注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 南朝 吉野朝廷 (1337~1348)
邦良親王との皇位継承争いを制した後醍醐天皇を祖とする勢力。
現在は「南朝」呼称が一般的であるが、戦前の皇国史観などでは「吉野朝廷」と呼ばれることが多く、
戦前のいわゆる「南北朝正閏問題」では明治天皇の沙汰によって一応こちらを正統王朝としている。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始したが、足利尊氏の離反によって最終的に頓挫し、南北朝の動乱の最中1339年に薨去する。
その後、後醍醐天皇の第七皇子が後村上天皇として皇位を継承するが、既に劣勢甚だしく、1348年には吉野も追われて大和賀名生に居を構えた。
1353年に観応の擾乱が起こると三者鼎立となり、一時的に勢威を復するが、協調勢力の離反は止まらず、次代の長慶天皇の頃には
唯一優位であった九州をも今川了俊らの手によって失陥させられ、最終的に足利義満の講和条件を受諾して南北朝は合一した。
これを明徳の和約と呼ぶが、4代将軍足利義持の時代になると明徳の和約で提示された講和条件は守られず、のちに後南朝勢力を形成するに至る。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
北朝 → 南北朝時代(日本・北朝(尊氏派)) 、南北朝時代(日本・北朝(直義派))、南北朝時代(日本・北朝(直冬党)) 、南北朝時代(日本・北朝 花の御所)
北条 → 鎌倉時代(正中・元弘の変)、中先代の乱(建武政権)
室町 → 室町時代、 鎌倉府・鎌倉公方
創作 → NHK大河ドラマ、漫画2
のちの後南朝については室町時代を参照
皇族
尊治親王(後醍醐天皇)
建武の新政(正中の変~建武の乱)を参照。
尊良親王
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 39 | 70 | 73 | 88 | 動員 | 再起 | 召募 | 消沈 | 功名 | 鼓舞 | 治療 | 足止 | 鎮静 | 兵站改革 | 王道 | |
【タカヨシシンノウ】
鎌倉時代及び南北朝時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。
太平記、増鏡、梅松論で第一皇子とされ、後醍醐天皇の後継者であった。
元弘の乱では楠木正成の籠る下赤坂城に入り籠城を続けるが、後醍醐天皇が
捕縛されたことを受け、幕府軍に降伏した。土佐へ流罪となるが、後醍醐天皇が
隠岐を脱出すると自らは肥前へ向かい、九州の鎌倉幕府打倒を支援した。
足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると新田義貞の討伐軍の名目上の総大将となる。
のちに後醍醐天皇が吉野に入るころに越前へと入り、北陸で新田義貞と同調して
南朝勢力の確保に奔走するが、金ヶ崎城で斯波高経らに敗れ、新田義顕とともに自害した。
恒良親王
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 16 | 11 | 80 | 82 | 89 | 召募 | 名声 | 人脈 | 動員 | 消沈 | 鼓舞 | 治療 | 牽制 | 三令五申 | 割拠 | ||
【ツネヨシシンノウ】
鎌倉時代及び南北朝時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。
後村上天皇の同母兄で、一時的に天皇となったとされている。
後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕運動を起こして笠置山で捕らわれると
西園寺公宗に預けられた。のちに建武の新政が始まると
母が後醍醐天皇の寵妃である阿野廉子であったため、後醍醐天皇の皇太子となる。
のちに建武の乱で後醍醐天皇が足利尊氏に降伏すると、新田義貞に擁立され
天皇となり「白鹿」の年号を用いて北陸から統治を開始したが、足利方の斯波高経らによって敗れ捕えられた。
補足:生年、死去年は諸説ある。太平記では1338年に足利尊氏が酖毒を用いて毒殺したとする。しかし実際には1346年頃まで生存していたらしい。
補足:太平記では幼少ながら聡明な君主として登場。尊氏の毒殺も見抜いていたが、もはや逃れられぬと悟って自害する形で毒をあおった。
補足:数ヶ月ほど天皇に擁立され、天皇としての統治も行っているのだが、残念ながら歴代天皇には数えられていない。
公卿・貴人
北畠親房
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 47 | 85 | 82 | 76 | 学者 | 名声 | 教化 | 能吏 | 策士 | 礼教 | ||||||
| 58 | 37 | 95 | 92 | 76 | 学者 | 名声 | 教化 | 能吏 | 策士 | 礼教 | ||||||
| 68 | 37 | 95 | 92 | 76 | 洞察 | 学者 | 教化 | 能吏 | 策士 | 千方百計 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 罵声 | 先従隗始 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 37 | 95 | 92 | 83 | 洞察 | 学者 | 教化 | 能吏 | 策士 | 千方百計 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 罵声 | 先従隗始 | 王道 |
【キタバタケチカフサ】
鎌倉・南北朝時代の公卿。後醍醐・後村上両天皇の重鎮。伊勢北畠家の祖。
後醍醐天皇が即位すると「後の三房」の一角として大いに重用され、
権大納言、源氏長者となるが、世良親王の逝去により一度隠遁する。
のち、後醍醐天皇が建武の新政を開始すると復帰し、後醍醐天皇を硬軟交えて補佐した。
南北朝の動乱では一貫して南朝支持を貫き、後醍醐天皇、後村上天皇を補佐しつつ、新田義貞、楠木正成らと
協調して足利尊氏追討を志すが果たせなかった。
その後、関東東国で南朝支持勢力を募りつつ、「神皇正統記」を記したが、
理論だけでは関東武士(特に下級武士)達はついて来ず、なかなか上手くいかなかった。
晩年、一時的ではあるが北朝を抑えた功績で大納言でありながら准三宮となり、南朝を統括してその勢威を復した。
※彼の記した「神皇正統記」にある万世一系論は、その後の水戸学や皇国史観に大きな影響を与えたと言われている。また武家政権も「徳治」を以て容認するなど、社会の安定を第一とした。
