ロマーシャ戦争(ろまーしゃせんそう、スィーザー語:Romaasha Waz、西端ローナ語?:Bazureba Niy'khaya-Tama Laska)とは、1971年12月25日から1972年8月16日にかけて続いたスィーザーラント共和国とトルトーリア帝国、ならびに評議会人民共和国による戦争のこと。スィーザーラントが以後、軍事重視政策・積極的安全保障に舵を振るきっかけとなった。
背景
講和での認識不一致
硝子戦争の後、NINP諸国が支持するサーナラーヒ旅団?、UJSUの支持するスィーザーラント独立自由政府?が連合して政府を結成、独立したスィーザーラント共和国は、「スィーザーラント地域すべての保持」を双方に求めていた。しかしながら、統一ジョルゴワ国家連合?(以後UJSU)、ならびに中央州連邦?はバズーラ山脈南部に位置するトルトーリア帝国へ「グラス連邦:カーラニズ行政区内のトルトーリア人地域の帰属権」を変換すると伝達を行っていた。
また、NINP諸国(およびログロムヌス政府、UJSU)はスィーザーラント政府に対し、「グラス連邦:カーラニズ行政区内のスィーザー人地域」の割譲を約束していた。
しかしながら、ロマーシャはもともとスィーザー人、トルトーラ人が雑居する(人口比もほぼ5:5であった)土地で、どちらかに帰属すると判断すべきか、でUJSUとNINPで対立が発生。講和会議の結果、NINP及びスィーザー、UJSU及びトルトーリアで継続して協議(その間の治安維持は合同で担当)することで決定した。
共同治安維持
1971年12月18日、ロマーシャのスィーザー人は三光教の伝統教示である「ラソス誕生祭」を行うべく、宗教祭具や豚肉、楽器などをスィーザーラント本土から取り寄せた。
しかし、これらはトルトーリアにおいて持ち込み禁止(トルトーリアでは偶像崇拝、豚肉の摂食、路上ライブは禁じられている)であり、トルトーリア人警官による取り調べの結果、スィーザー系の約200名が逮捕・拘束される事態となる。
共同治安維持では相互の指揮系統こそ統一すれど、宗教的な法などに手が回っておらず、逮捕されたスィーザー人の中にマーヴィレヴ?(スィーザーとトルトーラの混血)が存在し、「棄教であり神への反逆である」としてトルトーラ人警官によって斬首に課せられた。
結果、激怒したスィーザー人が暴動を起こし、トルトーラ人や彗・戸両国の警官と衝突する事態に。スィーザー政府は即座にNINPやUJSUに伝達を入れ、トルトーリアに法の共同化を提案し実行に移した。
血と肉の誕生祭
上記のような対策が取られ続けたにもかかわらず、1971年12月23日、トルトーラ人の警官はスィーザー系との国境を両国政府に無断で封鎖。原因としてはトルトーラ系の警察の指揮システムの旧式化と郷軍制度度(トルトーリア政府はロマーシャを保有し治安を維持する郷閥?に条約を伝達したが、郷閥が強気に出た)であると考えられている。
これにより誕生祭で最も重要であるとされる12/24日(家族、親類と会う日)にスィーザー人の多くは家族と会えず、激怒した一部のスィーザー人が国境を封鎖するトルトーラ人を銃撃。
これを受け、トルトーリアは「ロマーシャの安全維持」を名目にロマーシャへ進駐し、スィーザー人320名を逮捕状無しに処刑。これを受けてスィーザー人は激高し、スィーザーラント政府も自衛名目でロマーシャへ兵士3,000名を移動させた。
戦争の推移
勃発
12月25日早朝、「スィーザーラントによる銃撃」を名目にトルトーリア軍が宣戦なしに一斉に国境を踏み越え、スィーザーラント領内へ侵入。現地守備隊は瞬く間に包囲・殲滅され、多数の治安部隊や兵士の駐屯していたロマーシャ全域を遮断する形でトルトーリア軍戦車隊が突出した。
