湾岸戦争

Last-modified: 2021-07-15 (木) 09:29:57
湾岸戦争
El:Воина Залива
Tr:Gulf War
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リ・ノード湾に出動する101型駆逐艦
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北内海で降伏した人民海軍潜水艦
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攻撃する人民軍
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人民空軍の戦闘機
場所:リ・ノード湾沿岸,SNR北部
結果:評議会人民共和国が撤兵
交戦戦力
soviet.jpg評議会人民共和国サレヒローニア
エスティオ連邦共和国
支援
南トーラサズ共同体
Switherllant Republic.pngスィーザーラント王国
指揮官
soviet.jpgボリス・A・シーチキン
soviet.jpgニコライ・V・シャリカシヴィリ
soviet.jpgウラジーミル・A・ノルシュテイン
戦力
300万人
航空機1300
6万人
航空機83
22万人
損害
湾岸戦争

概要

湾岸戦争とは、評議会人民共和国(SNR)によるサレヒローニア侵攻に端を発する1994年から1998年に行われたSNRとサレヒローニアおよびエスティオ連邦共和国間の一連の紛争である。サレヒローニアの豊富な石油資源および領土的野心のためにサレヒローニアに侵攻したSNRは国際社会から強力な反発を受け、“平和維持”を大義名分としたエスティオ共和国の参戦を招いた。エスティオは硝子戦争以来SNRとの間に領土的確執があり、この戦争はそれを解決する絶好の機会であった。4年間に及ぶ戦争はSNRの戦略的敗北で幕を閉じたが両国に莫大な被害をもたらし、さらには第二次北西ゲラノド戦争の引き金となった。なお、湾岸戦争の呼称から主戦場がリ・ノード湾岸であったと誤解されることが多いがこれは戦争の発端に由来する名称であり事実上の主戦場は評議会人民共和国北部およびログロムヌス共和国南部であった。

経過

背景

グラス=ゲラノド連邦(UGSR)の崩壊により評議会人民共和国は政治的自立を果たしたが同時に経済的自立を強いられることとなった。幸い比較的資源に恵まれていたためUGSR崩壊後も順調な発展を見せていたが慢性的な赤字予算のため90年代には更なる発展のための資本が不足し成長が鈍り始めた。そこで共産党指導部はサレヒローニアに目をつけた。サレヒローニアは世界有数の石油埋蔵/産出量を誇り、その莫大な収益を背景にサレヒローニア国は膨大な現金や貴金属、あるいは不動産として資産を保有していた。これらの資産を元手に石油資源の開発や国内産業のテコ入れを行えば向こう20年は今まで通りの成長を保証できると試算され、狂喜した共産党指導部は政府の反対を押し切りサレヒローニアへの侵攻を決定した。
現SNR北東部ツーラ自治共和国として知られるツーラ地方は革命以前の旧大公国時代からの領土であったが1912年の革命時にグラス連邦に侵攻され併合された。革命政権は周辺国から少なからず領土の収奪を受けていたがツーラ地方は最も面積が大きく、また経済的損失が大きかった。歴史的にも大連合の際に確立した初期大公国の一部であるため旧大公国市民に与えた衝撃は大きく、革命後SNRとなった後も反グラス感情が募っていく一方だった。しかしその反感が暴発する前にグラス連邦は社会主義革命により崩壊、社会主義国家であるUGSRが成立した。UGSRは超大国の一角であったグラス連邦が母体となっただけに莫大な国力を誇り、かつては敵であったが今や思想を同じくする同志であり友好関係を築いた方が有益なのは明白であった。また共産党もツーラ地方の返還を期待してグラス内海のゲラノド主義者に援助を行っていたため今更敵対する訳にもいかなかった。1940年のUGSR建国当初より始まった友好関係は1960年代末に硝子戦争が勃発するまで継続し、UGSRの援助下SNRは偉大な発展を遂げた。しかし硝子戦争で転機が訪れる。UGSRは硝子戦争の結果瓦解しエスティオ共和国やスィーザーランド等の後継国家が誕生した。SNRは旧UGSR各国が疲弊し混乱が収まらない終戦直後が最適なタイミングと判断しツーラ地方に侵攻、またロマーシャ戦争への介入を行なった。ロマーシャ戦争への介入は失敗に終わったがツーラ地方はツーラ自治共和国としてSNRに戻り、60年来の雪辱は晴らされた。一方UGSRからツーラ地方を引き継いだエスティオ連邦共和国は猛烈に抵抗したものの長年力を蓄えていたSNR人民軍に軍事的敗北を喫しツーラ地方の喪失を受け入れざるを得なかった。75年に領土紛争は一応の解決を見たものの両者とも満足したわけではなく、ツーラ自治共和国の国境では武力衝突が絶えなかった。そのような中発生した湾岸戦争はエスティオにSNRと戦争するにあたって国際社会からの支持を与え、まさに絶好の機会と言えた。

