童子切らいこ(魁)

Last-modified: 2023-08-19 (土) 14:08:26
型録
童子切らいこ.jpg童子切らいこ希少度 ★★★★★
分類
属性間合い太刀_0.png
種類太刀
奥義
奥義名神便鬼毒(じんべんきどく)
効果横直線の敵:ダメージ(大)
エリア内の敵:毒(威力:智0.15倍,10秒間)
公式説明
強さと勝ちにこだわる真剣少女。自信家でカリスマ性もあるが、常に気を張っているため人に甘える事が苦手。卑怯な手段も容認している。真の強 さを求める心と共鳴した「童子切安綱」と縁を結ぶ。
加入時コメント
強さには責任がある。私は童子切らいこ。天下無双の力を借りたいの?
CV:福原綾香 (クリックでセリフ一覧が開きます)
読み込み完了しんけん!!
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お知らせ
詳細はぁ?なによ、はやく読みなさい
戦績(リーダー)ふ~ん、その程度。もっと励みなさい
屋敷はぁ?この黒いモフモフが気になるの?ちょっと待て、ほんとの狙いは何?
強そう?じゃなくて強いのよ。私に求められてるのはそれだけなんだもの
頼られるのはもちろん嬉しいよ。自分の力と価値は理解してる。私はずるいんだ
屋敷(好感度高)(反転)そんなんじゃ私が寄りかかっただけで折れそうね…え?べ、別にあんたに用ってわけじゃないわよ…
(反転)信頼を力で買うような女は嫌い?でも私が誇れるのは強さだけだから…
(反転)頼られるばかりじゃ不公平でしょ!だからほんのたまには私もあんたを頼ってあげる
屋敷(好感度低)(反転)ちょっと!どうなってるの?
(反転)まったくなんてことなの…
任務開始早く終わらせるわよ
任務完了そう
ええ
討伐開始(易)さあ、来なさい!
討伐開始(普)私たちは戦う!
討伐開始(難)退くなんて許さない。ここで迎え撃つ!
討伐開始(鬼)
エリア移動間に合うか
攻撃たあ!
は!
攻撃(ミス)外した?
攻撃(クリティカル)はぁあああ!
負傷きゃ
くぅ
回避・無敵あまい!
敗北寸前油断した…
敗北くっうう…このわたしが…
気合い1道を切り開く!
気合い2強さを…!
気合い3天下無双!
気合い4勝ち続けるの…!
気合い5
休憩体勢を立て直すわ
奥義味方には加護を、敵には滅びを!
勝利ふっ…終わったようね
離脱そんな…どうして…
首級私は普段通りに戦っただけ。褒められるほどのことじゃない
うかれてる場合じゃないわ。こういう時こそ気を引き締めなくては
屋敷へ(勝利後)今帰ったわ。私がいるんだから勝利に決まってるじゃない
屋敷へ(離脱後)負けちゃった私に存在する意味なんてもうないよ…
鍛刀成功さあ、共に戦う仲間に会いに行こう
研磨(斬れ味良)問題はないと思うけど
研磨(斬れ味普)どうしてもというなら頼もうか
研磨(斬れ味悪)笑うな、どんな名刀でも傷はつく
布陣配置来たわね
リーダー任命当然の人選よね。私以外ありえないでしょ
試斬・学舎開始試されるのは好きじゃないんだけど
試斬・学舎成功当然、自慢にもならないわ
学舎失敗なによ!ツクモ相手にはちょんとやれるんだから!
奥義習得斬るべきものは…!
奉納今の私の力じゃ不満なの?
奉納成功みんなからもらった力、みんなの為に使うわ
ボイス音量調整私は強い。だからこそ大切な仲間をひきいる役目がある
放置1なによ…!まさかもう私に興味ないわけじゃないわよね?
放置2私に隱し事なんかできると思っているの?さあ、出て来なさい!
放置3ちょっと…どこに隱れたのよ…そろそろ出て来てくれてもいいじゃない…
装備ったく、センスないわねぇ。まっ、しょうがないから貰ってあげる
イラストレーター:iltusa (クリックで画像一覧が開きます)

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真剣少女について

  • 実装直前に追加された新ステージ飯綱峡ストーリーにおいて、「鍛刀法が確立したばかり」の出鉄大社所属の真剣少女として登場。
  • 大社では大包平ながめが彼女のお目付役
  • その後、2021年4月28日のメンテナンスにて、五連鍛刀期間限定ボックス第十五弾で転入。同時に開催したイベント夜叉が棲む森の特効真剣少女に指定された。
    • 名の「らいこ」はかつての所持者・源頼光の「頼光」を有職読み(ゆうそくよみ。古来からの慣例に従って、漢字で書かれた語を特別な読み方で読むこと)した、「らいこう」からか。
  • 奥義は6倍直線ダメージと発動時に存在した敵全体へ継続毒ダメージ。
    • 毒は自身の智ステータスによってダメージ量が決定される。(智0.15倍で1秒ごとに10回ダメージ)

