注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 中先代の乱(建武政権)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1333年、後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕運動は、楠木正成、足利高氏、新田義貞らの手によって成就し、
敗れた執権北条氏の得宗、北条高時は東勝寺にて自害した。しかし高時は、北条邦時、北条時行ら
二子を家臣達に託しており、邦時は囚われて刑死したものの、北条時行は家臣である諏訪盛高らによって
匿われ、信濃へと落ちのびた。また、北条高時の弟である北条泰家ら北条一族の中にも落ちのびた者たちがいた。
こののち、鎌倉幕府打倒を成し遂げた後醍醐天皇による建武の新政が開始されるも、旧北条領国は冷遇された背景から
在地武士達による北条一族擁立を掲げた反乱を頻発させ、建武政権は反乱鎮圧に奔走する。
そんななか、1335年に北条泰家を匿っていた大納言西園寺公宗は、持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)の
擁立をはかり、後醍醐天皇暗殺計画を打ち立てるが露見。この計画露見からの捕縛を逃れた北条泰家は
各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。北条時行はこの時幼少ながら、諏訪頼重ら諏訪、滋野一族らに
擁立されて信濃で挙兵。蘆名盛員や三浦時継ら鎌倉幕府の残党にも支持され、信濃で目を引きながら一路鎌倉を目指した。
鎌倉では足利直義を中心に鎌倉将軍府が政権を運営していたが、当初の反乱目的を掴めなかったがために中央との連携を欠き、
足利直義の与党を中心に単独で抗戦するも、手痛い敗北を喫し、最終的に足利直義は吏僚を逃しながらも、
鎌倉幕府再興の芽を絶つために幽閉していた護良親王を殺害して、自らも三河まで撤退した。
足利直義らを追い払って鎌倉へ戻ってきた北条時行らであったが、やがて中央から足利尊氏が追討軍を率いてやってくると
劣勢に追い込まれ、その後は勢力を衰微し、最終的には事実上の首謀者である諏訪頼重が自刃して終幕した。
北条時行は再び逃れ、そののちは南朝に与して足利尊氏との対決を繰り広げた。この反乱は「坂東凶徒」と呼ばれる大規模なものとなり、
勅状を得ぬまま追討に出陣した足利尊氏と、それを追承認するしかなかった後醍醐天皇はこのあと徐々に対立を深め、やがて南北朝時代へと進んでいく。
乱鎮圧後、北条時行の勢力は概ね南朝に与する結果となった。しかし1353年に北条時行が刑死すると、徐々に歴史の表舞台から姿を消したとされている。
北条時行には子供がいなかったとされているが、近年では、のちの関東後北条氏が、執権北条氏との血縁関係を指摘されるなど異説も多い。
また織田信長に仕えた横井時泰という人物は、北条時行の次男、北条時満を祖とするという。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
北朝 → 南北朝時代(日本・北朝(尊氏派)) 、南北朝時代(日本・北朝(直義派))、南北朝時代(日本・北朝(直冬党)) 、南北朝時代(日本・北朝 花の御所)
北条 → 鎌倉時代(正中・元弘の変)、中先代の乱(建武政権)
室町 → 室町時代、 鎌倉府・鎌倉公方
創作 → NHK大河ドラマ、漫画2
持明院統
長講堂領を中心とする持明院統と呼ばれる皇統。現在の皇族にもつながっており、
のちに「北朝」を構成することになる皇統である。1275年に
持明院統と、八条院領を中心とする大覚寺統の皇統対立が頂点を迎えたため、
鎌倉幕府は執権北条長時の代に「両統迭立」を提案し、持明院統、大覚寺統
それぞれが交互に天皇を輩出するということとなった。
しかし、その後時代が下って大覚寺統の後醍醐天皇が皇族同士の対立から
「両統迭立」そのものを壊すべく、鎌倉幕府打倒を志す。
元弘の変に失敗した後醍醐天皇は廃位され、持明院統の光厳天皇が即位するが、
廃位され流罪となった後醍醐天皇は隠岐から脱出して再度討幕運動を起こし、
自ら天皇に復位(厳密には、自らの退位と光厳天皇の即位を否定)し、
持明院統の皇位継承を否定したため、ここに持明院統と大覚寺統の対立は決定的なものとなった。
量仁親王(光厳天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 5 | 1 | 70 | 45 | 77 | 詩想 | 再起 | 名声 | 柱石 | 教唆 | 縦横術 | 礼教 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 35 | 11 | 75 | 78 | 77 | 詩想 | 再起 | 名声 | 柱石 | 教唆 | 混乱 | 鼓舞 | 鎮静 | 縦横術 | 礼教 | ||
| 35 | 11 | 75 | 78 | 92 | 詩想 | 再起 | 名声 | 柱石 | 教唆 | 混乱 | 鼓舞 | 鎮静 | 縦横術 | 礼教 | ||
【かずひとしんのう】
鎌倉時代末期の天皇。持明院統の後伏見天皇の第三皇子。北朝初代天皇・光厳天皇。
大覚寺統の後醍醐天皇と甥である皇太子・邦良親王の対立が深まると、持明院統は邦良を支援する見返りに量仁の次期立太子を画策していたが、邦良の急死を受けた鎌倉幕府の裁定で新しい皇太子に立てられる。
後醍醐天皇が隠岐に流されると、鎌倉幕府によって新しい天皇に立てられる。