※しかし一方で武士に対する特権意識も根強く、とりわけ楠木家には強くあたることもあった。太平記では坊門清忠のものとされている楠木正成を死に追いやった強硬論は、親房によるものとする説がある。
※また、楠木正行に対しても、彼の攻勢をしきりに促し、楠木軍が攻勢限界を迎えて正行を死に追いやったとする説もある。
※その他候補となった特技:詭計・明鏡
北畠顕家
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 神機 | 疾走 | 求心 | 長駆 | 王道 | ||||||
| 99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 神機 | 疾走 | 掃討 | 長駆 | 王道 | ||||||
| 99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 | |||||
信長の野望、革新の追加武将の1人。
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 79 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 | |||||
| 94 | 88 | 83 | 79 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 | |||||
| 97 | 90 | 82 | 79 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 掃討 | 諫止 | 破竹之勢 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 奮戦 | 侵略荒廃 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 97 | 91 | 82 | 79 | 84 | 神威 | 疾走 | 果敢 | 掃討 | 諫止 | 破竹之勢 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 奮戦 | 文事武備 | 王道 |
| 97 | 90 | 84 | 81 | 89 | 神威 | 疾走 | 果敢 | 掃討 | 諫止 | 破竹之勢 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 奮戦 | 文事武備 | 王道 |
「増鏡」によれば、後醍醐天皇の御前で高長恭に扮し「陵王」を舞ったとされるので、高長恭を少し意識した個性に。
【キタバタケアキイエ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。浪岡北畠氏の祖。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて1338年に再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、最期は足利尊氏の執事、高師直と戦って戦死した。享年21歳。
補足:最期の戦いである石津の戦い(堺浦の戦い)の趨勢については諸説ある。太平記では顕家の軍団の大半は石清水の春日顕国が率いており、奇襲同然に師直勢に攻撃され、少数でいた主力軍が打ち破れられ顕家は討たれたとする。
補足:一方、保暦間記では当初優勢だったのは南朝軍の方であり、足利勢は敗れて撤退していたが師直が踏みとどまって形勢を逆転させ、なんとか顕家らを討ち取ることに成功したとしており、太平記よりも戦争の規模が大きかったとしている。
※その他候補となった特技:洞察・昂揚・詩想・不屈・名声・動員
春日顕国
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1344年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 84 | 56 | 51 | 64 | 掃討 | 再起 | 不屈 | 節約 | 長駆 | 業火 | 鯨波 | 奮戦 | 地勢研究 | 王道 | ||
| 82 | 70 | 85 | 71 | 74 | 堅守 | 再起 | 不屈 | 節約 | 地利 | 十面埋伏 | 鼓舞 | 奮戦 | 鯨波 | 業火 | 地勢研究 | 王道 |
【カスガアキクニ】
南北朝時代の南朝の武将。
村上源氏の庶流で同じ村上源氏である北畠親房・顕家親子に付き従い、
主に関東方面にて南朝の主力武将の一人として北朝方と戦った。
1343年に常陸国の大宝城・関城が落城し、関東方面の北朝側の優位がほぼ確定
しながらも潜伏して戦い続け、翌年に大宝城を一時奪回するが敗れて斬首された。
勾当内侍
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 1 | 9 | 81 | 69 | 92 | 才媛 | 傾国 | 応援 | 智嚢 | 悪名 | 傾国の舞 | 治療 | 足止 | 鎮静 | 混乱 | 地域巡回 | 王道 |
【コウトウノナイシ】
鎌倉時代から南北朝時代の女官。本名不詳。
「太平記」のみに記述があり、実在性をやや疑問視されているが、
藤原氏の一族と伝わる。絶世の美女と謳われ、
新田義貞に見初められた。やがて後醍醐天皇から新田義貞に
授けられ、彼の妻となる。しかしその美貌にうつつをぬかした
新田義貞は、九州へ下向する足利尊氏への追撃を辞めてしまい、
尊氏再起のきっかけとなった。のち新田義貞が北陸に下向すると近江に
留め置かれ、これが今生の別れとなった。
※ 新田義貞が九州に下向する足利尊氏を追撃できなかったのは、病によるものという説もある。
武士・在野
楠木正成
建武の新政(正中の変~建武の乱)を参照。
楠木正行
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 95 | 68 | 42 | 81 | 闘将 | 神威 | 慈悲 | 果敢 | 胆力 | 疾風迅雷 | 三軍強化 3 | 王道 | ||||
※別案(寡兵をもって北軍相手に最後まで善戦した事から、劣勢に強い武将としての別案)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 91 | 89 | 73 | 42 | 77 | 神威 | 威風 | 一心 | 胆力 | 補佐 | 遼来遼来 | 突撃 | 大喝 | 足止 | - | 魚鱗強化 4 | 王道 |