開戦,およびサレヒローニアにおける戦闘

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人民軍の戦車隊,1995年1月

1994年9月、雨季が収まるのを待ってSNRは“歴史的に我が国の領土であった土地の奪還”を名目に宣戦布告し空挺軍5万がサレヒローニアに侵攻した。空挺兵が主要な交通路や重要な防衛施設制圧してサレヒローニアの国防を混乱に陥れると続いて20万の地上軍が侵攻し、貧弱なサレヒローニア正規軍はたちどころに撃破された。当初サレヒローニアを制圧するのに2ヶ月かかると見積もられていたがそれより大幅に早い1ヶ月で人民軍はサレヒローニア南端に達し、自治共和国の設立を準備しながら各地に散り散りになったサレヒローニア軍の掃討を行なった。1994年11月、サレヒローニア政府がまだ降伏しないうちにSNRはサレヒローニア政府は消滅したとして現地ゲラノド主義組織である西端ローナ人民戦線を首班とするサレヒローニア自治共和国政府の成立を宣言した。
サレヒローニアに侵攻した人民軍は戦争はすぐに終わると考えていた。事実、最終的に40万に達した機械化された地上軍は予想以上に貧弱なサレヒ野戦軍を容易く粉砕し、航空軍はすぐに我が物顔でサレヒローニアの空を飛び回るようになった。人民軍は1ヶ月もかけずにサレヒ全土を制圧し、鮮やかに勝利を得たと思えた。しかし現実にはサレヒローニア人は戦力を温存して森に潜り、しぶとく抵抗を続けていたのである。交通路と都市───つまり点と線を制圧していた人民軍は勝利とは程遠い現実を悟った。密林の中では機械化され、ヘリコプターさえ装備したサレヒ軍が跋扈して交通路を脅かし、人民軍を点の中に包囲した。現地の設備が不十分なため軽戦闘機しか進出できず、強力な機動力で自在に出没するサレヒ軍は密林を盾と成して貧弱な爆撃をことごとくかわした。重爆撃が可能な戦闘爆撃機や戦域爆撃機は本土から出撃しなければならなかったため大抵サレヒ軍を取り逃がした。
人民軍は慌てて予備師団を動員して兵力を増派し、戦闘爆撃機が進出できる設備の建設を進めると共により効果的な火力投射手段を導入した。砲兵である。
通常人民陸軍では師団1個あたり1個の割合で砲兵旅団が編成されるがサレヒローニアには述べ32個師団が投入されたのに対し砲兵旅団は104個に及んだ。他戦線から砲兵を抽出し、予備旅団さえ動員されたのである。
人民軍砲兵は交通路上に点々と展開し、勢力圏全域を射程内に収めた。そして守備隊からの要請があれば直ちに砲撃を叩き込むのである。陣地の間隔は榴弾砲の射程に合わせられ、砲兵陣地が敵襲を受けたら近隣の陣地から援護を受けられるようになっていた。
サレヒローニア軍に対する火力投射で目覚ましい活躍を見せたのがロケット砲で、短時間で大量の放射弾を投射できるこの兵器はサレヒ軍に逃げる隙を与えずに反撃するのに適していた。戦闘が進むとサレヒローニア軍が出現しやすい場所───例えば歩兵陣地の周囲や密林の中の通行しやすい箇所等───への射撃諸元が予め用意され、これも整備された歩兵陣地と砲兵陣地間の直通電話で砲撃を要請すれば直ちにありったけの爆発物がそれらの地点に投射されることになっていた。
ロケット砲は“サレヒ人殺し”“パイプオルガン”(形状と発射音から)“民警”(呼べばすぐ独特の唸りを発して飛んでくることから)などと呼ばれて歩兵の頼もしい味方となった。
航空軍も設備の完成に伴って戦闘爆撃機を進出させると同時に爆撃機の絨毯爆撃でサレヒ人が篭る森を薙ぎ払い、撤退までに地上の砲兵と共にサレヒローニアの国土に投射した爆発物の量は硝子戦争で用いられた量の数倍に相当すると言われる。
一方砲兵の大量投入と大量の弾薬消費は他戦線の著しい火力低下を招き、エスティオが介入した際に易々と突破を許した要因の一つとなった。サレヒローニアの国土には大量の穴と広大な汚染地帯(ガス弾の投射はゲリラの掃討に効果的とされ日常的に行われていた)が残され、永く戦争の傷跡を残すことになる。
ここまでしてサレヒゲリラに火力を投射した人民軍であるが、戦後の研究では払ったコストに対してあまり効果的ではなかったとされている。サレヒローニアを覆う密林は正確な照準を妨げ、また重砲爆撃は固定された陣地や野戦軍、市街地に対しては極めて効果的であったが柔軟に分散と集合を繰り返し、小集団で神出鬼没に現れるゲリラは容易に砲撃を凌ぎ、ゲリラに対し投射された爆発物はほとんど無駄に消費されていた。一方でヘリボーン歩兵や攻撃ヘリコプターによる機動的な掃討戦は高い効果を挙げていたが攻撃オートジャイロに偏重していた人民軍ではそのような機体の数が少なく、高速で重武装、重装甲であるが小回りが利かないオートジャイロで対応しなければならなかった。また国内外に潜伏したサレヒローニア政府による宣伝も効果を上げた。サレヒローニア自治共和国成立当日には開戦以来沈黙を保っていたサレヒローニア政府が国王のメッセージを全世界に放送、サレヒローニアの健在を伝え、全国民に抵抗を呼びかけ、全世界に協力を求めた。また密林に篭り人民軍を苦しめるゲリラ兵たちの戦いも積極的に外国メディアによって報道され、情報管制を敷いていたSNRよりも湾岸戦争における存在感を発揮していた。