これは「ニイカヤタマ作戦」(ニイカヤタマはトル・トーラ信仰の聖地で、ロマーシャ東部に位置していた)と呼ばれる周到に計画された作戦で、トルトーリア軍はスィーザーラント軍の対戦車火力の不足をつかんでおり、積極的な戦車戦闘を展開。バズーラ山脈を越えたトルトーリア軍は早急にロマーシャと北部スィーザーの中間点であるフォーンを占領し、スクウェニア方面においても多数の戦車を投入、進軍していった。スィーザーラント軍は対装甲火力、特にトルトーリア軍の戦車へ対処できる対戦車火器が不足していたため各地で撃破され、作戦開始から3日でスクウェニア・ルーテアが包囲され、フォーンを失う大敗を喫した。トルトーリア軍はネーヴシュアを包囲後、後続を待たずスィーザーラント首都ヴェレーンへ軍を進撃。しかしながらヴェレーン近郊の377高地にはスィーザーラント軍唯一の機甲戦力であるサーナラーヒ旅団?(グラス製第2世代主力戦車M70?や多数の装甲付きトラックを装備)が展開し、さらに周囲の山岳地帯や森林地帯にはウィリアム・ジャコブ?中将率いるゲリラ戦闘部隊が配置されており、さらにヴェレーンでは徴兵・動員が進められていた。トルトーリア軍司令官・は進撃中止を本部に要求するも、指揮系統がままならずに途中で情報伝達は止まり、攻撃を余儀なくされた。結果として、1972年2月8日、トルトーリアの機甲部隊はサーナラーヒ旅団との戦闘で損耗したところを火炎瓶攻撃で多数撃破され、肝心の市街地への攻勢もゲリラ戦やボウフラのように湧き出る民兵の奮戦によりヴェレーンは陥落せず、さらにトルトーリアの補給部隊がスィーザーラントの騎馬ゲリラに捕捉・殲滅されると前線への補給が次第に途絶えるようになった。ここにいたり、ようやくトルトーリア軍には撤退命令が届き、トルトーリア軍はヴェレーン正面より離脱していった。そしてヴェレーン方面軍が後退したことや、スィーザーラント軍に強力な機甲部隊が存在すること(実際にはサーナラーヒ旅団は組織維持ができないほど損耗していた)はトルトーリア軍上層部に戦略の見直しを強いることとなり、トルトーリア軍はフォーン、ネーヴィシュアを放棄し、バズーラ山脈に沿って防衛戦を敷くこととなる。
休戦
1972年2月11日、トルトーリアを支援する中央州連邦?の影響力増加を恐れたNINP諸国と統一ジョルゴワ国家連合?の仲介によりトルトーリア・スィーザー間で休戦協定が結ばれた。
休戦協定の軍事境界線は戦線がそのままの形で引かれることとなり、スィーザーラントに不満の残る結果となった。
この間、スィーザーラントはグラス連邦?が設計した87A6(T12)?やM70?、Ro-122?のなどの兵器を「スクラップ」の名目で世界中、特にログロムヌス王国?などの親スィーザー国家からかき集め、戦力を増強していった。
また、大損害を受けたスィーザーラント郷土防衛軍を再編、サーナラーヒ旅団と統合されてスィーザーラント国防軍?が成立する。
一方のトルトーリアは郷軍司令官が勝手に軍の一部を休息させるなど楽観論が目立ち(郷軍司令官は縁故主義任命がほとんどであり、軍事教育を受けた司令官は少なかった)、これがのちの戦況に変化を与えたと考えられている。
ログロムヌス製の戦車を装備しヴァル戦車戦?へ向かうスィーザーラント郷土防衛軍? | ||
年月:1971年12月25日~1972年9月16日 | ||
場所:南部スィーザーラント、北部トルトーリア、北部ナジンスカヤ | ||
結果:スィーザーラントの勝利 | ||
交戦勢力 | ||
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スィーザーラント共和国 ・スィーザーラント郷土防衛軍? ・サーナラーヒ旅団? | トルトーリア帝国 | 評議会人民共和国 ・第19軍 ・第67軍 |
支援 | ||
ログロムヌス共和国? | 中央州連邦? | 統一ジョルゴワ国家連合? |
指導者・指揮官 | ||