| 90 | 89 | 63 | 52 | 78 | 神威 | 果敢 | 一心 | 胆力 | 功名 | 疾風迅雷 | 突撃 | 大喝 | 足止 | 激励 | 魚鱗強化 4 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 85 | 63 | 52 | 78 | 神威 | 果敢 | 一心 | 胆力 | 功名 | 疾風迅雷 | 突撃 | 大喝 | 足止 | 激励 | 三軍強化 | 王道 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 92 | 85 | 73 | 71 | 82 | 神威 | 果敢 | 一心 | 胆力 | 慈悲 | 疾風迅雷 | 突撃 | 大喝 | 足止 | 激励 | 治療 | 三軍強化 | 王道 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 85 | 73 | 71 | 82 | 神威 | 果敢 | 一心 | 胆力 | 慈悲 | 疾風迅雷 | 突撃 | 大喝 | 激励 | 治療 | 三軍強化 | 王道 |
「大楠公」と称された父、楠木正成と対比して「小楠公」と呼ばれる。活動期間は1年ほどと
極めて短いが、細川顕氏や山名時氏といった足利方の宿将を打ち破り、北朝方では「不可思議事也」と驚嘆された。
四条畷の戦いの顛末には諸説あり、特攻玉砕説から主戦派(北畠親房、もしくは洞院実世ら公卿層)による無理強い説などがある。
なお軍記物「太平記」では溺れる敵兵を自ら救助し、慈悲深く治療して敵陣に送り返した逸話を紹介しており、この救敵伝説は日本赤十字社の活動理念となった。
【クスノキマサツラ】
南北朝時代の武将。楠木正成の長男。小楠公。
父の死後から7年は目立った実績は無かったが、南朝で主戦派が主導権を握ると幕府との戦いの矢面に立つことになった。
参戦後は北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」と畏怖された。
しかし兵力差は覆せず、四條畷の戦いで敵将・高師直と幕府の総兵力に近い大軍の前に敗死した。
参戦から戦死まで一年余りと短い時期に大きな戦歴を残し、父・正成同様朝廷に殉ずる形で死んだ事から、
父と共に後世皇国史観の偶像として祭り上げられる事になった。
楠木正時
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 87 | 56 | 39 | 70 | 果敢 | 胆力 | 掃討 | 直情 | 功名 | 激励 | 突撃 | 大喝 | 足止 | 急襲 | 錐行強化 | 王道 |
| 79 | 87 | 56 | 39 | 70 | 果敢 | 胆力 | 掃討 | 直情 | 功名 | 疾風怒濤 | 突撃 | 大喝 | 激励 | 急襲 | 錐行強化 | 王道 |
【クスノキマサトキ】
南北朝時代の武将。楠木正成の次男。
兄の楠木正行に従い各地の合戦に参加。1348年に四條畷の戦いに参陣し、
敵の総大将である高師直の本陣まで迫る奮戦ぶりを見せたが、最終的には
敗れ、兄、正行とともに自刃した。太平記では師直の家臣であった上山高元が
師直の影武者として身代わりとなり正時に討たれたため、高師直は命からがら危機を回避したとする。
楠木惟正(大塚惟正)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 72 | 79 | 60 | 62 | 地利 | 山戦 | 果敢 | 補佐 | 運搬 | 変幻要撃 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 足止 | 魚鱗強化 | 割拠 |
【クスノキコレマサ】
南北朝時代の武将。楠木氏の一族で和泉守護代をつとめた。大塚惟正とも。
楠木正成が湊川の戦いで自刃すると、生き残った楠木党などを率いて
河内、和泉を転戦し、南朝方の防備につとめた。北朝方で和泉守護代に
任命された足利尊氏の家臣である細川顕氏と争い、同族の細川直俊を敗死させている。
のちに楠木正行が成長するとその傘下に入り彼を支え、楠木軍の連戦連勝に貢献したが
四条畷の戦いで、主君である楠木正行に殉じた。
補足:死没の時期は諸説あり、四条畷の戦いではなく別の戦いで戦没したという説もある。
橋本正茂
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 46 | 77 | 80 | 75 | 改修 | 輿望 | 調達 | 運搬 | 召募 | 斉射 | 治療 | 鎮静 | 鼓舞 | 足止 | 城壁拡張 | 割拠 |
【ハシモトマサモチ】
南北朝時代の武将。楠木氏の一族とつたわる。
和泉国に勢力を張り楠木正行、楠木正儀の重臣をつとめ
主に城代家老として貢献。四条畷の戦いの際には
楠木正儀の守役をつとめた。のちに高木遠盛や
和田正興らを率いて畠山国清と争った。生没年不明。
和田源秀
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 92 | 51 | 18 | 72 | 豪傑 | 果敢 | 泰然 | 猛者 | 粉砕 | 激励 | 奮戦 | 急襲 | 大喝 | 突撃 | 鋒矢強化 | 王道 |
【ワダゲンシュウ】
南北朝時代の武将。楠木氏の一族とされ、
楠木正季の子とも伝わる。楠木正行に従って
各地の合戦に参加し、住吉合戦では自ら突撃して
敵将である山名時氏に迫る活躍を見せた。四条畷の戦いでも
敵将を数多討ち取ったが、楠木正行の死後、彼に殉じた。
和田治氏(岸和田治氏)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 75 | 44 | 48 | 54 | 火攻 | 一心 | 昂揚 | 果敢 | 屯田 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 地域振興 | 割拠 | ||
【ワダハルウジ/ミキタハルウジ】
南北朝時代の武将。和泉国人。
楠木正成の麾下として湊川合戦に参陣し、激戦から生還。
以後は楠木正行の家臣である楠木惟正や橋本正茂の
指揮下で足利方と戦い、数々の軍功をあげた。1337年には
楠木惟正の指揮下で細川直俊を敗死させる活躍を見せる。
足利方の拠点を数多く焼き払い、自身の荘園を拡張。「岸和田」の語源となった。生没年不詳。
補足
大阪府岸和田市は「岸の和田」が語源になっており(和田高家が由来説もあるが)名の由来とされている。
しかし「和田」の読みが「わだ」説と「みきた」説があり、楠木正成も書状で「みきた」と書いているので齟齬が生じている。
なお岸和田市としては前述の楠木正成の甥、和田高家を由来にしており、この読みは「わだ」である。しかし和田高家の実在性についても疑義が呈されている。
