南トーラサズ共同体

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基本情報達

南トーラサズ共同体
(大トーラサズ連邦)
-目次-
国旗STC.png
現状の構成※1970年代の勢力圏に則る
(アルトゥン・サンジャーク政府制圧下の州)
ドルダン・ハーキミイェト州、首都アルトゥン・カレ
カルダ州、州都ドゥシュムシュ・シェヒル*1
カラヴァン州、州都ジュムワ・ヒサール
(タン・グランダ開拓地)カルマ州、州都ラゾン・ヒサール

(ハヴズニア・トーラ軍閥制圧下の諸州)
カイサリーヤ州、州都スーク・ヒサール
クスラク州、州都スヴァーリ・ヒサール

(オル・アトニア軍閥制圧下の諸州)
チュユル州、州都ブグダイ・ヒサール
タリム州、州都スヌール・ミスル
(タン・グランダ開拓地)タウ州、州都チー・シェヒル
(タン・グランダ開拓地)カム州、州都シサムドゥプ・シェヒル
(タン・グランダ開拓地)カム州東部辺境*2
オル・アトニア軍閥東部戦区支配地域*3*4

(スベ・コルサニア軍閥制圧下の諸州)
(タン・グランダ開拓地)ギャツォ州、州都チャロ・シェヒル
(タン・グランダ開拓地)ギャツォ州南部辺境*5
(タン・グランダ開拓地)ギャツォ州東部辺境*6
(タン・グランダ開拓地)ギャツォ州辺境島嶼*7*8

(ジャン・チョプロチュニア軍閥制圧下の州)
トンゴロル盟、行政所在地ギク・アイマク
オール旗、行政所在地ウール・アイマク

(カリムネス・ベグザーディミラ軍閥制圧下の州)
チノ・オボク盟、行政所在地セレム・アイマク
国家変遷サズニア朝トーラ帝国(1628年ごろ~1713年ごろ)
17世紀のENOCH氾濫
ラトーミラ朝トーラ帝国(1713年ごろ~1912年)
青年トーラ政変
統一委員会統治期大トーラサズ連邦(所謂青年トーラ人政権期。1912年~1916年ごろ)
大棟梁制大トーラサズ連邦(所謂軍閥時代の始まり。1916年前後~1945年ごろまで)
アナヤスィ・シフィク政権統治期*9大トーラサズ連邦(軍閥時代の終了。1945年~)
南西トーラサズ戦争
南トーラサズ共同体(所謂STC*10。政体自体は現在まで存続するが、以後は政権の変更に応じて記載する)
ムスタファ・セースィズリク政権下南トーラサズ共同体(改革開放期。1994年ごろ~2013年ごろ)
シャキーブ・イノニュ政権下南トーラサズ共同体(現在。2013~)
政治体制保守ゲラノド主義、貴族的カデア主義、その他時期によって変動*11
大棟梁*12
以下1971年のデータを記載*13
“風読みの”アナヤスィ・シフィク*14
国家統一評議会議長*15“怒号の”ヴィナリ・チャクヤク*16
内閣大学士*17“死に水”イルギ・ビルギーリ*18
僑務卿*19“篠突く戸闔の”クルト・オズハン*20
工部卿*21“橋架け”アイナル・ヤルマン*22
戸部卿*23“怯懦なる”アクマンアルプ・サダック*24
軍機卿*25“無稽の”オズデス・オゼル*26
兵部卿*27“辻褄合わせ”サビット・エルミズ*28
中央総参謀長*29“鼎の”イスマーイール・ボズクルト*30
中央陸軍参謀総長*31“懸珠の”テキネル・エンギン*32
教育総監*33“幽名の”イディル・バージュ*34
中央海軍参謀総長*35“侏儒の”ヤシャール・タンプナル*36
艦隊総軍司令長官*37“冀う”メメド・カガプタイ*38
海務総監*39“怙險の丘の”オレン・デミルカン*40
航空総軍司令官*41“雷土”ヤマン・クズルウルマク*42
公用語トーラ語*43
首都アルトゥン・カレ
最大都市アルトゥン・カレ
貨幣オン・トトゥマルク*44
トトゥマルク*45*46
建国日青年トーラ政変
1912年10月29日
南西トーラサズ戦争の終結
1971年8月23日
人口およそ8億人程度*47
およそ14億人*48
国歌国旗掲揚歌1番*49
国教なし*50

概要

 南西トーラサズ地域に存在する国家。古くはトーラ人と呼ばれる一つの文化圏を持った人種がレポーラ盆地周辺に存在していたらしいが、1600年代序盤に“楽隊の”エルトゥールル・サズがトーラ帝国を建国した。それ以降はトーラ帝国とその朝貢圏が南西トーラサズ地域に広がり、300年近くに渡る地域的な安定がなされる。
 しかし19世紀中ごろ以降は朝貢圏の維持や北西トーラサズ地域との戦争などが重なり、各地域の貴族軍が独自の政権(軍閥)を樹立することで国家の統一性が崩壊。20世紀初頭に発生したヴィクトリア戦争での敗戦に伴う政治的改革運動の中から革命の機運が高まり、1912年、国父ソン・ダーグクがゲラノド主義国家大トーラサズ連邦を建国した。
 されどその直後ソン・ダーグクは死去。革命後の混乱を取り纏めることが出来る指導者を欠いたまま30年近くに渡って軍閥時代が続き、各地で軍閥が現れては消えてを繰り返した。*51最終的に勝利することが出来たのは“風読みの”アナヤスィ・シフィクというパッとしない一人の州総督であったが、彼は権力闘争において優位な方を的確に見極めることを最も得意としていた。その結果アナヤスィ・シフィク政権下の大トーラサズ連邦では殆ど既得権益の維持がなされたまま1960年代を迎える。*52*53
 1964年、第2次世界大恐慌が発生。大量の失業者対策として公的資本の投入による公共事業で雇用を維持することが求められたが、“風読みの”アナヤスィ・シフィクは東部軍閥の要求にこたえグランダ地方に対する大規模移民を以て解決することに決定。*54逆にヒストラマー半島などを基盤とする西部軍閥の利益を代表していたヴィシェノール州知事“秩序の”ムズラク・カラらはアナヤスィ・シフィクに対し叛旗を翻すことを決め、これに“女傑”ティルキ・ハリチュ・トーラや“商人の”トゥッジャール・コルサン・トーラら現地軍閥勢力*55*56も武装蜂起に賛同したことから南西トーラサズ戦争が引き起こされた。
 南西トーラサズ戦争は1966年から1971年まで続き、その結果STC側のカラヴァン州西部からPU側のピラーヴ州東部にかけての所謂国境線上に長大な要塞線が築かれることで停戦した。*57*58
 それ以降、大トーラサズ連邦はSTCとPUに分断されたまま国家が継続している。
 STCに限ったことを言えば、1986年ごろからアナヤスィ・シフィク政権下で頭角を現してきた“臥龍の”ムスタファ・セースィズリクが秘密警察の一種である軍機処*59を再建、また次代の軍閥中枢を担う官僚や将軍たちを育てるために教育改革に力を入れたことでハヴズニア・トーラ軍閥の後継者であるコペク・ハヴズ・トーラらをはじめ複数の権力基盤*60を手に入れた。ムスタファ・セースィズリクはその後経済官僚ジャオ・モールギュネシらを登用しつつアンゴルモア等に対する経済侵略……もとい経済の拡大を試み、また1995年に前後して隣国PUで発生したゲラノド的運動に対し各種策略を用いることで1999年ごろバルシュ・カプ事件を発生させ、同時にSENTOとの間の国境問題を更に複雑化させたりPU国内のトーラ・カデア派を支援するべく海軍*61を出動させて第3次ヤチェリノ危機を引き起こしたりすることで1990年代を乗り切り、2000年代に入ってからは総参謀部の直下に統合軍形式の部隊を配備したり*62SENTOで発生したソブリン危機のあおりを受けて貿易額が減退するなどの被害を受けながらも2010年ごろまで続投。続く“霜踏み”シャキーブ・イノニュへ政権を渡す。
 2013年ごろにバトンを渡されたシャキーブであったが、すぐに2020年の第3次世界大恐慌が発生する。ここにおいて彼はクルーダーやナシーヴァ地方への軍事侵攻を決定し、崩壊したPUの残骸たちを吸収したりしながら衰退した国力の再起を図っていく……

名称

 正式な国名は大トーラサズ連邦である。しかし1966年から勃発した南西トーラサズ戦争において西部軍閥と東部軍閥に分かれたまま数十年国境線で交戦を続けた結果、双方の軍閥陣営が「大トーラサズ連邦である」と自称し続けたため、国際社会的には東部軍閥*63を南トーラサズ共同体(STC)と、西部軍閥*64を沿海州連合(PU)と呼び表すことになっている。

国旗

 黄色の地に赤、黒、白、青、緑の6色とトーラ信仰を表す紋章が刻まれている。
 紋章はトーラ信仰の守護者としての地位を大トーラサズ連邦が保持する事*65を意味する。
 各色に関しては以下の通り。最も大きいトーラ民族がそれぞれ5つの少数民族との融和を図り、トーラ信仰のもとで六族協和を達成するという感じの意味であるらしい。
 赤:ナシーヴ人
 白:外アンゴルモア人
 緑:クリュード人
 青:ドランガと沿バリーシ民族*66
 黒:ヤチェリノ諸島*67
 黄色:トーラ民族

地理

1971以降の区分

 1971以降のSTCは国土を13個の州に分け、更に州級県を5個*68保持する。それぞれに州知事あるいは県知事が存在し、これらの下に州軍・県軍が存在する。*69
 州知事・県知事および州軍・県軍などは基本的に中央から派遣されるのだが、地方の民意によってこれを選択する*70ことが可能であるというゲラノド的な制度が逆用され、各地の軍閥の後継者や子飼いの官僚や将軍が中央に推薦されるようになっている。当然現在まで残っている軍閥は基本的に世襲がなされやすくなっているため、事実上貴族制度として領地が世襲される風習が残り続けているとも言える。
STCの地図.png
1970年代前半のデータ

水色ドルダン・ハーキミイェト州アルトゥン・カレ“柏手”ニナイ・ウカールアルトゥン・サンジャーク政府派
橙色カルダ州ドゥシュムシュ・シェヒル“糸目の”バトゥ・エルデミルアルトゥン・サンジャーク政府派*71
濃灰色クスラク州スヴァーリ・ヒサール“蠟梅の”タンス・チフチェハヴズニア・トーラ軍閥派
桃色カラヴァン州ジュムワ・ヒサール“宝石商の”イスメット・アガアルトゥン・サンジャーク政府派
赤色カイサリーヤ州スーク・ヒサール“血の牙”フェズィ・エルデミルハヴズニア・トーラ軍閥派
空色チュユル州ブグダイ・ヒサール“頚城の”エンギン・アキンオル・アトニア軍閥派
濃青トンゴロル盟ギク・アイマク“夜鷹の”ジャン・チョプロチュジャン・チョプロチュニア軍閥派*72
灰色オール旗ウール・アイマク“羊飼い”ギュルハン・ティルヤキ*73ジャン・チョプロチュニア軍閥派*74
灰青チノ・オボク盟セレム・アイマクカリムネス・ベグザーディ*75カリムネス・ベグザーディミラ軍閥派*76
黄色タリム州スヌール・ミスル“狐の”オル・アト陸軍大将オル・アト軍閥派
濃緑カム州シサムドゥプ・シェヒルソン・バリクチュ陸軍中将*77オル・アト軍閥派
紫色タウ州チー・シェヒルハワ・シマン陸軍中将オル・アト軍閥派
焦茶カルマ州ラゾン・ヒサールトロス・バリシュアルトゥン・サンジャーク政府派
薄紫ギャツォ州チャロ・シェヒル“荊の”テオマン・ヴェリスベ・コルサニア軍閥派
赤紫ギャツォ州東部辺境(キャグパ県)“寒空の”トゥクデミル・ヤルチンスベ・コルサニア軍閥派
薄赤紫ギャツォ州南部辺境(ティティ県)“信心深い”チェイズ・ギュレンスベ・コルサニア軍閥派
濃紺ギャツォ州辺境島嶼(ツォトゥ県)ロサン・ドゥプンスベ・コルサニア軍閥派
黄緑カム州東部辺境(チェナ県)チェン・パルラク*78オル・アト軍閥派
薄桃クリスタィ地方軍政下ソン・バリクチュ陸軍中将オル・アト軍閥派

ドルダン・ハーキミイェト州

 首都を有する州。人口も当然多い。
 州知事は“悦懌の”アキオル・サンチャクリ。

アルトゥン・カレ

 首都。本来は議席が与えられていなかったが、この個所から民間政党に対して3議席が与えられる。
 市長は“朝凪の”ハスレット・カシャーニ。

カルダ州

 クルーダーとの国境に位置する州。クリュード人が結構住んでいる。国境付近に存在するタナグリ・ミスルなどは古くからの景観を残した都市であるとして有名。
 また東部にはかつてアンゴルモア遊牧民が済んでいた領地に大量のトーラ人が住み着きトーラ帝国へと併合した歴史的経緯があるイェジェロ・ヒサール*79が存在する。
 州知事は“悖狂の”アコンデル・サブリ。とはいえ官僚層は事実上ジュリデ・ハラーヴェとその関係者によって占められている。

クスラク州

 ハラヴニア・トーラ軍閥のおひざもと。
 州知事はミナ・ハヴズ・トーラ。

カラヴァン州

 PUとの国境に位置する州。当然西部には国境要塞が敷き詰められている。
 州知事は“零れ墜ちる”ヴェリ・ユーチェ。

カイサリーヤ州

 ハラヴニア・トーラ軍閥の息のかかった地域。西部には国境要塞が敷き詰められている他、南部国境線は軍によって強固に固められている。
 州知事はシュクラン・デミルバズ。砲台防衛司令官は“星見の”カヤ・ザイム。

チュユル州

 オル・アトニア軍閥の息が掛かった州。もともと別の軍閥が治めていた場所らしく、州知事もトルソン・トーラ家の人員から出ている。
 州都であるブグダイ・ヒサール*80は古くから食糧地帯として有名。
 州知事はチョヴァン・トルソン・トーラ。

トンゴロル盟

 外アンゴルモア地域の州。それなりに栄えている。
 州都*81はギク・アイマクと呼ばれる定住化したアンゴルモア人たちの都市。少数民族政策の一環として1999年ごろ特別市に指定され、2名の議員輩出の権利を保持している。
 州知事*82はシュエ・チョプロチュ。

オール旗

 外アンゴルモア地域の州。
 県知事*83は“巻雲の”アスラネル・マルディン。イルドゥゲ砲台防衛司令官は“独座の”ワン・カルタル

チノ・オボク盟

 外アンゴルモア地域の州。アンゴルモアに最も近い場所であるがゆえに遊牧民が多かったが、今では定住が進みつつある。
 州知事*84はハリイェット・グルバズ。

タリム州

 オル・アトニア軍閥のおひざ元である州。レポーラ盆地の東端に位置しており肥沃。
 州知事はセイハン・ハレフォグル。

カム州

 山がちな州。チェンポパの聖地のひとつであるシサムドゥプを有する。
 州知事はソン・ファン。アルヌプォラ砲台防衛司令官は“煙霞の”レイラ・クルタル。

カム州チェナ県

 州級県。SENTOとの国境に近く物々しい。
 県知事はエリス・タンユ

タウ州

 グランダ半島の西端に存在する肥沃な草原地帯。チェンポパのキンコル派が本拠としていたクムティ僧院の跡地はここである。
 州知事はクムズ・シマン。砲台防衛司令官は“砂山の”カンダル・バイダル。

カルマ州

 タン・グランダ開拓地の行政の全てを司る……という名目である州。元グランダ王国の首都であり、数々の寺社が存在したが大開拓政策に伴う略奪で荒廃したりした。
 その首都であるラゾン市は2020年現在特別市として2名の議員輩出の権利を保持している
 州知事は“彷徨える”ベルカン・ネレダ。トーポリ砲台防衛司令官は“浮腫み足の”アイコズ・アタラル。

ギャツォ州

 グランダ半島南部に存在する州。スベ・コルサニア軍閥のおひざ元であり、海軍基地や沿岸砲台が複数存在する。
 州都であるチャロ・シェヒルは1名の議員輩出の権利を保持している。
 州知事は“星鵠を射る”ミーマール・ジハンギル。

ギャツォ州キャグパ県

 州級県。ノロー海に対する防衛のため海軍基地がある。
 県知事は“虚ろなる”ファトマ・ハンダリ。

ギャツォ州ティティ県

 州級県。極めて寒い地域であり人口は少ない。
 県知事は“木枯らしの”エミン・イェルトゥチュ。

ギャツォ州ツォトゥ県

 州級県。ノロー王国から離反したロサン・ドゥプニア軍閥の支配地域。ノロー民族解放戦線なる武装勢力がたまに湧く。
 県知事はカルモ・ドゥプン。

クリスタィ地方

 2020年時点ではクリスタィ県に格上げされる*85。水晶とか宝石資源が取れるが、ここはもともとSENTO加盟国のチュシェル藩王国であった場所である。そのためSENTOとの間で国境紛争が絶えず起こっている。
 県知事はチェン・ズィコン。

政治

政体

政府

 アルトゥン・サンジャーク政府或いはドルダン・ハーキミイェト偽政府と呼ばれる。前者は「黄金の御旗を掲げる統一された政府」のことであり、つまるところ正統な権威を持つという意味*86の自称。後者はドルダン・ハーキミイェト州に存在する偽の政府であるという事であり、PUがSTC中央政府を指して呼称するときこのように呼ばれる。

政策

 政策は時期によって大きく変動している。

  • “風読みの”アナヤスィ・シフィク政権(1940年ごろ~1993年)
     基本的な政策は既得権益の保護。

大棟梁(ウル・ヴェズィール)

 大トーラサズ連邦*87の国家元首。任期は6年で4選以上はされない。ただし交代時期になっても過半数以上の欠席などで統一国家大会議が開かれない場合、大棟梁選出が為されず現職大棟梁が臨時で代行できる。
 主な権限はSTC軍の統帥権*88*89、条約の締結及び宣戦・講和*90、法律の公布及び緊急命令の発布、戒厳令の宣布、法に基づき大赦・特赦・減刑及び復権を行う権限、内閣大学士の指名・任命権、統一国家大会議の解散権等である。
 直下に「軍機処(メフテル)」「都察院(ジャンダルマ)」「理藩院(コロニエ)*91を持つ。彼らはそれぞれ「大棟梁の輔弼および秘密警察」「官僚の統括および国家憲兵」「属国の管理」*92を担当する……ものだったが、1970年代までほぼほぼ腐敗しておりその機能は完全なモノとは言えなかった。
 これら大棟梁直轄部署の長は○○卿と呼ばれる。
 以下大棟梁就任者の一覧

ソン・ダーグク1912~1914国父。1914年急死大トーラサズ統一委員会委員長
“水煙草の”アリ・エトヘム1914~1915正統に選ばれたものの復辟事変*93で銃殺される大トーラサズ統一委員会委員長
“象牙の”エフィ・マントゥカ1915~1920復辟事変後臨時で統一委員会委員長を代行したもののトーラ帝政継承戦争の勃発に伴い大棟梁職を設置大棟梁職につくのは1916年以後
“鬚髯の”ハルーン・ムハーフス・トーラ1920“象牙の”エフィを放逐大棟梁就任後即座にトーラ皇帝を自称したが、誰もついてこなかった
“長煙管の”ブルハネッティン・バイラクタル・トーラ1921~1923“鬚髯の”ハルーンを毒殺“長煙管の”ブルハネッティンはあくまで州総督に就任しただけであり大棟梁は空位とされていたが、一応記載する
“風読みの”アナヤスィ・シフィク1924~1993アルトゥン・クーデター*94*95で混乱したアルトゥン・カレを制圧する長命。1983年以後は多少耄碌してきて“臥龍の”ムスタファに実権を概ね譲る
“臥龍の”ムスタファ・セースィズリク1993~2013“風読みの”ムスタファから後継者に指名され就任STCの経済的発展を支えた半面バルシュ・カプ事件などを引き起こした事から功罪が色々ある
“霜踏み”シャキーブ・イノニュ2013~現在“臥龍の”ムスタファから後継者に指名され就任強権的な中央集権化政策・帝国主義的拡大政策を取る人物

議会(立法府)

 一院制。各州および州級県につき1名の議員を選出する方式であり、その予備段階として選挙人選挙が行われる。議席は20議席(2000年以降は28議席)。うち10議席は西部軍閥占領下の地域であるため当然空席となる。
 統一国家大会議は国民の最高政権行使機関。法律を作成するのは大体ここ。
 大棟梁の任命・罷免は6年おきに実行される。ただ、法律作成の際もその通りだが過半数以上が欠席すると自動的に会議が行われなかったことになり、法案がボツになる
 そのため議会を通じた立法が殆ど機能しておらず、法律と同等の権限を有した大棟梁令によってのみ政策を施行する。

統一国家大会議(シューラ)

 政党は基本的に存在しない。*96*97
 議員の任期は5年。再選は可能で、5年に1度一斉に改選する。厳密には次の議員資格を持つ者を選出する選挙であるので、交代の日まで議員は既定の人員のまま職務を遂行する。

1971年時点の議員

“金一封の”ギュゼル・オカルドルダン・ハーキミイェト州選出父はドルダン・ハーキミイェト農政銀行副頭取
“壁崩し”エメル・ギョズブユクカルダ州選出元カルダ州庁総務部長
“怒号の”ヴィナリ・チャクヤククスラク州選出元クスラク州軍歩兵連隊長。予備役大佐
“空き缶の”レジェップ・サカカラヴァン州選出実家は国軍へ納入する食料品企業の社長
“丁稚の”エルナン・エルギュプルカイサリーヤ州選出実家は代々ハヴズ・トーラ家お抱えの商人
“苦学の”スレイマン・メレンチュユル州選出元オル・アトニア軍閥西部戦区第1歩兵師団師団参謀。予備役少佐
“彩る影の”ビュレント・アクブルトトンゴロル盟選出トンゴロル盟で人気の映画監督
“哨台の”ナイム・チルレルオール旗選出元保衛院職員
“縲絏の”オルタキョイ・エッディーンチノ・オボク盟選出元軍機処第5総局次長
“郭公の”ベイト・アトタリム州選出オル・アトの息子
以下10名欠席
“瞉霿の”ヤジク・エゼルペレリン州選出カティニス財閥の組織票で当選
“目釘抜き”ボラカン・ディヤディンコルフェズ州選出前アドゥプィ砲台防衛隊付歩兵師団参謀長。予備役大佐
“奮励の”アイドガン・クルトヴィシェノール州選出元ヴァスケント大学国際政治学教授
“懲乂の”イルカイ・オダバスオーレニン州選出軍閥時代の英雄。お爺さん。予備役中将
“懇款の”クブラ・レムズバラーハナ州選出水産加工会社の役員
“頬袋”ハリメ・アバーイービヒシュトゥ・ウル・アルマーン州選出造船企業の重役の娘
“紅唇の”アヤトゥナ・ハチュオグルニハーヤ州選出元ヤチェリノ諸島警察局職員
“倦ねる”サバス・カシャーニピラーヴ州選出元ピラーヴ州軍参謀本部作戦局次長
“沖醬蝦の”ベニュ・ポラートマフナ州選出コルサニア・トーラ軍閥に多額の献金をしている地主の孫娘
“湯熨”ベイザ・ジェルチュドランガ州選出ドランガ鎮守府航空部出身。予備役大尉

