書き起こし/罵り☆

Last-modified: 2016-01-10 (日) 04:14:46

「おはよう、クズ男」
下駄箱前で出会った灰川刀子(はいかわ とうこ)は俺に一瞥をくれるなりそんな挨拶を吐き出した。それは達人の放つ斬撃のように俺を切り裂き、目にも留まらぬ速度で元の場所に収まる。
痛みだけが、この胸に残った。
「よ、よぉアホ女」
ひきつった笑みとともに絞り出した仕返しの罵倒は、下駄箱から上履きを取り出した灰川によって一笑にふされた。
「全然駄目ね、グズ。いい加減に慣れなさいよ」
「お前とは違って俺の心は繊細なんだよ。一緒にしないでくれ」
何か、間違っている。こんなはずじゃなかった。
灰川には聞こえないように呟きながら、俺は靴を履きかえる。見下した笑みを浮かべた少女は、ただ黙って俺を待っていた。
「早くしなさいよ。鈍いのは頭の回転だけで十分でしょう?」
「うるさいブス。売り飛ばすぞ」
クスクスと、耳元で笑い声。
「……今のは良かったわ。やればできるじゃない」
「……そうかよ」
気のない返事をして、俺は自らの教室に向かうことにした。灰川は満足げな顔をして俺の後をついてくる。
吐き出されるのは――憂鬱のため息。
さて。
俺はあと何回灰川を罵倒し、あと何十回灰川に罵倒されなければならないのだろうか。

「お互いに罵倒しあう男女関係って素敵よね」
と、そんな台詞を灰川が口にしたのは、今からちょうど一週間前の下校中のことだった。
そのとき、俺はまだ灰川の放った言葉によって引き起こされることになる災厄を全く予想していなかった。
それは仕方ないことだとは言え、今思えばそのときに、半ば強引でも構うことなく、話題を逸らしておくべきだったのだ。
その後に展開される俺の受難を考えれば、そうしておくべきだった。
しかしそんな未来の俺の後悔など知る由もない当時の俺は、灰川の言葉に対して無邪気に言葉を返した。
「急にどうしたんだ?」
「漫画、読んだのよ。恋愛漫画」
静かな郊外を、二人は歩いていた。すっかり傾いてしまった陽の光を受けて笑う灰川は、不覚にも綺麗だと思ってしまった。
「これね」
言葉とともに差し出された漫画の表紙には、異様なまでに大きな目をした美少女が描かれていた。笑顔だった。
夏の夜中に自転車に乗って走ったら、目に被弾する虫の数が凄いことになりそうだと思った。
「この漫画に出てくる主人公とヒロインの仲がそんな感じなの。口を開けばお互いの悪口を言って、でも本当は心の底では信頼しあっているのよ。素直になれないから、口を汚して照れ隠しをするのね」
「照れ隠し、ねえ」
「でもそれって素晴らしいことだと思うわ。だって無意識のうちに、どれだけ悪口を言っても絶対に自分と相手の縁は切れないって、お互いが理解しているんだもの」
「へぇ」
「だから、しましょう」
「へ?」
状況を飲み込みきれない俺を見て、彼女は不敵に笑みをこぼした。
「私たちもお互いに罵り合いしましょう」
それこそが、彼女の要望。
灰川刀子が示した提案。
俺は今更になって、事の展開が面倒くさい方向へと流れ出したことに気付いた。遅すぎた。
「なんでそうなるんだよ」
「いいじゃない。罵倒のしあいっこ。素敵よ」
「俺はそうは思わない。第一、お前を罵る理由がない」
「でも私たち、愛し合ってるじゃない」
「はぁ?」
唐突な言葉だった。
彼女はからかうような笑みを浮かべて、ただ俺を見る。
「あら、違った?」
「違ってはないけど」
「じゃあ、良いじゃない。二人の絆が試されるときよ」
「無理してまで試す必要があるのか?」
今やその流れに抗うことは不可能となってしまっているらしい。
その奔流の出所には灰川がいて、もがく俺を指さしながら笑っている。そんな図が頭をよぎった。嫌な想像だった。
「必要はあるわ。それに、困難を乗り越えてこそ私たちの愛は本当のものだと証明されるんじゃない?」
「さあなぁ……」
じゃない? と言われましても。
俺は知らない。知りたくもなかった。
「もしかして、嫌?」
曖昧な言葉でごまかそうとする俺の顔を覗き込んで、灰川が言った。
不安そうに引き結ばれた唇。前髪から覗く潤んだ瞳。
分かっている。分かってはいるんだ。灰川刀子は本心からこんな表情をしないことは。押しに弱い俺を陥れるための嘘だということは。他でもないこの俺が一番知っている。
経験から知ってしまっている。
 でも、分かっていながら否定することは、俺にはできなかった。
 偽物でも、嘘だったとしても、灰川がそんな表情をすることが不愉快だったから。その理由は俺には分からない。
「嫌じゃないけど」
「じゃ、決まりね」
 途端に顔を輝かせやがる。文句の一つでも吐いてやりたいところだったが、灰川の嬉しそうな顔を見ていると何も言えなくなって俺は顔をそむけた。
 なんだか、無性に腹だけが立った。
「それじゃ、今から私たちはお互いに罵倒し合う仲と言うことでいいかしら? ねえキモオタくん?」
「なぁ、事実に反する悪口はありなのか? 俺はオタクではないと思うんだが」
「身も蓋もない悪口だから、腹が立つんじゃない」
「腹を立たせるためにやるんだっけ?」
「とにかく、やるのよ」
「お前なぁ――」
「あ、私。今日は寄っていく所があるから、ここまでね。明日からよろしく、クズ男」
 最後に悦に浸った笑顔を俺に向けて、灰川は交差点の横断歩道を渡っていった。大胆にも、信号無視だ。
 小走りで去っていくその背中に何か仕返しの言葉の一つでも言ってやりたくて俺は口を開けたが、上げようとした声は大型トラックの叩きつけるようなクラクションにかき消された。
 運転手に罵声を浴びせられながらも横断歩道を渡り終えた灰川は、振り返りもせずに道を行く。やがてその背中も再び発進したトラックに隠れて見えなくなってしまった。
 なんだか。一方的に罵られただけだった。
「うるせえよ、ブス……」
 呟いた言葉は自分でも分かるほどに本心が伴っていなくて、余計に腹が立っただけだった。