高木遠盛
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 83 | 50 | 25 | 51 | 遠矢 | 豪傑 | 胆力 | 果敢 | 火攻 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 奮戦 | 侵略荒廃 | 我道 | |
【タカギトオモリ】
南北朝時代の武将。河内国人。
橋本正茂、楠木惟正、和田正興らの指揮下で楠木軍に所属して
戦い、数々の軍功を挙げた。1338年には足利方の松原城を陥落させ
能登房を戦死させる軍功を立てる。石津の戦いの際には
天王寺から出撃してきた細川顕氏の軍勢と交戦した。生没年未詳。
補足:楠木正成没後の楠木軍において、軍忠状がずば抜けて多い人物とされている。
新田義貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 86 | 68 | 70 | 45 | 豪傑 | 掃討 | 長駆 | 不屈 | 功名 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 | ||||
※ 別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 86 | 18 | 31 | 71 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 寡欲 | 直情 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 | ||||
※ 別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 86 | 18 | 31 | 71 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 寡欲 | 直情 | 単騎駆 | 突擊 | 急襲 | 大喝 | 鼓舞 | 長蛇強化 | 王道 |
| 88 | 93 | 18 | 31 | 78 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 豪傑 | 直情 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 | ||||
| 91 | 93 | 18 | 35 | 79 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 長駆 | 直情 | 単騎駆 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 我道 |
| 91 | 93 | 18 | 35 | 79 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 長駆 | 直情 | 単騎駆 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 王道 |
| 91 | 96 | 18 | 35 | 79 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 長駆 | 猪突 | 単騎駆 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 王道 |
名うての政治音痴だったことから「蒼天録」の数値を使い、知力と政治を下方修正。いっぽうで、敗れてもなお兵士の従うカリスマ性があったことから魅力を上方修正。
陣形は「烈風伝」では 魚鱗、峰矢、雁行、長蛇を所持。騎馬での速攻が強いので錐行があってもいいかも
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 96 | 38 | 45 | 89 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 長駆 | 猪突 | 単騎駆 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 王道 |
| 93 | 96 | 38 | 45 | 89 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 長駆 | 猪突 | 勇往邁進 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 王道 |
ベースとしては他案とかわらず。「脳筋」「激強」「計略に脆い」が基本コンセプト。
また 戦法「単騎駆」は、最期の場面を再現であると思われる……
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 96 | 53 | 69 | 89 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 粗忽 | 猪突 | 勇往邁進 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 激励 | 長蛇強化 | 王道 |
北陸朝廷構想や、太平記での尊氏との問答などから、政治知力を大幅UP。一方で、その死をはじめ同時代でも批判される顕著な失点もあるため、個性で粗忽を付与。
【ニッタヨシサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行い、武者所長官には任じられたものの、
後醍醐からは源氏長者として義貞ではなく北畠親房が指名されるなど朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
※鎌倉府滅亡の大功と、帝に尽くした忠臣として顕揚されるが、新妻である勾当内侍にうつつを抜かし尊氏を取り逃がすなど、正成に比べると評価は低い。
※武勇に優れた勇将であったが、特に最期の場面は太平記では「犬死」扱いされ、神皇正統記では「むなしく戦死」とあるように、同時代史料からも厳しく評されている
※その他候補となった特技:不屈
新田義助(脇屋義助)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 88 | 68 | 62 | 66 | 任才 | 補佐 | 調練 | 山戦 | 地利 | 疾風怒濤 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 牽制 | 方円強化 | 王道 |
