮の屋敷に住み、足利義満の死を看取って1413年に亡くなった。
嫌悪武将→渋川幸子
親愛武将→足利義詮、足利義満、足利満詮
執事管領とその一族
細川頼之
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 89 | 78 | 96 | 97 | 85 | 伏龍 | 任才 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 以逸待労 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
| 92 | 71 | 96 | 97 | 85 | 伏龍 | 任才 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 以逸待労 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 92 | 71 | 96 | 97 | 88 | 任才 | 洞察 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 急襲 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
| 92 | 68 | 96 | 97 | 88 | 任才 | 洞察 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 急襲 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
| 92 | 68 | 96 | 97 | 88 | 洞察 | 地利 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 急襲 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
幼君であった足利義満を支えた天下の宰相として名高く、後世江戸時代にはしばしばその名を轟かせた。勝海舟もその才を高く評価した賢臣である。
【ホソカワヨリユキ】
足利一門細川家の出身。細川京兆家の実質的な祖。足利尊氏、足利義詮、足利義満の三代に仕える。
父が南北朝の動乱で戦死したため23歳で当主として尊氏、義詮の軍事行動を助けた。
阿波守護として四国・畿内の南朝勢力と戦い、神南の戦いでは義詮を助けて軍功をあげた。
観応の擾乱が長期化すると足利直冬の根拠地である中国地方征討軍の大将として活動し、軍謀両面で勢力拡大に貢献。
中国平定後は四国征伐軍の大将となり、四国も平定して管領に推挙された。政治面では
義詮死後の幼い足利義満を支え、半済令の制定や朝廷の対立宥和に尽力、戦略面でも中枢を担った。
晩年は反対派の圧力緩和のために一時的に失脚したが、義満の絶大な信頼は揺るがず、重用され続けた。
補足:失脚後は出家したこともあり、細川頼之は幕府の重職につかなかった。しかし足利義満は重職にない頼之を中枢に参加させるため、御前沙汰評定を頻繁に開いたという。
補足:一族に細川晴元らを輩出。細川藤孝、細川忠興らは弟である細川頼有の末裔とされているが、異説として佐々木系細川氏の出とされ、今日ではこれが主流である。
※親愛武将→足利義満
※嫌悪武将→斯波義将
細川頼有
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 77 | 70 | 75 | 79 | 71 | 地利 | 動員 | 召募 | 智嚢 | 堅牢 | 斉射 | 足止 | 鼓舞 | 鎮静 | 駆逐 | 混乱 | 三令五申 | 割拠 |
【ホソカワヨリアリ】
足利一門細川家の出身。細川頼春の子、細川頼之の弟、細川頼元の兄。
観応の擾乱で足利尊氏に味方し京都で戦った。細川頼之が家督を継いで管領になると
事実上守護代として讃岐、阿波の統治を任される。南朝に味方した河野通堯が
伊予に攻め込むと、迎撃を行うが徐々に劣勢となり伊予を失陥。しかし康暦の政変で下向してきた
兄、細川頼之と協力して河野通堯を破り、再び伊予を回復する。のちに山名氏討伐にも
参戦するが、1390年兄に先んじて死去した。
細川頼元
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 70 | 72 | 71 | 75 | 79 | 人脈 | 智嚢 | 補佐 | 調達 | 運搬 | 牽制 | 鉄壁 | 治療 | 足止 | 鼓舞 | 混乱 | 太学 | 覇道 |
【ホソカワヨリモト】
足利一門細川家の出身。細川京兆家の血統上の祖。足利義詮、足利義満に仕える。
兄の細川頼之とは10歳以上離れており、幼少期に父、細川頼春が
戦死したため、兄に育てられ、のちに子供のいない兄の養子となった。
細川頼之を助けて各地の合戦に従軍。南朝方から投降した楠木正儀を
迎え入れる役目も担った。反対派の圧力により兄ともども一時的に失脚するが、
兄から離反することなく四国で反対派の軍勢を兄とともに撃破し、4年後に赦免されて
