注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(南北朝時代)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1275年、長講堂領を中心とする持明院統、八条院領を中心とする大覚寺統と、大規模荘園を擁する
天皇家の2つの皇統において皇位を巡った対立が頂点を迎える。
時の執権であった北条長時の差配により、持明院統、大覚寺統それぞれが交互に天皇を輩出するということとなった。
これが世にいう両統迭立である。
両統迭立により、天皇が2つの家系から輩出され、天皇を譲位した人間が治天の君となり、
その子孫からまた天皇が擁立される、という両統迭立は、1308年に転機を迎える。
大覚寺統の尊治親王が即位し、後醍醐天皇として君臨した。
しかし、後醍醐天皇は、いずれ天皇に即位する幼少の邦良親王の代役に過ぎなかった。
そのため、後醍醐の子孫から天皇は擁立しない、という既定路線があった。
これを知った後醍醐天皇は激怒し、後醍醐天皇の父である後宇多が死去すると、邦良親王との対立は激化した。
鎌倉幕府が後宇多・邦良両人の味方をしたことにより、後醍醐天皇はその後幾度となく倒幕を計画する。
そして1333年、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力によって、鎌倉幕府の滅亡となった。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐は自ら政治を取り、武士、公家の権勢を抑える天皇専制政治を志した。これを建武の新政という。
しかし、建武の新政は鎌倉幕府残党であった執権北条家の北条時行の反乱から崩壊が始まり、時行討伐に向かった足利尊氏が離反すると、にわかに混乱状態となる。
足利尊氏は弾圧されていた持明院統の豊仁親王を光明天皇として即位させ、ここに「一天両帝南北京」とされる南北朝時代が始まることになる。
その後、1392年に足利義満の手によって南北朝合一となり、南北朝時代は終わりを迎える。
しかし、その後も後南朝と呼ばれる南朝遺臣達の復興運動はしばらく続いた。
最終的には、10代将軍の父である足利義視や、北条早雲(伊勢盛時)の手によって衰退している。
南北朝時代は豪華絢爛、権威軽視、傍若無人を是とする、いわゆる「婆娑羅」の風潮が強く、また権力闘争や血統争いの側面から南朝・北朝どちらにも味方した勢力は数多い。
北朝(室町幕府・持明院統)
室町幕府の創始者である足利尊氏を祖とする勢力。北朝である持明院統を擁立し、支持することで正当性を確保した。
始祖の尊氏は鎌倉幕府滅亡に功をあげ、後醍醐天皇から「尊」の諱を下賜されたが、やがて両者は対立し、
1338年、足利尊氏は持明院統の光明天皇から征夷大将軍に任命された。当初は弟の足利直義とともに
両将軍という地位を以て幕府を運営していたが、最終的に直義と対立して観応の擾乱を起こす。その後、
2代将軍足利義詮の代になって多くの守護大名を糾合。南朝に対する決定的な優位を確保するに至り、
幾ばくの内乱を経て3代将軍足利義満の代に京都室町に居を構え、南北朝合一を果たす。
6代将軍義教の暗殺以降は将軍の権威が低下して守護大名が影響を持つようになり、
応仁の乱を機に乱世の様相を呈するようになった。
15代将軍である足利義昭が1573年に織田信長に追放されるまで、室町幕府は存続したと言われている。
量仁親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
5 | 1 | 70 | 45 | 77 | 詩想 | 再起 | 名声 | 柱石 | 教唆 | 縦横術 | 礼教 |
【かずひとしんのう】
鎌倉時代末期の天皇。持明院統の後伏見天皇の第三皇子。北朝初代天皇・光厳天皇。
大覚寺統の後醍醐天皇と甥である皇太子・邦良親王の対立が深まると、持明院統は邦良を支援する見返りに量仁の次期立太子を画策していたが、邦良の急死を受けた鎌倉幕府の裁定で新しい皇太子に立てられる。
後醍醐天皇が隠岐に流されると、鎌倉幕府によって新しい天皇に立てられる。