2020年時点の議員

 STCにおいては1999年前後に、“臥龍の”ムスタファ・セースィズリクの大棟梁令によって統一国家大会議の議員定数および選出区に関する法改正が行われた。
 結果、統一国家大会議における議席数において従来の20議席から、東域グランダの4州と4つの州級県に議席を増設することで28議席に拡充。PU側諸州から選出可能な10議席を廃止して一部都市より選出した議員10名に差し替えた形に変更された。

“母衣の”セニハ・イスメトドルダン・ハーキミイェト州選出軍需企業の重役
“絃歌の”イズグル・ケントカルダ州選出“砂城の”ゼキの親友。予備役大尉
アイディン・ギレイクスラク州選出クスラク工業大学出身。イェニ・マンスレーイ派
“墨守の”ナザン・キジリルマクカラヴァン州選出前職はカラヴァン州西部要塞防衛集団軍独立砲兵旅団副旅団長。予備役大佐
セルタック・コラックカイサリーヤ州選出ハヴズニア・トーラ軍閥に属する将校。予備役少佐。前任者から引き継がれた
アイダン・ジェレンチュユル州選出“国家の楯”*98の一員。オル・アト子飼いの議員
ラーレ・ブユクトンゴロル盟選出トンゴロル盟市民大学経済学部出身。イェニ・マンスレーイ派
“剣璽の”タリク・レンダオール旗選出元オール旗方面軍所属の予備役大尉。国軍出のシラフチュ
アイジャン・トプジャシュチノ・オボク盟選出元チノ・オボク盟集団軍所属の軍人。予備役中佐。国軍出のシラフチュ
アルマ・ボズクルトタリム州選出オル・アト軍閥所属の大規模農業事業者
ソユル・ソジェンタウ州選出鉱石採掘企業の重役。オル・アト軍閥の資金源の一つ
“司直の”エーゲ・ジャネルカム州選出この地域では珍しいトーラ神官。裁判官(カーディ)も務めている
“蒼古の”グン・セダフカルマ州選出スベ・コルサニア軍閥所属の老獪な政治家
“累雪の”アフメト・フスギャツォ州選出“沿バリーシ水産連盟”*99の一員。ギャツォ州の貧困問題を解決したいと考えている
バリス・カイマクチェナ県選出ソン・バリクチュの息がかかった議員。若い現当主のソン・ファンには少し不満のようだ
オムール・ジェネルティティ県選出元コルサン家の軍政担当官
コルハン・エルメキャグパ県選出スベ・コルサニア軍閥自衛水軍の元士官。予備役少佐。“虚ろなる”ファトマの元恋人
ソナム・カロンツォトゥ県選出グランダ人。元僧侶。ギャルタン・ドゥプニア軍閥の息が掛かっている
“星夜の”エスリン・ハサーディアルトゥン・カレ選出都市議員“トーラ市民の会”*100の一員。農民工問題を解決しようとしている
“厭離の”セミハ・ジェティンアルトゥン・カレ選出都市議員“トーラ市民の会”の一員。農民工問題を解決しようとしている
“明眸の”ヌール・イェルリカヤアルトゥン・カレ選出都市議員軍需企業の重役。照準器を作っている
アラジェイク・ウズールブグダイ・ヒサール選出都市議員“国家の楯”の一員。たびたびオル・アトに脅されている
ディンチェル・ウザンラゾン・ヒサール選出都市議員タン・グランダ政務委員会の元委員
オグズハン・オスマンラゾン・ヒサール選出都市議員中央から左遷されて来た汚職官僚
テムーレン・チョクトギク・アイマク選出都市議員アンゴルモア人。議員の仲で唯一の民族派
アユタナ・ヤザールイェジェロ・ヒサール選出都市議員アンゴルモア人とのハーフ。民族派寄りではあるが“手読みの”ジュリデには恩があるため表立って動けない
ドゥーグ・アルスランイェジェロ・ヒサール選出都市議員“手読みの”ジュリデの息がかかった議員。実はクリュード系
ニライ・ギュミュシチャロ・シェヒル選出都市議員コルサン家子飼いの官僚

内閣大学士(アーイェットラー)

 最高行政機関は行政院である。最高職は内閣大学士と呼ばれる。行政院は三つの段階に分かれており、第一段階は内閣。第二段階は六つの部*101と僑務委員会からなる行政機関、第三段階は行政府主計処、行政府新聞局とその他の下部部局*102である。
 それぞれの大臣は「○○卿」と呼ばれる

  • 吏部卿 官僚の人事を司る。
  • 戸部卿 財政と地方行政を司る。
  • 礼部卿 礼制*103を司る。
  • 兵部卿 軍事を司る。
  • 刑部卿 司法と警察を司る。
  • 工部卿 公共工事を司る。
  • 僑務卿 在外トーラ人の管理の他、外務・入国管理等を司る。

現内閣(バーブ・アーリー)*104*105

役職氏名派閥(シーア)
大棟梁“霜踏み”シャキーブ・イノニュ*106シラフチュ*107
国家統一評議会議長“母衣の”セニハ・イスメト*108シラフチュ
国家統一評議会副議長“墨守の”ナザン・キジリルマク*109シラフチュ
内閣大学士“萱の環の”シェルヴィ・テンギルシェンク*110カルダアディム派*111
吏部卿ビルゼ・バルカン*112カルダアディム派
戸部卿アバ・ブルク*113ヴァタンダーシュ派*114
礼部卿“慾目の”アジケル・カリス*115アドゥヤマン派*116
兵部卿タンス・ギュレン*117シラフチュ*118
刑部卿“千鳥格子の”ヤシャール・バインディル*119カルダアディム派
工部卿“切線の”セルカン・ムヒッディン*120テクノクラート
僑務卿セイラン・セティンカヤ*121カルダアディム派
労保卿“慎擇の”エルゲン・オンゼル*122ヴァタンダーシュ派
主計卿ウルディ・イェリスカヤ*123テクノクラート
新聞卿“叨冒の”エセン・バルカン*124無所属
軍機卿ヌライ・ムヒッディン*125カルダアディム派
都察卿“舌鮃”ファトマグル・デミルバズ*126シラフチュ
理藩卿ギュネル・コゼル*127アドゥヤマン派
保衛卿“蟹行”ブルチン・アディン*128シラフチュ*129
中央総参謀長パク・エルバカン*130コムタン派*131
陸上総軍司令官“土語の”エルマン・ヒクメット*132シュエ・チョプロチュ派
中央陸軍参謀総長テオマン・ブルダン*133オル・アト派
教育総監“踏み鳴らす”スヌール・ウカール*134イェニ・マンスレーイ派*135
中央海軍参謀総長“地獄耳”フェズィ・ヤルチン*136スベ・コルサン派
艦隊総軍司令長官エンギン・ヴェリ*137スベ・コルサン派
海務総監“浮城の”イスメット・ウカール*138イェニ・マンスレーイ派
航空総軍司令官“忽荒”シーリーン・ネイジ*139コムタン派

派閥(シーア) *140

 トーラ地域においては各地に派閥が存在する。これは歴史的にはトーラ帝国時代末期にあたる19世紀ごろから広まったもので、政党ないし政治結社の内部の派閥争いなどは基本的にこの形で行われる。*141
 軍閥時代を通じて“青年トーラ人”*142他トーラ・ゲラノド諸派*143が存在した*144が、

派閥名備考
アルトゥン・サンジャーク政府内部
旧軍閥(アーヤーン)軍閥時代を通じて活躍した者たち。軍閥時代の下剋上が身に沁みついている猛将が多く、中央政府の言うことを聞かない者が多い
太傅衆(アタベク)南西トーラサズ戦争を通じて活躍した者たち。軍閥時代を経験しているわけではないが、南西トーラサズ戦争と言う大規模な戦争を経験することで反ゲラノド的意識が生まれた。ここまでを旧軍閥(アーヤーン)と呼称することも多い
新軍閥(イェニ・マンスレーイ)1980-90年ごろから広まった政治的派閥。“臥龍の”ムスタファ・セースィズリクが十数年以上の歳月をかけて育ててきた新世代の軍閥当主と軍人および官僚たちの集まりであり、レープスツ主義的な開明的思考を保持していることが特徴*145
楽隊派(メフテルハーネ)2000年代ごろから徐々に政界進出を果たした派閥。“霜踏み”シャキーブ・イノニュの同僚や子飼いの層であったが“戦ぐ草原の”ティジェン・ダウトオールらのクーデター未遂事件*146をきっかけにして粛清された
武闘派(シラフチュ)2010年ごろ以降広まった政治的派閥。メフテルハーネ派に対する“霜踏み”シャキーブの粛清をきっかけとして代替的に増加した
カルダアディム派“霜踏み”シャキーブと個人的なつながりを有する政治家・官僚たちからなる派閥。後述のアドゥヤマン派と類似点が多くメンバーも共有している所が多いとみられる
アドゥヤマン派“霜踏み”シャキーブと同郷の政治家などからなる派閥。勢力は弱い
コムタン派軍内の親中央派軍人からなる派閥。諸軍閥による統制逸脱を是正しようとしている
親アルトゥン・サンジャーク派軍閥内部
ジュリデ・ハラーヴェ派カルダ州の官僚層に裏から手を回している“手読みの”ジュリデ・ハラーヴェが率いる派閥。結構デカい
ハヴズニア・トーラ軍閥ハヴズニア・トーラ家によって構成される軍閥。トーラ帝政継承戦争の事実上の勝者であり、“風読みの”アナヤスィ時代から長い蜜月を過ごしている
シュエ・チョプロチュ派1980年ごろ、ジャン・チョプロチュニア軍閥の当主“夜鷹の”ジャン・チョプロチュから家督を引き継いだ嫡男シュエによる軍閥。彼自身イェニ・マンスレーイ派であることもあって殆どアルトゥン・サンジャーク政府の新軍閥に帰属しているようなものだが、外アンゴルモアに関する政治闘争への不介入を強く要求するなど懸念も多い
ヴァタンダーシュ派軍閥ではないが記載。政治結社“トーラ市民の会”の理念に賛同する政治家や軍人などから構成される派閥
諸軍閥内部
オル・アト軍閥“狐の”オル・アトによって形成された軍閥。STCで最も強大な旧軍閥(アーヤーン)の軍閥であり、中央政府にとっては長らく顔色を窺い続けるしかできなかった存在。2021年、レポーラ会戦で敗北し消滅する
トルソン家オル・アト軍閥に滅ぼされたトルソニア・トーラ家の残党。トルソン家自体は地方領主として存続が許されたため元子飼いの軍人はそちら側に移動したりしている
ソン・バリクチュ派オル・アト軍閥東部戦区司令官のソン・バリクチュが独自採算を保持したもの。息子のソン・ファンはイェニ・マンスレーイ派の一人としても数えられることがあるらしく、オル・アトからの自立を狙っているとも言われる
スベ・コルサニア軍閥1960年前後のコルサン家お家騒動をきっかけとしてコルサニア・トーラ軍閥から離反した“勇猛果敢な”プラジュ・コルサンらによる軍閥。政治性向としては急進保守派であり、2020年代以降は事実上最後に残った旧軍閥(アーヤーン)として必死に舵取りを行っている
コルサニア自衛水軍コルサン家お抱えの水軍衆。水軍とは言うものの事実上の海軍であり、元々はバリーシ湾からウィオテ・イクス海にかけての広い範囲を海賊として荒らしまわっていた。1960年前後のコルサン家お家騒動により分裂するもその大部分はプラジュ・コルサンを頼ってSTCに帰属し、スベ・コルサニア軍閥の主力として立ち回っていた
非コルサン派海軍閥1960年代以後に存在した派閥。最初期のSTC海軍においてはバリーシ湾の水軍利権を殆ど握るコルサン家の子飼いの海軍*147が多数派であったが、それに反対する派閥として幾つかの派閥が組まれていた。そのうち“竜骨の”オムルゥガ・コルサンらの派閥*148にすら対立した中小海軍閥がこれを形成していた。現在では中央海軍学校の開校と共に将校数も増え両者の立場は概ね対等となっている
ギャルタン・ドゥプニア軍閥ツォトゥ島に存在するノロー人軍閥。軍閥当主としては三代目であり、もはや帰属意識はノロー王国よりSTCに近い。国内ではしばしばノロー民族解放戦線のテロが相次いでいるため、中央による統制を受けてでも治安維持コストを削減したいと考えているらしいがコルサニア・トーラ家がそれを許していない

各省庁(ディーヴァーン)

おもな省庁と部局

裁判所(マフケミシュ)

 そもそも、トーラにおいて裁判所は基本的に内閣(バーブ・アーリー)の下の刑部に属する機関である*149。トーラの法曹、特に裁判所に勤めるものの事を裁判官(カーディ)と呼び、これらはトーラ神官の中から宗教法(シャリーア)のみならず世俗法(カーヌーン)に精通した者を呼び、神官(ウラマー)ないし法学者(ムカッリド)の中から刑部卿がこれを任命すると言う形で配置される。
 トーラにおける裁判所は大きく区分して軍事司法と通常司法と宗教司法の三つに分けられている。軍事司法の長はカザスケル、通常司法の長はハキーム*150、宗教司法の長はシェイヒュルと呼ばれていた。*151
 通常司法においては民事裁判所・刑事裁判所・保安裁判所*152・憲法裁判所*153の4つの裁判所と下級控訴院・国家控訴院・会計検査院の3つの控訴院が存在する。これらの裁判官は法務委員会によって任命される。一応*154二審まで存在し、民事裁判所および刑事裁判所の一部は下級控訴院で。刑事裁判所の一部および保安裁判所・憲法裁判所は国家控訴院で控訴審を行う。*155
 軍事裁判においては基本的に軍人および州軍兵士に対する処罰を行う。各師団・集団軍・軍の順に軍事裁判所が存在し、それぞれ師団軍事法廷、集団軍事法廷、高等軍事法廷となる。軍法会議もまた一応二審まで存在し、これは集団軍級で存在する軍事控訴院において行われる。また別途戦場で必要に応じて特設軍事法廷が設けられることもあるが、これは3人以上の将校が集まって開催されるものであり公開されずまた再審もない等比較的特殊なものである。
 これらの裁判所は各地に存在し、特に民事裁判所と刑事裁判所は1つの(ムタサリファト)に1個のペースで存在するらしい。
 宗教司法においては各地の神官(ウラマー)裁判官(カーディ)として運用される。開廷の手続きが殆どなく、複数人の証人と神官(ウラマー)がモスクで話し合うだけで概ね宗教司法の場となる。このように宗教司法とは結構ファジーなものであったりする。*156
 また、宗教司法では再審がない。*157

地方行政(イルティザーム)

 地方自治体の長の事を総括してミュテッセリム*158と呼び、行政庁*159の事をミュルテジムと呼ぶ。
 現在の地方区分では大きい順に(ヴィライェト)(エヤーレト)*160(ムタサリファト)郷町村(ティマール)*161および(ヒサール)*162*163によって構成される。
 州長官をヴァリと、県長官*164をハキームと、郡長官はムタッサリフ*165と、郷町村の長官をティマリオト*166と呼ぶ。*167*168
 かつてトーラ帝国時代は皇帝から任命されて州を保持する総督(ベイ)と中央の官僚機構から派遣された代官(ミュテッセリム)である巡撫(ギョズ/クラック)*169が存在した。州以外の各部に関しても概ね同様の名称の代官が派遣されたり徴税などを一部担当したりしていた*170。ただしトーラ帝国末期には殆ど完全に腐敗しており*171、この当時の州総督から軍閥を形成した者も多く存在する。

外交

 南トーラサズ共同体の外交政策はその年代によって大きく変化する。ただしその変化は基本的に大棟梁(ウル・ヴェズィール)とその政治傾向、および国内政治問題に大きく左右されるため、1949年のグランダ侵攻*172および1950年代におけるチュシェル紛争*173*174や1969年の南ローナ紛争*175*176に代表される国内軍閥の暴走や1966年の大開拓論争*177*178*179および北方シフト政策*180とその破綻*181に代表される重大な外交政策の決断などは必ずしも国際情勢と同期しているものではない。

経済

産業

企業

軍事

 陸軍と海軍の2つのみしかない。航空隊は双方に存在する。
 総参謀部が中央陸軍参謀本部と中央海軍参謀本部の上に存在し、陸海統合運用や州軍、警察などとの連携の際にはここが調整を行う。
 また統合軍形式で作戦行動を行う事を考慮して総参謀部直下に総参謀部付部隊が存在する。
 男女を問わない限定的な徴兵制を敷いている。
 2020年ごろの総兵力は346万9000人、予備役86万7200人、警察・州軍など公的な準軍事組織で384万人であるらしい。

陸軍概要

 3個連隊を中核とした三単位制の師団が基本。例として歩兵師団の場合は歩兵連隊3+砲兵連隊1+対空砲大隊1+機甲大隊1*182によって編成される。また砲兵師団が存在するなど軍として砲火力への信頼がデカい。
 また沿岸砲*183や列車砲*184ならびに長距離砲*185など特殊な例において旅団が用いられることもある。
 また大隊以下の単位で見れば、歩兵小隊の時点で擲弾筒分隊2+機関銃*186分隊3など歩兵火力の拡充が顕著であり、大隊においては歩兵砲なる歩兵科運用の軽量榴弾砲が用いられるほどである。

 これらからわかる通り、トーラ人は砲兵キチである。

部隊編成

 以下2020年における陸軍部隊の編成を記載する。
 陸軍*187部隊は複数個州による軍区に分かれており、その中で更に集団軍を形成している。集団軍内部に師団、連隊などが存在する形式である。

北西レポーラ軍区
第1集団軍*188*189*190
第1歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊*191*192*193
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊*194
対戦車中隊*195
中迫撃砲*196中隊*197
重迫撃砲*198中隊*199
歩兵連隊
歩兵連隊
砲兵連隊
砲兵大隊*200
砲兵大隊
砲兵大隊
対戦車中隊*201
対空中隊*202
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊*203
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
第2歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
歩兵連隊
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
第3歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
歩兵連隊
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
第1砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
第1機甲師団
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
機甲連隊
機甲連隊
歩兵連隊
砲兵連隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
独立砲兵旅団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
対空砲大隊
独立防空旅団
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
列車砲旅団
列車砲連隊
列車砲連隊
列車砲連隊
歩兵連隊
対空砲大隊
航空旅団
航空連隊
航空連隊
航空連隊
航空連隊
対空砲大隊
空中機動旅団
攻撃ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
輸送ヘリ連隊
対空砲大隊
カルダ方面軍*204*205*206
歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
歩兵連隊
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
独立機甲師団
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲連隊
対空砲大隊
独立防空旅団
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
航空旅団
航空連隊
航空連隊
航空連隊
航空連隊
対空砲大隊
列車砲旅団
列車砲連隊
列車砲連隊
列車砲連隊
歩兵連隊
対空砲大隊
空中機動旅団
攻撃ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
輸送ヘリ連隊
対空砲大隊
第4砲兵軍団*207*208*209
砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
ロケット砲兵師団
ロケット砲連隊
ロケット砲中隊*210
ロケット砲中隊
ロケット砲中隊
ロケット砲中隊
ロケット砲中隊
ロケット砲中隊
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
ロケット砲兵師団
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
ロケット砲兵師団
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
列車砲旅団
列車砲連隊
列車砲連隊
列車砲連隊
歩兵連隊
対空砲大隊
列車砲旅団
列車砲連隊
列車砲連隊
列車砲連隊
歩兵連隊
対空砲大隊
航空旅団
航空連隊
航空連隊
対空砲大隊
空中機動旅団
攻撃ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
対空砲大隊
カラヴァン州西部要塞集団軍*211*212*213*214
歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
歩兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
歩兵師団
歩兵連隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵大隊
歩兵砲中隊
対戦車中隊
中迫撃砲中隊
重迫撃砲中隊
砲兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
砲兵師団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
歩兵連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
独立砲兵旅団
砲兵連隊
砲兵連隊
砲兵連隊
ロケット砲連隊
対空砲大隊
独立防空旅団
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
対空砲連隊
列車砲旅団
列車砲連隊
列車砲連隊
列車砲連隊
歩兵連隊
対空砲大隊
航空旅団
航空連隊
航空連隊
航空連隊
航空連隊
対空砲大隊
空中機動旅団
攻撃ヘリ連隊
攻撃ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
輸送ヘリ連隊
対空砲大隊
独立重装竜騎兵コマンド群*215*216*217
機甲師団
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
機甲師団
歩兵連隊
砲兵連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
対空砲大隊
自走砲旅団
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
機甲連隊
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
対空砲大隊
自走砲旅団
機甲連隊
機甲中隊
機甲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
自走砲中隊
機甲連隊
ロケット砲連隊
ロケット砲連隊
対空砲大隊
第1重装竜騎兵旅団
第311機略戦連隊*218
戦術偵察中隊*219
戦術偵察中隊
戦術偵察中隊
機甲中隊
自走砲中隊
第312機略戦連隊
第313機略戦連隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
機械化歩兵大隊*220
機械化歩兵大隊
対空砲大隊
第2重装竜騎兵旅団
第321機略戦連隊
戦術偵察中隊
戦術偵察中隊
戦術偵察中隊
機甲中隊
自走砲中隊
第322機略戦連隊
第323機略戦連隊
空中機動連隊
攻撃ヘリ中隊
偵察ヘリ中隊
機械化歩兵大隊
機械化歩兵大隊
対空砲大隊
空中機動旅団
攻撃ヘリ連隊
偵察ヘリ連隊
輸送ヘリ連隊
対空砲大隊
航空連隊

