注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(南北朝時代)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1275年、長講堂領を中心とする持明院統、八条院領を中心とする大覚寺統と、
大規模荘園を擁する天皇家の2つの皇統において皇位を巡った対立が頂点を迎える。
時の執権であった北条長時の差配により、持明院統、大覚寺統それぞれが交互に天皇を輩出するということとなった。
これが世にいう両統迭立である。
天皇が2つの家系から輩出され、天皇を譲位した人間が治天の君となり、
その子孫からまた天皇が擁立されるという両統迭立は、1308年に転機を迎える。
大覚寺統の尊治親王が即位し、後醍醐天皇として君臨した。
しかし、後醍醐天皇は、いずれ天皇に即位する幼少の邦良親王の代役に過ぎなかった。
そのため、後醍醐の子孫から天皇は擁立しないという既定路線があった。
これを知った後醍醐天皇は激怒し、後醍醐天皇の父である後宇多が死去すると、邦良親王との対立は激化した。
鎌倉幕府が後宇多・邦良両人の味方をしたことにより、後醍醐天皇はその後幾度となく倒幕を計画する。
そして1333年、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力によって、鎌倉幕府の滅亡となった。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐は自ら政治を取り、武士、公家の権勢を抑える天皇専制政治を志した。これを建武の新政という。
しかし、建武の新政は鎌倉幕府残党であった執権北条家の北条時行の反乱から崩壊が始まり、時行討伐に向かった足利尊氏が離反すると、にわかに混乱状態となる。
足利尊氏は弾圧されていた持明院統の豊仁親王を光明天皇として即位させ、ここに「一天両帝南北京」とされる南北朝時代が始まることになる。
その後、1392年に足利義満の手によって南北朝合一となり、南北朝時代は終わりを迎える。
しかし、その後も後南朝と呼ばれる南朝遺臣達の復興運動はしばらく続いた。
最終的には、10代将軍の父である足利義視や、北条早雲(伊勢盛時)の手によって衰退している。
南北朝時代は豪華絢爛、権威軽視、傍若無人を是とする、いわゆる「婆娑羅」の風潮が強く、また権力闘争や血統争いの側面から南朝・北朝どちらにも味方した勢力は数多い。
南朝(吉野朝・大覚寺統)
邦良親王との皇位継承争いを制した後醍醐天皇を祖とする勢力。
現在は「南朝」呼称が一般的であるが、戦前の皇国史観などでは「吉野朝廷」と呼ばれることが多く、
戦前のいわゆる「南北朝正閏問題」では明治天皇の沙汰によって一応こちらを正統王朝としている。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始したが、足利尊氏の離反によって最終的に頓挫し、南北朝の動乱の最中1339年に薨去する。
その後、後醍醐天皇の第七皇子が後村上天皇として皇位を継承するが、既に劣勢甚だしく、1348年には吉野も追われて大和賀名生に居を構えた。
1353年に観応の擾乱が起こると三者鼎立となり、一時的に勢威を復するが、協調勢力の離反は止まらず、次代の長慶天皇の頃には
唯一優位であった九州をも今川了俊らの手によって失陥させられ、最終的に足利義満の講和条件を受諾して南北朝は合一した。
しかし、4代将軍足利義持によって南朝勢力は悉く衰亡し、以後復古することはなかった。
尊治親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
16 | 2 | 78 | 46 | 83 | 再起 | 扇動 | 徴税 | 使役 | 短慮 | 豪気衝天 | 激励 | 大喝 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
16 | 2 | 73 | 44 | 80 | 再起 | 扇動 | 徴税 | 使役 | 短慮 | 豪気衝天 | 激励 | 大喝 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
16 | 2 | 83 | 64 | 90 | 再起 | 扇動 | 徴税 | 使役 | 功名 | 豪気衝天 | 激励 | 大喝 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
46 | 2 | 83 | 84 | 90 | 再起 | 扇動 | 不屈 | 英名 | 功名 | 豪気衝天 | 激励 | 大喝 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
【タカハルシンノウ】