しかし、後醍醐の呼びかけに応じた諸国の武士が鎌倉幕府を倒すと、後醍醐は自身の廃位と量仁の即位を否定しただけでなく、准太上天皇として待遇することとされて事実上皇太子としても廃された。
しかし、その後も後醍醐天皇の建武政権打倒に暗躍したとされ、足利尊氏が後醍醐と対立すると後醍醐派の武士の討伐を命じる院宣を与え、尊氏はその後ろ盾で建武政権を倒した。
その後、自らは復位せず、弟(光明天皇)を即位させて院政を開始し、次いで自分の長男(崇光天皇)を即位させた。
ところが、後醍醐天皇亡き後の南朝軍が足利尊氏・直義兄弟の争いの混乱に乗じて京都を占領すると捕らえられて吉野に強制連行されてしまう。
その後、足利尊氏が再び優位に立つと京都に帰還したが、室町幕府では既に本来出家させる予定であった次男(後光厳天皇)を即位させており、崇光の子孫に皇位を戻すように主張する光厳と後光厳の子孫に皇位を継がせることを決定した尊氏の間で対立し、晩年は一転して室町幕府の政治的圧迫の中で過ごした。
歌人として有名な他、茶道のルーツである闘茶の祖とする伝説があるがこちらは史実とは合致していないようである。
※捕虜になる可能性が高くなる赤個性があれば間違いなく付くところだが、そうした個性は存在しないため、代わりに捕虜返還の条件が厳しくなる「名声」を付与。
足利尊氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 67 | 77 | 88 | 99 | 奸雄 | 求心 | 再起 | 詩想 | 優柔 | 大器大徳 | 酖毒 | 火矢 | 鼓舞 | 駆逐 | 先従隗始 | 我道 |
信長の野望、革新の追加武将の1人。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 84 | 81 | 73 | 95 | 奸雄 | 求心 | 再起 | 詩想 | 優柔 | 大器大徳 | 酖毒 | 火矢 | 鼓舞 | 駆逐 | 先従隗始 | 我道 |
(能力値合計は上と同じ。全体的にマイルドにしているが、特に政治に関しては弟の足利直義ら多くの家臣に任せているため、そこを大きく下げて他の数値に割り振っている)
※別案(基本スタンスは上と同じだが、室町幕府創始者、戦乱を駆け抜け確たる権力を築いた軍事面の功績をより評価。政治は据え置き)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
95 | 91 | 87 | 73 | 95 | 奸雄 | 任才 | 再起 | 詩想 | 求心 | 大器大徳 | 酖毒 | 火矢 | 鼓舞 | 駆逐 | 突撃 | 先従隗始 | 我道 |
【アシカガタカウジ】
室町幕府の創始者。源義家を祖とする清和源氏の名門。初名高氏。
後醍醐天皇の決起に呼応して鎌倉幕府を離反。討幕に功績をあげる。
討幕後は武士を蔑にする後醍醐天皇と対立。北畠顕家、楠正成らに敗北を繰り返し九州まで追われたが、
多々良浜の戦いで10倍の兵力を覆し再起を果たす。その後、上洛を果たし征夷大将軍に就任した。
戦前の皇史観では極悪人と評されたが、何度敗北しても人望を失わない優れた将器の持ち主で、
当時の高僧夢窓疎石曰く「尊氏は褒美をケチらない太っ腹な人物だったのが勝因」と分析している。
※その他候補となった特技:威風・名声
足利義詮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 51 | 81 | 89 | 80 | 詩想 | 再起 | 使役 | 法律 | 短慮 | 縦横術 | 名利 |
※別案(統率を大幅に弱化。赤松則祐、佐々木道誉の能力値に功績分与した)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
62 | 51 | 81 | 89 | 80 | 詩想 | 再起 | 使役 | 法律 | 短慮 | 縦横術 | 名利 |
【アシカガヨシアキラ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。足利尊氏の嫡男。室町幕府第2代将軍。執権北条氏の御一門でもある。