刀談

本太刀は古来より「童子切」と号して名が高く、刀身は豪壮で力強さがあり、まさに剛の者が持つのに相応しい太刀とされているわ。国宝指定の刀剣第一号として、同じく国宝の「大包平」とともに「東西の横綱」なんて呼ばれる名刀よ。さらに名刀の中の名刀、天下五剣の一つにも数えらているわ。ま、私にぴったりね。
童子切の作者、安綱は、今の鳥取県である伯耆の国生まれ、平安時代を代表する刀匠の一人よ。安綱の銘が切られたこの「童子切安綱」は、まさに 日本刀とも言うべき上品さと、武器としての力強さを兼ね備えた剛剣。 江戸時代には試し斬りで6人の罪人の死体を切断したうえに、土台まで刃が達したという逸話が残っているわ。
「童子切」の号の由来は、「らいこう」の名でも知られる源頼光が、丹波国大江山の酒呑童子という鬼をこの太刀で斬ったという伝説によるの。酒好きの酒呑童子に鬼の力を失わせる「神便鬼毒酒」を飲ませ、その寝首を掻いたというのだから…中々やるわね。
名刀が記録された「享保名物帳」 によると、童子切は豊臣家から徳川家へと伝わり、徳川秀忠の三女、勝姫が越前の松平忠直に嫁いだ際に持たせたと伝えられているわ。勝姫にも色々逸話が残されているけど、とにかくとても気が強い女性だったそうね。ちまたでは「童子切のせいだ」なんて言われてたらしいけど、さてどうだか。

刀の正式名称

太刀 銘 安綱
名物 童子切
附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱(いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)

逸話

それは一条天皇が治めていた頃(980年~1011年)、都では、若い男や姫が神隠しに遭うという怪事件が頻発していた。
困った帝が陰陽師・安倍晴明に事件について占わせたところ、彼らを攫ったのは大江山に住む鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)だとわかった。
そこで帝は源満仲の嫡子・源頼光(みなもと の よりみつ)と藤原保昌(ふじわら の やすまさ)に酒呑童子の征伐を命じた。
頼光達は、鬼相手に多勢を連れて行くのは無意味と考え、配下より手練のものを4人ほど選び、旅人に扮して山を登り、途中土地の神に人が飲むと力が増し、鬼が飲むと痺れる酒「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」、酒を入れる「打銚子(うちでうし)」、正八幡大菩薩が召したと言う「星兜(ほしかぶと)」を授けられたりしながら、鬼の居城にたどり着いた。
宿を貸して欲しいと門番の鬼に頼むと、鬼は構わぬと城に頼光らを招き入れた。
酒呑童子が酒宴を設けてくれたので、頼光達は鬼の「最澄が延暦寺を建立してから、鬼の行き場がなくなり大江山に住みついた」などの身の上話を聞きながら、出された酒と肴(人肉)を食べながら、鬼達に神から貰った酒を飲ませて泥酔させ、そこで太刀を抜き放ち、見事鬼達を成敗した。頼光は愛刀で刎ねた酒呑童子の首級を都に持ち帰り、帝は頼光らの活躍を大いに讃えた。
この時酒呑童子の首を刎ねた太刀は「血吸(ちすい)」と申し、時の将軍坂上田村麻呂が伯耆国大原五郎安綱という鍛冶に打たせた剣である。田村麻呂はこの太刀を用いて鈴鹿山で鈴鹿御前と剣合わせをし、逆臣高麿を平定したのち伊勢神宮へ参拝した際にこの太刀を奉納した。その後、源頼光が伊勢神宮に参拝した折、源家子孫代々の嫡男に伝え天下の守とするため汝にこの剣を与えるとの天照大神の託宣があり、源家に伝えられた。
この酒呑童子説話からこの太刀は「童子切」と名付けられたということだ。
その切れ味に関しては、江戸時代、町田長太夫という試し切りの達人に試し切りに使われた際に、重ねた六体の死体を切断し、さらに下の土壇までめり込んだという、六ツ胴敷き腕土壇払いの記録が残っている。
このような武勇的な逸話を残す童子切だが、松平光長(まつだいらみつなが)が幼少の頃に起こしていた疳の虫による夜泣きをピタリと止めたり、刃に浮き出た錆を落とすために腰物係が本阿弥家に持ち込むと、近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきたなどの様々な逸話を持つ。

作風

鞘書によると刃長は二尺六寸五分(約80.3cm)、ハバキ元にて一寸(約3.03cm)、横手下にて六分半(約1.97cm)、重ね厚さ二分(約0.6cm)とある。
慶応義塾図書館蔵絵巻『しゆてんとうし』には、伯耆国会見郡(現在の鳥取県倉吉市)で活躍した鍛冶・大原五郎太夫安綱(おおはらごろうたゆうやすつな)が、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の求めに応じて作刀したとある。
安綱は文献では大同年間の人とされるが、一般的には反りのある太刀は平安中期から後期にかけて誕生したと考えられている。
『享保名物帳』では「極上々の出来、常の安綱に似たる物にあらず」と記述されている。

歴史

足利将軍家に伝わり、室町幕府最後の将軍・足利義昭から、豊臣秀吉に贈られる。しかし、秀吉はこの太刀を持つことを嫌ったと言い、一時本阿弥家に預けられる。
その後、徳川家康の所有となり、子の秀忠に渡り、秀忠の娘が越前の松平忠直(秀忠の兄・結城秀康の息子)に嫁ぐ際に持たされた。以降は、忠直が乱行で流罪となり、次いで息子も越後騒動(跡継ぎ問題によるトラブル)により一度藩が取り潰されるも、元禄11年(1698年)に養子・長矩が再興を許されて作州・津山松平家に入ったことで、津山松平家に渡る。
以降はずっと津山松平家の家宝として伝わった。
昭和8年(1933年)に国宝指定。
太平洋戦争後に、津山家が手放して個人蔵となるも、昭和37年(1962年)文化財保護委員会(後の文化庁)に買い上げられて、現在は東京国立博物館に収蔵されている。

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