海軍

 戦艦を中核とした艦隊が存在する。
 また潜水艦にも砲撃型潜水艦なる存在がある。

 わかるとおり、トーラ人は大艦巨砲主義である。

警察その他の部隊

 所謂準軍事組織のこと。STCでは軍閥が絡んでくるので少しめんどくさい。

警察

 トーラ語ではコルチと呼ばれる。基本的には警察の事であり、州知事に属する。

州軍

 こっちもトーラ語ではコルチと呼ばれる。州を守るための軍隊であるが、州知事に属するし治安維持のため警察のようなこともするので混ざりまくっている。基本的には州軍で統一して考えると楽。

保衛院

 トーラ語ではコルマスと呼ばれる。国境警備隊のことである。

軍機処

 トーラ語ではメフテルと呼ばれる*2211986年に再建される秘密警察の事。第1総局から第9総局までが存在し、対外諜報担当の第1総局、対内諜報担当の第5総局、直接排除担当の第7総局にそれぞれ実力部隊が存在する。

総参謀部付部隊

 トーラ語ではカラルギャフと呼ばれる*222。2000年代以降に作られる統合軍形式の実験的部隊。戦艦を基幹とする水上打撃部隊、空母を基幹とする空母機動部隊、強襲揚陸艦を基幹とする遠征打撃部隊、補給艦などを基幹とする輸送・水雷部隊の合計4個戦隊からなる1個艦隊や陸軍師団が複数存在し、1つの軍隊の縮図と言っても過言ではない規模になっている。

都察院

 トーラ語ではジャンダルマと読む。2020年以後に再建される国家憲兵のこと。本来は1910年代くらいからあったが、各軍閥の力を弱めることが目的である事が明白であるため誰も建て直そうとせず汚職と腐敗の温床になっていた。“霜踏み”シャキーブはこれを改革し中央集権化を推し進めたため、オル・アトニア軍閥の反乱を招くことになる。

軍閥私兵

 トーラ語ではカプクルと読む。各軍閥の私兵である。これらは国軍の兵力内に含まれておらず、「軍閥の息のかかった国軍部隊」とは別である。
 私兵とは名ばかりで実際州軍の皮を被ったものもあるし、或いは本当にヤクザや民間警備会社のようなものもある。いずれにしても殆どの兵力は(州軍など含めても)二線級以下の兵器しか保持しておらず、軍人としての訓練も日常的に受けているわけではないので結構弱い。

教育

 小学校4年、中学校4年、高等学校4年。うち小学校のみが義務教育であり、中学校以降は有償である*223
 軍営*224の幼年学校および予備士官学校ならびに士官学校が存在し、これは中学校および高等学校ならびに大学校(および幹部候補生学校)に相当する。平時は幼年学校4年予備士官学校4年士官学校2年*225*226は基本的にであるが、戦時下などの条件によってこれらは変動する*227

主な学校

・各地の州立軍官学校
・各地の軍閥設置の総合大学
・中央砲科学校
・中央特技学校

宗教

 トーラ信仰を信奉している国民が多い。
 その他グランダ半島では全体的にチェンポパ*228を信仰する住民が極めて多く、歴史的経緯によりアンゴルモア人の多い内アンゴルモア地域*229においてもチェンポパ信徒が多い*230。これらチェンポパはSTCにおける統治政策に対して民族主義的武装組織の母体となる*231などして強く抵抗する傾向にあり、各軍閥では硬軟使い分けた対応を取っている*232*233
 現在ではオル・アト軍閥東部戦区司令官ソン・バリクチュの懐刀である“影這う蔦の”ムバーリズッディーン・ダーニシュメンドの策略によりチェンポパ独特の宗教指導者であるリンポチェの継承に関する介入工作が行われており、グランダ半島のみならずノロー王国、アンゴルモア、サクァス連邦および西コリンズの諸藩王国地域全体にとって極めて大きな問題となっている。*234*235

教義

 だいたいイスラム教。
 神官*236という地域ごとの宗教的指導者*237が存在し、各地の神殿*238で祭事を執り行う。
 宗派としては複数の宗派が分かれており、地域性や世俗権威との結びつきなどによって混迷を極めている。これは智縁共同体*239*240*241を基盤とした神官階級*242*243の拡大が存在したが故である。即ち師匠にあたる法学者の解釈を元にしたうえで弟子たちが更に学説を発展させていく過程で複数の解釈を発生させ*244*245、それらが地域や民族や世俗権威との付き合い方*246等に応じて残存したり残存しなかったり*247する過程で学説の系譜が数多に枝分かれしていく事がままあったためであると言われる。

  • サンジャーク派*248
     トーラ信仰の最主流派*249*250。東文字で書けば旗一派*251。南西トーラサズ地域の殆どの地域と大多数の人口を占めるトーラ人が信仰している場合が多い宗教であり、その創始はトーラ信仰の世俗権威との合一化にまでさかのぼる*252。そもそも宗教的権威と世俗権威の合一化は数多くの宗教においてみられるものである*253*254が、それらはあくまで「宗教教義の文脈における歴代皇帝の正当化」*255「宗教的権威を部分的に優越する形での世俗権威による保護」*256或いは「宗教的権威を政治決定力の一つへ昇華させた世俗的権威の絶対化」*257と言った方面で発達してきた。
     その中で16世紀ごろのトーラ皇帝*258はトーラ信仰の庇護者として振る舞い、皇帝自身もまた一人の法学者としてトーラ信仰に従った法解釈*259を繰り返しつつ、トーラ皇帝の発した世俗法*260とトーラ皇帝の発した宗教法的見解*261*262とを殆ど同一のものとして発することが可能であるという点において極めて特徴的な宗教法学派*263を打ち立てることに成功した。
     トーラ皇帝という世俗的権威と神官であるという宗教的権威がほぼ完全な形で合一を果たしたトーラ帝国であったが、17世紀後半からのENOCH氾濫において皇帝自身が発狂して死んでしまうという事態に見舞われた結果、続くラトーミラ朝トーラ帝国においてトーラ皇帝自身には宗教法解釈をみだりに濫用しないことという制約が付けられその聖俗両面からの権力を行使することが極めて難しくなった。そこにおいて宗教的指導者としての実権は皇帝自身から、トーラ姓を持つ選帝卿*264の一族であり同時に宮中官職として式部長官*265を代々任されるタバゥルカ・トーラ家に移った。トーラ皇帝がファトワーを発するときはタバゥルカ・トーラ家の輔弼を必要とし、同時にタバゥルカ家はアルトゥン・カレにおいて最も重要な神殿*266の管理者*267として国内各所の神殿にファトワーを出すことも可能となった。
     この分権化に伴いトーラ皇帝の権威は一時的に*268分担される。式部長官たるタバゥルカ家はトーラ皇帝が毎年行う各種トーラ信仰的儀式を輔弼し、代わりに式部長官の下に編成される神官たちには宗教的素養の他に学問的・官僚的な素養が求められるようになった。これによってトーラ皇帝という政治的権力と宗教的権力が明確に分離しながらも末端層では宗教的知識人層が政治的権力の補佐のために運用されることとなる。これはトーラ帝国の郡県制(ミュテッセリム)*269における巡撫や県や郡の長官などを担い、地方における豪族や貴族等地方軍人層(アーヤーン)*270への対抗力の要として活用されていた。
     そのため神官は平民階級からであっても貴族や戦士階級であるアーヤーン層と並び立ちまた対抗できる極めて重要な地位となり、特に裁判官や地方宗教指導者および各種法律関連業務で活躍しトーラ帝国における官僚層の一翼を担った。*271これにより官僚階級を中心として平民の立身出世の道が開かれたともいえ*272、17世紀から18世紀にかけてのトーラ帝国の黄金期は概ねこの平民階級の名士化*273*274が進展した。
     とはいえ19世紀中ごろのサレヒ独立戦争から20世紀初頭のヴィクトリア戦争にかけてトーラ帝国自体の国力が落ちてくるとトーラ帝国内の国粋主義的知識人層がトーラ民族としての信仰を取り戻そうという動きに走る。
     これによってトーラ皇帝の世俗的政治権力とタバゥルカ家の宗教的式部権力を殆ど同一のものとして習合するべきであるとするタウラー=サンジャーク主義が発生した。これは原義的に見れば宗教改革運動*275であるが秘密結社*276*277を通じて一種の政治的運動としても広がり、トーラ労農党光復派*278*279や同党皇統派*280および同党旗派*281など各種ゲラノド諸派にも波及。結果としてトーラ帝国末期におけるトーラ知識人層に膾炙し事実上のデファクトスタンダード的解釈となった。これをタウラー=サンジャーク主義と言い、サンジャーク派と殆ど同一視される。
     軍閥時代において、各地の神殿や神官は各々軍を編成したり官僚として各地の軍閥に参画したりした。前述の通りトーラ信仰の神官は裁判官としての役割が殆ど最初から存在する上、タウラー=サンジャーク主義の文脈においてはトーラ皇帝から派遣される官僚としての成立も保持している。それ故当然ながら法律および事務職に関する技能を保持していた為である。この傾向は1920年代のタバゥルカ・トーラ家当主“長老”コッジャ・タバゥルカ・トーラにおいても変わらず、トーラ労農党機構派*282の支援と暴走のもとトーラ帝政継承戦争における参加勢力の一端を担い、そうして敗北した。
     以後統一STC期から南西トーラサズ戦争、現代までミンバル・ジャミィとその管理者たるシェイヒュルの地位は殆ど名誉的なものとなり、以前のような権勢はない。*283
  • ナシーヴ派
     ナシーヴァ地域やその周辺で信仰されている宗派。ゆるゆる。
  • トゥル・タウラー派
     トルトーリアで信仰されている宗派。結構厳格。
  • マナラート派
     クルーダーで信仰されている宗派。随分厳格。
  • サレフィー派*284
     サレヒで信仰されている宗派。無茶苦茶厳格。
  • カーフィル派
     1990年代以降のトーラ信仰純粋化運動*285の文脈で新たに定義づけられた集団。宗教的特徴としてはしばしば過激な暴力の行使を伴うテロリズム的改革運動を好むところにあり、またサレフィー派に範を取ったような極めて厳格な律法主義統治を要求する。そのためしばしばサレフィー派と混同されており、また1980年代以降の国際的威怖主義(テロリズム)の活発化に伴う
  • 律法主権主義(エドゥレ・ティラーナ)
     18世紀ごろのトーラ神官、“窮理の”エルドアンによって唱えられた主権思想。同時期の人民主権主義(ゲラノド・ティラーナ)経済主権主義(ノティラレ・ティラーナ)および君侯主権主義(カデア・ティラーナ)の議論の中で出現した。
     “窮理の”エルドアンは1730年ごろに活躍したトーラ信仰サンジャーク派の神官である。神学思想としてはムスナド学派に属し、師と仰ぐ神官“既知の”ジュムフル・アルプテキンの系譜を汲んでいる。長らく続いたENOCH氾濫が終わりトーラ帝国の黄金期が訪れ始めるごろに現れ、国内においてはサンジャーク派の権力分割に関する問題、国際的事情としては北西トーラサズ地域との交易が行われ出すにあたり徐々に民衆の心が正しいトーラ信仰から離れていくという問題の二つに直面し腐敗と堕落の道へ進んでいく国内を憂いて『源理奉書』(アル・フィクフ)を記した。

法学派(マズハヴ)

 厳密なところを言うと各宗派によって採用されている法学派はすべて異なると言えるものの、概ね4つから8つ程度の智縁的系譜が見られる。以下、それを説明する

  • シャファー学派
     執り成し説。律法における罰において幾つかある流動的な罪刑*286に関しては、裁判官たるアッラーフが執り成しを以て最も軽い罪に適用するものだとする学派。
  • タクフィール学派
     宣告説。律法において罰を受けると宣告された者或いはその罪を犯した者は最厳罰を以て適用され、二度と救われることがないとする厳格な学派。トゥル・タウラー派やマナラート派およびサレフィー派などではこれが主流であることが多い
  • カラーム学派
     思弁説。律法を更に神学的視点に立たせて考慮し、人間の罪と自由意志の観点にまで持ち込んだ学派。ワッハダ学派と対立したが、現状殆どの学派(マズハヴ)はこの学派を踏襲したうえで議論が進められている。
  • ワッハダ学派
     神格説。カラーム学派と共に律法を神学的視点に立たせて考慮した学派。人間の自由意志を認めず、地上に律法をもたらした(アッラーフ)によって全てが予定されているとする学説であったが、現状あまり広まっていない。
  • アマル学派
     行為説。律法に記載されている許可された行為であればそれを実行してよく、拡大解釈的な実状へ適用をも許可されているという説。付帯的な制限を受けることもないとしているため極めて緩い学派である。サンジャーク派は民間レベルではこの立場に立つことも多い
  • タクワ学派
     敬虔説。律法と罪の関係はその罪刑に対して敬虔であったか否か、即ち故意か不意かや各個の状況および情状酌量を大いに認めるべきであるとする学派。サンジャーク派においてはこの学派で語られていることも多い。
  • ファナー学派
     合一説。律法と罪の関係を「その条文が制定されること」という条件で捉え、罪の適用は(アッラーフ)の制定目的と合一するか否かで判断するべきであるとする学派。ナシーヴ派はこの学派で語られる事が多いが、ムスナド学派やタクフィール学派は単純な堕落であると非難している
  • ムスナド学派
     典拠説。律法本文と一切違わないことを要求し、それ以外の情状酌量や類推適用を認めない厳格な学派。サレフィー派などはこの学派に立つことが多い。

神々

 トーラとはタウラー(律法)を意味する。即ち、全能なる神が定めた律法を信奉しこれに従って生きることを目的としている。
 この神の名前も形も現在では伝わっておらず、ただ“アッラーフ”*287とのみ語られる。

聖典

 律法を記載した聖典の他、各種法学者の解釈などが聖典とされる。

その他の機関

度量衡

パルマク:20mm
アルシュ:50mm
ウルップ:85mm
アルシン:700mm(12アルシュ)
エンダーズ:850mm(10ウルップ)
クラーチュ:およそ1.8m(大体6フィートと等価)
クムシュ:7m(10アルシン)
クリタイラル:85m(100エンダーズ)
スタディオ:180m(太陽がその視直径分だけ移動する間に人間が歩行する距離)

選帝卿家(ヴェズィール)

概要

選帝卿家(ヴェズィール)は、トーラ帝国時代に定められた一族に与えられた位階を指す単語である。一般的に序列は存在しないとされるもの凡そ17位から20位程度まで存在し、その多くはサズニア朝トーラ帝国建国時および第三次氾濫期においてトーラ帝国*288の領域を維持および拡大するために尽力し、武功を立てた一族に与えられている。
 基本的に「六の宮中官職・五ないし七*289の辺境伯・六ないし七の書記官長*290およびその他のトーラ姓を持つ貴族家」の配役によって構成される。基本的に宮中官職に位置付けられたトーラ貴族はトーラ帝国における直参の家臣であり首都であるアルトゥン・カレの周辺に配置、その直下の辺境伯家がトーラ帝国の防衛を担いレポーラ盆地東部やヒストラマー半島北部等に配置、さらにその下の書記官長家がグランダやアンゴルモアなどトーラ帝国に従属していない近隣諸部族からの朝貢受け入れを担当し朝貢使節団の世話をするという役回りが与えられていた。*291

機構

 選帝卿家はトーラ帝国の政府機関とは異なり一種の家庭的繋がりによってトーラ皇帝に臣従していた。そのためトーラ帝国の官僚機構から直接選帝卿家に対する抑圧を行うことは出来ず、必ずトーラ皇帝からの勅書としての働きかけを必要としていた*292*293。そのためそれぞれの宮中官職に従って絶大な権限が与えられており、その活動に対しトーラ皇帝以外の介入を許さなかった。*294*295
 選帝卿という位は貴族生活のあらゆる部分に現れており、宴会での座席、敬意を表する相手、そしてそもそもとして物資の輸送優先順位自体にまで関わる大きな因子である。その中の最たるものはトーラ皇帝の宗家が断絶した際に次の皇帝を選出することが可能であるという点にあり、それゆえ選帝卿と総称される。

腐敗とその終焉

 選帝卿というシステムが崩壊するのは19世紀中ごろからの事である。トーラ皇帝の権威を絶対的なものとして構築されていた*296選帝卿のシステムは、トーラ皇帝の権威が低減していくにしたがって必然的に形骸化していった。
 それが如実に表れたのがサレヒ・トーラ戦争によるサレヒローニアの独立、ひいてはナシーヴァ書記官長であったアルフィトル・トーラ家のトーラ帝国からの離脱であった。ナシーヴァ地域で発生した民衆反乱に

現代への影響

構成(~1912)

宮中官職配当家当主*297備考
侍従武官長ムハーフス・トーラ家“鬚髯の”ハルーン・ムハーフス・トーラ
内帑長官ハヴズ・トーラ家“誠実な”マフムート・ハヴズ・トーラ
旗手長バイラクタル・トーラ家“長煙管の”ブルハネッティン・バイラクタル・トーラ
大膳職長ハリチュ・トーラ家ハリチュ・トーラ
献酌侍従長ボガズィチ・トーラ家ボガズィチ・トーラ
式部長官タバゥルカ・トーラ家“長老”ムスタンスィル・タバゥルカ・トーラ*298
グランダ辺境伯空席
ドランガ辺境伯アルカダーシュ・トーラ家
アンゴルモア辺境伯デグメミュシ・トーラ家“”アブドゥルズィーズ・デグメミュシ・トーラ
クリュード辺境伯ハラーヴェ・トーラ家
ナシーヴァ辺境伯ツィフテテリ・トーラ家
ヤチェリノ辺境伯空席
ヒストラマー辺境伯ジェザイルリ・トーラ家“聖伐”ヒシャーム・ジェザイルリ・トーラ
グランダ書記官長相当トルソン・トーラ家
ドランガ書記官長相当コルサン・トーラ家
アンゴルモア書記官長相当空席
クリュード書記官長相当チェラグ・トーラ家
ナシーヴァ書記官長相当アルフィトル・トーラ家*299
ヤチェリノ書記官長相当アルタリア・トーラ家
ヒストラマー書記官長相当アルマーン・トーラ家“”

文化

 トーラ地域は古来からトーラ信仰、或いはトーラ民族ないしトーラ帝国という複数の段階での統一的文化が存在したため、特にトーラ帝国時代において強大なソフトパワー*300を形成することに成功した。

名前に関する文化

 トーラ人の使用言語はトルコ語*301に酷似したトーラ語と呼ばれるものであるが、ナシーヴァ語*302、クリュード語*303および東域諸語*304からの借用語が多く見られるほか、その他複数の方言という形でアゼルバイジャン語やトルクメン語、タジク語および、バシュトゥー語、ダリー語など*305の使用が認められている。
 トーラ人の名前は基本的に「名+姓」の順で夫婦別姓かつ父系継承。ゴイジュ家のムスタファであればムスタファ・ゴイジュ、その息子アリーであればアリー・ゴイジュ。その妻がヒルダ・フェトヒでもファトマ・クズルウルマクでも、息子の名前は変わらない物となる。
 ただし変更があるのは他民族と婚姻関係に落ち着いた場合であり、特にSENTO系(東域系)のものと結婚した場合は東域側の「姓+名の順かつ夫婦別姓・父系継承」と干渉する事となる。その場合は基本的に二つの姓が合わさったような名前になる事が多く、ソン・フェズィやチャン・カラジャなど一見して奇妙な名前になる事が多い。
 トーラ人の姓名に関しては更に特別な文化が存在するが、これらは基本的に伝統的なものであるため現在時点では法的にある程度禁止されていることも相まって地域によっては大きく薄れていることが多い。
 詳細はトーラ人名リスト