母とともに鎌倉に人質となっていたが、父の高氏が六波羅探題を攻めた際に足利家臣に連れられ、
鎌倉攻撃を企図する新田義貞の軍に合流。鎌倉幕府の滅亡後は叔父の直義とともに鎌倉を統治し、
足利尊氏が建武政権から離反した後も父に従った。観応の擾乱で叔父直義が離反すると、尊氏によって
京に呼び戻され、以後足利軍の政軍における中核を成す。叔父であった足利直義の死後は、その後を継いだ
異母兄の足利直冬と対立。神南の戦いで中心的な役割を果たし、直冬勢力を滅ぼすことに成功した。
父の死後将軍職を継ぎ、南朝に与した勢力を次々と傘下に入れたが、1367年早逝。南北朝の合一は息子義満によって果たされる。
足利義満
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
95 | 42 | 98 | 99 | 91 | 虚実 | 梟雄 | 富豪 | 徴税 | 文化 | 深謀遠慮 | 活殺自在 | 以逸待労 | 混乱 | 挑発 | 牽制 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【アシカガヨシミツ】
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
※その他候補となった特技:明鏡
足利基氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 69 | 76 | 83 | 88 | 慈悲 | 楽奏 | 文化 | 名声 | 虚弱 | 太学 4 | 王道 |
【アシカガモトウジ】
南北朝時代の人物。足利尊氏の四男で義詮の弟。
はじめ兄の義詮の後任として、叔父にあたる足利直義の側近くに置かれた。観応の擾乱で直義が没落すると
そのまま鎌倉に居座り、鎌倉府の重鎮として足利幕府を補佐しつつ、独自の勢力を築いた。
その後は関東に居座る北条時行・新田義興ら南朝勢力と抗争を続け、これを滅ぼした。
薩埵山体制と呼ばれる鎌倉府独自の体制を築き上げ、鎌倉府の祖となったが、後に
畠山国清の失脚、宇都宮氏綱や関東管領となった上杉氏との権力対立などもあり、
不穏分子を抱えたまま28歳で早逝した。武勇の誉れ高く、教養人であったと言われている。
高師泰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 95 | 65 | 57 | 2 | 驍将 | 崩壁 | 長駆 | 高慢 | 粗暴 | 侵略荒廃 | 我道 |
【コウノモロヤス】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。高師直の実兄(弟とする資料もある)。高家は父祖の代より足利家重臣筆頭の家柄で、
師泰も足利尊氏の重臣として鎌倉倒幕に貢献。建武政権では尾張権守に任官され政治の一翼を担ったが、足利尊氏の離反に同調。
同時期に北条時行と戦い中先代の乱を鎮定、新田義貞に一度敗れるが、足利尊氏と合流して箱根で撃退する。
その後は足利尊氏に付き従い、軍事の中核を担った。尊氏九州落ちの際には多々良浜の合戦で先陣を務め、
尊氏再起の後に楠木正成、北畠顕家、新田義貞に対する討伐軍の重鎮としてそれぞれ討ち果たし、
1347年には楠木正行を討った後南朝本拠の吉野を襲撃して焼き討ちにした。
足利尊氏の重鎮として権勢を誇ったものの比例して傲岸な態度が目立つようになり、
観応の擾乱で南朝方と手を組んだ足利直義に敗れ排斥される。その後直義方の上杉能憲らに師直ら一族ともども暗殺された。
※ 弟と言われる高師直とともに、武家勢力の拡充を図ったが、一方で驕りによる傍若無人な振る舞いも起こした。婆娑羅の影響を受けていたとも言われている。
高師直
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 65 | 75 | 78 | 27 | 梟雄 | 詩想 | 能吏 | 文化 | 悪名 | 極焔 | 文事武備 | 我道 |
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 75 | 75 | 91 | 27 | 梟雄 | 詩想 | 能吏 | 文化 | 悪名 | 極焔 | 文事武備 | 我道 | ||||