管領となった。晩年は細川頼之の養子として表向きの役割を担い、1397年に死去した。
※ 一度は失脚して僧籍の身になった兄を立てるため、管領職を担った。
※ 頼之からは管領の器ではないと言われていたそうだが、無難に職務をこなしていた印象なので無難無難な能力値に
斯波義将
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 84 | 91 | 93 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 | |||||||
| 82 | 84 | 91 | 93 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 | 機知奇策 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 鎮静 | 上兵伐謀 | 覇道 |
| 82 | 74 | 91 | 93 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 | 機知奇策 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 鎮静 | 上兵伐謀 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 75 | 93 | 94 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 | 機知奇策 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 鎮静 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【シバヨシマサ(シバヨシユキ)】
足利一門斯波家の出身。管領、越前守護。義詮、義満、義持と足利3代に仕える。
斯波高経の四男として生誕し、父にその才能を重用され、わずか13歳で管領(執事)につく。
しかし、父の強引なやり方に反発した諸侯の煽りを受けて失脚。
父の死後足利義詮に許されて返り咲いた。その後は越中北陸征伐の要として出陣し、
桃井氏を討伐。周辺勢力も駆逐し北陸の重鎮として君臨した。
康暦の政変では因縁のあった細川頼之を糾弾し、彼を失脚させて、斯波氏最盛期を築いた。
晩年は足利義満、足利義持の2将軍から重用され、時に将軍をも諫止し、
越前加賀信濃尾張遠江と五州を領するその栄華は諸侯をも恐れさせた。1410年死没。
補足:細川頼之は最終的に養子で弟の細川頼元を通じ、地位を回復させたが、彼の没後は斯波家が足利一門最大勢力となった。
織田信長を輩出した織田氏を取り立てたのは嫡男である斯波義重である。
※親愛武将→足利義持
※嫌悪武将→細川頼之
斯波義種
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 42 | 36 | 61 | 68 | 74 | 人脈 | 名声 | 能吏 | 動員 | 調達 | 鼓舞 | 挑発 | 鎮静 | 政令徹底 | 割拠 | ||
【シバヨシタネ】
足利一門斯波家の出身。斯波義将の同母弟。斯波高経の五男。大野斯波家。
実兄の義将ともども高経に寵愛され、若年ながら侍所頭人と山城守護になるが、
貞治の変で父や兄とともに失脚する。のちに許されて加賀、信濃守護となった。
その後は足利義満に近侍し、足利義満の厳島参拝にも同道している。
子孫は大野斯波家となったが次代で改易。のちに本家の義将流斯波家が断絶したため
斯波義敏以降は義種流斯波家が斯波氏の嫡流になったとする。
斯波義重
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 72 | 80 | 85 | 89 | 慈悲 | 人脈 | 名声 | 柱石 | 補佐 | 深謀遠慮 | 鼓舞 | 鎮静 | 治療 | 斉射 | 先従隗始 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 72 | 82 | 85 | 84 | 慈悲 | 人脈 | 名声 | 柱石 | 補佐 | 深謀遠慮 | 鼓舞 | 鎮静 | 治療 | 斉射 | 先従隗始 | 王道 |
【シバヨシシゲ】
足利一門斯波家の出身。斯波義将の嫡男。のちに「義教」と名を改める。
父、義将の跡を継いで足利義満に仕え、明徳の乱では父に代わって斯波軍を
指揮し、一色詮範とともに山名氏清を撃退した。応永の乱では負傷しながらも
父とともに幕府軍に従軍し、大内義弘を破る。のちに4代将軍足利義持に仕えた。1418年没。
越前国では劔神社の神官の息子を家臣に引き入れ、これがのちの織田氏の原型となる。
畠山基国
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 86 | 81 | 80 | 82 | 85 | 洞察 | 求心 | 柱石 | 補佐 | 名声 | 百戦錬磨 | 激励 | 治療 | 奮戦 | 突撃 | 地域振興 | 覇道 |