エスティオ参戦

人民海軍の戦闘

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被弾し炎上する駆逐艦,1996年

戦争中、人民海軍は国家の経済状態に関わらずかつてない活発さで活動していた。(中略)エスティオ参戦後は潜水艦がエスティオ沿岸まで進出し通商破壊を行なった。中にはエスティオ共和国北部クーロンブ半島を廻らなければいけないため捕捉される可能性が高い北内海まで侵入した者もあり、上に写真が掲載されている潜水艦“S198”号もその一隻である。S198は1995年4月に北内海に侵入し、商船2隻を撃沈する戦果を挙げたがエスティオのフリゲート艦に発見され、至近で炸裂した短魚雷により航行不能に陥り浮上して投降した。
水上艦隊もエスティオの参戦に対応した。1995年、人民海軍は現有のミサイル艇とフリゲート艦、および主力艦隊のおよそ半分で三光並びにPU海軍に対応できる判断し残兵力によるエスティオ本土攻撃を企画した。
この作戦には人民海軍唯一の空母である“コムニスティチェスカヤ・パルティヤ(共産党)”に加え80型大型巡洋艦6隻、86型巡洋艦6隻、101型駆逐艦21隻が投入された。“パルティヤ”は1912年に進水し、その後放置されていた旧大公国“イヴァンⅣ世”級戦艦“ニコライⅠ世”を1935年に改装した艦で、全長235m、速力31ノットを誇る第一線級艦だった。50年代に装備の更新を受けジェット機運用能力を獲得したが70年代には第一線級機の運用が難しくなり存在価値を落としていた。湾岸戦争当時は回転翼機あるいはVTOL機母艦として運用されていたが老朽化のため25ノットが限界だったと言われ、元々90年代の飛行機に対して射出能力が不足していたカタパルトも運用が停止されていた。海軍は航空機を北極海に展開する能力があることを示しエスティオの防空兵力を本土に誘引できれば良いとしたのでVTOL機でも十分であるとされ、長距離防空能力の不足は護衛に大型巡洋艦を多くつければ補えるとされた。
1995年8月初頭、エスティオ長距離偵察機に発見されるリスクを抑え、またできる限りエスティオ本土の防備が薄い時期を狙うために航空・防空軍がログロムヌス国内のインフラ破壊を狙った“ウラガン”作戦を発動した(陸軍も同時に“スヴァローグ”の作戦名で攻勢を発動していた)に合わせて“79号”作戦が発動、艦隊は出航した。ウラガン作戦は3日目に爆撃機隊の壊滅という結果を残して中止されるが中止後にエスティオが空で反撃に転じ、またスヴァローグ作戦は継続されたため艦隊が8月17日の夕方に東部北極海上、クーロンブ半島北西800kmでエスティオの哨戒機に発見された時エスティオ国内の実働部隊はほとんど出払っていた。エスティオ側は意表を突かれた形になり、即座に本土の部隊に警報が発せられたがログロムヌス方面の空軍は手一杯な上に遠いため哨戒に従事していた中隊と訓練部隊、教導中隊等で混成飛行隊が編成された。