鎌倉・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第二皇子。のちの「後醍醐天皇」。
1318年に父親の院政下で即位したが、朝廷方針から邦良親王と皇位継承権を巡って対立。
鎌倉幕府が邦良親王を支持したため、倒幕運動を幾度と無く計画する。
正中の変、元弘の変といずれも失敗に終わり、隠岐に流されるが脱出。それでも天皇直々の行動力は楠木正成、足利高氏、新田義貞ら
反幕府派を勇気づけついに鎌倉幕府を滅亡させた。以後実権を握り、「建武新政」を開始するが、過剰な復古志向を旨とする天皇専制に
対する各地の不満や、鎌倉幕府の残党勢力に悩まされ、ついには足利尊氏の離反を招いて南北朝の動乱を招く。
武士より貴族を優先する支配体系で正成や義貞を死なせ、足利尊氏率いる北朝の勢力を対処できないまま、1339年崩御
補足:後醍醐天皇に対する評価は独裁的な暗君から、積極的な改革を志した名君と、史学界でも見解が別れている。
阿野廉子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
3 | 1 | 79 | 35 | 33 | 智嚢 | 才媛 | 悪名 | 高慢 | 強欲 | 名利 |
【アノレンシ(アノヤスコ)】
鎌倉時代、南北朝時代の人物。阿野公廉の娘で、後醍醐天皇の後宮、皇妃。
身分の低い貴族の娘に生まれ、後醍醐天皇の中宮嬉子に仕えた。その後、
持ち前の美貌と器量でのしあがり、後醍醐天皇からその寵愛を一身に受け、
隠岐配流や吉野遷宮にも同行。後醍醐天皇が実権を握り建武の新政を志すと、
内政干渉を行い自らの子である恒良親王を立太子するよう唆した。後醍醐天皇の死後、
自らの子である義良親王を即位させ、南朝皇太后として勢威を振るった。
その権力壟断は敵味方問わず多くの人々から非難されている。
※ 彼女の子のうち、3人の皇子はいずれも立太子された。後醍醐天皇の第七皇子である後の後村上天皇は、彼女を母に持つ。なお後醍醐天皇の隠岐脱出には彼女が大きく関わっていたと言われており、後醍醐は妊娠する彼女に乗じて脱出したと「太平記」には記されている
※その他候補となった特技:詭計
護良親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 74 | 79 | 54 | 86 | 勇将 | 怒髪 | 召募 | 短慮 | 直情 | 侵略荒廃 | 我道 |
【モリヨシシンノウ】
建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。
比叡山で兵法を会得し、武芸の腕は余人を圧倒。天台座主始まって以来の変わり者と評される。
朝廷軍の軍事指導者として討幕軍を組織し、赤松円心の子・則祐らと共に各地を勇戦。
鎌倉幕府打倒の悲願を達成した。戦後は征夷大将軍に就任するも、
足利尊氏との政争に敗れて失脚。鎌倉に幽閉され殺害された。
懐良親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 72 | 71 | 77 | 88 | 召募 | 名声 | 堅守 | 頑健 | 補佐 |
【カネヨシシンノウ(カネナガシンノウ)】
南北朝時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。
父である後醍醐天皇の意向により、幼少期の頃から九州へ派遣され、
南朝の地方勢力拡大における主導的地位を与えられる。1341年には征西将軍として
九州薩摩に上陸。菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年隈本に征西府を置き
勢力拡大を志した。1359年の筑後川の戦いでは親王自ら陣頭指揮を取り勝利をおさめる。
1361年に大宰府を制圧し、足利幕府に味方する一色氏、渋川氏の九州征伐軍を跳ね除け
九州に覇を唱えたが、足利義満の代になって派遣された今川了俊、大内義弘の前に劣勢となり、そのさなか筑後矢部で薨去。
楠木正成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
96 | 74 | 100 | 51 | 97 | 神機 | 虚実 | 胆力 | 泰然 | 殿軍 | 神算鬼謀 | 急襲 | 業火 | 足止 | 挑発 | 墨守研究 | 王道 | |
96 | 77 | 98 | 60 | 94 | 伏龍 | 堅守 | 機略 | 胆力 | 殿軍 | 神算鬼謀 | 業火 | 足止 | 罵声 | 鼓舞 | 治療 | 文事武備 | 王道 |
96 | 74 | 90 | 51 | 97 | 神機 | 虚実 | 胆力 | 泰然 | 殿軍 | 神算鬼謀 | 急襲 | 業火 | 足止 | 挑発 | 墨守研究 | 王道 | |
