注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(南北朝時代)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1275年、長講堂領を中心とする持明院統、八条院領を中心とする大覚寺統と、大規模荘園を擁する
天皇家の2つの皇統において皇位を巡った対立が頂点を迎える。
時の執権であった北条長時の差配により、持明院統、大覚寺統それぞれが交互に天皇を輩出するということとなった。
これが世にいう両統迭立である。
両統迭立により、天皇が2つの家系から輩出され、天皇を譲位した人間が治天の君となり、
その子孫からまた天皇が擁立される、という両統迭立は、1308年に転機を迎える。
大覚寺統の尊治親王が即位し、後醍醐天皇として君臨した。
しかし、後醍醐天皇は、いずれ天皇に即位する幼少の邦良親王の代役に過ぎなかった。
そのため、後醍醐の子孫から天皇は擁立しない、という既定路線があった。
これを知った後醍醐天皇は激怒し、後醍醐天皇の父である後宇多が死去すると、邦良親王との対立は激化した。
鎌倉幕府が後宇多・邦良両人の味方をしたことにより、後醍醐天皇はその後幾度となく倒幕を計画する。
そして1333年、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力によって、鎌倉幕府の滅亡となった。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐は自ら政治を取り、武士、公家の権勢を抑える天皇専制政治を志した。これを建武の新政という。
しかし、建武の新政は鎌倉幕府残党であった執権北条家の北条時行の反乱から崩壊が始まり、時行討伐に向かった足利尊氏が離反すると、にわかに混乱状態となる。
足利尊氏は弾圧されていた持明院統の豊仁親王を光明天皇として即位させ、ここに「一天両帝南北京」とされる南北朝時代が始まることになる。
その後、1392年に足利義満の手によって南北朝合一となり、南北朝時代は終わりを迎える。
しかし、その後も後南朝と呼ばれる南朝遺臣達の復興運動はしばらく続いた。
最終的には、10代将軍の父である足利義視や、北条早雲(伊勢盛時)の手によって衰退している。
南北朝時代は豪華絢爛、権威軽視、傍若無人を是とする、いわゆる「婆娑羅」の風潮が強く、また権力闘争や血統争いの側面から南朝・北朝どちらにも味方した勢力は数多い。
北朝(直義派)
室町幕府の創始者である、足利尊氏の弟である足利直義を祖とする勢力。
足利直義は兄である尊氏を支え、建武政権下の鎌倉将軍府執権に代表されるように尊氏と並立しうる権力を持っていた。
やがて楠木正成、新田義貞、北畠顕家といった南朝の柱石たる武将が北朝勢力との戦いに敗れて世を去り、
1339年に後醍醐天皇が薨去して南朝の勢威が弱まると、北朝の優位性が高まり畿内は平穏の状態となった。
ところが、足利尊氏の執事として権力を握っていた高師直、高師泰兄弟は直義との政争を経て、
ついには決起して直義を追い落とすに至った。一方の直義も逆襲に転じて一時的に南朝に降伏し、
北朝の直義派や南朝勢力を糾合してついに高師直らを打ち破り、最終的に高師直、高師泰兄弟を暗殺するに至る。
この事件を契機として足利直義は実兄である足利尊氏との対立にまで至り、室町幕府の内乱である観応の擾乱が引き起こされた。
観応の擾乱は当事者である直義が逝去した後も続き、尊氏の庶長子で直義の養子であった直冬を旗頭として
京都を奪還したが、やがて勢力は衰微していき、3代将軍足利義満の代になると室町幕府の脅威とはなりえなかった。
最終的に、足利直冬の孫である足利義尊、足利義将兄弟が嘉吉の乱で6代将軍足利義教を殺害した赤松満祐に擁立されたが乱は鎮定され
この義尊、義将兄弟の死をもって勢力としては完全に消滅した。
足利直義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 67 | 77 | 94 | 86 | 諌止 | 詩想 | 能吏 | 教化 | 直情 | 政令徹底 | 礼教 | |||||
82 | 77 | 87 | 94 | 86 | 任才 | 詩想 | 能吏 | 教化 | 諌止 | 政令徹底 | 礼教 | |||||
82 | 77 | 87 | 95 | 90 | 任才 | 詩想 | 能吏 | 教化 | 諌止 | 政令徹底 | 礼教 |