この際空軍機がオムニファイターで統一されていたため哨戒機を素早く攻撃機に転換することが可能であった。海軍は西部艦隊が通報から3時間後に対潜艦艇以外で総力出撃していた(CVは艦載機を降ろしていたため出撃せず)。混成飛行隊は翌日払暁出撃したがトラブルにより哨戒中隊が真っ先に到着し爆撃を試みたが80型大型巡洋艦と101F型駆逐艦の防空能力が威力を発揮して撃退された。続いて到着した訓練部隊+教導中隊は最も新しく対空能力が高い101F型に狙いを絞り、訓練部隊がミサイルを投射している間に超低空飛行で爆撃を敢行し3隻参加していた101F型(“952”, “953”, “954”)を撃沈し80型大型巡洋艦の“タラース・セルデューク”(K84)と“ヴラジミール・スリャトスラヴィチ”(K81)を中破させた。この攻撃におけるエスティオの損害は12機である。空襲後、クーロンブ半島から370kmの地点で86型巡洋艦“ツィービン”(K90)が対艦ロケットの射程にエスティオ艦隊を捕捉、直後に自動装置により電波妨害を受けて捕捉できなくなったが艦隊の対艦ミサイルシステムを連動し予想される未来位置に向けて対艦ロケットを斉射、192発の対艦ロケットが発射され184発がエスティオ艦隊の防空圏に到達した。しかし大型の対艦ロケットは極めて強力な近接防空火力に阻まれてほとんど命中せずコルベット1隻を撃沈し1隻を撃破するに留まった。一方人民海軍は爆装した艦載機の航続距離ギリギリの距離であるが対艦ロケット発射が済むと直ちに艦載機を発艦させた。回収のためエスティオ艦隊を避けるように進路を変えつつ陸地に接近し続けたが25ノットしか出ない空母を伴っているためエスティオ艦隊が距離を詰め対艦ミサイルを発射、しかし追いかけながら発射する形になり、多くの人民海軍艦が船体後部に対空ミサイル発射機を配置しているしているため防空能力が最大限発揮され101D型駆逐艦2隻と86型巡洋艦“オリョール”(K88)が炎上(後に放棄)するに留まった。一方エスティオ本土に到達した艦載機は防空火器で損害を出しながらも港湾施設を爆撃して帰投、全機収容後反転して逃走を図ったがエスティオ艦隊に追い付かれると同時に空軍が再度来襲、艦隊は空母に駆逐艦7隻と巡洋艦2隻、大型巡洋艦2隻を付けて大型巡洋艦4隻と巡洋艦3隻、駆逐艦9隻が反転してエスティオ艦隊を相対することとなった。エスティオ空軍は空母を狙って突撃し複数発の爆弾を直撃させて大破させたが老朽艦は持ち堪えた。反転した艦は残っていた対艦ロケット36発を発射すると砲戦に突入した。50年代に建造された巡洋艦群は強力な砲熕兵装が残されており速射砲に劣らぬ火力を発揮してエスティオ艦隊を拘束し、最終的には空母が離れたため追撃を諦めさせた。艦隊はその後それ以上の損害を出すこと無くなんとか本国まで帰投したが1995年末にエスティオ空軍が空襲を敢行し入渠していた“パルティヤ”は放棄されいくつかの巡洋艦や駆逐艦が損傷、あるいは失われた。

講和

影響