96 | 74 | 90 | 51 | 97 | 神機 | 虚実 | 胆力 | 泰然 | 殿軍 | 神算鬼謀 | 軍神 | 急襲 | 足止 | 挑発 | 墨守研究 | 王道 |
信長の野望、革新の追加武将の1人。
知略がMAX120換算で100を越えているため、単純に1.2で割った数字を当てはめている。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
97 | 82 | 98 | 75 | 93 | 伏龍 | 堅守 | 機略 | 地利 | 築城 | 神算鬼謀 | 業火 | 罵声 | 鼓舞 | 治療 | 鎮静 | 文事武備 | 王道 |
【クスノキマサシゲ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。大楠公。
元々南河内の土豪であった彼はこれまでの武士の流儀に囚われない武士とは思えない独自の戦術で鎌倉幕府の大軍を翻弄する。
千早や赤坂の籠城戦は反幕府の潮流を大いに高め、倒幕の原動力となる。鎌倉では彼を「天王寺の妖霊星」と呼んで恐れた。
倒幕後は後醍醐天皇に反旗を翻したかつての戦友・足利尊氏と戦うも、その献策は悉く朝廷に容れられず尊氏の再起を許す。
最期は湊川の戦いにて新田義貞を逃がした後、弟の正季と刺し違え自害。その最期には敵だった尊氏すら涙したという。
戦前までは正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されていたが戦後は研究と再評価が進み、何か一つの側面に縛られるよ
うな人間ではなく、武将・官僚・商人など多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
楠木正行
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 95 | 68 | 42 | 81 | 闘将 | 神威 | 慈悲 | 果敢 | 胆力 | 疾風迅雷 | 三軍強化 3 | 王道 |
※別案(寡兵をもって北軍相手に最後まで善戦した事から、劣勢に強い武将としての別案)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 89 | 73 | 42 | 77 | 神威 | 威風 | 一心 | 胆力 | 補佐 | 遼来遼来 | 突撃 | 大喝 | 足止 | - | 魚鱗強化 4 | 王道 |
【クスノキマサツラ】
南北朝時代の武将。楠木正成の長男。小楠公。
父の死後から7年は目立った実績は無かったが、南朝で主戦派が主導権を握ると幕府との戦いの矢面に立つことになった。
参戦後は北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」と畏怖された。
しかし兵力差は覆せず、四條畷の戦いで敵将・高師直と幕府の総兵力に近い大軍の前に敗死した。
参戦から戦死まで一年余りと短い時期に大きな戦歴を残し、父・正成同様朝廷に殉ずる形で死んだ事から、父と共に後世皇国
史観の偶像として祭り上げらる事になった。
楠木正儀
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 70 | 78 | 52 | 61 | 妙算 | 山戦 | 慎重 | 論客 | 策士 | 上兵伐謀 | 名利 |
※別案(派手さこそ無いが父譲りの現実的かつ優れた戦術面と戦略眼を評価)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
92 | 65 | 88 | 82 | 81 | 掃討 | 沈着 | 調達 | 地利 | 論客 | 百戦錬磨 | 奮戦 | 鼓舞 | 鎮静 | 衝車 | - | 運搬開発LV4 | 割拠 |
【クスノキマサノリ】
南北朝時代の武将。楠木正成の三男。父と2人の兄の戦死により家督を継承する。
南朝の重鎮として活躍、各地の合戦に参加し、兵站や後詰を重視し槍を用いた戦術を得意とした父譲りの優れた戦術家であった。
1349年には高師泰の軍勢を押し止め、翌年には観応の擾乱に乗じて足利義詮を京から駆逐した。
斜陽の南朝を軍事的に支え続ける一方で国難を憂いて南北両朝の和睦にも関与するも南朝からは理解されず、長慶天皇の代では
半ば追い出される形で一時北朝へ投降を余儀なくされる。後に南朝へ再度帰参するもその後の事績は不明。
南北朝時代後期を代表する名将と言えるが、その経歴から戦前の皇国史観ではその存在を無視されるなど不当な評価を被る。
新田義貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 86 | 68 | 70 | 45 | 豪傑 | 掃討 | 長駆 | 不屈 | 功名 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 |