  • 二つ名文化
     伝統的なトーラ人は二つ名を用いて他者の名前を呼称する。*306二つ名は一般的に形容詞や名詞や動詞を直接1単語*307名前の頭に着けたものであり、“風切り”ネスリハン・トキョズや“統辞の”メリエム・シェノールなどが実例として挙げられる。
     これは近世トーラあたりまで戦士階級と貴族階級が殆ど同一であった頃の名残で、自らの功績を名乗るのと同時に同姓同名の先祖や親類縁者とは異なる存在であるということを如実に示すための文化であったとされる。二つ名自体は中世トーラ期程度から存在したようで、庶民層の経済発展に伴って姓の名乗りが一般化し始めた18世紀中ごろよりも前から複数の平民出身者が二つ名と自らの名前のみで伝わっていることが多い。
     二つ名文化の終わりは1912年の青年トーラ政変によって以降である。国父であるソン・ダーグクはその名前からも分かる通り東域系の文化圏に属していた者であり、トーラ的な二つ名を用いられる事を嫌った。またゲラノド的改革の進展や北西トーラサズなど各国との対等な交流の促進もあって進歩的思想を持つ人物が増え、1930年程度を境にして徐々に二つ名を用いる人物が減ってきている*308
  • トーラ姓
     トーラ皇帝の血族であることを示す姓。翻って選帝卿(ヴェズィール)を指す。
     トーラ姓は基本的に父系継承であるが、トーラ皇帝位自体は女系であっても継承可能である*309。またトーラ帝国のみならず中世から近世期にかけての歴史的君主制国家の宿命として王位争いを防ぎ臣下の貴族の分離を防ぐ必要性に駆られる都合上、臣籍降下や政略結婚が横行した。本来原義的な臣籍降下においては姓を与えられた旧皇族は二度と皇帝に即位することは出来ずその姓*310を守り抜くことが必須とされるが、トーラにおいてはイエよりも血縁関係や当主であるか否かの方が優先される。そのため降下した皇族や他の貴族家の元へ養子に行った皇族、他の貴族との政略結婚によって子を成した女性皇族などを通じ、ラトーミラ朝トーラ帝国という血筋は極めて強固かつ冗長性に溢れたシステムとなっていた*311
     これらの選帝卿は基本的に大貴族ないし有力貴族とされる場合が多く*312、宮中官職という形で一定の世襲的ポストが与えられた*313。後に選帝卿は大貴族や有力貴族であることを示す最も分かりやすい称号となり、トーラ姓が存在する家系は貴族社会において極めて重要な地位であるとみなされた。*314
     青年トーラ政変以後これらの大貴族は軍閥時代を通じて、特にトーラ帝政継承戦争によってそれぞれ勢力を削りあった。更にそこから南西トーラサズ戦争によって幾つかの貴族家が消滅し、現在に至る。
     現在ではSTC・PUともにトーラ姓をつけて名乗ることは少ない。仮にトーラ姓をつけて名を名乗る場合トーラ姓は姓名の末尾につけ、アナライ・ハラーヴェ・トーラのように「名+姓+トーラ」と名乗る。*315
  • 敬称
     トーラにおける敬称は相手の立場によって変更する必要がある。
     最も有名な敬称はパシャである。これは将官以上の階級の軍人*316や他国の国王および大統領、その他各省の大臣や次長級、および旧い言い方であれば大貴族、現在であれば各有力な軍閥の長などがこの敬称で呼び表される。これらのように武官・文官ともに用いることが出来る最上級の敬称であるため他国との外交の場では現在でもしばしば用いられる。
     次にベクという敬称が存在する。これは佐官程度に位置する階級の軍人に対して呼ばれるもので、その他特段の事情がない限り軍閥私兵の将官級・佐官級は総じてベクと呼ばれる。*317*318
     これと同等の文官階級に対してはヴァリを用いる。これは中央であれば局長・部長・審議官級から課長および係長級まで、地方であれば州知事など地方行政機関の長を指して呼ぶ。*319
     またベクの類型としてテクヴル或いはサルダールと呼び表される物がある。
     テクヴルとサルダールは佐官相当までの軍人*320に用いるものであるが、実際の運用上は「地方の軍に配属された後方担当官はテクヴル」「地方の軍に配属された前線指揮官はサルダール」という曖昧なものである。これらは翻って「防衛時の指揮官はテクヴル」「攻勢時の指揮官はサルダール」と呼び表すこともある。これらは基本的にベクで代用可能であり、2020年現在これら二つの敬称を用いている者は少ない。
     そしてそれ以下、尉官より下に相当するものであれば文官であっても武官であっても或いは民間人に対しても用いることが出来る敬称がバシュである*321
     バシュは東詞のニュアンス的には「兄貴」を意味する言葉であり、フランクな使い方であれば路地裏のチンピラグループの長などにも用いることが出来る*322。厳密にはバシュにもオン・バシュ、ユズ・バシュなどが存在するが、これらの違いは「バシュの中のバシュ」*323や「バシュの中のバシュを率いたバシュ」*324「バシュの中のバシュを率いたバシュを纏めるバシュ」*325という程度のものであり、ビン・バシュとベクは殆ど極めて近い語義となる*326。そのため2020年現在では殆どすべてバシュで言及可能である。
     その他、現在では用いられない敬称各種について記載する。
     パーディシャーという敬称はトーラ皇帝にしか使えず、当然これは既に存在しないため用いることは出来ない。また同じくトーラ皇帝から各朝貢圏の国王に対する呼び方であるデイや後宮(ハレム)に起源を持つヴァリデ・ハトゥン・ジェッリエの各敬称は用いられない*327
     また男性の文官全般に使える敬称のエフェンディや女性の文官全般に使える敬称のハーナムも宮廷に起源を持つ語であるためあまり用いられず、同じく提督や船長を意味するレーイスもパシャやベクやバシュによって統合された*328
     年少者の女性に対する呼びかけであるカルファや年少者の男性に対する呼びかけであるアブー*329も同じく、社交的目的で用いることが出来ないため徐々に用いられなくなっている。

衣類に関する文化

  • トーラ帽
     フェズ帽の事。ツバを持たない円筒形の帽子であり、紐で出来た房が頭頂部に存在する。帽子自体の色は赤や黒など存在するが、STC軍で略帽として用いられるものは黒色のトーラ帽のみであると規定されている。軍の略帽としては後述の04年制式軍衣から続く伝統である。
     軍で用いられるものに関しては房の色を兵科色と合わせて帽子下部に兵科色の帯を巻き付けて兵科を示し、房に飾り玉*330をつける事で階級を示す。飾り玉の数で高級将校*331・下級将校*332・下士官*333・兵*334のうちどれに該当する人物であるかが分かり、高級将校ならば飾り玉3つ。下級将校ならば飾り玉2つ。下士官ならば飾り玉1つで兵は飾り玉無しという形で表現される。
  • トーラ圏の軍服に関して
     STCの軍服は、近代以降おおよそ3-4の区分に分けることが出来る。以下、特徴と策定経緯を記述する
    04年制式軍衣1904年策定トーラ帝国最末期の軍服。これまでの民族衣装をベースとした軍服ではなく北西トーラサズ的な機能性を追求した。正帽や礼服や袖章、肩章等の規定が存在し、兵科や連隊番号を記した胸章などが付けられる。しかし所謂肋骨服のようにトーラ風の装飾が存在するなどトーラ面から逃れられていない12年制式軍衣はこの軍服をベースとしている
    12年制式軍衣1912年策定青年トーラ政変直後の策定。基本は04年制式軍衣がベースだが生地の材質などに関して変更があり、袖章が廃止。その他当時はやっていたサムブラウンベルト等の規定がある軍閥時代を通して存在
    50年制式軍衣1950年策定軍閥時代終了後の策定。北西トーラサズ地域などの軍服を例にとり、詰襟で襟に兵科章を、肩章で階級を、胸章で兵科や連隊番号を示すなどしていた第1次世界大恐慌の反省から衣類製造コストの省力化が取られており、近代国家として統一された軍服にしようという試みが見える
    65年制式軍衣1965年策定第2次世界大恐慌直後の策定。礼装や正帽を廃止し常服ならびにトーラ帽型略帽と統合。肩章を廃して折襟の襟章と袖章を採用し第2次世界大恐慌後の物資問題を解決しようとした南西トーラサズ戦争ではこれを運用。PU側は1967年に略帽を山岳帽に変更するなど複数の改良を行った67年制式軍衣を作成している
    87年制式軍衣1987年策定STC独自のもの。迷彩服の使用やチェストリグの全面的使用に踏み切るなど近代化が進む。襟章に階級と兵科を統合しかし背嚢はたこ足である
    08年制式軍衣2008年策定STC独自のもの。ボディアーマーの洗練が進みチェストリグ等弾倉嚢装着具類と統合されタクティカルベストに近いものとなった。またプロテクトギアなどを装備する事が規定されているされども背嚢はたこ足である
     STC軍の背嚢は一般的に「たこ足背嚢」と称されるように、本当に50年制式軍衣の時代から伝統的に背嚢外部へ各種物品を括り付けるための縛着紐が備え付けられている。67年制式軍衣の時代には背嚢外部へスコップや携帯天幕や雨衣などを装備していたが、08年制式軍衣では迷彩パターンを配された大型背嚢に寝袋などを入れるため携帯天幕などが不要となっている。ただし代わりに無反動砲や各種砲弾などを括り付けることが求められており、装備重量はずいぶんなものになっている。
     また兵科色は以下の通り。
    歩兵(ピヤーデ)兵科色は赤
    対戦車ミサイル担当(ギュドゥムル)兵科色はマリーゴールド
    歩兵砲担当(オブス)兵科色は山吹色*335*336
    軽迫撃砲担当(ウシュク)*337兵科色は赤橙
    中迫撃砲担当(ハヴァン)*338兵科色はオレンジ
    重迫撃砲担当(アウル)*339兵科色はオリーブグリーン
    砲兵(トプチュ)兵科色は黄色
    対戦車砲担当(タンクサヴァル)兵科色は鬱根色
    対空砲担当(ウチャクサヴァル)兵科色は金茶色
    自走砲担当(キンディンダン)兵科色は黄緑*340
    ミサイル/ロケット砲担当(フュゼ)兵科色はクロムイエロー
    列車砲担当(トラン)兵科色は柳色*341
    沿岸砲担当(クィユ)兵科色は青朽葉色*342
    超長距離弾道砲担当(キューレ)兵科色は金色*343
    騎兵(スヴァーリ)兵科色は緑*344
    航空兵(ハヴァ)兵科色は勿忘草色*345
    回転翼機兵(ロートゥル)兵科色は常盤色*346
    衛戍兵(ガルニゾン)兵科色は銀色*347
    輜重兵(タシージュ)兵科色は白
    通信兵(シニヤルチュ)兵科色は黒
    工兵(ムハンディス)兵科色はラベンダー
    衛生兵(ドクトロ)兵科色は薄紅
    憲兵(インズィバット)兵科色は茜色
    海兵隊(デニズィレリン)兵科色は紫*348
    船舶工兵(デニズチュ)兵科色は青*349
    特殊部隊員(イェニチェリ)兵科色は朱殷色*350
     これらは50年制式軍衣から08年制式軍衣まで殆ど統一されており、技術発展に応じて兵科が増えた場合それに合わせて増加する*351

飲食に関する文化

  • コーヒー
     コーヒーは本来ナシーヴァ原産のコーヒーノキの実を炒って磨り潰したものである。比較的早い段階*352からナシーヴ地域からヒストラマー半島に拡がっていたことが確認されており、9世紀の文献にもナシーヴ派のトーラ神官が神秘体験のためにコーヒーを飲んで興奮状態に陥っている姿がみられる*353
  • 宮廷料理(イマレット)
     いわゆる満漢全席に似た形式の配膳であり、翻って南方風料理のことも指す。
     後には飽食を表す言葉、ひいては救貧院とそこで出されるごった煮に似た煮込み料理の事も指すようになった。*354

住居環境に関する文化

  • ハマーム
     トーラ風呂。コルサン風呂とも。一般的にはオンドルじみた床暖房を利用する蒸し風呂のこと。STCではスチャクルク、PUではハマームとも呼ばれる。
     そもそもこれは寒冷気候に於いて使用されるものであるので、トーラ全域に広まることはなくまた近代化に従って失われた文化や伝統もあった*355
     室内には浴室内暖炉とそこから出る排煙を床下に流した床暖房、およびバーニャ的な高温の蒸気の他火鉢などで暖められている。なお床暖房が基本という性質からリアルで言うサウナほど高温であるというわけでもなく、どちらかといえば湿式サウナに近い。
     実のところこれはコルサンと名がついているものの恐らくドランガ半島における風習だったとされる。特に支配階級にあたるコルサン家は海の男なので、そういう者をあまり持たない。逆にやドランガ州の中でも農民に近い市民はコルサン風呂を利用していたとされる。
     この流れはトーラ帝国に於いても流入したものの、レポーラ盆地やそこらへんでは当時から既にトーラ皇帝や貴人の湯治のために存在した湯殿や北西トーラサズなどから流入したシャワー文化などがあったためあまり流行らなかった。
     ちなみにこれはギャツォ州に於いてグランダによくあった沐浴場と一緒になりつつあり、本国のそれと違って水風呂および湯が張られているところもある。
     また個人浴場より公衆浴場の方が未だに多いとされ、ユニットバスより銭湯のような感じを思い浮かべる*356*357*358
     そこに於いての入浴習慣ではあるが、多分大本が寒冷地であることを考えると中国北部の「毎日入るわけじゃないけど入るときにはクソほど丹念に身体を洗う」感じが近い。

武器に関する文化

  • 砲兵キチ
     トーラ人は砲兵キチである
     これは中世期トーラ王国の技術者“鐘撃ち”オルハン*359と“洪略”ジュー・イェゲン*360による活躍によるものであり、彼らがセル・ゾンカの三重の城壁を巨大な攻城砲で打ち破ったことはその後のトーラ貴族の民族的アイデンティティの構築に一躍買っている。
     これに加えて1620年代、中央帝政領域を支配した“征服帝”ラ・ロイの軍勢に対しサズニア朝トーラ帝国の初代皇帝エルトゥールル1世*361重装騎士(アスワラーン)*362と野戦重砲“トーラ”による衝撃力に満ち溢れた野戦防御を以て対抗。“征服帝”ラ・ロイの軍勢を撃破したばかりか中央帝政領域南部地域に逆侵攻し現地諸侯に対し攻撃を加えた。*363
     これら2度の民族的危機に対して砲が用いられたことで、トーラ人*364のアイデンティティの一つになりあがり、特に17世紀以降発達することになる“トーラ帝国貴族としての”文化的プライドとして極めて重要な位置に位置付けられた。
     ENOCH氾濫を経験した後のラトーミラ朝トーラ帝国において、この武断趣味*365的傾向は良くも悪くも効果的に機能した。良い面としては1670年代までに砲熕兵器を揃えていた貴族はENOCHに対する防衛力としてある程度の成果を出すことに成功し、領土の荒廃をある程度防ぐことに成功したという事。悪い面として最も重要な事実としてサズニア朝トーラ帝国時代においては暫時徐々に切り捨てていくはずであった中世期トーラ王国的な旧貴族がENOCH氾濫という強制的排除があったということも含めて一気に宮中権力を減らし、結果1690年代ごろから“母たる”アセナ・ラトマ執政下の*366政権に対する大規模な反乱が発生してしまったということである。*367これらの事情により武断的思考を持つ貴族が残り、また貴族内でも自らの保持する大砲の門数や口径を誇ることはその経済力の表れであるという一種のステータスとして砲熕兵器が存在することとなった。事実砲は野戦のみならず治安維持においても有用であり、特に朝貢圏の諸部族に対する威圧としては極めて効果的であった。またこの貴族的趣味は18世紀中ごろの黄金期を経て民衆にも伝わった。トーラ帝国時代の一般的民衆が砲を保持する事は叶わなかったが、砲の運用員として専門的な技術を磨くことは一種の名誉としてみなされるようになる。*368
     この二つの潮流は20世紀末のトーラ帝国における国粋主義的運動において一体化し、トーラ民族における民族的アイデンティティであるとみなされた。そのため新設された近代的トーラ帝国軍内部における砲兵の地位は極めて高く、青年トーラ政変以後にあっても概ね変わっていない。*369特に軍閥時代を経た現在のSTCにおいては軍閥当主と軍人経験は極めて密接な関係にあり州知事や州選出議員など上層部に近い人材が基本的に予備役扱いであるものの高級将校であった軍人経験を有している場合が多いというのも相まって、元砲兵将校であるという地位は政治闘争の場においても極めて効果的に用いられる。
     その一つの例として挙げられる*370のが、戦略撃を目的とした超巨大弾道砲台、通称トーラ砲の開発である。
  • 銃刀規制に関して
     STCにおいて銃刀規制は比較的緩い。
     銃は種類により所持・携帯・授受および運搬が許可される類の許可制であり、砲・戦車・ミサイルなどは基本的に所持禁止である。*371
     対して刀や槍など白兵武器は私有地内での使用や携帯、収蔵保管などの面に関してほぼ完全に合法であるが公共での携帯などは許可制となっている。
     特に白兵武器の規制が緩いことはトーラ帝国時代からの風習となっており、特に私有地内での使用や保管が認められていることからトーラ帝国末期から軍閥時代にかけて多数の武道家を輩出してきた。*372*373これは銃火器の取り扱いにおいても同じくであり、トーラ帝国時代には*374拳銃を用いた決闘の風習が存在した。*375*376
     これらの許可は現地の警察(コルチ)が担っている。*377*378
  • 成人(ブルーグ)*379に関して
     トーラにおける成人年齢は15歳の誕生日或いは精通ないし初潮が来たときと定められている。これはトーラ信仰の律法に規定されているものであり、民法においても同様である。ただし軍法の徴兵可能年齢は18歳以上とされており、これらは州軍・警察ともに同じである*380*381
     中世期トーラ王国時代からトーラ帝国時代にかけて、トーラ貴族の間には幾つかの通過儀礼が存在した。そのうちの一つが法典朗誦(ホッタム・クルアーン)と呼ばれる儀式である。これは成人を意味する通過儀礼として児童が律法を朗誦するというもので、ブルーグを迎えた児童が最も近い9月27日*382を目安として必ず参加するというものである*383*384法典朗誦(ホッタム・クルアーン)は律法の朗誦による法的地位の自覚の他、成人した児童が律法を片手に街中を行進することで新成人がどのような人物であるかを町中に知らしめるという意図があった。
     法典朗誦(ホッタム・クルアーン)の他にもトーラ帝国時代の貴族の間では墨入れ(クナオーレ)と呼ばれる儀式が存在した。これは現在では結婚式などで用いられる儀式である*385*386が、トーラ貴族の文化が残っていた家や地域の間では1990年代ごろまで成人式でも行われていたことが確認されている伝統的な文化である。墨入れ(クナオーレ)は赤い装束に赤いヴェール*387を被った新成人を囲んで参列者たちが粛々と踊り*388、新成人に対し「大人という厳粛な立場」を示す儀式である*389。その後参列者たちは新成人の掌にクナ*390を用いて簡易的な刺青を施し*391、続けて金貨と銃*392を授け「大人という立場における自己防衛の重要性」を示すことで、自分の資本と自分の身は自分で守らなければならないという現実を把握させることになる。特にトーラ帝国における貴族社会においてはこの拳銃を極めて重要なものであると認識しており、自らの子供に授ける拳銃や自らが携帯する拳銃はトーラ人好みの大口径である事や家の格にそぐわない程派手な外装ではない事などが求められていた。
     現在では軍閥時代の終焉に伴い墨入れ(クナオーレ)から高価な拳銃授与の儀礼が失われ、成人式をはじめ結婚式や徴兵の時など限られた時にクナで刺青を施し金貨を授ける儀式となっている。