しかし、後醍醐の呼びかけに応じた諸国の武士が鎌倉幕府を倒すと、後醍醐は自身の廃位と量仁の即位を否定しただけでなく、准太上天皇として待遇することとされて事実上皇太子としても廃された。
しかし、その後も後醍醐天皇の建武政権打倒に暗躍したとされ、足利尊氏が後醍醐と対立すると後醍醐派の武士の討伐を命じる院宣を与え、尊氏はその後ろ盾で建武政権を倒した。
その後、自らは復位せず、弟(光明天皇)を即位させて院政を開始し、次いで自分の長男(崇光天皇)を即位させた。
ところが、後醍醐天皇亡き後の南朝軍が足利尊氏・直義兄弟の争いの混乱に乗じて京都を占領すると捕らえられて吉野に強制連行されてしまう。
その後、足利尊氏が再び優位に立つと京都に帰還したが、室町幕府では既に本来出家させる予定であった次男(後光厳天皇)を即位させており、
崇光の子孫に皇位を戻すように主張する光厳と後光厳の子孫に皇位を継がせることを決定した尊氏の間で対立し、晩年は一転して室町幕府の政治的圧迫の中で過ごした。
歌人として有名な他、茶道のルーツである闘茶の祖とする伝説があるがこちらは史実とは合致していないようである。
※捕虜になる可能性が高くなる赤個性があれば間違いなく付くところだが、そうした個性は存在しないため、代わりに捕虜返還の条件が厳しくなる「名声」を付与。
※後醍醐天皇暗殺計画や、中先代の乱における北条時行らの挙兵を、光厳天皇を後ろ盾としたものという説がある。
豊仁親王(光明天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 12 | 3 | 62 | 60 | 72 | 名声 | 寡欲 | 文化 | 小心 | 消沈 | 鎮静 | 治療 | 歳出改善 | 礼教 | |||
| 12 | 3 | 62 | 60 | 84 | 名声 | 寡欲 | 文化 | 小心 | 消沈 | 鎮静 | 治療 | 歳出改善 | 礼教 | |||
【ユタヒトシンノウ】
南北朝時代の天皇。北朝第2代天皇・光明天皇。光厳天皇の弟。
後醍醐天皇によって廃位されていた光厳上皇の跡を継ぐ形で
天皇に就任するが、実権は事実上光厳上皇が握っていた。
のちに甥である崇光天皇に譲位するが、観応の擾乱の際に
楠木正儀や北畠顕能らによって京を襲撃され、その際に南朝軍に捕縛され
のちに賀名生に連行された。最終的に出家し、1380年に崩御した。
補足:事実上の中継ぎ天皇であるが、兄との仲は良好だったようである
益仁親王(崇光天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 9 | 6 | 58 | 61 | 68 | 名声 | 潜在 | 楽奏 | 動転 | 消沈 | 鎮静 | 混乱 | 地域振興 | 礼教 | |||
【マスヒトシンノウ】
南北朝時代の天皇。北朝第3代天皇・崇光天皇。
光厳天皇の第一皇子で、現代日本の皇族・天皇・旧皇族の直接の祖にあたる。
1338年に立太子され、1348年に叔父の光明天皇から皇位を引き継ぐ。
しかし1351年、観応の擾乱が発生し、正平一統で廃位される。のちに1352年に
父や叔父とともに南朝方の軍勢に拘束され、賀名生へ連行された。
南朝方に囚われたまま足利尊氏らは益仁親王の弟、後光厳天皇の擁立を決めこみ、
晩年は後光厳天皇の系統が一時的に皇位を独占したこともあって、京都帰還後、失意の中1398年に没した。
補足:光厳天皇の第一皇子であったが当初は光厳天皇の従弟にあたる直仁親王が立太子されていた。
補足:父の光厳上皇からは琵琶を伝授され、数々の秘曲を学んでいる。
補足:皇統が崇光系に戻ってくるのは、崇光天皇の曾孫、後花園天皇からである。
弥仁親王(後光厳天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 10 | 5 | 73 | 70 | 53 | 文化 | 詩想 | 再起 | 動転 | 悪名 | 鎮静 | 鼓舞 | 太学 | 礼教 | |||
【イヤヒトシンノウ】
南北朝時代の天皇。北朝第4代天皇・後光厳天皇。
光厳天皇の第三皇子。出生直後から僧籍に入るべく定められていたが
正平一統やその後に続く南朝の京都侵攻により北朝は滅亡し、北朝皇族が
悉く捕らわれて南朝賀名生へ連行された際に京へ残っていたたため、
三種の神器なしで足利尊氏らに擁立されて践祚、即位する。
のちに北朝再興のために政務に励み、文化的事業も多く手掛けた。1374年に没した。
補足:本人のせいでは全くないのだが、即位のきっかけやいきさつもあり、主に南朝派から「偽帝」「偽朝」扱いされるなど、散々な船出となった。
補足:政権発足当初の公卿はわずか19人しかおらず、洞院公賢もその惨状を「天下滅亡」とまで嘆いている。
補足:晩年は皇位継承問題から兄、崇光上皇と対立することとなった。
緒仁親王(後円融天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 4 | 13 | 8 | 2 | 17 | 粉砕 | 消沈 | 粗暴 | 癇癪 | 悪名 | 罵声 | 侵略荒廃 | 覇道 | ||||
【オヒトシンノウ】
南北朝時代の天皇。北朝第5代天皇・後円融天皇。
後光厳天皇の第二皇子。1371年に父、後光厳天皇から譲位されるも、
3年後に父、後光厳上皇が薨去され、天皇親政を志す。
しかし多くの朝議を廃絶させたり臣下である三条公忠、二条良基と
対立して室町幕府3代将軍足利義満の介入を招いたため、義満と対立する。