【ハタケヤマモトクニ】
南北朝時代から室町時代の人物。足利御一門畠山家の出。畠山国清の甥。
鎌倉公方の足利基氏から偏諱を受け、足利義詮、足利義満に仕えた。
畠山氏中興の祖であり、室町幕府管領として山城、紀伊など
六か国の守護をつとめた。南朝方の楠木正勝と戦ってこれを破り、
楠木正成の係累が治めていた河内国を事実上支配。明徳の乱や応永の乱にも
参陣し、応永の乱では先陣をつとめた。子孫は河内畠山氏、能登畠山氏の祖となる。
足利一門・分家
仁木義尹
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 64 | 47 | 45 | 56 | 動員 | 召募 | 山戦 | 消沈 | 軽率 | 激励 | 牽制 | 奮戦 | 三令五申 | 割拠 | ||
【ニッキヨシタダ/ニキヨシタダ】
足利一門仁木家の出身。仁木頼章の子。足利義詮、足利義満に仕えた。
父の死後に丹波守護職を継ぐが、叔父、仁木義長が南朝に下って
幕府内での内紛に敗れたため、勢力を減じさせる。
のちに足利義詮が死去すると南朝方の攻勢が盛んになり、
幕命により伊予の河野通堯討伐に向かったが敗れた。丹波守護も
山名時氏に奪われ、失意のまま没した。生没年不詳。
一色範氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 51 | 55 | 63 | 50 | 人脈 | 農政 | 動転 | 消沈 | 惰弱 | 牽制 | 足止 | 鼓舞 | 戸籍整備 | 王道 | ||
【イッシキノリウジ】
足利一門一色家の出身。足利泰氏の孫で一色公深の子。
足利尊氏の九州下向に従い、多々良浜合戦で足利尊氏が勝利して
再び上洛を志そうとすると、庶兄の一色頼行らとともに九州の留守を
任された。さらに九州から仁木義長が上洛すると初代九州探題に任命される。
だが、勢力基盤は脆弱で幕府に何度も窮状を訴え九州での勢力拡大は進まなかった。
犬塚原の戦いでは恵良惟澄らに敗れて一色頼行を失い、のちに足利直冬や菊池武光らにも敗れて
博多から遁走。そのまま帰京して隠居し1369年に死去した。
一色直氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 49 | 44 | 57 | 58 | 53 | 築城 | 改修 | 小心 | 消沈 | 動転 | 鯨波 | 激励 | 牽制 | 地域巡回 | 王道 | ||
【イッシキタダウジ】
足利家一門一色家の出身。一色範氏の長男。
足利尊氏に仕え、足利直義から偏諱を授かるが、
観応の擾乱では足利尊氏方に属す。のちに父である
一色範氏から九州探題を引き継いで勢福寺城を築き、
父とともに九州征伐を進めようと試みるが、少弐頼尚や菊池武光らに
大敗して長門国に逃れ、足利尊氏の怒りを買う。再度九州へ上陸するが
再び菊池軍に敗れて京へ遁走。弟である一色範光に家督を譲り、関東へ隠棲した。
補足:生没年は不明。一色氏の九州征伐が遅々として進まないのを見た足利尊氏は、自ら九州への親征を決意するが、病には勝てずそのまま病没している。
補足:後任は細川繁氏が務める予定だったが急死し、以後斯波氏経、渋川義行がつとめるも南朝優位は覆せず、北朝が優位になるのは今川了俊の頃であった。
補足:直氏の子孫は幸手一色家を築き、のちに鎌倉公方に仕えた。
一色範光
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 46 | 42 | 60 | 68 | 59 | 強運 | 人脈 | 再起 | 惰弱 | 動転 | 鼓舞 | 足止 | 牽制 | 地域振興 | 王道 | ||
【イッシキノリミツ】
足利家一門一色家の出身。一色範氏の次男。
足利尊氏に仕え、父と兄とともに九州制圧に乗り出すが
南朝方の菊池氏に敗退し、九州から撤退する。
のちに貞治の変で斯波高経が失脚すると、後任の若狭守護に任命され
自身の子である一色詮範を遣わして反乱を鎮圧し、一色氏繫栄の基礎を築いた。
補足:1388年に死去した。
一色詮範
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 88 | 76 | 74 | 77 | 勇将 | 猛者 | 名声 | 果敢 | 柱石 | 豪気衝天 | 奮戦 | 急襲 | 激励 | 斉射 | 錐行強化 | 王道 |
【イッシキアキノリ】
足利家一門一色家の出身。一色範光の嫡男。
足利義詮、足利義満の二代に仕え、元服時には義詮から偏諱を授かった。
父の差配により一色所領の若狭へ赴き応安の国人一揆を鎮圧。
のちに幕府から侍所頭人に任命され幕政の重鎮を担った。明徳の乱では
敵総大将である山名氏清を一騎打ちで討ち取り、一族合わせて若狭、丹後、三河、尾張知多の3カ国数郡を支配した。
応永の乱でも武功を立て、1406年に死去した。死後「大勇信将」の法号を与えられた。
補足:明徳の乱で一騎打ちした際の山名氏清は負傷していたが、それでもこの戦いで総大将を討ち取った一色勢の名声は凄まじく、京でもその後に豪勢ぶりが噂されたという。