※ 別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 86 | 18 | 31 | 71 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 寡欲 | 直情 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 |
※ 別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 86 | 18 | 31 | 71 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 寡欲 | 直情 | 単騎駆 | 突擊 | 急襲 | 大喝 | 鼓舞 | 長蛇強化 | 王道 |
88 | 93 | 18 | 31 | 78 | 掃討 | 長駆 | 果敢 | 豪傑 | 直情 | 龍驤勇戦 | 長蛇強化 | 王道 |
名うての政治音痴だったことから「蒼天録」の数値を使い、知力と政治を下方修正。いっぽうで、敗れてもなお兵士の従うカリスマ性があったことから魅力を上方修正。
陣形は「烈風伝」では 魚鱗、峰矢、雁行、長蛇を所持。騎馬での速攻が強いので錐行があってもいいかも。
【ニッタヨシサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行い、武者所長官には任じられたものの、
後醍醐からは源氏長者として義貞ではなく北畠親房が指名されるなど朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
鎌倉府滅亡の大功と、帝に尽くした忠臣として顕揚されるが、
新妻である勾当内侍にうつつを抜かし尊氏を取り逃がすなど、正成に比べると評価は低い。
※その他候補となった特技:不屈
新田義興
生年 | 登場 | 没年 |
1331年 | 1358年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 82 | 53 | 58 | 65 | 掃討 | 怒髪 | 再起 | 軽率 | 直情 | 疾風迅雷 | 鋒矢強化 | 王道 |
【ニッタヨシオキ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の次男で義貞の戦死後は潜伏していたが観応の擾乱に乗じて北条時行や従兄弟の脇屋義治と
共に挙兵し、一時は鎌倉を占拠するに至るが最後は奪回された。
尊氏の死後、再び鎌倉奪回の兵を挙げるも多摩川の矢口の渡しで襲撃を受け自害した。
北畠親房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 47 | 85 | 82 | 76 | 学者 | 名声 | 教化 | 能吏 | 策士 | 礼教 | ||||||
58 | 37 | 95 | 92 | 76 | 学者 | 名声 | 教化 | 能吏 | 策士 | 礼教 |
【キタバタケチカフサ】
鎌倉・南北朝時代の公卿。後醍醐・後村上両天皇の重鎮。伊勢北畠家の祖。
後醍醐天皇が即位すると「後の三房」の一角として大いに重用され、
権大納言、源氏長者となるが、世良親王の逝去により一度隠遁する。
のち、後醍醐天皇が建武の新政を開始すると復帰し、後醍醐天皇を硬軟交えて補佐した。
南北朝の動乱では一貫して南朝支持を貫き、後醍醐天皇、後村上天皇を補佐しつつ、新田義貞、楠木正成らと
協調して足利尊氏追討を志すが果たせなかった。
その後、関東東国で南朝支持勢力を募りつつ、「神皇正統記」を記したが、
理論だけでは関東武士(特に下級武士)達はついて来ず、なかなか上手くいかなかった。
晩年、一時的ではあるが北朝を抑えた功績で大納言でありながら准三宮となり、南朝を統括してその勢威を復した。
※彼の記した「神皇正統記」にある万世一系論は、その後の水戸学や皇国史観に大きな影響を与えたと言われている。また武家政権も「徳治」を以て容認するなど、社会の安定を第一とした。
※その他候補となった特技:詭計・明鏡
北畠顕家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 神機 | 疾走 | 求心 | 長駆 | 王道 | ||||||
99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 神機 | 疾走 | 掃討 | 長駆 | 王道 | ||||||
99 | 69 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 |