のちに子である幹仁親王の譲位を巡って義満、良基と対立して、即位礼を
欠席、上臈女房であった三条厳子を刀で打擲して重傷を負わせるなど錯乱が続き、1393年に薨去した。
補足:公家の三条公忠からは「仙洞の御意、毎事尋常ならず」「武家と乖離して豈に御意を達せらるべけんや」と酷評されている。
幹仁親王(後小松天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 22 | 11 | 61 | 70 | 72 | 人脈 | 潜在 | 富豪 | 文化 | 特使 | 地域振興 | 礼教 | |||||
【ミキヒトシンノウ】
南北朝時代の天皇。北朝第6代天皇・後小松天皇。母は三条厳子。
後円融天皇の第一皇子と言われているが、異説として足利義満の落胤説もある。
1382年に6歳で即位し、足利義満や二条良基の補佐を受け、
約半世紀にわたって朝政を取り仕切った。のちに南北朝の合一により
再び日本唯一の天皇に君臨。足利義満の死後は足利義持と良好な関係を築き、
院政を開始。後継者である称光天皇に先立たれたため、伏見宮の彦仁親王を猶子とした。1433年崩御。
補足:一休宗純の実の父親と言われている。
補足:足利義満による落胤説は当時から信じられており、義満へ太上法皇の尊号を送ることを決定したこともこの影響による。なお足利義持と斯波義将は恐れ多いとして拒否した。
西園寺寧子(藤原寧子)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 39 | 2 | 77 | 84 | 78 | 再起 | 才媛 | 能吏 | 英名 | 柱石 | 鼓舞 | 縦横術 | 礼教 | ||||
【サイオンジネイシ/サイオンジヤスコ】
鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見天皇の女御であり、光厳光明両天皇の母。広義門院。
1306年に後伏見天皇の後宮に入り、のちに光厳天皇、光明天皇を産んだ。
後伏見天皇の弟である富仁親王が猶子になって花園天皇として即位したことで、3代の国母として
持明院統で大きな影響力を持つ。1351年に足利尊氏が南朝に降伏して正平一統がなされた際に、
北朝の再起を足利義詮から懇願され、しぶしぶ受諾し、唯一の女性、唯一の非皇室出身者の「治天の君」として君臨。
後光厳天皇の即位を後押しする傍ら、治天の君として政務に勤しみ、北朝再興に大きな貢献を果たした。1357年に死没した。
西園寺公宗(藤原公宗)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 17 | 8 | 69 | 75 | 59 | 人脈 | 嚮導 | 智嚢 | 論客 | 功名 | 縦横術 | 礼教 | |||||
【サイオンジキンムネ】
鎌倉時代から南北朝時代の公卿。西園寺実衡の子。光厳天皇とは従兄弟にあたる。
朝廷と鎌倉幕府(六波羅探題)との交渉を受け持つ関東申次の
役目を果たしていたが、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕運動でその役目を失した。
鎌倉幕府滅亡後、北条高時の弟である北条泰家を匿い、泰家とともに
後醍醐天皇暗殺計画を練るが、露見。楠木正成と高師直に捕われ、配流中に名和長年に殺害された。
補足:後醍醐天皇暗殺計画のバックボーンは諸説ある。近年では鎌倉幕府打倒と後醍醐天皇の帰還により廃位された光厳上皇(量仁親王)による意図があったとされる。
補足:中先代の乱などと連動した謀略であるとも言われている。
西園寺実俊(藤原実俊)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 12 | 6 | 76 | 70 | 72 | 再起 | 強運 | 人脈 | 論客 | 文化 | 鎮静 | 縦横術 | 礼教 | ||||
【サイオンジサネトシ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。西園寺公宗の子。
生まれる以前に後醍醐天皇暗殺事件の露見により父が殺害され、
家督を叔父に奪われた状態で誕生する。南北朝の動乱の際は
南朝方についた叔父、西園寺公重と対立する過程で北朝につく。
のちに内大臣にまでのぼりつめ、武家執奏を約30年間つとめた。1389年死去した。
補足:当初、後醍醐天皇により殺害される予定であったが、母である日野名子の機転により事なきを得たとされている。
二条良基
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 25 | 4 | 77 | 78 | 64 | 文化 | 眼力 | 学者 | 史官 | 功名 | 政令徹底 | 我道 | |||||
| 25 | 4 | 87 | 88 | 84 | 文化 | 眼力 | 学者 | 史官 | 功名 | 政令徹底 | 覇道 | |||||
【ニジョウヨシモト】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。摂関家二条家当主で摂政関白を4度(数え方によっては5度)にわたって務める。
南北朝時代の分裂時には北朝に仕えて、政策的には後醍醐天皇の路線を一部受け継ぎながらも室町幕府との協調路線を取る。
観応の擾乱後に南朝軍によって光厳上皇や崇光天皇が連行されると南朝に仕えるか引退するかで判断を迷わせるが、
足利尊氏や勧修寺経顕の策に従って後光厳天皇の擁立を決断、以降北朝の主導権を握って「天下独歩」と評された一方、