政治経済に関する文化

  • 黒矢朝(カラ・オクラル)白矢朝(アク・オクラル)
     17世紀以前に南西トーラサズ地域に存在した2つの大国、即ちトーラ王国とヒストラマー王国は両方が「自身こそが本当のトーラ信仰の体現者である」としていた。そのため彼らは自身を“トーラ”と言い、相対する方をヒストラマー王国ないしレポーラ王国と呼び蔑んだ。
     現在の海外トーラ史研究者の間では、歴史的経緯を持つトーラ王国・ヒストラマー王国という呼称を避け、「トーラ王国は鏃に黒い染め物を括り付けて宣戦布告したので黒矢朝」「ヒストラマー王国は鏃に白い染め物を括り付けて宣戦布告したので白矢朝」と呼ぶようにしている。
     ここで中世期トーラ王国と呼んでいるのは基本的に黒矢朝(カラ・オクラル)、すなわちレポーラ盆地側に存在する現在のSTC寄りのトーラ王国を指す。
  • 朝貢圏
     トーラ帝国時代の国際関係は全て「朝貢」によって完結していた。即ち対等な付き合いをする国家というものは全て存在せず、「あくまで名目上の臣従と同じく名目上の敬意(つまり貢ぎ物)、そしてやはり名目上の領地安堵と同じく名目上の下賜」のみがそこには存在した。この文化はトーラ帝国以前、それこそ古代トーラ文明あたりから脈々と繋がるものであるとされ、現在でもトーラ人は結構メンツを大事にする。これは王ないし皇帝個人に対してその国家や勢力の主が臣従を表明することにより発生するものであるため、グランダなどの国は最低でも王や皇帝が変わるたびに朝貢を行っていたとされる*393*394
     基本的に貢納に対し下賜される物品は極めて多く、また諸外国の領土に対する内政干渉や徴税その他の権利などは一切存在しないなど北西トーラサズ式の国際関係論では何も生まない無益な取引が横行していた。にもかかわらずこれを数世紀の間続けていたのは、ひとえにトーラ帝国に於いて重要なのが「利益」ではなく「器の大きさ」であったからである。そのためアンゴルモアやグランダ王国の諸氏族および西コリンズ地方の諸国*395はトーラ帝国の威を借りるために朝貢を行い、トーラ帝国は国内外の諸貴族に皇帝の器の大きさと国力を見せつけるために進んで下賜を行っていた。
     この時発生する制度が恩賜役権(カピチュレーション)である。これはトーラ帝国に対する朝貢と共に下賜される権利の一つであり、朝貢した国家ないし部族の認めた商人が一定期間トーラ帝国において活動するに足りる居住や通商などの特権を“申請する権利”をその国家や部族の長に対し授与するというものであった。
     また朝貢圏の国家から救援を求められた場合、“やむを得ず”経済的な支援や軍事的介入として出兵することも多くあった*396。そして大抵の場合、トーラ帝国の威が通じる国家や勢力に対してであれば「トーラ帝国様がバックについてるんだからな!」という脅しに加えて軍勢の後ろから迫る黄金の旗というシンボルは極めて効果的に作用した。例えばお家騒動などで出張るときや民衆反乱に対するときなどの場合、相手が黄金の旗を見た瞬間即座に“トーラ皇帝とその軍に対し”降伏する事で、正直しばしばあった皇帝のお慈悲により減刑される事を狙って実質的な戦闘が行われないということもしばしば存在したとされる。
     これが崩壊したのは各州総督の群雄割拠ならびに19世紀中頃のサレヒの独立、そしてヴィクトリア戦争の時のナシーヴァ遠征によってである。
     また朝貢自体、トーラ帝国末期においては朝貢受け入れを行っていた貴族*397による中抜きが横行していることもあって軍閥化の一助ともなっていた事実が存在する。
     とはいえ特に大きかったのは黄金の御旗の威をわからない外国に敗北し“対等な”条約を結んでしまったことである。その時点で、トーラ帝国の保持していたソフトパワー的権威は完全に失墜した。
     これによってチュシェル王国やサクァスなど西コリンズ方面の諸国が一斉にSENTOへ加盟しSENTO理事会を通じた“対等な”外交関係を要求したことを以て、トーラ帝国は朝貢による儀礼的な影響力確保ですらも失ってしまったのである。
     国際政治学的には「最初から朝貢圏諸国は独立しており主権の侵害はなかった」と解説されるものの、国際関係論的にはこの時を以て「トーラ帝国朝貢圏諸国の独立」とすることが多い。
  • 通貨
     STCの通貨は1968年前後まで金貨であるクルシュと銀貨であるアクチェ。1968年前後からは主流通貨であるトトゥマルクと、高額取引を補助するための補助通貨オン・トトゥマルクである。*398
     トーラ圏における通貨は代々クルシュとアクチェ*399であり、トーラ帝国時代の通貨もまたクルシュとアクチェと呼ばれていた。*400
     PUは独立当初より金本位制から離脱しており、STCも第2次世界大恐慌の時には金準備高流出を恐れて金取引を停止した。*401
     これは第2次世界大恐慌の影響で国内の物価上昇率がだんだんと上がっていたことから発生しており、STCで10年間続くSENTOとの国境紛争の他PU-STC間の大戦争に伴う戦時国債の濫発によっても引き起こされている。
     このためSTCは1968年ごろからクルシュとアクチェを廃止し、紙幣であるトトゥマルクとオン・トトゥマルクを発行した。これはPU側による偽造通貨発行の危険性を加味したものであったが、代わりにSTC国内における偽札製造の危険性を誘発してしまった。*402
     STCとPUの両国が管理通貨制度に変わったことで金や銀を鋳造して貨幣にする必要がなくなったため*403、実のところを言うとPUクルシュは金貨ではないし、PUアクチェは銀貨ではない*404*405
  • 威怖主権主義(ティレウ=オルソディクト・ティラーナ)
     1980年代後半以降に取り上げられることが多い思想形態。政治的イデオロギーにまで昇華できなかった律法主権主義(エドゥレ・ティラーナ)を除くと第4の思想形態と呼ばれる*406
     思想の発端は18世紀の内海地域に存在した思想家“賽の目”ジグムント・ポトツキである。彼はヴィジャグラーメ体制を擁護し強権的な皇帝主権(カデア)を批判した。彼はグラスのみならず三光に対しても弁論の手を広げて皇帝権威自体の神聖化を否定し、皇帝もまたヴィジャグラーメ体制下における一つの地方領主と変わらない政治哲学的立ち位置にあることを証明するため、カデアは「軍事力に裏付けられた農村共同体的なコミューンを主体とした国家体制」に過ぎないと著した*407。ただ後世において、彼の思想はカデア主義の極めて原始的な形態に過ぎず*408、少なくとも現実の政治形態としてはカデア主義に概ね近くなるという解釈からすぐに廃れ、数世紀ほどの間日の目を見ることが無くなった。
     続いて取りだたされることが多くなったのは1970-80年代以降の事*409である。PUにおけるSTC批判の文脈の中で軍閥時代の再評価*410が行われ、1950年代STCにおける各軍閥の独走*411がなぜ起こり得たのかという政治哲学的解釈が必要とされた。
     そこで更にPU国内における強権的な政治体制*412*413に対する批判的言論からも“賽の目”ジグムントの論が再度引用され、トーラにおいて軍閥と総称される勢力*414*415とそれらによる内的政治傾向のことを権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)的体制であるとした。
     これは1970年代を通じた北西トーラサズの小規模戦乱期*416や1984年のトンブ大戦乱*417、および1970年代以降の小規模な武装勢力の乱立*418および国家間戦争の非対称戦争化などを通じて世界中に拡散した。本来犯罪者としか見なせないようなごく小規模な組織でありながらもケインズらに見られるように強大な戦力を保持している可能性のある武装勢力は通常の国家間外交政策の範疇で語ることが出来ない領域であり、ウェルモーやトーラ地域の先行研究は極めて大きな成果を見せた。しかし北西トーラサズの学者にとって重要なのは内的な政治動向ではなく国際政治など外的な政治に関する事柄であり、1985年ごろからコーペシャフトの学者を中心としてあくまで国家及び勢力の内的政治傾向に過ぎなかった権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)を、隣接する概念である後述の恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)と合わせることで外交的・政治的イデオロギーにまで昇華させ説明を可能とするという試みが開始された。
     1986年の北洋紛争に伴うコーペシャフト-ジョゴルワ間国境地帯の不安定化とそれによって急激に増加した小規模武装勢力に対抗するための1987年の第三次ガラーサ協定において、これら威怖主権主義(ティレウ・オルソディクト・ティラーナ)は「テロリスト」という三光語の名称で正式な公文書に登場する事となる。とはいえ当時の最先端の威怖主権政治に関する学説は1987年初頭に執筆され査読がようやく開始されたばかりのアーク人国際政治学者による論文*419*420であり、北西トーラサズ地域の学者たちが試みていた威怖主権政治(ティレウ=オルソディクト・ティラーナ)国家という存在の証明と国際的イデオロギーへの昇華よりむしろ国内アクターとしての武装勢力や非国家アクターとしての各種小規模武装勢力の説明のみにとどまっていた。
     ここにおいて新たに研究テーマとなったのはエナルキュリア・ラドニッツ民主共和国とスィーザーラントである。スィーザーラントは1971年から1980年ごろにかけてアレーナ・ヴァーマスの開発独裁を経た後、王政復古を果たして軍事中心の強権的政治による国内政情の安定化を図った。対してエナルキュリア・ラドニッツ民主共和国は1960年代から70年代にかけての第3次フェルナンド・ロペス政権および継続第3次フェルナンド・ロペス政権によって同じく強権的政治を行い、後の血の赤政策*421によって国内経済の回復に努めた。この2つの国家の共通項は国内の政治および経済の復興に関する問題に対して人権*422や法的手続きを無視した強権的政治を以て早期の解決および統制された発展を行うという物*423であった。
     これら軍事政権は1970-80年代東南トーラサズ地域において大きな躍進を見せた。SENTO東部のノクス・ノルタル両共和国においては第2次東端戦争終結後の政治的混乱をジャン・クォハ軍事独裁政権*424*425ならびにマルコ・サントス独裁政権*426が早期に終結させ、SENTOの全面的バックアップによる国力回復政策が行われていた。この強権的開発独裁政権の成功はSENTO内の他の加盟国においても如実であり、モングー王国のアナン・プラユット軍事政権やサクァス連邦共和国のテイン・チョー軍事政権、コリンズ連邦のジャムニーヤー・カマーンダール独裁政権などが1960年代から1980年代にかけて著しい経済復興を見せる結果となっている。
     これらの軍事独裁・開発独裁政権を指す政治的概念としては、19世紀の内海地域における思想家ステファノ・ゴムウカによる「ヴィジャグラーメとは沼に埋められた若木の群れである。若木の誰もが根を張らない事には、樹上の家はたちどころに傾く」「根を張らせるのは槌でもない、釘でもない。苗木自身の言葉に他ならない」と言う発言に代表されるように古くから存在した。人民主権思想の確かな萌芽に対し既存のパワー*427が極めて脅威となることは18世紀の思想家レープスツ・ヴェーナと『アルカンジュ正典/偽書』論争に詳しい限りであるが、これをより体系だったものとしたのは19世紀末期のジョゴルワ1月革命からグラス革命に到る1870-80年代ごろの事である*428。本来人民主権思想の対立軸として構成されたはずの恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)が逆に高い評価を受ける結果となってしまったのは、1970-80年代にかけての内海地域*429における政情不安定化とコーペサフト連盟共和国および
     パワーに裏付けられた支配体制を指す権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)とパワーを振るうことで支配体制を確立させる恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)とは極めて隣接した概念であるが故の密接な関係性を持ち、現代では厳密にこれらの二つが区別されることは少ない*430

その他

  • マムルーク
     小姓などを合わせた複合的な意味の風習。実のところ時代によって変遷している語彙であり、現代とトーラ帝国時代では大きく範囲が異なる。トーラ帝国時代においてマムルークとは子飼いの商人や小作人、使用人などを合わせた複合的な語義であったが、現在では軍閥私兵(カプクル)の将校や官僚を指す*431
     また基本的に自由人(フッル)であるマムルークとは異なり、トーラ帝国時代には奴隷(ラキーク)も存在した。これらは中世期トーラ王国時代からトーラ帝国時代を通じて存在し続けたものの*432*433*434、18世紀時点ですでにトーラ宮廷における一部役職のみ*435に用いられている以外は殆どマムルークと同一の存在となっていた。この後1912年の青年トーラ政変において法的に禁止されたものの、直後の軍閥時代開始に伴い奴隷禁止法の徹底がなされることは無かった*436。これは軍閥時代が終わった1950年ごろ以降も継続しており、1960年代の南西トーラサズ戦争において奴隷兵が動員された例も存在した*437。最終的に奴隷の文化は1990年代にハヴズニア・トーラ軍閥当主コペク・ハヴズが領内の非合法奴隷商人を摘発し奴隷の一斉解放を行ったことで明確に下火になったとされる。しかし現在でもグランダ地域では貧困から身を売り奴隷となっているグランダ人もいるようだ。
     なお現在では既に存在しない風習であるが、トーラ帝国時代までは小姓(グラーム)という風習があった。これは貴族の子弟が年少時にマムルークないし奴隷(ラキーク)の子女と共に育てられるというもので、場合によっては乳母と共に召し抱えられた乳飲み子*438も該当した。小姓(グラーム)に該当する者は皇族や貴族の子弟と共に暗し、同じ勉学をして過ごす。この結果一種の幼馴染を超えた絆が生まれる者であるとされ、中世期トーラ王国時代から小姓出身の武将や政治家と主君との関係性に関連して複数の問題が発生したこともあった*439*440、普通は貴族の子弟にとっての良き同胞にして同学であり同時に良き家臣となる事を期待してこのような地位に置かれるものであるが、貴族の子弟が何らかの非行を働いたとき代わりに罰される役割も有する。これによって貴族の子弟がより良い方向性に向かうことを強制しつつ信頼のおける臣下にして戦友を先んじて作らせるという伝統であった。残念ながら軍閥時代において殆どの貴族的風習が壊滅的被害を負ってしまった*441ため現在は小説や戯劇の中でしか存在しない。
  • バッチャ・バーズィ
     年少娼婦の事。男女ともに可能であり、女装することが必須。踊り子を名目としていることが多い。