【ニッタヨシスケ/ワキヤヨシスケ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。新田義貞の弟。
兄が鎌倉幕府打倒の兵をあげるとこれに追従し、鎌倉幕府滅亡に貢献。
建武政権では左衛門佐、駿河守などの役職に任じられた。
その後も兄、義貞に従い各地を転戦し、新田義貞が越前藤島で
戦死すると、事実上兄の役割を引き継いで南朝方の重鎮となった。
北陸、尾張、四国と転戦して南朝に貢献したが、伊予で発病して早逝した。
新田義顕
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 69 | 66 | 72 | 61 | 53 | 堅牢 | 監守 | 血路 | 殿軍 | 功名 | 奮戦 | 牽制 | 激励 | 混乱 | 突撃 | 方円強化 | 王道 |
【ニッタヨシアキ】
南北朝時代の武将。新田義貞の長男。
父の義貞による鎌倉幕府倒幕運動に参加し、建武政権では武者所一番の頭人をつとめた。
建武の乱では比叡山に撤退する後醍醐天皇軍の殿をつとめ、負傷しながらも役目を全うする。
その後北陸に転戦するが足利軍に阻まれ、父の新田義貞とともに金ヶ崎城に籠城。
「十六騎駆け」で足利軍を翻弄し半年間粘ったが、最期は高師泰や斯波高経らの軍勢に攻められ、尊良親王とともに自刃した。
南部師行
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 87 | 73 | 78 | 76 | 調練 | 調達 | 長駆 | 扇動 | 猛者 | 忠勇義烈 | 混乱 | 突撃 | 投石 | 激励 | 錐行強化 | 王道 |
【ナンブモロユキ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。根城南部氏4代当主。
元は甲斐の領主で、鎌倉幕府の討幕運動の際には
新田義貞の鎌倉攻めに一族あげて参陣し功を立てた。
建武政権では北畠顕家に従って義良親王を奉じ、奥州政権の中軸として
君臨。北条残党や在地勢力の反乱鎮圧で武功を挙げる。
のちに足利尊氏が謀叛を起こすと、北畠顕家率いる上洛軍の留守を守り
足利方の斯波家長らと戦った。再度北畠顕家が上洛軍を起こすと、それに追従。
足利軍と一進一退の攻防を繰り広げ、最期は石津の戦いで北畠顕家に殉じた。
南部政長
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 76 | 75 | 71 | 73 | 地利 | 名声 | 柱石 | 一心 | 胆力 | 激励 | 牽制 | 突撃 | 急襲 | 奮戦 | 長蛇強化 | 王道 |
【ナンブマサナガ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。南部師行の弟。
兄とともに鎌倉幕府討幕運動に参加し、新田義貞の鎌倉攻めに従軍した。
建武政権では兄とともに北畠顕家らに仕え、奥州の平定に尽力した。
足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、兄の留守として奥州に残り
奥州の北朝勢力と交戦し、兄の没後に根城南部氏の当主となる。
一貫して南朝に忠誠を貫き、北畠親房や北畠顕信に合力して奮戦し
奥州南朝軍の中核を成したが、劣勢を挽回することはできず1360年に死去した。
※稗貫氏、和賀氏を打倒し、手を焼いた北朝方の足利直義や高師直から何度も勧誘(降伏)要請を受けている。
名和義高
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 75 | 57 | 54 | 61 | 護衛 | 操舵 | 寡欲 | 長駆 | 人脈 | 激励 | 斉射 | 鉄壁 | 魚鱗強化 | 王道 | ||
【ナワヨシタカ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。
名和長年の嫡男。父に従い後醍醐天皇の隠岐脱出を手助けし、
後醍醐天皇の挙兵に貢献した。建武政権では武者所の番衆をつとめる。
足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、南朝方として足利軍の迎撃に
奮闘。のちに北畠顕家の軍勢に加わるが、石津の戦いで戦死した。
堀口貞満
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 78 | 81 | 79 | 70 | 諌止 | 果敢 | 調練 | 察知 | 看破 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 大喝 | 牽制 | 錐行強化 | 割拠 |
【ホリグチサダミツ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。
新田義貞の親族であり重臣。新田義貞が鎌倉幕府への
討幕を決意するとこれに参集し、巨福呂坂から鎌倉を攻撃して
義貞の討幕に貢献した。建武政権では義貞とともに
後醍醐天皇に仕えたが、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると
新田義貞とともに尊氏討伐に向かい、三河矢作川の戦いで活躍した。
九州に追い落とした足利尊氏が再起して戻ってきた際は、
尊氏の勢威を恐れて尊氏と和睦しようとした後醍醐天皇を直言諌止している。
のちに義貞とともに北陸へ向かい、その後は美濃へ向かった。1338年死没。
補足:美濃で亡くなったとも、北畠顕家に合流して同年の石津の戦いで戦死したとも言われる。
堀口貞祐
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 61 | 82 | 52 | 63 | 50 | 猛者 | 築城 | 果敢 | 功名 | 賊徒 | 突撃 | 激励 | 急襲 | 錐行強化 | 割拠 | ||
【ホリグチサダスケ】
南北朝時代の武将。新田一族で堀口貞満の子。
父とともに新田義貞に従って各地の合戦に従軍。
父の死後は近江に潜伏し、1353年に山名時氏らが
南朝の楠木正儀らとともに京を攻撃した際には、
京から落ちのびる北朝方の後光厳天皇と足利義詮を襲撃し、
足利方の佐々木秀綱を討ち取った。のちに近江堅田に居を構えた。生没年は不詳。
補足:のちに泉福寺の住職になったとするが不明。
大舘氏明
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 70 | 74 | 58 | 63 | 護衛 | 水戦 | 智嚢 | 動員 | 粗忽 | 斉射 | 鼓舞 | 矢嵐 | 牽制 | 雁行強化 | 割拠 | |