観応の擾乱の教訓から北朝と室町幕府の一体化を進める方策を志向して、足利義満に公家としての有職故実を伝授して朝廷への参画を促した。
後世、「公武合体政権」とも評価された室町幕府の朝廷政策に大きな影響を与えた一方、
68歳で摂政太政大臣として後小松天皇の加冠を行い(その補佐の理髪役には左大臣の足利義満を指名した)、翌年に死去するまで摂関の地位を手放さなかったことから多くの政敵から批判された。
有職故実に詳しく、連歌の大成者としても名を残すほか、『増鏡』の著者としても有力視されている。
また、故実を重視する一方で新しい文化にも関心を抱いて救済や世阿弥を抜擢、特に後者はそれまで下賎の芸能とみなされていた能を芸術の域に高めることになった。
補足:後光厳天皇が三種の神器なしで即位することに朝廷内部から異論が出た際、「尊氏が剣となり、良基が璽となる。何ぞ不可ならん」と言ったとされる。
三条公忠
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 7 | 4 | 82 | 79 | 81 | 人脈 | 智嚢 | 論客 | 文化 | 小心 | 地域振興 | 名利 | |||||
【サンジョウキンタダ】
南北朝時代の公卿。内大臣三条実忠の子。
北朝を支持して従一位、内大臣までのぼりつめ、娘の厳子を
後円融天皇の女官として送り、のちに後小松天皇を生誕させる。
武家政権である足利義満に武家執奏として便宜をはかりつつも、
足利義満と後円融天皇の板挟みにあい、娘の厳子が後円融天皇に
打擲され重傷を負うと、その年に死去したという。
補足:後愚昧記の作者。南北朝時代の政治情勢が書かれている貴重な史料である。
補足:足利義満に寵愛された世阿弥のやる猿楽能を「乞食の所行」とまで書いて嫌っていた。
嫌悪武将→世阿弥
洞院公賢
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 17 | 3 | 62 | 73 | 85 | 名声 | 学者 | 史官 | 智嚢 | 優柔 | 太学 | 礼教 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 17 | 3 | 82 | 85 | 83 | 名声 | 学者 | 史官 | 智嚢 | 優柔 | 太学 | 礼教 | |||||
【トウインキンカタ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。北朝で太政大臣を務めた。
西園寺家の分家として朝廷で権勢を振るった洞院家の当主にして有職故実の大家であったことから、歴代天皇に信頼された。
阿野廉子の養父になっていたことから、後醍醐天皇の建武政権において左大臣に任じられて、義良親王(後村上天皇)の加冠役を務めた。
光厳上皇からも信頼が厚く、北朝でも太政大臣に任じられて摂関家の二条良基と権勢を競った。
観応の擾乱後の南北朝の統一交渉でも両朝に対する人的つながりから纏め役を任されるが、
交渉の決裂によって光厳上皇や崇光天皇の連行を招いたことから良基に主導権を奪われて、以後政治的影響力を低下させた。
それでも、摂関家である一条家・鷹司家・近衛家がいずれも公賢と婚姻関係を結んで良基と対抗しようとしていたために晩年まで彼らの後見役としてその名声は高かった。
歴史書『皇代暦』や多くの有職故実書を著した他、日記『園太暦』は南北朝時代の政治動向を知る上での貴重な史料である。
執権北条氏残党
鎌倉幕府滅亡後の執権北条氏とその家臣達。
後醍醐天皇の討幕運動により、鎌倉幕府は1333年に滅亡したが
その遺臣や生き残った北条一族は早くから反乱を繰り返しており全国各地で反乱に波及させる。
多くは散発的で連動したものではなく、また北条を旗頭に据えた
地元豪族の反発という側面もあり、一概に北条再興運動というわけではない。
1335年、持明院統と連携した北条氏残党が最大の反乱を起こし、諏訪頼重らが北条高時の遺児、
北条時行を擁立して決起した。これを中先代の乱という。乱はわずか20日程度で終息したが、
建武政権の一角である鎌倉将軍府は壊滅的な被害を受け、討伐に向かった足利尊氏がそのまま関東に居座り
最終的に後醍醐天皇と決裂するなど、南北朝動乱の端緒を飾った。しかし結果的に、全ての反乱は
最終的に鎮圧され、1353年に北条時行が刑死すると活動も途絶え、北条家再興とはならなかった。
北条時行
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 74 | 41 | 55 | 78 | 脱兎 | 果敢 | 長駆 | 疾走 | 小心 | 我道 | ||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 62 | 65 | 63 | 86 | 脱兎 | 動員 | 名声 | 再起 | 潜在 | 図南之翼 | 鼓舞 | 治療 | 斉射 | 突撃 | 先従隗始 | 王道 |
【ホウジョウトキユキ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府第14代執権である高時の次男。
鎌倉幕府の滅亡時に叔父の北条泰家らに連れられて鎌倉を脱出し、信濃国で潜伏した。
その後成長すると北条氏再興を掲げて挙兵。建武体制に不満を持つ武士を糾合しながら鎌倉へ進軍し
足利直義を破って鎌倉を占拠した。しかし、再起を図った足利尊氏らに敗れ、再び鎌倉を離れることとなる。