一色満範
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 81 | 63 | 70 | 64 | 富豪 | 胆力 | 猛者 | 柱石 | 功名 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 牽制 | 鶴翼強化 | 割拠 | |
【イッシキミツノリ】
足利家一門一色家の出身。一色詮範の嫡男。
父とともに足利義満に仕え、明徳の乱や応永の乱で軍功をあげた。
のちに丹後守護職に任命されるが、父の死後、家臣団の
内紛が発生し、その鎮圧に奔走。1409年に死去した。
父とともに一色家を四職へと押し上げ、一色氏最盛期を築いた。
渋川義行
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 37 | 32 | 46 | 49 | 55 | 名声 | 人脈 | 消沈 | 惰弱 | 小心 | 鼓舞 | 牽制 | 地域巡回 | 割拠 | |||
【シブカワヨシユキ】
南北朝時代の武将。渋川直頼の嫡男。
叔母に足利義詮の正室でもある渋川幸子がいる。
父の早逝に伴い9歳で家督を相続し、備中備後守護となる。
渋川幸子の差配で九州探題に任命されるが、菊池武光らの勢威が強大で
九州に入る事すらできず解任される。失意のまま京へ帰国し、出家後に早逝した。
補足:九州攻略が全く進まないことを重く見た室町幕府は次の九州探題に今川了俊を送り込んだ。
今川貞世(今川了俊)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 94 | 82 | 91 | 88 | 76 | 機略 | 動員 | 文化 | 学者 | 史官 | 軍制改革 4 | 王道 | |||||
| 94 | 82 | 91 | 88 | 76 | 矍鑠 | 洞察 | 動員 | 機略 | 特使 | 軍制改革 4 | 王道 | |||||
| 94 | 82 | 91 | 88 | 76 | 矍鑠 | 洞察 | 動員 | 機略 | 特使 | 破竹之勢 | 鼓舞 | 急襲 | 突撃 | 混乱 | 三軍強化 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 94 | 82 | 91 | 81 | 84 | 矍鑠 | 洞察 | 動員 | 機略 | 特使 | 破竹之勢 | 鼓舞 | 急襲 | 突撃 | 混乱 | 三軍強化 | 王道 |
| 94 | 82 | 91 | 81 | 84 | 矍鑠 | 沈着 | 泰然 | 機略 | 規律 | 破竹之勢 | 鼓舞 | 急襲 | 突撃 | 混乱 | 三軍強化 | 王道 |
【イマガワサダヨ】
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。今川了俊と呼ばれることも多い。
知勇に優れ、また歌人でもあり書物を残すなど文化人でもある。
足利義詮に仕え、義詮が病没すると義満に仕えた。
1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、少弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、
大内氏らの援助もあって1391年に九州をほぼ平定、
1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
親愛武将:細川頼之、大内義弘
今川貞臣
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 83 | 80 | 72 | 81 | 堅守 | 堅牢 | 泰然 | 規律 | 沈着 | 堅城鉄壁 | 治療 | 激励 | 斉射 | 奮戦 | 城壁拡張 | 王道 |
【イマガワサダオミ】
足利一門今川家の出身。今川了俊の嫡男。
父が九州探題に任命されると、先発隊として豊後に上陸。
田原氏能らと協力して豊後高崎城にて半年近く籠城戦を行い、
菊池武光、菊池武政らの猛攻を耐え抜いた。
以後は豊後方面から北朝方の九州制圧に貢献。
肥後守護に任命されたが、のちに解任され、遠江を治めた。
今川仲秋
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 87 | 81 | 75 | 70 | 補佐 | 地利 | 教化 | 護衛 | 罠破 | 変幻要撃 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 奮戦 | 鶴翼強化 | 割拠 |
【イマガワナカアキ】
足利一門今川家の出身。今川範国の末子で、今川了俊の養子。
今川了俊の後任として侍所頭人となり、了俊に従って九州に下向。
肥前では南朝方の菊池武政を破り松浦党と結んで南朝勢力を攻略。
その後は今川了俊に従って南朝拠点の太宰府と、菊池氏拠点の隈府を制圧。
水島の変では南北朝を行き来していた少弐冬資を暗殺し、九州の