信長の野望、革新の追加武将の1人。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 79 | 81 | 76 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 | |||||
94 | 88 | 83 | 79 | 94 | 飛将 | 疾走 | 長駆 | 不屈 | 諫止 | 侵略荒廃 | 王道 |
【キタバタケアキイエ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。浪岡北畠氏の祖。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、奮闘虚しく敗死した。享年21歳。
※その他候補となった特技:洞察・昂揚・詩想・不屈・名声・動員
北畠顕能
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 73 | 79 | 89 | 77 | 補佐 | 柱石 | 名声 | 動員 | 教化 |
【キタバタケアキヨシ】
南北朝時代の武将。父は北畠親房、兄に北畠顕家、顕信がいる。異説として父が中院貞平とも。伊勢国司北畠家の祖。
南朝勢力の拡大の一貫で、兄たちと別れて伊勢に入る。地元国衆の支持を得つつ、北朝方であった
高師秋を撃退するが、既に南朝勢力は衰亡しつつあり、本拠であった玉丸の地を捨て多気に移った。
多気に移った後も北朝への反抗を継続し、楠木正行らとともに南朝の中核を担う。
1352年には北朝方で2代将軍の足利義詮を近江に追い落とし、南朝の京洛凱旋を成功させるが、
既に北朝優位の状況は変わらず、同年に再び都落ちとなっている。その後も北朝勢力相手に善戦を続け、
南朝方の重鎮として貢献したが、1383年頃に死去。以後、南朝は反抗の決定力を失い、南北朝合一へと傾くことになる。
春日顕国
生年 | 登場 | 没年 |
1344年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 84 | 56 | 51 | 64 | 掃討 | 再起 | 不屈 | 節約 | 長駆 | 業火 | 鯨波 | 奮戦 | 地勢研究 | 王道 |
【カスガアキクニ】
南北朝時代の南朝の武将。
村上源氏の庶流で同じ村上源氏である北畠親房・顕家親子に付き従い、
主に関東方面にて南朝の主力武将の一人として北朝方と戦った。
1343年に常陸国の大宝城・関城が落城し、関東方面の北朝側の優位がほぼ確定
しながらも潜伏して戦い続け、翌年に大宝城を一時奪回するが敗れて斬首された。
菊池武光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 96 | 70 | 82 | 89 | 神将 | 掃討 | 堅守 | 豪傑 | 頑健 | 軍神 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 大喝 | 罵声 | 三軍強化 | 王道 |
95 | 95 | 75 | 70 | 90 | 神将 | 掃討 | 堅守 | 威風 | 柱石 | 軍神 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 大喝 | 罵声 | 三軍強化 | 王道 |
【キクチタケミツ】
南北朝時代の武将。肥後の名族菊池氏の出身。
南北朝の動乱で南朝方に味方し、菊池氏を再興させ当主となる。
その後、後醍醐天皇の皇子であった懐良親王を迎え入れ、北朝方の九州探題を悉く撃退し、南朝の九州支配を確立。
1359年には反旗を翻した少弐・大友連合軍を筑後川にて劣勢を覆して勝利し、1361年には太宰府を陥落させた。
しかし、幕府方の大内義弘や今川了俊に勢力拡大を阻まれて衰退。征西府の衰退の最中1373年に病没した。
※ 北朝の後光厳天皇は「鎮西宮並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と綸旨を出し、武光の威光を脅威と捉えていた。劣勢著しい南朝の中優勢を保っていた九州だが、武光の死後今川了俊によって鎮定される。
※その他候補となった特技:勇将・胆力・地利・一心・不屈・頑健
篠塚重広
生年 | 登場 | 没年 |
1309年 | 1342年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 94 | 45 | 32 | 67 | 豪傑 | 護衛 | 殿軍 | 粉砕 | 功名 | 怪力無比 | 奮戦 | 急襲 | 大喝 |
【シノヅカシゲヒロ】
南北朝時代の南朝の武将。篠塚伊賀守の通称でも知られる。
畠山重忠の末裔で新田義貞に仕えて鎌倉攻めを始めとした義貞の戦いに参加し、剛力で知られ八尺の金砕棒を武器に活躍し
新田四天王の一人に数えられた。
義貞の死後は義貞の弟脇屋義助に従い北朝と戦い続け、最後は伊予の隠岐島に落ち延びて亡くなったという。