92 | 80 | 88 | 91 | 3 | 梟雄 | 詩想 | 能吏 | 文化 | 悪名 | 極焔 | 活殺自在 | 文事武備 | 我道 |
【コウノモロナオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
足利尊氏の側近として倒幕に参加。尊氏の覇道を支え室町幕府成立に多大な功績を残した。
幕府の成立後に尊氏の弟・直義と対立。観応の擾乱を引き起こし殺害される。
贅沢を好む奢侈な人柄と「院・帝は木像で十分」と言い放つなど権威を軽んじる傲慢な人物だったため、
朝廷重視、鎌倉幕府を参考とした保守型の直義を筆頭に政敵が多く、
人妻横取りなど素行の悪さから中世最大の悪玉と称される。
その一方で兵卒に自身の鎧を気前よく貸し与えるなど合理性に富み、後醍醐と正反対の社会情勢に合致した行政改革を行った。
悪玉論は講談の中のものであり、近年では再評価が進んでいる。
補足:足利尊氏の重鎮として、南北朝の動乱で楠木正成、北畠顕家、楠木正行ら数々の強敵を打ち破ったが、最後は直義との対立で破滅する。ただし、直義との対立は巻き込まれた側面も多いとする意見もある。
※その他候補となった特技:昂揚・名声
高師冬
生年 | 登場 | 没年 |
1351年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 72 | 73 | 76 | 57 | 崩壁 | 惰弱 | 地勢研究 | 王道 |
【コウノモロフユ】
南北朝時代の武将。高師直・師泰兄弟の従兄弟にあたる。
南北朝の戦乱においては常陸国を拠点に抵抗を続ける北畠親房らの南朝方勢力に対し、
1338年から足掛け5年間討伐に従事し常陸国の南朝勢力の駆逐に成功、その功績により
関東執事職に任じられ後に鎌倉公方となった足利基氏の補佐を上杉憲顕と共に務めた。
しかし観応の擾乱において直義派であった憲顕と対立、甲斐国に逃れるも追い詰められて自害した。
嫌悪武将:上杉憲顕
親愛武将:足利義詮 足利直義
嫌悪武将:高師冬
二条良基
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
25 | 4 | 77 | 78 | 64 | 文化 | 眼力 | 学者 | 史官 | 功名 | 政令徹底 | 我道 |
【ニジョウヨシモト】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。摂関家二条家当主で摂政関白を4度(数え方によっては5度)にわたって務める。
南北朝時代の分裂時には北朝に仕えて、政策的には後醍醐天皇の路線を一部受け継ぎながらも室町幕府との協調路線を取る。
観応の擾乱後に南朝軍によって光厳上皇や崇光天皇が連行されると南朝に仕えるか引退するかで判断を迷わせるが、
足利尊氏や勧修寺経顕の策に従って後光厳天皇の擁立を決断、以降北朝の主導権を握って「天下独歩」と評された一方、
観応の擾乱の教訓から北朝と室町幕府の一体化を進める方策を志向して、足利義満に公家としての有職故実を伝授して朝廷への参画を促した。
後世、「公武合体政権」とも評価された室町幕府の朝廷政策に大きな影響を与えた一方、
68歳で摂政太政大臣として後小松天皇の加冠を行い(その補佐の理髪役には左大臣の足利義満を指名した)、翌年に死去するまで摂関の地位を手放さなかったことから多くの政敵から批判された。
有職故実に詳しく、連歌の大成者としても名を残すほか、『増鏡』の著者としても有力視されている。
また、故実を重視する一方で新しい文化にも関心を抱いて救済や世阿弥を抜擢、特に後者はそれまで下賎の芸能とみなされていた能を芸術の域に高めることになった。
洞院公賢
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
17 | 3 | 62 | 73 | 85 | 名声 | 学者 | 史官 | 智嚢 | 優柔 | 太学 | 礼教 |
【トウインキンカタ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。北朝で太政大臣を務めた。