【アシカガタダヨシ】
南北朝時代の人物。清和源氏の末裔。足利尊氏の実弟。
兄の尊氏に従って六波羅探題を攻撃。建武政権下では鎌倉の実質的支配を任された。
中先代の乱の際は北条時行の軍勢の前に敗れ、混乱の中で護良親王を殺害した。
その後、救援にきた足利尊氏と合同で鎌倉幕府の残党を撃破し、南北朝の動乱後も兄を支持。
尊氏が征夷大将軍に就くと内政の権限を与えられ、
「両将軍」と言われる北朝の中心的人物として建武式目を制定、室町幕府初期の政治を担った。
だが足利尊氏が重用する高師直と対立、結果的に尊氏からも離反し観応の擾乱を引き起こす。
南朝に降伏して尊氏方を圧倒し、高師直らを殺害することに成功するが、自身も南朝と組んだ尊氏による
追討令を受け尊氏と戦うが敗北。鎌倉にて降伏しその後急死した。
太平記によると足利尊氏による毒殺というが、息子の早世以来健康を害しており、毒殺説は太平記の創作とする説もある。
補足:政治手腕に優れ、室町幕府の基盤を築いたが、反対派との対立から最終的に実兄尊氏との対立を呼び込む。なお、後醍醐天皇と足利尊氏の対立は、新田義貞と足利直義の対立に端を発するとも言われている。
足利直冬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 89 | 57 | 33 | 68 | 掃討 | 一騎 | 火攻 | 胆力 | 不屈 |
【アシカガタダフユ】
鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。足利尊氏の庶子であり、足利直義の養子。
足利尊氏の子として生まれるが、母親の身分が低かったと言われ、生涯を通じて父尊氏から冷遇される。
尊氏と面会すらできず、相模・京で寺につとめる喝食として過ごした。実子ができなかった叔父直義が
不憫に思い彼を養子とし、元服後は「直冬」と名乗った。南北朝の動乱が激化すると、足利尊氏が
渋々取り立て、直冬は南朝勢力との戦いで軍功をあげたが、尊氏はなお冷遇した。叔父の直義の差配により
長門探題として西国の重鎮となる。観応の擾乱の際は一貫して直義に味方し、足利尊氏・義詮らを追い詰めた。
しかし、直義の死後は勢力を挽回され、最終的には義詮方の細川頼之による討伐軍に追われた。
晩年は安芸ないし石見に隠棲し、足利義満に庇護されたというが、定かではない。
※ 太平記によると、直冬の母とされる越前局は「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ」とあり、かなり身分の低い(研究者の中には否定する人もいる)、
それも足利家の庇護を受けていない一夜限りの関係である女性とされている。直冬が寺勤めの頃に落魄のなか病死したと言われる。
上杉憲房
生年 | 登場 | 没年 |
1336年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 57 | 71 | 78 | 64 | 血路 | 奮戦 | 牽制 | 政令徹底 | 王道 |
【ウエスギノリフサ】
南北朝時代の武将。
足利尊氏・直義の母方の伯父で早くから尊氏に従い、
建武政権成立後は雑訴決断所の一員となり、尊氏が建武政権に反旗を翻した際には
同行して上野国守護となり上野国における新田義貞の勢力の牽制を担った。
しかし京都四条河原の戦いにおいて尊氏を逃がす為に奮戦した末に戦死した。
上杉憲顕
生年 | 登場 | 没年 |
1306年 | 1368年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 61 | 86 | 83 | 56 | 能吏 | 慰撫 | 補佐 | 牽制 | 混乱 | 攪乱 | 上兵伐謀 | 割拠 | ||||
76 | 61 | 86 | 83 | 56 | 能吏 | 慰撫 | 補佐 | 召募 | 柱石 | 牽制 | 混乱 | 攪乱 | 上兵伐謀 | 割拠 |
【ウエスギノリアキ】
南北朝時代の武将。山内上杉家の祖。
上杉憲房の子で足利尊氏・直義の母方の従兄弟にあたる。
父の戦死後に跡を継ぎ鎌倉に入った尊氏の子義詮の補佐を務め、父と同じく上野国守護となる。
観応の擾乱においては直義派として関東方面の有力な尊氏派であった高師冬を討ち、関東に
おける直義派の優位を築き南朝と手を結び尊氏に対抗したが乱の終結により失脚した。