江戸時代には関羽になぞらえた「篠塚五関破」という歌舞伎が創られている。
栗生顕友
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 90 | 75 | 38 | 65 | 豪傑 | 山戦 | 果敢 | 胆力 | 功名 | 兵貴神速 | 急襲 | 鯨波 |
【クリュウアキトモ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられた武勇の士で、義貞に従い南朝側の武将として
転戦した。天竜川で溺れそうになった馬を甲冑で飛び込み助け、三井寺合戦では篠塚重広と共に
大卒塔婆を引き抜き攻城の橋とし、北朝の大軍に越前金ケ崎城が包囲された際に奇策を用いて
援軍として入城する等のエピソードを残した。
畑時能
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 92 | 76 | 24 | 60 | 豪傑 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 不屈 | 奮戦 | 急襲 | 撹乱 |
【ハタトキヨシ】
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられて南朝側の武将として活躍し、
義貞の死後は義貞の弟脇屋義助の配下として越前で活動し、斯波高経率いる
北朝側の攻撃を鷲ヶ岳で迎え撃った際に受けた矢が元で死亡した。
武勇のみならず「犬獅子」という名の愛犬を戦闘に用いている。
※統率・知力・政治は信長の野望蒼天録を参考
由良具滋
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 88 | 48 | 26 | 58 | 豪傑 | 泰然 | 一心 | 胆力 | 節約 | 突撃 | 鉄壁 | 足止 | 鼓舞 |
南北朝時代の南朝の武将。
新田義貞の配下で新田四天王の一人に数えられる。
北朝側に越前金ケ崎城が包囲された際、城内の兵糧が尽きる中で戦死者の肉を喰らい
さらに自らの血を啜って勇戦し最後は戦死した。
名和長年
生年 | 登場 | 没年 |
1336年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 84 | 67 | 75 | 78 | 富豪 | 徴税 | 遠矢 | 運搬 | 操舵 | 牽制 | 斉射 | 駆逐 | 運搬開発 | 王道 |
【ナワナガトシ】
南北朝時代の武将。
伯耆国の武士で海運業を営んでいたとされる人物で、隠岐を脱出した後醍醐天皇の挙兵に加わり倒幕に功績を挙げた。
建武の新政において重んじられ京都の商工業を統括し「三木一草」の一人に数えられ楠木正成らと共に後醍醐天皇配下の
有力武将として活動したが、京都で足利尊氏の軍を迎え撃った際に敗れて戦死した。
千種忠顕
生年 | 登場 | 没年 |
1336年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 74 | 45 | 58 | 56 | 動員 | 名声 | 浪費 | 酒乱 | 高慢 | 政令徹底 | 我道 |
【チグサタダアキ】
南北朝時代の武将・公卿。
六条有忠の子で後醍醐天皇の側近の一人として天皇の隠岐の島流罪やその脱出に同行、
倒幕軍を率いて活躍し建武の新政では参議となるが離反した足利尊氏との戦いにて戦死した。
後醍醐天皇を支えた「三木一草」の「草」に相当する人物であるが「太平記」では
建武の新政後の恩賞で遊興に浸る等批判的にも描かれている。
結城宗広
生年 | 登場 | 没年 |
1266年 | 1339年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 78 | 56 | 64 | 60 | 矍鑠 | 長駆 | 補佐 | 奮戦 | 突撃 | 政令徹底 | 王道 |
【ユウキムネヒロ】
鎌倉時代~南北朝時代の武将。
白河結城氏の第二代当主で鎌倉幕府の御家人であったが、後醍醐天皇の挙兵により
天皇側に転じて幕府打倒に功績を挙げた。
建武の新生により北畠顕家が陸奥鎮守府の将軍として奥州入りした際に評定衆の一員に
選ばれて補佐し、足利尊氏が挙兵した後は北畠顕家の上洛軍に従い、京都にて天皇より名刀「鬼丸」を拝領した。
顕家の敗死後は義良親王、北畠親房らと共に海路で奥州を目指すも失敗、伊勢にて病死した。
親愛武将:北畠親房 北畠顕家
※「太平記」においてはその最期において生来暴虐の人物で常に生首を見ないと気が収まらず、
毎日数人の首を斬ってはその生首を飾り見ていたという事で地獄に堕ちたというが史実での確証は無い。
太平記ベースならば魅力を落として粗暴+悪名か。
結城親光
生年 | 登場 | 没年 |