その後、南朝と融和して関東で勢力を張る足利氏との戦いを繰り広げるが、1352年に足利勢力に敗れて
捕えられ、翌年に処刑された。彼の死をもって北条家は事実上の滅亡を迎えた。
補足:子供がいたとされるが不明。子孫を名乗っている人物もそれなりにいて、幕末の横井小楠は彼の子孫と言われている。
北条泰家
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1335年頃? |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 62 | 71 | 54 | 51 | 怒髪 | 扇動 | 縦横術 | 我道 | ||||||||
| 67 | 62 | 71 | 54 | 51 | 脱兎 | 怒髪 | 扇動 | 強運 | 軽率 | 縦横術 | 我道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 60 | 80 | 75 | 79 | 脱兎 | 扇動 | 智嚢 | 再起 | 策士 | 奇計九条 | 混乱 | 挑発 | 足止 | 罵声 | 縦横術 | 王道 |
【ホウジョウヤスイエ】
北条氏一門。貞時の四男。
兄の高時が執権職を引いた時に後継の候補に挙がるが、
内管領長崎高資の反対で実現せず北条貞顕が選ばれた為に激怒して出家した。
鎌倉幕府滅亡の際には倒幕軍を迎え撃つも敗れ、他の一族と共に自害する道は選ばずに奥州に逃れた。
その後は京都にて西園寺公宗と共謀して後醍醐天皇暗殺を図るも失敗、全国各地の
北条氏残党に蜂起を促し中先代の乱の要因を作った。
その後は信濃で挙兵したが末路は定かではない。
北条高政(規矩高政)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 71 | 58 | 56 | 70 | 動員 | 名声 | 再起 | 堅牢 | 不屈 | 鉄壁 | 激励 | 奮戦 | 斉射 | 牽制 | 地勢研究 | 割拠 |
【ホウジョウタカマサ/キクタカマサ】
鎌倉時代末期の武将。金沢流北条氏。
北条政顕の子で、曾祖父に北条実時がいる。
鎮西探題となった赤橋英時の養子となり、肥後守護となった。
元弘の乱では養父とともに反乱軍討伐に従事し、菊池氏が立て籠もる
鞍岡城を攻め落とした。のちに少弐、大友が寝返って鎮西探題が陥落すると
潜伏し、のちに再起して弟の北条貞義とともに建武政権へ反乱を起こした。
乱は7ヶ月続いたが、1334年に鎮圧された。
補足:反乱鎮圧後の消息は不明である。
北条時兼(名越時兼)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 40 | 37 | 55 | 52 | 67 | 動員 | 名声 | 再起 | 動転 | 功名 | 斉射 | 鼓舞 | 侵略荒廃 | 王道 | |||
【ホウジョウトキカネ/ナゴエトキカネ】
鎌倉時代及び建武政権期の人物。
越中守護であった名越時有の子。後醍醐天皇による
鎌倉幕府倒幕運動の際には、父である名越時有が放生津城で
自刃する中、潜伏して再起に備えた。のちに
光厳上皇による皇統奪取計画に乗り、北条時行を関東の大将、
北条泰家を畿内の大将、北条時兼を北陸の大将と定めて挙兵する。
しかし越前国衆の瓜生保らに敗れ、戦死した。
北条高邦(名越高邦)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 53 | 58 | 34 | 31 | 61 | 再起 | 潜在 | 名声 | 直情 | 功名 | 突撃 | 激励 | 三令五申 | 王道 | |||
【ホウジョウタカクニ/ナゴエタカクニ】
鎌倉時代及び建武政権期の人物。
北条家名越流の血筋で、父は元弘の乱で宮方軍勢を討伐する
鎌倉方の大将であった名越高家。父の死後潜伏していたが、
中先代の乱を起こした北条時行が鎌倉を占拠するとそれに同道する。
しかし足利尊氏の軍勢と戦った際、小夜中山で戦死した。
弟の高範は母方の実家である今川家に庇護され、今川那古野氏の祖となった。
諏訪頼重
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 77 | 89 | 86 | 88 | 黄天 | 教化 | 求心 | 幻術 | 動員 | 神機妙算 | 奮戦 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 先従隗始 | 礼教 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 77 | 88 | 86 | 85 | 黄天 | 教化 | 求心 | 幻術 | 補佐 | 神機妙算 | 奮戦 | 鼓舞 | 治療 | 混乱 | 先従隗始 | 礼教 |
【スワヨリシゲ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将、神官。諏訪大社大祝。
鎌倉幕府滅亡後、一門の諏訪盛高に庇護された北条時行を匿い、信濃で育てる。
建武政権では信濃守護に任命された小笠原貞宗と対立し、
やがて北条泰家らに連動して嫡子、諏訪時継とともに北条時行を擁して挙兵した。
渋川義季や小山秀朝らを破り、足利直義を敗走させて鎌倉奪還を果たすが、
中央から追討にやってきた足利尊氏の軍勢に敗れ、自刃した。
補足:息子、諏訪時継も自刃し、諏訪大社大祝は孫の諏訪頼継(諏訪直頼)が継いだ。
諏訪盛高