*1 事実上ジュリデ・ハラヴニア軍閥制圧下
*2 後のチェナ県
*3 ソン・バリクチュニア軍閥軍政下
*4 トーラ語ではクリスタィ地方、SENTOではチュシェル藩王国西部占領地区ならびにキッシャーン藩王国西部占領地区と呼ばれる
*5 後のティティ県
*6 後のキャグパ県
*7 後のツォトゥ県
*8 ロサン・ドゥプニア軍閥
*9 アナヤスィ・シフィクはこの後1980年代ごろまでずっと存在するが、一応大棟梁になった人物であるため名をを用いる
*10 東部軍閥、西部軍閥共に大トーラサズ連邦の後継国家を主張したため、国際的にはSTC、PUと呼称される
*11 例としてアナヤスィ・シフィク政権では対外穏健・対内調停をモットーとするが、ムスタファ・セースィズリク政権では対外的経済侵略・対内経済拡張、シャキーブ・イノニュでは対外的軍事侵略・対内強権的中央集権化がモットーになる
*12 無茶苦茶強権的な大統領
*13 2020年時点での政権は下記
*14 元トーラ帝国クチュク州総督→クチュク州選出議員→アトラマ・ミスル駐屯歩兵大隊長→アトラマ・ミスル市長→クチュク連隊司令官→クチュク労農銀行名誉頭取→ペルテフ・ハリムニア軍閥政務顧問官→ムハーフスニア・トーラ軍閥第4方面軍歩兵師団参謀→ムハーフスニア・トーラ軍閥第4方面軍副参謀長→ムハーフス・トーラ軍閥第1方面軍親衛砲兵師団長→バイラクタル・トーラ軍閥主席政務顧問→バイラクタル・トーラ軍閥内務行政統括官→アナヤスィ・シフィクニア軍閥当主→現在
*15 最多数党派の代表者にして議長という地位しかない
*16 クスラク州選出議員。元クスラク州軍の歩兵連隊長。高級将校には珍しく極めて厳しい教育的指導を行っていたが、南西トーラサズ戦争で負傷したため退役。ハラヴニア・トーラ軍閥の後援を受けて議員に選出された
*17 無茶苦茶権力が弱い首相。行政府の長という地位しかない
*18 トーラ信仰の神官。軍閥時代にはトーラ信仰を基盤とした軍閥を形成していた
*19 在外国民の管理や出入国や外交を担当する外務大臣
*20 元貿易商人。カルダ州の貿易路を通じて北西トーラサズ地域との貿易を行っていた
*21 産業や公共事業を担当するいわゆるところの軍需大臣
*22 ドルダン・ハーキミイェト州内の大手ゼネコンの重役
*23 財政と戸籍、地方行政を担当する内務大臣
*24 “風読みの”アナヤスィの腹心の一人。潔癖症で自分の仕事に手を加えられることを極めて嫌う人物であった
*25 秘密警察の長官
*26 元戸部卿。有能な財務官僚であり、1940年代を通じて第1次世界大恐慌の被害から立ち直して国家の発展に寄与した偉人であるが、実家のオゼル家がPUへ亡命したことでスパイ容疑を疑われ閑職に追いやられた
*27 陸軍をはじめ各軍を統括する軍務大臣
*28 ハヴズニア・トーラ軍閥傘下の将軍。予備役大将。色んな書類のつじつまを合わせるのが得意
*29 陸海軍の統括参謀総長
*30 海軍大将。元STC海軍バリーシ艦隊司令長官。非コルサン派の海軍将校であり、南西トーラサズ戦争ではバリーシ湾内における複数の艦隊戦を指揮した
*31 だいたい参謀総長。中央としているのは各軍閥にも存在するため
*32 陸軍大将。元トルソニア・トーラ軍閥の将軍。反オル・アト軍閥的であるという理由から抜擢された
*33 だいたい教育総監
*34 陸軍大将。軍閥時代にはとある軍閥に属し一つの大きな戦果を挙げたもののその功名を隠して別のものに与えていたいたという清廉な人物
*35 だいたい軍令部長。中央としているのは各軍閥にも存在するため
*36 海軍大将。元オル・アト軍閥水軍司令官。殆ど名目的な職であり実務は次長の“演義の”ジェマル・デンクタジュ海軍中将が行っている
*37 だいたい自衛艦隊司令官。常備の連合艦隊も保持する
*38 海軍中将。元コルサニア・トーラ軍閥自衛水軍第3艦隊司令長官
*39 海軍省外局とかそこら辺を全部纏めたもの
*40 海軍中将。元STC海軍第1艦隊司令官。南西トーラサズ戦争中、クルマク島を陥落させるため攻勢を仕掛けるものの敵艦隊に発見され撤退。更に追撃してきたドランガ鎮守府の敵艦隊に対し応戦せず陸上砲兵などによる砲撃も併せて何とか撃退に成功したため、敗北主義的であるとみなされ閑職に追いやられた
*41 だいたい航空総隊司令官。航空部隊の最高司令官
*42 陸軍中将。元中央陸軍航空学校校長。近接航空支援を用いた全縦深的攻撃ドクトリンを考案し、教え子たちは南西トーラサズ戦争において大いに活躍した
*43 だいたいトルコ語
*44 1967年以前はクルシュ
*45 オン・トトゥマルクの10分の1の価値を持つ補助通貨
*46 1967年以前はアクチェ
*47 1970年代
*48 2020年
*49 歌詞の冒頭から、一般的には「立てトーラの青年よ」と呼ばれる
*50 とはいえ名目上のものであり、基本的には人口の9割以上が信仰するトーラ信仰が事実上の国教である
*51 そのさなかゲラノド諸派やトーラ皇帝復権派が争った。前者は1928年までの護国戦争を通じて消滅、後者はトーラ帝政継承戦争と呼ばれ、ハヴズ・トーラ家の後援に立ったアナヤスィ・シフィクが最終的な統一政権を樹立した事によって終結した
*52 オル・アトニア軍閥やコルサニア・トーラ軍閥を主力とするグランダ侵攻が発生したのも、オル・アトニア軍閥によるクリスタィ地方侵攻が発生したのも、基本的には彼ら軍閥勢力の利益拡大に対し中央の側から追認の姿勢を示していたためである。結果グランダ王国は滅亡し、SENTOとSTCの間では10年近くに渡る長期的国境紛争が引き起こされることとなった
*53 なおクリスタィ問題は未だ解決しておらず、1995年前後には残されたチュシェル藩王国東部地域を求め再度侵攻。これを完全に占領している
*54 一般的に大開拓政策と呼ばれる。この政策はグランダ半島に数千万人以上の人口流入を招き、余剰労働力にモノを言わせたインフラ開拓や工業化によってグランダ地方自体の近代化は進んでいったものの大量に増えた入植者による治安の悪化をはじめとして入植者がグランダ人の土地や古くからの寺院の所有物などを略奪するような光景も見られた
*55 ティルキ・ハリチュは西部の港湾や鉄道網の開拓による大東洋に対する農作物輸出などノティラレ的政策を、トゥッジャール・コルサンは水運業の活性化によりドランガ半島から大東洋への航路を啓開する事でドランガ半島の産業活性化を目論んでいた
*56 1960年代前半、大東洋方面への海運重視に代替する形でこれまでの伝統的な海賊的手段を放棄する事を宣言した“商人の”トゥッジャール・コルサンの家督継承に対し、“勇猛なる”プラジュ・コルサンら保守派は反対意見を表明し家督継承を妨害。その他親戚筋やSTC政府からの支援などなどが絡まっていく事でコルサニア・トーラ軍閥の行く末を巡るお家騒動を引き起こしていた。結果的に敗北したプラジュ・コルサンは新開拓地のグランダ半島ギャツォ州に左遷されたが、同地方を中心に軍閥を形成して南西トーラサズ戦争開戦直後STCへ帰属しSTCの海軍戦力の大きな割合を担っている
*57 この要塞線は国境要塞と呼ばれており、現在では片側100km程度の縦深を持った塹壕線と砲撃陣地が築かれている。これは両軍の155mm自走榴弾砲の凡その最大射程に匹敵しており、その間にも50年近くかけて築かれた地下壕陣地や連絡壕の群れが広がっているらしい
*58 2020年代における国境要塞のSTC側防衛司令官は“蜘網の”タナイディン・ヤルチン中将、PU側防衛司令官は“墓堀り”リヤート・ベヘシュテ中将。その他突破されたときのための火消し部隊などが存在するなど、国境部の軍事的緊張は続いている
*59 軍機処は建国初期からポスト自体は存在したが、権力が弱くまた腐敗と汚職の蔓延に伴い機能していなかった
*60 この時育った若手官僚たちはイェニ・マンスレーイ派、新軍閥と呼ばれる
*61 当時そもそも守旧派=アーヤーン派が多く残っていた
*62 総参謀部付部隊=カラルギャフと呼ばれ、数個師団を基幹とする陸軍兵力の他機動部隊など海軍兵力や航空隊、ならびに長距離砲やミサイルなどを有する統合軍のモデルケースであった。後にシャキーブ・イノニュが自分子飼いの官僚であるメフテルハーネ派や軍・治安部隊出身政治家のシラフチュを優遇し始めてからは、イェニ・マンスレーイ派の牙城として存続する
*63 PU側はドルダン・ハーキミイェト当局或いはドルダン・ハーキミイェト評議会偽政府と呼ぶ
*64 STC側はヴィシェノール当局或いはヴィシェノール評議会偽政府と呼ぶ
*65 トーラ帝国時代にはトーラ皇帝=軍旗とトーラ信仰=律法が同一であるとの考えからタウラー・サンジャーク主義と呼ばれていた。なお、現在でのトーラ信仰主流派もまたタウラー・サンジャーク派と呼ばれる事もある
*66 本来はドランガ地域のみであったが、1950年代以降はグランダ民族も含めた沿バリーシ民族とされた
*67 サラトレア人の事を指す
*68 およびクリスタィ地方の占領地域が存在。ここには州知事はおらず、オル・アトニア軍閥東部戦区司令官ソン・バリクチュ陸軍中将が軍政を行っている
*69 州軍・県軍は部分的に国軍との極めて密接な連携がなされるようになっており、予算や装備の面で極めて優遇される
*70 具体的には自治体首長が交代する場合、地方議会から特定の人物(当然選挙の結果決定された人物を想定していた)に対する推薦を行うことが出来る
*71 実際には“手読みの”ジュリデ・ハラーヴェが官僚レベルから操っており、事実上ジュリデ・ハラヴニア軍閥であると言える
*72 1990年代以降はアルトゥン・サンジャーク政府派に
*73 ジャン・チョプロチュの子飼いの将軍。1983年ごろシュエ・チョプロチュと対立し粛清される
*74 1990年代以降はアルトゥン・サンジャーク政府派に
*75 偽名
*76 1980年ごろ以降はジャン・チョプロチュニア軍閥派に。その後はアルトゥン・サンジャーク政府派に移行する
*77 実際に行政を行っているのは子飼いの官僚ホワン・クヴェチュリ
*78 ソン・バリクチュ子飼いの軍人。軍政家
*79 現在では特別市として2名の議員輩出の権利を保持している
*80 現在では特別市として2名の議員輩出の権利を保持している
*81 厳密には行政所在地
*82 本来はトンゴロル盟行政長官であるが、便宜上州知事と記載
*83 本来はオール旗行政長官であるが、便宜上県知事と記載
*84 本来はチノ・オボク盟行政長官であるが、便宜上州知事と記載
*85 州級県ではないため議員を輩出する事はない
*86 青年トーラ政変は通常のゲラノド革命と異なり「禅譲」と呼ばれる形で体制が変更されたため、それまでトーラ皇帝が保持していた権威である黄金の旗が国家元首である統一委員会委員長(1915年以後は大棟梁)に譲り渡された。そのためある意味皇帝的な権威を大棟梁が保持していることとなる
*87 対外的にはSTC
*88 とはいえ軍閥が国軍内部にまで拡がっている以上殆ど名目的なものであり、統帥権の行使には多分な政治的障壁をクリアしなければならない
*89 一般的に国軍或いはSTC軍と呼ばれている兵力は軍閥私兵を除いたすべての正規軍であるがその中でも大棟梁に従属する部隊は更に少なく、狭義の国軍はこの大棟梁に従属する軍部隊の事を指す
*90 外務大臣にあたる僑務卿が条約の擦り合わせを行い、
*91 1971年以降は「保衛院(コルマス)」、2000年以降は「総参謀部付部隊(カラルギャフ)」も追加
*92 ならびに保衛院は「国境の警備」、総参謀部付部隊は「軍・警察・国境警備隊その他の統括と戦略予備の運用」
*93 1915年に発生したクーデター事件。すぐ鎮圧されたが政治的混乱は大きかった
*94 1924年に発生したクーデター事件。ゲラノド派の武装蜂起により元皇帝他が死亡し、その混乱に付け込んで“風読みの”アナヤスィが首都を制圧した
*95 一説には彼がアルトゥン・クーデターを企図し裏から糸を引いていたのではないかとも言われる
*96 大棟梁が再選しまくるせいで政治的意図をもって政党を保持する出来ないからである
*97 2000年代以降は民間政党用に都市議席が与えられる
*98 政治結社の一種。ブグダイ・ヒサールを中心に存在する国粋的政党
*99 政治結社の一種。ギャツォ州の水産加工会社が支持母体
*100 政治結社の一種。アルトゥン・カレを中心に都市生活者の生活を保証する事を目的としている
*101 吏、戸、礼、兵、刑、工部
*102 特別・臨時委員会も含む
*103 教育・倫理の類
*104 東詞に直訳すれば高き門。元々トーラ帝国時代の大宰相公邸を指す言葉であり、翻って内閣や大棟梁の側近の事を指すようになっている
*105 同義語にクベアルチュと言う言葉も存在。これは元々トーラ帝国時代の大宰相府が存在した地域一帯を指す言葉であり、翻ってSTC・PU首脳部を意味する
*106 元軍機処第1総局局員。 サフチシェク大学卒、カラヴァン州副知事、スヴァーリ・ヒサール市長などを歴任
*107 所謂武闘派の意。軍・治安維持機関出身の政治家を指す
*108 ドルダン・ハーキミイェト州選出議員。元ドルダン・ハーキミイェト州軍第1師団長。予備役少将
*109 カイサリーヤ州選出議員。カラヴァン州西部要塞防衛集団軍独立砲兵旅団副旅団長。予備役大佐
*110 元カイサリーヤ州知事。大学時代は“霜踏み”シャキーブと同じ経済学ゼミに居た
*111 “霜踏み”シャキーブと近しいもののシラフチュでもメフテルハーネ派でもないものの事。“霜踏み”(“カルダアディム”)から。
*112 元トーラ中央銀行副総裁。反腐敗の鬼として名高く、“霜踏み”シャキーブの腹心の一人
*113 元ドルダン・ハーキミイェト州選出議員。“トーラ市民の会”の会員であり、農民工問題の解決を目指している
*114 “トーラ市民の会”とその政策賛同者のこと
*115 トーラ神官。ナシーヴ派に近いものの穏健な宗教教育を行おうと画策しているらしい
*116 “霜踏み”シャキーブと同郷の政治家層のこと。能力で取り立てられたカルダアディム派などに比べると多少勢力が弱い
*117 元カルマ州軍参謀総長。予備役大将
*118 厳密にはジュリデ・ハラーヴェ派の息がかかっている
*119 トーラ神官。トーラ労農党光復派の流れを汲む神官であり、結構な政治参加が認められるイデオローグ
*120 数学者。アルトゥン大学理工学部出身のテクノクラート
*121 元駐ジョゴルワ大使。プトラ地方も含めて複数の言語を習得しているらしく、大使館の都合上軍機処との関わりも深い
*122 元戸部官僚。アバ・ブルクの腹心とも言える人物で、結構な穏健ゲラノド主義者
*123 元主計局官僚。金融工学出身のテクノクラート
*124 元新聞局官僚。トーラ経済新聞の創設者の息子とは学友
*125 元刑部官僚。メフテルハーネ派であった前任の“栂の”レイハン・イスレルが粛清された後代わりに任命された
*126 元都察軍外アンゴルモア管区軍務局職員(動員課)。中央陸軍士官学校を出た軍人上がりの士官。予備役中佐
*127 元理藩院次官。“彷徨える”ベルカンと同じく結構な汚職官僚
*128 元カルマ州警察長官
*129 ジュリデ・ハラーヴェ派との関連が極めて強い
*130 陸軍大将。元レポーラ軍区総参謀長。メフテルハーネ派を裏切って“霜踏み”シャキーブに付いている
*131 軍部の統制を守ろうとする派閥。親中央将校が中心
*132 陸軍大将。元トンゴロル集団軍軍長。シュエ・チョプロチュニア軍閥の元最高司令官であるが、事実上名誉職に追いやられている
*133 陸軍大将。元オル・アトニア軍閥西部戦区参謀長。ポストを巡って結構な政治抗争があった
*134 陸軍大将。元総参謀部戦略砲兵部司令官
*135 2000年代初期まで“臥龍の”ムスタファが育てていた平民出身の非軍閥系将校・政治家たちの総称。現在は“霜踏み”シャキーブのシラフチュやカルダアディム派に押されて勢力が減退している
*136 海軍大将。元艦隊総軍護衛隊群司令官。スベ・コルサニア軍閥の手の者。更に前は中央海軍対潜学校校長であった
*137 海軍大将。元スベ・コルサニア軍閥自衛水軍第1艦隊司令長官。軍閥系の海軍将校であり、“地獄耳”フェズィと合わせて軍の極めて重要な地位を維持している
*138 海軍大将。元総参謀部艦艇部司令長官
*139 陸軍大将。元陸軍航空総軍参謀長。爆撃機運用のプロ
*140 トーラでは軍閥や人脈の結びつきが極めて広く、軍および州軍はおろか官僚機構、金融機関、生産施設および各種民需企業など広範囲にわたる。これは血縁でも地縁でも或いは金脈や女性関係であっても結びつきが発生するためである。これによって東詞に翻訳する際の的確な言葉が派閥或いは党派しか存在しなかったためそのように記載
*141 トーラにおいて純粋な意味での政党や政治結社および政治的派閥というものは存在せず、地縁や血縁や金脈などありとあらゆる手段で連帯を保持することによる極めてカリスマ的支配の要素の強い集まりのみが存在している
*142 トーラ帝国末期の政治結社。憂国の青年将校や若手官僚らがこれに参加した
*143 トーラ労農党の各派閥など
*144 詳細な分派数は不明なるも20以上の分派が存在したと言われる
*145 この時代の太傅衆(アタベク)と新軍閥との世代間抗争は極めて深刻なものとなり、アタベクの一人でもあったコペク・ハヴズが新軍閥を盛り上げなければ現在でもシュエ・チョプロチュらはアタベク派に属していたと言われる
*146 実のところ本当にあったものかどうかは不明である
*147 特にスベ・コルサニア軍閥直属の私兵である自衛水軍から出向してきた将校や艦艇が多かった
*148 前コルサニア・トーラ軍閥当主。お家騒動の後はSTCに帰属
*149 厳密には名目上、刑部は裁判所における人事や予算管理などの司法行政を担うのみで司法の独立性は保たれるという
*150 県長官を意味する語彙でもあり、高位のトーラ神官を意味する言葉でもある。これはトーラ帝国当時、県長官でもあった巡撫の聖職官僚が通常司法を担当することが多かったためであり、現在では司法の方をアダーレト・ハキーム、神官の方をラヒップ・ハキーム、行政長官の方をヨネトゥム・ハキームと呼び表している。なおこれらはしばしばハキームを失う形で略されることが多い
*151 トーラ信仰の教義的に本来宗教司法上の最高裁判官は存在せず神官は全ての判例適用に対し同一の権利を持ったうえで存在するのであるが、判例適用や新しい解釈の追加およびファトワーの布告などの各方面においてトーラ帝国時代最も他の神官に対し優越させることが出来るだけの権力を持っていた神官はシェイヒュルであるタバゥルカ家のみであった。そのため宗教司法の長は現在でもシェイヒュルと呼びあらわされるものの、タバゥルカ家が既に崩壊しシェイヒュルの称号も失われているものであるから事実上宗教司法の長は存在しえない
*152 政治犯に対する裁判
*153 憲法とは言っているが、実質的には大棟梁令や各法令を含む対行政訴訟を担当する
*154 特に国家控訴院においては控訴棄却されることが多いため
*155 上述の通り、国家控訴院においては控訴棄却されることが多い
*156 ただしトーラの律法に従った罰則を無視する事は、死後の消滅が約束されることともなる。気をつけよう
*157 上述の通り、現在宗教司法の長はアッラーフと伝えられたタウラー以外に存在しないためである。全ての神官がともに最高の司法権を持つのであれば、再審が行われる余地はない
*158 代官のこと
*159 厳密にはその役人たちも
*160 これは州級県も含む
*161 面積が大きいものはゼアメト、それ以外はティマールと呼ぶが、無視してよい
*162 大きさや用途によって名称が分かれる。首都であるアルトゥン市のみがカレと、州都や州内でも極めて巨大な都市や軍都がヒサールと、県都や規模の小さい都市などがシェヒルと、郡の中心地がカサヴァと、郷や町村の中心地は全てクルサールと呼称する
*163 また伝統的に軍事的用途によって作られた要塞都市をミスルと呼ぶことがある
*164 州級県長官の場合敬称としてはヴァリを用いる
*165 郡行政庁もこのように呼ぶ
*166 各行政庁もティマリオトと呼ぶ
*167 トーラ帝国時代はティマリオトと封建騎士を意味するスィパーヒーは同一であったため、ティマリオトはあくまで文官としての呼び方であった
*168 長いトーラ帝国の安寧の中で彼らは殆どティマリオトと呼ばれ続けたためいずれ騎士を意味するスィパーヒーは失われ、“ティマール=徴税権を持つ者”を意味するティマリオトと言う言葉だけが残ったとされる
*169 総督に付き従い秘書や護衛として運用される者をギョズ、郡や県へ向かいハキームやムタッサリフの代わりに行政を代行する者をクラックと呼ぶ
*170 一説にはこれによって構成される郡県制を元々ミュテッセリムと呼んでおり、それが(中央から派遣された)地方自治体の長という意味合いに変わったのだとされる
*171 例として総督は世襲で継承され、巡撫は基本的に総督によって推薦されたものを追認することが慣例となっていた
*172 オル・アトニア軍閥およびコルサニア・トーラ軍閥によるグランダ王国侵攻。レポーラ盆地を越えた新天地の開拓は東部軍閥の勢力が拡大する大きな一因となり、後の南西トーラサズ戦争の遠因に発展する
*173 オル・アトニア軍閥によるチュシェル藩王国への内政干渉および軍事侵攻。チェンポパ国家であるチュシェル藩王国はトーラ帝国時代から朝貢圏の一員であったが、同時にコリンズ帝国へ臣従し尚且つ三光植民地帝国からの駐在官を受け入れ、なおかつチェンポパ国家同士の交流に伴うグランダ王国および西コリンズ諸藩王国との連帯の機運が知識人層に膾炙した極めて政治的に危うい立場であった。19世紀中盤から20世紀初頭にかけては西コリンズ諸藩王国と共にSENTOに加盟し青年トーラ政変の後は朝貢圏から離脱したものの1920-30年代にかけての動乱に伴い藩王国の主権を殆どコリンズ連邦に移管したことで域内の反コリンズ感情が高まっていた
*174 オル・アトニア軍閥はチュシェル地域(トーラ語ではクリスタィ地域)の鉱山利権を狙い、チェンポパの一宗派であるズィプル派の指導者ガチェン・リンポチェの転生問題に干渉。対立リンポチェを掲げてチュシェル藩王国内に侵攻しその国土の半分程度を勢力下においた。なお、残りの半分は1990年代後半に再び発生した第2次チュシェル紛争において制圧している
*175 南西トーラサズ戦争中に発生したアンゴルモアとの国境紛争。アルトゥン・サンジャーク政府中央の意向は多分にあったとはいえ、外アンゴルモアにおける軍閥の要請によってアンゴルモア東部およびジョゴルワ南部のオィ・ディデン山の制圧を目論み軍事紛争を引き起こした
*176 当時硝子戦争で大きく勢力を減退させていたジョゴルワの混乱に乗じて、同じく当時親ジョゴルワ政権であったアンゴルモアからの領土簒奪を狙ったものであったがノイ・ベルーサの戦闘においてグラス・ゲラノド連邦軍の敗北が始まったためそこまで大規模な紛争には発展しなかった
*177 1964年の第2次世界大恐慌を受けて発生した大量の失業者を、大規模なダメージを受けた貿易産業に従事させるため西部のヒストラマー地域に派遣するかそれとも農業および基礎インフラの施工のため東部のグランダ地域に派遣するかというアルトゥン・サンジャーク政府中央内部での論争。西方派遣案では“秩序の”ムズラク・カラを始めとする西部軍閥が、東方派遣案ではオル・アトを始めとする東部軍閥がそれぞれの利益の為にこれらの事業を推進していた
*178 最終的に大棟梁である“風読みの”アナヤスィ・シフィクが東部軍閥側のグランダ開拓を承認したため、議論は終結。東部グランダ開拓地(タン・グランダ)に大量の失業者が棄民され、グランダ半島の文化財の大規模な破損や西部ヒストラマー地域の荒廃などが進んだ
*179 この決断に不満を持った西部軍閥が“秩序の”ムズラク・カラを担ぎ上げ、STCからの独立を図ったのが南西トーラサズ戦争である
*180 2000年代に“臥龍の”ムスタファ・セースィズリク政権において発表された新外交政策
*181 2005年のコーペシャフト崩壊と同時期のSENTOソブリン危機によりダメージを受けた国内産業を無視して行われつつあった資本の国外流出を槍玉に、北方シフト政策は大きく批判された。事実北方シフト政策によってコーペシャフト国内に拡大したSTC系企業はコーペシャフト国内の治安悪化に伴い軒並み大ダメージを受けており、これ以上の政策継続はSTCの国内資本をやみくもに流出させ赤字を生むだけであると予測されていた。これによって“臥龍の”ムスタファ政権において極めて重要な役目を果たしていたジャオ・モールギュネシが失脚し、同時に兵部卿“女衒の”バッシャール・チャブシオールによる急進的な軍制改革への反発から彼のスキャンダルが大きく批判された事によって“臥龍の”ムスタファ政権は退陣に追い込まれた
*182 3個戦車中隊、2個自走砲中隊を保有する
*183 自走榴弾砲のみならず、多薬室砲による沿岸防衛部隊も含まれる
*184 列車砲である
*185 戦略的運用が目的の長距離多薬室砲などである。射程距離は最初期の事例でも1000kmを超え、南西トーラサズ戦争では両国が両陣営の首都に向けて砲撃を繰り返すなど熾烈な大陸間砲撃戦が見られた
*186 ここでは分隊支援火器を指す
*187 基本的には国軍のみを指す。軍閥私兵は除くが、軍閥指揮下の国軍部隊は含む
*188 軍長は大将
*189 ドルダン・ハーキミイェト州に衛戍する部隊。事実上の中央政府軍であり、国軍の中でも最有力の派閥
*190 2020年時点の軍長は“紫煙の”アティッラ・カシーム
*191 歩兵中隊4+火力支援中隊2+本部中隊付重火器小隊群(対戦車・狙撃砲・迫撃砲2個小隊から構成される)
*192 本部中隊付重火器小隊群は中MAT6基を有する対戦車小隊、中迫撃砲3門×2個小隊を有する2個迫撃砲小隊に加え狙撃砲小隊として105mm無反動砲8門を有する
*193 火力支援中隊は105mm歩兵砲6門を有する歩兵砲中隊1を基幹とし中迫3門と重機関銃6丁を装備する増強中隊規模である