1336年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 80 | 57 | 61 | 65 | 猛者 | 不屈 | 再起 | 粗忽 | 功名 | 急襲 | 地域巡回 | 王道 |
【ユウキチカミツ】
南北朝時代の武将。「三木一草」の「三木」の一人に数えられる。
結城宗広の次男で後醍醐天皇の挙兵において当初は幕府軍に参加したが、後に後醍醐天皇側に転じ建武の新政では
天皇の側近として雑訴決断所等の役人に任じられた。
足利尊氏が後醍醐天皇から離反した際には尊氏を討つべく偽りの降伏をするも応対した
大友貞載に見破られたと見て貞載を斬り殺すが、自らも足利の兵に殺害された。
宇都宮公綱
生年 | 登場 | 没年 |
1302年 | 1356年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 90 | 77 | 79 | 75 | 遠矢 | 詩想 | 威風 | 慎重 | 法律 | 神弓 | 鯨波 | 牽制 | 文事武備 | 王道 |
【ウツノミヤキンツナ】
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。
元弘の乱の際に宇都宮氏の精鋭である紀清両党を率いて幕府軍に参加し、天王寺で楠木正成と対峙した。
正成をして「坂東一の弓取り」と評する程の良将であるのもあり、公綱側の方が
兵は少ないながらも正成は撤退した。以後は正成が篭る千早城で激戦を繰り広げた。
幕府滅亡後は建武政権に降って雑訴決断所の奉行職となる等厚遇され、南北朝の
争乱においては一時尊氏に降った時期もあったが尊氏の西国敗走後は最後まで南朝側であった。
四条隆資
生年 | 登場 | 没年 |
1292年 | 1352年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 68 | 76 | 78 | 81 | 殿軍 | 血路 | 楽奏 | 補佐 | 柱石 | 奮戦 | 鉄壁 | 斉射 | 文事武備 | 王道 |
【シジョウタカスケ】
南北朝時代の南朝の公卿・武将。
後醍醐天皇の近臣として倒幕に加わり、建武政権において重鎮の一人となる。
南朝の主力武将の一人として軍事面でも活動し、「三木一草」らの主力武将らが戦死し、
後醍醐天皇が亡くなった後も重臣として軍政両面で後村上天皇を支え続け、男山の戦いに
おいて後村上天皇を脱出させる為に奮戦し戦死した。
伊達行朝
生年 | 登場 | 没年 |
1291年 | 1348年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 76 | 63 | 68 | 64 | 堅牢 | 地利 | 詩想 | 長駆 | 再起 | 鼓舞 | 鉄壁 | 斉射 | 城壁拡張 | 王道 |
【ダテユキトモ】
南北朝時代の南朝の武将。奥州伊達氏第7代当主。
建武の新政後に陸奥守となった北畠顕家の元で評定衆の一人として活動、
南北朝の争乱にて奥州の南朝方の主力として顕家に従い各地を転戦、
顕家の戦死後も常陸国伊佐城を拠点に抵抗を続けた。
児島高徳
生年 | 登場 | 没年 |
1382年頃? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 65 | 73 | 66 | 76 | 築城 | 詩想 | 史官 | 学者 | 文化 | 激励 | 駆逐 | 三令五申 | 王道 |
【コジマタカノリ】
南北朝時代の南朝の武将。
備前国児島郡の豪族の出身で後醍醐天皇が元弘の変にて隠岐に流される際に奪還を図ったが失敗に終わる。
その際に夜に紛れて天皇の宿舎に紛れ込み、桜の木に天皇を勇気づける漢詩(白桜十字詩)を彫った逸話で知られる。
その後は隠岐を脱出した天皇に馳せ参じて倒幕軍に参加し、以後は二十年に渡り南朝方の武将として戦い続ける生涯であった。
ただし、後世においては「太平記」以外に目立った活動が無い事で非実在人物という説が挙げられており、また「太平記」の
著者とされる小島法師であるという説もある。
恵良惟澄
生年 | 登場 | 没年 |
1309年 | 1364年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 93 | 61 | 56 | 77 | 掃討 | 豪傑 | 猛者 | 名声 | 功名 | 疾風怒濤 | 魚鱗強化 | 礼教 |
【エラコレズミ】
南北朝時代の南朝の武将。阿蘇惟澄とも。
阿蘇氏の一族である恵良氏の出身で武勇に秀でて九州の南朝方の有力武将として活動、
さらに家督を巡り北朝方であった阿蘇氏とも争い菊池武光と共に北朝側の拠点である大宰府を
1361年に陥落させて九州における南朝の全盛期を築くのに貢献している。
愛刀である「蛍丸」のエピソードも著名。