【オオダチウジアキ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。新田義貞の一門。
鎌倉攻めに向かう新田義貞に父、大舘宗氏と同道し、父の戦死後は家督を継いで
独自の軍を率い鎌倉幕府滅亡に貢献。足利尊氏が建武政権から離反すると
新田義貞に追従し、策を授けて細川定禅を破った。足利尊氏が九州に下向すると
新田義貞に代わって江田行義とともに討伐軍を編成するが、赤松円心に阻まれる。
後醍醐天皇と足利尊氏が一時和睦すると、新田義貞から離れて後醍醐天皇を護衛。
その後伊予に向かって水軍を編成し、後醍醐天皇の勢威復古に尽力するが、足利方の細川頼春に敗れて戦死した。
補足:没年は1340年とも1342年とも言われる。
篠塚重広
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1309年 | 1342年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 94 | 45 | 32 | 67 | 豪傑 | 護衛 | 殿軍 | 粉砕 | 功名 | 怪力無比 | 奮戦 | 急襲 | 大喝 | 長蛇強化 | 割拠 | |
【シノヅカシゲヒロ】
南北朝時代の南朝の武将。篠塚伊賀守の通称でも知られる。
畠山重忠の末裔で新田義貞に仕えて鎌倉攻めを始めとした義貞の戦いに参加し、剛力で知られ八尺の金砕棒を武器に活躍し
新田四天王の一人に数えられた。
義貞の死後は義貞の弟脇屋義助に従い北朝と戦い続け、最後は伊予の隠岐島に落ち延びて亡くなったという。
江戸時代には関羽になぞらえた「篠塚五関破」という歌舞伎が創られている。
栗生顕友
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 90 | 75 | 38 | 65 | 豪傑 | 山戦 | 果敢 | 胆力 | 功名 | 兵貴神速 | 急襲 | 鯨波 | 鶴翼強化 | 割拠 | ||
【クリュウアキトモ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられた武勇の士で、義貞に従い南朝側の武将として
転戦した。天竜川で溺れそうになった馬を甲冑で飛び込み助け、三井寺合戦では篠塚重広と共に
大卒塔婆を引き抜き攻城の橋とし、北朝の大軍に越前金ケ崎城が包囲された際に奇策を用いて
援軍として入城する等のエピソードを残した。
畑時能
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 92 | 76 | 24 | 60 | 豪傑 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 不屈 | 奮戦 | 急襲 | 撹乱 | 魚鱗強化 | 割拠 | ||
【ハタトキヨシ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられて南朝側の武将として活躍し、
義貞の死後は義貞の弟脇屋義助の配下として越前で活動し、斯波高経率いる
北朝側の攻撃を鷲ヶ岳で迎え撃った際に受けた矢が元で死亡した。
武勇のみならず「犬獅子」という名の愛犬を戦闘に用いている。
※統率・知力・政治は信長の野望蒼天録を参考
由良具滋
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 88 | 48 | 26 | 58 | 豪傑 | 泰然 | 一心 | 胆力 | 節約 | 突撃 | 鉄壁 | 足止 | 鼓舞 | 方円強化 | 割拠 | |
【ユラトモシゲ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられる。
北朝側に越前金ケ崎城が包囲された際、城内の兵糧が尽きる中で戦死者の肉を喰らい
さらに自らの血を啜って勇戦し最後は戦死した。
瓜生保
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 81 | 45 | 37 | 56 | 果敢 | 山戦 | 猪突 | 直情 | 粗忽 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 鋒矢強化 | 割拠 | ||
【ウリュウタモツ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。越前の豪族瓜生氏の出。
新田義貞の配下として越前南条郡に属し、中先代の乱の際には
連動して反乱を起こした名越時兼を討ち果たした。のちに
足利尊氏が建武政権から離反すると、最終的には新田義貞に
同調して足利軍と攻防を繰り広げる。局地的には優勢の展開もあったが
1337年金ヶ崎城救援の際に今川頼貞に待ち伏せされ、足利の大軍相手に奮戦し戦死した。
補足:太平記によると、足利尊氏が発した偽の綸旨に騙されて一時期足利尊氏に仕えていたことがあるらしいが、識者によるとこれは疑わしい話であるらしい。
結城宗広
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1266年 | 1339年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 78 | 56 | 64 | 60 | 矍鑠 | 長駆 | 補佐 | 奮戦 | 突撃 | 政令徹底 | 王道 | |||||
| 73 | 71 | 66 | 74 | 66 | 補佐 | 長駆 | 強奪 | 悪名 | 粗暴 | 奮戦 | 突撃 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 侵略荒廃 | 我道 |
【ユウキムネヒロ】
鎌倉時代~南北朝時代の武将。
白河結城氏の第二代当主で鎌倉幕府の御家人であったが、後醍醐天皇の挙兵により
天皇側に転じて幕府打倒に功績を挙げた。
建武の新生により北畠顕家が陸奥鎮守府の将軍として奥州入りした際に評定衆の一員に
選ばれて補佐し、足利尊氏が挙兵した後は北畠顕家の上洛軍に従い、京都にて天皇より名刀「鬼丸」を拝領した。
顕家の敗死後は義良親王、北畠親房らと共に海路で奥州を目指すも失敗、伊勢にて病死した。
親愛武将:北畠親房 北畠顕家
※「太平記」においてはその最期において生来暴虐の人物で常に生首を見ないと気が収まらず、
毎日数人の首を斬ってはその生首を飾り見ていたという事で地獄に堕ちたというが史実での確証は無い。
太平記ベースならば魅力を落として粗暴+悪名か。
結城親朝