南朝勢力駆逐に貢献した。晩年は遠江今川氏当主となる。末子である国秋は肥前今川家の祖となった。
補足:生没年は不詳。ただし兄、了俊の養子となっていることから、年齢は離れていたものとみられている。
今川泰範
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 73 | 50 | 66 | 79 | 護衛 | 強奪 | 血路 | 直情 | 功名 | 奮戦 | 突撃 | 激励 | 斉射 | 牽制 | 地域振興 | 拡張 |
【イマガワヤスノリ】
南北朝、室町時代の人物。駿河今川家の当主。
今川範氏の次男として誕生。僧籍であったが父範氏、兄氏家の早逝後、祖父範国が
今川了俊に家督を継がせようとするも固辞、その子である今川貞臣も固辞したことで、
今川家の家督を還俗して継ぎ、今川家当主と駿河守護となる。以後は
足利義満に近侍し、明徳の乱や応永の乱では奮戦して武功をあげた。
のちに今川了俊が九州探題を解任されると了俊と対立するが、家督相続の恩は忘れず、
足利義満が今川了俊の討伐を考慮すると必死に助命嘆願を行った。
石橋和義
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 75 | 75 | 80 | 68 | 堅守 | 堅牢 | 召募 | 興望 | 牽制 | 鉄壁 | 足止 | 城壁拡張 | 王道 | |||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 75 | 74 | 78 | 72 | 堅守 | 堅牢 | 召募 | 興望 | 節約 | 聡明剛毅 | 鉄壁 | 足止 | 牽制 | 斉射 | 城壁拡張 | 割拠 |
【イシバシマサヨシ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。父は足利義博。
足利尊氏が九州へ逃亡した際に中国地方の国人を糾合し、備前国三石城において
南朝側の軍勢を防ぎ尊氏が勢力を盛り返す為の時間稼ぎに大いに貢献した。
直義派であったが尊氏に転じ、幕府においては引付頭人になる等幕政にて
重んぜられたが斯波高経と対立した事で失脚。のちに子である
石橋棟義が奥州総大将に任命されると、その補佐のために奥羽へ下った。
諸大名・家臣
伊勢貞継
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 3 | 5 | 91 | 94 | 83 | 王佐 | 教化 | 論客 | 仁政 | 輿望 | 先従隗始 | 礼教 | |||||
| 3 | 5 | 88 | 94 | 83 | 王佐 | 教化 | 論客 | 仁政 | 輿望 | 先従隗始 | 礼教 | |||||
【イセサダツグ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。
足利貞氏、足利尊氏、足利義詮、足利義満の4代に仕えた重臣。
足利貞氏から偏諱を授かり、足利家の官僚として尊氏の覇業を支えた。
観応の擾乱でも一貫して足利尊氏を支持。足利尊氏没後は
室町幕府の政所執事を長年つとめ、のちに足利義満の教育係となった。
赤松貞範
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 79 | 71 | 75 | 72 | 築城 | 昂揚 | 疾走 | 地利 | 寡欲 | 突撃 | 激励 | 斉射 | 奮戦 | 鯨波 | 方円強化 | 割拠 |
| 80 | 79 | 71 | 75 | 72 | 築城 | 昂揚 | 疾走 | 地利 | 寡欲 | 確乎不動 | 激励 | 斉射 | 奮戦 | 突撃 | 方円強化 | 割拠 |
【アカマツサダノリ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。赤松円心の次男。
後醍醐天皇の挙兵に際して父に従い各地で軍功を立てた。
建武政権での冷遇を経て、父とともに足利尊氏に仕える。
中先代の乱鎮圧戦や竹ノ下の戦いで活躍し、特に竹ノ下の戦いでは
新田義貞の軍に対して先陣を切って尊氏の勝利に貢献した。
のちに足利直冬や山名時氏に備えて中国方面の防備を固め、
姫路城の前身となる姫山城を築いた。1374年に死去した。
赤松則祐
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 87 | 83 | 85 | 89 | 80 | 堅守 | 補佐 | 文化 | 泰然 | 規律 | 聡明剛毅 | 足止 | 激励 | 治療 | 突撃 | 地勢研究 | 名利 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 87 | 83 | 85 | 82 | 80 | 神眼 | 補佐 | 文化 | 泰然 | 堅守 | 聡明剛毅 | 足止 | 激励 | 治療 | 突撃 | 地勢研究 | 名利 |
【アカマツソクユウ(アカマツノリスケ)】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。赤松円心の三男。