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 79 | 61 | 54 | 67 | 護衛 | 血路 | 強奪 | 幻術 | 寡欲 | 牽制 | 奮戦 | 激励 | 政令徹底 | 礼教 | ||
【スワモリタカ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将、神官。
諏訪頼重の甥で、父は鎌倉幕府に仕え東勝寺で自刃した諏訪直性とされている。
北条泰家に仕えていたが、鎌倉幕府滅亡の際、泰家の命令で
幼少の北条時行を匿って鎌倉を脱出した。のちに同族の
諏訪頼重のいる信濃へと北条時行を匿い、中先代の乱のきっかけになったとされている。
補足:諏訪頼重と同一人物説があったが、研究の結果どうも甥らしいことが判明したので掲載。
補足:没年は不透明。鎌倉幕府滅亡時には北条泰家に仕えており、その後は北条時行を護って親族の諏訪頼重のいる信濃まで行ったのは確定だが、中先代の乱の頃には既に名前の記載がない。
補足:中先代の乱の後は頼重の孫の諏訪直頼(諏訪頼継)が跡を継いでいるので、この時点で既に死没していた可能性が高い。
諏訪直頼(諏訪頼継)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 52 | 77 | 78 | 83 | 幻術 | 求心 | 再起 | 山戦 | 動員 | 鼓舞 | 突撃 | 奮戦 | 治療 | 鎮静 | 地域巡回 | 礼教 |
【スワタダヨリ/スワヨリツグ】
南北朝時代の武将、神官。諏訪大社大祝。
祖父は中先代の乱にて中心的な役割を果たした諏訪頼重。父は頼重の子時継。
中先代の乱に敗れた際に幼少ながら雌伏していたが、のちに
中先代の乱で旗頭となった北条時行に同調して大徳寺城で挙兵する。
その後諏訪に戻って小笠原政長と争うが、観応の擾乱が起こって
足利直義が南朝に降ると彼と同調し、諏訪直頼と名を改める。以後は
宗良親王、足利直義、北条時行、新田義宗らに同調して武蔵野合戦や桔梗が原の戦いに
従軍するが、最終的には足利義詮に降った。
祢津行貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 92 | 51 | 50 | 55 | 豪傑 | 護衛 | 猛者 | 潜在 | 一心 | 急襲 | 激励 | 突撃 | 鶴翼強化 | 我道 | ||
【ネヅユキサダ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。祢津頼直の長男。通称は小次郎。
中先代の乱の際に祢津一族は北条時行や諏訪頼重らとともに戦い
そののちは新田義貞の軍に属した。のちに祢津行貞は観応の擾乱において
足利直義に属し、武蔵野合戦では南朝方や上杉憲顕に従い
武勇すぐれたるものとして足利尊氏の本陣を急襲してその武を奮った。
信濃守護代として小笠原貞宗とも争ったが、南朝が衰微すると足利義詮に従った。
海野幸康
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 78 | 60 | 57 | 61 | 山戦 | 猛者 | 護衛 | 動員 | 粉砕 | 突撃 | 奮戦 | 急襲 | 激励 | 方円強化 | 割拠 | |
【ウンノユキヤス】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。海野家の当主。
北条時行や諏訪頼重に従って中先代の乱に従軍した。
のちに南朝方として各地の合戦に従軍し、
宗良親王とともに挙兵したが、武蔵野合戦で
足利尊氏に敗れ、戦死した。
望月重信
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 67 | 70 | 72 | 63 | 森戦 | 再起 | 築城 | 調練 | 粉砕 | 斉射 | 奮戦 | 牽制 | 激励 | 魚鱗強化 | 割拠 | |
【モチヅキシゲノブ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。望月家の当主。
北条時行や諏訪頼重に従って中先代の乱に従軍した。
中先代の乱後は足利尊氏に与した小笠原貞宗に
抵抗し居城を落とされるが、再奪回して望月城を築く。
その後一族の多くは南朝に与した。生没年不詳。
伊東祐持
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 68 | 61 | 76 | 75 | 長駆 | 名声 | 再起 | 山戦 | 動員 | 激励 | 奮戦 | 斉射 | 牽制 | 城壁拡張 | 割拠 | |
【イトウスケモチ】
鎌倉時代及び南北朝時代の人物。日向伊東氏の祖。伊東祐宗の孫。
祖父の伊東祐宗は赤坂城の戦いに幕府方として従軍していた。
祖父の後見を受けて建武の新政では関東廂番をつとめるが、
中先代の乱に際し、北条時行に寝返った。しかし北条時行が
敗北すると足利尊氏に降伏。以後は尊氏方の武将として湊川の戦いに従軍して
軍功をあげた。のちに日向に下向。南朝派や直冬派の勢力と争って日向で勢力を築いた。
三浦時継
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 53 | 47 | 59 | 65 | 動員 | 人脈 | 功名 | 直情 | 悪名 | 牽制 | 鯨波 | 地域振興 | 名利 | |||
【ミウラトキツグ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。相模三浦氏の当主。