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 61 | 55 | 63 | 58 | 62 | 調達 | 地利 | 動員 | 小心 | 優柔 | 牽制 | 鼓舞 | 鎮静 | 地域振興 | 割拠 | ||
【ユウキチカトモ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。
結城宗広の長男で、結城親光の兄。白河小峰氏の祖。
後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕運動が発生すると、
領国白河を守って父や兄を支援した。建武の新政下では
北畠顕家の指揮下で統治を行う。足利尊氏が建武政権から
離反すると、顕家に従い奥州軍として奮闘。二度目の遠征の際には
白河に留まった。のちに北畠親房や北畠顕信とともに南朝方として
奮闘するが、時勢の悪化から苦心し、最終的に北朝方へ鞍替えした。その後隠居し、1347年に死去した。
伊達行朝
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1291年 | 1348年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 76 | 63 | 68 | 64 | 堅牢 | 地利 | 詩想 | 長駆 | 再起 | 鼓舞 | 鉄壁 | 斉射 | 城壁拡張 | 王道 | ||
【ダテユキトモ】
南北朝時代の南朝の武将。奥州伊達氏第7代当主。
建武の新政後に陸奥守となった北畠顕家の元で評定衆の一人として活動、
南北朝の争乱にて奥州の南朝方の主力として顕家に従い各地を転戦、
顕家の戦死後も常陸国伊佐城を拠点に抵抗を続けた。
葛西清貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 55 | 50 | 54 | 61 | 長駆 | 一心 | 調達 | 節約 | 運搬 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 運搬開発 | 割拠 | ||
【カサイキヨサダ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。葛西家当主。
北条貞時から偏諱を授かり清貞と名乗る。後醍醐天皇が
鎌倉幕府の討幕運動をおこすと、はじめ北条方につくがのちに宮方に
寝返った。その後、北畠顕家に従い奥州の鎮定と二度の上洛戦に参加して
貢献する。顕家の死後はその弟、北畠顕信に従った。1350年に没した。
小田治久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 59 | 53 | 57 | 68 | 調達 | 運搬 | 人脈 | 屯田 | 消沈 | 鉄壁 | 牽制 | 運搬開発 | 割拠 | |||
【オダハルヒサ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。
常陸に居を構え、はじめ北条高時から偏諱を授かり高知と名乗った。
後醍醐天皇が挙兵すると鎌倉幕府軍に従軍するが、
討幕後は後醍醐天皇に仕える。足利尊氏が後醍醐天皇から
離反すると、関東の後醍醐天皇方として楠木正家や北畠親房らを
匿い、南朝方の主要拠点として南朝勢力を支援した。
しかし高師冬に敗れて降伏。以後は北朝に与した。
千葉貞胤
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 57 | 54 | 45 | 49 | 69 | 名声 | 動員 | 強運 | 高慢 | 直情 | 斉射 | 激励 | 牽制 | 地域振興 | 名利 | ||
【チバサダタネ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。名門千葉氏の当主。
北条顕時の娘を母に持ち、鎌倉幕府に仕え北条貞時から偏諱を授かった。
元弘の乱では鎌倉幕府軍に属して楠木正成と戦うが、新田義貞が
鎌倉攻めを行うとこれに呼応。後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府打倒に貢献する。
建武政権では三浦時継と席次を巡って争い、時継を北条方に奔らせた。
建武の乱では後醍醐天皇や新田義貞に味方して連戦するが、進退窮まって斯波高経に降伏。
以後は足利尊氏に仕えた。最終的には尊氏方として1351年に病死した。
菊池武重
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 69 | 65 | 53 | 45 | 59 | 長駆 | 動員 | 消沈 | 直情 | 動転 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 地勢研究 | 王道 | ||
| 69 | 65 | 53 | 71 | 59 | 長駆 | 動員 | 人脈 | 消沈 | 動転 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 地勢研究 | 王道 | ||
【キクチタケシゲ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。菊池武時の嫡男。菊池武光の兄。
父、菊池武時の挙兵に追従して鎮西探題を攻めるが、少弐氏や大友氏の協力を
得られず敗北。後醍醐天皇が討幕を成し遂げると、前述の行動が評価され、
肥後一国を与えられる。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、
新田義貞率いる討伐軍に従軍し、緒戦は勝利したが、尊氏が九州に下向し
弟の菊池武敏を破って再起してくると、山陽道から迎撃に向かうも足利直義に敗れた。
のちに足利軍に捕われ、肥後に向かうがその地で没した。
菊池武光
菊池武茂
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 30 | 33 | 35 | 52 | 38 | 寡欲 | 文化 | 惰弱 | 消沈 | 粗忽 | 鎮静 | 地域振興 | 割拠 | ||||
【キクチタケモチ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。菊池武時の子とされる。
父である武時に従って後醍醐天皇に味方し鎌倉幕府の討幕運動に参加。
建武政権では対馬守に任命された。菊池武士が当主となるとその補佐を任され、
武敏死後は一族の長老として重きをなしたが、わずか1年後に幕府方の
一色範氏の軍勢に敗れ、当主である菊池武士の隠居勧告がなされるに
至り権力を消失。以後、史料に足跡はあらわれなくなる。生没年は不詳。