鎌倉幕府倒幕の際には比叡山延暦寺に入っていたが、護良親王に付き従い父に倒幕を促す。
のちに後醍醐天皇と足利尊氏が決裂すると足利尊氏に味方し、尊氏の九州落ちの際には
父とともに播磨を堅守し、南朝方の九州追撃を防ぎ続けた。父と兄が相次いで死去すると
事実上赤松氏の惣領として君臨し、播磨守護となった。足利義詮が都落ちした際には幼少の
足利義満を庇護。その際に「松囃子(赤松囃子)」を見せたことが全国に伝播するきっかけとなったという。
補足:武勲器量に優れた人物で、その死は時の関白である近衛道嗣も嘆かせた。
補足:神南の戦いでは佐々木道誉とともに足利義詮を補佐し、勝利に貢献した。
赤松義則
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 89 | 73 | 78 | 74 | 猛者 | 柱石 | 泰然 | 築城 | 慈悲 | 単騎駆 | 斉射 | 急襲 | 激励 | 突撃 | 長蛇強化 | 割拠 |
【アカマツヨシノリ】
南北朝時代の武将。赤松則祐の長男。足利義満、足利義持に仕える。
石清水八幡宮の造営や寺社の再建などに携わり、侍所別当となった。
叔父の赤松氏範が南朝方として挙兵するとこれと戦い自害に追い込み、
明徳の乱や応永の乱でも武功をあげ、一色山名京極と並んで「四職」と言われるほどの
重鎮となる。足利義満の没後は足利義持に仕え、幕府重鎮として重きをなした。
人斬り「大童子」を単騎で討ち取ったという逸話がある。
※幕府の重鎮として重きをなしたが、息子の赤松満祐や赤松則繁は嘉吉の乱の中心人物となる。
武田信成
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 61 | 70 | 73 | 62 | 召募 | 教化 | 動員 | 補佐 | 文化 | 突撃 | 鼓舞 | 鎮静 | 足止 | 奮戦 | 戸籍整備 | 割拠 |
【タケダノブナリ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。武田信武の長男。甲斐武田家を継ぐ。
長男ではあるが、現在では庶子とする見方が有力。
父、武田信武とともに足利尊氏に従い、父が甲斐守護に任命されると、
足利尊氏に近侍する父にかわって守護代として甲斐を統治。
甲斐国衆の軍勢招集に貢献し、足利尊氏の南朝勢力との戦いを支えた。
のちに臨済宗に帰依し、寺領を寄進した。1394年に死去した。
補足:従来、甲斐守護を継承し嫡男であると目されていたが、近年では甲斐守護は武田信武から武田信成の子である武田信春に直接相続されたとみられており、現在では信成が庶子で氏信が嫡男とみられている
武田氏信
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 78 | 52 | 57 | 65 | 森戦 | 動員 | 崩壁 | 調練 | 功名 | 突撃 | 激励 | 牽制 | 大喝 | 鯨波 | 錐行強化 | 割拠 |
【タケダウジノブ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。武田信武の次男。安芸武田家を継ぐ。
次男ではあるが、事実上嫡男であったとみられ、
足利貞氏の偏諱を授かり氏信と名乗った。その後の
建武の乱では足利尊氏に付き従った父、武田信武に従い、
信武の没後は安芸守護を引き継ぐ。以後も尊氏方として
毛利親衡や足利直冬と勢力を争った。しかし安芸守護を解任され、そののち九州探題に
任命された今川了俊が安芸守護に任命されると不満を強くし、幕府の九州征伐に従わず隠居した。
補足:幕府は氏信の離反を恐れて佐東郡の分郡守護に任命する。これがのちの安芸武田家の勢力基盤となった。
補足:死没年は1380年頃とみられる
土岐頼康
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 84 | 83 | 80 | 89 | 任才 | 護衛 | 地利 | 詩想 | 補佐 | 修文練武 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 斉射 | 地勢研究 | 割拠 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 81 | 85 | 80 | 84 | 任才 | 護衛 | 地利 | 詩想 | 補佐 | 修文練武 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 斉射 | 地勢研究 | 割拠 |
【トキヨリヤス】
南北朝時代の武将。父は土岐頼清。土岐氏中興の祖。従兄弟に明智氏の祖である明智頼重。
土岐家惣領であった叔父である土岐頼遠に早くから従い、各地の合戦に参加した。
土岐頼遠が刑死すると、断絶を惜しんだ足利尊氏によって再興され、土岐家当主となった。
その恩から観応の擾乱では一貫して足利尊氏を支持、尊氏・義詮を補佐して南朝との戦いで
軍功を立てる一方、京から逃れてきた後光厳天皇を迎え入れるなど幕府軍重鎮として活躍。