西園寺家の分家として朝廷で権勢を振るった洞院家の当主にして有職故実の大家であったことから、歴代天皇に信頼された。
阿野廉子の養父になっていたことから、後醍醐天皇の建武政権において左大臣に任じられて、義良親王(後村上天皇)の加冠役を務めた。
光厳上皇からも信頼が厚く、北朝でも太政大臣に任じられて摂関家の二条良基と権勢を競った。
観応の擾乱後の南北朝の統一交渉でも両朝に対する人的つながりから纏め役を任されるが、
交渉の決裂によって光厳上皇や崇光天皇の連行を招いたことから良基に主導権を奪われて、以後政治的影響力を低下させた。
それでも、摂関家である一条家・鷹司家・近衛家がいずれも公賢と婚姻関係を結んで良基と対抗しようとしていたために晩年まで彼らの後見役としてその名声は高かった。
歴史書『皇代暦』や多くの有職故実書を著した他、日記『園太暦』は南北朝時代の政治動向を知る上での貴重な史料である。
赤松円心
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 75 | 89 | 74 | 80 | 剛将 | 詭計 | 堅牢 | 築城 | 怒髪 | 地勢研究 | 名利 |
【アカマツエンシン】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。もとの名を則村。
後醍醐天皇の挙兵に際し、護良親王の令旨を受けて参戦。
瀬川の戦いでは3千の兵力で20万の鎌倉幕府軍を撃破した。
建武の新政に反発し、足利尊氏に接近。
九州へ逃れる尊氏軍を助け、 追撃してきた追討軍を撃退して時間を稼いだ。
赤松則祐
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 83 | 85 | 89 | 80 | 堅守 | 補佐 | 文化 | 泰然 | 規律 | 地勢研究 | 名利 |
【アカマツソクユウ(アカマツノリスケ)】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。赤松円心の三男。
鎌倉幕府倒幕の際には比叡山延暦寺に入っていたが、護良親王に付き従い父に倒幕を促す。
のちに後醍醐天皇と足利尊氏が決裂すると足利尊氏に味方し、尊氏の九州落ちの際には
父とともに播磨を堅守し、南朝方の九州追撃を防ぎ続けた。父と兄が相次いで死去すると
事実上赤松氏の惣領として君臨し、播磨守護となった。足利義詮が都落ちした際には幼少の
足利義満を庇護。その際に「松囃子(赤松囃子)」を見せたことが全国に伝播するきっかけとなったという。
※武勲器量に優れた人物で、その死は時の関白である近衛道嗣も嘆かせた。
仁木頼章
生年 | 登場 | 没年 |
1299年 | 1359年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 71 | 82 | 83 | 70 | 慎重 | 沈着 | 法律 | 政令徹底 | 王道 |
【ニッキヨリアキ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。
足利尊氏の宿将の一人として古くから付き従い、尊氏が九州へ落ち延びた際は
丹波にて南朝側の侵攻に抵抗し観応の擾乱においては一貫して尊氏派として活動、
幕府においては高師直死後の執事として幕政に参与し一時は八カ国の守護にまでなった。
親愛武将:足利尊氏
仁木義長
生年 | 登場 | 没年 |
1376年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 91 | 45 | 53 | 41 | 掃討 | 果敢 | 癇癪 | 高慢 | 悪名 | 黄鬚剛勇 | 侵略荒廃 | 我道 |
【ニッキヨシナガ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。
兄の仁木頼章と共に尊氏の宿将として活動、勇士として知られ尊氏の九州下向
に従い多々良浜の戦いで功績を挙げ九州に残り南朝勢力を撃破した。
幕府成立後は兄と共に重んぜられたが次第に驕慢な振る舞いが目立って諸将と対立し、