しかし尊氏の死後に関東管領として復権、鎌倉府の体制確立に尽力し後の上杉氏興隆の基礎を築いた。
桃井直常
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 97 | 36 | 41 | 55 | 一騎 | 驍将 | 果敢 | 長駆 | 猪突 |
【モモノイタダツネ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。足利尊氏・足利直義らに仕える。
南朝方との合戦に従軍し、1336年、1338年にいずれも北畠顕家の上洛軍相手に奮戦。
奈良般若坂の戦いでは、北畠顕家軍を退ける活躍を見せるが、恩賞には預かれなかった。
足利直義に重用され「直」の偏諱を下賜されると、直義派有力武将として、主に北陸方面で活躍。
観応の擾乱では直義派の中心武将として活躍し、足利尊氏に辛酸を嘗めさせた。その後も
足利直義、足利直冬に仕えたが、両名が没落すると足利基氏の庇護を受け、幕府に復帰した。
しかし幕府内で斯波義将との権力争いの末に越中長沢で戦うも敗北を喫し、以後消息を絶つ。
※ 南北朝時代を扱った著書「太平記」では、鬼神の如きとあり当代随一の猛将として書かれている。
※その他候補となった特技:勇将・疾走
斯波高経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 87 | 79 | 74 | 81 | 梟雄 | 英名 | 召募 | 名声 | 剛将 |
【シバタカツネ】
鎌倉・南北朝時代の武将。足利家一門。尾張足利家とも。
鎌倉幕府に仕えていたが、同族の足利高氏が離反するとこれに同調し、六波羅探題を攻撃する。
建武政権では朝廷の差配に従い、畿内各地の反乱鎮圧に貢献。越前守護となった。
南北朝の動乱が発生すると北朝方となった足利尊氏に追従し、北朝方の北陸軍中枢となり、
南朝方の楠木正成や新田義貞らと争った。尊氏九州落ちの際には長門国に在陣して南朝に備え、
足利尊氏が再起をはかるとこれに追従し、湊川の戦いでは楠木正成の退路を絶った。その後
藤島の戦いでは新田義貞を戦死させるなど活躍するが、観応の擾乱では尊氏方直義方を右往左往した。
晩年、足利義詮を支え、幕府権力の向上に腐心したが、反対派の圧力により失脚を命じられ、失意のまま没した。
※ 後年、四男の義将が尾張守護、管領として権力を固めた。斯波武衛家の祖として知られ、のちの戦国時代で、織田信長の主筋にあたる斯波義銀は彼の子孫にあたる。
斯波家長
生年 | 登場 | 没年 |
1321年 | 1338年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 67 | 73 | 75 | 72 | 堅牢 | 血路 | 動員 | 足止 | 牽制 | 政令徹底 | 王道 |
【シバイエナガ】
南北朝時代の武将。
斯波高経の長男で奥州の北畠顕家に対抗する為に尊氏により奥州管領に任じられ、
尊氏が京都に上洛し嫡子の義詮が鎌倉を守った際には執事として補佐した。
その後、京都に上洛する北畠顕家の軍を足止めするも迎え撃つも失敗に終わり、
畿内で尊氏軍を撃破して奥州に戻る顕家軍を追撃するも失敗に終わった。
そして1337年に顕家が鎌倉を攻略した際、義詮を逃がし鎌倉の杉本城で交戦するも戦死した。
斯波義将
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 84 | 91 | 93 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 | |||||||
82 | 84 | 91 | 93 | 88 | 虚実 | 詐謀 | 策士 | 柱石 | 名声 |
【シバヨシマサ(シバヨシユキ)】
足利一門斯波家の出身。管領、越前守護。義詮、義満、義持と足利3代に仕える。
斯波高経の四男として生誕し、父にその才能を重用され、わずか13歳で管領(執事)につく。
しかし、父の強引なやり方に反発した諸侯の煽りを受けて失脚。
父の死後足利義詮に許されて返り咲いた。その後は越中北陸征伐の要として出陣し、
足利直義に属していた桃井氏を討伐。周辺勢力も駆逐し北陸の重鎮として君臨した。
康暦の政変では因縁のあった細川頼之を糾弾し、彼を失脚させて、斯波氏最盛期を築いた。