晩年は美濃・尾張・伊勢の守護職に任じられ、侍所頭人となるなど土岐氏最盛期を築く。
武勇に優れた一方で、勅撰和歌集に多くの和歌を残した。
※ 足利尊氏、足利義詮、足利義満から重用されたが、細川頼之と対立し、康暦の政変など一悶着を起こす。後に跡を継いだ甥の土岐康行は足利義満に警戒され、領地を削減された
※ その後の土岐氏は美濃一国の守護として君臨。美濃尾張伊勢を併せて統治する人物は戦国時代の織田信長まで登場しなかった。ちなみに弟の頼兼はのちに明智光秀を輩出する明智氏の祖と言われる。
土岐頼忠
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 69 | 67 | 56 | 60 | 54 | 慰撫 | 動員 | 調練 | 人脈 | 封殺 | 突撃 | 激励 | 急襲 | 地域振興 | 割拠 | ||
【トキヨリタダ】
南北朝時代の武将。土岐頼清の子で、土岐頼康の弟。
兄の土岐頼康に仕え、土岐頼雄とともに頼康を支えた。
のちに甥の土岐康行が足利義満に反乱を起こすと、
足利義満方に味方し、康行討伐の兵を挙げた。
乱後、足利義満から美濃守護の地位を授けられたが、統治に苦労しその安寧に心を砕いた。
補足:1397年に死没。土岐康行の乱の時点で既に齢70歳近くであった。
土岐頼雄
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 52 | 50 | 59 | 61 | 58 | 屯田 | 築城 | 召募 | 文化 | 振興 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 地勢研究 | 割拠 | ||
【トキヨリカツ】
南北朝時代の武将。土岐頼清の子で、土岐頼康の弟。
兄である土岐頼康に従い、足利尊氏に仕えた。
観応の擾乱では兄とともに足利尊氏と高師直を支持、
のちに揖斐城を築いて弟の土岐頼忠とともに土岐頼康を支えた。
子息、土岐康行は兄の養子となった。1380年死没。
土岐康行
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 63 | 45 | 44 | 57 | 動員 | 調練 | 召募 | 軽率 | 直情 | 斉射 | 激励 | 大喝 | 地域巡回 | 割拠 | ||
【トキヤスユキ】
南北朝時代の武将。土岐頼雄の子で、土岐頼康の甥。
土岐頼康の養子となって家督相続をするが、弟の土岐満貞や
一族同士の争いを起こして幕府と衝突し、土岐康行の乱を起こす。
乱後、美濃尾張伊勢の守護職を解任されて降伏した。のちに
許されて足利義満に仕え、明徳の乱では幕府軍として戦功をあげ伊勢半国守護となった。
土岐満貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 35 | 39 | 32 | 41 | 33 | 動員 | 浪費 | 悪名 | 直情 | 強欲 | 罵声 | 侵略荒廃 | 割拠 | ||||
【トキミツサダ】
南北朝時代の武将。土岐頼雄の子で、土岐頼康の甥。
土岐康行の弟で足利義満に近習として仕えた。
しかし野心高く尾張守護だけでは飽き足らず惣領の座を狙って
兄、康行に対する讒言を義満に流し、結果的に土岐氏内紛の引き金を引く。
自らは尾張守護代である土岐詮直に敗れ、結果的に美濃守護は叔父である土岐頼忠が継ぐ。
明徳の乱でも足利義満方に従うが、卑怯な振る舞いをしたとして尾張守護を剥奪され、以後は没落した。没年不明。
補足:明徳記によると明徳の乱では味方が落としていった敵将の首を自らの武功として誇ったため義満の不興を買ったとされる。ただしこの逸話は明徳記のみにしか出てこない
京極高秀
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 75 | 59 | 35 | 68 | 昂揚 | 粉砕 | 怒髪 | 粗忽 | 高慢 | 挑発 | 急襲 | 突撃 | 業火 | 罵声 | 侵略荒廃 | 我道 |
【キョウゴクタカヒデ】
鎌倉・南北朝時代の武将。佐々木道誉の三男。京極氏を名乗り、実質的な祖となる。
兄2人の戦死により家督を相続し、侍所所司と山城国守護をつとめたが、
南朝に寝返った細川清氏の軍勢を一矢交えず素通りさせたこともあった。
のちに兄、佐々木秀綱の孫、秀頼とお家騒動を起こし、秀頼派の重臣である吉田厳覚を粛清するも
その責を問われて侍所所司を辞任した。六角氏とのお家騒動では細川頼之とも対立し、
斯波義将や土岐頼康とともに康暦の政変を起こすが、自身は領国没収の上失脚。
のちに飛騨守護になった。子息に尼子氏の祖である尼子高久がいる
毛利師親
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 77 | 82 | 76 | 80 | 地利 | 人脈 | 堅牢 | 嚮導 | 明鏡 | 規略明練 | 混乱 | 鼓舞 | 鎮静 | 斉射 | 地勢研究 | 割拠 |
【モウリモロチカ】