補足
※室町時代初期(南北朝時代)の肥後菊池氏の武將。菊池武時の五男。
※大覚寺統の庶流の皇族で、
暴君獨裁者と成った後醍醐天皇(帥宮尊治親王)が、
武士の不平不満を利用して、
鎌倉幕府を討伐する活動をして行る時に、父親の菊池武時が味方した事に由り、従った。
※大覚寺統の庶流の皇族で、
南朝を建國した後醍醐天皇(帥宮尊治親王)から、對馬守に任命された。
菊池又次郎武士が、肥後菊池氏当主に成ると補佐を任されて行る。
※菊池九郎武敏が、
南朝から離叛して、鎮西管領の一色道猷範氏に降伏した後は、
菊池五郎武茂が、肥後菊池氏当主の補佐として重きを成したが、
鎮西管領の一色道猷範氏の軍勢に敗れて、
肥後菊池氏当主の菊池又次郎武士が、隠居勧告をされた事に由り権力を消失した。
※菊池又次郎武士が隠居した後に付いては、
菊池五郎武茂が、室町時代初期(南北朝時代)の歴史資料の足跡に現れ無く成る。
※菊池五郎武茂は、生没年不詳(生年不詳・没年不詳)の状態に成って行る。
:
※菊池次郎武重の弟で、
菊池六郎武澄や、菊池七郎武吉や、菊池八郎武豊や、菊池九郎武敏や、菊池十郎武光や、菊池又次郎武士の兄。
※大覚寺統の庶流の皇族で、
南朝を建國した後醍醐天皇(帥宮尊治親王)を支持する極めて強い勤皇家で在る。
※菊池五郎武茂は、
『弓箭の家に生まれて、朝家に仕ふる身たる間(中略)當世にへつらへる武士の心をながく離るべく候』と云う起請文を書いた。
此の起請文に付いては、明治時代から戦前迄は、しばしば模範として取り上げられて行る。
菊池武敏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 37 | 53 | 45 | 58 | 29 | 動員 | 智嚢 | 消沈 | 惰弱 | 動転 | 足止 | 地域巡回 | 王道 | ||||
【キクチタケトシ】
鎌倉時代及び南北朝時代の武将。菊池武時の九男。
建武の新政で兄の菊池武重が京にのぼると、その代理として菊池家を取りまとめた。
足利尊氏が後醍醐天皇から離叛すると、阿蘇惟直と協力して、
少弐貞経を攻め、苦戦するも自害に追い込んだ。のちに、
足利尊氏が進軍してくると、多々良浜で迎え撃つが、離叛の嵐に遭い、
10倍以上の兵力を擁しながら足利尊氏に敗北する。
其の後は、京都から戻って来た菊池武重を迎え入れ、京都幕府軍団と交戦。
菊池武重の死後は、当主と成った菊池又次郎武士を後見した。
※『延元22年(西暦1357年)6月2日』の『起請文』が存在。
後に、『南朝から離叛』して『京都幕府軍団に降伏した可能性』が有る。
※『大分縣宇佐郡院内町大字温見』に在る『位牌』が、
『延文2年(西暦1357年)丁酉11月17日死去』と『京都朝廷元號で記載』。
菊池武士
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 15 | 7 | 56 | 37 | 24 | 潜在 | 人脈 | 消沈 | 優柔 | 小心 | 治療 | 地域巡回 | 礼教 | ||||
【キクチタケヒト】
南北朝時代の武将。菊池武時の十二男と伝わる。
兄、菊池武重の死後、母の身分が高かったためか、武重の同母兄弟のためか、
菊池家当主となる。兄である菊池武茂や菊池武敏の補佐を受け、
弟の乙阿迦丸を養子として一族結束をはかるが失敗。
1343年に大友氏泰の侵攻を受けたことへの対応失敗が決定打となり
翌年、当主の地位を廃されて事実上の隠居状態に追い込まれた。
武士自身も隠居を受け入れて出家し、その後は菊池家の栄枯盛衰を見届けて1352年に死去した。
補足
※南北朝時代の武将。菊池武時の十二男。
※次兄・菊池次郎武重が、
暦應4年(延元6年・西暦1341年)8月3日に、死去した後で、
『菊池武重の息子』に『嫡男の菊池乙阿迦丸』が居るのに、
母親の身分が高かった為なのか?、菊池次郎武重の同母兄弟の為なのか?、肥後菊池氏当主と成る。
※兄の、菊池五郎武茂や、菊池六郎武澄や、菊池八郎武豊や、菊池九郎武敏の補佐を受けて活動。
『菊池武重の息子』の『菊池乙阿迦丸』を養子にして一族結束を計るが失敗。
康永2年(延元8年・西暦1343年)に、大友氏泰の侵攻を受けた事への對應失敗が決定打と成り、
翌年に、肥後菊池氏当主の地位を奪われて事実上の隠居状態に追い込まれた。
※菊池又次郎武士は、隠居を受け入れて出家した。
其の後は、文和元年(延元17年・西暦1352年)11月23日に死去した。
※長男に、菊池掃部介武頼が居て、
『應永7年(延元65年・西暦1400年)6月8日』に『死去して行る状態』に由り、
菊池又次郎武士は『長寿だったと勘違いされて行る状態』に成って行る。
:
※『全国菊池の会』の、
『ホームページ』の『菊池氏歴代当主・菊池氏』に拠り、
『菊池又次郎武士』の『生年』が『元享元年(西暦1321年)』で、
『没年月日』が『文和元年(延元17年・西暦1352年)11月23日』だと『確認可能』。
塩冶高貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 43 | 41 | 35 | 50 | 61 | 人脈 | 動員 | 動転 | 小心 | 消沈 | 足止 | 撹乱 | 混乱 | 地域巡回 | 名利 | ||
【エンヤタカサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。
鎌倉幕府に仕え北条高時から高の偏諱を授かったが、
後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に参加し、隠岐を脱出した
後醍醐天皇のもとに馳せ参じた。建武政権では隠岐、出雲の守護に
任命された。足利尊氏が建武政権から離反すると、新田義貞の軍に加わり
尊氏討伐に赴くが、箱根・竹ノ下の戦いで足利方に寝返る。
のちに南朝方に通じて1341年、京を出奔して南朝に加勢しようとしたが、
足利直義に見抜かれ桃井直常と山名時氏の討伐軍を前に進退窮まり、自害した。
補足:塩冶(塩谷)判官の名で知られる。軍記物太平記では、高師直が高貞の美人妻に見惚れたため讒言で追い落とされた、としているが、創作である。
補足:この創作を基にした物語が「仮名手本忠臣蔵」であり、浅野内匠頭を塩冶(塩谷)判官、吉良上野介を高師直、徳川綱吉を足利直義に見立てて演じられ、江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎の世界で大ヒットすることになる。
補足:なお近年の研究では、太平記にある「無実の罪で南朝への裏切りを捏造され自害に追い込まれた」とする筋書きは否定されており、妻を通じて南朝方公卿、源宗治に実際に通じていたとされている。