アドラーフ・ミッタマーイヤ ウィリアーム・ジャコブ ヘルムート・キュプカー | アル・エジャミア エル・カサーム エル・マキドーナ | セルゲイ・V・ハリコフ アレクサンドル・K・キリュシュキン ウラジーミル・P・パブロフ |
戦力 | ||
1972年2月11日以前 9個師団5個旅団2個連隊 22万人 戦車40両 1972年2月11日以後 11個師団8個旅団 32万人 戦車210両 | 15個師団 32万人 戦車160両 | 15個師団3個旅団 27万人 航空機80 |
損害 | ||
死傷 44万人(民間人含む) 戦闘車両 150両 | 死傷 21万人(民間人含む) 戦闘車両 220両 | 死傷 5万人 戦闘車両175両 航空機32機 |
ロマーシャ戦争 | ||
ニイカヤタマ作戦 - スクウェニアの戦い - ネーヴィジュアの戦い - スクウェニア・ルーテア包囲戦 - ヴェレーン攻防戦 - クスノキ防衛戦 - サイクロプス作戦 - ヴァル戦車戦 - SNR介入 - 二等分作戦 - SNR対スィーザー宣戦 - バズーリア作戦 - ナジンスカヤ条約 |
再開
スィーザーラントは講和を望み、ニイカ・ヤ・タマ周辺をのロマーシャ東部をトルトーリアへ、それ以外をスィーザーラントの帰属とする分割案を提案。トルトーリア政府は受け入れる姿勢を見せるも、ロマーシャ支配不可による不利益を恐れたトルトーリア郷軍司令官がロマーシャでスィーザー人を虐殺(ロマーシャ危機?)。激怒したスィーザーラント政府はトルトーリアへ奇襲攻撃を開始した。
スィーザー軍は新たに編成した機甲師団を先鋒に、フォーン川沿岸、アスハーシン平野南東部のスクウェニア、アル・ゲッ・ハラーで同時攻勢を開始。トルトーリア軍は機動防御のために多数の戦車が貼り付けられ、ネーヴィシュア近郊で大規模な戦車戦が発生した(ネーヴィシュア戦車戦?)。トルトーリア軍はそれぞれ1個機甲師団が展開するネーヴィシュア、フォーンに機甲部隊を送り対処するが、先の大戦で中央州連邦を圧倒したグラス製105mm砲の攻撃に苦戦した。
しかしながら物量や対戦車火力、大量突撃でトルトーリア軍は優勢を確保し、ネーヴィシュアにてスィーザーラント軍第一機甲師団の攻勢を押しとどめる奮戦を見せた。
が、その時、アル・ゲッ・ハラー南部の山脈と樹海を超え、ロマーシャのニイカ・ヤ・タマ近郊にスィーザーラント軍が突如として突出。これはサイクロップ作戦?と呼ばれた、ウィリアム・ジャコブ中将(最終階級:元帥)の考案した機動戦術で、トルトーリア軍の大型戦車が通行不可能な樹海と山脈をグラスの小型戦車が通行、フォーン一帯のトルトーリア軍を包囲する作戦だった。
トルトーリア軍は全力で救援に向かうも、前面でスィーザーラント軍の損害を恐れない第二次攻勢が発動(この時、スィーザーラント軍の取った戦術はトルトーリア式の森林大量突撃だった)、トルトーリア軍は撤退できずに背後を遮断され、トルトーリア軍フォーン方面軍(4個歩兵師団、2個機甲旅団)が完全包囲され、壊滅する大損害を被ることとなる。
その後はスィーザーラント軍が頭数で有利となり、またトルトーリアの頼みの綱の中央州連邦はクルーダー朝?から攻撃を受け(来中戦争)支援を拒否したため戦況は完全にスィーザーラント軍優勢に傾いて、
トルトーリア首都・カーブールはスィーザーラントの手に落ちるまでに進軍、現地で捕虜となったアル・ジャミル12世?トルトーリアは1972年9月16日、領土の現状維持及び賠償を認め、スィーザーラントと講和することとなる。
評議会人民共和国の介入