晩年は足利義満、足利義持の2将軍から重用され、時に将軍をも諫止し、
越前加賀信濃尾張遠江と五州を領するその栄華は諸侯をも恐れさせた。
補足:細川頼之は最終的に養子で弟の細川頼元を通じ、地位を回復させたが、彼の没後は斯波家が足利一門最大勢力となった。
織田信長を輩出した織田氏を取り立てたのは嫡男義重である。
山名時氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 83 | 92 | 91 | 79 | 梟雄 | 詐謀 | 機略 | 求心 | 泰然 |
【ヤマナトキウジ】
南北朝時代の武将。父は山名政氏、母は上杉氏の出身。山名氏中興の祖。
家系上は新田氏の一族であるが、母方の縁戚関係を重視して足利氏に付き従った。
鎌倉幕府の滅亡、建武政権と南北朝の動乱に際しても足利尊氏に従い、湊川の戦いなど
足利方の軍事行動に従軍して功を立てた。その後も足利氏の勢力拡大につれて、塩冶高貞などを
討伐し、自らの勢力も拡大し山陰地方に独自の勢力基盤を築く。足利氏が観応の擾乱で分裂すると、
尊氏、直義、直冬、義詮と巧みに主君を変えながら自ら勢力を蓄え、山陰を中心とする5ヶ国の守護と、
引付頭人、侍所頭人など幕府の要職を兼任。のちに一門合わせて11ヶ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた。
※ 時氏の没後も勢力は衰えず、当初は所領安堵を承認した室町幕府も、山名氏の勢力を脅威と感じ、3代将軍足利義満の時代に明徳の乱が起きる。
※その他候補となった特技:威風・猛者・名声
石橋和義
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 75 | 75 | 80 | 68 | 堅守 | 堅牢 | 召募 | 興望 | 牽制 | 鉄壁 | 足止 | 城壁拡張 | 王道 |
【イシバシマサヨシ】
南北朝時代の武将。足利氏一門。
尊氏が九州へ逃亡した際に中国地方の国人を糾合し、備前国三石城において南朝側の軍勢を防ぎ尊氏が勢力を盛り返す為の時間稼ぎに大いに貢献した。
直義派であったが尊氏に転じ、幕府においては引付頭人になる等幕政にて重んぜられたが斯波高経と対立した事で失脚した。
畠山国清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 63 | 81 | 74 | 33 | 封殺 | 改修 | 高慢 | 足止 | 業火 | 墨守研究 | 名利 |
【ハタケヤマクニキヨ】
南北朝時代の武将。
足利尊氏に従い紀伊・河内国守護を歴任し、足利基氏が鎌倉公方となった後は
関東執事及び伊豆・武蔵守護として補佐し、鎌倉に攻め上がろうとした南朝の新田義興を謀殺する功績を挙げた。
しかし関東武士の支持は低く中央での政争にも不利な立場となり失脚、伊豆に立て篭り反乱を起こすも敗れて逃亡、或いは殺害されたという。
嫌悪武将:仁木義長
岩松経家
生年 | 登場 | 没年 |
1335年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 76 | 67 | 64 | 59 | 果敢 | 奮戦 | 駆逐 | 地域巡回 | 王道 |
【イワマツツネイエ】
南北朝時代の武将。
岩松氏は足利氏の一門であるが母方は新田氏の血も引いており、
鎌倉幕府の滅亡時には新田義貞に従って鎌倉攻略に加わり「搦手大将軍」として活躍、
戦後には飛騨守護となり各地の地頭職を得て、さらに成良親王による鎌倉将軍府が成立した
際は御所の警護と政務を担う「関東廂番」を務めた。
しかし中先代の乱による武蔵国高麗郡女影原での戦いで時行勢との交戦の末に戦死した。
岩松直国
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 78 | 57 | 68 | 62 | 護衛 | 徴税 | 奮戦 | 鉄壁 | 地域振興 | 王道 |
【イワマツタダクニ】
南北朝時代の武将。
兄である岩松経家の死後に岩松氏の家督を継ぎ、足利直義に仕えて直義派であった
上杉憲顕の娘を妻として新田荘由良郷の地頭職となった。
直義の死後は鎌倉公方足利基氏に仕え、武蔵国苦林野で芳賀禅可と交戦した際には
窮地に陥る基氏の鎧と自らの鎧を交換し奮戦した事で知られる。
親愛武将:足利直義 足利基氏 上杉憲顕