三浦時明の子として生まれ、北条高時に仕えた。後醍醐天皇による
討幕運動が発生すると、当初は幕府軍として従軍したが、
やがて後醍醐天皇側に寝返る。だが千葉貞胤と席次を巡って
対立し、中先代の乱の際には一族の三浦若狭判官(三浦時明、父と同姓同名)とともに
後醍醐天皇方から離反して北条時行についた。中先代の乱で敗れると海路熱田へ逃げたが、そこで囚われて斬られた。
蘆名盛員
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 48 | 45 | 42 | 49 | 57 | 動員 | 潜在 | 節約 | 調達 | 功名 | 斉射 | 激励 | 足止 | 地勢研究 | 割拠 | ||
【アシナモリカズ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。蘆名盛宗の子。弟に蘆名直盛。
鎌倉幕府に仕え、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげた際には
鎌倉幕府の討伐軍に所属するが、敗れた。のちに北条時行が
中先代の乱を起こすと、北条氏に味方して戦死したと伝わっている。
家督は弟とも子とも言われる蘆名直盛が継いだ。
補足:太平記では北条方に味方したとされているが、蘆名家譜では足利方に味方したことになっている。
安達高景
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 50 | 51 | 67 | 73 | 62 | 名声 | 嚮導 | 動員 | 論客 | 再起 | 鼓舞 | 奮戦 | 足止 | 地域巡回 | 割拠 | ||
【アダチタカカゲ】
鎌倉時代の人物。安達時顕の子。有力御家人安達泰盛とは同族の別家。
北条高時から偏諱を受けて高景と名乗り、安達氏の嫡流となる。
長崎円喜の娘を妻とし、幕政に深く関与。元弘の変では
鎌倉幕府の代表者として、後醍醐天皇の廃位と光厳天皇の即位に
深くかかわった。鎌倉幕府が滅亡して建武政権が誕生すると、北条一門の
名越時如とともに反旗を翻すが、奥州将軍府の北畠顕家や南部師行に敗れた。
僧侶・在野など
宗峰妙超
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 13 | 7 | 88 | 91 | 87 | 文化 | 築城 | 人脈 | 論客 | 教化 | 挑発 | 太学 | 礼教 | ||||
【シュウホウミョウチョウ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の僧侶。浦上氏の出身で、母は赤松円心の姉。
書写山円教寺にて天台宗を学ぶが、のちに禅宗に目覚めた。鎌倉と
京で修行に励み、のちに大徳寺の礎となる大徳庵を築く。
花園天皇や後醍醐天皇から師事され、のちに大燈国師と呼ばれた。
1338年死去。厳格な性格で知られ、夢窓疎石とも対立し、門弟を派遣して問答対決をさせたこともあった。
嫌悪武将→夢窓疎石
夢窓疎石
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 4 | 2 | 94 | 96 | 90 | 文化 | 史官 | 人脈 | 徴税 | 嚮導 | 鎮静 | 太学 | 礼教 | ||||
【ムソウソセキ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の僧侶。父は佐々木朝綱、母は北条政村の娘とつたわる。
伊勢国で生まれたが一族争いの末に甲斐に移住し、そこで出家した。
天台宗や真言宗を学び、のちに臨済宗を学んで高名を成した。
北条貞時の妻、覚海円成や後醍醐天皇などに招聘されて人脈を成し、
執権北条氏や朝廷と大きな関係を取り持つ。1330年には甲斐で恵林寺を開基した。
1335年、後醍醐天皇から「夢窓国師」の号を授けられたが、南北朝時代には
足利尊氏、足利直義兄弟と関係を密にし、建武式目制定に携わった。1351年入滅。
補足:後醍醐天皇の没後に天龍寺を開山。金策にも巧みで天龍寺船創設にも携わっている。
義堂周信
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 3 | 3 | 92 | 95 | 88 | 文化 | 教化 | 人脈 | 諌止 | 詩想 | 鎮静 | 太学 | 礼教 | ||||
【ギドウシュウシン】
南北朝時代から室町時代の僧侶。土佐の生まれ。
若くして比叡山にのぼって出家し、のちに夢窓疎石の弟子となる。
鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し、足利基氏に重宝され
基氏の嫡男、足利氏満の教育係を任された。1381年に足利義満から
招かれて京に赴き、足利家菩提寺の等持院の住職をつとめた。
義満に近侍して幕府と鎌倉公方の関係を取り持つ一方、絶海中津と並んで五山文学の代表者とされている。
補足:1388年入滅。生まれは1325年。
絶海中津
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 5 | 1 | 93 | 94 | 88 | 文化 | 論客 | 嚮導 | 人脈 | 詩想 | 鎮静 | 太学 | 礼教 | ||||
【ゼッカイチュウシン】
南北朝時代から室町時代の僧侶。土佐の生まれ。
1350年に上洛して天龍寺に入り、出家して夢窓疎石に近侍した。