南北朝時代の武将。毛利親衡の嫡男。毛利家中興の祖。
一族の多くが南朝に下るなか、曾祖父の毛利時親に支えられ、
足利尊氏に仕えた。高師泰から偏諱を授けられ「師親」と名乗るが、
師泰没落後は「毛利元春」と名乗る。安芸吉田荘の所領を守って
「郡山殿」と呼ばれ、観応の擾乱の際には南朝に下った一族とも協力して命脈を保った。
のちに今川了俊の九州平定に従軍して功を挙げた。大内弘世との対立を切り抜け、安芸毛利氏の基盤を築いた。
補足:没年は不詳。1381年頃ともいわれる。
補足:毛利元春の名乗りの時期の方が長いのだが、吉川元春との混同を避けるため初名の師親で言われることが多い。
大友氏時
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 63 | 74 | 78 | 72 | 堅牢 | 築城 | 動員 | 強運 | 召募 | 斉射 | 混乱 | 鼓舞 | 地域振興 | 割拠 | ||
【オオトモウジトキ】
南北朝時代の人物。大友貞宗の七男。
兄でもあり前当主であった大友氏泰から家督を譲られ、
大友家当主となる。足利尊氏の再起に尽力し、足利尊氏の猶子となる。
観応の擾乱以降は九州にいながら一貫して足利尊氏に追従同調し、
斯波氏経や少弐頼尚らと組んで南朝方の菊池武光や懐良親王らと争う。
高崎山城を整備し菊池軍の猛攻を耐え凌ぐが、筑後川の戦いや
長者原の戦いで敗れた。のちに長男の氏継は南朝、次男の親世は北朝につき、大友家は分裂した。
大友親世
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 74 | 89 | 88 | 87 | 策士 | 扇動 | 地利 | 教唆 | 嚮導 | 混水摸魚 | 混乱 | 挑発 | 罵声 | 鼓舞 | 墨守研究 | 割拠 |
【オオトモチカヨ】
南北朝、室町時代の人物。大友氏時の次男。
兄である大友氏継が南朝に属したため、北朝方の大友家当主として擁立される。
当初は兄である氏継に劣勢となるが、今川了俊が九州上陸してくると
これに協力し、今川了俊の九州制圧事業に貢献した。
一方で、利害関係から了俊と対立することもあり、南北朝合一後は
中央と連携して今川了俊の九州探題を解任させた。その後は
大友家の繁栄に心を砕き、筑前豊後の守護となった。
田原氏能
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 62 | 74 | 75 | 70 | 特使 | 地利 | 一心 | 輿望 | 調練 | 斉射 | 牽制 | 足止 | 鎮静 | 鼓舞 | 三令五申 | 割拠 |
【タワラウジヨシ】
南北朝、室町時代の人物。大友氏の一族。
田原貞広の子で、針摺原の戦いで戦死した父の跡を継ぐ。
室町幕府に嘆願して九州探題の下向を幾度も要請し、
渋川義行が九州探題となった際には事実上、九州幕府勢力の長となる。
のちに今川了俊が九州探題として下向するとその指揮下に入り、
今川貞臣と協力して高崎山城で南朝勢力の攻勢を防ぎ、巻き返しの口火を切る。
南北朝の対立が終結した後も幕府と交流を続け、本家大友氏と対立。独自の勢力を築いた。1393年死去。
島津伊久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 57 | 55 | 44 | 48 | 62 | 怒髪 | 動員 | 軽率 | 直情 | 消沈 | 牽制 | 混乱 | 地勢研究 | 割拠 | |||
【シマヅコレヒサ】
南北朝時代の武将。祖父は島津貞久。父は島津師久。島津総州家。
水島の変後に亡くなった父、島津師久の跡を継いで
島津総州家を継ぎ、島津奥州家と協調して今川了俊相手に
和解と敵対を繰り返した。のちに南北朝が合一すると、
大友親世らと協力して今川了俊の九州探題解任を実現させる。
しかし今川了俊の九州退去後に、嫡男の島津守久と対立。奥州家の
島津元久の介入も受け、島津総州家の没落を見ながら1407年に死没した。
補足:死後、島津総州家は島津奥州家との戦いに敗れ、1430年に断絶する。
島津氏久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 70 | 73 | 80 | 79 | 嚮導 | 輿望 | 徴税 | 地利 | 動員 | 鉄壁 | 牽制 | 混乱 | 斉射 | 激励 | 墨守研究 | 割拠 |
| 81 | 70 | 73 | 80 | 79 | 嚮導 | 輿望 | 徴税 | 地利 | 動員 | 図南之翼 | 鉄壁 | 混乱 | 斉射 | 激励 | 墨守研究 | 割拠 |
【シマヅウジヒサ】
南北朝時代の武将。島津貞久の四男。島津奥州家。
観応の擾乱では足利尊氏に味方し、足利直冬と九州を争った。
のちに南朝に帰順して直冬方の畠山直顕と争い、さらに
北朝に帰順。今川了俊が九州探題に赴任すると了俊に味方するが
水島の変で少弐冬資が殺害されると面従腹背を貫き、
了俊の子である今川満範が南九州に攻めてくるとこれを撃退した。
最終的には北朝に属し、1387年死去。
補足:子孫に島津義久、島津義弘らがいる。