*194 4個小隊で編成。軽量の短砲身155mm砲12門を保持する
*195 対戦車ミサイルなどを保持する
*196 トーラ圏以外では重迫撃砲と呼ばれるであろう120mm迫撃砲のこと
*197 3門1個小隊を4つで12門を保持
*198 240mm自走迫撃砲のこと
*199 2両1個小隊を4つで8両を保持
*200 155mm榴弾砲6門を有する砲兵中隊を4つ、対戦車中隊を1つ保持する
*201 13両の125mm自走対戦車砲を有する
*202 自走対空砲4両、近距離対空ミサイル車両4両を有する
*203 トーラにおいて自走砲と戦車の明確な違いは少ない。そのためあくまで「明確な対戦車戦を目的とした部隊か」で記載している
*204 軍長は中将
*205 カルダ州に衛戍する部隊。実質的にジュリデ・ハラーヴェの支配下にある
*206 2020年時点の軍長はアブドゥルムタッラブ・タタログル
*207 軍長は中将
*208 カラヴァン州に衛戍する部隊のうちの一つ。事実上要塞防衛に従事する砲兵部隊
*209 2020年時点の軍長は“長腕の”リョウ・ベクマンベトフ
*210 多連装ロケット砲9門
*211 軍長は中将
*212 カラヴァン州に衛戍する部隊。要塞専属の部隊である
*213 要塞を恒常的に保持する必要があるため別途西部要塞衛戍集団が存在する。これの軍長は中将が任ぜられるが、指揮権は西部要塞集団軍の軍長に劣る
*214 西部要塞集団軍の軍長は“煌めきの”ネジェム・セイフェディン。西部要塞衛戍集団の軍長は“にやけ面”イスマーイール・オルタキョイ
*215 軍長は中将
*216 ドルダン・ハーキミイェト州に衛戍する部隊。国境要塞に対する火消し部隊として運用されるほか、レポーラ盆地を挟んだ東側の各軍閥に対する攻撃も担当する
*217 2020年時点の軍長はセリム・デルデュンジュ
*218 騎兵科部隊のうち、1990年代以降のSTC軍内改革によって成立した戦車戦を前提とする部隊
*219 155mm砲ないし155mmガンランチャーを搭載した主力戦車部隊
*220 各歩兵中隊内の小銃分隊を歩兵戦闘車に乗せ換えた編成、小銃手7名が4名に削減されているかわりに105mm低圧砲と30mm機関砲を装備した歩兵戦闘車1両を1個小銃分隊に保持する
*221 国家安全保障問題戦術行動局のトーラ語の頭文字を取ったもの
*222 退役参謀軍人会の略
*223 とはいえ1960年代の高校卒業率は60%以上、2020年時点での高校卒業率は95%を超え、大学進学率は60%近くとそれなりである
*224 国軍のみならず州軍のそれもある。当然ながら州軍のそれは各地の軍閥の将校育成機関となっている
*225 その他各種軍学校を一応記載すると、中央陸大2年、中央砲科学校2年、中央航士学校2年、中央戦車学校2年など基本的に2年間の将校教育である
*226 なお空挺・遊撃兵や狙撃兵や工兵通信兵輜重兵その他に属する特技兵を育成する中央特技学校では1年程度の訓練期間を設けられている。これは一種の下士官的教育であるということも相まっており、下士官教育を担当する中央陸軍教導学校と概ね同一の期間である。中央特技学校を卒業後は伍長勤務上等兵に昇任し、比較的早期に下士官に繰り上げられる場合が多い
*227 例としてある女子生徒はSENTOとの戦時中、比較的最前線に近いコルサニア・トーラ軍閥の軍学校に入学。2027年4月に幼年学校へ入校した後、1年短縮された3年後の2030年3月に幼年学校を卒業。1か月後の4月に予備士官学校に入校した後、2年でこれを卒業。半年間の部隊配属を経た後、2032年10月に士官学校へ入校し、僅か1年でこれを卒業した
*228 全てのものは輪廻するという教義を唱える宗教。グランダをはじめ隣国SENTOのサクァスなど複数地域で信仰されている
*229 トンゴロル盟、オール旗、チノ・オボク盟の3州を指す
*230 内アンゴルモア地域ではチョウヲ派、サムシェ派と呼ばれるチェンポパの宗派が存在する
*231 民族主義者が基本的にチェンポパを崇拝しておりグランダやアンゴルモア地域における民族的アイデンティティになっているという事情は別としても、グランダ王国時代のチェンポパ政策によりチェンポパ寺院は殆ど独立した寺領が存在したという歴史的経緯からこれら寺院には武装や資金がため込まれやすく民族主義者の資金源となっているという問題、寺領や資金や人材を最初から保持し続けている都合上チェンポパ寺院自体が一つの大きな民間権力として地方統治を妨害しているという問題、そして武僧(ドゥオド)と呼ばれる武装した聖職者階級の存在が明確に伝統化されて存在する以上国内治安上の問題が極めて大きくまた武僧に訓練された民族主義者また武僧個人が直接が民族主義的組織の戦闘員になるという問題の大きく3つが存在する
*232 一例としてゴンカ派の武僧が基幹となってタン・グランダ政務委員会の直下に編成された第1機械化山岳兵師団、同じくズィプル派の武僧を強制的に徴兵することでソン・バリクチュが編成した第2機械化山岳兵師団、そして自身に親和的なカギャ派の武僧を治安維持組織として再利用しノロー民族組織を弾圧するように仕向けたロサン・ドゥプニア軍閥のンガワン・ジグメ・ギャルポ特別任務民警師団などが存在する
*233 2023年以降はスベ・コルサニア軍閥のノロー内戦介入に伴い現地徴兵した武僧たちによる第3機械化山岳兵師団が編成されている
*234 そもそも1959年から現在まで継続しているチュシェル紛争の発端は、SENTO加盟国の一つであるチュシェル藩王国の国民の中において多数派を占めるズィプル派のガチェン・リンポチェ8世の継承に対してソン・バリクチュらが軍事介入したことである
*235 2020年現在、カンギュル派の門主であるギャロ・リンポチェ4世に対立リンポチェを立てられることで勢力が事実上分裂している。また御年114歳を数えるゴンカ派の大長老、サムトゥン・リンポチェ10世の寿命ももはや近いとされており、グランダ地域における圧倒的多数派とは言えないものの少なからぬ信徒数を数えるゴンカ派の分裂はグランダ半島のみならずノロー王国においても致命的な混乱を引き起こすと想定される
*236 ウラマーと呼ばれる
*237 厳密な意味合いとしては三光教会のような“指導”より“先達”の方が正しい
*238 モスク、或いはジャミィと呼ばれる
*239 亜:Wissenschaft,ヴィゼンシャフト
*240 アーク語においてWissenschaftと言うと通常「体系化された知識集合」即ち科学という意味になるため、混同には十分注意する必要がある
*241 聖職者や法学者を中心とした知識人同士の知見交流をベースとして所謂学派を血縁関係のように捉えなおすことにより、知識人の間の一種の学派という形をよりゲマインシャフト的=前近代的共同体としての権威化・固定化がなされた姿として緩やかかつ分断的な共同体構築が図られた姿の事。その特性上ゲゼルシャフト的=近代的機能共同体としての離散のしやすさが存在する上近代以前の未発達な通信・移動手段という技術的障壁を考慮した結果地縁や血縁に頼り広がらざるを得ないというゲマインシャフト的な側面が存在してしまうことから近年においては両者の間の過渡期的な共同体構築と見なされ一般的かつ普遍的な共同体として見られているわけではないが、一種の学会(注:ここでは近世期以降の専門的理論科学者集団としての集まりを指す)やサロンがこれにあたる他、近代科学的な論文査読と引用文献の明示という手法は智縁共同体の中の風習を元にしたものであると説明されることが多い
*242 厳密には階級として明確化するべきではないが便宜上このように示す
*243 少なくとも中世期以前の知識人階級が高度な教育を受けられうるという意味合いで固定化された階級として存在している以上(注:これは評議会ゲラノド主義的な史観であり議論の余地が残る)、トーラ信仰においても神官の権威保持的意味合いも含めたうえで階級とすることが正しいと思われるが、トーラ信仰において神官はハーフィズ(注:聖典を暗唱できるもの、という意味)という一般名詞が存在するように、知識人としての高度教育の有無および高度な思考力の保持よりも聖典自体を周囲に広め適切な法判例を採択できるかどうかが優先される傾向にあるため中世期以前から比較的平民出身の神官が発生していた。有名な人物としては“諫めの”アリーや“眼冥の”ムスタファなど
*244 三光教などでは異端というレッテルにより対立宗派を弾劾することが可能であるが、それを可能とするための中央集権的なヒエラルキーがトーラ信仰においては存在しない
*245 神官や法学者においてはどの法判例や解釈を採用するかという一点においてそれぞれの派閥が分かれる。そのため極めて厳密な定義に従う限りでは一人一派というべきである
*246 例として商人が多く現世利益的なものを求められたナシーヴァ地域では世俗的でより神秘主義的なナシーヴ派が生まれ、かつては大きな帝国として存在しながらもスィーザー人諸部族や三光教徒、クリュード人遊牧民など外敵との対立に直面していたトルトーリアではトルトーリア皇帝という世俗権威を容認しつつより厳密な法解釈を特徴とするトゥル・タウラー派が生まれた
*247 残存しなかった例として三光教東方教会と習合した結果聖人崇敬の概念を取り入れたマザール派、およびエルステア地方における多神教との融合を果たしエルステア式典礼を取り入れたアレヴ派、アンゴルモア地域へ流入した結果輪廻の概念を取り入れたヌサイル派など複数の事例が存在する
*248 タウラー=サンジャーク主義とも
*249 厳密にはトーラ人が“参加”している宗派を便宜上定義しただけとも言え、厳密な経典解釈においてはむしろナシーヴ派やトゥル・タウラー派などに類似する
*250 あくまで宗教に属する人口に応じた場合であり、実際の“信仰”人数がどれくらいのものであるのか、また歴史的経緯のみによる定義づけを以て主流派としてよいものであるかどうかに関しては議論の余地が残る
*251 きいつは。1990年代以降のトーラ信仰純粋化運動において作成された造語であり、歴史的文脈で用いる際は注意が必要
*252 およそ16世紀ごろ。トーラ人国家がヒストラマー半島からレポーラ盆地にかけて勃興した時代あたりを指す
*253 例としては皇帝を神格化した三光教会や国王権威を宗教的実践より優先させたノロー諸島のノロー・ゴンカ派など
*254 トーラ信仰の範疇のみに限定するのであればクリュード帝国のマナラート派やサレヒローニアのサレフイー派、トルトーリア帝国のトゥル・タウラー派など。特にトーラ信仰では宗教的指導者に決定的な権威が存在しないため世俗権威による保護が頻発していた
*255 三光教会の星帝崇拝
*256 グランダ王国のチェンポパ諸派をはじめ、トゥル・タウラー派、マナラート派など複数の宗教
*257 サレヒローニア。アル王家独裁はサレフィー派自体がアル王家への庇護を求めつつもアル王家はトーラ信仰原理主義に従った統治法を敷く形式である
*258 厳密にはサズニア朝トーラ帝国以前であるためトーラ王国ないしヒストラマー王国とすることが適切
*259 イジュティハードと呼ばれる。一般的に律法からの発展的解釈を行う権利ならびにその発展的解釈そのものを言う。現在では宗派によってこれを認めるか否かが大きく分かれ、サレフィー派やマナラート派などは発展的解釈を認め、トゥル・タウラー派などにおいては新たな発展的解釈を認めていなかった。対してタウラー=サンジャーク主義においては法学者の代表たるトーラ皇帝に限った解釈の権限を認めていることが重要な差異である
*260 カーヌーンと呼ばれる。世俗的権威により制定された全ての法令を意味する。この場合は皇帝から直接発せられた勅令の事を指している
*261 ファトワーと呼ばれる。ファトワー自体は法学者であれば誰でも出せる見解のようなものでありそれ自体に特段の拘束力はないが、イジュティハードの権利を持つとされる人物から発されるファトワーには新たな法学分野を切り開いてしまうという極めて重要な意味が残る(注:このようにイジュティハードの権利を持つ者はムジュタヒド、努力する者と呼ばれる)。またファトワーを撤回する事はファトワーを出した本人にしか実行出来ないという点もあり、タウラー=サンジャーク主義という不思議な信仰形態が残る一因となってしまっている
*262 一例としてカーフィル派においては各神官がイジュティハードの権利を保持しているとされるがゆえに、本来認められないであろう過激な宗教的解釈を含むファトワーを発した者であってもその解釈を議論し賛同を求めることが可能となっている。これが若いトーラ信徒のインターネットを通じた聖典律法への直接的な接触と相まって過激なカーフィル派の発生を招いていると言われる
*263 マズハブと呼ばれる。これらは一般的に認められている諸宗派を指す際に呼ばれ、これに該当しないカーフィル派などの分派はタクフィールと呼び表される
*264 即ちトーラ皇帝家の帝位継承権を保持する一族。トーラ帝国の貴族の中でも殊更に優遇されており、各種宮中官職を与えられることで特定の職務に関して極めて大きい裁量を保持していた
*265 本来は皇帝自身のトーラ信仰における祭祀や各外交的式典に関する事柄を補佐し、その段取りを整えることが職務であった
*266 布告の神殿、ミンバル・ジャミィと呼ばれる
*267 これはシェイヒュルと言う役職名であり、これによってタバゥルカ家は伝統的に“長老”の二つ名を持つ
*268 しかし実際には数世紀にわたって
*269 厳密には中世期のトーラ王国に存在した統治政策を再活用したもの
*270 後のトーラ軍閥に繋がる
*271 一般的に聖職官僚(イルミエ)と呼ばれる。対して書記官や財務金融担当など通常の官僚層の事を事務官僚(カレミエ)と呼ぶ
*272 聖職官僚は法廷学院(マドラサ)を通じて高度な教育を受け前述の通り経典=律法記憶およびその解釈の暗誦が出来る聖職者として、事務官僚は帝立学院(エンデルーン)を通じて官僚ないし近衛隊にあたる親衛兵(マフミル)層として重用された
*273 即ち資本家化・平民貴族化の事。特に資本家が増加したことにより地方の都市化や国家全体としての工業化が進展し、習俗としては当時貴族文化であったチューリップや苗字などの文化が平民階級にまで膾炙した
*274 “花売り”ファトマらのように女官上がりの女性官吏が多く発生したのもこの時期である。後の世で賢母として知られる“銀の匙”マオもこの時代の人間であった
*275 あくまでタバゥルカ・トーラ家が事実上私物化しているトーラ信仰を正しき皇帝の元に戻すというモノであるため
*276 アイヤールと呼ばれる。これは秘密結社と称されているものの実情は「一種の通過儀礼を孕んだ宗教的共同体としての意味合いを持ち、農民から都市へと離れた者を対象として同郷人や同職人などの間での相互扶助を行う結社」であり、一般的な意味での非合法性はない。とはいえこれらの中間的かつ強固な都市共同体はしばしば政治運動や宗教的異端の隠れ蓑となる事が多く、トーラ帝国末期におけるゲラノド主義諸派は基本的にこのアイヤール出身である
*277 こうした秘密結社が主導した大事件は複数存在し、例えば1850年代にドランガ地方を中心として武装蜂起した“胡旋の”ホン・デュレンらのジャンナ一揆、皇帝暗殺未遂に至り結果的に皇太后を殺害した“清き蓮の”ラストフ・コルネらの一党、サレヒ独立を契機としてナシーヴァ地域に広がった1880年代からのマフティ一揆、ヴィクトリア戦争における敗戦条約を認めない民族主義的結社を率いた“徹し正拳”ツァオ・カラシュや“櫂先の”リン・オルチャクらによる一連の反北西トーラサズ運動などが存在する
*278 トーラ・ゲラノド諸派における最右翼派閥。皇帝大権を前提とした議会開設を訴えた他、正当なトーラの土地を朝貢圏全てや類似勢力圏まで広げた強硬な対外認識はいわゆる大トーラサズ主義の理論的根拠ともなっている。主な指導者は“翡翠の”アブドゥルレシト・アフサールおよび“城塞卿”エルヴェルク・アルマガン
*279 大トーラサズ主義とは2000年代以後広まり始めた概念。ナシーヴァやアンゴルモアやクルーダーおよびサラトレアなどをトーラ民族と同一の国家へ纏めようとする主義思想であり、2020年以後拡大政策を始めた“霜踏み”シャキーブにもこの概念が受け継がれていると言われる
*280 トーラ・ゲラノド諸派のうち立憲君主制を求めるグループ。主な指導者は“佞臣”ネジデド・チャーラヤンギルや“筋違い”フアット・デンクタシュ
*281 トーラ・ゲラノド諸派のうち皇帝に単純な宗教的指導者としての役割のみを求める派閥。主な指導者は“辻説法の”ナーズズ・ミュテフェッリカなど
*282 “火鼠の”アデシュ・カムヒおよび“焔の”セイラン・ギュンデュルらによって指導されたカデア的トーラ・ゲラノド派閥。法旗機構説と呼ばれる学説を用いて皇帝権威の否定を行い、一種のシステムとして適格者が皇帝と最高神官を担うべきだと主張した。これは地方軍閥指導者“丹沙の”マリク・キョプリュリュの軍事的支援をきっかけとして実効的運動力を持ち、結果コッジャ・タバゥルカはトーラ帝政継承戦争に参戦したのだとされる
*283 この宗教的権威の不足が軍閥時代においてナシーヴァ地域を中心としたサレヒ派および過激なナシーヴ派の武装化およびサンジャーク派神殿の軍閥化を招いて内乱を激化させたと言われ、ひいては1990年代以降のトーラ信仰純粋化運動を招いたという説もある
*284 注:サレフィー派は1990年代以後のトーラ信仰純粋化運動およびそれらに批判的な諸々の文脈において極めて深刻な意味を持つレッテル張りとして機能してきた歴史が存在する。そのため下記ではあくまで「絶対的な宗教法の下、アル王家による代理的統治を認める」という宗教的体制姿勢を持つ派閥のみを記載するものとする
*285 いわゆるムジャーヒディーン運動。原義的には1995年の湾岸戦争にサレヒ側義勇兵として従軍した多数の熱狂的トーラ信徒とインターネットの発展に伴い拡大した過激な原理主義的律法主義者とそのムーブメントを指し、その後スィーザーラント他で頻発したトーラ信仰系テロリストの発生などと紐づけられて語られることが多い
*286 東人に分かりやすく説明するならば2年以下の懲役または50万円以下の罰金など。その範囲内の罰が下されることは確定しているがその決定的な規定がないという場合を指す
*287 神を意味する一般名詞
*288 サズニア朝およびラトーミラ朝。特に今回はラトーミラ朝トーラ帝国を指す
*289 時期によって変動するため。18世紀ごろはグランダ辺境伯とヤチェリノ辺境伯が存在していたが、1912年の時点ではこれらの二つは存在しない
*290 同じく時期によって変動するため。18世紀ごろはアンゴルモア書記官長が存在していたが、1912年の時点では存在しない
*291 実際にはこのほかにもリマン・トーラ家やスィナン・トーラ家をはじめとしてトーラ帝国の周辺諸部族以外からの朝貢受け入れ担当貴族が存在し、これらはその他の貴族家でありながらトーラ姓を得ている。またトーラ姓を持つ貴族と選帝卿家は基本的に同一であるため、武功などによって増減することもままあった。1912年時点で最新の選帝卿家はプファイル戦争において武功を立てた“虎穴の”イェ・デルペントに由来するデルペント・トーラ家(1930年ごろヒストラマー半島で勢力を喪失。ウェルモーに亡命)。
*292 厳密にはトーラ帝国の官僚機構もその法令の決裁などにおいてトーラ皇帝を必要としているが、その実内政の長である内閣大学士が殆どの行政を実行していた
*293 トーラ帝国の官僚機構から外れてトーラ皇帝からの直接の命令を必要とする者は、選帝卿家のほかに皇帝直属の奴隷(ラキーク)が該当する。これらは後宮や巡撫(ギョズ/クラック)としてなどで活動し、トーラ帝国末期には政府一般の官僚機構をも浸食しつつあった
*294 ただしトーラ帝国中期までは中央から派遣された聖職官僚や巡撫に対し抵抗することはあまりなかったとされる
*295 一例として、19世紀末のクリュード書記官長チェラグ・トーラ家はタンナニウム地域との交易で莫大な富を築いていたとされる。また侍従武官長であるムハーフス・トーラ家は19世紀中ごろから独自の兵力を蓄えはじめ、アルトゥン・カレでは皇帝側の親衛兵(マフミル)および銃兵(イェニチェリ)とムハーフス・トーラ家の傭兵(レヴェント)とがたびたび衝突していたという記録が残っている
*296 厳密には19世紀前半からその腐敗は始まっていたと言える。選帝卿家がトーラ帝国内でその利権を蚕食していくと同時に選帝卿家の中でも新興の武将や資本家による権益の簒奪が進んでいき、所謂造反卿(イシャーン・ベク)が現れてきたのもこの時代である。一例としてトルソン・トーラ家の家臣であったアト家の勢力伸長は最も有名な物として挙げられる
*297 1912年当時
*298 1918年、配下であった“丹沙の”マリク・キョプリュリュのクーデターにより“長老”コッジャ・タバゥルカ・トーラが家督継承
*299 サレヒ-トーラ戦争において独立。そのため事実上空位であるが、
*300 文化、宗教、言語、思想など非軍事的誘引力の事を指す国際政治学用語
*301 第1世代が言う所の中央アジアからアナトリア地方にかけての地域に存在した言語
*302 第1世代が言うところのアラビア語および一部の中東地域諸言語に酷似した言語
*303 第1世代が言うところのペルシャ語に酷似した発音の言語
*304 第1世代が言うところの中国語に酷似した発音の言語
*305 これらは全て第1世代が言うところの中央アジアから西アジアにかけての諸語であるとされる
*306 二つ名は自称する場合もあれば他称される場合もある。もし他称される場合どの様な呼び方でも構わないが、それが周囲に膾炙すれば自然とその二つ名だけで呼ばれるようになることも多い。これは良くも悪くも他人からの視線に晒されているという事であり、“泣き虫”ゼキ・イルヤソバなどのような悪い意味の二つ名をつけられた場合はまた別種の功績を打ち立てるか上位者から下賜されるかのいずれかによってのみでしか二つ名が変更されることはない
*307 東詞では熟語が多いように見えるのはそのため
*308 これは平民階級から広まっていった変化であるため、オル・アト軍閥を除き守旧的な旧貴族階層が中心となっていた軍閥中枢においては他称による二つ名が存続している場合もある。例としてとあるトーラ人少女は2030年代になっても老年の軍閥当主に“子猫”と呼ばれ、スベ・コルサニア軍閥では後継者候補の少女に“霜月”というあくまで学生間の仲間内だけでの二つ名がつけられている
*309 サズニア朝時代には男系継承のみであったがENOCH氾濫に際して女系皇帝が即位して以降、またそれを完全に制度化したラトーミラ朝以後は女系でも可能となっている
*310 東端トーラサズ的に言えばイエという共同体
*311 例えば19世紀ごろの皇帝アブドゥラフマンは7歳で死去し直系の血族が途絶えたが、当時の選帝卿であったアナフタル家から皇帝を輩出することでラトマ家の血筋自体は残り続けた
*312 これはトーラ帝国の拡大において極めて顕著であった。トーラ民族以外の民族や宗教指導者およびトーラ貴族内における離反的運動に対して皇帝の娘や妹および次男三男や弟など血族を養子や政略結婚という形で下賜し、内部分裂対策や対外調略を行うことで一つの大きなトーラ皇家とそれを支える大貴族群の連合という形で国を纏めていったのである。この時の例として存在するのが17世紀ごろまで存在したドランガ王国のコルサン・トーラ家やヒストラマー王国の旧臣アルマーン・トーラ家、リ・ノード湾岸のアル家(アルフィトル・トーラ家)やエナワンド島のキム・トーラ家などである。これらはトーラに名目上臣従するだけの朝貢圏諸国及び諸部族とは異なり明確なトーラ帝国の臣下ということになり、トーラ帝国中央から派遣される査察役人などを受け入れる義務が存在した
*313 例として代々侍従武官長を務めドルダン・ハーキミイェト州総督を世襲するムハーフス・トーラ家や代々皇帝の宗教的行事の補佐を行う役職の式部長官を務めるタバゥルカ・トーラ家、それまでのドランガ王国の利権をある程度引き継ぎ領内の徴税権を追認される形でドランガ書記官長を務めるコルサン・トーラ家や朝貢圏であるナシーヴァ諸国が反逆した時真っ先に戦端を開く役割のナシーヴァ辺境伯を務めるツィフテテリ・トーラ家、および対エナワンドの対応窓口を代々務めていたスィナン・トーラ家や同じく朝貢受け入れを行っていたリマン・トーラ家などがある
*314 皇家たるラトマ・トーラ家とは異なり、トーラ姓を有する家系は女系相続が認められない。そのため300年近くに渡るトーラ帝国の歴史において現在では存在しない複数の選帝卿家が生まれ、そして消えていった
*315 なおキム・トーラ家など「姓+名」という形式の一部選帝卿家においてはキム・ヨンサン・トーラのように「姓+名+トーラ」になる
*316 あくまで一つの例。例えばある少将が代々別の家の中将に仕えており、またその中将の顔を立てる必要があるときなどのように他の階級認識が現にその場で存在する場合、少将に対しては敢えて一段階格下のベク或いはヴァリを使うこともある
*317 トーラにおいては警察や国境警備隊も扱い上は武官と見なすため、ベクになる。これは相手の準軍事組織の格に応じて変動し、一つの基準は「大口径砲を保持できるか」或いは「帯刀が可能であるか」「重火器を保持できるか」などによるともされる
*318 なお準軍事組織に関しては基準が格という極めて曖昧な概念であるため一概に判定する事は避けるべきである。例として1959年以前のSENTOにおける警察組織の当該階級者に対してはパシャを用いていたものの、SENTOとの間に国境紛争が発生して以降は例え公式な多国間外交の場であってもこれをベクと呼び表す。対してSENTOの警察組織内に服属する一部署に過ぎない重武装警察(2010年代以降は自衛隊)は事実上軍隊と同等の軍事力であるがゆえにパシャと呼ぶこともある
*319 警察の事例からわかる通り文民統制の下に存在するか否かは問わない。例え州知事が州軍の最高指揮官であったとしても彼は軍人とはみなされず、また軍の官衙に属する事務官はその地位に存在する限りヴァリと呼ばれることが多い