のちに鎌倉へむかった後、修行のため明に渡海し、杭州の中天竺寺に
入り、1376年には明の洪武帝(朱元璋)に謁見した。1380年に帰国し、
足利義満に近侍した。義堂周信と並んで五山文学の代表者とされている。
補足:1405年入滅。生まれは1334年。義堂周信と同郷である。
賢俊(三宝院賢俊)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 8 | 6 | 90 | 93 | 84 | 文化 | 富豪 | 人脈 | 智嚢 | 特使 | 鼓舞 | 太学 | 礼教 | ||||
【ケンシュン/サンポウインケンシュン】
鎌倉時代末期から南北朝時代の僧呂。父は日野俊光。兄に日野資朝ら。
真言宗の醍醐寺三宝院、賢助の弟子となり22歳で受戒。
その後は持明院統と昵懇な関係を築き、光厳天皇が即位すると
宮中行事などを執り行った。後醍醐天皇が復帰すると、彼と懇意な
文観が復帰したことで追いやられるが、足利尊氏が建武政権に
反旗を翻すと、持明院統と足利尊氏の仲介を実行。足利尊氏に
錦の御旗を下して彼の躍進を支えた。のちに尊氏の護持僧となり、
後光厳天皇の即位にも貢献。絶大な権力を誇って将軍門跡と言われた。
補足:1357年入滅。彼の活躍により、実家の日野家は足利将軍家への正室をたびたび輩出することになる。
卜部兼好
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 48 | 45 | 72 | 68 | 74 | 詩想 | 泰然 | 文化 | 人脈 | 学者 | 本草学 | 我道 | |||||
【ウラベノカネヨシ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・歌人・学者・僧侶。出家して兼好(けんこう)と称した。
元々朝廷に仕えていた滝口の武士で大覚寺統の後宇多・後二条天皇に仕え、また鎌倉に下って後に鎌倉幕府15代執権となる金沢貞顕に仕えていた時期があった模様。
出家した後は二条為世に和歌を学んで多くの和歌を残したほか、随筆『徒然草』を著す。
今川貞世や高師直、洞院公賢といった公武の有力者とも親しく、『太平記』には師直の恋文を代筆したとする逸話で登場する。
通説では1352年に68歳で死去したと伝えられている。
※ 長年、神道家の吉田家(卜部氏嫡流)の一族とされて「吉田兼好」と称されてきたが、近年になってその系譜が戦国時代の吉田兼俱による捏造であることが有力となった。
(存命中から歌人として広く知られていたのに、兼俱以前の吉田家の記録には全く登場しないため)
従って、兼好が卜部氏の一族であったとしても複数ある卜部氏の系譜のどこに属するのか全く不明である。
但馬道仙
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 16 | 4 | 79 | 76 | 70 | 医術 | 慈悲 | 富豪 | 人脈 | 振興 | 治療 | 鎮静 | 本草学 | 礼教 | |||
【タジマドウセン】
南北朝時代の人物。医者と伝わる。
1367年に南北両朝の和睦斡旋に携わり、南朝方の使者である葉室光資を
歓待する一方、北朝方の重鎮である佐々木道誉と昵懇な関係を築いた。
疫病で苦しむ京を見かね、元との貿易による利益をもって京に療病院を
築く計画を考案し、幕府から了承された。しかし同年に北朝の将軍である
足利義詮は病に倒れ死去。翌年には南朝の後村上天皇も薨去し、沙汰止みとなった。以後の足跡は不明。
補足:生没年は未詳である。医者とつたわるが医者としての具体的な足跡はほぼ不明。
観阿弥(観世清次)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 11 | 3 | 69 | 83 | 87 | 楽奏 | 文化 | 富豪 | 昂揚 | 特使 | 鼓舞 | 治療 | 足止 | 地域巡回 | 我道 | ||
| 11 | 3 | 69 | 83 | 87 | 楽奏 | 文化 | 富豪 | 昂揚 | 特使 | 鼓舞 | 治療 | 足止 | 地域巡回 | 礼教 | ||
【カンアミ/カンゼキヨツグ】
南北朝時代から室町時代の人物。能の大成者。
主に大和国で活動し、興福寺や春日大社に庇護されていたが、
京都の醍醐寺に活動範囲を伸ばし、佐々木道誉の庇護を受けた。
やがて息子の世阿弥とともに将軍、足利義満の目に留まり、
その猿楽能を絶賛され、足利将軍家に庇護された。
その後も活動範囲を広げるが1384年、駿河で演能したのち同地で死去した。
補足:伊賀の出身で楠木正成の甥ともされるが、異説もある。
補足:大河ドラマ太平記ではこの設定が踏襲され、花夜叉と呼ばれる楠木正成の妹の子となっている。なお史実の花夜叉は男性である。
世阿弥(観世元清)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 9 | 2 | 64 | 79 | 86 | 楽奏 | 文化 | 人脈 | 詩想 | 消沈 | 鼓舞 | 鎮静 | 足止 | 地域巡回 | 礼教 | ||
【ゼアミ/カンゼモトキヨ】
南北朝時代から室町時代の人物。能の大成者。
観阿弥の子で、父とともに猿楽能を演じ、足利義満に寵愛された。
観阿弥が死去すると観世太夫を引き継ぎ、足利義満や
二条良基から庇護され、能の脚本のみならず、芸術論や歌舞、幽玄美を
確立させて能を大成させた。しかし晩年は嫡男である観世元雅の早逝や、
6代将軍足利義教からの弾圧、佐渡への流罪など失意の日々を過ごした。