尊氏と兄の死後は対立した細川清氏や土岐頼康らにより追討を受け、南朝に一時帰順した。
その後幕府に復帰したが一時は八カ国の守護であった仁木氏の勢力は衰退した。
親愛武将:足利尊氏
嫌悪武将:細川清氏 土岐頼康 六角氏頼
土岐頼遠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 94 | 60 | 51 | 71 | 神威 | 詩想 | 胆力 | 酒乱 | 粗忽 | 三軍強化 | 我道 |
【トキヨリトオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。土岐頼貞の息。
当初は鎌倉幕府に従っていたが、やがて足利尊氏に仕えた。
武勇に優れ、「婆沙羅大名」の異名を取り、美濃青野原の戦いでは数万の
軍勢に対してわずか一千の軍勢で戦い、獅子奮迅の働きを見せる。その後
家督を相続してからも足利尊氏の重鎮として活躍するが、権勢に驕って
光厳上皇の牛車に矢を射かけたため、足利直義の要請により処断された。
土岐頼康
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 84 | 83 | 80 | 89 | 任才 | 護衛 | 地利 | 詩想 | 補佐 |
【トキヨリヤス】
南北朝時代の武将。父は土岐頼清。土岐氏中興の祖。従兄弟に明智氏の祖である明智頼重。
土岐家惣領であった叔父である土岐頼遠に早くから従い、各地の合戦に参加した。
土岐頼遠が刑死すると、断絶を惜しんだ足利尊氏によって再興され、土岐家当主となった。
その恩から観応の擾乱では一貫して足利尊氏を支持、尊氏・義詮を補佐して南朝との戦いで
軍功を立てる一方、京から逃れてきた後光厳天皇を迎え入れるなど幕府軍重鎮として活躍。
晩年は美濃・尾張・伊勢の守護職に任じられ、侍所頭人となるなど土岐氏最盛期を築く。
武勇に優れた一方で、勅撰和歌集に多くの和歌を残した。
※ 足利尊氏、足利義詮、足利義満から重用されたが、細川頼之と対立し、康暦の政変など一悶着を起こす。後に跡を継いだ甥の土岐康行は足利義満に警戒され、領地を削減された
※ その後の土岐氏は美濃一国の守護として君臨。美濃尾張伊勢を併せて統治する人物は戦国時代の織田信長まで登場しなかった。ちなみに弟の頼兼はのちに明智光秀を輩出する明智氏の祖と言われる。
島津貞久
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 70 | 85 | 92 | 87 | 地利 | 召募 | 振興 | 堅牢 | 英名 |
【シマヅサダヒサ】
鎌倉時代及び南北朝時代の人物。九州島津氏第5代当主であり、中興の祖。
9代執権である北条貞時から偏諱を与えられ、貞久と名乗った。元弘の乱では当初鎌倉幕府に
属していたが、足利高氏の勧誘により離反し、太宰府を攻撃して北条英時を自害に追い込む。
その功により高氏から悲願であった薩摩大隅日向の守護に任命され、以後は足利尊氏に追従。
尊氏が九州に逃れてきた時もこれを支援し、多々良浜の戦いにおける尊氏躍進に貢献する。
その後は南朝勢力と戦いながら、足利氏の観応の擾乱も乗り越えて島津氏繁栄の祖となった。
※一時期、薩摩、大隅、日向の守護職に任じられていたが、やがて分裂。しかしこの事実は島津義久ら島津四兄弟が三州制圧するに十分な理想となる。
京極/佐々木道誉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 61 | 88 | 92 | 86 | 虚実 | 詩想 | 文化 | 粉砕 | 高慢 | 反骨刃 | 急襲 | 業火 | 混乱 | 罵声 | 縦横術 | 我道 |
【キョウゴク/ササキドウヨ】
鎌倉・南北朝時代の武将。京極氏の祖。諱は「高氏」。
はじめ北条高時に仕え、高時の「高」を偏諱に賜った。のち元弘の変でも幕府に従軍し、
後醍醐天皇の隠岐配流も見送っている。しかし楠木正成討伐や後醍醐天皇の帰還を機に、
足利高氏と語らって幕府を離反。この際北条仲時を捕え自害させた。建武新政でも朝廷に貢献し、
中先代の乱に対しても朝廷軍として従軍したが、のちに足利尊氏と語らい再び離反。以後、足利尊氏とともに