*320 原義的には各州軍や軍閥私兵の佐官級はこれで呼び表すべきであるが、地方へ配備された国軍部隊においても用いられる敬称であるためひとくくりに軍人であるとする
*321 例えば士官学校の同期など親しい仲であれば佐官同士或いは将官同士であってもバシュを用いることはあるが、あくまで私的な関係の中のものであって公的な場で用いるべきではない
*322 ただ品がないのは確かであり、1990年代では未だ○○氏を意味する「エフェンディ」や○○女史を意味する「ハーナム」、或いは○○ちゃんという年少者相手の言い方である「カルファ」を用いる老人も多かった
*323 原義は10人のバシュを率いるバシュ
*324 原義は100人のバシュを率いるバシュ。無論誇張表現であり実際に100人の分隊長を指揮するわけではない
*325 1000人のバシュを率いるバシュ。当然誇張表現であり、数的に大きい者は尊ばれるという意味以外にはない
*326 軍であれば伍長や軍曹をオン・バシュ、曹長から中尉までをユズ・バシュ、大尉や新人の少佐をビン・バシュと呼ぶ事もあった
*327 ヴァリデは皇太后を意味する敬称であり、皇帝の母親・祖母ないし皇太子を出産した者を指す。ハトゥンは皇后を意味する敬称であり、皇帝の子供を出産したものを指す。ジェッリエはそれ以外の后妃を指す
*328 ただし1960年代になってもレーイスを用いる例が存在した。エナワンド島を制圧したトーラ海賊の“無学の”ジャービドおよび“書生の”マリクである。マリクは後にレーイスという姓を自ら名乗り、PUにて貿易会社を経営する事となる
*329 アブーだけに注意すべきであるが、この語彙はナシーヴァ語からの借用語であるためこれのみが語頭におかれる。例としてはアブー・アリー・ゴイジュというように呼び表される
*330 いわゆるボンボン
*331 おおよそ中佐以上
*332 おおよそ少佐以下少尉まで
*333 曹長から伍長まで
*334 兵長から二等兵まで
*335 実は歩兵科
*336 連隊直下の部隊と大隊直下の部隊で砲や編成がやや異なり、連隊砲は105mm野戦砲ないし120mm榴弾砲或いは軽量の155mm榴弾砲を、大隊砲は105mm野戦砲などを用いる
*337 81mm迫撃砲を指す
*338 120mm迫撃砲を指す
*339 240mm自走迫撃砲などを指す
*340 実は砲兵科
*341 列車砲の発射担当。運転は工兵ないし衛戍兵が行う
*342 沿岸砲の発射担当。自走沿岸砲は考慮せず、設置型のポンプ砲などを指す
*343 射程1000kmを超えるほどのクソデカ砲を発射する砲兵
*344 戦車と自走砲が区別されているのはかつて騎兵という兵科があったころの名残。現代では騎兵的運用をする指揮官或いは騎兵的運用をする部隊を騎兵とする
*345 海軍航空隊も同様
*346 海軍航空隊も同様
*347 所謂整備兵や経理部、軍楽兵、要塞参謀科などが該当する
*348 海軍陸戦隊も同様。区別は時代によるものの、海軍では階級章に錨と舫い縄の意匠が施される
*349 海軍の各種水兵も同様。水兵においては砲術科・水雷科・機関科などその他幾つかの担当職種に分かれ、それぞれに兵科色が別途存在する
*350 厳密には狙撃兵という兵科。優秀な射手が更に専門として弾道学や通信・観測技術などを更に学び、一種の前哨狙撃兵として用いられる。1個歩兵中隊につき1個分隊程度が置かれ、大隊内部の歩兵砲中隊の観測を補佐する
*351 例として超長距離弾道砲担当(キューレ)は超長距離弾道砲が建設された1965年前後から新設された兵科である
*352 少なくとも6世紀以前とみられる。これを見つけた少年の名は伝わっていないが、一般的に“残し者”(カルディ)オマール・バシュと呼ばれる
*353 “眠らず”ゲマレッディンの逸話
*354 ただし大鍋を意味するカザンというトーラ語でも呼ばれる上、むしろ同種の料理がイマレットと呼ばれるようになったのは19世紀以降の庶民層の経済発展と彼らの貴族文化の広まりに応じてのものであるため注意が必要
*355 例:蒸し風呂内での脱毛、浴室内暖炉での蒸気浴など
*356 なおトーラ風呂と呼称する場合、どことなくいかがわしい匂いがしてくるとされる
*357 もしかして→“風呂屋の”(ハマーム)ムラート・アルマーン・トーラ
*358 “犬鷲の”(トゥグリル)ムラート・アルマーン:軍閥時代の軍閥当主。アルマーン・トーラ軍閥を率いてヒストラマー半島を制圧したがアブラム・サバブ号事件によって放逐されアーク帝国に亡命した。その後はアークで海運会社を営むが、なぜかアークのムラート邸の横にいかがわしいトーラ風呂屋が出来たことから“風呂屋の”ムラートと呼ばれる
*359 1351年のセル・ゾンカの戦いで攻城兵器を作成しこれを撃破することに成功した技術者。巨大な施条臼砲を作ったことで知られる
*360 セル・ゾンカの戦いでグランダ人勢力を打ち破りイェゲニア朝トーラ王国を建国した王。信心深かったが疑り深く、二面性を表すように肖像画も二種類あることで知られる
*361 “楽隊の”(メフテル)エルトゥールル・サズとも呼ばれる
*362 本来はクリュード地域の風習。中世期トーラ王国時代にトーラ独自の重装騎兵も整備されたが、銃火器という物品が流れ込んできてからは徐々に軽装化していった
*363 大トーラ戦争或いはトーラ・帝政連盟戦争とも呼ばれ、20年近くに渡る戦争の中で両国は疲弊した。中でも2度に渡る都市攻囲戦が行われたことは有名である
*364 民族問題を誘発するためここでは曖昧にトーラ人とする。トーラ人という区分は極めて広くハプログループ的な民族表記と同一の国籍、同一の言語圏、同一の信仰、同一の民族アイデンティティを保持するか否かなどの面において元来通常の“民族”より曖昧かつ複雑な概念となっていることに留意するべき。これは特にトーラ民族などの表現は近現代の政治的意図を強く持つ語彙であるためである
*365 政治的意味合いが存在せずあくまで性向のレベルにあるためこのように表記
*366 ラトーミラ朝トーラ帝国は1720年ごろに成立したが、“母たる”アセナ・ラトマが幼い皇帝を傀儡化するなどして決定的な政権を握っていたのはそれより前の段階からである
*367 この時特に反乱勢力が強かったヒストラマー半島ではボガズィチ家とジェザイルリ家などが政権側として最後まで抵抗し、この功績もあって両者にはトーラ姓の下賜が決定したと言い伝えられている
*368 東詞で花火と呼ばれる、火薬と炎色反応を用いた伝統芸術が発展したのもこのころである
*369 例として2020年代以降のとある軍閥の次期当主候補は彼女の適正に反して砲兵科での活動を余儀なくされ、2010年代以後の軍閥当主ミライ・チョプロチュもまた騎兵科将校であったという経歴から多少格下に見られがちである
*370 当然それ以外にも多数存在し、トーラ砲以外にも「戦車と自走砲は基本的に同一に近い設計だが優先されるのは砲兵科所属の自走砲であり1990年代以降戦車の恐竜化が顕著である」「歩兵科の中に多数の擲弾筒や歩兵砲が存在する」「砲兵運用に特化しすぎてレーダーや誘導兵器の小型化に遅れを取っており、1980年代ごろまで逆探や対砲迫レーダーを用いた電子戦しかできなかった」などが有名である
*371 銃と砲の法的区分は口径20mm以上であるか否かである
*372 軍閥時代にかけての拳法家と言えば“二の足踏まず”リー・バルゲや“五兵の”グァン・オジャランなどの名前が挙げられる
*373 当然反政府的組織と結びつくこともあり、1900年代に民族主義的秘密結社(アイヤール)“正義と和合”を率いてヴィクトリア戦争時の不平等講和条約締結に反対した“徹し正拳”ツァオ・カラシュなどもその一人である
*374 地域的差異はあるが現在でも部分的には
*375 第1世代が言うところのフランス式の直進決闘ないし行進決闘に近いものの「射撃が出来る限り射撃してよい」というルールが存在する。このルールの下においては立会人に届け出ることで二丁以上の拳銃を携帯することが出来るほか、弾込めは1発目以外自分でやる必要があるなど自由度が高い。弾込めに関しては発砲後、20-30秒くらいある立ち止まっている時間中にやらなければならず、これを過ぎたら銃を取り上げられる。また独自の風習として銃の口径が大きければ大きいほど誇り高いトーラ貴族であるという風評も立った
*376 当然拳銃決闘を専門にする決闘師というものも存在し、18世紀の“雷轟”ムラトや19世紀の“諸手の”ファリド・オズテュルク、軍閥時代であれば“火花散らし”ハリデ・マンスズなどが有名である
*377 そのため政治的理由で許可不許可が判断されやすく公権力との結びつきが強いと言える。特にグランダ地域における銃刀規制は実際の法令以上に厳しいらしく、民族主義的組織への対策が極めて徹底しているのが分かる
*378 現地警察がこれらの許可を担うということは当然各地の軍閥の支配を極めて強く受けるという事であり、例えばオル・アト軍閥の指揮下にあると思われるチュユル州西部の武装組織は親中央政府派警察派閥が優勢となる1990年代までの最低30年近く重機関銃や無反動砲を含む多数の違法火器を保持していた記録があると報じられている
*379 厳密に言えば、ブルーグとは「法的地位を持つ年齢になる事」であり成人(動詞)のことである。対して「法的地位を持つ年齢および立場そのもの」即ち成人(名詞)の事を成人(ムカッラフ)と呼ぶ。以下、東詞で成人と記載されている箇所についてはそれぞれ区別する事
*380 そのため理論上は18歳未満の兵員が銃火器や刀剣を以て武装する事はない
*381 この最低三年間の空隙は法学者の間でも問題になっており、特に近年ではトーラ信仰純粋化運動の文脈から銃刀法における年齢制限を律法上の成人年齢と合わせるよう求める動きもある
*382 厳密には21日・23日・25日・27日・29日のうちのどれか。その週の第五日に該当する日付があるならばその日に、無いならば27日に行う
*383 学校教育の制度上の問題で基本14歳を目安として行われ遅くとも15歳時には実行されるものであるが、本来は10歳の時に行われるべきものである。これは律法において10歳児童の礼拝参加を是としているためであり、そのための準備期間として一定程度の学習期間と学習期間修了を意味する法典朗誦の儀式が存在していた。トーラ帝国時代を通じてこれはトーラ貴族内に存在した成人の儀式と混同され、法典朗誦の儀式の意味合いが10歳児童の礼拝参加から法的地位を持つ成人としての振る舞いを規定するものへと変化したのだとされる
*384 律法教育は一応小学校時代から始まっているが、仮に10歳前後で初潮ないし精通を迎えた場合でも法典朗誦(ホッタム・クルアーン)は実行される。この時彼ないし彼女が朗誦する文章は覚えやすいものにあたるよう一定程度の配慮がなされるらしい
*385 結婚式の前夜祭として、新郎新婦それぞれの家で同姓の者たちに対する披露宴を行う。これを特別に墨の夜(クナゲジェスィ)と呼ばれる
*386 その他ヘナを使う儀式として徴兵の際の墨入れや犠牲祭の墨入れなどがあるが、これらは全て墨入れ(クナオーレ)と呼ばれる。特に徴兵の際の墨入れはトーラ貴族の間の儀式が民間に流入した結果であると言われている
*387 ビンダッルと呼ばれる民族衣装である
*388 あまりに神妙な顔をして粛々と踊るので泣き出す者もいるらしい
*389 同じように踊る儀式である墨の夜(クナゲジェスィ)では「嫁に貰われていったあとの郷愁」を示す儀式と言われる
*390 ヘナとも呼ばれる。一種の染料であり、東では白髪染めにも使われる
*391 いわゆるホリディタトゥー。極めて短期間で消える
*392 一般的に拳銃。ただし小銃や擲弾筒を授与された例もある。とはいえ極めて少数な事例であり、往々にしてこういう時は顰蹙を買っていた。特に18世紀の大商人、“成金の”ギュゼルジェ・イブラヒムは自らの子に黄金のドライネンセ・ウラーナを授けたと言われる。彼は前述の通り顰蹙を買い、平民出身の商人であったことも併せて貴族社会から爪弾きにされた
*393 また西コリンズの諸藩王国やグランダ王国など近隣の国家は別途数年おきに朝貢を行うこともあった
*394 この定期朝貢は貿易という実利のために行われることもあり、エナワンド王国やサラトレアなどは貿易のためトーラ帝国に対する朝貢を行っていたという
*395 ナシーヴァやクルーダー、サラトレアやサレヒ地域・トルトーリアなども朝貢していたという説がある
*396 これが通用する地域を一般的に朝貢圏と呼ぶ。朝貢圏におけるトーラ帝国への依存度は各国家や部族によって異なり、例えばグランダ王国は殆ど属国のような体制になっていたもののサラトレアの四共和国は1912年の青年トーラ政変まで朝貢を続けつつ国内問題への干渉を拒んでいた。
*397 基本的にトーラ姓を持つ貴族である。特にサラトレア、クリュード、ナシーヴァ、ドランガ、グランダおよびヒストラマー地域における朝貢部族や朝貢国からの受け入れを行っていたのは選帝卿家であり、朝貢受け入れ担当貴族の中でも別格とされた
*398 ちなみにPUの公式通貨は絶えずクルシュ・アクチェである
*399 中世期トーラ王国時代には銅貨や鉄貨も使用された
*400 古い貨幣はそのまま地金として売却できるため、造幣局の機能が殆ど停止していた軍閥時代においても中小軍閥が古い通貨を貨幣として使用していたらしいことがわかっている。偽造が容易な新造通貨よりむしろ古銭の方が偽造が困難であったということも影響しているらしい
*401 このような金取引停止は青年トーラ政変の直前である1900年代にも引き起こされている。この時は朝貢への返礼などを通じて大量の貨幣が国外に流出したことを理由としており、国際的な金取引市場に再度参入したのは軍閥時代が終わった1950年代以後である
*402 現在でも幾つかの軍閥が偽札製造に取り組んでいるとされ、しばしば摘発されている
*403 前述の通り1968年ごろまで文字通り金貨と銀貨が使用されていた
*404 確かに硬貨ではあるが、クルシュはニッケル黄銅貨、アクチェは白銅貨である
*405 第1世代の人間に分かりやすく言えばクルシュは概ね500円玉、アクチェは概ね100円玉であると考えることが可能である
*406 カデア・ゲラノド・ノティラレに対する表現。なお威怖主権主義と最も対立するのは、奇しくも律法主権主義の方である
*407 これを権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)という。“賽の目”ジグムントと三光の思想家ホルヘ・デ・カラスコの論争は現在でも複数の文献で引用されており、当時の中央州国内において極めて有名な事例であったことがうかがえる
*408 とある19世紀グラスの作家は「星帝が女の股から生まれた時」と呼ばれる詩を書いたとされる。この詩の中に「異教徒の王が鍬を持っていた時」という一説が存在し、続く「我らが陛下の御稜威には」と言う一説から権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)を踏まえた上での皇帝主権主義(カデア・ティラーナ)への発展拡大が見られると解釈される
*409 主に1975年ごろから
*410 1960年代までの軍閥時代再評価の試みは、学者が謎の死を遂げたり軍閥の圧力がかかったりするなどして行われていなかった。結果軍閥時代の中でもトーラ帝政継承戦争とアルトゥン・クーデターに限った視点からの軍閥時代評価が行われており、この時代の文献では「守旧的な貴族主義や行き過ぎたゲラノド主義者との対決であり、ソン・ダーグクの理念を守るため必要な闘争であった」という結論となっていることが多い。当然ながらこれは当時の中央政府である“風読み”アナヤスィ・シフィクらにとって極めて都合のいい言説である
*411 例えばコルサニア・トーラ軍閥によるグランダ王国侵攻やオル・アトニア軍閥によるSENTO加盟国であるチュシェル王国への内政干渉など。これらは北西トーラサズ的な国際政治的に見れば国家というアクターが1つである以上起こり得ることではなく、同時に南西トーラサズ戦争の粛清が行われる1960年代後半までこれら内部勢力への攻撃が殆ど見られなかったという事例は、既存の国際政治学的解釈では本来失敗国家にしかありえない事であった。しかし当時STCは農村中心経済からの脱却や政治的中央集権化が完遂されていないとはいえ経済規模で言えば十分先進国であり、重工業化の進展に関しては各軍閥それぞれが独自に行ったとはいえ総合的に見れば極めて発展しているなど到底失敗国家とは言えなかった
*412 いわゆるノティラレ独裁とゲラノド派粛清のこと。1980年代ごろ“秩序の”ムズラクの大棟梁四選に反対し“希賢の”ダン・バルシュらトーラ・ゲラノド派が退陣を要求した政治対立を指し、最終的に南西トーラサズ戦時中からの戒厳令の適用を以てゲラノド派の粛清がなされた
*413 1980年のトーラ・ゲラノド派粛清はPU国内知識人層のみならずPU市民たちの心にも残り、特にこの時の粛清を生き延びた知識人によって1996年の三月学徒戦争の原動力ともなった
*414 より具体的には軍事力による裏付けを理由とした人治主義的・農村共同体的コミュニティのこと
*415 一般的にイデオロギー性や政治傾向に重視する北西トーラサズ的解釈と異なり、南西トーラサズにおいてはその勢力自体の内的性質を重視した。そのため例えば親政府的でありながら自警団を擁する村落も、反政府を掲げ民族自決を唱える武装集団も、近代トーラにおいては等しく「軍閥」と呼ばれる
*416 ロマーシャ戦争・来中戦争・クルーダーのトルトーリア侵攻など複数に渡る。これらは硝子戦争を通じてグラス・ゲラノドおよびジョゴルワ、コーペシャフトなど既存の大国が勢力を大きく縮小させた反動による現状変更の試みであるとされる
*417 ならびに同時期から再度激化したガイハセーレ内戦やリルスク国内におけるシンディルアイストの躍進なども重要な領域である
*418 最も有名なのはケインズによる原始力テロやサレヒ・トルトーリア地域における共同生産ゲリラ。トーラサズ南部においてはグランダ人反乱勢力のチュスム・ガンシーやツォナン人民党粛清などが有名
*419 正式な題名を『南プーヴェル国際政治における威怖主権政治国家の国際法的承認』という。国際法学上のアプローチ自体はトンブ大戦乱の開始により研究が進展した分野であった
*420 奇しくもリルスクでは1985年の第20回連邦文学大賞をカスパー・クームの『裁官論』が受賞していたころであり、世界的に見ても威怖主権主義という政治体制自体が取り上げられていたとはいえあくまでその学術的深化は発展途上の段階であった
*421 アランブラ政策。本来は1978年にエドゥアルト・アランブラ大統領がグリャレント内戦に介入するため対アーク軍需品輸出および親アーク的軍人の“輸出”を行った一連の政策のこと。ひいては1990年代ごろまでトンブ大戦乱を通じて実行され続けた対外輸出政策の事を指す
*422 いわゆる自然権。人民主権政治(ゲラノド・ティラーナ)の根本原理であり、人民革命の法的正当性にあたるとされる人間固有の権利の事
*423 いわゆる開発独裁。このような独裁体制自体は1960年以降のSENTO加盟国の各種軍事独裁政権に対しても示すことが出来る
*424 ノルタル共和国における一党独裁政権。1960年代の反東ゲリラ「ノルタル東端民族統一戦線(通称ノルジェン)」に合流せずノルタル共和国に参画したツォナン国民党(右派)を基盤とし、ゴ・リュイティエン軍事独裁政権の後継として軍事力に裏打ちされた一党独裁制を敷いた
*425 ノルタル東端民族統一戦線は1940年代から1975年にかけて存在した東帝国の傀儡政権、カヴァラン法国の指導者ユェン・シャンニンに対抗して結成された民族主義的軍事組織。ツォナン国民党(左派)の合流と共に急進ゲラノド化を始め、第2次東端戦争終結後の1977年完全に武装解除されノルタル共和国ならびにSNETO軍ノルタル軍区へ統合されるが、指導者層はジョゴルワとのスパイ容疑を掛けられ粛清された
*426 1965年に成立した独裁政権。強権的な開発独裁で国力を回復するものの1986年のラバン党2月闘争においてホセ・エンリクら自由ノクス政府との内戦状態に陥るが、SENTO軍の介入により比較的早期に鎮圧することに成功した。しかし以後も国内全土に対する戒厳令は継続されている
*427 政治学用語。軍事力を始めとし、政治力や経済力を含む様々な「他者に言う事をきかせる力」の総称
*428 この時創出された反革命的勢力、即ちグラス公国政府に対し張られたレッテル的主義思想は一般的に恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)と呼称される。アルカンジュ偽書の解釈の一つにおいては人民の自主的運動を重要視する人民主権思想をより直接的な形で制限するこれらパワーの存在を現状追認として思想化し、対立軸に置くことでより効果的な形で人民の蹶起力を向上させることを図ったものだとされる
*429 所謂コーペシャフト内海連盟。単一主権国家としての中央州連邦の代わりにコーペサフト連盟共和国やグラス共和国を始めとして複数の共和国による地方分権と経済・軍事等の協力を掲げて結成された地域国際組織に加盟する国家及び地域の事を指す
*430 一例として現代の権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)的体制として名高いノクス共和国(特にマルコ・サントス独裁政権以後の戒厳令下政府を指す)はその国内・国際的法規則上はノクス警察とSENTO軍によって裏付けられて人権問題を含む各種国内問題を強行解決するという権威主権主義(オルソディクト・ティラーナ)的運用であるが、その体制が明確に成り立ったのはラバン党2月闘争におけるSENTO軍の介入によるものであり、直後に発生した自由ノクス派と見られる住民の強制収容ならびに結社の自由の侵害を含む弾圧行為は明確に恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)的と言える。逆に一般的に恐怖主権主義(ティレウ・ティラーナ)の代表例とも言えるトーラ地域での軍閥時代を考慮しても現在のSTCの直接の前身は1920年代に活動していた地方軍閥の当主“風読みの”アナヤスィ・シフィクとその軍閥であると言え、1940年代の国内統一に従って国家としての体制を成立させて以降も1960年代後半の“人斬り”ハリカ・ギュレン派粛清事件や1970年代の“芙蓉の”ミナカ・トゥラーン派粛清事件および“明朗なる”アジフ・ハンブラ派粛清事件、1990年代の“細鳴る歯車の”メジド・アンマール・ベク事件など軍民官に対する粛清事件が度々引き起こされている
*431 いわゆる子飼いと言われるもの。軍閥私兵(カプクル)行政庁(ミュルテジム)のみに限られ、かつてのように商人や小作人などを広く指す言葉ではない。これは軍閥時代において金融を司る商人が独自の傭兵(イェニチェリ)を雇って旧貴族に反旗を翻した例が多々あること、および青年トーラ政変以後の改革によって小作人という存在が名目上存在しなくなったことに由来している
*432 トーラ信仰において奴隷は必ずしも否定的な存在とは取られない。一説には“偉大なる王”メフメトも奴隷の妻を娶っていたとされ、奴隷の権利保護や奴隷への教育とその後の奴隷解放を善行として記録する文章があるほどである
*433 トーラ信徒が自ら民間人の奴隷を取ることは律法によって禁止され、すでに捕虜になっていた者の買い取るか戦争捕虜を奴隷とすることのみが許可されている。18世紀以後は対外遠征があまり行われなくなったことも相まってトーラ帝国時代の奴隷市場は不調となっていた
*434 なお現在のトーラ信仰純粋化運動の文脈において奴隷の保持は大いに認められる行動である。そのため威怖主義者(テロリスト)が捉えた捕虜を奴隷として強姦する例が確認されており、極めて重大な戦争犯罪として取り上げられている。このように性的奴隷の存在は古来から存在しており、特別に性奴(フーリー)と呼ぶこともある
*435 所謂女官や宦官など。後宮(ハレム)における仕事は政治権力の温床となりうるため自由人たる他の官僚に任せずトーラ皇帝の所有物という地位にある奴隷を用いて行われた。中には奴隷の立場でトーラ皇帝に見初められた女官も存在すると言われる
*436 この時奴隷を捕らえて売り払う商人や戦争捕虜を奴隷にして傭兵に仕立て上げる軍閥が横行したとされ、“金環の”アシール・サターシや“波止場の”チャン・ロンフェイらが有名
*437 南西トーラサズ戦争中に“はためく河の”イェン・ギュルによって行われた捕虜の強制動員事件はこの文脈で実行されている
*438 東詞では乳兄弟とも呼ばれる
*439 例として中世トーラ王国時代の武将“空堀の”サルマーン・ハンダクとその乳兄弟“至心の”ウフドの関係である。“空堀の”サルマーンの乳兄弟となった“至心の”ウフドは“空堀の”サルマーンに付き従う猛将として知られたが次第に権勢を強めていき、“空堀の”サルマーンの息子である“弓取り”アムルの乳母父として外戚の地位を形作っていった。“空堀の”サルマーンの死後更に権力を増した“至心の”ウフドに対し、“弓取り”アムルの母でありトーラ王国の貴族アルアース家の娘であった“鈴蘭の”ハフサ・アルアースはハンダク家の権力維持を図るため“至心の”ウフドとその幼い息子“独誦の”ジュハイナら一門のクーデター陰謀をでっちあげて鎮圧軍を差し向け、たった一日で“至心の”ウフドを死に追いやってしまった
*440 特に多かったのが異性間の婚姻関係に発展する事であり、トーラ信仰では律法において乳兄弟同士の婚姻を禁止している他同姓婚姻を出来るだけ忌避する傾向にある
*441 特に小姓(グラーム)の文化は成熟までに数十年という時間を有する上経済的損失が多く、軍閥時代においてそのような後継者教育を行うほどの時間が取れない軍閥が多かったということも一因している