評議会人民共和国(以下SNR)はロマーシャ戦争再開時に東方の第4管区・第5管区に動員令を発して攻撃の準備を整えつつ状況を伺っていたが、スィーザーラント軍が旧国境を越えるに至り5月31日に国家評議会が攻撃を可決、6月1日に宣戦布告と同時にトルトーリア方面においては5個自動車化歩兵師団及び第4サマルア騎兵旅団から成る第19軍(指揮官 A・V・キリュシュキン中将)、スィーザー方面においては6個歩兵師団および第3親衛戦車師団から成る第67軍(指揮官V・P・パブロフ中将)が越境行動を開始した。この他に航空支援のため陸軍の第6襲撃連隊および第19オートジャイロ連隊が出動した他航空軍が前線防空の為に出動しているが敵航空機が不活発な為空振りに終わっている。第19軍は軽微な抵抗を排除しつつ6月14日までにおよそ100km前進したが補給面での不安を理由に停止、一方第67軍は当初から険しい山岳とスィーザー民兵の激しい抵抗により攻撃は難航し、北部スィーザーにおいては7月2日までに123km前進して装甲車両243両が損傷、うち67両を全損して停止し、南部スィーザーにおいては6月24日までに65km前進して装甲車両107両が損傷、うち32両が全損しさらに76両を放棄して停止している。第67軍は第4管区においてツーラ戦役のために正規師団が出動しているため急遽正規師団で兵役に就くべき新兵(師団は代わりに熟練した予備役兵を編入して出動していた)を二線級の装備しか持たない予備師団に編入して歩兵師団を編成していたため戦闘力が低く、それを補うために中央管区から精鋭の第3親衛戦車師団を派遣し分割して歩兵支援に充てていたが、山岳戦役においては逆効果で擱座した戦車はしばしば進軍路を塞ぎ、履帯を破損した車両を谷底に投棄して進撃することさえあった。低地においては戦車は有効な火力を発揮したが視界が狭く、歩兵や砲兵は練度不十分なため十分な援護を与えられず、しばしば奇襲や肉薄攻撃で撃破された。対地攻撃に特化したジェット推進オートジャイロであるSh-16襲撃機と姉妹機であるA-16捜索偵察機は砲兵の代役として大活躍し、数多の敵兵にロケット弾を投射したが酷使された分損害も大きく、およそ4割(事故含む)を損失している。国家評議会は増援を送り込み、サボタージュの疑いでパブロフ中将を更迭しS・A・クルシコフ中将を第67軍指揮官に据えると共にキリュシュキン中将に攻撃を催促し、7月1日、キリュシュキン中将はようやく重い腰を上げ6個自動車化歩兵師団および3個サマルア騎兵旅団で以って攻撃を再開した。しかしすぐにスィーザー軍側面に当たったためキリュシュキン中将は進撃を停止、この攻勢では3日間に10km前進しただけであった。国家評議会は更なる攻撃を求めたがキリュシュキン中将は兵站面での不安を繰り返し強調し、また麾下の師団は完全に機械化されていないこともあり要請を拒否した。一方クルシコフ中将は装備の補充と正規師団の2個自動車化歩兵師団の増援を受けて北部スィーザーで攻撃を開始したが強力な火力支援の実施による弾薬消費量の増大と併せて兵站への負担が増大した一方で北東部の兵站線は膨大な兵力を抱えるツーラ軍集団への補給のため余裕が少なく、第67軍が要求する弾薬を供給できなかった。そのため攻勢は遅々として進まず、8月の撤兵までにおよそ60km前進したに過ぎなかった。8月に入るとトルトーリア・スィーザー間での紛争が終息し、国防評議会が現在の人民軍には問題が多くスィーザーとの正面戦争は無益であると警告したこともあり、国家評議会は一方的に“1912年に不当に共和国の資産を搾取した反革命派への懲罰行動の完了”を宣言、9月までには第19軍、第67軍とも完全に撤兵した。ロマーシャ戦争中の人民軍は過剰なまでに攻撃的な教義に従い有利な射撃位置にある散兵に対して銃剣突撃を繰り返して死骸を積み上げ、また低練度に起因する歩戦協同の不十分、砲兵の火力発揮の不十分のためゲリラ戦に大いに苦しめられている。
関連項目
・スィーザーラント共和国
・トルトーリア帝国
・評議会人民共和国
・バトル・オブ・スクウェニア
スクウェニア・ルーテア包囲戦を描いたスィーザーラント映画。