北朝派の主戦力として、南朝派や直義派との戦いに従事して活躍する。尊氏死後は義詮を支え、政所執事となった。
終生足利家に尽くしたことで幕府内で不動の権力を築いた一方、後世人を食った態度とともに「婆沙羅大名」と言われる。
細川清氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 92 | 63 | 61 | 72 | 豪傑 | 頑健 | 殿軍 | 徴税 | 直情 | 鋒矢強化 3 | 割拠 | |||||
83 | 92 | 63 | 61 | 72 | 豪傑 | 頑健 | 殿軍 | 徴税 | 直情 | 鋒矢強化 3 | 割拠 |
【ホソカワキヨウジ】
足利一門細川家の出身。細川和氏の子。足利尊氏、足利義詮に仕える。
北朝方有力武将として南朝との数々の合戦に参加し、観応の擾乱でも尊氏方として奮闘。
1353年には都落ちする後光厳天皇を護るべく殿をつとめた。その後、足利直冬追討に軍功を上げる
傍ら、評定衆、相模守をつとめて足利幕府の重鎮として内政面でも貢献。2代将軍足利義詮の
就任後は執事管領となる。1360年の南朝追討の際には総大将をつとめ、楠木正儀の本陣奇襲に対して
自ら太刀を持って撃退している。だが、政敵の佐々木道誉の讒言により南朝に投降し、
以後は南朝方の重鎮として北朝方を窮地に陥れる。が、最期は従弟の細川頼之によって討伐され、敗死した。
※ 細川清氏の父である和氏の死後、叔父の細川頼春の後見を受けたが、最期はその頼春の息子である頼之に策として用いられ、敗死の原因となる。優れた猛将であったが、政敵を多く作り対立も多かった。
※その他候補となった特技:護衛・怒髪
細川頼之
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
89 | 78 | 96 | 97 | 85 | 伏龍 | 任才 | 機略 | 王佐 | 論客 | 明鏡止水 | 以逸待労 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 足止 | 経世済民 | 覇道 |
【ホソカワヨリユキ】
足利一門細川家の出身。細川京兆家中興の祖。足利尊氏、足利義詮、足利義満の三代に仕える。
父が南北朝の動乱で戦死したため23歳で当主として尊氏、義詮の軍事行動を助けた。
阿波守護として四国・畿内の南朝勢力と戦い、神南の戦いでは義詮を助けて軍功をあげた。
観応の擾乱が長期化すると足利直冬の根拠地である中国地方征討軍の大将として活動し、軍謀両面で勢力拡大に貢献。
中国平定後は四国征伐軍の大将となり、四国も平定して管領に推挙された。政治面では
義詮死後の幼い足利義満を支え、半済令の制定や朝廷の対立宥和に尽力、戦略面でも中枢を担った。
晩年は反対派の圧力緩和のために一時的に失脚したが、義満の絶大な信頼は揺るがず、重用され続けた。
※ 失脚後は出家したこともあり、細川頼之は幕府の重職につかなかった。しかし足利義満は重職にない頼之を中枢に参加させるため、御前沙汰評定を頻繁に開いたという。一族に細川晴元らを輩出。細川藤孝、細川忠興らは弟である細川頼有の末裔
※その他候補となった特技:論客・築城・洞察
今川了俊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 82 | 91 | 88 | 76 | 機略 | 動員 | 文化 | 学者 | 史官 | 軍制改革 4 | 王道 | |||||
94 | 82 | 91 | 88 | 76 | 矍鑠 | 洞察 | 動員 | 機略 | 特使 | 軍制改革 4 | 王道 |
【イマガワリョウシュン】
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。
知勇に優れ、また歌人でもあり書物を残すなど文化人でもある。
足利義詮に仕え、義詮が病没すると義満に仕えた。
1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、小弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、
大内氏らの援助もあって1391年に九州をほぼ平定、
1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
※その他候補となった特技:勇将・明鏡
大内義弘
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 93 | 84 | 71 | 86 | 驍将 | 豪傑 | 扇動 | 文化 | 親鮮 | 経世済民 2 | 割拠 |
【オオウチヨシヒロ】
南北朝、室町時代の人物。守護大名大内家の当主であり、大内家最盛期の礎を築く。
1374年には当主である父の反対を押し切り九州へ向かい、今川了俊を救援して菊池武朝らを破った。
その後父、弟との対立を経て家督を相続。その後も足利義満の軍事の中枢を担い数々の合戦に
従軍してその勢力拡大に貢献するが、その器量を危険視されて政治的圧力を受ける。
鎌倉公方の足利満兼や今川了俊を頼みに挙兵するが、応永の乱で幕府軍に敗れて敗死した。
常に戦闘で物怖じしない剛勇無双の人物でありながら、当代屈指の教養人であったと伝わる。
※ 多くの戦陣で愛用した薙刀は、その後大内家の家宝として後代に伝えられた。大内家滅亡後、毛利隆元によって厳島神社に奉納される。
吉良満義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
64 | 58 | 87 | 81 | 69 |
【キラミツヨシ】
鎌倉時代及び南北朝時代の人物。足利御一門吉良家の出。
足利尊氏、足利直義兄弟に付き従い、各地を連戦。建武の新政に際して直義とともに
関東統治を任される。足利直義に重用されるが、中先代の乱に際して一族の吉良時衡を
派遣して北条時行の鎮圧を目論むも失敗、北条氏の鎌倉占拠の一因を作る。その後、
北朝方の武将として信濃守護を努めつつ、南朝勢力との戦いに貢献。観応の擾乱では
足利直義に一貫して従い、直義派有力者として尊氏と争う。直義死後は苦悩しつつも、
嫡男である吉良満貞、三男である吉良尊義を上手く引き立て、吉良家存続に貢献した。
小笠原貞宗
生年 | 登場 | 没年 |
1292年 | 1347年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 77 | 64 | 61 | 65 | 遠矢 | 山戦 | 規律 | 斉射 | 雁行強化 | 王道 |
【オガサワラサダムネ】
南北朝時代の武将。
信濃小笠原氏の当主で当初は鎌倉幕府の御家人であったが、討幕に転じて
鎌倉攻略に参加し戦功により信濃国守護となる。
一貫して足利尊氏の下に属しており、北条時行ら北条残党や南朝側と度々交戦した。
弓馬に秀でており弓馬術に礼式を加えて小笠原流礼法を築いたと云われている。
その他
卜部兼好
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 45 | 72 | 68 | 74 | 詩想 | 泰然 | 文化 | 人脈 | 学者 | 本草学 | 我道 |
【ウラベノカネヨシ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人・学者・僧侶。出家して兼好(けんこう)と称した。
元々朝廷に仕えていた滝口の武士で大覚寺統の後宇多・後二条天皇に仕え、また鎌倉に下って後に鎌倉幕府15代執権となる金沢貞顕に仕えていた時期があった模様。
出家した後は二条為世に和歌を学んで多くの和歌を残したほか、随筆『徒然草』を著す。
今川貞世や高師直、洞院公賢といった公武の有力者とも親しく、『太平記』には師直の恋文を代筆したとする逸話で登場する。
通説では1352年に68歳で死去したと伝えられている。
※ 長年、神道家の吉田家(卜部氏嫡流)の一族とされて「吉田兼好」と称されてきたが、近年になってその系譜が戦国時代の吉田兼俱による捏造であることが有力となった。
(存命中から歌人として広く知られていたのに、兼俱以前の吉田家の記録には全く登場しないため)
従って、兼好が卜部氏の一族であったとしても複数ある卜部氏の系譜のどこに属するのか全く不明である。